第77代天皇、諱は雅仁(まさひと)。鳥羽天皇第四皇子。
異母弟近衛天皇の跡を継いで即位。鳥羽法皇の狙いは二条天皇への継承であり、父子の順から中継ぎとして即位する。
これによって崇徳上皇系の皇統継承は絶望的となり、法皇が崩御するとすぐに崇徳上皇方と後白河天皇方が争う保元の乱が勃発。後白河天皇方の勝利となり兄・崇徳上皇を配流。
息子・二条天皇に譲位し治天の君として院政を始める。しかし前述の通り先の治天の君・鳥羽法皇は二条天皇の親政を望んでいた。そのため「中継ぎである後白河上皇に治天の君の資格はない」とする勢力があり、院近臣間のいざこざも絡み合って平治の乱が起こされる。この乱を治めたことにより平清盛の影響力が高まった。のち、二条天皇が平清盛の支持を得たことから後白河上皇による院政は一時停止し、政権は二条天皇に移る。しかし生来病弱な二条天皇はその後数年で崩御してしまう。
二条天皇崩御後に院政を再開し、2年後にはその遺児・六条天皇を廃し高倉天皇を即位させる。しかし平清盛との関係が悪化し、数年で清盛は安徳天皇を立て後白河法皇を幽閉してしまう。だが平家政権も長くは持たず、以仁王の令旨を発端に治承・寿永の乱が起き源頼朝らが平家を追討する。この乱で三種の神器を平家方に持っていかれてしまったが、法皇の院宣のみをもって後鳥羽天皇を即位させる*1。三種の神器奪還のために平家との和平を画策するが失敗。『吾妻鏡』によれば壇ノ浦合戦で草薙剣は水没してしまったという。
平家滅亡後、頼朝・義経の対立が起こると、まず義経の圧力を受けて頼朝追討院宣を下し、義経が都落ちすると義経追討院宣を下す、というその場しのぎの対応に終始した結果、公卿人事や守護地頭設置など源頼朝の政治介入を招くこととなった。
その後も、奥州藤原氏討伐の出陣後にやむなく勅許を与えるなど、頼朝との関係に苦慮したが、征夷大将軍就任は認めなかった。頼朝の将軍就任*2はまた後白河法皇崩御の年でもあるのである。