明治十二年(1879年)、岡山県生まれ。34年、東京専門学校文学科卒業。のちに読売新聞社に入り、文芸、美術、演劇を担当。37年の処女作『寂寞』、40年の『塵埃』、41年の『何処へ』などで自然主義文学に新分野を開くとして注目され、文壇にその地位を確立。以来、戯曲、評論、小説に健筆をふるった。透徹した批評眼には定評がある。昭和37年没。
明治37年、゛山の人” なる人物が、文芸雑誌『明星』において、中島孤島や正宗白鳥等の翻訳文の誤訳を指摘をしてきたことに対しては、孤島だけだけでなく、同じく正宗白鳥も黙ってはいなかった。 当時、25歳の正宗白鳥は、讀賣新聞の記者を勤めながらも、副業として時折翻訳を手掛けていた。 所属の『讀賣新聞』7月19日号の紙上で次のように書いている。 ゛「文庫記者に告ぐ」 ○桟如幻(さんじょげん)とか山の人とかいふ匿名を以つて頻りに吾々の翻訳の誤謬を指摘する人がある。吾人語學の修養も浅く文學的良心も極めて乏しい者は、これによりて反省する所も多く、今日の幼稚なる文壇にはこんな人も一人位必要であつて、予一人はこ…
明治37年7月のこと、文芸雑誌『明星』に「山の人」なる人物による「蒲鞭」(ほべん)というタイトルの文章が掲載された。 ※蒲鞭・・蒲(がま)の穂のむち。中国後漢の甲陽の太子劉寛が、罪人を蒲の穂のむちで打たせ、辱めだけを与え苦痛は与えなかったところから、軽い刑罰、転じて、寛大な政治をいう。 冒頭は次のような文章である。 ゛曾て之を毒筆家桟如幻の言に聞く、当時の訳文大家とは、概ね語学の力を以てしては教師たるを得ず、文才を以てしては創作家たるを得ざる、浅学不才の徒なりと。我は、此を以て、如幻が極端なる毒語に過ぎじと想へりしが、この頃、正宗白鳥、中島孤島、桐生悠々、角田浩々四家の訳文を読むに当りて、曩(…
近松秋江は、回想録のなかで「正宗白鳥氏のこと」と題して書いている文章があるので、それを引用してみよう。これがかかれたのは、大正13年のことだから、秋江48歳の頃である。 ゛今日では、正宗白鳥君の早稲田出身者としての文壇に於ける地位が、はつきり、故の島村抱月氏以上の人となつてゐることを、私は思ふのである。こんな比較をしてみたところで、抱月氏の文壇に於ける地位が果して、どんなものであつたかといふことを突留めない以上、甚だ無意味なことのやうであるが、坪内(逍遙)博士は、抱月氏の死去の際、その追懐談の一節に、抱月氏は厳密なる意味に於て所謂純粋の作家といふ側の人ではなかつたといつて居られたやうに記憶する…
中島孤島の東京専門学校の同窓生である正宗白鳥と近松(徳田)秋江は、孤島より2年あとに卒業したが、実際の年齢はあまり変わらなった(近松は孤島より年上)。それもあってか、親しく交流していた時期があったようだ。 白鳥と秋江はどちらも岡山県出身で同級生であったことから、二人一緒に語られることが多いし、長く交流を続けた親友とみなされているが、ひとことで「親友」というにはおさまらない複雑な心理が二人の間には流れていたようだ。 白鳥は昭和25年(1950年)に『流浪の人』という小説で近松秋江を描いているが、それを見ると白鳥の眼を通した近松秋江という人物像と、白鳥との関係性がくっきりと浮かんでくる。秋江自身の…
中村星湖の回想に「・・中島孤島氏は、正宗白鳥氏と親しいらしく・・」とあったように、実際に東京専門学校の同窓生である正宗白鳥と中島孤島はある時期においてかなり交流があった。 正宗白鳥は、孤島と同じ年に東京専門学校に入学したので、同級生だともいえるが、途中で転部した関係で、2年遅れて卒業した。徳田(近松)秋江と同郷であり、同じ年に卒業している。 正宗白鳥の人物像については、大正7年6月号の『新潮』に「正宗白鳥氏の印象」と題して5名の文士による感想が書かれているが、そのなかから少し抜粋してみよう。 まずは上司(かみつかさ)小劍によるもの。上司小劍は読売新聞社に勤務していたが、6年ほど遅れて入社してき…
文藝革新會が発足した当初、文壇における周囲の人たちがどのような感想を持っていたのか、二、三あげてみよう。 まずは、中島孤島とは知己の仲で、東京専門学校の後輩にあたる正宗白鳥から。 ゛〇自分は何物と雖(いえど)も存在するものを否定しようとは思わない。よしそれが自分の不賛成なものであっても、現に存在してるのだから、仕方がない。 〇文藝革新會なども、存在してるんだからいいだろう。いや可いも悪いもない。存在してるのだから存在してるのだ。 〇そりゃ世の中には随分ポリシーを使うものもあるだろう。総て世の中の大勢というものは、然ういう連中に依て動かされ行くのかも知れない。それもいいだろう。自分に危害が加わら…
正宗白鳥(1879 - 1962) 文士ふぜいも、偉くなったもんだ。感慨に耐えぬようでもあり、皮肉に吐き捨てるようでもある、いつもの正宗白鳥節が炸裂している。『回想録』の「明治文壇と今日の文壇」という章でだ。 白鳥曰く、明治期には、文士が西園寺公望首相に招かれたといって、異様な文壇的事件となった。むろん国際関係や政治課題についてのご下問があったとは考えられない。芸術や下世話風流に関する、肩の凝らない懇談の機会ででもあったに過ぎなかろう。 それが今では、世界情勢だろうが文明の未来だろうが、求められれば文士が得々として語る時代となった。一例として、インド滞在中の石川達三が新聞に寄せた感想記事が指摘…
小山内薫(1881 - 1921) もともと文筆稼業なんて、そんなもんだ。 『回想録』という文章で正宗白鳥が、当時の官立(つまり帝大)と私学の格差について回想している。制度的格差ではなく、社会通念としてだ。坪内逍遥先生だって、愛弟子の島村抱月より高山樗牛を買っていた、なんぞという暴露までしている。まったくこの人は、身もフタもない。樗牛は東京帝大哲学科卒だ。 新人文筆家だった時分の稿料にも言及している。当時の大出版社だった博文館や春陽堂で、小山内薫は一枚六十銭で自分は五十銭だったと。雑誌『太陽』(博文館)編集部員に長谷川天渓、雑誌『新小説』(春陽堂)編集長に後藤宙外がいた。ともに早稲田出身者だっ…
森 鷗外(1862 - 1922) 森鷗外の戯曲『日蓮聖人辻説法』を読んでみた。困ったことになった。 読売新聞記者として劇評の筆を執っていた正宗白鳥は、おゝかたの芝居を酷評したのだったが、口を極めて褒めちぎった舞台がたったひとつだけあった。鷗外作の『日蓮聖人辻説法』だ。それまでは音曲や舞踊の型を重視した、情緒的かつ耽美的な舞台が主流だった歌舞伎を、主題・台詞を重視したドラマに改良しようと図った鷗外が、力を尽して書きおろした台本だったという。 初演は明治三十七年(1904)四月、劇場は歌舞伎座だった。配役は日蓮を市川八百蔵、日蓮に問い訊ね説法を受けて劇中で新たな帰依者となる進士善春を市村羽左衛門…
坪内逍遥(1859 - 1935) 文学には、音感やリズム感がことのほか大切だ。 学生時分の正宗白鳥は、早稲田から歌舞伎座まで徒歩で、芝居を観にかよったという。たしか広津和郎も、麻布の親元から早稲田まで、歩いて通学したと書いていた。昔の学生は、じつによく歩いたようだ。 芝居帰りの同級生たちで、逍遥先生を囲む茶話会があった。憎まれ口が身上の白鳥は、つい云ってしまった。 「演劇改良なんかせずとも、団十郎や菊五郎を観ていれば、それで好いと思います」 しまった、と思った。シェークスピアを講義し、日ごろから演劇改良運動を唱える逍遥を前にして、いくらなんでも口が滑ったかと。 ところが逍遥は「そりゃあそうだ…