明治十二年(1879年)、岡山県生まれ。34年、東京専門学校文学科卒業。のちに読売新聞社に入り、文芸、美術、演劇を担当。37年の処女作『寂寞』、40年の『塵埃』、41年の『何処へ』などで自然主義文学に新分野を開くとして注目され、文壇にその地位を確立。以来、戯曲、評論、小説に健筆をふるった。透徹した批評眼には定評がある。昭和37年没。
正宗白鳥(1879 - 1962) 文士ふぜいも、偉くなったもんだ。感慨に耐えぬようでもあり、皮肉に吐き捨てるようでもある、いつもの正宗白鳥節が炸裂している。『回想録』の「明治文壇と今日の文壇」という章でだ。 白鳥曰く、明治期には、文士が西園寺公望首相に招かれたといって、異様な文壇的事件となった。むろん国際関係や政治課題についてのご下問があったとは考えられない。芸術や下世話風流に関する、肩の凝らない懇談の機会ででもあったに過ぎなかろう。 それが今では、世界情勢だろうが文明の未来だろうが、求められれば文士が得々として語る時代となった。一例として、インド滞在中の石川達三が新聞に寄せた感想記事が指摘…
小山内薫(1881 - 1921) もともと文筆稼業なんて、そんなもんだ。 『回想録』という文章で正宗白鳥が、当時の官立(つまり帝大)と私学の格差について回想している。制度的格差ではなく、社会通念としてだ。坪内逍遥先生だって、愛弟子の島村抱月より高山樗牛を買っていた、なんぞという暴露までしている。まったくこの人は、身もフタもない。樗牛は東京帝大哲学科卒だ。 新人文筆家だった時分の稿料にも言及している。当時の大出版社だった博文館や春陽堂で、小山内薫は一枚六十銭で自分は五十銭だったと。雑誌『太陽』(博文館)編集部員に長谷川天渓、雑誌『新小説』(春陽堂)編集長に後藤宙外がいた。ともに早稲田出身者だっ…
森 鷗外(1862 - 1922) 森鷗外の戯曲『日蓮聖人辻説法』を読んでみた。困ったことになった。 読売新聞記者として劇評の筆を執っていた正宗白鳥は、おゝかたの芝居を酷評したのだったが、口を極めて褒めちぎった舞台がたったひとつだけあった。鷗外作の『日蓮聖人辻説法』だ。それまでは音曲や舞踊の型を重視した、情緒的かつ耽美的な舞台が主流だった歌舞伎を、主題・台詞を重視したドラマに改良しようと図った鷗外が、力を尽して書きおろした台本だったという。 初演は明治三十七年(1904)四月、劇場は歌舞伎座だった。配役は日蓮を市川八百蔵、日蓮に問い訊ね説法を受けて劇中で新たな帰依者となる進士善春を市村羽左衛門…
坪内逍遥(1859 - 1935) 文学には、音感やリズム感がことのほか大切だ。 学生時分の正宗白鳥は、早稲田から歌舞伎座まで徒歩で、芝居を観にかよったという。たしか広津和郎も、麻布の親元から早稲田まで、歩いて通学したと書いていた。昔の学生は、じつによく歩いたようだ。 芝居帰りの同級生たちで、逍遥先生を囲む茶話会があった。憎まれ口が身上の白鳥は、つい云ってしまった。 「演劇改良なんかせずとも、団十郎や菊五郎を観ていれば、それで好いと思います」 しまった、と思った。シェークスピアを講義し、日ごろから演劇改良運動を唱える逍遥を前にして、いくらなんでも口が滑ったかと。 ところが逍遥は「そりゃあそうだ…
三木のり平(1924 - 99) 自分の値段なんて、棺桶に片足突込んでみなけりゃ判るもんじゃねえや。昔から云われる。いゝえ、両足突込んでの誤りでしょう。 伴淳三郎(1908 - 81)が亡くなったとき、葬儀の進行演出が三木のり平に託されたという。多数の、しかもさまざまな業界の参列者が予想される葬儀だ。故人ならではの、当りまえでない葬儀が求められた。喜劇俳優の後輩として故人をよく知り、舞台演出家でもあるのり平さんが依頼されたのだろう。 これぞ伴淳を送る葬儀という、とっておきのアイデアが、のり平さんには閃いていた。大きな賭けだった。もしも裏目に出たら、つまりスベッたら、厳粛たるべき葬儀に不謹慎だ、…
国木田独歩(1871 - 1908) 政治家や軍人に引きずられて、善良な国民たちはだれ一人望まぬ戦争に駆り出された、なんぞという云いぐさは、嘘に決ってる。 国木田独歩『号外』は、銀座裏通りの安酒場で、定連らしい三人の酔漢が馬鹿笑いしたり口論まがいに云いつのったりするだけの、ごく小さな短篇だが、辛辣で人間彫りも寸鉄的確で印象深い。 粗末な洋服姿の「男爵」とあだ名される男が、もう一人のどうやら彫刻家らしい男に、俺の胸像を造ってくれと云い出す。造ってもよいが、題名が決らぬと方針が立たぬと応える。ひと応酬あったあげくに、「号外」と決った。男爵は日露戦争中に発行されたなん枚もの号外をつねに携帯している。…
石原慎太郎(1932 - 2022) 正宗白鳥が「懐疑と信仰」を雑誌連載し、堀田善衞がアジア作家会議に出かけていたころ、世はまさに太陽族ブームの真盛りだった。 前年に第一回「文學界新人賞」を受賞し、スルスルッと駆けあがって芥川賞を受賞した一橋大学学生石原慎太郎は、文学読者以外の若者たちのあいだにまで熱狂的な流行を巻起した。石原さんの髪型は「慎太郎刈り」と称ばれ、真似た青年が街なかを闊歩した。つまりはスポーツ刈りだが、前髪をやゝ長くして数本を額に垂らしたといった髪型である。 受賞作『太陽の季節』から、これら青少年は「太陽族」と命名された。作品の主張である「好きなように生きるんだ」は、今で云えばト…
正宗白鳥(1879 - 1962) お見事な齢のとりかただ。真似などできようはずもないが、ひとつの理想ではある。 正宗白鳥は読売新聞(当時は文化芸術の新聞)に就職して、文芸時評や演劇時評や美術時評を書きまくった。偶像破壊者と称ばれた。他人が崇めるものをぶち壊しにするような、身も蓋もない辛辣な批評を繰返したからだ。評判の記者だった。 世は尾崎紅葉はじめ硯友社系作家が隆盛の時代。小説など書く気はなかった。内村鑑三か徳富蘇峰になら興味はあったけれども。国木田独歩が出てきて、これも小説だという。それでよろしいのなら、俺も書いてみようかという気になった。 自然主義文学作家の一人と目された。人生ありのまゝ…
そういえばまだ、アンテナが付いたまゝだな、拙宅も。テレビを遠ざけて、流行や世間の情報に疎くなるどころか、進んで遮断するかのように生きているのに。情報……。 島村抱月の滞欧日記を調べたさいの、複雑なというか皮肉なというか、キテレツな感動を忘れられない。 早稲田から派遣留学のかたちで、オックスフォード大学に一年、ベルリン大学に二年学んだ。三十歳を過ぎたころだ。 新知識の持ち帰りを期待される洋行だったとみえ、文壇挙げてお祭騒ぎのごとき見送りだったと、たしか正宗白鳥が回想録に残している。 抱月本人にも、使命感も自負もあったのだろう。刻苦勉励と申すべきか、生真面目に励んだ痕跡が、日記にはありありとしてい…
中村光夫編「私小説名作選」(上下巻、講談社文芸文庫)を読んだ。 せっかくなので感想を記したいが、「名作選」との言葉通りいずれも文壇の大家による名品ばかりなので、作品の客観的な価値とは無関係に、あくまでも今の自分がどう感じたかというに過ぎない(そもそも客観的な価値とは何か、というめんどくさい議論はしない)。はじめに全体的なことについていえば、収録作品の中には私小説なのかどうか疑問に思うものもあった。女性作家が一人もいないことも気になった。 <上巻> 田山花袋「少女病」 田山花袋といえば「蒲団」、「蒲団」といえば自然主義文学の代名詞という具合に学校では習ったものだが、この「少女病」という小説は最後…