(増補版)20A:気になった事柄を集めた年表(755年〜770年)

 題:(増補版)20A:気になった事柄を集めた年表(755年〜770年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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756年6月、聖武法皇崩御した(在位701年〜756年)。
  光明皇太后は、聖武法皇の遺愛の遺品を、追善供養の
 ため東大寺へ奉献し、収蔵(正倉院御物の初め)した。
  正倉院が建立された時期は不明だが、大仏奉献に近い
 時期と見られている。
  正倉院宝物中にはラクダ・クジャク・インコなどを描
 いたものや、ゾウ・サイの角製品などがあり、遠い異国
 の珍獣や鳥類についての知識を裏付けられる。
756年、イスラム帝国(サラセン帝国)が東西に分裂した。
 後ウマイヤ朝が建国され、イスラム世界の統一は崩れた。
  因みに、サラセン帝国の呼称は、ヨーロッパ人から見
 た呼称で、近年、ヨーロッパを中心とする歴史解釈姿勢
 が好ましいものと見られなくなっている。
  イスラム帝国と呼ぶことが正当である。また、サラセ
 ン人の呼称も避けるべきである。
757年、養老律令が実施された。藤原仲麻呂が主導した。
  大宝律令と大きな相違点はないが、日本の実情に合わ
 せた改正をした。
757年、孝謙天皇の信任を得て、藤原仲麻呂が台頭した。
  藤原仲麻呂は、藤原不比等の孫で、藤原武智麻呂の子
 である。また、自らを唐風に恵美押勝(えみおしかつ)
 と名乗った。そして、唐風の官職である紫微中台(しび
 ちゅうだい)に就任した。
758年5月、藤原仲麻呂が推す大炊王淳仁天皇、在位758
 年〜763年)が立太子される。
758年6月、橘奈良麻呂が右大弁になる。
  藤原仲麻呂の専横に強い不満を持った。
  仲麻呂の排除を画策した。
  しかし、この密議は漏れる。
758年7月、橘奈良麻呂の乱
  7月になり、奈良麻呂とその関係者は一斉に逮捕された。
  孝謙天皇は、逮捕された人々を本来は死罪に処すとこ
 ろ、死一等を減じて流罪に処すと詔した(橘奈良麻呂
 乱)。
  この話に後日談がある、
  それは、奈良麻呂の死後に生まれた息子の娘が、嵯峨
 天皇の后となる。
  そして、その妃が、仁明天皇を生んだことから、847年
 に政敵の仲麻呂が、後になって謀反を起こして失う事とな
 った「正一位太政大臣」の位が、橘奈良麻呂に送られて
 いる。
758年、坂上田村麻呂が生まれた(758年〜811年)。
  蝦夷討伐の田村麻呂だが、京都の清水寺を創建したとも
 伝えられている。
758年、吉備真備は、大宰府で唐の大乱(安禄山の乱)に
 備えるよう天皇からの勅(命令)を受け、備えを講じた。
  外国情勢にしっかりアンテナを張っている日本だった。
758年、陸奥桃生城(宮城県仙台近く)や出羽雄勝柵を築
 いた。
  律令国家の体制がしっかりした時代となった。
759年、諸国に常平倉(じょうへいそう)を置いた。目的
 は、穀物の価格変動を防ぐために、穀類貯蔵した官営の
 倉。
  豊作の安価の時に買入れ、凶作の高価の時に放出して
 価格の安定を図った。
759年、この頃、万葉集が成った。
  4500種以上が集められている。
  成立年は、759年以後と見られている。
759年、新羅征討の議が起こった。
  朝廷は、新羅の軍船がたびたび浅茅湾(あそうわん、
 長崎県対馬市)に侵入し、南対馬の北岸を荒らすために、
 朝廷は、新羅征討の議を起こした。
759年、渤海使が入朝した。
  渤海より日本へ来た渤海使は、728年から922年までの
 間に34回ある。
  因みに、日本から渤海へ行った遣渤海使は、728年から
 811年までの間に14回となっている。
  初期は軍事同盟であり、しかし、唐との融和が図られ
 る時代になると、軍事的意味合いは薄れ、文化交流と経
 済活動中心となる。
  朝貢貿易の形態だった。
  渤海に多大な利益をもたらした。
  後に、使節来朝を12年に1度にするなどの制限を加えた。
  渤海滅亡まで続いた。
  輸入品:獣皮、輸出品:繊維製品、金、水銀。
759年、唐招提寺の地があたえられ、金堂が創建された
 (鑑真)。
760年、新羅使を放還した。
  非礼と使人が軽微(想定より低い)だったのが理由。
760年、万年通宝(まんねんつうほう、銅貨、和同開珎に
 次いでの銅銭)、太平元宝(銀貨)や開基勝宝(金貨)
 を新しく鋳造した。
  因みに、和同開珎以前の貨幣に、「無文銀線」と「富
 本銭」がある。
761年、渤海に遣使した。(〜762年)
761年〜762年、凶作で餓死者が多く出た。
  因みに、女性より男性の方が早く餓死するという記録
 がある。
761年、この頃、食器の美化が進み、飲食物の改良も進んだ。
761年、東大寺の薬を病人に施した。
  日本には、すでに723年に光明皇后が、仏教の慈悲の実
 践として、悲田院や施薬院で病人の救済をしたとの記録
 があるが、東大寺も病人救済を行っていた。
762年、遣唐使を任命・発遣を中止した。
  唐は乱れている最中。
762年、李白が没した(701年〜762年)
763年、鑑真が没した(688年〜763年)
763年、新羅使を放還した。
763年、渤海使が入朝した。
764年、藤原仲麻呂が没した(706年〜764年)
764年、称徳天皇(しょうとくてんのう、在位764年〜769
 年)
764年、新羅征討の議を中止した。
764年、大和・河内・山城などに池を造らせた。
  日照りが続き、飢饉が続発したため、朝廷は、二年続
 けて田租の税金の免除をなされた。
  この時、米価は4,5倍にも跳ね上がった。
  この様な事から、764年には、灌漑用の池を掘削するた
 めの造池使が大和・河内・山背・近江・丹波・播磨・讃
 岐の諸国に派遣された。
764年、風説だが、恵美押勝は、孝謙上皇の信頼が道鏡
 移ったため反乱を起こしたという・・。
  恵美押勝の乱の結果、淳仁天皇は淡路に流された。
765年、淳仁天皇崩御した(733年〜765年)
765年、道教太政大臣となった。
765年、一切の墾田の私有を禁止した。
  道鏡は政権に着くと、墾田の過熱にブレーキをかける
 ため、
  私有耕地の拡大の行き過ぎを止めるため、
  政府として、一旦、墾田を禁止した。
  道鏡失脚とともに、772年、墾田私有を許可するという
 太政官符が発布された。
  これは、藤原氏や富豪の圧力によって許可したと考え
 られる。
765年、神巧開宝を新しく鋳造した。
765年、京畿内の踏歌(詞を歌いながら輪を作って練り歩く
 もの)を禁止した。
766年、道鏡が法王となった。
767年、最澄が生まれた(767年〜822年)
769年、道教が、宇佐八幡宮神託(うさはちまんぐうしん
 たく)事件を起こした。
  この事件を阻止したのが和気清麻呂(わけのきよまろ)
 である。
769年、和気清麻呂宇佐八幡宮に遣わした(大隅に配流)
770年、孝謙天皇が没した(718年〜770年)
770年、阿倍仲麻呂が没した(698年〜770年)
770年、光仁天皇(在位770年〜780年)
770年、道鏡を栃木県へ追放した。和気清麻呂を召還した。
770年、新羅使が、藤原清河・阿倍仲麻呂の書をもたらした。
770年、杜甫が没した(712年〜770年)
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