いち在日朝鮮人kinchanのかなり不定期更新日記

2017-08-25

虐殺事件のモニュメントと、歴史修正主義と。 ― 小池東京都知事の愚かな判断

世界各地、虐殺が起こった土地では、その反省と教訓を後世に遺すべく、記念碑や資料館を立てたり、その舞台となった場所を保存したりしていることが多い。

例えば、現代最大の大量殺戮の舞台となったドイツでは、ユダヤ人や、シンティ・ロマ、障がい者らを殺戮したことを後世に語るための巨大なモニュメントが至る所にある。

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http://berlinhbf.exblog.jp/1090258/

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http://motoobeyond.blogspot.jp/2010/09/2_29.html

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https://www.ab-road.net/north_america/usa/boston/guide/11294.html



例えば、ポル・ポトが支配し恐怖政治を敷いたカンボジアには、政治犯収容所として2万人が虐殺されたと言われているS21が、そのまま虐殺博物館として保存され、その際に犠牲になった人々の頭蓋骨をそのまま展示したり、子供たちを含む多数の犠牲者の写真や拷問具を紹介したりするなどして、その犯罪性を白日に晒している。

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http://keishiseki.blogspot.jp/2014/01/blog-post_27.html

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https://blogs.yahoo.co.jp/tuktuk_asia/10864922.html

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http://boysbeambitious1.blog.fc2.com/blog-entry-30.html



例えば、徹底的な赤狩りによって6万人が犠牲になったと言われる「4.3事件」の舞台となった韓国済州島には、その慰霊碑と歴史資料館がある。当該事件は余りの犠牲者の多さと比率の高さ(島民5人に1人の割合で犠牲になった)から、韓国内でも長らくタブーとされていた(何せ虐殺加害者と犠牲者家族が隣近所というのが珍しくないのだから)。しかし盧武鉉政権下で政府として公式に謝罪している。

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http://www.dangdangnews.com/news/articleView.html?idxno=26377

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http://www.jejudomin.co.kr/news/articleView.html?idxno=70157

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http://m.ohmynews.com/NWS_Web/Mobile/at_pg.aspx?CNTN_CD=A0002313268#cb

実は、数年前、私はここに訪れたことがある。都市部よりかなり離れた寂れた場所にあり、その場に居合わせた訪問者は私を入れて十数人と、(日取りが良くなかったのかもしれないが)絶えず多くの人の目に触れるというようなものでは決してなかったが、証言・証拠・写真映像等様々な資料は、多数の犠牲者の死を社会が無駄にせず、後世に活かそうという意欲を汲み取ることができた。




誇らしく輝かしい歴史も、恥ずかしい負の歴史も、歴史的事実は消すことができない。しかし後世に生きる者が、その歴史を直視し、それを教訓として生かすために、このようなモニュメントは価値があると思う。建っていれば、残っていれば、その事実の風化は抑えられるし、先人の歴史を教材・サンプルとして、同じ過ちを繰り返すという不幸を抑えることにもつながる。

国家が、被害の歴史ばかりでなく、加害の歴史にも向き合い、それを正しい評価の下、ありのままを整理して残すことは、その国民を再びその被害・加害に晒さないために重要なものであろうと、私は認識する。



日本も、関東大震災朝鮮人虐殺事件という負の歴史を背負っている。しかし日本国家は現在に至るまで、このジェノサイドをろくに総括せず、公式に犠牲者数も集計すらしていない。モニュメントと呼べるものは、民間が建てた小さな石碑程度のもので、その歴史の教訓を後世に語り継ごうという意欲は、国家レベルでは、まったく無いと言っていいだろう。

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http://tokyoireikyoukai.or.jp/park/%E6%96%BD%E8%A8%AD%E6%A1%88%E5%86%85/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E4%BA%BA%E7%8A%A0%E7%89%B2%E8%80%85%E8%BF%BD%E6%82%BC%E7%A2%91/

挙句に、今日の日本では、歴史的事実を証言するモニュメントに難癖を付け、価値を軽んじ、あるいは撤去を画策しさえしている。負の歴史を無いものとして歪曲していく過程において、その事象の象徴たるモニュメントは、存在してはならないのだろう。低俗な屁理屈と事なかれ主義の共同作業で、街中の『物言わぬ証言者』は、どんどんその姿を消してしまっている。

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http://blog.goo.ne.jp/gekkan-io/e/43fa2f2dc83dae3b39c51672b6b3433b



数年前に韓国のモニュメントを目にしたという自分自身の経験と、今年もまた9月1日の関東大震災記念日を迎えることとが相俟って、

犠牲者数も去ることながら、その差別性、惨たらしさが上記の事件に決して引けを取らない関東大震災朝鮮人虐殺事件に関して、日本には満足なモニュメントひとつ、歴史教育ひとつ、まともに存在しないことに、私は今日、たまたま想いを巡らせていた。

そうしたらたまたま、東京都知事小池が、朝鮮人犠牲者慰霊式典への追悼文の送付を見合わせたとニュースが飛び込んできた。



小池知事朝鮮人犠牲者慰霊式典へ追悼文送付を取りやめ

毎日新聞 2017/8/24 20:53

https://mainichi.jp/articles/20170825/k00/00m/040/092000c

(引用開始)

東京都小池百合子知事が、関東大震災時に虐殺された朝鮮人犠牲者を慰霊する9月1日の式典への追悼文送付を取りやめていたことが分かった。歴代知事は毎年送付し、昨年は小池知事も送付していた。都の担当課は「知事は朝鮮人も含め全ての犠牲者に追悼の意を表しているので、個別の慰霊式への追悼文送付は見合わせることにした」と説明している。

式典は市民団体などで作る実行委員会の主催で、都立横網町(よこあみちょう)公園(墨田区)の「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑」前で毎年9月1日に実施される。この日は同公園内の慰霊堂で関東大震災と東京大空襲の大法要も開催され、歴代知事は毎年出席して哀悼の意を表した。都によると、少なくとも石原慎太郎氏ら歴代知事は、主催者の求めに応じて朝鮮人犠牲者の慰霊式典に追悼文を送付してきた。

追悼文を巡っては、3月の都議会第1回定例会の一般質問で古賀俊昭都議(自民)が虐殺された人数に異論があるとして、「追悼の辞の発信を再考すべきだ」と発言。小池知事は「犠牲者数などについては、さまざまなご意見があることも承知している。毎年慣例的に送付してきたものであり、昨年も事務方が慣例に従って送付した。今後は私自身が目を通した上で適切に判断する」と答弁していた。

都公園課の担当者は「(見合わせは)以前から検討していたこと。この答弁で決めたわけではないが、きっかけの一つとなったのは事実」としている。

関東大震災50年の1973年に設置された追悼碑には「あやまった策動と流言蜚語(ひご)のため六千余名にのぼる朝鮮人が尊い生命を奪われた」と刻まれている。

(引用ここまで)



小池にしてみれば、遠い昔の朝鮮人の大量死などを慮るより、自分の支持者・支持層のナショナリズムを喚起するほうが政治的都合がいいのだろう。

これまで眺めてきたような、「歴史の教訓を後世に伝える」という価値を真向から否定し、今日の日本でトレンドになっている歴史修正の系譜から1mmもぶれない、見事なまでにチンケな政治信念である。()。

知事は朝鮮人も含め全ての犠牲者に追悼の意を表しているので、個別の慰霊式への追悼文送付は見合わせることにした」と説明している。

とあるが、災害で命を落とした者と、土着のエスノセントリズムの発揮によって殺された者とが、同じ価値判断であろうはずがない。その慰霊や歴史的反省の方向は、性格を全く異にすることくらい、中学生でも分かりそうなものだ。こんな拙い言い訳が通用するとでも思ったのか?まったくもって呆れるしかない。



在日朝鮮人の存在理由が学校でろくに教えられなくなって久しい。

このような日本の現状に、日本国家の負の現代史の残滓のような存在である私は、ある種の思いを日々強くしている。

そのうち自分の存在理由の正当性(合法性と言ってもいい)を、周囲の日本人に日々語って理解や許諾を取り付けて回らない限り、ほうぼうで人格が否定し尽くされ、生存すら脅かされるのではないか、と。

・教科書の記述を後退させ、あるいは育鵬社の教科書を推進し、

・各地の歴史的モニュメントを撤去し、あるいはその意義を認めず、

韓国朝鮮人を資源の再分配から除外し、ここは日本だ日本第一だと開き直る、

これらは完全に地続きである。それを恥とも思わない政治勢力が、日本を完全に覆っている。

歴史を否定し、その証拠すら消し去ろうという勢力が、いつまで跋扈し続けるのか?暗澹たる思いだ。



)私は常々、安倍と小池は瓜二つ、自民党に入れる代わりに『第二自民党(あるいは第二維新の党)』たる小池新党に入れても、東京の政治風景はまったく変わらないと主張してきたが、100%の予想的中である。

安倍が政権奪還直後に朝鮮学校を無償化法から排除したように、小池は就任前後から韓国人学校の土地貸与はゼロベースと言ってきた。少数者を切り捨てて見た目の手柄を立て、ナショナリズムを煽り、選別によって多数者の喝采を得る。議会で多数を握ったら最後、配下の議員は早速顔が見えなくなり、ボスに無言で追従し数に驕り盲目的に賛成票を投じる。何から何まで安倍と瓜二つである。

これで来月、前原が『第三自民党』を立ち上げたら、いよいよ日本社会は最終段階に突入する。おぞましくて想像すらしたくないが、極右極右極右政党が乱立して、何を競い、何を基準に票を入れるのか?もう本当に訳が分からない。

九月、東京の路上で 1923年関東大震災ジェノサイドの残響

九月、東京の路上で 1923年関東大震災ジェノサイドの残響

2017-07-30

大阪朝高無償化裁判、地裁勝訴判決 ― たたかいは、これからだ。(20170731追記あり)

大阪朝高が勝った。我が母校が勝った。

大阪朝鮮学園が国を相手取り、高校無償化法の適用を求めた訴訟は、大阪朝鮮学園の完全勝利という、全くの予想外の地裁判決が下った。

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この「全く予想外」という感想は、私が悲観的という話ではなく、この訴訟に関わり支援する大多数の者の共通認識であった。

今年1月の、大阪府・市の補助金の復活を求める大阪地裁判決は、行政の不手際を救済しながら、原告の弁論を完全無視して『キタチョーセンを切り捨てる』という世論迎合の結論に、理屈もかなぐり捨てて突っ走った判決だったし(http://www.sankei.com/west/news/170126/wst1701260077-n1.html)、

直前に下った広島地裁判決は、当該大阪判決とは真逆の結論で、子供の学習権、学校の民族教育権を一顧だにせず、それこそ、「カネがキタチョーセンに流れるかもしれない」という妄想とも言える『留意』を慮った馬鹿げた判決であった(http://www.sankei.com/west/news/170719/wst1707190058-n1.html)。



これまで常にそうであった。

朝鮮人の権利など、のっけから認められるわけもなく、除外・選別しながら、気が向いたら『特例』『裁量』で認められるのが常であった。

法律で除外を試み、法律で除外できなければ解釈や適用で除外する。

朝鮮人が法治国家の住民として法律論で抗っても、感情先行で・嫌悪感丸出しで・屁理屈で・コジツケで、常に枠外に追いやられる。それが常であった。

『朝鮮人を除く』が常に付きまとってきた我が人生だったし、周囲の友人知人のイザコザもイヤというほど聞きながら生きてきた。

この社会は在日朝鮮人の声に感化されて変化するほど柔軟ではないと分かっていた。朝鮮人は、日本社会にとって、差異を設け、攻撃し、危機を煽り、溜飲を下げ、言い訳を言いふらすのに『利用する』存在であり、もう一世紀以上『使い込んできた』社会構造である。

在日朝鮮人を自分らと同じ人間として外面(そとづら)では接しても、内面では、常に二級住民として存在を捉え、舌を出し唾を吐いているだろうことは、実体験で、イヤというほど認識していた。

私にも人間としての尊厳がある。自分や他者に向けられた差別に黙っていられないから、声を挙げるし、ブログも書く。裁判傍聴や報告集会にも行くし、SNSで拡散もする。しかしそれは、苦痛を伴うことであるし、見たくもないものを見る可能性をも孕む。

実際、数年机を並べ共に仕事をし、プライベートでも親交の厚い私の同僚が、SNS上でシェアされた「朝鮮学校補助金除外」の記事に対して「いいね!」しているのを目にしたこともある。朝鮮学校出身である私の素性を知らないはずがない彼が、私も見るであろうSNS上で、朝鮮人の子供が悔しくて泣くのを「いいね!」と賛同しているのを見たとき、近年覚えることのなかった本気の吐き気を催した。いまでもそれを思い出すと、口中を酸気が襲う。

実体験の中から、常に自らの立場を、イヤというほど自覚していた。慣れていた。負けるのに、虐げられるのに、打ちひしがれるのに、自分でもイヤになるほど、飼い慣らされていたのだ。

私の妻が、判決公判当日に、傍聴券の抽選に行くと言った。私は仕事で行けないこともあるが、絶対に負けると思っていたので「どうせ負けるわ」と、ツレなく言った。それでも行く、と妻は出て行ったが、チリほども期待していなかった。初報に接するまで、本当に信じられなかった。



今回の大阪地裁の判決は、大阪の、そして全国の在日同胞に、驚きをもって迎えられた。私も職場で妻からのメールに机がひっくり返りそうになるほど驚いたし、当日の判決報告集会で壇上でスピーチをする者ほぼ全てが「不当判決に抗議するスピーチばかり考えていた」と口を揃えるほどだった。SNSでの拡散は尋常ではなく、LINEは鳴りやまなかった。本当に衝撃的なものだった。それほど、これまで、我々は疲弊し、不感を強いられてきたわけだ。



今回の判決について、短く感想を書く。

『ことごとく妥当。』、この一言である。

元々、被告(国)が、高校無償化法の立法主旨を逸脱して、キタチョーセンにカネをやりたくない、という救う会等の圧力団体に迎合して、省令を改正してまで朝鮮学校を排除したのが問題の発端である(パブコメ結果.pdf 直)。

それが訴訟沙汰になったら、国は後付けで「財務状況」だの「ミサイル」だの「基準」だの色々並べて、妄想のような『懸念』を言い立てたわけである。

それにいちいち付き合って丸ごと乗ってしまったのが広島地裁判決であり、ことの経緯を精緻に分析してその言い草を一蹴したのが大阪地裁判決である。

行政の公平性公正性の原則から、後出しジャンケンで狙い撃ちして排除するのが違法・不当であることを、真正面からジャッジした判決だと言える。



法治主義、及び日本国自身が掲げあるいは批准する憲法及び国際人権条約の系譜から考えて、当然とも言える判決が出るまでに、もう何年を費やしただろうか?何回、街頭に立ち声をあげただろうか?幾らのカネを投じただろうか?

この間、多くの後輩が、国のむき出しの差別・上からのレイシズムに泣きながら校門を後にしたが、いまようやくそれが報われるところまで来る、そのスタートラインに立ったと言える。

勘違いしてはいけないのは、我々は、未だ何も得ていない。

地裁判決は確定していないし(恐らく国は上訴するだろう)、上級審になればなるほど判事は保守的・官僚的だ。もっとも、補助金訴訟は100:0のボロ負けだったことから考えて、決して楽観視できない。最後の最後まで、広範な在日同胞と理解ある日本の市民に支援されながら訴訟が進むことを願う。

私も、将来の息子の笑顔のために、微力を尽くしたいと思う。

たたかいは、これからだ。



【追記】勝訴判決を受けての各種記事のうち、読む価値があると考えるものを数点挙げる。一部当該判決前の記事も含む。



民族教育の歴史に正面から向き合った画期的な判決文

KOREAと日本についていろいろ 2017/07/29 09:20

https://blogs.yahoo.co.jp/remember_0416/archive/2017/07/29

歴史に記録されるであろう無償化裁判勝訴の1日

ニョニョのひとりごと 2017/07/28 21:51

http://blog.goo.ne.jp/okuyeo/e/a8f0b7a674a79cd874923203520dabe0

<時代の正体>学ぶ権利に「大きな一歩」 補助金停止問題にも光

神奈川新聞 2017/07/29 02:00

http://www.kanaloco.jp/sp/article/267550

朝鮮学校無償化「母校が認められた」全面勝訴に大歓声

毎日新聞 2017/07/28 12:44

https://mainichi.jp/articles/20170728/k00/00e/040/251000c

(社説)朝鮮学校訴訟 無償化の原点に戻れ(筆者注:広島地裁判決を受けてのもの)

朝日新聞 2017/07/21 05:00

http://www.asahi.com/articles/DA3S13047050.html

権海孝インタビュー「朝鮮学校は日本の右翼には目に刺さったトゲ」

KOREAと日本についていろいろ 2017/07/26 0:44

https://blogs.yahoo.co.jp/remember_0416/14916770.html



(20170731追記)

D

裁判の報告集会の動画が上がっていたので紹介したい。途中チマチョゴリをまとった現役生徒のスピーチがあるが、聡明さが際立った澱みのないスピーチと、凛とした誇らしげな表情が、泣ける。

「やっと私たちの存在が認めてもらえた」という生徒の言葉に、取り囲む大人は何を思うだろうか?

2017-06-28

フジ住宅ヘイトハラスメント裁判の反論文書 ― 稚拙な言い訳

フジ住宅によるヘイトハラスメント事件については、拙ブログにおいても取り上げた(http://d.hatena.ne.jp/dattarakinchan/20150901/1441121840)が、フジ住宅がホームページに、訴訟提起に対する反論を掲載した。少し考えてみたい。


 

訴訟に関する弊社の基本的考え方

2017年06月16日 フジ住宅株式会社ホームページ特設ページ内

https://www.fuji-jutaku.co.jp/blog/



(引用開始)

(1)フジ住宅株式会社は、弊社ホームページに掲載した『訴訟に関する弊社の考えと原告支援団体の主張に対する反論』について、その原文をここに再掲載する共に、追加すべき主張を、本ページで今後展開してゆくことにいたしました。

もとより弊社は、起こされている裁判が弊社のパート社員により、弊社に対して起こされた裁判である事に深く留意し、また、原告が裁判を続けながらも弊社従業員として正常に勤務を続けてくれていることを斟酌して、原告のプライバシー保護の為にも、不必要に当訴訟に関する情報が社外に拡散しないように最大の配慮をしてまいりました。

ところが、原告を支援する団体は(当然、原告の了解の下と思いますが) 当訴訟に『ヘイトハラスメント裁判』との呼称をつけて、フェイスブックのページを立ち上げ、 『ヘイトハラスメント裁判を支える会ホームページ』(https://www.facebook.com/HateHarassment/)で、彼らの一方的な情報を拡散し、ついに本年平成29年に入り、3月末に向けてインターネット上で裁判所提出の為の広範な署名活動を行うに至りました。

つまるところ、弊社が対応せねばならない相手は、原告である一人のパート社員ではなく、広く情報を拡散して大衆運動をする「支援団体全体」の様相を呈して参ったわけです。

(2)ところで、弊社はそれでも、当該パート社員のプライバシー等を配慮して、弊社としてインターネット等での一般への情宣をしない方針を続けてまいりました。

しかしながら、残念な事に、そのような弊社の自重はまったく意味がありませんでした。いくら弊社が自重していても、原告を支援する団体の活動は益々エスカレートするばかりで、ついには、平成29年3月26日、南海電車難波駅前と、弊社が本社を置く岸和田駅前の両方で「フジ住宅ヘイトハラスメント裁判を支える会」などの横断幕を掲げて、大々的な署名活動、チラシをはさんだポケットティッシュの配布などを彼らは行い、ツィッターでの彼らの報道ではポケットティッシュは2000個以上配布したとの事です。

彼らのツィッターの記事と、当日の写真はここ(https://mobile.twitter.com/hateharassment?lang=ja)にあります。3月26日までスクロールしていただくと当日の様子を彼らが写真つきで報道しています。

この状況を見て、弊社としてはこれ以上一方的で、誤った情報が拡散されることを放置はできないと決意いたしました。その訴えられている内容があまりに一方的で、常軌を逸した判断に基づいていると思われるからです。弊社はこのような彼らの活動から、単に弊社に損害が及ばないようにする必要があるだけでなく、むしろ、弊社と、弊社の社員、そして弊社を選んでくださった顧客、株主はじめ、全てのステークホルダーの皆様の尊厳を守りたいと願っています。

(3)もしも万が一、ほんの少しでも弊社が当裁判で負けるような事があれば、事は一企業である弊社の問題に留まらず、その弊害は我が国全体に及び、大げさではなく、我が国の尊厳を根こそぎ否定されるような大変な事態になる可能性があります。

もしも弊社が当訴訟で負ければ、「中韓等、外国の国家、あるいはその国民性を批判する内容が含まれる、広く書店で市販されており、誰でもすぐに買う事ができる書物を、1読む事を強制せず、かつ、2受け取る事も強制せずに、参考までに社員に広く配布しただけで」それは「ヘイト行為」であるとされ、私企業の運営に国家が介入して、我が国の言論、出版の自由を大きく侵害する判決になる事が予想されます。また、現在書店に並んでいる多くの優れた書籍が、「ヘイト書籍」とされ、「出版停止」となる事にまでそれは繋がっています。

原告の訴えが全部認められれば、そういう事態になり、我が国は「暗黒時代」になると思われ、弊社は決してこの裁判に負ける事はできない責任を感じております。

そういう判断に基づき、弊社は、今後、裁判の進行に伴って、原告を支援する方々の情報発信に応じて、その誤りを正す情報を過不足なく、また不必要に原告の女性を傷つけることなく、当フェイスブックのサイトで発信してまいりたいと思っております。 どうか皆様のご理解を賜りますと幸いです。

(4)なお、念のためにここに記しておきますが、弊社の今回の対応は、この対応事態が「ヘイト行為である」と原告に受け取られる可能性がある事を、弊社は認識しており、(何が「ヘイト」なのか弊社も分かりませんが)、そのような発想こそが原告をして弊社を訴えるに至らしめたと認識しています。

一般論として、海外に住み、そこで外国企業に勤務する我が国の国民は、誰もがその国で、多かれ少なかれ我が国への批判を伴った文書、発言、行為に直面する事があると思います。中国では、何年か前に、デモによって本邦企業の多くが暴力的な破壊に晒され、日本人社員は身の危険に実際に晒されたのであり、韓国においても、我が国の国旗を踏みつけられ、火をつけられる映像が、全国的に放映された事がありました。もちろんそれらの企業の中に在るディスプレイにもニュースの度にそれらの映像が映し出されたに違いありません。

原告の考え方で行くと、韓国に住む日本人は毎日、今もあの「撤去されない慰安婦像」によって韓国と言う国家から「ヘイト行為」を受けていることになります。しかしそんな訴訟韓国政府相手に起こした日本人はいません。 一体全体、弊社が原告に対して何か一つでも違法なことをしたでしょうか。何一つ、そのようなことはなく、ただの一度も原告は社内で「民族差別人種差別」を受けた事はありません。

逆に、ベストセラーになったような書籍を配布しただけなのに、その中に原告の気分を害するような記述があったという理由で、言論の自由が保障されている社会では、大人であれば引き受けなければならない当然の常識をわきまえない原告によって、当社は「ヘイトハラスメント企業」だと原告と、原告を支援する人々に糾弾され、難波や、岸和田で、一方的な批判の街宣をされ、困惑しているのです。

(5)この稿の最後に、弊社として 原告に望む事を公に述べておきます。弊社は、原告がこのような支援団体ロジックで、ご自身をさらに苦しめたり、追い込んだりすること無く、弊社社員としての本来のプライドを思い出してくださり、弊社は日本の企業であり、原告は日本社会で暮らしているのだと言うことを再度よく認識して、むしろ逆に、今も「慰安婦像撤去」の国家間の約束を守らない韓国政府に、日本に住む韓国人として、母国に注意を促すような人物になって欲しいと願っています。もちろんこれは思想信条の自由に属することなので、それを会社が原告に強要するのではありません。ご自身がどんな思想をもたれようとそれは完全に自由である事は我が国の憲法が保障するところです。ところが、逆に弊社の方が、大多数の日本人が、日本人として当たり前と考える上記の「慰安婦像」に関するような発想を、広く社員に伝え続けていることを「ヘイトハラスメント」だと言われ、それをやめるように原告とその支援団体に「強要されて(訴訟を起こされて)」困惑しているのです。

原告は今も弊社のパート社員であり、大切な従業員でもあります。そして弊社従業員である限り、今も弊社社員教育の対象でもあります。社員教育は物事の発想法全般に及びます。そこで、弊社としては原告が一刻も早くご自身の誤りに気づき、訴えを取り下げられることを期待しています。

(付記)裁判の進捗についての情報は追ってここにアップして行く予定です。

(責任編集 フジ住宅株式会社

(引用ここまで・パラグラフ冒頭の数字は引用者にて加筆したもの)



突っ込みどころ満載だ。もしこれが会社の裁判弁護士の監修によって行われているのであれば、「論拠が破綻しているから弁護士を雇いなおしたほうがいい」と老婆心を向けたくなるほどの支離滅裂だ。日本語の能力、文書構成の稚拙さも、誇り高き日本人が云々の前にその心配をしたほうが良さそうな気もする。

もちろん原告の全面勝訴を求める筆者としては好都合ではあるのだが。

順に反論を示していこうと思う。



(1)で認識している事項、すなわち、『弊社が対応せねばならない相手は、原告である一人のパート社員ではなく、広く情報を拡散して大衆運動をする「支援団体全体」』であるという認識は、方向性としてはそのとおりなのだが、認識する規模・スケールが小さすぎる。

差別とは、社会構造が発生原因である。女性・被差別部落・障がい者・外国人・宗教者など、社会構造上非対称あるいは社会的影響力の差異があり、被差別の対象とされている者に対し、差別者がその社会的属性を貶めるという意図をもって行われるものであるために、ひとつの差別事象が許容されるということは、その社会のマジョリティによって、変えることのできない属性をあげつらい、『差別/被差別』という対立項を持ち出して貶めるという意図によって、幾らでも拡大・再生産されるものなのだ。

差別事件は当事者間の係争ごとに収まらない。差別事件の発生は、即、その同一の被差別属性を持つ者共通の傷となり、その差別事件の解決は、その共通の傷を癒し、差別構造の解消という社会正義の実現に直結する。その訴訟で示された判例は、即、『社会規範の確立』にもつながれば、逆に『差別のお墨付き』にもつながる。

これまでの就職差別事件、入居差別事件、セクハラ事件等々は、裁判沙汰になったら広範な市民により支援団体が組織され、社会的な関心のもとで進行されたものが多いのはこのためだ。フジ住宅の認識は、甘過ぎると言わざるを得ない。



(2)は、フジ住宅がさも被害者であるかのように振舞って開き直っている部分である。拡散されたくなければ、稚拙な反論をすることなく、不法行為を認めて、謝罪し和解することである。和解すればさっさと裁判は終結する。ステークホルダー(早い話が株主株価)の心配をするならば、最初から不法行為をしなければいいだけの話である。



(3)は、前段では、中韓の国家・国民性を批判する本を流布する行為が裁判で負けたら最後、「我が国の尊厳を根こそぎ否定される」と大仰に構えているが、本訴訟で争われているのは、『職場内でヘイト本を広く奨励し配布する行為』である。職場外でやることは誰も止めようがないが、職場では物理的に拘束されており逃げようがない。会長の尊厳を重んじるが余り、その他大勢、一人ひとりの良心が阻害されていることを問題にしているのだ。

例によってヘイトハラスメントをセクハラの症例に置換して説明すると、「職場でエロ本を広げて見るな、目障りだ」と言っているのに、「エロ本を発禁処分にしようとしているのか、表現の自由の侵害だ」とレベルの異なる話を意図的に混同して煙に巻いていると言える。

後段、私にはまったく理解不能なのだが、おおよそ以下のような主張であると思う。

  a)ヘイト本は読む事を強制していない

  b)受け取る事も強制していない(参考図書として配布しただけ)

  c)しかしこれを「ヘイト文書」の配布だとして禁止等する旨の判決が下ると私企業の運営に国家が介入する『暗黒時代』になる

私が冒頭に示した拙稿でも言及したとおりだが、本訴訟におけるフジ住宅の不法行為は、『環境型ヘイトハラスメント』といえる行為である。ヘイト文書を配布することで職場環境を害した、ということを不法行為だと評価してのものである。

またセクハラに置換するが、直接的に手を下す『強制猥褻行為』、地位に乗じて減給や解雇をチラつかせるなどして間接的に行為を強制する『対価型セクハラ』とは違う、『環境型セクハラ』のヘイトハラスメント版だと言える行為である。

業務必要性が無いのに職場にヌードポスターを張り出したり、エロ本を衆人環視の下で読みまわしたり、そのエロ本の感想文がおおっぴらに流通したり、という具合に、性的羞恥心・嫌悪感を惹起させるような環境を拵えて職場環境を害する行為が『環境型セクハラ』である。『強制猥褻行為』『対価型セクハラ』の不法性は論を待たないが、『環境型セクハラ』は、被害者によって感度が異なるため、軽んじて評価される恐れがあるところに注意が必要だ。

これをヘイトハラスメントに置換すると、直接「○○人は帰れ!」と面罵したり、○○人であることを理由に職務上の差異を設けたりはしていないが、職場内に○○人を罵倒する言葉が溢れていて結果就業するうえで苦痛を感じるような環境が出来上がっている、これをハラスメント=嫌がらせ、という不法行為と評価しているわけだ。圧倒的少数者たる○○人には苦痛そのものだが、圧倒的大多数の日本人には、思想の差異強弱はあっても、自分が迫害対象ではないからそれほど苦痛も感じない、この『感度の差』が肝と言えるだろう。

さて、a)b)が、フジ住宅が主張するように、読んだり受け取ったりが強制されず、あくまで参考図書として配布しただけ、というのが実際の運用であるなら、確かに違法性が阻却される可能性はあるかもしれない。しかし実際はどうだったか。冒頭に示した拙稿も参照してもらいたいが、当時の報道資料を見る限り、会長が、盛んにこれら図書を読むことを奨励し、会長が配布する業務日報には、図書を読んだ社員の感想文(しかも下劣なレイシズム言句丸出しの)が並んでいたとされる。業務日報は、いくら当該原告がパート従業員とはいえ読まないわけにはいかないだろう。これで「任意だ」と強弁するのは流石に無理がある。

そしてc)の主張だが、a)b)では「任意だ」「参考図書だ」と業務関連性を否定しているのに、c)では唐突に「私企業の運営に国家が介入する」と、これまた壮大な評価を加えることになる。これはどうしたことか?

a)b)では仕事とは関係が無い、と言っているのに、c)では図書配布は企業活動だ、企業運営に国家が口出しするな、と言っている、ということは、フジ住宅が社の方針・業務として当該図書を配布していた、何を配布しようと我々の勝手だ指図するな、と主張していることになるではないか?

このように、こんな短文で、何度も論理が破綻している。



(4)も文章の稚拙さゆえに前後脈略が読み解きにくいのだが、一般論として多かれ少なかれ我が国への批判を伴った文書、発言、行為はあると前置きしたうえで、中国韓国では日本に対するデモが酷いがそれでもそれら国家に対して日本人は訴え出ていない、と日本人の慎ましさを誇っているようなことを言ったかと思えば、唐突に、「弊社はベストセラー図書を配っただけ」「原告に対して違法なことはしていない」「原告は社内で民族差別人種差別を受けた事はない」「大人であれば引き受けなければならない当然の常識をわきまえない」と、原告に対する恨み節を書き連ねている。

パラグラフ前段で「中韓は毎日、日本人に対して酷い批判を行っている」と主張し、後段で「我々のそれはベストセラーにもなるくらいポピュラーなものを配布しているだけなのに何を神経質なことを言っているのか」「大人であればそれくらい甘受しなさい」と主張する。その前後の落差、つまり中韓人種差別まがいの日本批判をしていて酷いが、日本の緩いそれは表現の自由の範疇だと、というコントラストを見せることで、おそらく説得力めいたものを持たせようとしているのだろうと思うが、失敗している。

本事件が問題としているのは、フジ住宅という『会社の中の行為』である。会社の中でヘイトをおおっぴろげにやるな、人種差別を扇動するなと言っているだけである。会長が中韓のデモが気に入らないのはともかく、それを批判する図書を会社に持ち込んで、会社が奨励して、結果それら人種への憎悪を煽ることは、集団で少数者の民族性を貶めることになるではないか。

仮に中国内の企業で、就業している日本人に対し、反日デモをネタにして、日本人という属性をあげつらうような形で侵害行為が行われたのであれば、堂々と「レイシズムだ」「民族差別だ」と主張すればいいだけの話である。社業と人種を貶めることに関連性などないのだから、慎ましく構える必要などない。

それを中国韓国の街頭でデモが行われているからと、日本人へも外国法人企業内でヘイトが向けられているはずだと想像力を巡らせるのは勝手だが、まったく無関係なことを比較対象に無理やり持ち出しているだけであり、お門違いもはなはだしい。



(5)は、(4)でも挙げた『中韓の酷さ』を再度焼き直しつつ、

>弊社は日本の企業であり、原告は日本社会で暮らしているのだと言うことを再度よく認識して

と、ネトウヨが「郷に入れば郷に従え」とアホの一つ覚えのように鳴くのと瓜二つの言説をひけらかしている。

フジ住宅にも表現の自由はあろうが、企業という公器である以上、個人の良心の自由の侵害(しかも属性を貶めるという人間の根本に対する愚劣な侵害)という就業環境を侵してまで、社業という経済的自由(しかも社業とは直接関係しないオーナーの勝手を通す自由)を推進できるとは考えない。家族のみで切り盛りする企業、パパママショップならともかく、東京証券取引所にも上場するような、社会的影響力のある企業であれば、尚更、社員個々人の心情的安寧は慮られて然るべきであろう。

それを「我が社は日本企業」「日本人と共に暮らすのだから」と、独善的で排他的なナショナリズムを押し付ける、(当該女性にとってみれば)職場に針の筵を敷くような行為は厳に慎まれなければならないだろう。

極めつけは、

弊社従業員である限り、今も弊社社員教育の対象でもあります。社員教育は物事の発想法全般に及びます。

と、今般係争が原告女性の『魂の悪さ』にあり、それに対する矯正も行わんとするような、恫喝とも取れるような物言いをしているが、この一言がフジ住宅の企業としての姿勢をありありと見せつけているような気がする。慰安婦像をどのように評価しようと会長の勝手だが、それを社業に持ち込んで、社員を巻き込んで、それを経営者の自由だとふんぞり返って、結果良い家が建つのだと踏んでいるのであれば、余程に勘違いをしていると断じざるを得ない。会長に表現の自由があるのは認めるが、社員にはそれとは別個に、個人の表現の自由・良心の自由・良心への侵害行為を拒絶する自由がある。



実は、この稿は、当該訴訟の公判日が近づいていることもあり、自分なりに側面支援をする意図で書いた。

この訴訟が、圧倒的な人々の良心によって支えられ、誰も職場で、『自分の血をあげつらって貶められない』という権利を確認する判例が出ることを期待したい。

原告女性の勇気ある行動に心から敬意を表するとともに、これからも少しでも支援の輪が広がっていくことを望んでいる。

まずは今月29日の公判で、大きく前進を勝ち取ることを祈っている。

ヘイトハラスメント裁判を支える会ホームページhttp://moonkh.wixsite.com/hateharassment

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2017-06-19

朝鮮学校の教育内容を批判するのに、補助金支給如何を云々するのは卑怯ではないか。

前稿に引き続き、Yahooニュースに掲載された記事について、思うところを書いてみようと思う。



朝鮮学校の「教育」とは 公費投入のあり方を問う

https://news.yahoo.co.jp/feature/589

2017年4月28日11:39 Yahooニュース



冒頭の萩原遼氏の見解に大いに違和感がある。

萩原氏は朝鮮学校の民族教科の一部で、朝鮮の指導者の礼賛や、日本とは違う立場を教えているのに対し、

「でも、嘘八百を教え、個人を崇拝する教育を行い、挙げ句、反日感情を煽る。そんな今の朝鮮学校に補助金を出すということは、そういう教育を大いにやってくれ、という意思表示でしょう? それはおかしい」

と断じている。

確かに、現在の朝鮮学校の教材として使われている『現代朝鮮歴史』系統の教科書については、朝鮮政府が推進する金一族の個人崇拝的プロパガンダが色濃く反映されている。このようなプロパガンダ教科は初・中級学校ではほとんど扱われないが(私が現役の時は初級学校4年からあった)、高級学校では週2限程度の時間を割いて、金一族の正統性を説く授業が行われている。あるいは、朝鮮政府の見解を反映して、歴史科目で教える事象朝鮮戦争は韓国側が先制した、とか)が、日本や国際社会のそれと異なることもある。それについて、氏は心底気に入らないらしく、補助金はやるな、と言っているのだ。



第一に、民主党政権下での拉致問題相の難癖を発端にし、政権交代後は安倍政権による無償化法からの完全排除、果ては地方自治体補助金に難癖を付けて不支給にする、という一連の流れは、(表向き)『教育内容』を問題にしているのではない。『朝鮮学校は朝鮮総連が運営していて、朝鮮総連は北朝鮮と一体であり、拉致問題解決しておらず国民の理解が得られない』から無償化から外す、補助金も払うな、と政治が、政策として、朝鮮学校の子弟を狙い撃ちしたものである。朝鮮学校は『キタチョーセンだから』ダメだとされ、それを国民は『キタチョーセンだから』問題にしなかったのである。決して在日朝鮮人子弟への教育内容を『心配』して、それを是正しようと始めた話ではなく、ただ単に『キタチョーセンだからカネをやりたくない』のである。

  パブコメ結果.pdf 直

  日本政府、朝鮮学校への補助金交付に『留意』を通知 ― 朝鮮学校生徒へのレイシズムそのもの - いち在日朝鮮人kinchanのかなり不定期更新日記

その後、橋下をはじめとする排外主義を是とする首長が、政府朝鮮学校排除にチカラを得て、教育内容『も』問題にしだしたのは確かだが、当初のこの判断が無ければ、このような雪崩を打ったような公的扶助からの排除もなかったのである。それまではほぼ何の争いもなく補助金等は支給されて続けてきたわけであるから。

そのうえで、

朝鮮はあのような国家体制であり、国体の護持のために指導者を神格化しているなか、正統性を取り付けるべく、かのようなプロパガンダ教科を設けているわけだが、前稿にも示した私の見解に沿わせて見れば、日本における民族教育にそのようなプロパガンダ教育を挟み込まなければならない必要性は、(私の現役時代、20数年前と比較して格段に軟化しているのだが、それでもなお)はっきり言って無い()。

それはそのとおりなのだが、氏の言うように、そのような教育施設に補助金を給付することは、その教育の主義に賛同し「大いにやってくれ」という意思の表示と言えるのだろうか?例えばトッチャン坊やがイタコ芸をやっている宗教法人が学校を持っている(http://happy-science.ac.jp/)が、そこにも当然に補助金は支給されている。学校法人格を持っている中等教育機関だから当然である。ではこのような学校に補助金を出していることは、イタコ芸を「大いにやってくれ」と認定したということになるのだろうか?明らかに違う。

自分の価値観(国定の価値観、でもいい)に『合致している』かどうかという話と、異なる立場や主義が存在するということを『認める』という話は、根本的に異なる。

言っておくが、韓国学校は独島竹島)を韓国領と教えているし、中華学校は釣魚島(魚釣島)を中国領と教えている。『慰安婦』や『南京大虐殺』についても堂々と実態を教育している。現在の権力中枢が神経質になって教科書会社やお友達を巻き込んで教育内容にズケズケとモノを言っている領土問題・歴史問題であるが、心配しなくても韓国学校や中華学校では、(日本の公立学校における教育現場への政治の介入、それに伴う現場の疲弊とは対照的に)自分らの立場を堂々と教育している。それでも今般の補助金云々無償化云々の議論で、このことが俎上にはまったく上がっていない。立場が違うのだから教育内容が違うのは当然だから、それで正常である。

もっと言えば、(実態は知らないが)アメリカンスクールにおいて、原爆投下を、加害の立場から、日本のあまねく市民の歓心を買えるべく教えるべきだ、そうでなければアメリカンスクールなど認めない、などというトンチンカンな話は誰も言いださない。そんな話が成立するわけがないことも、誰にでも分かる。

国家の政治的な主義や歴史的な見解は国家間で異なる。自分たちとは異なる立場が存在するというのは国境や歴史観や文化を跨げば幾らでもある。日本には朝鮮学校以外にも多くの外国人学校が存在し、それらの教育は日本の公教育の教える主義・価値と相いれないものも、それこそ幾らでもある。そして、政府はこれらほぼ全ての初中等教育の外国人学校に高校無償化法を適用し、地方自治体補助金を払っている。当然である。

それなのに朝鮮学校だけは、『拉致が解決していないから』『キタチョーセンだから』と言って問題にする。通達まで出して徹底的に朝鮮学校を『拒絶』するように圧力をかける。その圧力は今年に入って、これまで細々と補助金を支給し続けてきた自治体にまで及び、実際に打ち切られ、あるいは打ち切りが軽々しく企図され、そしてそのことに喝采が浴びせられるなど、それこそ完全排除が実現するまで、収まる気配を見せない。数ある外国人学校の中で、朝鮮学校の子弟のみが、自分らにはどうしようもない政治事件、あるいは首長の政治信条を口実に、不遇を被らされているのだ。それこそ、朝鮮学校から補助金を取り上げる理由は何でもいい。ある首長は生徒が描いた『慰安婦像の絵』をネタにし、ある知事候補は『治安対策』を理由にする。それこそ、何でもいい。普通これだけ理屈が立たないことは良い大人なら言い出さないはずだが、『キタチョーセン』に対しては、どんな支離滅裂なことでも言っていいし、やっていい。それについて取り囲む市民が喝采すら送る。『チョーセン』を前には、完全に人間としての知性や感覚が麻痺しているのだ。

このような状況を知らないわけではなかろう萩原氏が、朝鮮学校への補助金の是非を問う文脈で、愚かな政治家連中と一緒になって「嘘八百だ個人崇拝だ」と教育内容を批判するのはどのような効果をもたらすだろうか?朝鮮学校を補助金等から排除することの是非、公金を支出することの是非について問われたのであれば、少なくとも識者として意見するのであれば、まずは、補助金等から排除されるに至ったことの経緯を踏まえ、このような政治判断、政治手法の在り方、そしてこのような政治を諸手を挙げて支持する国民の感覚について、まずは言及すべきだろう。それを、事実としての流れを汲むことなく、新たに自分の『朝鮮学校にカネをやりたくない理由』のネタを開陳するというのはどういう了見なのだろうか。自分の意欲をダダモレさせて悦に入るのは、実際にその政策の効果を被っている当事者たる朝鮮学校生徒子弟を前にして、いい大人がやるべきではないと思うがどうだろうか。

朝鮮学校『のみ』が除け者になっている補助金給付の記事のインタビューで、その教育内容が気に入らんと批判することは、日本政府の狙い撃ちの差別政策を補強することにしかならない。キタチョーセン憎し、個人崇拝憎しの個人的信条は大いに結構だ。では補助金不支給という差別はOKなのか、何故OKなのかという着眼がスッポリ抜け落ちている。

いい大人なのに。

エクスキューズ程度に「民族教育は大事」というのであるならば、アリバイを作ったような言い方をするのではなく、民族教育の保証は存分に行われるべきで、朝鮮学校への差別には反対だが、朝鮮学校の○○は是正されるべき、程度は言わなければならないのではないだろうか?(当然その物言いに朝鮮学校側が聞く耳を持つのかは別次元の話であるが)

キタチョーセン憎しの『具』にされて泣いているのは朝鮮学校の学生児童である。教育内容(しかもそれは朝鮮学校の教育のごく一部分のみである)にモノを言うのはいいとして、それで子供を泣かすのはいいのだろうか。それをいい大人が理解できないのだろうか?

これは別に私が朝鮮の個人崇拝に親和性を抱いている、というしょうもない話をしているのではない。私は金正恩は早く死ねばいいと思っている。朝鮮が民主化し、軍事優先ではなく融和主義であって欲しいと願う者の一人である。自由な批判ができない空気感は確かに良くない。しかし当事者には全く手の届かない政治的な思惑を背景に、見せ金をちらつかせて「俺らが気に入るように教えろ」とやるのは明らかに間違っている。そのような態度では、教育方針を頑なに守ろうという発想にはなっても、逆には絶対に流れない。私の現役時代と比較して、教科書も教育内容は格段に改善されていることから考えて、朝鮮学校も頑固ではなく、現場や社会の声を拾いながら変わっていきつつあるのに、政治がその態度を硬化させるような露骨な圧力をかけるのだから。やるせないことこのうえない。

マイノリティを対象にした民族学校なのだから、国民全体から見れば相対的に価値が低い、その意義を理解しづらいのは当たり前である。歴史や民族的アイデンティティの理解もなく、国際的な人権基準への理解もなく、そのことに想いが至らないいい大人たちが、『私は朝鮮学校のここが気に入らない』『私はこれが』『私はここが』と、好き勝手な議論をはじめ、勝手に学び舎に持ち込み、それに否応なく付き合わされる朝鮮学校の関係者に身にもなってみればいいだろう。

もっとも、

反日』などという非科学的反知性的な言句を言いふらしている人間だ。まともに付き合うような対象ではない。しかしこのようなまともでない言論がまき散らかされている現状に、しっかり対抗言論を張っていかなければならないことも、また事実だろう。



朝鮮学校の学生たちはテレビ・新聞・書籍等で、学校で吹き込まれる「北朝鮮礼賛」に相反する情報にも、幾らでも接する。そしてそれら情報を比較検討する程度の能力や知見は、生徒には概ね備わっている。それは日頃から政治的攻撃や差別・偏見に晒され、結果社会問題に関心を持ち、自らの立場を守るために勉強せざるを得ない、という境遇が大いに影響している。実感だが、プロパガンダ教科の字面や意図を真に受ける学生はほぼ皆無である。あくまで朝鮮国家体制が要求し、朝鮮総連の翼賛体制がそれを拒否できずにいるプロパガンダ教科であるということは、教える側・教わる側、それぞれが十分に分かっていて、お題目の暗唱程度に認識しているのが実際のところである(これは本国も本質としては一緒だろう)。

日本社会をはじめとした民主主義の価値についても十分に理解し、その尊さを朝鮮のそれと比較してもいるが、同時に現在の日本社会民主主義の危うさ、何故自らがその仕組みから構造的に排除されているのかも鋭く洞察しているのだ。

私は常々言っているのだが、いちど政治家は機会を作って朝鮮高校の生徒と膝を交えて「自らの朝鮮高校の排除政策についてどう思うか」聞いてみればいいと思っている。彼らのほうが、日本の呑気な民主主義の構成員より、遥かに日本社会の本質を見抜いているというのが分かるはずだ。

2017-06-18

朝鮮学校の朝鮮支持は、韓国の否定に繋がってはならない

前エントリを受け継いだ稿として、前稿で紹介した、Yahooニュースの以下のエントリーについて、思うところを書いてみようと思う。



朝鮮学校のいま 「在日」生徒たちの胸の内

https://news.yahoo.co.jp/feature/586

2017年4月27日11:38 Yahooニュース



朝鮮学校は、終戦直後から在日のコミュニティ内で、禁じられてきた朝鮮語を子弟たちに教えるために発生した寺子屋的教育機関である『国語講習所』がその起源である。朝鮮語を知らない世代が生まれていた在日朝鮮コミュニティにとって、朝鮮語を教えることはすなわち、在日コミュニティが民族性を取り戻すことであったのだ。

朝鮮戦争を経て、韓国政府が在日を棄民扱いする中、朝鮮政府は戦災復興の最中から金銭的支援を含む援助を現在に至るまで朝鮮学校に行ってきた。このことにより朝鮮学校は、韓国ではなく朝鮮との、強固な親和性を獲得してきた、という歴史的な経緯がある。

その歴史的な連続性を無視して現在の朝鮮学校を語る愚について、私は十分に理解している(そして朝鮮学校を外部から語る人間、及び朝鮮学校に何らかの指図をして政治的アリバイを拵えようとする人間の多くが、この愚に落ちている)。

北朝鮮に対して完全なニュートラルの民族大衆団体が存在しない中、朝鮮民族の一方当事者たる朝鮮政府の影響下にある朝鮮総連が運営している朝鮮学校が、朝鮮政府に比重を置くのは当たり前であるし、ある程度の『肩入れ』も理解する。

しかしこのような前置きを置いてもなお、この記事で校長が言う朝鮮政府への過度な恋慕や、生徒が朝鮮(のみ)を祖国と感じる(が韓国はそうではない)、という文脈については、私個人が現役の学生時代から、変わらず違和感を覚えているものと重なる。

私は朝鮮学校の存在意義はどこまでも「民族教育を施しうる教育機関であること」「自らのルーツを学べること、それに繋がるコトバと文化を学べること」「同じ境遇の生徒と机を並べること」「自らのルーツが否定されないこと(自己肯定)」にあると考えている。朝鮮政府一方への盲目的な賛意、政治体制への従属的な賛同に重心を置くべきではないと考えている。それをやりだすと、もう片方には敵対や不賛同を置くことになる。単純な二極対立で捉えるべきではないし、日本も韓国朝鮮中国米国も正しいこともあるし間違うこともある。それは自分がナニ人ということとは別個のものである。朝鮮にも韓国にも是々非々で付き合え、両方と交流でき、行き交いができるのがザイニチである。分断国家の一方当事者の息がかかっているとはいえ、わざわざこの「ザイニチのメリット」を投げ出すような姿勢、わざわざ積極的に国家体制に従属するような態度は、正直感心しない。

もっとも、韓国学校は韓国民団の影響下で韓国に比重を置き、韓国の立場で教え、朝鮮政府朝鮮総連・朝鮮学校をこき下ろしている。朝鮮学校が、民主党政権下で高校無償化法や自治体補助金から排除されようとしていた当時、日本政府と一緒になってその排除に賛成していたのが彼らであったし、その際の言説は日本政府のそれより苛烈に、イデオロギー対立や思想選別を煽るような、下劣極まりないものだった。朝鮮総連同様、(小規模ではあるが)民族学校を運営してきた韓国民団が、民族学校の意義に共感するどころか、「朝鮮学校に通わせている韓国籍者は、朝総連は反国家団体だからさっさと縁を切れ」と斬って捨て、朝鮮学校を中心としたコミュニティーを分断しようとさえしていた。http://www.mindan.org/front/newsDetail.php?category=0&newsid=13172

民団側が、一生懸命に在日社会内に分断国家の構図を持ち込んで、朝鮮的なもの排除・切り捨てするなど、『北韓憎し』に躍起になっている事実がある。

総連側は、自らの体制の否定をしない限りは、だが、寛容的に韓国の勢力を内包しようとしている。朝鮮は、自分の体制に敵対的でなければ、だが韓国籍者でも入国させる。逆に韓国は、朝鮮籍者は一律に朝総連・敵対勢力であるとして(余程のことが無い限り)入国を拒んでいる。日本における朝鮮籍者とは『北朝鮮国籍保持者』ではないにもかかわらず、である。http://d.hatena.ne.jp/dattarakinchan/20150908/1441724199

このように、ほんの一時期左派政権下で融和的であった他は一貫して、朝鮮総連・朝鮮学校に対して敵対的排除的である韓国政府韓国民団の状況を踏まえれば、朝鮮学校が少々朝鮮贔屓であっても決して不思議ではない。

いずれにせよ、

「生まれて初めて、心置きなく朝鮮人として堂々と街を歩けて、自分の国の言葉を使えて。日本人なら(日本で)当たり前のようにできることが、(自分たち朝鮮人は)実は踏みにじられていて…。自分は朝鮮人だったという認識を深めることができ、とてもうれしかったです。(北朝鮮の)生活水準は高くなかったけど、みんな幸せに見えた。そういう人間味を感じることができて、日本ではできない体験をしたな、と」

と生徒がインタビューで述べているように、日本で肩身の狭い思いを散々してきた生徒は、朝鮮での修学旅行で市民から歓待を受け、これまで習ってきた朝鮮語を堂々と話し、日本では通学途上着られなくなったチマチョゴリで街を闊歩できた、という体験によって、自己肯定は最高潮に達し、生徒が自分らの学校を支えている朝鮮政府に愛着や敬意を感じたわけだ。これは何ら不思議な話ではないし責められる話でもない。生徒らは、日本政府の自らに当てつけられた露骨な差別政策や、日本社会ヘイトスピーチ・ヘイトクライム等、自らへの排撃を卑屈に感じてきたなか、朝鮮政府は自分らの存在を理解し支援し温かく迎えてくれたのである。自分らが自分らの運命に向き合えるようにしてくれたのは、朝鮮学校の存在及び朝鮮政府の後ろ盾があるからに他ならないのだ。

しかし、である。それでも、である。

韓国は間違いなく朝鮮と共に我が祖国である。朝鮮籍韓国籍関係なくザイニチの殆どが朝鮮半島南部をルーツに持つことを引き合いに出さずとも、朝鮮韓国は我が民族の国である。分断された一方当事国を賞賛し、他方の国を切り捨てる発想は、ザイニチ当事者こそ自制的でなければならないと思う。分断を欲せばいさかいが生まれる。両者の主義や違いを認め、取り持ち、共生し乗り越える発想が大事だ。北とも南とも付き合えるような人材、北と南をつなぐような人材こそ、ザイニチには育てることができるはずだし、ザイニチだからこそ北にも南にも一歩引いた、バランスを備えた視点を携えて付き合えるはずだ。

理想を語れば、ザイニチ社会が先に『統一』し、南北の本国とは離れて独自に是々非々で判断できる大衆団体を立ち上げ、民族教育施設がそれにぶら下がることが、余計な政治性を廃した民族教育に踏み出すことになるだろう。その際、両国の政策・挙動に翻弄されることは目に見えているが、その都度是々非々を旨としつつも、抑制的・寛容的に接すればいいではないか、と思う。

ただ、このようなプランは私などが言い出さなくても何度も企図され試行され挫折してきたものである。理想が過ぎる。現実的ではない。難しいことは分かっている。しかしながら、そうであるべきだ。

付言すれば、朝鮮総連・朝鮮学校が、朝鮮政府に対し翼賛的に構えるがあまり思考停止しているように、私には見える。朝鮮韓国も否定せずに両方に向き合って、相互に交流できる道を探求できないものだろうか。元々、ザイニチに本国の政治など左右できるはずもない、わざわざ両国の政治意図に律儀に付き合わなくてもいいのだ。

誤解や曲解を産まないように書き添えるが、

国家体制・イデオロギーで朝鮮と対立している日本・韓国の側から見れば、「日本国内におけるキタチョーセン」たる朝鮮学校は奇異に見えるかもしれない。実際私も朝鮮学校に通っていた時代に、そして息子を通わせている現在も、そのような意見を直接ぶつけられることは多々ある。しかしそれは「自らの主義・信条とは相容れない」ことは意味するが、それをもって即、「差別的に取り扱っていい」ことにはならない。「嫌い・理解できない」ことが、「立場・生立ち・見解が異なる」ことが、貶めたり、社会的再分配や福祉の対象から除外したりする根拠になる、という発想は、断じてあってはならない。

この辺の見解も含め、同じくyahooニュースの記事を題材にした次の稿に譲る。