いち在日朝鮮人kinchanのかなり不定期更新日記

2016-06-13

親父の背中に思う。

思うところがあって、今日は私の親父について書いてみようと思う。

私の親父は、偏差値にかけてどちらかと言うと真面目だと自認する私に言わせても、これほどの生真面目な人間はなかなかお目にかかれない、と思うほどの、堅物ともいえる真面目な人間である。曲がったことが嫌いで、時間や約束を守ることを自分にも他者にも厳密に課しながら、とにかく直向きに生きてきた人間である。

いまはもう70を過ぎたが、人一倍仕事に熱心で身体を削って生きてきたので、実年齢以上に年老いた姿、身重な身体になってしまった。学費の高い朝鮮学校に高校卒業まで通わせてくれ、次いでこれまた高い学費の私立大学にも通わせてくれた。それなのに私はその苦労に報いることなく、ろくに大学で勉強せず、日々バイトに明け暮れ女友達と遊び呆け、社会に出ても心配ばかりをかけてきた。まったくの親不孝者だと恥ずかしい気持ちになる。

いま私自身が親の立場になり、嫁と一人息子を養うようになってはじめて、親父の苦労の片鱗でも理解できたような気がするが、親父とのエピソードを顧みると、私の苦労など取るに足らないようなものだと、いま小さくなった親父の背中に、ある種の想いを馳せる機会も多くなってきた。

いくつかの親父とのエピソードを書いてみようと思う。



私の幼少期、親父はたびたび家族を野原や野山に連れ出してくれた。山の頂上を目指す道すがら、親父は野に生える草花の名前を息子らに教えたりして過ごすのだが、ある日、登山道の傍らから竹より細く葦にも似たような、自分らが住む都会ではお目にかからない植物の茎を見つけてきてポキっと折り、手際よく口で食んで皮を剥いては息子らに「食べてみろ」と与えるのである。噛むと酸っぱい味がする。確か親父はこの植物のことをスカンポと呼んだが、これ以外にも食べられる野草らをよく知っていて、親父は息子らに教えたり、与えたり、採って持ち帰ったりしたのだった。

またある日は、植物のツルや転がっている枝や石ころ、電気のコードなどを手際よく組み上げて、鳥を捕えられるワナを拵えて見せてくれた。親父が小枝のふもとに生米を蒔き、その小枝に鳥がとまるとワナが動いて鳥が捕えられるのだという。実際小枝を動かしてみると、曲げられていた木の幹が戻ろうと立ち上がる力とかを用いてワナが動き、カゴがその場に落ちてくる。手品かと思わせるような見事な技にワクワクした。残念ながら息子の目の前で獲物が掛ることはなかったが、親父はそのようなワナを作る術をいくつも知っていて、私を楽しませてくれた。

私は子供心に「アボジ(親父のこと)は色んな事を知っているなぁ」と感心したものだった。

これらは親父が幼い時、飢えを凌ぐために習得した「生きる知恵」だった。そのことが分かったのは、私がある程度大きくなって、親父の幼少期時代を知ったからだった。親父の幼少期は極貧の極みだったのだ。

祖父は両班の端くれで、23の山を持つと言われる程度の土地持ちだった。小作人に田を貸して悠々自適と暮らしていた。ところが、日本の植民地政策のひとつである土地収用策によって生活の糧たる土地を奪われてみるみる落ちぶれた。朝鮮での生きる術を失った祖父は、家族とともに生きるために日本海を渡った。敗戦間際の日本全体が暗い影を背負った時期に、親父は6番目の子供として、祖父の元に生まれ落ちた。貧乏子沢山の典型であった。ろくに学も腕もなかった祖父は、肉体労働の出稼ぎで各地を渡り歩き、家は家で極めて狭いところに大人数が肩を寄せ合い、生活はまったく話にならない。祖母は親父が未だ乳飲み子程度の時期に病に斃れ、祖父は家にはほとんど帰って来ない。親父はひもじさに耐えながら幼少期を育った。野に咲く花、草木、飛びまわる鳥や昆虫。親父はそれらの中で飢えを凌げるものを食みながら、必死に生き延びたのだった。

エピソードがある。家には風呂は無く、数日に一度、良心ある近所の日本人宅に戴きに行っていた。ある日、いつものように風呂を戴きに行くと、その家の食卓には刻んだ沢庵を盛った器が置いてあった。いつ終わるとも知れないひもじさと、目の前の沢庵欲しさの誘惑に堪えかね、親父はその一切れを盗み食いしようと口に運んだが、運悪く家人に見つかってしまう。家人は親父を盗人と罵った。「もうお前の家族に風呂はやらん」と。親父はそれを泣いて詫び、二度と人様に向かって恥ず様な真似はしないと決めたのだというが、同時に今でもそのときの沢庵の味が忘れられないのだと言う。「うまかった」と。

親父はそんな話を成長期の息子(私)に聞かせ、真面目で正直な人間になれと語るとともに、息子には自分のような苦労はさせたくないのだと、自分に言い聞かせるように語るのだった。いっぽうの私は、『まんが日本昔ばなし』を聞くような、リアリティを感じられない話題としてその場をやり過ごしていたような気がする。親の心子知らずを地で行くようなもので、まったく言葉が無い。

親父は、高校を出て早々、工場の下働きのような職を得て、一日も病気や怪我で休むことなく真面目に働き、少しづつ生活が安定していった。嫁(私の母)を迎え、(こんな私のような、であるが)子宝にも恵まれ、人並み以上の生活が送れるようにと、親父は必死だった。小さな家を買い、子供三人を大学まで出してやり、それぞれが身を立てられるようになるまで育て上げた。私らの家庭はこれまで生活保護の世話にもなったことは無いし、私は成長期にひもじさを覚えたこともない。贅沢ではないが、不自由のない暮らしを送らせてもらった。尊敬できる親父だ。



そんな親父は、朝鮮学校を出てそれなりに民族心が強い嫁(私の母)の影響もあったりで、朝鮮総連絡みの地域同胞の繋がりには付き合い程度に関わっていた。現在もなお韓国籍のままであり、おのれに取りついた民族的属性を忌避するような考えは持ち合わせていないようだ。なのに、職場には日本名で就職し、それでずっと通していた。職場の同僚が朝鮮学校に通う私に接触する可能性があるときは、「朝鮮学校に通っていると言うな」「俺のことをアボジと呼ぶな」と事前に釘を刺されたりと、自分が朝鮮人とバレないように神経を使っていた。

いっぽうの私といえば、朝鮮学校で学び、同年代の在日同士で語らう中で、朝鮮人であるという強い自覚を得た。親父から受け継ぎ、外国人登録に併記されていた通称も、自らの意思でわざわざ消除したりして、自分が朝鮮人であることを、忌避せず、受け入れ、それを晒すという生き方を、自らで選んできた。

親父は全ての社会生活を通称で行い、朝鮮人であることを隠しながら生きている。朝鮮人であることは悪いことでも恥ずかしいことでもないのに、である。

自分にも他者にも厳しく、真面目で直向きな親父が、本名を名乗らず、『嘘』をついている。

私は思春期特有の反骨心も手伝って、「朝鮮人として堂々と生きればえぇやないか」「なんでうちの表札は通名しかないんや、うちは金家ちゃうんか?」と思っていた。親父に養ってもらっているのに、こんな『いっちょまえ』なことを考えたりしていた。

いま大人になって振り返ってみたとき、その頃の自分が、如何に青臭く、浅はかだったのかと、本当に恥ずかしい気持ちになる。



在日二世である親父が就職をした1960年代は、いまより遥かに外国人に対する差別が激烈であった時代である。国民年金制度からは排除され、公団住宅にも入れない、就職差別・居住差別・結婚差別は当たり前の時代だ。朝鮮人であることを晒して、まともな就職先にありつくなど、とても考えられない時代だった。在日二世、ちょうど戦後間もなく生まれた世代に個人事業主が多いのはこのためだ。雇ってもらえないから興すしかなかったのだ。

この時代において、朝鮮人であることを晒す生き方など、食っていく・命を繋いでいくうえにおいては、何の役にも立たない。むしろ障害でしかない。出どころが悪ければ、自分が築き上げたものですら、一瞬にして崩れ去りかねない。この時代において、自らの民族性を晒す生き方など、多くのザイニチにとっては、『人並みに食う』『安心して生きる』が満足してはじめて追求できる、ただの戯言でしかなかったのだ。

親父もそのような背景の元、日本社会で、日本人たちの中で、生きるために『日本人』を選択した。日本人たちの中で朝鮮人として顕在化することが人間扱いされない世の中における、生きるための選択だったのだ。

かつての植民地支配によって内包した朝鮮人に、日本政府は満足な法的地位を与えず『二級国民』として扱い、終戦後には日本国籍を取り上げ、危険分子として排斥するなど、一貫して続く植民地主義のなかで、ザイニチは、その民族性を、ある時は晒し、またある時はひた隠しにし、という様々な選択を個々に重ね、激烈な差別の時代を生き抜いてきたのだ。生きるというのは理屈ではない。時にしたたかに、そして時に愚直に、やれることをやり、使えるものを使う。そのような様々な選択の中に、日本人名(通称)があったのだろう。戦前、創氏改名によって『日本人』を押し付けてきた象徴たる、屈辱にまみれた名前を、戦後もなお使い続けなければならなかったのには、「社会がそれを許さなかった」「社会に受け入れられるために使ってきた」という歴史的な潮流があったのだ。

1970年代以降、段々とそのような激烈な差別が解消され、日本社会の中でザイニチが朝鮮人として顕在化するという選択をしても、生存の危機に晒されないようにはなった。その背景には、国際化・グローバリゼーション・国際人権感覚の高まりと日本社会とが無縁で無くなったこともあるが、何よりも私の親世代と、それを支援してくれた多くの心ある日本人が、指紋押捺拒否や、居住差別・就職差別解消のための各種裁判闘争など、差別に抗い、一つひとつ解消してきた、という成果があったからに他ならない。

それを知らないでいた成長期の私は、しょうもない虚栄心を働かせて「朝鮮人として生きる」「通称を使うなんておかしい」などと息巻いていた。このことほど、いまから思えば身の程を知らないことは無い。先人が、『朝鮮人』として生きられなかった時代を、多くの選択を経ながら生き抜いてきて、一つひとつ権利を積み上げてきた結果、自分が『朝鮮人』として生きられるのであり、私は先人が築いた舞台で踊っているに過ぎなかったのだ。まったく恥ずかしいことこの上ない、と思う。



翻って、

ある講演会で在日の学者が言っていたことが頭に浮かんだ。おおよそこのような主旨だ。

「今の時代が、私が生きてきた中でいちばん苦しいのではないか、私たちに『死ね』『殺せ』と、何のてらいも無く言えるような時代に戻ってしまった。ジェノサイドが起こる前夜のような気がしてならない」

確かに、

日本で生まれた朝鮮人であるということ「だけ」で、知らない人間に死ねだ殺せだ言われる筋合いはまったく無い。それなのに、ネット上でそのような言説が失せた日は無い。しかも言っている側は、実に楽しそうに、である。『死ね』『殺せ』が気楽なエンターテインメントに化し、それに良心の呵責の欠片もない。そんな言葉が溢れかえる世の中になってしまった。政治の貧困さが、そのような言説を放置し、あるいは勢いを与えてさえいる(アリバイ作りのような法律は通ったが政権中枢の姿を見る限り私の評価が変わるわけではない)。

『死ね』『殺せ』を言っている側、攻撃している側、放置している側には、私や私の親父のような具体的な生活者としてのザイニチの人生が視界に入っているのだろうか?

私が、私の親父が、何故に死ななければならないのか、何故に殺されなければならないのか。私の、そして親父の、ささやかな人生を振り返った時、何故なのか、本当に、これっぽっちも想像がつかないのだ。

先に書いたように、人一倍苦労し、人一倍努力して、ようやく人並みの生活を手に入れた親父が、人並みに生きる手段として通名を使っていたことは、『死ね』『殺せ』という社会的制裁に値する行為なのだろうか?

朝鮮人として生きようにも生きられなかった社会の在り様、個人の自由や人格の領域でさえ朝鮮人であればいちゃもんをつけられる不寛容な社会の在り様を差し置いて、誰にも認められているはずの通り名の使用を、朝鮮人だから排撃の材料にする、人間の心の在り様とは、いったい何なのだろうか?

私は攻撃者に対する怒りと共に、親父の苦労に対する悲哀を覚えるのだ。



激烈な社会環境の中、様々な選択をしながら生き抜いてきた親父の背中を思う。

今日のように社会が堕ち、日々排撃される立場にまたもや置かれたことを、親父は言葉にせずとも心底憂いているのではないかと思う。

人間の宿命で親父も長くはないだろう。

ジェノサイド前夜のような今日の空気感が、薄雲が晴れるように無くなればいいのに、と思う。

2016-05-26

『ヘイトスピーチ対策法』成立に対する拙考

今月24日に『ヘイトスピーチ対策法』が成立した。私や多くの心ある反差別に取り組んだ方々が望んだもの、そして最初に旧民主党が中心になって提示したものとは程遠い、いわゆるザル法だが、それでもなお一縷の希望を見出す。



成立した法律では、ヘイトスピーチの定義を、

専ら本邦の域外にある国若しくは地域の出身である者又はその子孫であって適法に居住するもの(以下この条において「本邦外出身者」という。)に対する差別的意識を助長し又は誘発する目的で公然とその生命、身体、自由、名誉又は財産に危害を加える旨を告知するなど、本邦の域外にある国又は地域の出身であることを理由として、本邦外出身者を地域社会から排除することを煽動する不当な差別的言動をいう。

としている。

http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_gian.nsf/html/gian/honbun/houan/g19002006.htm

これに対し、私がヘイトスピーチ研究の第一人者だと認識している、師岡康子弁護士による著書『ヘイト・スピーチとは何か』による定義は以下のとおりである(48頁)。

ヘイトスピーチとは、広義では、人種、民族、国籍、性などの属性を有するマイノリティの集団もしくは個人に対し、その属性を理由とする差別的表現であり、その中核にある本質的な部分は、マイノリティに対する『差別、敵意又は暴力の煽動』(自由権規約二〇条)、『差別のあらゆる煽動』(人種差別撤廃条約四条本文)であり、表現による暴力、攻撃、迫害である。

1969年に発効した人種差別撤廃条約を日本が批准したのは1995年であるが、ヘイトスピーチ禁止条項については留保をしたままになっていた。繰り返しの改善勧告に対しても日本政府はゼロ回答だったのである。今般の『ヘイトスピーチ対策法』を、この宿題に対する20数年ぶりの回答と捉えるのであれば、当然に人種差別撤廃条約を援用してヘイトスピーチを定義すべきであるが、今般の法律では、日本独自の定義を拵え、ヘイトスピーチを限定的に捉え、限定的にそれを解消しようと試みるのである。

これまで反差別反ヘイト運動を眺めていれば自ずと分かることだが、ヘイトに苦しめられてきたのは、何も「本邦外出身者」ばかりではない(確かに最も激烈かつ『共感』を掻きたてたのが朝鮮人に対するヘイトスピーチであることは認めるが)。

アイヌ琉球、障がい者、女性、LGBT、被差別部落出身者、宗教者、ヒバクシャ、などなど、挙げればキリが無い。

マジョリティが、被差別マイノリティという身分に落とし込んだ者に対し、その差異を取り出してあげつらうという図式で発生するのがヘイトスピーチである。マジョリティという属性をひけらかしてマイノリティを貶めたい、rawanさんの言を借りれば『魂が悪い』人間の匙加減で、攻撃対象は如何様にも変幻するものである。

それなのに、法律によって抑止しようとしているのが「適法に居住する本邦外出身者」に対する差別のみ、ということでは、対策の体を成し得ない。反差別反ヘイト側に集う者の連帯の輪を分断しているようにさえ見える。

最も、差別主義者にとっては我々在日朝鮮人は『密入国者の子孫』ということになっている。それに対して、行政の側からこのような言説に対する明確な反論は、これまで試されてこなかった。差別主義者が我々を攻撃する際に、「密入国者の子孫は出て行けという政治的主張」だと言い張れば、それはこの法律の枠外、ということに(差別主義者の頭の中では)なってしまう。差別主義者への牽制という実効力も、まことに疑わしい。

私は、差別はどこから生まれるのかという根本に対する着眼、差別に対する社会的な学習の蓄積というものの欠如があるのに、それこそそれが欠如しているという認識が『欠如』のままに、法律という建物を急ごしらえで拵えたから、このような『上っ面をなぞったような法律』になったと思っている。

あらゆる差別は、人間の知性を否定した、歴史に対する「無知」と、普遍的人権思想に対する「無知」から来ている、と私は考えている。これまでに発生した差別事件がことこどく、そのことを裏付けている。

この膨大な「無知」に対応する学習を取り付けずして、土台を固めずにして、その上にいくら華美な建物を立てても、それは住むに値しない。

今般法律のターゲットたるヘイトスピーカーは、「無知」の時間的蓄積で湧いてきた『極端な者』である。これを立法府が認識せず、いま湧いてきたヘイトスピーカーのみに対処療法的に対策を打ったとしても、(心配しなくても)次から次へと同種の者は湧いてくる。少なくとも政治の世界では同種の者が湧き続けている。この膨大なそして徹底的な「無知」に目を向けない限り、根本治癒には程遠いのだ。

しかし、少ないが希望を見出だすとすれば、法律では教育の充実及び啓発活動についての、国及び地方自治体の責務を明確化していることである。上記の「無知」を埋めることで、湧いてくる者が少なくなっていくことを、長い目では期待したい。

今回の法律の成果は多くはなかったが、この法律を根拠にした地方自治体条例制定、及び本法律の改定等、数次の肉付けを経て、実効力を備えた差別主義者へのコントロールとなることを期待する。この法律は小さな一歩だが、諦めずに大きな果実を得られるように、私も微力を尽くしたいと思う。



(付記)

本法律の不十分さを指摘する記事を紹介する。

ヘイト法成立「第一歩だが、改正を重ねてより良いものに」伊藤和子・HRN事務局長

毎日新聞 2016年5月24日

http://mainichi.jp/articles/20160524/mog/00m/040/007000c

(引用開始)

24日成立したヘイトスピーチ対策法は、罰則のない理念法だ。ヘイトスピーチ解消に向けては、国に相談体制の整備や啓発活動などを義務づけ、地方自治体にも努力義務を課す。人権団体「ヒューマンライツ・ナウ」(HRN)事務局長の伊藤和子弁護士同法成立の意義を聞いた。

伊藤さんは「ヘイトスピーチに関する法律は日本になかったので、その意味で第一歩」と評価しながら、保護される対象者を限定した要件を設けたことを問題点に挙げた。同法ヘイトスピーチ解消の対象を「本邦(日本)外出身者」で「適法に居住する者」と規定しているため、「対象外の人たちへのヘイトスピーチが容認される恐れがある」と指摘する。

容認される恐れがある人たちとは、具体的には難民認定を申請する人、配偶者ビザを持ちながら家庭内暴力などで避難する人、両親がオーバーステイの状態で生まれた子、外国人旅行者−−などだ。

同法の付帯決議には、「本邦外出身者」で「適法に居住する者」以外に対するヘイトスピーチは許されると理解するのは誤り、と盛り込まれたが、伊藤さんは「付帯決議に与野党が合意できたのなら、(保護の対象の)要件を外すべきだ」と主張する。

ただ、男女雇用機会均等法やDV防止法を例に、「不十分な内容の法律も改正を重ねてより良いものにすることは可能」と見る。「差別を無くしたいと思っている人たちが分断されてはいけない。切り捨てられた人たちを法律の枠内に含めていく必要がある」と強調した。

(引用ここまで)




(追記)

D

ヘイトスピーチの解消に関する決議が、参議院法務委員会にて全会一致で採択された。法律の主旨を補完し、今後進むべき方向性や、対象に含めるべき被差別者にまで言及している。私は本稿で法律の『不足感』について書いたが、このような共通認識が国会で形成されたことについては、素直に賛辞を送りたいと思う。

2016-05-25

『朝鮮学校への地方公共団体の補助金に対する政府の不当な介入に抗議する研究者有志の声明』に全的に賛同します。

先日、朝鮮学校に対して一部地方自治体が細々と続けている補助金について、日本政府が露骨な政治攻撃を仕掛けた愚について、何度か拙稿を示しましたが、流石にこのような人権侵害が放置されて良い訳は無く、日本の学者の有志からの批判声明が発出されました。

私はこの声明文が、

  *朝鮮学校の行う民族教育が、何故、どのように認められなければならないか、

  *日本政府の行う民族教育への政治攻撃が、普遍的な人権基準からどれだけ乖離し、国際的にどのように批判されているか、

  *日本政府の、民族教育に対する一貫する冷淡な態度が、京都事件で朝鮮学校に行われたヘイトスピーチレイシズムに比肩する行為であるとの批判

が端的にまとめられており論点整理に有効であることと、主旨にも全的に賛同するので、全文掲載すると同時に、関連する若干の論考を示したいと思います。



朝鮮学校への地方公共団体補助金に対する政府の不当な介入に抗議する研究者有志の声明

http://ksubsidy.hateblo.jp/entries/2016/05/24

2016年05月24日付け

(引用開始)

2016年 月 日

内閣総理大臣 安倍晋三

文部科学大臣 馳 浩 様

朝鮮学校への地方公共団体補助金に対する政府の不当な介入に抗議する研究者有志の声明

2016年3月29日、文部科学大臣は「朝鮮学校に係る補助金に関する留意点について」という通知を28都道府県知事宛に送付しました。わたしたち研究者は、これを政府による民族教育に対する不当な介入であると考え、ここに抗議します。

同通知は、地方公共団体朝鮮学校に係る補助金の支給停止を直接求める文面にはなっていないものの、既に各地で動揺が広がっています。それは、報道などで公表されている経緯からして明らかであるように、この通知が、自由民主党および日本政府による朝鮮民主主義人民共和国に対する一連の「制裁」に関する議論と措置の一環として出されたためです。補助金の支給自体はこれまでどおり各地方公共団体の自治的な判断に委ねられているとはいえ、「北朝鮮への圧力」といえば何をやっても許されるかのような風潮が作り出されてきたなかで、政府がこのような通知を出す目的と効果は明白です。

在日朝鮮人による自主的な民族教育に対して、日本政府はその権利を保障するどころか、歴史的に一貫して冷淡で、ときに直接的な弾圧を加えてきました。日本政府は、戦前には「民族的色彩」が濃厚と判断した教育施設を弾圧し、戦後の脱植民地化の趨勢のなかでようやく各地にできあがった民族教育施設に対しても1948〜50年にかけて多くを強制的に閉鎖し、さらに1965年の文部事務次官通達などを契機に閉鎖を含む統制を加えようとしました。

各地の地方公共団体は、こうした国の政策にもかかわらず、外国にルーツをもちながら地域住民として生きる子らの民族教育に対する地域社会の理解を基礎とし、地方自治の精神にのっとって補助金制度を設けてきました。ところが、近年ふたたび日朝関係の悪化を背景に、日本政府朝鮮学校を高等学校等就学支援金制度(いわゆる高校無償化制度)から排除し、このことが一部の地方公共団体による補助金の打ち切りや減額を誘発しました。そしてついに今回、地方公共団体補助金交付に直接介入してきたのです。

このような昨今の日本政府による朝鮮学校への政策は、各種の国際人権法や日本国憲法で定められた平等権、学習権を政治的事由にもとづいて不当に侵害するにとどまらず、それ自体が人種差別撤廃条約で禁止しているレイシズム(人種・民族差別)の一形態に他なりません。実際、2014年に国連人種差別撤廃委員会が日本政府に対して、朝鮮学校生徒への高等学校等就学支援金の支給と、地方公共団体補助金の「再開あるいは維持」を要請しています。日本政府は、この要請を「留意点」として地方公共団体に通知すべきであるにもかかわらず、むしろ反対に人種差別撤廃委員会が懸念を示している政策を維持、拡大しようとしています。

今回の通知は、排外主義を助長することになるだけでなく、それ自体が結果的に「ヘイトスピーチ」と同様の機能をもってしまうことに、わたしたちは懸念を表明せざるを得ません。2009年には京都朝鮮学校に対して排外主義団体が激しい示威活動をおこないましたが、この事件に対して裁判所は、当該活動によって朝鮮学校の「社会的評価」が低下させられ「民族教育を行う社会環境」が損なわれたことを重く見て高額賠償を求めました。この観点からすれば、今回の通知は、長年にわたって地域社会で培われてきた朝鮮学校の社会的評価と社会環境に負の影響を及ぼそうとする目的と効果において、排外主義団体が学校前でおこなった言動に比肩するものです。

以上の点から、わたしたちは今回の文科大臣通知に強く抗議するとともに、その撤回を要求します。また、文教政策において朝鮮学校に対するレイシズム(人種・民族差別)をただちに中断し、国際基準に照らして民族教育を保障するよう求めます。

(引用ここまで・上記引用文の日付が入っていないのは、恐らく賛同者が出揃った時点で日付を入れて発出することを意図しているものと思われます)



これに関連して、

大阪府及び大阪市については、2011年より朝鮮学校に支給されていた補助金が不支給になっています。私は息子を朝鮮学校に送っている親ですが、私が大阪府・市に納めた住民税は、まったく我が息子の学びに活用されることが無い、という状態が続いています。つまり、私の息子の学びは、公的に保護する価値がまったく無い、と私及び私の息子が住んでいる自治体宣言されてしまっている状態です。

大阪府・市が大阪朝鮮学園に「これを守るのであればカネをやってもいいよ」と突きつけたのが『4要件(のちに6要件)』ですが、こちらの資料が詳しいので、そちらに譲りますので参照してください(リンク先レジュメの6〜7ページ参照)。如何に民族教育の自主性をないがしろにし、横暴勝手を極めたものかが分かると思います。こんなものを受け入れたら民族教育が民族教育ではなくなります。

無償化連絡会大阪レジュメ.pdf 直

さて、大阪府・市の補助金不支給に対する訴訟が、大阪朝鮮学園等によって提起され現在継続中です。その訴訟を傍聴した保護者のレポートを手に入れることができましたので、一部抜粋で紹介します。



(引用開始)

(前略)運よく傍聴権を手にし、原告側4名の証人尋問を傍聴してきました。今までの書面のやりとりとは違い、今回の直接的な裁判に期待が膨らみました。…が、いざ始まってみると、段々と胸が苦しくなり最初は体調不良か?と思ったのですが、それは怒りでした。殆ど反対尋問がない中、時々出たかと思うと、裁判官や被告側弁護団の質問が、やれ「肖像画や迎春公演」だの「朝鮮学校の教員は資格があるのか」だの、終いには「補助金が不支給になり具体的な負担はどうだ」との質問に、そんな分かりきった事を聞く前にもっと聞くことがあるだろう!と怒りでワナワナ震え、最後はただただやるせない気持ちになりました。なぜ私たちがこの裁判を起こしたのか、その一番重要な部分がないがしろにされ、お粗末なマスコミ報道のような“北朝鮮バッシング裁判”に成り下がったと感じました。結局、彼らは正攻法では勝てないのです。裁判官弁護士はまるで産経のまわし者かと思えたし、あまりにも韓国朝鮮にルーツを持つ在日の歴史的経緯を知らなすぎると感じました。司法試験に受かるために勉強に明け暮れ、豊富な社会経験もない頭でっかちの裁判官に我々の闘いの歴史、苦しみの歴史をくみ取る器があるとは到底思えない。差別の矛先が他でもない何の罪もない子ども達に向けられ、朝鮮学校に通う子ども達への重大な人権侵害が行われているというのに…!外交問題を理由に差別が許されるなら、日本は取り返しのつかない人権後進国として国際社会から間違いなく非難をあびるでしょう!

(略)多くの方が証言台に立ちました。(略)皆さん其々自分の立場から一生懸命証言されており、特にまだ若くしてこの重責を担う場に立ちながらも、堂々と真っ直ぐに受け答えをした○○さんの姿は誇らしく、素直に胸打たれ、また差別に屈せず逞しく生きてきた同胞達の後ろ姿を見ながら、ウリハッキョ(私たちの学校=朝鮮学校のこと)で育った子ども達らしい強さと逞しさを感じました。最後に○○さんが裁判長に向けた「当たり前のことが当たり前でない世の中…」「私から目を逸らさず、私を真っ直ぐに見てください!」との力強く真っ直ぐな言葉…。正常な神経の持ち主なら胸に突き刺さったことでしょう。そうであると信じたい。(後略)

(引用ここまで・伏せ字、略、注釈は引用者)



私は、在日問題は、日本の『戦後処理』の問題だと思っています。

在日朝鮮人の圧倒的多数者の来歴を辿れば、日本の植民地支配に行きつきます。過去の日本国家の政策によって内包した朝鮮人及びその子孫が、その民族的自覚から日本国内で朝鮮人として生き続けようとすることに、日本国家は、旧宗主国として、責任を負い続けなければなりません。日本国家の歴史を「戦前」と「戦後」で断絶することはできないのです。日本国家の歴史に連続性があるように、在日朝鮮人世代継承にも連続性があり、どのように生きるか・継ぐかを決めるのは在日朝鮮人コミュニティ自身です。

朝鮮を「日本」にしたのも日本国家だし、朝鮮人を「日本人」にしたのも日本国家だし、戦後日本に残る「日本人」を「朝鮮人」にしたのも日本国家です。そのように翻弄され続けた在日朝鮮人が、自分らの自覚から「朝鮮人」として生きようとすることにまで、日本国家は干渉し妨害しようとしている。自らの歴史を直視せず、機会あれば修正・美化しようとしている日本国家の姿が、そのまま在日問題に凝縮されて反映していると言えるでしょう。

日本国家が、自らの歴史を直視し、それを政策に反映させ、それを教訓として後世に残すように公教育に反映させるべきです。そうすれば我々のような「植民地政策の残滓」が何故存在し、何故いまも維持されているのかについて、我々のみがその説明責任を負っている、という現状は改善され、自ずと在日問題の「問題」は解消されることでしょう。

そのような情勢に好転するには、現情勢及び現政権の愚かな姿を見るにつけ、道は果てしなく長いと感じます。それでも諦めず、まっとうな『戦後処理』を求めていきたいと思っております。

2016-04-14

熊本の地震直後からtwitterを埋め尽くした「朝鮮人に気をつけろ」への吐き気(20160415追記)

熊本を中心とした震度7の地震が起こった直後から、twitterを埋め尽くしたのは、「朝鮮人が井戸に毒を投げ入れた」「九州は朝鮮人が多いから気をつけろ」等の、まさにクソよりも汚い罵詈雑言ツイートの数々だった。

実際に被害に遭われた方々に想いを寄せることも無く、ここぞとばかりに、湧き・喚き・差別に勤しみ・煽り・嘲り・楽しむ様は、吐き気無しには見ることができない。

とりあえず、約10分で収集できたクソツイートを並べておく。

(この記事の公開後に消す輩も出てくるだろうが)





まさに、混乱に乗じて、ここぞとばかりにヘイトの吐露に興じているわけだ。

この時代に井戸を使っている世帯がそう多くはないことは明らかなわけで、このようなツイートは関東大震災のときの代表的なデマに倣っていることは言うまでもない。その場でその再生産を行いたいという『欲望』が透けて見える。



関東大震災の時に、まさに上記のようなデマが飛び交い、それを元に自警団が結成され、官憲と共に、数千人の朝鮮人が虐殺された。

九月、東京の路上で 1923年関東大震災ジェノサイドの残響

九月、東京の路上で 1923年関東大震災ジェノサイドの残響

この時代にそれが起こらない保証はない。

情報のライフラインが寸断されたあとで、このような流言飛語が飛び交ったら、鬱憤や不安の裏返しから、朝鮮人が排撃に遭う可能性は十分ある。

ただでさえ、朝鮮人が日本における『賤民』の代表格に成り下がって久しい。社会不安の中に朝鮮人に対するデマが広がったら、それを引き金に朝鮮人が有形無形の攻撃に晒される危険は、現実問題としてある。

本人らは「悪ふざけ」「冗談」のつもりだろうが、100年弱の近い過去に、朝鮮人であることだけを理由に殺された歴史を持つ、在日朝鮮人コミュニティの子孫たる私や同じコミュニティに属する者にとっては、単なる冗談ではない。まさに、混乱に乗じてジェノサイドの欲望がこのように噴出する、ということを、現実的な恐怖と共に見るのである。

どこまで堕ちれば気が済むのだろうか?



(20160415追記)

2016-03-31

日本政府、朝鮮学校への補助金交付に『留意』を通知 ― 朝鮮学校生徒へのレイシズムそのもの

恐れていたものは現実になった。文科省朝鮮学校に各自治体が拠出している補助金に対し、『留意』を示すという、前代未聞の通知を発出した。



文科大臣通知

27文科際第171号

平成28年3月29日

北海道外1都2府24県知事 殿

文部科学大臣 馳 浩

朝鮮学校に係る補助金交付に関する留意点について(通知)

朝鮮学校に係る補助金交付については、国においては実施しておりませんが、各地方公共団体においては、法令に基づき、各地方公共団体の判断と責任において、実施されているところです。

朝鮮学校に関しては、我が国政府としては、北朝鮮と密接な関係を有する団体である朝鮮総聯が、その教育を重要視し、教育内容、人事及び財政に影響を及ぼしているものと認識しております。

ついては、各地方公共団体におかれては、朝鮮学校の運営に係る上記のような特性も考慮の上、朝鮮学校に通う子供に与える影響にも十分に配慮しつつ朝鮮学校に係る補助金の公益性、教育振興上の効果等に関する十分な御検討とともに、補助金の趣旨・目的に沿った適正かつ透明性のある執行の確保及び補助金の趣旨・目的に関する住民への情報提供の適切な実施をお願いします。

また、本通知に関しては、域内の市区町村関係部局に対しても、御周知されるよう併せてお願いします。

なお、本通知の内容については、総務省とも協議済みであることを申し添えます。

(強調は引用者)



文面をどう読んでも、これは『朝鮮学校=朝鮮総連=北朝鮮』だから、補助金は出すな、と文科大臣が各地方自治体知事に圧力を加えるものである。

>我が国政府としては、北朝鮮と密接な関係を有する団体である朝鮮総聯が、その教育を重要視し、教育内容、人事及び財政に影響を及ぼしているものと認識しております。

>ついては、各地方公共団体におかれては、朝鮮学校の運営に係る上記のような特性も考慮の上、(中略)補助金の趣旨・目的に沿った適正かつ透明性のある執行の確保及び補助金の趣旨・目的に関する住民への情報提供の適切な実施をお願いします。

>本通知の内容については、総務省とも協議済みであることを申し添えます。

露骨に、朝鮮総連はキタチョーセンで、日本政府は気に入らないから、支出している補助金を見直せと言っている。地方自治を束ねる総務省にも根回しを怠っておらず、支出を続ける自治体に圧力をかけるということを表明している。補助金の趣旨・目的に関する住民への情報提供の適切な実施」、つまり、朝鮮学校に支出をするときはきっちり情報公開して『市民の批判』に耐えて見せろ、とも言っている。「朝鮮学校に通う子供に与える影響にも十分に配慮しつつ」とはどの口で言うのか失笑しか出ないが、朝鮮学校に通う生徒の学びを、物理的に封殺せよ、と言っているも同然である。

それなのに、記者会見で再三再四そのことを問い詰められた文科大臣の馳は、朝鮮学校に補助金を出す権限は自治体側にありますので、私としては留意点を申し上げただけであって、減額しろとか、なくしてしまえとか、そういうことを言うものではありません」とか、「私から減額とか、自粛とか、停止とか、そのようなことを指示する内容ではありません。朝鮮学校の置かれている特性を踏まえて、また、補助金交付のいわゆる執行に当たって、適切な対応をしていただきたいということです」と、幼稚に逃げ回った。

補助金を出すな、と自分の名前で明確に圧力をかけておきながら、その判断の責任は地方自治体の長が負え、と言うのだ。

それでいて各自治体がどのように取り扱ったかは、実態を自分も把握する、と言ってのけやがったのだ。

http://www.mext.go.jp/b_menu/daijin/detail/1369062.htm



(自分が気に入らない)キタチョーセンに親和性を持つ朝鮮学校の児童の学びを、物理的な圧力によって遮断する、という政治攻撃を露骨に仕掛けておきながら、自分は知らぬ存ぜぬとは何事か?

いっそのこと、自分は朝鮮学校の生徒を政敵として取扱い、その生徒らの学びを妨害することによって、自分の政治的目標を達成する、と高らかに宣言すればいいではないか?

自らが差別主義者であり、自らの差別心を満たすために、朝鮮学校の子供らの心に暗い影を落としてやるのだ、と何故言えないのだ?

差別主義を討っておきながら、自らの行為が差別だと認めることもできないのか?

どこまでも、姑息・醜悪・卑劣・卑怯だ。

思いつくコトバのいずれを天秤にかけても、釣りあうものが見つからないほど、醜く、野蛮だ。



安倍は朝鮮に圧力をかけるという政治姿勢で国民の歓心を買い、課長が社長になるように三段跳び総理大臣にのし上がった。その成功体験の酔いから醒められず、何度も何度も朝鮮への攻撃を止めようとしない。

しかし朝鮮本国に相手にされないものだから、『内なる北朝鮮』たる朝鮮総連及び朝鮮学校に好き放題の圧力をかけ続ける。

安倍が政権を奪取した直後、真っ先に朝鮮高校を高校無償化法の対象外にしたことがその象徴だが、一部自治体が細々と続けている補助金にまでとことん難癖をつけることで、国民のささやかな歓心を得ている。そのことで度重なる失策の失地回復を図っている。

実際、安倍が肌身離さず自慢げに身につけている、青いバッジの恥知らず集団が、今回の一件が自らの要請に基づくものだと書いている。

http://www.sukuukai.jp/mailnews/item_5318.html

朝鮮学校の生徒を弱い者イジメしたら、自分たちの家族が帰ってくると踏んでいるのなら、余程の世間知らずだ。

目的と手段の不一致が過ぎる、と思わないのか?

この青いバッジを嬉々として身につけている者には軽蔑心しか湧かないのは私だけではなかろう。



考えてみてほしい。

朝鮮学校生徒の補助金を全廃したとして、日朝間の外交課題は改善するのだろうか?

朝鮮学校生徒の学ぶ環境を破壊して、ミサイルが飛ばなくなったり、拉致された人々が帰ってきたり、日朝間あるいは南北朝鮮間の緊張関係が緩和されたり、という日本の政治課題に資する動向が導けるのか?

もし、そのように主張するなら、どういう回路でそれが可能なのか、明確に説明すべきなのに、何故しないのか?

先に私から結論を示すが、そんなことはあり得ない。



では、効果が無い政策を何故に打つのか?

それは、朝鮮人であれば、理屈に合わなかろうが、支離滅裂であろうが、国際人権法やあるべき民主主義社会の姿に反してようが、貶めても辱しめても不遇を負わせても構わない、それで国民の些細な歓心を買えるのであればそれで構わない、と思っているからではないか?

この政策の目的は、「キタチョーセンの勢力に属する人間を差別したい」「キタチョーセンが気に入らないから八つ当たりをしたい」「キタチョーセンを蹴落とすことで政治的なアリバイを拵えたい」という鬱屈した為政者の暗い差別心所以としか説明がつかないではないか?



これは、『レイシズム』そのものである。国家ぐるみで朝鮮学校の生徒をいじめる、『上からのレイシズム』そのものである。

国家が上から、確信を持ってレイシズムを仕掛けているのである。

国家がお墨付きを与え、政策として具現化した、朝鮮人に対するレイシズムである。国家の保険がかかった、国家主導のレイシズムである。

それにチカラを得た巷のレイシストが、『下からのレイシズム』に興じる。巷のレイシストの、娯楽と化したヘイトデモが、今日も明日も続く。

上が率先してやっていることを、下にやるなと言えるはずもない。アリバイ程度に適当に『摘まむ』ことはあっても、警察はレイシズムを護り、カウンターを排除する。今日も明日も一貫した、日本政府の態度である。日本の為政者にとって、朝鮮人は『利用し続ける』存在なのだ。差別が無くなると困るのだ。

そりゃ、差別は違法だと法律で定められるはずもない。為政者自らがレイシズムとズブズブなのだから。



私の息子は、明日から朝鮮初級学校の2年生だ。

程なく自分が朝鮮人であるという自覚が芽生え、同時に取り囲む地域が、社会が、自分らを『疎ましい存在』だと捉えていることに気づくだろう。

テレビで、ネットで、新聞で、朝鮮学校が排除されるニュースが、発し手から何の違和感や疑問点も呈されないまま次々と流れてくるのだ。

息子もバカではない。息子に「アッパ(父さん、の意)、なんで僕は朝鮮人なの?朝鮮学校は悪い学校なの?」と質問されたら、何と答えようか?

巧く応えられる自信が、全然無い。

ここ最近、陰鬱な気持ちを禁じ得ない。



(付記)

当該『通知』に関して、強い憤慨を示す記事を2点紹介する。



「きわめて政治的で差別的」/不当な文科省通知の撤回を ― 朝鮮学園理事長、朝鮮高級学校校長、生徒らが要求

朝鮮新報 2016.03.31 14:20

http://chosonsinbo.com/jp/2016/03/sk331-7/

(引用開始)

地方自治体から朝鮮学校に支給されている補助金について文科省が「留意」を求める通知を出したことに関連して、3月30日、全国朝鮮学園理事長、全国朝鮮高級学校校長会、朝鮮学校全国オモニ会連絡会代表たちと東京朝高に通う2人の生徒が文科省で、抗議と記者会見を行った。

これは3月29日に文科省が、朝鮮学校が設置されている北海道と1都2府24県の知事あてに文部科学大臣の名義で「朝鮮学校に係る補助金交付に関する留意点について」の通知を出したことに対して行われた。この通知書は、朝鮮学校と朝鮮民主主義人民共和国、総聯の関係性を指摘し、地方自治体に対し、「補助金の公益性と教育振興上の効果」に関する検討と、補助金の趣旨・目的に沿った「透明性」のある執行を求めたもの。

これに対し、朝鮮学校関係者側は記者会見で談話を発表。談話では、外交・安保問題と何ら関係のない朝鮮学校に対して、朝鮮や総聯との関係を問題視し、各地方自治体の判断に委ねられている補助金交付について「留意」を促す異例の通知を出したことは、きわめて政治的で差別的な措置だと非難した上で、これを撤回し、朝鮮高級学校生徒たちへの「就学支援金」制度適用除外などの朝鮮学校児童生徒たちへの差別的措置を直ちに廃止することを求めた。

昨年6月、自民党拉致問題対策本部は「対北朝鮮措置に関する要請」13項目の中で政府に対し、「朝鮮学校へ補助金を支出している地方公共団体に対し、公益性の有無を厳しく指導し、全面停止を強く指導・助言すること」を求めた。その後も、自民党を中心に見直しを求める声が上がっている。その中で、文科省は今回「異例」とも言える、補助金に対する初の通知を地方自治体に通達。記者会見では、政府の「政治的意図」に疑問を呈す発言が相次いだ。

東京朝高に通う男子生徒は「これまで例のない通知を政府が出したこと自体が、地方自治体に対する圧力であり、私たちにたいする弾圧ではないのか」とし、「政府の姿勢、メディアの報道方法一つで、僕たちをみる日本人の視線は変わる。僕たちを『制裁』の対象で見るのではなく、朝鮮学校で学ぶ一人ひとりの生徒として関心を持って、見てほしい」と訴えた。

「私たちの当たり前の高校生活をすべて否定された気持ちだ」と話すのは同校に通う女子生徒。春休みにもかかわらず、部活動を抜け、祖母との約束も断り、この記者会見の場に来ざるを得なかった。「朝鮮学校への進学を経済的理由によって、あきらめる友人たちがいる。そして人数の少ない中で運営する地方の学校にとって、補助金停止が及ぼす影響はどんなに大きいか。今回の通知は朝鮮学校を閉鎖しろと言っているのと同じ。私は、政府に、人間としての心を問いたい。これ以上、この社会の差別を政府が助長させないでほしい」と話した。

記者会見後、関係者らは文科省に強く抗議した。

「国際情勢が緊張したからといって、教育をつかさどる機関が、民族教育の環境を損ねるような判断を下していいのか」「この時期にこの通知が出たことを地方自治体は、マイナスに捉えるだろう。通知文には『子どもに与える影響にも十分に配慮しつつ』とあるが、それはカモフラージュにすぎない」「このような民族教育への差別が国際社会からの非難をあび、『就学支援金』制度からの朝鮮学校除外は国連から是正を求める勧告も出ている。事態の『異常性』をしっかりと認識してほしい」

このような訴えに対し、文科省職員は、一部のメディアによって、この通知が「事実上の自粛要請」であるかのような報道がされており、地方自治体からも問い合わせが続いていると述べた上で、「これは決して『自粛要請』ではない。そのような問い合わせに対しても、文科省としては、その立場をきちんと説明している」と弁解した。

(引用ここまで)



朝鮮学校に係わる補助金交付に関する留意点について(通知)」発出に対する事務局長見解

2016年3月31日 フォーラム平和・人権・環境(平和フォーラム)

http://www.peace-forum.com/seimei/20160331.html

(引用開始)

3月29日、文部科学省馳浩大臣名で「朝鮮学校に係る補助金交付に関する留意点について(通知)」を発出した。通知は、「朝鮮学校に係る補助金交付は、国は実施していないが、各地方公共団体においては法令に基づきその判断と責任で実施されている」と冒頭で説明している。馳大臣は、記者会見においても「権限は自治体側にあり、減額しろとかなくしてしまえとか言うものではない」と説明している。しかし、通知はさらに、「朝鮮学校は、北朝鮮と密接に関係する朝鮮総連が影響を及ぼしている」と指摘し、「補助金の公益性、教育振興上の効果を十分に検討し、適正かつ透明性のある執行を確保せよ」と指摘している。これまでも私学助成などでは不正な使途を問われた事例がいくつかあるが、地方自治体に対してこのような通知が発出されたことを知らない。行政法の専門家の中には、「事実上、補助金はやめなさいと言っているに等しい」との指摘もある。朝鮮学校において補助金の使途に不正が行われた事実はない。この時期に、朝鮮学校にだけ突然このような文科省の権限を越えた通知がなぜ発出されたのか、馳大臣は説明していない。

自民党は、拉致問題核実験を理由に、文科省補助金停止を要請してきた。国連からも指摘されているが、朝鮮学校に通う生徒の人権と外交上の問題とは一緒にすべきではない。北朝鮮への制裁措置が強化されているが、その一環としての行為だとしたら、人権への国際基準から言っても許されるべきではない。

朝鮮学校の生徒は、2013年4月以降、現政権によって高校授業料無償化措置から完全に外されている。以降金曜日には、子どもたちや保護者、学校関係者、支援団体などが文科省前で抗議行動を行ってきた。各県で、措置適用を求める訴訟も始まっている。国連人権委員会人種差別撤廃委員会からも、人権侵害との指摘が行われている。文科省がそのことを知らないはずはない。神奈川県は、朝鮮学校の授業内容は適正であるとして、保護者への学費の補助を実施している。今回の通知に対しても「国際情勢に振り回されず、学習環境を守るのは大事だ」との黒岩祐治知事の談話が伝えられている。これこそが、人権感覚と言うものだ。朝鮮学校に通う子どもたちは、政治に差別され翻弄されて傷ついてきた。そして朝鮮半島を故国とする者たちの民族教育は危機に瀕している。日本が、民主主義国家であり人権国家であるとするならば、民族教育の権利は守られるべきである。日本の戦前と戦後を通して、日本社会で生きざる得なかった歴史を持つ民族に対して、日本社会はどのようにその責任を果たしてきたというのか。

平和フォーラムは、各自治体がこの通知に左右されることなく、その判断と責任において適切に補助金を交付していくことを、日本社会の一員として強く望む。

(引用ここまで)