「転用」としての闘争──シチュアシオニストと68年(by木下誠)

 イマニュエル・ウォーラースティンは、1989年に刊行した『反システム運動』のなかで、世界各地で既存の社会総体への大規模な異議申し立ての運動が起きた1968年という年を、1848年に匹敵する「世界革命」の年としている。フランスの五月革命、ドイッの学生反乱、合衆国の学生運動とブラック・パワー の爆発、日本の全共闘運動、メキシコシティでの暴動、プラハの春──世界各地で自然発生的に反乱の生じた1968年は、短期問の熱狂のあとに敗北したにも関わらず、社会の深部において世界システムを根底から後戻りできないまでに変化させた。その点で、それはヨーロッパ全土のプロレタリアートによって戦われた1848年の革命に匹敵すると言うのである。1815年の王政復古神聖同盟による反革命に対する人民主権を求める闘いであった1848年の革命も、権力の獲得という点では1968年と同様に敗北したが、それを契機に個々の政治権力だけではなく文化・社会総体の変革をめざす世界的な運動が生まれた。それは、インターナショナルを中心とした国際的な共産主義社会運動と各地での民族運動という形で社会を根底から変えていった。この国際的なネットワークと地域・民族の文化の深みに根ざした運動との結合こそが、1871年のパリ・コミューンを経て、1917年のロシア革命を生み出す遠因となったのである。1848年の世界革命は1917年に結実した。1968年の世界革命は何に結実するか、また果たしてそれが何物かに結実するのかどうかさえわからないが、それがもたらした遺産として、ウォーラースティンは次の4点を挙げている。68年以降、第1に、それまでの世界政治の枠組みとしての東西関係が南北関係に乗り越えられ、「南」が米ソそれぞれの支配を脱し現出し始めていたこと、第2に、世代、ジェンダーエスニシティ(民族集団)というレヴェルでマイノリティが反乱を開始し、それらの運動が学生運動や知識人の運動よりもはるかに持続的な影響力を持ち続けていること、第3に、労働規律が崩壊し「資本機能遂行能力」が以来ずっと「退却中」であること、そして第4に、市民社会が全体として国家権力の保持者に従順でなくなり、「反国家」意識が広まっていること、である。
 そして彼は、これらの成果こそが、1990年代の現在の世界的変動を生み出した最も大きな動因であったとしている。資本システムと反資本システム双方の活動における国民国家の枠組みの崩壊、超国家的企業、国境を越える地下経済、非合法移民の大量の出現、イラクや旧ユーゴスラヴィア旧ソ連などでの民族主義とイランやアルジェリアなどイスラム世界での原理主義など「全面的異質性の権利」の登場、イラククウェート侵攻に見られる国際ルールの公然たる無視、これらはすべて1968年に始まり89年に終わった20年間にわたる戦後秩序の解体の試みの結果として生じたものだ。この20年間の試みは、合衆国による世界資本システムに対するヘゲモニーを弱める闘いであったと同時に、1945年以来、このシステムに反対する闘いの範例として機能しなくなったソ連と、世界システムのなかで「自力更正」という幻想的な国民国家を夢想した中国という2つの革命モデルを否定する闘いでもあったのである。68年から89年までの闘いは、核の均衡と東西ブロックという見せかけの下で世界システムの活動と歴史過程を宙づりにしていたこうした古いモデルの幻想を解体した。それは、世界システムと真に対時する闘いに向けた「大いなるリハーサル」だったのである。
 90年以降、われわれの前に現れた事態は、したがって「歴史の終焉」を記したのではなく、停止していた「歴史」を真に再開させたと言うべきだろう。今や、ウォーラースティンも言うように「リハーサル」は終わり「本番」が始まったのである。われわれは、この範例も重心もないばかりか、地域という概念も本質的に変化した世界──1989年の1年前にすでにドゥボールはそれを予見し、世界市場の発展によって、社会主義国の「集中的スペクタクル」と資本主義国の「拡散的スペクタクル」が1つになって、「統合的スペクタクル」が生まれると書いていた(『「スペクタクルの社会」に関する注釈』)──のなかで、徒手で資本システムに立ち向かわねばならない。ウォーラースティンはそこに現在の運動の困難をも希望をも見て取っている。そして旧左翼の幻想の最後のものが粉砕され、かえって運動を再構築できる条件が整った今、資本主義社会の世界的ネットワークに対抗しうる柔軟な闘争のネットワークの構築に現代の運動の可能性を見出しているようである。「世界規模で形成されるこの種の関係空間は、歴史的社会システムとしての資本主義社会生産システムに(これまでは)不可欠な要素であった、ある種の社会的諸関係のネットワーク(関係空間)に匹敵するものである。というのは、ほとんど完全にエレクトロニクス化しつつあるコミュニケーション手段により、どの「地方的」運動も等しく「中心的」な運動コミュニケーションであり、ネットワークのどの結節点でも、発信も受信も(たとえば電子掲示板システムにより)可能であるからである。どの「地方的」運動も同時に、他のどの運動とも、「中心」とも、コミュニケーションできるし、実際しばしばしているのである。このような関係網のなかでは組織行動の(組織的な)「中心」は、まさしく「同格のものの首席(primus inter pares)」となるのである。近代世界システムは、ますます世界大の規模をもち、超国家的な構造をもつ運動の場となる。こうして、運動にとって、国民的舞台は非常に多くの連結した闘争の場となり、その闘争は事実上世界大のものであるというだけではなく、活動家たちも、それを通例の用語で『グローバル』なものであるとますます考えるようになる。」
 ウォーラースティンのこの指摘を、エレクトロニクス万能の闘争技術の称揚と読んだり、個の領域に退却した闘争方法のすすめと読んだりするならば、それは68年の意味を全く取り違えたものにしかならないだろう。ここでの問題は、68年以降、運動のコミュニケーションが「中心」と「地方」、あるいは伝えるべき実体とその伝達という構図を廃棄して、関係性の中に基礎を置く、コミュニケーションそのものと化した運動となり、(それゆえ、この「コミュニケーション(Communication)」は「意思伝達」ではなく、「交通」と「連結」による「共同」行動と理解せねばならない)、新しい闘争の可能性を開くものとなったということである。だが、このことと、運動の構築のための具体的な「場」、資本主義の空間と時間を全く別様に組織化する「場」の構築を追求することは切り離しえない。この「場」は、深く身体に関わるものであり、個々の人問の日常生活から生き方そのものに変化を強いるものであったがゆえに、それぞれの「地方的」運動が直接他の「地方的」運動と連結し、世界(グローバル)化した資本主義に対する共同の闘争として現れざるをえなくなったのである。70年代イタリアのアウトノミアで誕生した自由ラジオは、どこよりもエルサルバドルの解放区で開花し、そこではソニーのカセットテープと簡単な通信手段を用いて、資本主義の文化と政治に抵抗する闘争が生み出されていった。この過程は、60年代以降ますます進行し、90年代の現在において、ますます自明のこととなっている。
 ところで、この90年代の現在の遠因である68年は、突然、生じたのだろうか。ウォーラースティンは、それは統一した綱領も組織もなく、パリで、東京で、プラハで、メキシコシティで、コロンビア大学で、自然発生的に燃え広がったと言っている。そして、それは資本主義システムの2つのモデル(合衆国とソ連)の疲労と欠陥が必然的に引き起こしたものととらえている。フランスに限っても、68年5月は、西側で最も模範的な発展を遂げた経済と、依然として古いままの社会(管理主義的な大学や職場の制度、商品の爆発と都市の開発に比してますます貧しくなっていく生活など)との間の軋礫に耐えきれなくなった者たちの直接的な異議申し立ての行動であった。そこでは、既存の左翼や新左翼党派とは無関係な無数の者たちが行動に参加し、次々と種々雑多な行動委員会を形成して工場や学校を占拠し、山猫ストを決定していった。それは誰かに指導された行動ではなく、互いが互いに促され次々と伝播していった自発的な行動の同時的発現だった。この自然発生性がなければ、総人口5千万のうち1千万もの者が参加した前代未聞のゼネストは起こり得なかっただろう。このことは誰もが指摘することである。だが、こうした自然発生的な運動の爆発をもたらしたこの時代の雰囲気、運動に加わったすべての者が共有したこの時代の無意識を、意識的に準備した者たちがいたこともまた事実である。この時代の無意識を組織し、漠然とした雰囲気に言葉を与えるために最も意識的に、最も早くから(それは米ソのスペクタクル的な世界分割の完成と「スペクタクル的=商品社会」が本格的に開始された1950年代に遡る)行動してきたのがシチュアシオニスト・インターナショナル(以下SI)である。以下、60年へのシチュアシオニストの実践的関わりを中心にシチュアシオニストが68年において直接的に果たした役割と、運動の表現あるいは闘争スタイルに広くもたらしたものついて述べることにする。

 68年の5月革命の直接の契機となった運動は、その年の3月に頂点に達したパリ大学ナンテール校での管理体制に対する運動であり、そこで生まれた占拠闘争がソルボンヌの占拠闘争に波及することによって、運動が一挙にフランス全土に拡大することになったことはよく知られている。そしてこの過程で、ナンテールの大学本部棟占拠をきっかけに結成された無党派の学生組織〈3月22日運動〉が、既存の組織に縛られない多くの学生を結集させ、運動を拡大するのに果たした役割は大きかった。だが、彼らの大衆運動に対して個々の戦術レヴェルから表現・思想のレヴェルまで大きな影響を与えたのが、3月以前にナンテールでゲリラ的に活動を行っていた<怒れる者たち(アンラジェ)>という集団であったことはこれまであまり触れられてこなかった。後にSIの正式メンバーになるルネ・リーゼルという髭とサングラスの学生を中心に、10数名のシチェアシオニストのシンバから成るこの集団が組織的に用いていた戦術──占拠という直接行動や、大学側のセレモニ卵爆弾やトマト爆弾、教室で教師にさまざまな質問を浴びせかけ授業という一方向的対話の場を直接対話の場に変える批判的介入の戦術から、コミック形式のビラ、ポスター、替え歌、落書きなどさまざまなメディアの利用──は、その当時のフランスでは新鮮な闘争戦術であり、68年を最も特徴づける闘争のスタイルとなった。それは彼ら以外の多くの学生たちにとっても、ナンテールで細々と活動していたトロツキストマオイスト新左翼にとっても、大学当局や進歩派とされていたアラン・トゥレーヌやルフェーヴル、モランらの社会学者(彼らの授業が直接対話の戦術の対象となることが最も多かった)にとっても驚きと反発をもたらした。68年5月の後でさまざまなところで運動についての社会学的意見を述べ、5月革命の解説者のようにふるまったトゥレーヌなどは、教室でこうした言葉の爆弾を投げかけられ、次のように発言したと言われている──「アナキストはもうたくさんだ! シチュアシオニストにはもっとうんざりだ! 今、ここを仕切っているのはこのわたしだ。いつか君たちがここを仕切るようになるのなら、こんな所は逃げ出して、労働というものが何であるか誰もが知っている場所に行くことにする」。ここでアナキストと呼ばれているのは『赤と黒』という雑誌を出し、社会学の学生としてトゥレーヌらに質問を投げかけていたダニエル・コーン=ベンディットのことである。後に<3月22日運動>の「顔」となるコーン=ベンディットは、こうした批判的介入の直接対話の戦術を、個人的に大学内でもフランス全学連の大会でも用いていたと言われるが、彼はそうしたやり方を<怒れる者たち>らを通してシチュアシオニストから学んだのである。先のトゥレーヌの発言が引用されているエルヴェ・アモンとパトリック・ロトマンの共著『世代』によれば、当時、ナンテールのコーン・ベンディットの周辺ではシチュアシオニストの2つの理論書、ドゥボールの『スペクタクルの社会』とラウル・ヴァネーゲムの『若者用処世術概論』が回し読みされ、シチュアシオニストの思想に貫かれたパンフレット『学生生活の貧困』が競って読まれていた。正式なタイトルを『経済的、心理的、性的、とりわけ知的側面から考察した学生生活の貧困、およびそのいくつかの治療法について』というこの短いパンフレットは、66年秋にストラスブールのフランス全学連(UNEF)支部の代議員に選出された学生たちがUNEFの資金を横領=転用して発行し、共産党が支配する組合組織の内側からの反乱の最初の狼煙として大きな注目を集めたが、その内容はパリのシチュアシオニスト、ムスタファ・ハヤティが書いたものである。『学生生活の貧困』は、数ヶ月の間に少なくとも3版、33万部以上出版され、回し読みや無断複製によって多くの学生に読まれ、5月革命の基調である管理社会と貧困な日常生活への根本的な異議申し立ての大きな理論的根拠として広がっていったのであった。
 資本主義社会の中間管理職となるべくあらかじめ決められた未来、それまでの移行期としての学生生活、体制への馴化としての教育、メディアが産み出す画一的な幸福のイメージ、未だ大人と見なされていない学生の欲望とりわけ性的欲望を抑圧する欺購的な体制、大量生産社会での資本の要請によって作られた虚構としての「若者」像、商品化された文化への接近とそれらによる差異化によってしか確認できない個人のアイデンティティ、体制に奉仕し、人々の管理につくす社会学サイバネティクス、心理学などの学問、流行の思想として次々と消費されるだけのアルチュセールサルトル、バルト、ルフェーヴル、レヴィ=ストロースらの「現代思想」、こうした貧しさを変革するのに全く無力な現代の既存左翼や新左翼──『学生生活の貧困』は、これらをすべて断罪するとともに、学生の疎外情況を本質的に解決するには、社会全体の変革という「祝祭」を行わねばならず、そのためには日常生活そのものの変革を「遊び」として、いま、ここから始めなければならないとして、次のように結んでいる。「疎外された現実によって押しつけられているあらゆる条件とあらゆる価値を根底的に批判し、それらを自由に再構築することは、その[=現代のプロレタリアートの]最大限の綱領である。そして、生のあらゆる瞬間とあらゆる出来事の構築において何からも自由になった創造性を発揮することが、それにとって認めうる唯一の詩である。その詩は、万人によって作られる詩であり、革命の祝祭の始まりである、プロレタリアートの革命は祝祭となろだろう、さもなくば存在しないだろう、なぜなら、それらの革命が告げ知らす生そのものが祝祭のしるしの下に創造されるからだ。遊びこそがこの祝祭の究極の理性である。死んだ時間なしに生きること、制限なしに楽しむことが、この遊びが認めうる唯一の規則である。」『学生生活の貧困』には、5月革命で異議申し立てにさらされたすべての問題が提出されていたといっても過言ではないが、ざらに、そこでその間題を解決するための「治療法」として提出されたものまでが68年5月を予告するものでもあった。それは、資本主義システムの進行と国家の機能を停止させ、「労働」を「遊び」に転換した文字どおりの「祝祭」だったのである。

 68年5月のソルボンヌ占拠運動で、シチュアシオニストは占拠の中軸となって活動した。このことは、フランス全学連や3月22日運動の記録集やトロツキストマオイストなどの新左翼党派の回顧録エドガール・モランアンリ・ルフェーヴルらの部外者の解説ではわずかしか触れられていないが、シチュアシオニストのルネ・ヴィエネの『占拠運動における<怒れる者たち>とシチュアシオニスト』や『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』誌 第12号の「1つの時代の始まり」を読めば、彼らがソルボンヌで果たした役割は5月革命にとって本質的であったことがわかる。シチュアシオニストは、占拠が開始されるとただちに<怒れる者たち>と最左派の集団<怒れる者たち−SI委員会>を結成し、占拠の要である<占拠委員会>、<占拠維持評議会>の中心メンバーとして活動したが、そこで彼らが主張したことは、闘争における徹底した直接民主主義の貫徹(具体的には、運動における代理制と指導−被指導の関係を産み出さぬよう、既存の党派による運動の懐柔を拒否して、すべての決定を総会に委ねることをあらゆる機会に主張した)であり、占拠運動を大学だけにとどめず工場、病院、公共機関へと拡大させることであった。そのために、ソルボンヌを「人民の大学」という実験場に改造し、「スペクタクル的、商品社会」を日常生活のレヴェルから転覆させるさまざまな行動を実践していったのである。占拠が始まって3日目の5月16日、彼らが「ソルボンヌ自治人民大学占拠委員会」の名で発した「あらゆる手段を用いて今、普及させるべき合い言葉」というビラを読めば、彼らの関心がどこにあったかがよくわかる。ソルボンヌで普及されるべき「合い言葉」、すなわちスローガンは次のようなものである。

  • すべての工場を占拠せよ
  • 労働者評議会に権力を
  • 階級社会の廃絶
  • スペクタクル的−商品社会を打倒せよ
  • 疎外の廃絶
  • 大学の終焉
  • 人類は、最後の官僚主義が最後の資本主義のはらわたとともに吊るされる日まで幸福にはなれないだろう
  • くたばれポリ公
  • 5月6日の略奪で逮捕された4名も解放せよ

 ここには日本の全共闘運動のスローガンと類似した「大学の終焉」(「大学解体」)や、東側の「最後の官僚主義」と西側の「最後の資本主義」の両方への攻撃などに加えて、シチュアシオニスト独自のスローガンとして「スペクタクル的、商品社会を打倒せよ」というものがある。シチュアシオニストにとって、世界政治から日常生活までのすべての人間活動がスペクタクル化された現代社会における問題は、マクロなレヴェルでの権力や政治システムの問題というよりもむしろ、その社会の日常的な支配装置としての大学や、日常生活のあらゆる細部において人間関係から個人の欲望までを支配している「スペクタクル」化の原理そのものの問題なのである。(『学生生活の貧困』は実際に、日本の「全学連」の「西側資本主義と東側の社会主義と呼ばれる官僚主義国」への同時批判を評価しているが、その組織形態の本質的に古典的な性格と2つのシステムの搾取構造を解明できていない点を批判し、「日常生活批判とスペクタクル批判」を行わねばならないと述べている)。シチュアシオニストがここで商品の「略奪」者を擁護するのは、「略奪」という行為こそ、現代のこの「スペクタクル的−商品社会」の生産と消費の欺瞞的な構造をあぱき、そのシステムを最も激しく、最も直接的に揺るがせるからに他ならない。シチュアシオニストは、5月革命に関わった他の集団と異なり、運動のなかに出現した「黒ジャンパー」と呼ばれる略奪者たちを高く評価し、また、1965年夏のロサンジェルスのワッツでの暴動でも、ハリウッドというスペクタクル生産装置の牙城での商品の略奪を讃えた(彼らはその時、「スペクタクル−商晶経済の衰退と崩壊」というパンフを全米で撒いている)が、それは、この「スペクタクル的−商品社会」においては、あらゆる個人に資本の欲望を自己の欲望と取り違えさせるスペクタクル的な「消費(consomation)」行為を「焼尽(consumation)」に転倒するそうした「犯罪」行為こそが、システムを日常生活の場そのものにおいて切断するすぐれて革命酌な行為だからである。

 ところで、こうした「スペクタクル」的社会を転覆する活動が、それ自体「スペクタクル」的なものであってはならない。「スペクタクルの社会」というものは、それに反対する行為をも自らの養分とするからである。あるいはむしろ、そうした反抗の身ぶりこそが、「スペクタクルの社会」にとって最も魅力的なスペクタクルとなりうるだろう。「どれほどラディカルな行為でも、イデオロギーが取り込もうとしないような行為はない」のである。それゆえ、彼らが最も意を注いだのは、このスペクタクルの社会に対抗する運動の組織形態の問題であり、さらに、その運動の表現手段の問題であった。そして、この2つの点において、シチュアシオニストは68年以降の世界に最も独自の「遺産」をもたらした。
 組織形態の問題として、彼らは、第1に、スペクタクルの社会のなかでもう1つのスペクタクルにすぎない党というものを批判し、中央と地方、本部と支部といった党的な中央集権性を拒んだ(それゆえSIは、時代によって変遷はあるが、各国セクションの連合体か単一の世界組織のどちらかの形態をとった)。それと同時に、メンバー間でのあらゆる役割の分割と固定化を拒んだ。この役割の分割の拒否は、指導と被指導といった関係だけでなく、理論と実践、政治や芸術といったカテゴリーそのものにまで及んだが、それは彼らが「政治」も「芸術」も現代社会における人間活動の「分離」──専門化と細分化──がもたらしたものであり、それらはスペクタクル化された社会のなかでもっとも疎外されたジャンルだからである。彼らはメンバーの全員に対して、そうした「分離」を乗り越える全体的で実験的な活動を厳格に要求し、それを怠ったり逸脱したりする者に対しては除名という手段を行使することをためらわなかった。とりわけそれは、SIの創設期からのメンバーである元コブラの芸術家たちや、後にSIに加わったドイツの<シュプール>派など、結局のところ「芸術作品」を指向して「芸術」の領域での個人的名声を求めたり、「教会」の建築などの体制側のプロジェクトに協力した者に対して厳しかった。こうした者たちは、シチュアシオニストにとって「政治」も「芸術」も乗り越えるべき対象であり、それらはともにスペクタクルの社会を破壊する「状況」の構築のなかでしか存在しえないということを理解しなかったのである。
 第2に、こうした強い共通認識を持った集団として、シチュアシオニストはヨーロッパを中心とした様々な場所で活動したが、彼らは党でない以上、党員の獲得という古い運動形態は取らなかった。60年代末期にシチュアシオニストを自認する者たちが大量に生まれ、シチュアシオニストという名称が普通名詞となるような情況が生まれたが、実際のSIのメンバーは極めて少数であった。ジャン=ジャック・ラスポーとジャン=ピエール・ヴォワイエの『シチュアシオニスト・インターナショナル──主役/年代記/書誌(付・侮辱を受けた固有名詞一覧)』の挙げている数字では、シチュアシオニストを自認したりメンバーになろうとした者は68年5月直後までに数百人、それ以降72年のSIの解散までに数千人に達したのに対し、SIの正式メンバーは69年12月までに一時期の最高で30名、57年からのトータルで70名(うち女性は7名)、セクション別ではフランス16名、ドイツ11名、イタリア11名、スカンディナヴィア7名、ベルギー6名、オランダ5名、合衆国4名、イギリス4名、アルジェリア2名、無所属4名であり、メンバーの国籍別ではフランス人一13名、ドイツ人11名、イタリア人9名、オランダ人7名、イギリス人6名、ベルギー人5名、デンマーク人4名、スウェーデン人4名、アメリカ人3名、アルジェリア人2名、コンゴ人、ハンガリー人、イスラエル人、ルーマニア人、チュニジア人、ベネズエラ人がそれぞれ1名である。
 そして第3に、SIはこうした少数者集団として機敏に国境を越えて行動したが、どこにおいても彼らは大衆運動の組織者として振る舞いはしなかった。SIは、運動のないところでは批判的介入という直接行動によって状況の構築をめざし、運動が拡大し、状況が構築されたところでは自分たちの理論を伝達することに徹し、それを指導することはしなかった。66年から67年にかけての「ストラスブールのスキャンダル」から68年初めのナンテールの闘争まで、そして5月のソルボンヌの闘争へのプロセスにおいてSIが果たした役割は、そうしたSIの組織と運動の性格をよく表している。彼らはフランス全学連(UNEF)の支配を終わらせるための理論を求めて彼らの所を訪れたストラスブールの学生たちに『学生生活の貧困』という「未知の理論」を伝え、ナンテールではすでにその理論を身につけていた〈怒れる者たち〉が主体となって運動を巻き起こしていった。ソルボンヌでは、SIははじめて自分たちが10年来主張してきた「状況」の大規模な構築の場に出くわして、その場に姿を現し、実戦に参加したが、彼らがそこで行ったことは、大衆的に獲得されたその成果を「人民の大学」と工場占拠へとさらに拡大させるためのプロパガンダであり、UNEFや新左翼党派による内部からの闘争の懐柔の試み(具体的には、総会の引き回し、最高決定機関としての総会の無視、各委員会の役割の固定化、闘争のサボタージュ)に抗して警告を発し続けることであった。
 ところで、先に引用した彼らの「普及させるべき合い言葉」のビラには、その「あらゆる手段」の例として次のように書いてあった「ビラ・パンフレット、マイク放送、コミック、替え歌、壁への落書き、ソルボンヌのすべての絵画への漫画風の吹き出し、映画教室で上映中に、もしくは上映を停止させて叫ぶこと、メトロの広告への吹き出し、愛を交わす前に、交わした後に、エレヴェーターのなかで、飲み屋で酒を飲む度に」。実際、彼らは、「大学の終焉」、「階級社会の廃絶」、「工場の占拠」などの文字が大きく印刷されたポスターや、エロティックな広告を転用したポスター(その1つは、両手で乳房を押さえた裸の女性が「あーーーー!!! シチュアチオニスト・インターナショナル!!!」と叫ぶ絵に、「人から許可された快楽を、社会的拘束を破りあらゆる法を覆すことの計り知れない魅惑とよりいっそうの魅惑とを結びつける快楽と比べることができるだろうか」という、おそらくヴァネーゲムの言葉の引用からなるコメントが付けられたものである)を構内のいたるところに貼り、既存のコミックの吹き出しのなかの台詞だけを変えたコミック形式のビラ(台詞の内容は、『スペクタクルの社会』、『若者用処世術概論』といったシチュアシオニストの本から、その時その時の情勢まで)を撒き、館内放送を使ってのアピールを流し、ジャーナリスト行動委員会のサボタージュによって放送の電源が切られた後は、拡声器、電話、電報などあらゆるメディアを用い、フランス内外のSIの独自のネットワークを使ってその活動を続けた。また、この呼びかけに応え、たとえばソルボンヌの学者らをアテナイ風に描いた絵には「人類は、最後の官僚主義が最後の資本主義のはらわたとともに吊るされる日まで幸福にはなれないだろう」という漫画風の吹き出しが書き込まれ、ソルボンヌの礼拝堂の人り口には「革命を半分しか行わない者は墓を掘っているだけだ。礼拝堂の陰で自由に考えることがどうしてできようか?」、階段下のの円形ホールには「わたしの欲望を現実のものと見なしてくれ、なぜならわたしはわたしの欲望の現実生を信じているからだ」などの落書きが次々と書かれた。
 68年5月に、ナンテールやソルボンヌ、またパリの街頭の壁に大量に書かれた落書きは、この闘争の新しさを表すものとして様々に論じられてきた(表現の解放、欲望の解放、万人による詩、など)が、その多くがシチュアシオニストのものであり、あるいは彼らの長年の意識的な活動に促されたものであることを見誤ってはならない。「見せ物的商品社会を打倒せよ!」、「決して労働するな」、「退屈は反革命だ」、「君たちの欲望を現実と見なせ」、「消費すればするほど、君たちの生は少なくなる」、「死んだ時間なしに生きること、制限なしに楽しむこと」、「幸福は買うものではなく盗むものだ」、「組合は淫売屋で、 UNEF[共産党系のフランス全学連]は淫売である」、「ゴダール、一番まぬけな中国派スイス人!」これらはすべてシチュアシオニストが68年のずっと以前から伝えてきた言葉、あるいはその転用だったである。

 この最後の落書きの例は1967年10月に発行された『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』第11号に掲載されたルネ・ヴィエネの「シチュアシオニストと、政治および芸術に反対する新しい行動形態」というタイトルの論文に出てくる「ゴダール、1番有名な中国派スイス人」(傍点は筆者)という文を転用したものであるが、ヴィエネのこの論文自体が、運動のなかでシチュアシオニストが用いるべき表現手段としての「転用」という方法を論じたものであった。彼は、現代のスペクタクルの社会に対抗する実践がスペクタクルに回収されないための手段として、スペクタクルのメディアそのものを転用して用いる意義を積極的に評価する。そして、ポルノ写真や広告写真のフォトロマン的転用、アマチュア無線・海賊ラジオ・偽新聞などを使ったマスメディアに対するゲリラ行動、シチュアシオニストのコミック、シチュアシオニストの映画、という4つのやり方を提唱している。フォトロマン的転用は、スペクタクル社会による欲望の組織化として最も本質的な性の商品化と商品のフェティシズム化の装置の「転用」によってそれらの仕組みを暴露しつつ、それらを体制転覆の道具として用いることであり、マスメディアヘのゲリラ的行動は、現代のスペクタクル社会の日常的な教育装置でもあり本質的な商品でもある様々なメディアに直接的に非合法に介入し、それを転倒する。シチュアシオニストのコミックの転用は、ポップアートの対極にある。アンディ・ウォーホルリキテンシュタインらのポップアートがコミックを切り刻んで物神化し、それを「芸術作品」というもう1つの商品にするのに対して、シチュアシオニストは、コミックの全体をそのまま用いて台詞だけを変えることにより、「今世紀の真に大衆的な唯一の文学」でありながらスペクタクルに奉仕させられている漫画にその「真の偉大さ」を返してやる。シチュアシオニストの映画もまた、スペクタクルの社会に取り込まれてしまった映画を解放する試みである。今世紀の最も実験的媒体であった映画芸術は、誕生から4分の3世紀を経て、レトリストの映画によってその実験のサイクルを閉じ、後は新しい試みはなされず、スペクタクル的商品の典型になり果ててしまった。観客に1つの物語を押しつけることによって、馴致の道具、消費される商品、受動的観客化の経験の場、擬似的な生の体験の場となってしまった映画を組み換えて、既存の映画の断片やニュース・フィルム、広告映像、文字などを用いた断片としての映画、反物語としての映画、音と映像の切断による対話の映画、討論の場としての映画、反スペクタクルとしての映画に変えなければならない。
 ヴィエネはそうした映画は文字による表現を深化させ、「現在を歴史的問題として研究し、物象化のプロセスを解体させること」に大きく貢献しうるとし、その具体例として、映画による『スペクタクル的−商品経済の衰退と崩壊』や『ドイツ・イテオロギー』を作る必要を主張している。
 ヴィエネがここで提唱している「転用」による表現手段は、実際はどれもシチュアシオニストがそれまでの活動において用いてきたものである。ヴィエネはそれらを整理したにすぎない。ドゥボールの映画『サドのための叫び』(52年)や『比較的短い時間単位内での何人かの人物の通過について』(59年)、『分離の批判』(61年)は、スペクタクルの社会を批判するそうした「転用」の映画であり、観客を椅子からひきはがし討論に引きずり込む対話の映画であった。また、1963年、第三次世界大戦を想定してイギリス政府が建設していた地域核シェルターの計画の暴露に端を発して反核運動が広がった時に、デンマーク反核デモを組織したV・J・マルティンは、イギリス政府の機密情報を暴露した「平和のためのスパイ」の署名のある文書『危険! オフィシャル・シークレット、RSG6』(「RSG6」は政府地域シェルター6号の略)の複製を配布したが、それにはポップアートを転用し、核戦争勃発後の世界の状態を描いた地図「熱核反応地図」が付されてあった(このパンフレットには、ドゥボールの書いた「シチュアシオニストと、政治および芸術における新しい行動形態」(下線筆者)も収められていた)。マルティンはこれ以外にも、フランコ政権下のスペインで「国家転覆コミック」というポルノ写真を転用したパンフレットを配布したりして、様々な「政治」的な活動に「転用」を利用している。吉川勇一氏は『検証[昭和の思想]V 思想としての運動体験』(池田浩士・天野恵一共編、社会評論社)に収められた「べ平連──国境を越える運動」のなかで、「平和のためのスパイ」の行動を、国家機密を敵対する相手国にではなく、「国を単位とする秘密の存在を否定し」て万人に公表した点で画期的な意味を持つと述べている。シチュアシオニストの「転用」もまたそうした「秘密」に基づくスペクタクルの社会の「政治」を解体する活動につながるものである。

 68年には、大学や工場の占拠や街頭でのバリケードによって都市の空間そのものが「転用」され、交通機関の切断による別の交通の回路が作られ、マスメディアの一方的なコミュニケーションとは異なる対話のコミュニケーションがあちこちに生まれ、スペクタクルの権力が統御できない突飛なネットワークが増殖していった。バリケードと占拠によって転用され、対抗メディアによって組み替えられたこの都市空問のなかで、「政治」と「芸術」がともに乗り越えらた真に「状況の構築」と呼ぶにふさわしいものが産み出されたのである。それこそシチュアシオニストが表現のレヴェルから、都市全体のレヴェルまでの「転用」という考えによって、1950年ごろから構想していたことに他ならない。50年代半ば、レトリスト・インターナショナルの時代のドゥボールは、本書にも収められたジル・ヴォルマンとの共同論文「転用の使用法」で、「転用」という手段が文学や映画などの表現のレヴェルから都市の環境のレヴェルまで、さらには風俗や習慣のレヴェル──彼はそれを「超−転用」と呼ぶ──へと拡大されることによって「転用」が「状況の構築」と結びつく可能性を構想していた。彼らはその後、転用の手段を用いた「作品」(コンスタントの都市計画「ニューバビロン」、ヨルンの「転用絵画」、ピノガッリツィオの「工業絵画」、転用で成り立つドゥボールの数々の映画や書物、心理地理学的地図、ジル・ヴォルマンのメタグラフィ……)を具体的に作ると同時に、都市空間のネットワークの裂け目、そのアーティキュレーションの弱点を調べるために「漂流」と「心理地理学」の方法によってパリやアムステルダムなどの街をくまなく探求しながら、記念碑や墓地、地下鉄、公園、博物館、教会などの都市のスペクタクル装置や交通の様々な転用の可能性を追求していった。68年の「状況の構築」はこうした活動の延長線上に生まれたのである。
 ところで、<シチュアシオニスト・インターナショナル>の組織そのものもまた、こうした「転用」の技術の成果である。リシャール・ゴンバンは1971年、SIの解体過程のさなかに書いた『新左翼(ゴーシスム)の起源』のなかで、SIを頂点とする60年代の評議会運動組織を「千年王国」運動を指導した騎士集団になぞらえている。この中世末期の騎士団は、産業社会の誕生時に、時代の進行にさからって、「遊びと労働の分離、私生活と公的・専門的生活の分離がまだなかった時代」を追い求めた凝縮力の強い集団であったが、ゴーシスムもまた、60年代の高度資本主義の爆発的発展の時期に、過去に遡って生の全体性を回復しようと試みた一種のユートピア運動だったと、彼は言う。しかし、SIの「現代技術=芸術の最前線を去らない意志」や「発明」への強い志向、要するに「技術」の問題に対するその独自のスタンス──SIは技術を破棄するのではなく、それを転用し、スペクタクルの社会を破壊する武器として用いる──を考えるならば、SIを千年王国を求めたユートピア運動とみるのは誤りであろう。ドゥボール自身が追求したのはむしろ、芸術的犯罪者としてのラスネールや、犯罪の技術の工作者集団としてのサドの「犯罪友の会」のような集団だった。『イン・ジルム・イムス・ノクテ(……)』に語られる大戦直後のパリに漂流する犯罪者たちの集団………ドゥボールはそこで成長し、多くの仲間の死を見てきた………、それこそがシチュアシオニスト・インターナショナルの起源にあったものである。国境を越えた亡命者や難民、都市の下層階級などからなる彼らは、戦後の混乱と米ソの世界分割の形成途上にあって、権力にも公式の左翼にも見えない、あるいはその視線をはねつける集団であり、公式の「歴史」の時間進行にあらがう集団だが、かといって俗流ロマン主義的な意味で退行的な者たちの集まりだったのではない。彼らのまわりでは、時間がねじれ、直線的な歴史の時間を越えて全く新しい結びつきが可能になるような状況が生まれていったのである(ドゥボールは、レトリスト・インターナショナルの時代にもシチュアシオニスト・インターナショナルの時代にも、それを「状況の構築」に活用するために組織的に追求した)。そこではちょうど、『イン・ジルム・ノクテ/エト.コンスミムール・イグニ [In Girumu Imus Nocte Et Consumimur Igni われわれは夜にさまよい歩こう、そしてすべてが火で焼き尽くされんことを]』という回文のタイトルのように、秩序の時間が停止する「夜」に、明証な戦後秩序もスペクタクル化された「消費(Consommation)」社会もすべてを「焼き尽くす(Consumation)」火が燃え、「旋回」する時間のなかで、歴史の別の「連結(Communication)」を生み出しては消えていった。シチュアシオニストの「転用」の根源には、そうした「火」で焼き尽くす行為、まさに「ポトラッチ」──それはレトリスト・インターナショナルの機関誌の名でもある──と呼ばれる破壊的経済、「経済」活動の原理であると同時に、それを破壊に導く遊戯的行為があったことを忘れてはならない。(シチュアシオニストの「転用」を、「芸術」──過激なゴダール、パンク・ムーヴメントの先駆、シミュレーショニズムや「公共芸術」の発想源、などなどの文脈からのみ読む読み方が、グリル・マーカスの『リップスティック・トレーシーズ』を先頭として英語圏の者たちからなされているが、それは支配社会の「芸術」と「文化」のなかにシチュアシオニストを回収する動きと紙一重である。むしろ、「犯罪」としての「転用」──スペクタクル社会の「文化」と「芸術」を焼き尽くし、支配社会の最先端の「技術」を横領[=転用]してその社会を解体する「芸術」的行為としての「犯罪」──の観点から、シチュアシオニストを見直さなければならない。現代社会においては、「犯罪」こそが最も優れたスペクタクルであるということに留意しつつ、それでもSIを「芸術」のなかに閉じこめる策動に終止符を打つためにこの観点は必要である。)
 彼らは最初からこうした本質的にいかがわしい集団として姿を現した。このいかがわしさを、その後もSIは一貫してその身に担っていくが、それは芸術運動と政治運動両方の否定、「作品」と「芸術家」の拒否、形あるものを何も生み出さないSIの活動形態にもまして、彼らの組織論そのものが、歴史上のさまざまな試みを組替えた「転用」の技術によって成り立っていたことから来ている。SIが60年代に入って、<社会主義か野蛮か>グループなどとの接触のなかでその組織論の前面に押し出していった「評議会」運動の理論と言葉も、そうした転用の例として理解しなければならない。SIは「評議会」という語を使いながらも、ロシア革命の初期の評議会、ドイツの20年代と30年代の評議会などを自由に転用し、それらを全く新たに組み替えて用いた。SIの評議会は、代理(ルプザンタシオン)に支配されたスペクタクル社会の統一的批判として徹底した直接民主主義を実行する母体という以上に、労働と遊び、芸術活動と日常生活、生の舞台装置としての統一的都市計画の実行の場、さらには、それらを通しての「新しい欲望」を創出する実験社会の場として考えられていた。この具体的な「場」を、彼らは「状況」と呼んだ。支配社会の最先端の技術と思想を転用し、アレンジし直す闘争の場、「転用」としての闘争の場を「構築」すること、それは解体と構築が一つの同じ過程であるような終わりなき脱構築のプロセスであるだろう。
 シチュアシオニストが50年代から行っていた「スペクタクルの社会」への実践的批判は、ある意味では、68年にチュニジアで勉強していたフーコーなどが5月革命に触発されて発想した「ミクロの権力」というものの日常レヴェル発言を暴露する活動でもあった。しかし「ミクロの権力」という概念が、その発明者の意図はどうであれ、ともすれば支配権力の問題を回避するものとなる(合衆国や、とりわけ「ニューアカデミズム」以降の日本で)危険性を持つのに対して、「スペクタクル」という概念装置は、日常生活というミクロな権力関係と世界政治のマクロな権力関係を同一のものとしてとらえ、それらを同じレヴェルで批判する装置となりえたからこそ、68年の爆発に結びついたのである。核シェルターの建設とヌーヴェル・ヴァーグの陳腐さ、新聞の三面記事と構造主義の犯罪性、ルフェーヴルによるシチュアシオニストの劉窃、アルジェリア戦争と都市の漂流の記録、「余暇」の商品としてのビートルズ第三世界の革命運動、キリスト教会によるスペクタクルとヴァカンス中の青年の警察による組織化、サルトルポップアート、地中海クラブとゴダール、自殺の実況録音と精神分析文革と偽シチュアシオニストの出現、68年のナント・コミューンの報告と労働組合員としてのエディンバラ公、自己破壊する機械の販売と眼鏡テレビによる労働粗合の遠隔会議──『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』誌に掲載された一見雑多なこれらの記事は「スペクタクル」の社会のミクロな現れとマクロな現れを同ーのレヴェルでとらえ、それらの関係を意識化するすぐれた武器となった。90年代の現在、マクロな権力だけを問題とすることは、運動にとって致命的な阻害要因にしかならないことは言うまでもないが、シチュアシオニストが追求したミクロな権力とマクロの権力との関係のなかでそれを実践的に批判するという統一的な態度は決して手放してはならないだろう。それは、個々のシチュアシオニストの手法のあれこれを、その批判装置としての意味を捨象して、現代的な衣のもとに模倣することでは絶対にない。そのような試みは、シチュアシオニストをもまた「スペクタクル」として消費することに結びつく。むしろ「シチュアシオニスト」なしで、われわれの時代を統一的に批判する戦略を発明することこそが、60年代にシチュアシオニストが行った活動を真に継続することになるのではないだろうか。