2つの地域戦争

訳者改題

 イスラエル・アラブ戦争は、ヴェトナム戦争への抗議という大々的なスペクタクルを分かち合った左翼の良心に対して現代史が仕掛けた、たちの悪い企みであった。FNL〔南ヴェトナム解放戦線〕のうちにアメリカ帝国主義に刃向かう「社会主義革命」の体現者を見出していた虚偽意識は、イスラエルとナセル*1〔エジプト大統領〕のどちらが正しいかを決めなければならなくなったとき、わけが分からなくなって、乗り越えがたい矛盾に陥ることしかできなかった。それでもその虚偽意識は、荒唐無稽な論争を通して、どちらかが絶対に正しいとか、さらには、両者の展望のうちのこれこれが革命的だとか、主張することをやめなかった。
 それはすなわち、革命闘争は、低開発地帯に移入されることによって、二重の疎外の対象となった、ということである。つまり、一方では、敵に回して闘うことなどできないほど過剰発展した資本主義に直面しての左翼の疎外であり、また他方では、歪められた革命の残滓を受け継ぎ、その欠陥を甘受しなければならなかった被植民地国の勤労大衆の疎外である。ヨーロッパにおける革命運動の不在は、左翼を極端に単純化してしまった。すなわち、左翼は、植民地の被搾取者が支配者に刃向かって武器をとるたびごとにうっとりとし、そこに革命の極み(ネック・ブルス・ウルトラ)を見ずにはいられない、見物人の群衆なのである。同様に、対自的な階級としてのプロレタリアートの政治生活の不在は(われわれにとってプロレタリアートは革命的であるか、さもなければ無だ)、左翼が徳なき世界における徳の騎士になることを可能にした。しかし、左翼が「世界の秩序」が自分の善意と対立しているといって嘆き悲しんだり、その秩序に対抗する貧しい憧れを抱き続けたりするとき、左翼は、実際には、自らの本質としてその秩序に結びついているのである。そして、その秩序が左翼から奪われたり、左翼が自らその秩序から出ていったりするならば、左翼はすべてを失う。ヨーロッパの左翼は、非常に貧弱なので、ちょうど砂漠の旅人がわずか1滴の水を切望するように、元気をつけるために抽象的な反論のささやかな気持ちだけを切望するようである。左翼がいとも簡単に満足してしまうことから、その貧窮の大きさが推し量られる。プロレタリアがこの世界にとってよそ者(エトランジェ)であるように、左翼は歴史にとってよそ者である。虚偽意識は左翼の自然状態であり、スペクタクルは左翼の構成要素、諸体系間の見かけの対立は左翼の普遍的基準である。紛争があるところではいつでもどこでも、悪と闘うのは善であり、「絶対的な革命」対「絶対的な反動」なのである。
 見物人意識がよそ者大義に賛同することはやはり不合理であり、左翼の徳義心からの抗議は、その罪状のもつれにはまりこむ。フランスにおける数々の「ヴェトナム委員会」の大部分は「六日戦争」*2の間に粉々に解体し、米国では、ヴェトナム戦争に抵抗するグループの一部もまた、自らの真実を知った。「ヴェトナム人に味方しながら、それと同時に、皆殺しの危機に瀕したユダヤ人に反対することはできない」と、一方の人々が叫ぶ。「ヴェトナムのアメリカ人と闘いながら、彼らの味方であるシオニスト侵略者を支持することができるのか」と、他方の人々が言い返す。そして人々は空疎な議論にうつつを抜かす……。サルトルはそこから立ち直れなかった。現に、そのご立派な人々は皆、自分たちが糾弾しているものと実際に闘っていないし、それに。自分たちが何に賛成しているのか、知らないのである。アメリカの戦争に対する彼らの反対は、ほとんどつねに、ヴェトコン〔南ヴェトナム解放民族戦線〕への無条件の支持とごっちゃになっているのだが、いずれにせよ、誰にとってもそのような反対は見せ物(スペクタクル)的である。かつてスペインのファシズムに本当に反対した人は、それと闘いに行ったものである。「ヤンキー帝国主義」と闘うために出発した人はまだいない。陳列された空飛ぶ絨毯はどれでも、空しい参加の消費者のよりどりみどりだ。例えば、反米のスターリン−ドゴール主義的なナショナリズム(ハンフリー*3アメリカ副大統領〕の訪問は、フランス共産党がまだ残っている信奉者とともにデモをした唯一の機会だった)、「クーリエ・ヴェトナミアン〔ヴェトナム通信〕」やホー・チーミンの国家を宣伝するパンフレットの販売、はたまた平和主義者のデモ。プロヴォ*4も(その解散の前に)、ベルリンの学生たちも、反帝国主義「行動」のこの狭い枠を越えられなかった。
 アメリカにおける反戦は、最初からもっと真剣である。というのも現実の敵と向かい合っているからである。しかしながら一部の若者にとっては、それは、見かけの敵と現実の敵の機械的同一視を意味している。このことは、すでに最悪の愚鈍化と欺瞞を被っている労働者階級の混乱を深め、労働者階級を「反動的」な精神状能──それは労働者階級を批判する口実になっている──に保つのに貢献している。
 ゲバラ批判は、われわれにはより重要だと思われる。というのもそれは、本物の闘争に根付いてはいるものの、欠点を抱えているからである。チエ〔・ゲバラ〕という人物は、確かに、われわれの時代の最後の首尾一貫したレーニン主義者の1人である。しかしながら、エピメニデス*5のように、彼は、この半世紀の間眠っていたので、まだ「進歩主義陣営」があるが、不思議にもそれは機能していないと信じているようである。この官僚主義的で夢想的な革命家は、帝国主義のうちに、社会主義的な社会──たとえ欠点があるにしても──と闘っている資本主義の最高段階しか見て取っていない。
 不名誉にも広く知れわたっているソ連の欠陥は、ますます「自然」であるように見えてきた。中国はといえば、公式発表によれば、中国は「反米の北ヴェトナムを支援する(〔ISの注〕香港の労働者を支援できないので)ために、国をあげてのあらゆる犠牲に同意する用意があり、また中国は、帝国主義と闘っているヴェトナム人民にとって、最も堅固で最も確かな後衛となっている」。実際には、ヴェトナム人が最後の1人まで殺されても、毛沢東官僚主義的な中国は無傷のままだろうと、思っていない人はいない(「イズヅェスチヤ」紙によれば、中国と米国は相互不干渉協定を結んだらしい)。
 有徳の左翼の善悪二元論的な意識も、官僚主義も、現在の世界の奥底にある統一性を見ることができないでいる。弁証法は、彼らの共通の敵だ。革命的批判はといえば、それは、善悪の彼岸で始まる。それは歴史に根付いていて、現在の世界全体を活動の場とする。それは、いかなる場合にも、戦争当事国家に称賛の拍手を送ることはないし、形成途上の搾取国家の官僚主義を支持することもない。それは、何よりもまず、現在の紛争をその歴史に結びつけることによって、紛争の真実を明らかにしなければならないし、また、公式に敵対している勢力の隠された目的を暴かなければならない。批判という武器は、武器による批判への序曲となる。
 ブルジョワの嘘と官僚主義の嘘の平和共存は、結局、両者の対立という嘘に優先することになった。すなわち、恐怖の均衡は、キューバで1962年、ロシアの敗走のときに破れたのである。以来、アメリカ帝国主義は、押すも押されぬ世界の支配者である。そしてそれは、侵略によってしか世界の支配者でいることができない。というのも、アメリカ帝国主義が、より簡単にロシア・中国モデルの方へ転じてしまう相続権なき〔=植民地化された〕人々に少しでも愛着をもつ可能性など、全くないからである。国家資本主義は、植民地化された社会の自然な傾向であり、そこでは通例、国家が階級──この語の歴史的な意味で──に先立って形成される。アメリカ帝国主義の資本と商品を世界市場から排除することはまさしく、アメリカの有産階級とその自由企業経済を圧迫する致命的な脅威である。そしてまた、それはその侵略の苛烈さの鍵でもある。
 1929年の大恐慌以後、市場のメカニズムへの国家の介入は、しだいにあからさまになっている。国家の大がかりな出費がなければ、経済はもはや正常に機能できない。『そして国家は、非商業的な生産全体(とりわけ軍事産業による生産)の主要な「消費者」である、そうであっても、依然として経済は不況に陥っていて、つねに民間産業部門を犠牲にして公共産業部門を拡大する必要があることに変わりはない。冷酷な論理が、体制をますます国家に管理された資本主義の方へ押しやり、深刻な社会的紛争を生み出している。
 アメリカの体制の深刻な危機、それは、社会的規模で十分に利益を生み出すことができないということである。それゆえ、国内でできないことを、国外で成し遂げる必要がある。すなわち、現存する資本の総体に比例して利益の総体を増加させる必要がある。多かれ少なかれ国家も所有している有産階級は、この途方もない夢を実現するために、自らの帝国主義的な企てに期待する。その階級にとって、国家資本主義は、共産主義と同じく、死を意味する。そういうわけで、その階級は本質的に、そこにいかなる差異も見出すことができないのである。
「戦時経済」としての独占経済の人工的な働きによって、今のところ支配階級の政治は、労働者からの好意的な支持を確実に得ている。労働者牡完全雇用と華々しい(スペクタキュレール)豊かさを享受しているからだ。「現在、国防に関係する仕事に充てられた労働力の比率は、アメリカの全労働力の5.2パーセントを占めている。対して2年前は3.9パーセントだった(中略)。国防の領域における民間人雇用数は、2年間でおよそ300万人から410万人になった。」(「ル・モンド」紙、67年9月17日付)。当面、市場資本主義は、領土の掌握を拡大すれば、非利益生産の増大する必要を相殺しうる加速度的発展を達成できるだろうと、漠然と感じている。「自由」世界のうちでもしばしば最低の利害関係しかない地域(1959年、南ヴェトナムヘのアメリカの投資は5千万ドルを超えなかった)を執拗に防衛しているのは何故かといえば、長期的には、合州国に市場だけでなく世界の大部分の生産手段を独占的に掌握することをも保証することによって、軍事費を単なる開発経費にうまく転換できると考える戦略に拠っているからである。しかしすべてがその計画を妨げる。一方では、民間資本主義の内部矛盾がある。すなわち、個別的な利害が、有産階級総体のこの一般的な利害と全面的に対立する。国家の発注で短期的に豊かになるグループもあれば(その筆頭は武器メーカー)、世界の先進部分──特に、飽和状態のアメリカよりもますます収益性の高まっているヨーロッパ──への投資の代わりに、労働力は安いが生産性が非常に低い低開発国に投資することを嫌う独占企業もある。他方では、その計画は、恵まれない〔=相続権を奪われた〕大衆の直接的利害と衝突する。彼らの最初の運動とは、米国に何らかの進出を保証することのできる唯一の階層である、その国の搾取階層を排除することにほかならない。
 アメリ国務省の「経済成長」の専門家ロストー*6によれば、ヴェトナムは今のところ、その巨大戦略──それは増殖する見込みである──の実験場でしかない。その戦略は、搾取に基づく平和を確保するために、破壊的な戦争から始める必要があるが、しかし、その戦争がうまくいく可能性は大きくない。したがって、アメリカ帝国主義の侵略的な性質は、決して悪い政府の血迷いごとではなく、民間資本主義の階級関係にとってどうしても必要なものなのである。その資本主義は、革命運動がそれに終止符を打たなければ、国家官僚資本主義(テクノクラシー)へといやおうなしに進化していくものである。まだ制覇されていない世界経済のこのような全般的な枠組みの中にこそ、われわれの時代の疎外された闘争の歴史を挿入しなければならないのである。
 植民地侵入によって「アジア的」な古い構造が破壊されたせいで、一方では、新しい都市階層が誕生し、他方では、過剰搾取された農民層の広範な部分の絶対的貧困がさらに進んだ。ヴェトナムの運動全体の主要な原動力となったものは、この2つの勢力の遭遇である。都市階層──ブチ・ブルジョワ、そしてブルジョワまでも──の間では、実際、ナショナリストの最初の中核と、1930年以降インドシナ共産党〔PCI〕*7となるものの骨格が、形成された。ボルシェヴィキイデオロギー(のスターリン版)への賛同によって、純粋にナショナリズム的な綱領に、本質的に農業的な綱領が重ね合わされ、PCIが反植民地闘争の主たる指導者となり、自発的に蜂起した農民の大多数を統率することが可能になった。1931年の「農民評議会(ソヴィエト)」*8は、この運動の最初の表れだった。しかし、PCIは、自らの命運を第三インターナショナル*9の命運に連繋させたため、スターリン外交のありとあらゆる変転と、ロシア官僚主義の国民的、国家的利害の変動に振り回された。コミンテルンの第7回大会*10(1935年8月)から、「フランス帝国主義に対する闘争」が綱領から消え、やがて強力なトロツキスト党派*11に対する闘争にとって代わられた。「トロツキストたちに関しては、同盟もなければ譲歩もない。彼らの仮面を剥いで、その正体がファシズムの手先であることを暴かなければならない」(コミンテルンにおけるホー・チーミンの報告、1939年7月)。独ソ条約と、フランスおよびその海外領土における共産党禁止令は、PCIの方針変更のきっかけとなった。「帝国主義戦争に対して、またフランス帝国主義の海賊行為と、大虐殺政策に対して(〔SIの注〕ナチス・ドイツに対して、と解せよ)、闘うということは、死活的な大問題であると(……)わが党は考える。(……)しかしわれわれは、同時に、日本のファシズムの侵略的な意図とも闘うであろう。」
 第二次世界大戦の末期、アメリカの実質的な援助のもとに、ヴェトミン*12〔ヴェトナム独立同盟〕は、国土の大部分を掌握しており、フランスからインドシナの唯一の代表と認知されていた。まさにそんなときに、ホー・チーミンは、「中国人の糞を一生食べ続けるよりも、フランス人の糞の臭いを少し嗅ぐ」方を選び、同志にして支配者の仕事をしやすくするために、ヴェトナムを「自由な国家」であると同時に「フランス連合のインドシナ連邦の一部をなす」ものであると認める1946年3月のおぞましい妥協*13に調印したのである。その妥協のおかげで、フランスは、国の一部を再制覇することができ、また、フランスでスターリン主義者がブルジョワ権力の分け前を失った*14のと時を同じくして、8年にわたる戦争を開始することができた。その戦争の果てに、ヴェトミンは、南をヴェトナム社会の最も復古的な階層とその保護者であるアメリカに引き渡し、北を決定的に獲得した。残っていた革命的分子の徹底的な抹殺(最後のトロツキスト・リーダーであるタ・トゥ・タウ*15は1946年にはもう暗殺されていた)を実行した後、ヴェトミン官僚主義は、農民層に全体主義的権力を敷き、国家資本主義の枠内で国の工業化に着手した。長い解放闘争の間の農民の征服に引き続く、農民の境遇の改善は、官僚主義の論理からすれば、生まれたばかりの国家に役立つものでなければならなかった。すなわち、生産性を向上させる方向に向けての改善であり、国家がそれを有無を言わせぬかたちで支配し続けるのである。農地改革の専断的な実施は、1956年に激しい反乱と流血の弾圧を引き起こした(とりわけホー・チーミンの生地で)。官僚主義を権力の座に就かせた農民が、その最初の犠牲者となった。「自己批判の嵐」が、何年にもわたって、この「重大な過ち」を忘れさせようと試みた。
 しかし、同じジュネーヴ協定*16は、〔ゴ・ディン・〕ディエム*17〔南ヴェトナム首相〕が17度線の南に、地主と買弁ブルジョワジーに奉仕する官僚主義的で封建的で神権政治的な国家を設立することを可能にした。その国家は、数年の間に、いくつかの適当な「農地改革」によって、農民層が獲得したものをすべて清算することになり、南の農民──その一部は決して武器を棄てなかった──は、再び、圧制と過剰搾取の支配下に落ちることになった。それが第二次ヴェトナム戦争*18である。そこでもまた、蜂起した農民大衆は、同じ敵に対して再び武器を取り、同じ指導者を再び見出した。南ヴェトナム解放民族戦線〔FNL〕*19がヴェトミンのあとを継ぎ、その長所とともに重大な欠点も受け継いだ。民族闘争と農民戦争の体現者となったFNLは、最初から農村部を味方にし、そこを武装抵抗の主要な拠点とした。正規軍に対するFNLの相次ぐ勝利こそが、アメリカのしだいに大規模になっていく介入を誘発し、それは、ついには紛争を公然の植民地戦争に変えてしまい、そこでヴェトナム人は侵略軍と対決している。FNLの闘争における気概、明確に反封建的な綱領、および統一的な展望は、依然として運動の主要な長所である。FNLの闘争は、民族解放闘争の古典的な枠組みから少しも抜け出ていない。そしてFNLの綱領は、依然として、アメリカの侵攻を一掃するというただ1つの目的を最優先とする、諸階級の大連合という妥協に基礎を置いている(FNLがヴェトコン──すなわちヴェトナムのコミユニスト──という呼称を拒絶し、民族的な性格を強調しているのは偶然ではない)。FNLの構造は、形成途上の国家の構造である。というのも、すでに、FNLが掌握している地帯では、税を徴収し、兵役義務を制定しているからである。
 闘争におけるこれら最小限の長所、目的とそれが表す社会的利害関係が、イスラエル対アラブの対立には完全に不在である。一般的な混乱に加えて、シオニズム特有の矛盾と、分断されたアラブ社会特有の矛盾がな存在するのである。
 初めから、シオニスト運動は、いわゆるユダヤ人問題の革命的解決とは正反対であった。ヨーロッパ資本主義の直接の産物であるその運動は、ユダヤ人を迫害する必要のあった社会の転覆ではなく、退廃した資本主義の反ユダヤ的異常形態から避難できるようなユダヤ人の国民的実体の創造をめざしていた。すなわち、不正の廃止ではなく、その転移である。シオニズムの原罪をなすもの、それは、あたかもパレスチナ無人島であるかのように常に考えてきたことである。革命的労働者運動は、ユダヤ人問題の解決をプロレタリア共同体のうちに、すなわち資本主義と「その宗教、ユダヤ教」の破壊のうちに、見出してきた。ユダヤ人の解放は、人間の解放なくしては、なしえないからである。シオニズムは逆の仮説から出発していた。確かに、この半世紀の反革命的な進展は、シオニズムに正当性を付与したが、しかしそれは、ヨーロッパの資本主義の発展が、ベルンシュタイン*20の修正主義的なテーゼに正当性を付与したのと同じやり方でである。シオニズムの成功と、それに伴うイスラエル国家の創造は、世界的な反革命の勝利の化身にほかならない。「一国だけの社会主義」に呼応していたものは、「一民族だけのための正義」と「一キブツ*21だけにおける平等」であった。パレスチナの植民地化が行われたのはロスチャイルド*22の資本によってであり、初期のキブツが始動したのはヨーロッパの剰余価値のおかげである。ユダヤ人たちは、自分たちがその犠牲にされたもののすべて、すなわち狂信(ファナティスム)と人種隔離、を今度は自分たちのために再び創出しつつあった。自分たちの社会でただ仕方なく認められるだけであることに苦しんでいた人々が、他所に出かけていって、他人を仕方なく認める権利を自由に行使できる地主になるために闘ったのである。キブツは、パレスチナの「封建制」の革命的な止揚ではなく、ユダヤ機関〉*23の資本主義的搾取の潮流に対抗する入植労働者の相互扶助的な自己防衛方法であった。この〈シオニスト機構〉は、パレスチナの主要なユダヤ人地主なので、自らを「ユダヤ民族」の高度な利益の唯一の代表者であると規定していた。その機構が、結局、ある種の自主管理に権限を譲ることになったのは、その自主管理がアラブ農民を徹底的に追い出した上に築かれたものであると、その機構がすでに確認していたからである。
 ヒスタドルート〔ユダヤ労働総同盟〕*24についていえば、それは、1920年の創立以来、世界的なシオニズムの権威、すなわち労働者の解放のまさに正反対のものに従属していた。アラブ人労働者は、規約上、そこから排除されており、またその活動は、たいていの場合、ユダヤ企業がアラブ人労働者を雇うことを禁じることにあった。
 アラブ人、シオニスト、イギリス人の三つ巴の闘いの展開は、シオニストを利する方向に向かっていった。アメリカ人の(第二次世界大戦以後の)積極的な父親的後援と、スターリンの祝福(彼は、イスラエルに、中東における最初の「社会主義」の砦を見出していたが、また、まさにそれによって、何人かの邪魔なユダヤ人を厄介払いしたかった)のおかけで、ヘルツル*25の夢はやがて具体化し、ユダヤ国家の建国が恣意的に宣言された。あらゆる「進歩的」な形態の社会組織を回収し、それらをシオニズムの理想に統合したおかげで、以後、どれほど「革命的」な人々も軍国主義的でユダヤ祭司(ラビ)的なブルジョワ国家──現代のイスラエルはそうなった──の建設に心安らかに励むことが可能になった。プロレタリア国際主義の永い眠りは、今一度、怪物を産み出した。パレスチナのアラブ人に対して犯された根本的な不正は、すぐさまユダヤ人自身に跳ね返ってきた。選ばれし民族の国家はありふれた階級社会以外の何ものでもなく、そこでは、旧来の社会のありとあらゆる異常が再現されていたのである(位階区分(ヒエラルキー)、アシュケナージ*26セファルディム*27との間での民族対立、少数アラブ人への人種差別的迫害、など)。労働組合の総同盟は、労働者を資本主義経済に組み入れるという通常の役目を、そこに再び見出した。彼らは、資本主義経済の主要な所有者になっており、また、国家自体が所有するよりも多くのサラリーマンを雇用している。この総同盟は、現在、新興のイスラエル資本主義の帝国主義的拡張の橋頭堡になっている(ヒスタドルートの重要な建設業支部である「ソレル・ボネー*28」は、1960年から1966年の間にアフリカとアジアに1億8千万ドルを投資し、また現在、1万2千人のアフリカ人労働者を雇っている)。
 この国家は、英米帝国主義の直接介入とユダヤ金融資本主義の多大な援助がなかったら決して誕生しえなかったのと同じように、今日、この国家の人工的経済を、それを創った同じ勢力の援助なしには、均衡させることができないでいる(国際収支の年間赤字は6億ドルにもなる。すなわち、イスラエルの住民1人当たりでは、アラブ人労働者の平均収入を上回る)。最初の移民植民地の設立以来、ユダヤ人は、経済的にも社会的にも遅れているアラブ人社会に並行して、ヨーロッパ・タイプの近代社会を形成していた。建国宣言は、遅れの要素の純然たる追放によって、このプロセスを完成しただけである。イスラエルは、その存在によって、アジア・アフリカ世界の中心におけるヨーロッパの砦である。かくしてイスラエルは二重によそ者になった。すなわち、難民か植民地化された少数民族の状態に永久に追いやられたアラブ住民にとっても、イスラエルにあらゆる平等主義的イデオロギーの地上での実現を一瞬かいま見たユダヤ住民にとっても。
 しかしこのことは、イスラエル社会の矛盾だけによるのではない。初めから、この状況は絶えず悪化している。というのも、周囲のアラブ情勢が、現在までそこに有効な解決の兆しを提供できずに、その状況を持続させているからである。
 イギリスの委任統治の初めから、パレスチナにおけるアラブ人の抵抗は、有産階級によって、すなわち当時のアラブ人支配階級とイギリスのその庇護者によって、全面的に支配されてきた。ザイクス・ピコ協定*29は、生まれつつあったアラブ・ナショナリズムのすべての希望に終止符を打ち、巧みに分断したその地城を、終わることからはほど遠い外国支配に従属させた。オスマン帝国へのアラブ大衆の隷属を保障していたその同じ階層が、イギリスによる占領をを手助けする者に変じ、それから(彼らの土地を高額で売却することによって)シオニストの入植の共犯者となった。アラブ社会の遅れのせいで、より先進的な指導部の出現はまだ不可能であった。そして、数々の自発的な人民の反乱は、毎回同じ懐柔者に再会した。すなわち、「封建制ブルジョワ」有力者と、彼らの商品である国民的統一である。
 1936年から1939年にかけての武装蜂起*30と、6ヵ月にわたるゼネスト(史上最長)は、「ナショナリスト」政党のあらゆる指導部の反対にもかかわらず、決断、実行された。それらは自発的に組織され、大規模な拡がりをみせた。そのため、支配階級は、そこに加わることで、その運動の指揮を執らざるをえなくなった。しかしそれは、その運動を抑えて、交渉のテーブルに着かせ、反動的な妥協に導くためであった。仮にこの蜂起がその最終結果において勝利していれば、その勝利だけが、イギリスの委任統治と、シオニストユダヤ国家建設計画とを、同時に清算することができたであろう。その失敗は、反対推論(ア・コントラリオ)により、将来の破局と、最終的には1948年の敗北*31を、予告するものだったのである。
 その敗北は、アラブの運動を統率する階級としての「封建制ブルジョワジー」の終焉を告げた。それは、プチ・ブルジョワジーにとって、権力の座に浮上し、敗北した軍の幹部とともに現在の運動の推進者となるきっかけだった。その運動の綱領は単純だった。すなわち、統一と、ある種の社会主義イデオロギーと、パレスチナの解放(帰還)である。1956年の三国侵攻*32は、プチ・ブルジョワジーに、支配階級として強固になる最良の機会、そしてまた、すべてを奪われたアラブ大衆の集団的な賛美の前に差し出された、ナセル*33という名のリーダーに綱領を発見する最良の機会をもたらした。ナセルは、彼らの宗教であり、彼らの阿片であった。ただ、新たな搾取階級だけは、固有の利害と自律的な目的を持っていた。エジプトの軍事的官僚主義体制の人気を上げたスローガンは、それ自体としてもひどいものだったが、彼らにはそれを実現する力はなかった。アラブの統一とイスラエルの破壊(簒奪者国家を清算することや、その住民を単純に海に投げ棄てることが、交互に叫ばれた)が、このプロパガンダとしてのイデオロギーの中心にあったのである。
 アラブのプチ・ブルジョワジーとその官僚主義的権力の退廃の糸口となったもの、それは、何よりもまず、それ固有の内部矛盾と、その選択肢の浅さである(ナセル、バース党*34、カーシム*35、それにいわゆる共産党は、この上なくいかがわしい勢力と妥協や同盟を結んで、互いに争うことをやめなかった)。
 第一次パレスチナ戦争*36の20年後には、この新しい階層にパレスチナ問題を解決する能力などまったくないことが証明されてしまった。彼らは、〔戦術の途方もないエスカレーションだけで生きてきた。というのも、無数の内部問題に何ら根本的な解決をもたらすことができないにもかかわらず、イスラエルをいつまでも口実にし続けることによってのみ、生き延びることができたからである。パレスチナ問題は、依然としてアラブの激動の鍵である。紛争は常にそれをめぐって生じ、誰もがそれを共有している。それは、アラブのすべての政権の客観的連帯の基盤である。それは、ナセルとフセイン*37、ファイサル*38とブーメディエン*39バース党とアーリフ*40の間の「神聖同盟」を実現する。
 このたびの戦争〔1867年の第三次中束戦争=六日戦争〕が、すべての幻想を一掃した。「アラブ・イデオロギー」の絶対的な堅固さは、それに劣らず堅固だが恒久的に存在する実際の現実に触れて、砕け散った。戦争をすると言っていた者たち〔アラブ側〕は、戦争を望まず、その準備もしていなかった。専守防衛を言っていた者たち〔イスラエル側〕は、実際には攻撃の準備をしていた。両陣営はそれぞれ、自らの性向に従ったのである。すなわち、アラブ官僚制は嘘とデマゴギーの性向、イスラエルの支配者は帝国主義的拡張の性向に。六日戦争がこの上ない重要性をもったのは、否定的な要素としてである。というのも、その戦争は、人々が「アラブ革命」として示そうと思ったものの秘密の弱点と欠陥をすべて暴露したからである。エジプトの「強力な」軍事官僚制は、2日間でぼろぼろに崩れ、それが実現した成果なるものの真実をあっというまにさらけ出した。すなわち、あらゆる社会的、経済的変革を行う際のかなめである軍が、根本的に、まったく変わっていなかったのである。軍は、一方では、エジプトで(さらには全アラブ地域で)すべてを変えると主張していたが、他方、 軍の内部では、価値観も習性も、何ら変えないように全力を尽くしていた。ナセルのエジプトは今なお、ナセル以前の勢力に支配されていて、その「官僚制」は、一貫性も階級意識もない、どろどろに溶けた状態(マグマ)であり。搾取と社会的剰余価値の分配だけが、それを1つにまとめているのである。
 バース党のシリアを統治している政治−軍事機構について言えば、それは、ますます自らのイデオロギーの過激主義のうちに閉じこもっている。とはいえ、その大言壮語にはもう誰もだまされない(パブロ*41を別にすれば!)。彼らが戦争をせず、無抵抗で戦線を明け渡したことは誰もが知っている。なにしろ、自分たちを防衛するために、最良の部隊をダマスカスに留めておく方を選んだのだから。領土防衛のためにシリアの国家予算の65パーセントを消費していた者たちが、自らの恥知らずな嘘を決定的に暴露したのである。
 結局、この戦争は、フセインのような連中との神聖同盟の行き着く先は破局でしかないことを、それまでまだ分かっていなかった者たちに、いま一度、示したのである。アラブ軍団〔ヨルダン軍〕は、第1日目から退却し、20年ものあいた虐殺者から警察テロを受けていたパレスチナ住民は、武器も組織もなしに、イスラエル占領軍に直面した。ハーシム家*42王権は、1948年から、パレスチナ人に対する植民地化を、シオニスト国家と分かち合っていた。同家は、ヨルダン川西岸を放棄して、パレスチナの革命分子全員に関する瞥察作成のファイルをイスラエルに手渡した。しかしパレスチナ人はつねに、この2種類の植民地化の間に大した違いがないことを知っており、今日では、この新たな占領の方が抵抗しやすいように感じている。
 他方、イスラエルは、アラブ人が戦争前に非難していたものに、すっかりなりきった。すなわち、最も古典的な占領軍としてふるまう帝国主義国家になったのである(警察テロ、ダイナマイトによる家屋の爆破、恒常的な戒厳令、など)。そして国内では、「聖書に記載さた国境についてイスラエルがもつ時効なき権利」を求める、ユダヤ教祭司によって指揮された集団妄想が広がっている。戦争のせいで、この人工的社会の矛盾から生まれた異議申し立ての運動はすっかり中断してしまい(1966年には数10件の暴動があり、また1965年だけで277件ものストがあった)、また、支配階級の諸目的とそのきわめて過激主義的なイデオロギーをめぐる挙国一致の賛同が引き起こされた。戦争は、別の面では、武力衝突に巻き込まれなかったアラブの政権すべてを強化するのに役立った。かくして、ブーメディエンは、5千キロメートル離れたところで、安心して大ぼらを吹き、アルジェリアの群衆に自分の名を拍手で迎えさせ──前日には彼らの前に姿を見せる勇気さえなかったのに── 、あげくに、(「その反帝国主義的な政治ゆえに」)完全にスターリン主義化したORP〔人民抵抗機構〕*43の支持を得ることができた。ファイサルは、数100万ドルと引き換えにエジプトの北イエメンからの撤退と、王権の強化を得た、などなど。
 通例、戦争は、それが内戦でない限り、社会革命のプロセスを凍結するだけである。北ヴェトナムでは、戦争は、農民大衆が自分たちを搾取する官僚制を支持するという、かつてなかった事態を誘発している。イスラエルでは、戦争は、長期にわたって、シオニズムに対するあらゆる反対を清算している。そしてアラブ諸国では、それは、最も反動的な階層の──一時的な──強化である。そこに革命的な潮流は全然認められない。その潮流の任務は現在の運動の対極にある。というのも、それは、現在の運動の絶対的な否定でなければならないからである。
 今日、ヴェトナム戦争革命的な解決策を求めることは、もちろん不可能である。何よりもまず、アメリカの侵攻を終わらせなければならない。それは、ヴェトナムの真の社会闘争が自然な形で展開されるように、すなわち、ヴェトナムの労働者が国内の敵──北の官僚制と南のすべての有産支配階層──を再び見出すことができるようにするためである。アメリカの撤退は、即座に、スターリン主義指導部による国全体の掌握を意味する。それは、避けられない解決である。というのも、侵略者が際限なく侵攻を長引かせることはできないからである。タレーラン*44の時代から知られているように、人は銃剣を用いて何でもできる──その上に座ること以外は。それゆえ、ヴェトコンを無条件に(あるいは批判的に)支持するのではなく、アメリカ帝国主義に対して首尾一貫して譲歩せずに闘うことが必要である。最も有幼な役割とは、現在、大規模に不服従を訴え、また実践しているアメリカの革命派の役割である{それに比べれば、フランスにおけるアルジェリア幟争への抵抗は、子供の遊びである)。 つまり、ヴェトナム戦争の根はアメリカそのものにあり、そこでこそ、その根を絶たなければならないのである。
 アメリカの戦争とは反対に、パレスチナ問題には、すぐ見つかるような解決がない。いかなる短期的な解決法も、実践不可能である。アラブの諸政権は、自らの重みで潰れることしかできない。そしてイスラエルは、ますます自らの植民地的論理の虜になっていくだろう。諸大国とそのそれぞれの同盟国が取り繕おうと試みている妥協は、いずれにせよ、反革命的なものでしかありえない。どっちつかずの──平和でもなく戦争でもない──現状(ステイタス・クオ)が、おそらく長期にわたって優勢を占めるだろう。その間にアラブの諸政権は、1948年の先人たちと同じ運命を経験するだろう(おそらく初めのうちは、あからさまに反動的な勢力に有利に)。歴史上知られているすべての階級のカリカチュアである、あらゆる種類の支配階級を産み出したアラブ社会は、今や、その全面的な転覆をもたらす勢力を産み出さねばならない。いわゆる民族ブルジョワジーとアラブ官僚制は、他の社会におけるその2つの階級の歴史的な成果を決して知らぬまま、その2つの階級のあらゆる欠陥を受け継いだ。1967年6月の敗北の瓦礫から生まれるであろう未来のアラブの革命勢力は、現存するアラブの諸政権のどれとも何の共通点もなく、また、現在の世界を支配している既成権力のうちに尊敬すべきものが何もない、ということを知るだろう。その勢力は、自分自身のうちにこそ、そしてまた、革命の歴史の抑圧された経験のうちにこそ、自らの手本を見出すだろう。パレスチナ問題はあまりにも重大すぎて、国家に、すなわち大佐たちに、委ねられない。この問題は、現代の革命の根本的な2つの問題──国際主義と国家──と、あまりにも近すぎる関係にあるので、現存するいかなる勢力も、それに適切な解答をもたらすことができない。断固として国際主義的で反国家的なアラブの革命運動だけが、イスラエル国家を解消すると同時に、イスラエルに搾取されている大衆を味方にすることができる。この運動だけが、その同じプロセスを通して、現存するすべてのアラブ国家を解消し、〈評議会〉の権力によるアラブの統一を創り出すことができるだろう。

*1:ジャマール・アプド・アル・ナセル(1918−70年) エジプトの政治家。1930年代の反英デモに参加して民族主義に共鳴。戦後、48年にファルーク王政の腐敗を軍事革命で解決しようと自由将校団を結成、52年に7月革命に成功。54年ナギーブ失脚後大統領になる。55年アラブ民族主義の指導者としてバンドン会議に出席、ソ連の経済援助受け入れなど、非同盟主義の強化に努力。56年7月にスエズ運河国有化を宣言、同年10月のイスラエル・英・仏の侵略戦争に抵抗、その後、ソ連に接近。それまでの欧米との協調関係を覆し、社会主義政策を推進、61年に社会主義宣言。67年の「6日戦争」の敗北で辞意を表明するが翻意し、その後、パレスチナ問題の打開に苦慮し、70年の「黒い9月」事件の処理中に急死。ナセルは、国内的には社会主義政策によって古い伝統的諸制度・社会関係をエジプトから一掃し、ナセル後の資本主義化を準備したが、公共部門主義と協同組合主義の導入によって官僚主義資本家層を生み出した。国外的にはアラブ民族主義を掲げる一方で。アラブ世界に対して覇権を求め、イエメン内戦への介入や第三次中東戦争の敗北をもたらした。

*2:六日戦争 1967年6月5日−11日のイスラエルアラブ諸国第三次中東戦争のこと。戦争の直接のきっかけは、イスラエル建国記念日である前月14日から、アラブ連合共和国がシリアの支援を理由にシナイ半島へ機甲部隊を配置し始め、5月22日にアカバ湾を封鎖したことである。これにイスラエルが応じて、6月1日に挙国一致内閣を結成、ダヤン国防相のもとで奇襲作戦が練られ、6月5日にイスラエル空軍機がアラブ連合、シリア、ヨルダンのアラブ三国の空軍基地を攻撃、あっという間に制空権を握った。次いで、空軍の支援で地上戦でも完全に主導権を掌握、7日にはアラブ連合のアカバ湾基地を占領、8日にはスエズ運河に達し、その夜、シナイ半島全域を占領した。イスラエルはシリア、ヨルダンとの戦闘でも圧倒的勝利を収め、シリアのゴラン高原、ヨルダンのヨルダン川西岸全体を占拠した。アラブ三国は停戦を受諾し、10日には戦争が終結したが、この敗戦で「アラブの盟主」アラブ連合の権威は失墜し、再び大量のパレスチナ難民を産み出した。

*3:ヒューバート・ホレイショー・ハンフリー(1911−78年) 米国の政治家。60年に民主党大統領候補に名乗りを上げるが、予備選でケネディに破れ、61年民主党上院院内副総務、64年から68年ジョンソン政権の副大統領を務める。

*4:プロヴォ 1965年から67年5月までオランダで活動したの反体制運動。

*5:エピメニデス(紀元前6世紀頃) ギリシヤの詩人・哲学者。クレタ島出身。「自分は嘘つきだ」と言ったことから、この種の二律背反を「エピメニデスのパラドックス」という。

*6:ウォルト・ホイットマン・ロストー(1916− ) 米国の経済学者。61年に政界に入り、国務省政策立案会議議長、ついでジョンソン大統領の特別補佐官としてヴェトナム戦争に関与。経済学者としては「経済成長の諸段階」(60年)で、経済成長を伝統的社会から高度大衆消賞期までの5段階に分け、反マルクス主義的な経済発展段階説を主張した。

*7:インドシナ共産党  1930年2月3日、香港でホー・チーミン主宰の下にインドシナ共産主義組織各派を糾合して結成。党設立当時の名称はヴェトナム共産党だが、30年10月、コミンテルンの指示でインドシナ共産党と改称した。30年代後半に広範な大衆を獲得、41年にはヴェトミンを結成、以後、ヴェトナム革命の指導的政党としてヴェトナム戦争を勝利に導き今日に至る。51年にヴェトナム労働党と、76年にヴェトナム共産党と改称。

*8:1931年の「農民評議会」 1930年から31年にかけてヴェトナム北部のゲアン、ハティン両省に展開された農民運動であるゲティン・ソヴィエトのこと、。30年2月に創設されたばかりのヴェトナム共産党の指導下に、メーデーでの農民デモが組織され、フランス領インドシナ当局との衝突のなかで、農民たちが武装し、村役人や地方行政機関を襲撃、植民地行政を麻痺させた。9月には共産党支部と農会が中心になり農村ソヴィエトを各地で樹立したが、31年までに仏印当局の弾圧で終息。

*9:第三インターナショナル  1919年。ロシア革命成功後のソ連レーニンが呼びかけて結成された国際共産主義運動の指導・統制のセンター〈共産主義インターナショナル)(コミンテルン)のこと。プロレタリアート独裁、社会民主主義との絶縁、民主集中性の確立、植民地独立などを定めた第2回大会(20年)の21箇条を各地の共産主義運動に機械的に当てはめ鉄の規律で運動を指導する。一方で、その政策は急進主義と現実主義の間で揺れ動き、各地の共産主義運動や民族主義運勣に混乱ももたらした。24年の第5回大会以降、スターリンによってコミンテルンの「ボリシェヴィキ化」が始まり、党内民主主義の制限、ソ連の対外政策への同調を強め、36年からのスペイン内戦への対応のまずさや、ナチスの侵攻への無策などが重なり、最終的にはコミンテルンの存在がソ連による内政干渉に映ることや、反枢軸国同盟の結束を害することを恐れたスターリンによって43年、一方的に解散される。

*10:コミンテルン第7回大会  1935年7月25日から8月20日まで開催されたコミンテルン最後の大会。ナチス・ドイツファシズムの高まりに対応し、それまでの国際共産主義運動の方針を転換し、幅広い勢力を結集する人民戦線戦術を採択した。36年2月にはスペインで、6月にはフランスで人民戦線政府を生み出したが、ソ連の安全保障の考えから、ナチス・ドイツとの対抗上イギリス保守党政府の支持を求めるスターリンが人民戦線の急進化にブレーキをかけ、38年から39年にはコミンテルン内部の粛正、ミュンヒエン協定、独ソ不可侵条約などによって、人民戦線そのものもファシズムに敗北した。

*11:トロツキスト党派 タ・トウ・タウらのトロツキスト党派のこと。「タ・トウ・タウ」の訳注を参照。

*12:ヴェトミン ヴェトナム独立同盟会の略称。インドシナ共産党第8回中央委員会の決議に基づき、1941年に結成されたフランス・日本に対する民族解放闘争のための統一戦線組織。農民・労働者から学生、婦人まで広範な民衆組織を結集し、45年の8月革命勝利の原動力になりた。

*13:1946年3月のおぞましい協定 46年3月のヴェトナム・フランス暫定協定のこと。北部ヴェトナムをヴェトナム民主共和国として暫定的に南部と切り離し、フランス連合内での独立を認めた協定。南部を含む全ヴェトナムの統一は、その後、4月のダラト会議、7月のフォンテンブロー会議で拒否され、11月以降、フランスとヴェトナムは再び全面戦争に入ることになる。

*14:スターリン主義者が〔……〕失った それまで連立政権に加わっていたフランス共産党が政権から離脱したことを指している。

*15:タ・トウ・タウ(?−1945) 1930年代にヴェトナム南部で活躍したトロツキスト。フランス留学中にトロツキーの影響を強く受け、帰国後の1933年に理論誌「闘争」を創刊、またインドシナ共産党南部委貝会と選挙協力を行い、35年のサイゴン市会選挙でヴェトナム人議席6のうち両派で4を占めた。しかし37年、共産党の民主統一戦線論を批判して訣別し、39年にはコーチシナ植民地評議会選挙で共産党系を完敗させた。けれども40年、カトルー総督の弾圧によって政界から消え、45年の解放直後にヴェトミンに殺されたという。

*16:ジュネーヴ協定  1954年、フランスとヴェトナム民主共和国との間で46年以来続いてきた第一次インドシナ戦争終結を決めたジュネーヴ会議での協定。米・英・仏・ソ・中国、そしてヴェトナム民主共和国、バオダイーヴェトナム。ラオスカンボジアの参加で、北緯17度線を軍事境界線とした停戦、ヴェトナム統一についての全国統一選挙を決定したが、バオダイは休戦条約に反対、米国は最終宣言への参加を拒否し、ヴェトナムの分裂がその後も固定化される結果となった。

*17:ゴ・ディン・ディエム(1901−63年) ヴェトナムの政治家。54年、フランスの傀儡政権であるバオダイの統治するヴェトナム国(南ヴェトナム)首相。55年国民投票でバオダイを廃して国家元首となり、56年ヴェトナム共和国初代大統領に就任。親米反共主義者でフランスに代わって米国の軍事・経済援助を導入、一貫してジュネーヴ協定に反対し、統一選挙を拒否して南北分断を固定化するとともに、国内ではファッショ独裁政治と同族支配を行い、土地改革には失敗し小作人層の反乱を生み出した。

*18:第二次ヴェトナム戦争  1960年に南ヴェトナム解放民族戦線が結成されたことを皮切りに始まったいわゆるヴェトナム戦争のこと。63年にディエムが軍事クーデタで倒されると、米軍が反共橋頭堡としての南ヴェトナムに直接大量介入を図り、64年のトンキン湾事件を口実に北爆を開始、米軍は50万人の米兵を投入したか、敗戦を重ね68年テト攻勢以降、撤退を開始、73年パリ平和協定が結ばれ、75年サイゴンが陥落した。

*19:南ヴェトナム解放民族戦線(FNL) 1960年12月20日、南ヴェトナムのゴ・ディン・ディエム政権に反対する民族主義者を中心に結成された反米・反ディエム民族統一戦線。北ヴェトナムと社会主義国の援助で南ヴェトナム解放闘争の主体となって闘い、75年解放を達成したが、解放後、政治の実権をヴェトナム労働党共産党)と北ヴェトナムのハノイ政権に掌握された。

*20:エドゥアルト・ベルンシユタイン(1850−1932年) ドイツの社会民主主義者。 1899年「マルクス主義の諸前提と社会民主主義の諸任務」によって、修正主義の理論的指導者となる。社会革命を否定し、議会政治による斬新的な社会主義化の道を説き、そのために自由主義政党とのブロック政策を主張した。

*21:キブツ ヘブライ語で「集団」を意味し.イスラエル建国運動において形成された独特の集団農場。構成員間の完全な平等、相互責任、自己労働.個人所有の否定、生産・消費の共同性の原則に基づいて組織され、パレスチナ人から奪った土地に300人から500人の青年男女が集団で生活した。

*22:ロスチャイルド ユダヤ人の国際的金融資本家の家系ロートシルト家のこと。初代マイアーが1760年代にフランクフルトで金貸しを始め、1801年にデンマーク政府や反ナポレオン連合政府などに戦費を貸し付け、国際金融界に君臨したのを起源とし、その後、現在に至るまでその子孫が世界各地の金融界を支配し、各国の政界に強い影響力を持つ。イギリスの金融界の大物ナータン・ロスチャイルドが有名。

*23:ユダヤ機関 〈世界シオニスト機構〉を代表する執行機関。1929年に創設された。イスラエル建国後の任務は、イスラエルへの移住を管轄し、移民を受け入れ、農業機関を管轄し、また、イスラエル国外の諸活動{イスラエルへの投資の奨励、教育、青年活動、情報収集と広報)を担うことである。イェルサレム、ロンドン、ニューヨーク、パリに事務所がある。

*24:ヒスタドルート〔ユダヤ労働総同盟〕 1920年、ユダヤ人のパレスチナ入植地で創設されたシオニストユダヤ人の労働総同盟。綱領は社会主義的だが、25年に日刊紙「ダヴァル」を発刊し、労働者の劇場を建設するなどして、労働者の間に浸透し、20年代から30年代にかけて多くの労働者を組織、また、産業の未発達なパレスチナ入植地でユダヤ人の雇用を確保するために、外洋漁業・海運・航空・住宅・銀行・保険までさまざまな企業を起こし、60年代までにイスラエルの基幹産業組織にまで成長し、この地域最大の雇い主となった。ヒスタドルートの全事業の中央組織である労働協同結合協会(ヘヴラト・オヴディム)の最初の規約には、構成員、すなわち労働者はこの組織以外の労働に雇われてはならず、外部者を雇用してはならないとあった。

*25:テオドール・ヘルツル(1860−1904年) ハンガリー生まれのユダヤ人著述家。近代シオニズム運動の創始者。著書『ユダヤ人国家』(1896年)で、ユダヤ人問題はユダヤ人が独自の国家を創設することによってのみ解決できると説いた。。1887年に第1回シオニスト会譲を開催し、そこで設立された〈世界シオニスト機構〉の議長を死ぬまで務めた。「シオニズムの父」として、イスラエル国家創設の最大の貢献者としてあがめられている。

*26:アシュケナージ アシュケナジム語 (ドイツ語系ユダヤ語、通例イディッシュ語と呼ばれる)を話すユダヤ人。第二次大戦まではドイツやポーランド、ロシアに居住していた。

*27:セファルディム セファルディック語 (スペイン語ユダヤ語)を話すユダヤ人。北アフリカやトルコなどに居住。

*28:ソレル・ボネー ヒスタドルート(ユダヤ労働総同盟)の抱える世界的な建設企業。年間5万軒の家屋を建設し、その工業部門コールは鋼鉄圧延工場、化学プラント、セメント、ガラス工場まで持つ。

*29:サイクス・ピコ協定 第一次世界大戦中に結ばれた連合国間の秘密条約の1つ。1915年にイギリスか約束したアラブ人の独立援助と、フランスのシリア領有の主張とを調停するため、1916年、イギリス人の外交官マーク・サイクス卿(1879−1919年)とフランスのシャルル・ジョルジュ・ピコが作った案で、オスマン帝国のアジア領域を英・仏・露の間で分割すること、アラブ人国家の建設、パレスチナを三国の協議により特別制度の下に置くこと、などを定めた。

*30:1936年から1939年の武装蜂起 1936年4月に始まったアラブ人の武装蜂起。個々のユダヤ人入植者に対する襲撃が、数日のうちにユダヤ人に対するアラブ人の全面的攻撃に拡大。これを受けてアラブ高等委員会が6ヶ月のゼネストを宣言、ファウジ・カウクジらのアラブ人武装襲団が各地の祁市と農村部でゲリラ闘争を行った。この武装蜂起の解決の過程でパレスチナの分割案が生まれ、これをイギリス、国連、シオニスト会議が支持し、47年国連総会での分割案の可決によって48年のイスラエル国家の建国につながってゆく。

*31:1948年の敗北 1948年5月14日のイスラエル国家の建国のこと。これに反対するアラブ諸国(エジプト、イラク、トランスヨルダン、シリア、レバノン)は翌日パレスチナに出兵したが、翌年イスラエル軍が勝利し、100万人近いパレスチナ難民を生み出した(第一次中東戦争)。

*32:1956年の三国侵攻 1956年七月のナセルによるスエズ運河の国有化宣言に対して、英・仏・イスラエル軍がエジプトに侵略したが、国際世論の憤激に屈して6ヶ月後に撤兵した事件。

*33:ジャマール・アプド・アル・ナセル(1918−70年) エジプトの政治家。1930年代の反英デモに参加して民族主義に共鳴。戦後、48年にファルーク王政の腐敗を軍事革命で解決しようと自由将校団を結成、52年に7月革命に成功。54年ナギーブ失脚後大統領になる。55年アラブ民族主義の指導者としてバンドン会議に出席、ソ連の経済援助受け入れなど、非同盟主義の強化に努力。56年7月にスエズ運河国有化を宣言、同年10月のイスラエル・英・仏の侵略戦争に抵抗、その後、ソ連に接近。それまでの欧米との協調関係を覆し、社会主義政策を推進、61年に社会主義宣言。67年の「6日戦争」の敗北で辞意を表明するが翻意し、その後、パレスチナ問題の打開に苦慮し、70年の「黒い9月」事件の処理中に急死。ナセルは、国内的には社会主義政策によって古い伝統的諸制度・社会関係をエジプトから一掃し、ナセル後の資本主義化を準備したが、公共部門主義と協同組合主義の導入によって官僚主義資本家層を生み出した。国外的にはアラブ民族主義を掲げる一方で。アラブ世界に対して覇権を求め、イエメン内戦への介入や第三次中東戦争の敗北をもたらした。

*34:バース党 第二次大戦後いくつかのアラブ諸国に生まれたアラブ民族主義政党。アラブ復興社会党の略。バースは「復興」、「再生」を意味する。40年代のシリアのアラブ民族主義運動の組織を母胎とし、民族的独立を掲げた従来のアラブ・ナショナリズムに対し、急進的な社会闘争を目標とし、「統一、自由、社会主義」に基づく単一アラブ国家の樹立を主張しているが、反社会主義のナセルの立場と対立し、統一は果たせなかった。バース党は、イラクでは63年に獲得した政権を、すぐにナセル派によって奪われたが、シリアでは63年以降ずっと政権の座にあり、自主管理や国有化を進め、72年にはシリア共産党とアラブ社会主義連合を糾合し、シリア・アラブ民族戦線となった。

*35:アプド・アリ・カリーム・カーシム(1914−63年) イラクの軍人・政治家。48年のパレスチナ戦争にイラク派遣軍司令官として従軍後、56年イラク王制打倒をめざす自由将校団委員会議長に選出。58年アーリフらとともに共和革命に成功 。総司令官・首相・国防相代理を兼任、イラク共和国の唯一の指導者になる。土地改革を推進する一方でナセルのアラブ連合からの独立政策を推進しアレーフと対立、58年アレーフ失脚後の新ナセル主義者の反発に対抗して共産主義者との共同戦線を形成。共産党の合法化、入閣などを行ったが、59年夏以降、共産主義者弾圧に転じる。61年以降のクルド人反乱などでアラブ世界で孤立、63年のバース党官僚、反共将校らのクーデタで失脚、銃殺された。

*36:第一次パレスチナ戦争 48年のイスラエル建国に端を発する第一次中東戦争のこと。「1948年の敗北」の訳注を参照。

*37:フセイン(1935−) ヨルダンの国王。53年から現在まで在位。58年にエジプト・シリアの合邦に対抗するためイラクとの間にアラブ連邦を結成したが、イラクのクーデターで瓦解。67年にはエジプトとの間で防衛条約を結んだ。

*38:ファイサル(1906−75年) サウディアラビアの国王。在位64−75年。親米反共の近代派国王で、66年にムスリム世界の指導者としてイスラム諸国同盟の形成を提唱し、ナセルに対抗した。

*39:ブーメディエン(1932−78年) アルジェリアの軍人・政治家1952年フうンス軍に召集されたが、国外に逃亡。カィロでFLNに参加、55年に帰国し解放軍(ALN)に入り、60年同総参謀長、61年に臨時政府ができてからは首相ベン・ベラと手を組み、国防相となる。63年独立後、第1副大紋頷となるが、65年に反ベン・ベラ・クーデタを起こし、革命評議会議長・国家元首・国防相に就任した。

*40:アブド・アル・サーマン・ムハンマド・アーリフ(1920−66年) イラクの軍人・政治家。57年、カーシムらの自由将校団に参加、58年のクーデタで副総司令官兼副首相兼内相となるが、内紛で解任、投獄。59年カーシム暗殺計画を理由に死刑判決を受けるが、61年に釈放され、63年カーシム追放のクーデタによって大統領となる。新ナセル路線を取るが、66年飛行機事故で死亡。

*41:パブロ トロツキスト活動家ミシェル・ラプティスの異名。1964年に〈革命的マルクス主義者派)を主宰した。

*42:ハーシム家 アラビアの聖地メッカの支配階級クライシュ族の一系。1916年アラビア半島西側のヒジャーズ地方にヒジャーズ王国を建てた。その王国は。1926年イブン・サウドによって滅ぼされたものの、ハーシム家はイギリスの保護国として誕生したヨルダンとイラクの国王の座を保った。イラクの王制は1958年に滅んだが、ヨルダンの正式国名は今でも「ヨルダン・ハーシム王国」であり、今なお、イエメン、モロッコの王家をはじめ、アラブ各地を支配している。

*43:ORP〔人民抵抗機構〕 65年の、ブーメディエンのクーデタ後、62年に禁止されていた旧アルジェリア共産党のメンバーと、べン・ベラに近い独立派マルクス主義者とが一緒になって結成した地下組織。65年9月には政治警察によって摘発され、解体された

*44:シャルル・モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール(1754−1838年) フランスの政治家・外交官。聖職者でありながらフランス革命を支持し、教会財産国有化を提案、91年教皇から破門。91年から国外に赴き、95年まで使節として米・英に滞在。その後、ナポレオンⅠ世の外相、ブルボン王政復古後も外相として1815年のウィーン会議に出席するなど、無節操政治家の典型として有名。