(Imagined Communities: Reflections on the Origin and Spread of Nationalism) 1983年に政治学者ベネディクト・アンダーソンにより発表された著作。 国民国家(ネーションステート)以前において、領民を統合した宗教的共同体や王国共同体などに注目したもの。
定本 想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行 (社会科学の冒険2期4)
想像の共同体とは、ベネディクト・アンダーソンが、自分たちが住む世界は想像する共同体であって、例えば、国家を説明するものだったりするわけですが、それは近代という時代に特有の国家の形成を説明するものであり、今で言うならば、この世界全体を説明するものです。 今や世界は地球全体に、もしくは、宇宙へも広がっている事が想像できるわけで、その意味で、現代は、それらをひっくるめたすべての想像する世界の中を生きているわけです。 また、自分たちの生きている世界は、主観的に抱く世界であり、その事を想像する世界とも言っているわけです。 世界に対する理解は、想像する世界を与えるのであり、世界に対する把握、解釈は、同様に…
人は、想像性の仕組みを持っていて、想像する事が生きるエンジンであり、生きるエネルギーであると思っています。 色んな事を想像する事によって、人は自分の心の中に、何らかのイメージを想起するわけですが、それが自分自身にとって確かな理解を得るわけです。つまり、イメージを想起する事で、「分かった!」となるわけです。 そのような事を、人は、物語を通して理解するわけです。物語は、体験として時間軸に沿ったイベントの羅列、もしくは、順序立てられたイベントによって論理的に理解するわけですが、実際には、それによって納得感を得るわけです。それが、上で言った「分かった!」となるわけです。 物語は、言い換えれば、言葉であ…
My homeとは何か、自分のふるさとのようなものではあるわけですが、それは自分の育った場所であり、地元だったり、自分の家族だったりするわけです。 ですが、そのようなものが仮にあったとしても、何か人は自分のホームのようなものを求めているわけで、案外そういったものが、地元だったり、その地域的なものだったりするとは限らないわけです。 何か、その足りなさによって、ずっと自分のホーム、自分の故郷のようなものを追い求めるわけですが、それって実は、自分自身の不安定性さ、不安に基づいていたりするわけです。 また、何か自分が空洞のように感じられて、そのぽっかりと空いた空洞を何かで埋め合わせようとするものであっ…
人は、物語とともに生きているのであり、物語の中を生きている。そのように思います。 物語とは、ストーリーであり、人の話であり、つまり、コミュニケーションという事です。言い換えると、人の話を聞くという事であり、それがコミュニケーションを通じた物語という事です。 映画も、ドラマも、本も、要は物語であり、そして、人とのコミュニケーションであるわけです。音楽もコミュニケーションであり、要は、人が作ったものはコミュニケーションになりうるのであり、人の話を聞くという事につながるという事です。 コミュニケーションは、聞く事を通して為されるものではありますが、それが、「耳で」だけではなく、「目で」でも為されるの…
煩悩とメディアの相性が良すぎるというのが、人間の脳にとっては大きな問題なように感じます。問題と言っても仕方ないのですが、どうにもメディアの情報というのは、人間の脳にとっての煩悩の資源になってしまうので、いつでもスマホをいじれば煩悩を生み出してしまって、本当に困ったものです。 人間というのは、ほぼほぼ煩悩とともに生きていると言っても過言ではないので、煩悩の餌としてのメディアの情報を与えられると、ずっとむしゃむしゃと食べ続けてしまいます。いつだって美味しいならまだしも美味しいだけでもないので、味に関係になくつい口に入れてしまって、とは言っても、いつも消化良く排泄されるわけでもなく、煩悩として脳内に…
◯方言特殊詐欺とエトス < 熊本県警によると、風邪声のような熊本弁で現金を要求する電話で、10月だけで少なくとも89件、うち5件で計1950万円がだまし取られた。卒業名簿が悪用されたよう。> 一件あたり平均しても、約400万円という高額です。 特殊詐欺で方言が使われるという新たな手口です。親近感を狙ったものでしょう 自分たちの属する共同体という意識で、思わず同胞として信用してしまう例です。 声の判断力、磨きましょう、と繰り返してきましたが、もっと簡単な対策は、やり取りが長くなる前に、電話を切って、こちらから本人に確認すればよいだけです。 サイトについては、メールで送られてきたURLでなく、自分…
私は会社で会社員として働いています。会社員として働いて15年くらいは経っているように思いますが、いまだにどのように働いていったらよいか分かりません。それが正直なところです。自分も含めてですが、周りの人と仕事をしていて、本当に人の働き方とは多様です。 人は公的であれ私的であれ、色んな種類の仕事にして働いていて、それぞれの仕事場での働き方は、その仕事の性質の影響を受けるとは思いますが、働いているのは結局人ですから、その人の働き方が凄く反映していると感じます。 会社だと、会社にはある目的があって、こういう事を目的に働いてくださいという理念みたいなものや、具体的な結果、成果などの目標があると思います。…
この世界の中で生きていると、会社でも、社会でも、この世界全体でも、それらの影響を受けながら生きていると感じます。会社も、ある組織の構造になっていて、サル社会に見られるようなヒエラルキーの構造になっています。それは、会社としての機能を発揮しやすい構造であったり、その方が分かりやすく回りやすかったりするからだと思います。 でも、その中で生きているのは、人間です。そのような社会構造では、評価の世界であったり、比較の世界であったりします。評価され、評価し、比較され、比較し、優劣を決められたり、決めたりしています。その世界の中で、悦に入ったり傷ついたり、敵対したり安心したりします。 でも、色んな本を読ん…
一般的に、人は、日常に広がる世界と接するとき、人間の身体の性質上、直接その世界を認識する事は出来ず、人間の持つ感覚器官や脳の機能によって自分の中に主観的な世界を創って、その主観的世界をフィルターのように通して世界と接していると考えられています。ユクスキュルという人が100年ほど前に発見した生き物の環世界は、生き物は自分たちの持つ特有の感覚の作る世界を生きている、という事を説明しているわけですが、主観的世界はその概念に本質的に似ています。 今回は、その主観的世界を生きているという上で、「感じる」という事と「フィクション」というものがとても大事ではないだろうか、という事について考えていこうと思いま…