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2017-11-20 将を射んと欲すれば このエントリーを含むブックマーク

 日本で言い慣わされている漢籍由来の故事成句は、漢籍における元々の表現とは異なった形で人口膾炙している、ということがしばしばある。

 例えば、『史記』巻九十二「淮陰侯傳」にみえる「敗軍之將不可以言勇」(敗軍の将は以て勇を言ふべから)は、日本では専ら「敗軍の将(は)兵を語らず」として知られる。

 これが有名になったのは、1978年11月福田赳夫(1905-95)の発言の影響もあるかもしれない。福田は、かねて“総裁予備選で二位になった者は本選を辞退すべきだ”と主張していたが、予備選で大平正芳に敗れたため、その発言が自らの首を締めてしまうこととなる。そして福田は本選辞退に際して、会見で、

天の声にも変な声がたまにはあるな、とこう思いますね。ま、いいでしょう。今日は『敗軍の将、兵を語らず』で行きますから。へい、へい、へい。

と述べた。わたしは、もちろんこれをリアルタイムで見たわけではないが、「三角大福中」時代を扱ったテレビ特集番組などでよく流れるので、何度か目にしたことがある。もっとも当時は、「天の声にも変な声がある」の方が有名になったようだけれど。

 また、その福田発言よりも前のことだが、神代辰巳かぶりつき人生』(1968日活*1には、「『敗軍の将、黙して語らず』――こない言いまっしゃろ」という台詞が出て来る。

 いずれにせよこれらは、出典とされるものとは違う形で受容されてきたといえる。

 「敗軍の将、兵を語らず」に似た例として、「将を射んと欲すれば先ず馬を射よ」が挙げられる。先日、明野照葉『魔家族』(光文社文庫2017)を読んでいたら、主人公西原早季がこの「諺」を反芻するので、妙に引っかかったことだった。

 だが、その時早季の頭に浮かんだのは、「将を射んと欲すれば先ず馬を射よ」という諺だった。言うまでもなく将は恭平で馬は梨子だ。(p.89)

(やっぱり将を射んと欲すれば……だ)

 恭平関係を持った後の早季の目標は、梨子と会うことになった。(p.106)

将を射んと欲すれば……」は忘れてはならない諺だろうが、言うまでもなく早季の一番の目的は馬ではない。将である恭平だ。(p.109

 「妙に引っかかった」というのは、早季が二十五歳という設定だからで(2017年時点)、二十代半ばの女性にしてはやけに大人びているな、と感じたのである

 それからずっと遡るが、増村保造『最高殊勲夫人』(1959大映)にもこれに類する表現が出て来る。劇中でテレビプロデューサーに扮した夏木章が、杏子若尾文子結婚したいがために、まずは杏子の父・林太郎宮口精二から攻め落としたというつもりで、

将を得ようと思い、いま馬を得たところです。

とうっかり口にしてしまう。間、髪を容れず宮口が、「わしゃ馬かね」と応じて、クスリとさせられる一齣だ。源氏鶏太原作『最高殊勲夫人*2で夏木が演じた人物にあたるのは「風間」だが、この風間は、「紳士の中の紳士」で通っているため、上述のような軽々しい台詞そもそも口に出さない(つまりキャラクター設定映画で改変されている)。

 また、最近復刊された安達忠夫『素読のすすめ』(ちくま学芸文庫2017)*3は、「将を射んと欲すれば先ず馬を射よ」なる小見出しのもと、

 英和辞典などで知られる市川三喜博士のばあい昆虫学に凝って英語の文献を読みあさっているうちに、語学言語学への興味がまし、結局その道の専門家になってしまいました、と述べておられた。これはむしろ、「将を追い求めんと欲すれば自ずから馬に習熟す」とでもいうべきか。

 いずれにせよ、生涯を賭けて追い求めるに値するほどの大将(=対象)に出逢うことが、真剣な練磨のきっかけになり、持続性を生む。(p.40)

云々、と書いている。

 「将を射んと欲すれば」などというと、いかにも漢籍由来らしくおもえるが、これは、杜甫の「前出塞」九首の其六の三〜四句に「射人先射馬/擒賊先擒王」(人を射ば先づ馬を射よ、賊を擒〈とりこ〉にせば先づ王を擒にせよ)と出るのが元の形である

 つまり、「将は」「欲すれば」という表現は出て来ない。

 鈴木棠三広田太郎編『故事ことわざ辞典』(東京堂出版1956*4)は、「人を射んとせば先ず馬を射よ」を本項目とし、「将を射んとせば馬を射よ」を空見出しとする。「将を射んと欲すれば」の形は掲出していない。

 井波律子中国名言集 一日一言』(岩波現代文庫2017)*5も、これを十月五日の條で取り上げているが、見出しは「人を射ば先ず馬を射よ」で、文中に、

俗諺「将を射んと欲すれば先ず馬を射よ」はこれにもとづく。(p.292)

とあり、「将を射んと…」を「俗諺」と見なしている。

 なお、小林祥次郎『日本語のなかの中国故事―知っておきたい二百四十章』(東京堂出版2017)は「人を射んとせば先ず馬を射よ」と読み下しており、「今は『将を射んと欲すれば先ず馬を射よ』と言うほうが多い」(p.395)と述べ、太宰治使用例(「将を射んと欲せば馬を射よ」)を紹介している。

魔家族 (光文社文庫)

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最高殊勲夫人 [DVD]

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最高殊勲夫人 (ちくま文庫)

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素読のすすめ (ちくま学芸文庫)

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中国名言集 一日一言 (岩波現代文庫)

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*1田中小実昌原作とは全く違っている。

*2:昨秋、ちくま文庫で復刊された。

*3:元本は講談社現代新書1986年刊)で、のち2004年に『感性をきたえる素読のすすめ』(カナリヤ書房)として刊行ちくま学芸文庫版はそれを改題・改訂したものである

*4:手許のは1974年第62版。

*5:元版は2008年岩波書店刊。

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2017-11-02 飯間浩明氏の新著 このエントリーを含むブックマーク

 先日、飯間浩明小説言葉尻をとらえてみた』(光文社新書2017、以下『言葉尻』)を読んだ。特におもしろく読んだところを抜書きしてみる。

「愛想を振りまく」

 先回りして言っておくと、この表現(「愛想を振りまく」―引用者)は誤用ではありません。でも、誤りと主張する向きはあります。「振りまくのは『愛敬』であって、『愛想がいい』が本来の言い方なのだ」と。

 この「本来」というのはくせ者でしてね。調べてみると、たいした違いはないことが多いのです。「愛敬を振りまく」は一八八六年の饗庭篁村(あえばこうそん)「当世商人気質(あきゅうどかたぎ)」に例があり、「愛想を振りまく」は一九一一年の徳冨蘆花(とくとみろか)「謀叛(むほん)論(草稿)」に例があります。どちらも百年以上の歴史があり、もはや定着しています

 「愛想を振りまく」は、ほかに北原白秋(はくしゅう)・久生十蘭(ひさおじゅうらん)・山口瞳井上ひさし倉橋由美子らの例も拾いました。文学的表現としても、実例に富んでいます

 ではなぜ「愛想を振りまく」が誤用とされたのか。一言で言えば、印象で断定されたんですね。かつて「愛想を振りまく」は、使用頻度が「愛敬を振りまく」より低かったのは事実です。それで、「そんな言い方はない」と拙速に考えられたのでしょう。(pp.33-34)

 これについては、例えば最近の神永曉『悩ましい国語辞典』(時事通信社2015)も、「雰囲気は振りまくことはできても、実際の動作は振りまくことができない」(p.11)という観点から「愛想を振りまく」を認めていない。一方で、『明鏡国語辞典【第二版】』(大修館書店)などは、「愛嬌愛敬)」の項で「愛嬌を振りまく」「愛想を振りまく」両形を認めている。

 「愛想を振りまく」「愛敬を振りまく」が同一作品の中に混在する珍しい例を挙げておく。

ヒップ大石は、小倉汀や赤鈴雛子愛想をふりまきながら宣伝カーの中に姿を消した。(「右腕山上空」泡坂妻夫『亜愛一郎の狼狽創元推理文庫所収p.51)

ヒップゴンドラの中でまわりの子供たちに愛敬をふりまいている。(同上p.62)

「足下をすくう」

 「『愛想』は振りまけない」、という言葉とがめに似たものとして、「『足下(あしもと)』はすくえない」、というのがある。これも『言葉尻』p.133-35に出て来る。

 実はこの表現(「足下をすくう」―引用者)、一部では少々評判が悪いのです。

 平成十九(二〇〇七)年度の文化庁国語に関する世論調査」で、「『足下(あしもと)をすくわれる』と言うか、『足をすくわれる』と言うか」が問われました。約七割の人が「足下をすくわれる」を選びました。べつに意外ではない結果です。

 ところが、調査を報告した文書には、「足をすくわれる」が「本来の言い方」と記されました。国語辞典にも「足下」は「本来は誤り」と記すものがあり、それを踏まえてのことだったのでしょう。マスコミはそれを受け、「『足下』は誤り」と報道しました。(略)

 でも、「足下をすくう」は、誤りと断定することはできない表現です。

 ことばの実際の歴史を見ると、「足をすくう」は一九一九年から例が確認されています。対して、「足下をすくう」は三十年ほど遅れ、一九五〇年代から例があります川端康成(かわばたやすなり)「千羽鶴」(一九五二年)にも出てきます

菊治は足もとをすくわれた驚きで、その驚きをかくすのにも不用意だった〉

 「足下」は、足の下の地面のことなので、すくえるはずがない、という意見があります。でも、「犬が足下にじゃれつく」という表現はよくあり、問題にもされません。この場合の「足下」は足の先の方のことで、この部分は、すくうことができるのです。(略)

 「足下をすくう」を使う作家は、ほかに瀬戸内寂聴(じゃくちょう)・司馬遼太郎りょうたろう)・城山三郎田辺聖子筒井康隆らがいます。(pp.134-35)

 飯間浩明三省堂国語辞典のひみつ』(三省堂2014→新潮文庫2017)pp.45-47(文庫版だとpp.63-66)もこの問題言及していて、そこでは「千羽鶴」が「1949〜51年」の作品(つまり雑誌媒体への連載期間)となっている。また、河野多恵子見坊豪紀使用例も拾っている(それぞれ1962、1977年の用例である)。

 以下、わたしが拾った1950年代の「足下をすくう」の例。

チャーリー桜田笈田敏夫)「いいですよ。足もとからすくってやりますよ」

ボス・持永(安部徹)「そのうち足もとをすくわれねえようにしろよ」

井上梅次嵐を呼ぶ男』1957日活

その足許を、見事にすくわれたようで、いまいましかった。(源氏鶏太『最高殊勲夫人ちくま文庫2017:24←1958〜1959連載)

 やや新しい例(といっても二十年以上前)。

古畑任三郎田村正和)「本来なら証人発言を残しておくための裁判記録に足もとをすくわれましたね」(「警部補古畑任三郎2nd第1話『しゃべりすぎた男』」1996.1.10

 先日放送された「相棒」season16の第1話10月18日放送)には、浅利陽介の科白に「足をすくわれる」が出て来たけれど、あるいは、このような例が後世に至って、「この時代は『足をすくわれる』の方がよく使われていた」という「証左」になりはしないだろうか、とも思う。

 これはいわば言葉の「規範意識」が強く反映されたもの、と見なすべきではないか。

 『言葉尻』は、朝井リョウ桐島、部活やめるってよ』に、ただの一度も「ら抜きar抜き)言葉」が使われていないことについて、「物語の作者の意図が強く感じられる」「いわば文学的加工を施した」(p.27)と評しているが、このように「規範意識」が強く表れた部分(鑑)と、実態がそのまま表れた部分(鏡)とを、後世の観点から区別するのはむつかしい。だからこそ、ある特定の時期の一例や二例でことばの使用実態判断してはいけない、ということにもなる。

「準備(は)万端だ」

 前述の「相棒」第1話には、確か反町隆史の科白だったかに、「準備万端です」「苦肉の策」も出て来た。後者漢籍にみえる「苦肉計」などとは違う使われ方をしている、というもので、言葉とがめの本などでよく論われている。前者の「準備万端」は『言葉尻』にも出て来る。これは、「万端」には「あらゆる事柄」という義しかないはずなのに、「準備万端」単独で「準備万端整った」を意味する、ということであって、

 似た言い方の例は、他にもあります。たとえば、「しあわせ」ということば。もともとは「巡り合わせ」ということで、「仕合わせがよい」は「巡り合わせがよい。幸運だ」の意味でした。ところが、「ああ、仕合わせがよい」が省略されて「ああ、仕合わせ」となり、「しあわせ(幸せ)」だけで「幸運」を表すようになりました。

 あるいは、「天気」もそうですね。「天候」という意味で「今日は天気がいい」と言っていたのが省略され、「今日は天気だ」「お天気だ」などと言うようになりました。「天気」だけで「晴天」の意味を表しています

 現在、「準備万端」は誤用だという批判もあります。でも、(略)これもまた省略の一種、つまり、「準備万端」だけで「準備万端整った」の意味を表すようになったと考えれば説明はつきます。(pp.231-32)

 「天気」をめぐる話で思い出すのが、(再掲だが)吉田戦車氏と川崎ぶら氏の共著『たのもしき日本語』(角川文庫2001)。

戦車●(略)「男前」にもいろいろあるからな。

ぶら■その男前だが、元々単語自体には「良い容貌」という意味はないようなのさ。男前が上がる、男前いいね、などと遣うのが本来で、それで初めて褒めている意味になるものでな。言ってみれば「天気」のようなものさ。「いい天気」と言えば、普通は晴れのことだが、「お天気でよかったね」と言っても晴天を意味する。

戦車●「明日天気になあれ」と歌っても、初めから天気は天気だからな。(p.225)

 国広哲弥日本語誤用・慣用小辞典〈続〉』(講談社現代新書1995)も類例を挙げている。

 「実力」という語がある。「抜き打ちテストをやって学生の実力をためす」と言うときの「実力」は〈見かけではなく実際の力〉という意味であり、実力の程度はゼロから満点の範囲にまたがる。つまり中立的意味の「実力」である。ところが、「彼は実力がある」と言うときは〈平均以上の、かなり高い実力〉を指している。「私は実力がないから駄目だ」というときも、実力がゼロだというのではなくて、〈高い実力がない〉と言っているのである。つまりプラス値の実力を指している。一般化して言うならば、ある種の語は「プラスマイナス値」と「プラス値」の両義を持っている。

 類例を続けよう。「あの人は人格者だ」と言うとき、〈普通以上に立派な人格を持っている〉ということであり、「あの人は人物です」というときも〈偉い人物〉ということである。(p.229)

 「結果を出す(=よい結果を出す)」「評価する(=たか評価する)」もこの例に当たろうか。古いところでは「分限(者)(=金持ち)」などもそうだと言えるかも知れない。

 このように、ニュートラル表現が「プラス値」を持つことになる理由について、国広氏は別の本で次の様に述べている。

 プラス方向に変っている理由を断定的に説明するのは難しいが、恐らく、プラス方向の方が「目立ち度が高い」(salientである)ということではないかと考えられる。(『理想国語辞典大修館書店1997:69)

 これとは逆の例――すなわち「プラス値」だったのが、ニュートラル意味になったものとして、「相性(合性)」がある。

 神永曉『さらに悩ましい国語辞典』(時事通信社2017)には次の如くある。

 なお、『大辞泉』(小学館)には補説として、「『相性が合う(合わない)』とは言わない」という説明がある。これは、「相性」にはお互いの性格が合う意味もあり(かつては「合性」という表記もあった)、「相性が合う(合わない)」では重言(同じ意味の語を重ねた言い方)になってしまうからである。やはり「相性」は「相性がいい(悪い)」と言うべきであろう。

 「相性」が本来「お互いの性格が合う」という意味であったとすれば、もともとは単独で「プラス値」だったということで、そうすると、「相性が悪い」という言い方はありにくい、ということになりはしないか。以下、「相性」が「プラス値」の義で使われた例――。

「二人はアイショウかどうか(易者に)見てもらったりしたのです」

松林宗惠『青い山脈 新子の巻』1957東宝

「二人がアイショウであるかどうかを見てもらった」

松林宗惠『続青い山脈 雪子の巻』1957東宝

 『言葉尻』に戻ると、マイクテストで「メーデーメーデー」と言うの(p.42)は初耳であったが、わたしと同世代の人(特に男性)ならば、あるいは、東映メタルヒーロー特警ウインスペクター」のOP曲、「Mayday, Mayday, S.O.S」という歌詞を思い出されるかもしれない。救難信号一種だということは、そこで「学んだ」のである

「いさめる」

 これを書いていて、ふと思い出したこと。「いさめる」について、飯間氏は「ことばをめぐる」の「子を『いさめる』」(1998.8.15)で、辞書にはおおむね「目上の人に対して忠告する意味で使われる」と説明されるが、と前置きした上で、親が息子を「いさめる」という用例が鎌倉期の『平家物語』『徒然草』に見える、と述べているが、江戸期(十八世紀)に至っても同様の例がみえる。

母なる人の、「いざ寝よや。鐘はとく鳴りたり。(略)好みたる事には、みづからは思したらぬぞ」と諫められて、…(上田秋成二世の縁」)

(親が子を―引用者)「此の頃は文明、享禄の乱につきて、ゆきかひぢをきられ、たよりあししと云ふ」など、一度は諫めつれど、…(上田秋成「目ひとつの神」)

 「目上の人に対して」と説明されるようになったのは、一体いつの頃からなのだろうか。

悩ましい国語辞典 ―辞書編集者だけが知っていることばの深層―

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亜愛一郎の狼狽 (創元推理文庫)

亜愛一郎の狼狽 (創元推理文庫)

三省堂国語辞典のひみつ

三省堂国語辞典のひみつ

たのもしき日本語 (角川文庫)

たのもしき日本語 (角川文庫)

日本語誤用・慣用小辞典「続」 (講談社現代新書)

日本語誤用・慣用小辞典「続」 (講談社現代新書)

理想の国語辞典

理想の国語辞典

さらに悩ましい国語辞典

さらに悩ましい国語辞典

春雨物語 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)

春雨物語 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)

2017-10-11 「功を奏する」か「効を奏する」か このエントリーを含むブックマーク

 再掲だが、ここに、「日本文学全集」第30巻(池澤夏樹個人編集)『日本語のために』(河出書房新社2016)所収の松岡正剛「馬渕和夫『五十音図の話』について」(pp.261-68)から

問題五十音図だけに絞っているのも効奏した(p.267)

という箇所を引いた。「効奏」は、「奏効」ないし「奏功」の誤だろう。ただし 原文には当該箇所がない。

 「奏効」「奏功」は、つまり「効を奏する」「功を奏する」ということで、以前わたしはこの表記の違いが気になって、辞書を引き較べてみたことがある。

 その時のメモが残念ながら見当らないので、手許の資料だけを頼りにこれを書くことにしよう。

---

 文化庁編『言葉に関する問答集【総集編】』(大蔵省印刷局1995)は、「『奏功』と『奏効』の使い分け」(pp.156-57)という問いを立てて、これについて説く。

 同書は、「奏功」は「てがらを天子に申し上げる」、転じて広く「功が成就する」を意味することになったと述べ、これが「ききめ」「効験」の意味で、「新薬が奏功した/事前の根回しも奏功しなかった」などと使われるようにもなった、とする。その結果、この用法に限って「奏効」の形も行われるようになったという。ただし、「功が成就する」義の「奏功を見る/奏功を確実にする/偉大な奏功/策略が奏功した」などを「奏効」と表記するのは誤りだと断じている。

 もっとも、「中国古典にも『効験』の意味で『奏効』の用例が見られるから、『奏効』という形を誤りとすることはできない」とも記しており、そのうえで次のように述べる。

 国語審議会でこの種の問題を取り上げた際の報告「語形の「ゆれ」について」(昭和36)の中の「漢字表記の「ゆれ」について」の扱いであるが、「奏功(奏効)」の形で、3の例として示されている。そこにはほかに「記念(紀念)」「親切(深切)」などがあり、次のように解説されている。

 漢字表記にゆれがあるといっても、その一方が一般的であるということで解説のよりどころとすることができるものもある。

その点で「奏功」を一般的だとするのが、この場合の扱いである

 ただし、この3のグループでは、この種の語を例示したあとに、次のような解説も加えられている。

 これらのうち、「集荷・集貨」「冗員・剰員」「奏功・奏効」「滞貨・滞荷」などは、むしろ8の例として扱ったほうがよいかもしれない。

ここで8の例というのは、「特に必要のある場合のほかは、かっこの外のものを使うようにしたらよい」とするグループのことで、「探検探険)」「精彩(生彩)」などが例示されている。いずれにしても、「奏功」と「奏効」については、「奏効」も誤りではないが、「奏功」の方が好ましいという扱いである。『新聞用語集』に「奏効→奏功」のように掲げられているのも、このような事情によるものである。(pp.156-57)

 この『新聞用語集』が何年版なのかは不明だが、2007年版の新聞用語懇談会編『新聞用語集』(日本新聞協会)では、「こうをそうする(効を奏する)→功を奏する」「そうこう(奏効)→(統)奏功」というふうに、漢語とそれを読み下したものとの両形が示されている。

 さて上の引用から、旧国語審議会の「語形の「ゆれ」について」は、「奏功」「奏効」を同義とみているようでもあり、『問答集』の態度とは立場を異にしているようにも思える。『問答集』は、「功が成就する」という意味で「奏効」を用いるのは誤りとしていたのだから

 では実際に、「奏功」「奏効」の明確な使い分けはあったのか、どうか。

 この表記の違いのあいまいさに言及したものとして、石山茂利夫『今様こくご辞書』(読売新聞社1998)が挙げられる。石山氏はかつて、「功を奏する」が正しく「効を奏する」は誤りだと思っていたそうだが、十九種の国語辞書を引いてみて驚いたという。

 「功」と「効」の項目で、「功を奏する」と「効を奏する」の両形を掲載しているのが九種、「功を奏する」のみが九種。驚いたことに、「効を奏する」だけという辞書一種あった。『三省堂国語辞典』だ。「奏功」は見出し語にしているが、「功を奏する」と「効を奏する」のどちらか一つとなれば、「功」の方ではないだろうか。いずれにしろ、半分以上の辞書が「効を奏する」を載せている。どの辞書にも誤用の注記はない。

 もっと不思議なことがある。見出し語「功」の意味説明の中にある、用例の「奏功」や「功を奏する」の掲載場所だ。「手柄」の意味のところに入れている辞書もあれば、「効き目」の意味の項に載せている辞書もある。「功」に効き目の意味があることを初めて知ったが、それにしても「功を奏する」と使う場合の「功」の意味は、手柄のことではないのか。

 『大漢和辞典』などいくつかの漢和辞典を見る。「功」と「効」は、なんと、手柄と効き目という意味共通しているのである。「奏功」「奏効」の熟語も『大漢和辞典』では類義語扱いだ。『大漢和辞典』の説明は次のようになっている。

 「奏功」――〈功をたてる。又、事の成功を君に言上する。転じて、広く事の成就すること〉

 「奏效(効)」――〈(1)いさをを奏上すること。(2)ききめがあらはれる。效を奏する。奏功〉

 「奏功」や「功を奏する」を、見出し語「功」の意味のうち、効き目のところに配している七種の国語辞典根拠は、ここにあるのだろうか。(略)

 『広辞苑』四版。見出し語「奏効」に〈(「奏功」の誤記から)〉の注がある。三版にはない。あえて、「誤記」と入れるには、相当な勇気がいる。日本語における「奏効」誕生にまつわる資料を新たに発掘、満を持しての記述に違いない。漢字迷路から脱出する突破口になると期待したのだが、空振りに終わった。勘違いによる誤りとのことだった。(p.78-79)

 そして石山氏は、『学研国語辞典(第二版)』(1988)が挙げた森鷗外阿部一族』の〈図らず病に罹って、典医の方剤も功を奏せず、…〉などの用例を根拠に、「つまるところ、(過去文人たちは)漢和辞典に見る『功』と『効』の密接な関係を踏まえた、自在な使い方をしている印象がある」(p.82)と結論している。

 ちなみに、石山氏の文中に見える『三国』は第四版(1992)をさすが、最新の第七版(2014)は、「効を奏する」だけではなく「功を奏する」も見出し語(成句)として掲げており、「功を奏する(1)成功する。奏功する。(2)→効を奏する」「効を奏する(1)ききめをあらわす。奏効する。(2)→功を奏する」と、両者は互換性のある表記と見なしている。

 山田忠雄ほか編『新明解国語辞典(第七版)』(三省堂2012)は、「功を奏する」を見出し語として、「(一)目的通りに事をなし遂げる。(二)薬の効果があらわれる」という語釈を施し、「表記」欄で、「(二)は「効を奏する」とも書く。」と注する。また「そうこう」の見出し下には「【奏功】しようと思った事を目的通りに為し遂げること。【奏効】ききめが現われること」とあり、「奏功(功を奏する)」「奏効(効を奏する)」をはっきり区別していることが分かる。「功を奏する」の第二義を、なぜ「薬の効果」に限っているのか不明だが。第三版(1981*1)を見てみると、「奏功」「奏効」の語釈表記に小異があるがほぼ同じ。一方、「こう〔功〕」の見出しのもと、「(一)(りっぱな)仕事」のほか「(二)ききめ」の語釈を掲げ、(二)のところで「功を奏する」という表現を認める。つまり「奏功」「奏効」の両者を区別するものの、「功」には薬に限らず、「ききめ」一般の義があると見なす。

 西尾実ほか編『岩波国語辞典(第七版)』(岩波書店2009)も、「奏功=従事していることが首尾よくできて、功をおさめること」「奏効=物事効果があらわれること」と語釈を施しており、両者を区別する。

 石山著が刊行された後に出た北原保雄編『明鏡国語辞典(第二版)』(大修館書店2010)は、日本語の「俗用」「誤用」にうるさいことでも知られるが、「功を奏する 成功する。うまくいく。(略)【表記】「こう」は「効」とも書く」、「こう【効】」の欄にも「ききめ。『―を奏する(=功を奏する)』とあるから、両者が通用することを認めている。意外なことに、ゆるやかな運用である

 一方「そうこう【奏効】」については、「表記」欄に、

効果視点を置いて「奏功」が「奏効」と書かれるようになった語。新聞では「奏功」を使う。

とあり、『問答集』と同様のことを述べている。

 では、古い辞書類はどうか。まず、実質的見坊豪紀執筆した金田一京助編『明解國語辭典(初版)』(三省堂1943*2)は、

そお‐こお【奏功】ソウコウ(名)(一)使命の經過を奏上すること。(二)なしとげること。(三)奏效。

そお‐こお【奏效】ソウカウ(名)ききめがあること。奏功。

と両者の通用を認める。

 もう少し遡る。一部引用を略すが、上田萬年『ローマ字びき國語辭典』(冨山房1915*3)は、「奏功」の表記のみ掲げ、「1.成功したことを,申し上げること. 2.ききめがあること.効驗のあらはれること. 3.成功すること.」と解する。翌々年刊の井上哲次郎ほか編『ABCびき日本辭典』(三省堂)も「奏功」の表記のみ掲げ、「(い)使命又は職事などををへて、其經過を奏上すること。(ろ)事功を成就すること。成功すること」とする。こちらには「ききめ」がない。

 その少し後に出た、大町桂月監修『國語漢文ことばの林』(立川文明堂1922*4)も「そうこう(奏功)手柄をたてるコト」のみ、大正末年の大町桂月編『コンサイス新辭典』(文武書店1925*5)も「そうこう【奏功】手柄をあらはすこと」しか採録していない。同時期の保科孝一ほか著『大正漢和字典』(育英書院1926)も、やはり「【奏功】ソウコウ てがらをたてる「日露役に奏功して金鵄勳章を授けらる」」のみである

 さらに遡る。湯淺忠良編輯『廣益熟字典假名引之部』(片野東四郎1875刻成)も、「奏功(ソウコウ)テガラヲ申シアゲル」(八十三丁ウ)のみ。中村守男輯『新撰字解』(奎文閣1872官許*6)は、「奏功」を「コウヲソウス」と読み下しており、「テガラヲ天子ヘモウシ上ル」(四十九丁ウ)とする。

 こうして見てくると、日本語としての「奏効(効を奏する)」は、「奏功(功を奏する)」の新しい表記とも見なせそうである。まだまだたくさんの辞書等を見る必要があるし、簡単結論してはいけないけれども。

 では、「奏効(効を奏する)」表記の古い用例はどこまで遡れるのだろうか。

 さきに見た石山著は、『新潮現代国語辞典第一版)』(1985)が芥川龍之介点鬼簿』の「生憎その勧誘は一度も効を奏さなかった」という用例を引き、また『学研国語辞典(第二版)』が谷崎潤一郎細雪』の「いろいろのことが効を奏して案じた程でもなく良くなっていった」という用例を引くことに言及している。

 わたしの見つけた用例としては、同じ芥川の、

僕は佐藤春夫氏と共に、「冥途」を再び世に行わしめんとせしも、今に至って微力その効を奏せず。(「内田百間氏」*7石割透編『芥川竜之介随筆集』岩波文庫2014:361)

が挙げられる。同時期のものに次の例がある。

目安箱の上書が効を奏して、(吉川英治鳴門秘帖(二)』吉川英治歴史時代文庫:98)

 この例などは、はっきりと「ききめ」に力点を置いた用例といえる(ちなみに吉川の『鳴門秘帖』に関しては、ここで書いた)。

 ちょっと時代が下るが、

この我の勸告(すゝめ)は、なんらの效もなく、無知なる輩の勸告ぞ、效を奏しぬ。(豊島与志雄訳『千一夜物語(一)』岩波文庫1940:107)

というのもあった。

 戦後であれば、

いつかはこの毒入りのアンプルが効を奏することは当然期待出来た(高木彬光人形はなぜ殺される(新装版)』光文社文庫2006(←1955)*8:368)

この思い切ったほのめかしで、実直なる宿屋の亭主の疑念を消そうとしたのである。これはありがたいことに、いくぶんの効を奏した。(西村孝次訳/バロネス・オルツィ『紅はこべ(新版)』創元推理文庫2017(←1970修訂←1958)*9:254)

などがあり、後者西村訳には、「この国がまたもや労多くして効少ない戦争に乗り出すには」(p.34)という用例も見られるから、「功」「効」両字を通用しているらしいことが知られるのである。そういえば、この「労多くして功(効)少なし」という表現こそ、「功」に「ききめ」の義があることを示す成句だといえないだろうか。

 最後に、「青空文庫」を探ってみると、「奏効」のもっと古い例――南方熊楠十二支考』の「蛇に関する民俗伝説」(1917)の「これらいずれも応急手当として多少の奏効をしたらしい」、同じく「猪に関する民俗伝説」(1923)の「東洋に古く行われた指印から近時大奏効し居る試問法」が拾えた。さらに、吉川英治の『新書太閤記』の用例も引っかかった。

 また、「効を奏」で検索したところ、谷崎潤一郎「途上」や豊島与志雄文学以前」の用例、柳田国男『山の人生』『木綿以前の事』等が引っかかってきたから芥川、谷崎、豊島吉川柳田など、「効を奏する」という表記を好んで用いたらしい書き手には偏りがある、つまり一種個性であるようにも思えてきたのだった。

 もちろんこれも、簡単結論を出せる問題ではない。とにかくたくさんの用例を集めてみるまでは、まだ何とも云えない。

言葉に関する問答集 総集編

言葉に関する問答集 総集編

今様こくご辞書

今様こくご辞書

明解国語辞典

明解国語辞典

芥川竜之介随筆集 (岩波文庫)

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鳴門秘帖(二) (吉川英治歴史時代文庫)

鳴門秘帖(二) (吉川英治歴史時代文庫)

人形はなぜ殺される 新装版 高木彬光コレクション (光文社文庫)

人形はなぜ殺される 新装版 高木彬光コレクション (光文社文庫)

紅はこべ (創元推理文庫 507-1)

紅はこべ (創元推理文庫 507-1)

*1:手許のは1986年2月1日第39刷。

*21997年刊の復刻版を参照。

*3:手許のは1916年4月28日22版。

*4:手許のは1923年1月25日第5版。

*5復興初版。手許のは1926年5月10日第4版。

*6:手許のは1874秋再版

*7:初出:1927年8月文藝時報」。後で、青空文庫に収録されていることを知ったのである

*8:もと1955年講談社から書下しで刊行

*9旧版1970年刊、もと1958年1月、『世界大ロマン全集』の一巻として刊行

2017-10-06 岩田宏『渡り歩き』のことから このエントリーを含むブックマーク

 「デュ・モーリア」というと、ミステリ好きや映画好きは、おそらくダフネ・デュ・モーリアを思い浮かべることだろう。わたしもそのくちで、ヒッチコック作品を経由して彼女を知り、文庫版でいくつかその作品を読んだ。

 しかしその祖父、“ジョージ”・デュ・モーリア挿絵画家にして作家であったことを知る人は、果してどれくらいいらっしゃるだろうか。ダフネ・デュ・モーリア文庫解説、たとえば務台夏子訳の『鳥―デュ・モーリア傑作集』(創元推理文庫2000)でも、ジョージについては次のような一行で済まされるだけだ――すなわち、

 ダフネ・デュ・モーリアは、一九〇七年五月一三日にロンドンに生まれた。祖父ジョージデュ・モーリアは高名な小説家画家ジェラルドはこれまた名の知られた舞台俳優演出家、母ミュリエル舞台女優――という芸術家一族(ちなみに、姓から推測される通り祖先フランス亡命貴族〈エミグレ〉である)に生まれた彼女は、正規学校教育を受けることなく、二人の姉妹とともに家庭教師から教育を授かった。(千街晶之解説」p.540)

 ジョージデュ・モーリアを知ったのは、岩田宏渡り歩き』(草思社2001)所収の「夢の領域」(pp.141-53)によってである岩田氏は、1940〜50年代アメリカミステリに「ピーター・イベットスン」が周知の人物としてたびたび登場することに興味をひかれ、その正体を探るうち、ジョージへと辿り着くこととなる。

 ジョージ・デュモーリアは、長年「パンチ」誌で漫画を描き、他にたくさんの本の挿絵を描きつづけて、「挿絵漫画キャプション以外には文章らしきものは書いたこともなかったのに」、五十七歳の年に突如、長篇小説ピーター・イベットスン』(一八九一)を、三年後には長篇『トリルビー』を出して、どちらも大評判になる。(略)生涯の最後最後に文筆の才能を思いもかけず開花させて、この特異な挿絵画家が亡くなったのは一八九六年。翌九七年には三冊めの小説『The Martian』が出る。

ピーター・イベットスン』と『トリルビー』の初版本には、作者自身の描いた挿絵が数えきれないほどたくさん入っていた。挿絵画家漫画家としてのデッサン力や人間観察の妙が遺憾なく発揮された美しいペン画だ。一九三〇年代の初めに『ピーター・イベットスン』は「モダンライブラリー」に、『トリルビー』は「エヴリマンズ・ライブラリー」に改めて収められ、どちらの版でも挿絵はそのまま残っている。これ抜きでは価値が半減するとでもいうように。つまり、これらの作品では、画家の余技にすぎない文章が、挿絵の支えでようやく成立している? とんでもない! 二つの小説文章はいずれも、入り組んだ構文、ちょっと気取った語彙、品のよい諧謔など、いかにも十九世紀末産物らしい特徴を備えた、当時の達意の「名文」なのだ。デュモーリアはヘンリ・ジェイムズの友人だったそうだから、たぶん「パンチ」誌の漫画を描きながらも絶えず文学を愛好しつづけ、「文学老年」となって初めて年来の思いを遂げたということなのだろう。このような名文と、お手のものの美しい挿絵が組み合された結果、もたらされたのは一種の飽和状態、もはや抜き差しならぬ美的構造、どこを切っても滲み出てくる華やかさだ。フランス語単語や文が頻出することも、この華やかさに独特の香りを添えている。(pp.144-45)

 それから岩田氏は、(デュ)モーリア家の系譜をたどり、『ピーター・イベットスン』『トリルビー』の内容を紹介するのだが、ジョージの孫娘ダフネが「『レベッカ』よりも前に『デュモーリア家の人々』(一九三七)という実録本を出している」(p.153)ことも、岩田氏のこの文章で初めて知った。

 上で一例を挙げたように、『渡り歩き』は、忘れ去られた作家や知られざる傑作に光を当てていて、巻措く能わざる面白みが有る。

 まずはそのタイトルが良い。これは、次のような一節に由来する。

 全く、本など手元になくても何ら不都合が生まれないことは、私たち常識だ。同胞過半数あるいは圧倒的多数が本なんか読みゃしないという事実を、もし忘れかけていたのなら、もういちど頭に叩きこんでおこう。叩きこんだ上で、なおかつ私は本を読む。本から本へと渡り歩く。これは一体どういうことなのか。

 説明は、理由は、徐々にかたちづくられるだろう。焦ることはない。(「幻灯機」p.7)

 「本から本へと渡り歩く」。なんとまあ、絶妙表現ではないか

 この表現、そして『渡り歩き』に触発されてエッセイを書いたのが、津野海太郎である

 「岩田宏小笠原豊樹」という事実は、何を隠そう、その津野氏の『百歳までの読書術』(本の雑誌社2015)で知り*1、驚いたのだった。この本に収められた「本から本へ渡り歩く」「老人にしかできない読書」「ロマンチックトライアングル」の三篇に、岩田宏小笠原豊樹氏が登場する。

 岩田宏は『独裁』や『いやな唄』などの詩人としてのペンネームで、エッセイ小説を書くときもこの名をつかう。

 その一方で、かれは東京外国語大学ロシア語学科をでて、英語フランス語にもつうじていたからマヤコフスキー詩集ジャック・プレヴェール詩集にはじまりレイ・ブラッドベリの『火星年代記』やロス・マクドナルドの『ウィチャリー家の女』にいたる、たくさんの翻訳本をだしている。翻訳のさいはペンネームではなく本名小笠原豊樹を名のった。(「本から本へ渡り歩く」p.164)

 「ロマンチックトライアングル」の末尾では、「追記」として、岩田小笠原氏が二〇一四年十一月に亡くなったことが記されている。

 わたしは当時の新聞記事で、岩田小笠原氏が亡くなったことを知ってショックを受け、土曜社から刊行中だったペーパーバック版の小笠原訳「マヤコフスキー叢書」(全十五冊)はどうなるのだろう、と思っていたが、一部は旧訳のまま全巻完結したようだ。

 このように小笠原訳の小説詩集は、歿後も形を変えて刊行されつづけている。

 今夏には、小笠原訳の『プレヴェール詩集』が岩波文庫に入った。

 この文庫版は、ユリイカ(のち河出書房マガジンハウス)で出た同名詩集所収の全詩篇ベースに、『唄のくさぐさ』(昭森社1958)所収の七篇、シャンソン「枯葉」、そしてマガジンハウス版の小笠原氏による解説と、谷川俊太郎氏の「ほれた弱味―プレヴェールと僕」(初出:「ユリイカ」1959.8)とを加えた決定版である。この元版を愛惜するのは谷川氏だけでなく、たとえば高崎俊夫氏などもそうで、「岩田宏、あるいは小笠原豊樹をめぐる断想」では、「何度、読み返したかしれない」と書いている(当該エッセイ存在はつい最近知ったばかり)。その結びには「私は、今、岩田宏小笠原豊樹映画エッセイ集を編んでみたい、というささやかな夢想にふけっている」とあるが、清流出版のあのしゃれた単行本ここでその一冊、『目的をもたない意志』に触れたことが有る)で、いつの日か、出してくれるのだろうか。

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 ところで岩田氏は、「本番の舞台でも、レジアニはこのしぐさがどうしてもうまくいかず、妙にぎごちない動きになってしまう」(「最終便」『渡り歩き』p.189)と書いているように、「ぎごちない」の使用者である

 わたし言葉の「用例拾い」をひそかな(?)趣味としており(「日本語の用例拾い」御参看)、書き手が「ぎごちない/ぎこちない」のどちらを使うのか、少しばかり気になる。「ぎこちない」派ならメモはしないが、「ぎごちない」派ならばメモをとる。

 最近では、神永曉『さらに悩ましい国語辞典』(時事通信社2017)がこの問題について書いていた。

 一般的意識としては、「ぎこちない」を使うという人の方が多いのではないだろうか。だが、1992(平成4)年に刊行された『NHKことばのハンドブック』では、「ぎごちない」が第一の読みなのである

 ただ、第二の読みとして「ぎこちない」も掲げているので、NHKも「ぎこちない」の存在は認めつつも「ぎごちない」が好ましいと考えていたようなのである。その時期の国語辞典はどうかというと、「ぎごちない」派と「ぎこちない」派がまちまちである

 ところが、2005(平成17)年に刊行された『NHKことばのハンドブック』の第2版では「ぎこちない」が第一の読み、「ぎごちない」が第二の読みと逆転させてしまった。わずか十数年の間に「ぎこちない」派が優勢だと判断されたようである

 最近国語辞典も「ぎこちない」を見出し語として、「ぎごちない」を解説の中で触れるだけのものが増えてきている。(pp.71-72)

 さて岩田氏は、「あるインタビューから」のなかで、

著者の名前で買うこと? あります、あります泡坂妻夫なら全部買う(笑)。(『渡り歩き』p.204)

と書いているのだが、その泡坂も、「ぎごちない」の使用者であった。

動きはぎごちないが、女らしい丸みを美しく感じた。(『湖底のまつり』創元推理文庫1994:228)

熱演には違いないが、緋紗江の目にもどこかぎごちなく、幼かった。(同上p.233)

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 この記事をアップした後『渡り歩き』のリンクを辿り、最近よく拝読する二つのブログ、「本はねころんで」と「とり、本屋さんにゆく」とが同書に何度も言及されていたことをはじめて知り、とても嬉しくなりました。

 書影をアップすると、こういう愉しみも有りますね。

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渡り歩き

渡り歩き

百歳までの読書術

百歳までの読書術

さらに悩ましい国語辞典

さらに悩ましい国語辞典

湖底のまつり (創元推理文庫)

湖底のまつり (創元推理文庫)

*1:正確には、「本の雑誌」連載時のことである

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2017-10-02 青木正児、鈴木虎雄、桂湖村 このエントリーを含むブックマーク

 前回の記事青木正児(1887-1964)に触れたが、その青木は、櫻井正一郎『京都学派 酔故伝』(京都大学学術出版会2017)pp.346-73でも紹介されている。

 櫻井氏は青木を「狷介な隠者」(p.373)と評し、鈴木虎雄(1878-1963)−青木ラインが形づくる系譜を、京都学派の云わば“傍流”的なものと看做している。

 迷陽青木正兒は、師の豹軒鈴木虎雄とともに、作品を味わって楽しんだ。その態度は儒家のものだった中国文学研究を変え、また京都学派の学統に欠かせない葉脈を成した。世間の関心が、『世界史立場日本』と『近代の超克』が提起した、世界の大問題に向ったのは当然であった。にもかかわらず、鈴木青木の学風という、いわば日蔭に咲いていた小さな花にも、小さな花としての値打ちがあった。その値打ちを語ることが、文学における京都学派を語るとき欠かせない。(pp.370-71)

 また青木の『華国風味』を「『名物学』の最初著作」(p.354)と位置づけ*1、そこに収められた「陶然亭」「花甲寿菜単」を紹介しつつ*2青木の鑑賞主義立場を強調し、次のようにも評する。

 鑑賞を重んずるのは青木だけの態度ではなく、文学研究における過去京都学派文学系の態度であった。彼らが尊重した鑑賞とはどういうものか。それは受動的な態度ではなく、作品を豊穣にする能動的な態度である。この態度を身上としたのが青木の師、豹軒鈴木虎雄(一八七八−一九六三)だった。鈴木は学匠詩人で、『豹軒詩鈔一四巻附録一巻』、『豹軒退休集』などがあった。これは鈴木学問が鑑賞を重んじていたのに通じていた。(p.367)

 櫻井著のキーワードの一つとなっているのが清朝考証学派の重んじた「實事求是」で、湖南内藤虎次郎と君山狩野直喜とをその濫觴における唱導者として挙げている。そして東洋学に端を発するこの思想が、国文学考古学など学科の別を問わず京都学派の各学統を貫く理念になった、と結論している。

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 ところで「實事求是」は、櫻井著には「じつじきゅうぜ」とルビが振られているが(p.5)、小川環樹吉川幸次郎博士を悼む」*3(『談往閑語』筑摩書房1987所収)には「実事求是(ぐぜ)」(p.92)、同「経学から文学への道程―私の見た吉川博士学問―」*4(同前所収)にも「実是求是(ぐぜ)」(p.97)とあり、初期は呉音系で読まれていたらしいことがわかる。あるいは学統によって読みを異にしていたのであろうか。例えば『玉篇』の読みが国語学系「ごくへん」:中国文学系「ぎょくへん」、『古今韻會擧要』のそれが或は「ここんいんねこよう」(「いんはいわゆる連声である)、他方は「ここんいんかいきょよう」である様に……。

 小川の『談往閑語』には、豹軒についての文章もいくつか収めてある。「鈴木虎雄先生のこと」*5、「豹軒先生詩学および詩風の一端」*6、「『豹軒退休集』について」*7、「鈴木虎雄先生をしのぶ」*8の四篇がそれである。「鈴木虎雄先生のこと」から一寸引用しておこう。

先生がたんに漢詩人としてだけではなく、和歌製作に熱情を傾けられた時期があったことをしるしておくのは、たぶんまったくむだなことではないであろう。たいへん恥ずかしいことであるが、実は私は長いあい先生の門下に業をうけたにかかわらず、先生和歌作品を目にする機会はきわめて少なかった。昨年あけび叢書の一冊として、『葯房(やくぼう)主人歌草』が出版され、私どもも始めてその全貌に接することができたのであった。(pp.46-47)

 豹軒が和歌詠み手としてもすぐれた才覚を示したというのは、村山吉廣氏も言及するところであった。

 ちなみに豹軒鈴木虎雄にも漢詩集のほか、短歌の詠草があるが、豹軒は長善館では湖村に兄事して学んだのち、上京後は湖村に就いて和歌を習い、やがて根岸短歌会に入り、子規に愛され、湖村とともに日本新聞和歌の選に当った一時期がある。

 湖村が『日本』に拠って漢詩の選評をしていたころの明治漢詩壇は森春濤・槐南父子らの「清詩派」が圧倒的な勢力を持っていた。これに対し、湖村は副島蒼海・国分青僉石田東陵らと結んで別派の旗幟を立てて漢魏六朝の詩を高唱した。(村山吉廣『漢学者はいかに生きたか近代日本と漢学〉』大修館書店あじあブックス1999:138)

 文中の湖村は桂湖村(1868-1938)。今春、村山氏は『湖村詩存』(明徳出版社)を翻刻刊行しており、巻末に「桂湖村伝―桂湖村の生涯と学績―」(pp.79-140)を附している。そこには次の如くある。

 鈴木虎雄は先にも記したように、湖村が若くして新潟いたころ籍を置いた長善館時代に、近くの小学校で教えた一人であり、成人して上京後は湖村と共に新聞日本」にも入ったが、のち湖村に誘われて早稲田の教壇に立ったこともあった。後、京都大学教授として中国文学を講じ、漢詩人豹軒先生の名も高いが、最後まで湖村の愛弟子であり湖村への「悼詩」も残している。(p.122)

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 前回の記事でうっかり忘れていたが、「実在」の陶然亭もある(料亭ではないけれど)。これは芥川龍之介北京日記抄」にも出る。

 陶然亭。古刹慈悲浄林の額なども仰ぎ見たれど、そんなものはどうでもよし。陶然亭は天井を竹にて組み、窓を緑紗にて張りたる上、蔀(しとみ)めきたる卍字の障子を上げたる趣、簡素にして愛すべし。名物精進料理を食いおれば、鳥声頻に天上より来る。ボイにあれは何だと聞けば、――実はちょっと聞いて貰えば、郭公(ほととぎす)の声と答えたよし。(山田俊治編『芥川竜之介紀行文集』岩波文庫2017:269)

 注解に、

陶然亭 元代創建仏教寺院「慈悲庵」(または「黒窑廠観音庵」)内に、清代に造られた亭。(p.368)

とある

湖村詩存

湖村詩存

*1:なお後にも述べる小川環樹見方によると、「博士青木)の名物の学は、あるいは京都大学において師事した幸田露伴の教えに導かれたのかもしれぬ。宋詩などに見える「釣車」が英国人リールとほぼ同一の品であることを最初に語ったのは露伴だった。その追憶はやはり『琴棋書画』に見えている」(「青木正児先生江南春』解説)という。

*2:前回推測したとおり、やはり1949年刊の単行本からこの二篇は附録としてついていたようだ。

*3:初出:「京都新聞昭和五十五(1980)年四月九日付。

*4:初出:昭和五十五年七月「ちくま」。櫻井著にも引用されているが(p.20)、なぜか若干の字句の異同がある。

*5:初出:昭和三十二年八月「新潮」。

*6:初出:昭和二十九年十二月・翌年四月「雅友」第二十一・二十二号。のち昭和三十九年十二月吉田町教育委員会『豹軒鈴木虎雄先生』。ちなみに今関天彭著/揖斐高編『江戸詩人評伝集2―詩誌『雅友』抄』(平凡社東洋文庫2015)附載の「『雅友』総目次」を見ると、当該題は「鈴木豹軒先生詩学および詩風の一端」となっている。

*7:初出:昭和三十一年七月「雅友」第二十九号。のち昭和三十九年十二月吉田町教育委員会『豹軒鈴木虎雄先生』。同前「『雅友』総目次」を見ると、これも「豹軒退間集について」と異なっている。「雅友」の誤植ないしは東洋文庫誤記か。

*8:初出:「朝日新聞昭和三十八年一月二十一日付。

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2017-09-01 青木正児「陶然亭」 このエントリーを含むブックマーク

 神吉拓郎短篇集『二ノ橋 柳亭』が光文社文庫に入った。

 この作品集が、『二ノ橋 柳亭』というタイトル刊行されるのは初めてのことで、かつては『ブラックバス』という題で文春文庫に入っていた。

 春先に、大竹聡編『神吉拓郎傑作選1 珠玉短編』(国書刊行会)、神吉拓郎私生活』(文春文庫)を読んで慰められるところが大いにあり、清張の名篇「発作」に似た味わいのある「警戒水域*1や、「涅槃西風」、「鰻」、「心のこり」、「信濃食堂の秋」、「ブラックバス」あたりは、とりわけ印象に残ったものだった。しか国書刊行会の選集には、「二ノ橋 柳亭」が択ばれていなかったので、さっそく光文社文庫版を求め、帰省時の車中で表題作からじっくり読んでみたところ、これがまた一読三嘆の佳品であった。何より、文章がいい。併録の色川武大室内楽文学」によると、神吉は相当な遅筆だったらしいが……。

 さてこの「二ノ橋 柳亭」に、次のようなくだりが有る。

 と、村上の方に向き直ると、

「きみ、青木正児という人を知ってるか」

 と訊いた。

 あまり唐突質問なので、村上は戸惑った。咄嗟に思い当らないままに、問い返すと、三田自分質問の性急さに少々照れた様子で、こういい改めた。

「まあ、だしぬけにそういわれてもわからないだろうがね。学者なんだ。元曲といってね。シナの、元の時代戯曲が専門なんだが……」

(略)

「この間の戦争が終って、その翌年あたりのことだが……」

 君がまだ生れる前のことになるかな、ま、とにかく古い話だ、と、三田は前置きをした。

 或る雑誌に、その青木先生の筆で、〔陶然亭〕という随筆が載った。

 学者としてばかりではなく、随筆家としても、すでに高名な人であった。

 その題名の通り、話題はその陶然亭という呑み屋で終始している。

 その店のたたずまい、主人の気っぷ、いい酒、気のきいたさかな、と、手にとるように写し取ってあるので、酒呑みは、さあ、たまらない。

 戦後のすさみ切った世の中に、まだそんな店があったのかと、わざわざ、文中に書かれた京都高台寺××町を尋ね歩いた人もあった。

 ××町と、わざと詳しい住所が伏せてあるので、探すのも容易ではない。その人は足が棒になるほど歩いて、とうとう見つけられないまま帰って来て、その後、その陶然亭が架空の呑み屋であることを知った。

 念の為に、知合いを通じて、ひそかにその青木先生にお伺いを立てると、やはり実在しないことがわかって、その人は安心すると同時に失望もした。しかし、時がたつにつれて、あらためてこの学者の雅気に、むしろ感心するようになった。(pp.159-60)

 この記述について、荻原魚雷解説――みんな神吉拓郎が好きだった」(光文社文庫で新たに附された)が、「架空評論家三田仙之介―引用者)が書いた架空の店の話の中に実在人物が書いた架空の店の話が出てくる。ちょっとややこしい」(p.261)と書いているとおり、青木正児(まさる)*2随筆「陶然亭」は実在する(「陶然亭」という飲み屋架空の店である)。

 そして、上の引用文中で「或る雑誌」とされるのは「知慧」のことで、「陶然亭」は、昭和二十一年十月、同二十二年五月の二回にわけて掲載された。

 この「陶然亭」がまた、「書巻の気」をひそませた名篇で、再読三読に値する作品なのである。ことに、「陶然亭酒肴目録」全目を数ページに亙って掲げたところなどは壮観だ。手が込んでいる。実在の店と思いなした向きがあったのも故なしとしない。

 「陶然亭」は、後に青木正児『華国風味』(岩波文庫1984)のなかに「花甲寿菜単」*3とともに「附録」として収められた。そもそも元本(弘文堂刊、昭和二十四年)が収めていたのだろうが、まだ確かめていない。なおこの架空の店の名前、ひいては随筆タイトルは、

そして旨い旨くないにかかわらず、何か変った物に出くわすと狂喜して酒味が一段と引立ち、知らず識らず唇は頻りに盃を吸い寄せ、膏液は舌上を流れて咽に下り、興会飄挙(こうかいひょうきょ)して陶然頽然(たいぜん)、玉山遂に倒るるに至るものである。(pp.199-200)

という記述に由来するものでもあろう。

 青木はその後、『抱樽酒話』(アテネ文庫1948)の「はしがき」で、この随筆について言及している。執筆動機にも触れているし面白く感じもしたので、以下に全文を引用して置こう。

 先頃私は酒徒の天國を痴想した戲作一篇を草して「陶然亭」と題し、「抱樽病夫」の假名で雜誌「智慧」に掲載した。すると此の度弘文堂で「アテネ文庫」を叢刊するに付き、早速酒の話を私に割當て、「抱樽酒話」と云ふ題まで考へて來てくれた。下地はすきなり題もよし、よし\/と其のまゝ受納れることにしたが、さて樽は空樽。

 元來かの「陶然亭」一篇は、をとどしの正月から三月ばかり榮養失調で床に就いた所の、つれづれのすさびであつたが、病間一日弘文堂主人が見舞に來て、「榮養失調なら白米を食ふと癒りますよ」と云ふ。「馬鹿な、白米ぐらゐで癒つてたまるものか。白米のエッキスが缺乏してゐるのぢや」とはね返せば、「それでは其のお藥を何とか致しませう」と約束して去つた。果せるかな此の藥の効きめで私は日に増し元氣づき、去年の秋には體重も一貫目だけ取戻して、某月某日天氣晴朗、一瓢を携へて老妻と杖を北郊に曳くほどの浮れた氣持にさへなつて來た。

 と云ふやうな次第で、弘文堂から酒話を一册と頼まれては、義理にも斷るわけにゆかぬ。いや寧ろ調子に乘つて快諾したのであるが、遺憾ながら私はただの酒ズキで酒ツウでない。書齋に籠つて古本いぢりするより外に藝は無く、漢文畑の隱居仕事ゆゑ、陳腐なところは幾重にも御容赦。(pp.3-4)

 青木はこの『抱樽酒話』につづいて『酒の肴』もアテネ文庫から出しているのだが(昭和二十五年十月)、「余りにも活字が小さくて読みづらく、余りに小冊子で紛失の恐れもあるので、この二書を今少し大きい活字で、一冊に纏めておきたい」という思いから、合冊して訳文の「酒顚」を加え、筑摩書房版『酒中趣』として刊行している(昭和三十七年刊、のち筑摩叢書昭和五十九年刊)。

 その後、「酒顚」の翻訳部分を省いた『酒の肴・抱樽酒話』(岩波文庫1989)が刊行されており、これは今のところ品切になっていない。で、いま『酒の肴・抱樽酒話』を披いて気づいたのだけれど、上で引いた「はしがき」はこの岩波文庫版でも読めた(pp.127-28)。もっとも、「三月」:「三箇月」、「日に増し」:「日増しに」など若干字句の異なるところもあるし、せっかくなので、全文を掲げたままとしておく。

二ノ橋 柳亭 (光文社文庫)

二ノ橋 柳亭 (光文社文庫)

神吉拓郎傑作選1  珠玉の短編

神吉拓郎傑作選1 珠玉の短編

華国風味 (岩波文庫)

華国風味 (岩波文庫)

酒の肴・抱樽酒話 (岩波文庫)

酒の肴・抱樽酒話 (岩波文庫)

*1:「発作」の主人公が罪を犯してしまうのに対し、「警戒水域」の主人公はどうにか思い止まる。なお、TVドラマ半沢直樹』の滝藤賢一演出には、「警戒水域」の描写を思わせるところが有った。

*2:どうでもよいことだが、この「まさる」の振り仮名、本文中にはないのに荻原氏の解説にはある。

*3:初出:昭和二十二年八月「支那学」。こちらも必読の随筆である

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2017-07-31 『首塚の上のアドバルーン』と『太平記』と このエントリーを含むブックマーク

 後藤明生首塚の上のアドバルーン』(講談社文芸文庫1999)*1は、「ピラミッドトーク」「黄色い箱」「変化する風景」「『瀧口入道』異聞」「『平家』の首」「分身」「首塚の上のアドバルーン」の七つの中短篇から構成される連作小説である

 著者が1985年の夏*2マンションの十四階に転居してくるところから物語は始まる。その「近景がない」(「ピラミッドトーク」)眺めのベランダから見える「こんもり繁った丘のようなもの」(「黄色い箱」)にふと目を留め、それが馬加康胤(まくわりやすたね)の首塚だと知る。

 「変化する風景」以下の五篇は書翰体の形式をとっており、ひたすら首塚文学作品における首級を巡る考察が続く。

 「変化する風景」には、「祇王寺から首塚までは、せいぜい五十メートルくらいの距離でしょう。『平家物語』の祇王と、『太平記』の義貞との時間差は、約百六十年です。その祇王の墓と義貞の首塚が、五十メートルの距離の中にある。それが京都だ、ということになるのでしょう」(p.80)という一節が有るが、この小説自体、『太平記』『平家物語』はじめ、『瀧口入道』、『日本城郭大系』、『千葉大系図』、『仮名手本忠臣蔵』、ベンヤミンドストエフスキー、ブルワー=リットンボルヘス、『楠木正成』(大谷晃一)、『室町小説集』(花田清輝)、「二条河原落書」、謡曲「鞍馬天狗」、「鎌倉」(文部省唱歌)、「大楠公」(落合直文作詞)、「四条畷」(大和田建樹・作詞小山作之助・作曲)、堀内敬三『定本・日本の軍歌』等から夥しいまでの引用がなされている。つまり、時代や地域、ジャンルを全く異にした作品群が同一のフラットな小説空間に置かれるわけで、上引をもじって言うならば、「それが小説だ」、ということになるのだろう。

 このうち最も頻繁に引用・参照されるのが『太平記』で、「変化する風景」だけで少なくとも八箇所の引用がみられる。

 岩波文庫版の兵藤裕己校注『太平記』(全六巻、2014-16)によってその当該箇所を探ったところ、引用部分によってはかなりの異同があった。二、三の例を見てみる。

 まず後藤による引用から。新田義貞が初登場する場面である

 上野(かうづけの)国の住人新田(にったの)小太郎義貞と申すは、八幡太郎義家十七代の後胤、源家嫡流(げんけちやくりう)の名家なり。しかれども平氏世を執つて、四海皆その威に服するをりふしなれば、力無く関東の催促に従つて、金剛山の搦手(からめで)にぞ向はれける。

 ここにいかなる所存か出で来にけん、ある時、執事船田入道義昌を近づけてのたまひけるは、「いにしへより源平両家朝家(てうか)に仕へて、平氏世を乱る時は源家これを鎮(しづ)め、源氏上(かみ)を侵(をか)す日は平家これを治む。義貞不肖(ふせう)なりといへども、当家の門楣(もんび)として、譜代弓矢の名を汚(けが)せり。しかるに今、相模入道の行跡を見るに、滅亡遠きにあらず。われ本国に帰つて義兵を挙げ、先朝の宸襟(しんきん)を休めたてまつらんと存ずるが、勅命をかうむらでは叶(かな)ふまじ。いかがして大塔宮令旨(りやうじ)を賜つて、この素懐(そくわい)を達すべき」と問ひたまひければ、云々(巻第七「新田義貞綸旨を賜ふ事」―「変化する風景」pp.81-82)

 これが岩波文庫本では次のようになっている。

 上野国の住人新田小太郎義貞と申すは、八幡太郎義家十七代の後胤、源家嫡流名家なり。しかれども、平氏世を執って、四海皆その威に服する時節(をりふし)なれば、力なく関東の催促に随つて、金剛山の搦手にぞ向かはれける。

 ここに、いかなる所存かありけん、或る時、執事船田入道義昌を近づけて宣ひけるは、「古へより、源平両家朝家に仕へて、平氏世を乱る時は、源氏これを鎮め、源氏上を侵す日は、平家これを治む。義貞、不肖なりと云へども、当家の門楣として譜代弓箭の名を汚せり。しかるに今、相模入道の行迹を見るに、滅亡遠きにあらず。われ本国に帰つて義兵を挙げ、先朝の宸襟を休め奉らんと存ずるが、勅命を蒙らでは叶ふまじ。いかがして大塔宮令旨を給はつて、この素懐を達すべき」と問ひ給へば、云々(第七巻「義貞綸旨を賜る事」―『太平記(一)』岩波文庫pp.344-45)

 この箇所については、「所存か出で来にけん」か「所存かありけん」か、そして「問ひたまひければ」か「問ひ給へば」か、という相違を除けば、さほど違いがないように見える。しいていうと、岩波文庫本の方が漢字で表記される語がやや多い点くらいか。しかしそれは校注者の態度によっても違ってくる部分なので、比較してもさほど意味はないことだろう。

 そもそも後藤が参照したのはどんな本だったかというと、作中に「実はわたしは、新潮日本古典集成の『太平記』(山下宏明・校注 全五冊)をずっと愛読しているのですが」(「分身」p.150)とあるので、引用もこれに基づいていると思しい。

 『太平記(四)』(岩波文庫)附載「[解説4]『太平記』の本文(テクスト)」によれば、岩波文庫本の底本は「西源院(せいげんいん)本」(原本は漢字片かな交じり)と呼ばれる古本系の一種で、「応永年間に書写され、現存本の転写が行われたのは、大永・天文年間であるという」(p.469)。一方、新潮日本古典集成本や岩波古典文学大系本が底本としているのはいわゆる「流布本」で、これは近世(慶長年間以降)に校訂・版行されたもの。「誤写や脱文が少なく、また誤字・当て字も少ないなど(ほかに、係り結びの乱れも少ない)、かなり整備された本文を持つ」という(p.503)。

 さて引用本文に戻ると、上引で表明される「源平交代」史観は、当時の日本では人口膾炙した歴史観であったようだ。そのゆえにか、宣教師たちも『太平記』を『平家物語』と並ぶ「源平交代」史観歴史書と見なしていたようで、キリシタン版『太平記抜書』にも「古へより、源平両家朝家に仕へて」云々というくだりはそのまま収録されているという(神田千里『宣教師と『太平記』―シリーズ〈本と日本史〉(4)』集英社新書2017:101-02)。

 では次に、鎌倉幕府滅亡に至る場面を見てみよう。まずは後藤による流布本の引用から。

 新田義貞、逞兵(ていへい)二万余騎を率して、二十一日の夜半ばかりに、片瀬・腰越をうち回り、極楽寺坂へうちのぞみたまふ。明け行く月に敵の陣を見たまへば、北は切通しまで山高く路けはしきに、木戸をかまへかい楯(だて)を掻いて、数万(すまん)の兵陣を並べて並みゐたり。南は稲村崎にて、沙頭(しやとう)路せばきに、波打ちぎはまで逆木(さかもぎ)を繁く引き懸けて、沖四、五町が程に大船どもを並べて、櫓をかきて横矢(よこや)に射させんと構へたり。げにもこの陣の寄手、かなはで引きぬらんも理(ことわり)なりと見給ひければ、義貞馬より下りたまひて、冑(かぶと)を脱いで海上を遥々と伏し拝み、龍神に向つて祈誓(きせい)したまひける。(……)と至信(ししん)に祈念し、みづから佩(は)きたまへる金作(こがねづく)りの太刀を抜いて、海中へ投げたまひけり。まことに龍神納受(なふじゆ)やしたまひけん、その夜の月の入り方に、(……)稲村崎にはかに二十余町干あがつて、平沙渺々(へいしゃべうべう)たり。横矢射んと構へぬる数千(すせん)の兵船も、落ち行く塩に誘はれて、遥かの沖に漂へり(巻第十「稲村崎干潟に成る事」―「変化する風景」p.75)

 岩波文庫本(西源院本)の対応箇所は次のようである

 新田義貞、二万余騎を率して、二十一日の夜半ばかり、肩瀬、腰越を打ち廻つて、極楽寺坂へ打ち莅(のぞ)み給ふ。明け行く月に、平家の陣を見給へば、北は切通しにて、山高く路嶮(けは)しきに、城戸を結ひ、垣楯(かいだて)を掻き、数万(すまん)騎の兵、陣を並べて並み居たり。南は稲村崎にて、道狭(せば)きに、波打際まで逆木を繁く引つ懸け、澳(おき)四、五町の程に、大船を並べ、矢倉を掻き、横矢を射させんと支度せり。げにもこの陣の合戦に、寄手叶はで引きけるは理(ことわ)りなりとぞ見給ひける。

 義貞、馬より下り、甲(かぶと)を脱いで、海上の方を伏し拝み、龍神に向かつて祈誓し給ひけるは、(……)と、信心を凝らして祈念を致し、自ら佩き給へる金作りの太刀を解いて、海底に沈められける。

 実に龍神八部も納受し給ひけるにや、その日の月の入り方に、(……)稲村崎、二十余町干揚がり、平沙まさに渺々たり。横矢を射させんと支度したりし数千の兵船も、塩に誘はれて遥かの澳に漂へり(第十巻「鎌倉中合戦の事」―『太平記(二)』岩波文庫pp.127-29)

 これを見ると、「木戸をかまへ」(流布本):「城戸を結ひ」(西源院本)、「射させんと構へたり」「射んと構へぬる」(流布本):「射させんと支度せり」「射させんと支度したりし」(西源院本)と、流布本は他動詞「構ふ」を多用していることが知られるし、また、「海中へ投げたまひけり」(流布本):「海底に沈められける」(西源院本)と、西源院本の「係り結びの乱れ」を流布本が解消している箇所も見られる。なお同本に「肩瀬」とあるのは、当て字であろうか。

 ちなみに流布本が、「平家の陣」を「敵の陣」と表現しているのは、近世南朝正閏論の影響もあったのだろう。

 続いて義貞最期の場面である

 大将義貞は、燈明寺の前にひかへて手負の実検しておはしけるが、藤島の戦ひ強うして、官軍ややもすれば追つ立てらるる体(てい)に見えけるあひだ、安からぬ事に思はれけるにや、馬に乗り替へ鎧を着かへて、わづかに五十余騎の勢を相従へ、路をかへ畔を伝ひ、藤島の城へぞ向はれける。その時分黒丸(くろまるの)城より、細川出羽守・鹿草(かくさ)彦太郎両大将にて、藤島城を攻めける寄手どもを追ひ払はんとて、三百余騎の勢にて横畷(よこなはて)を回りけるに、義貞覿面(てきめん)に行き合ひたまふ。細川が方には、歩立(かちだ)ちにて楯をついたる射手(いて)ども多かりければ、深田に走り下り、前に持楯(もちだて)を衝き並べて、鏃(やじり)を支へて散々に射る。義貞の方には、射手の一人もなく、楯の一帖をも持たせざれば、前なる兵義貞の矢面に立ち塞がつて、ただ的に成つてぞ射られける。中野藤内左衛門(とうないざゑもん)は、義貞に目くばせして、「千鈞(せんきん)の弩(ど)は、鼷鼠(けいそ)のために機を発せず」と申しけるを、義貞ききもあへず、「士を失してひとり免るるは、我意にあらず」と言ひてなほ敵の中へ懸け入らんと、駿馬に一鞭をすすめらる。この馬名誉の駿足なりければ、一、二丈の堀をも、前々たやすく越えけるが、五筋まで射立てられける矢にやよわりけん、小溝一つをこえかねて、屏風をたふすが如く岸の下にぞころびける。義貞弓手(ゆんで)の足をしかれて、起きあがらんとしたまふところに、白羽の矢一筋、真向(まつかう)のはづれ、眉間の真中にぞ立つたりける。急所の痛手(いたで)なれば、一矢に目くれ心迷ひければ、義貞今は叶(かな)はじとや思ひけん、抜いたる太刀を左の手に取り渡し、みづから首をかき切つて、深泥(しんでい)の中にかくして、その上に横たはつてぞ臥したまひける(巻第二十「義貞自害の事」―「変化する風景」pp.86-87)

 当該箇所は、西源院本では次の如くである

 新田中将は、東郷寺の前にひかへて、手負の実検しておはしけるが、藤島城強(こは)くして、官軍ややもすれば追つ立てらるる体に見えける間、安からぬ事に思はれけるにや、馬に乗り替へ、鎧を着替へて、わづかに五十余騎の勢を相随へ、路を要(よこぎ)り、田を渡つて、藤島城へぞ向かはれける。

 その時節、黒丸城より、細川出羽守、鹿草彦太郎、両大将にて、藤島城を攻むる寄手を追ひ払はんとて、三百余騎の勢にて、横縄手を廻りけるに、義貞朝臣、覿面に行き合ひ給ふ。細川が方には、徒立にて楯をつきたる射手ども多かりければ、深田に走り下り、前に持楯をつき並べて、鏃を支(そろ)へて散々に射る。左中将の方には、射手は一人もなく、楯の一帖をも持たざりければ、前なる兵、義貞の矢面に塞がつて、ただ的になつてぞ射られける。中野左衛門大将に目加せして、「千鈞の弩は、鼷鼠のために機を発せず」と云ひけるを、義貞、聞きもあへず、「士を失して独り免れんこと、何の面目あつてか人に見えん」とて、なほ敵の中へ懸け入らんと、駿馬に一鞭を進めらる。

 この馬名誉の駿足なりければ、一、二丈の堀をば前々たやすく越えけるが、五筋まで射立てられたる矢にや弱りたりけん、小溝一つ越えかねて、屏風を返すが如く岸の下にぞ倒れたりける。義貞、弓手の足を敷かれて、起き上がらんとし給ふ処に、白羽の矢一筋、真向のはづれ、眉間の真中にぞ立つたりける。義貞、今は叶はじとや思はれけん、腰の刀を抜いて、自ら首を掻き落とし、深泥の中にぞ臥し給ひける(第二十巻「義貞朝臣自殺の事」―『太平記(三)』岩波文庫pp.377-79)

 岩波文庫本の脚注によれば、「東郷寺」は「不詳。梵舜本同じ。神田本・流布本「燈明寺」。玄玖本・簗田本東門寺」。天正本「東明寺」。足羽にあった平泉寺の末寺か」(p.376)といい、諸本間でかなり異なっているようだ。

 また、「よわりけん」「ころびける」(流布本):「弱りたりけん」「倒れたりける」(西源院本)という違いを見れば、流布本では完了(-た(り)-)と回想・過去・推量(-け(り)-、-け(む)-)を表す動詞接尾辞とが共起しにくいようにも見受けられるが、「立つたりける」という用例も見えるので、簡潔性や音読の際のリズムを重視しているだけのようにも思われる。

 一方最初の引用で、古本系が「問ひ給へば」としていたのを流布本が「問ひたまひければ」としていたのを上で見たように、流布本は時制にも気を配っているように見受けられる。他の引用箇所でも、「泣き倒れ給ふ」(西源院本):「泣き倒れたまひけり」(流布本)、「これを哀れまずと云ふ事なし」(西源院本):「共に涙を流さぬは無かりけり」(流布本)(第二十巻「左中将の首を梟る事」)、「河合庄へ馳せ集まる」(西源院本):「河合の庄へ馳せ集まりけり」(流布本)(第二十巻「水練栗毛付けずまひの事」)となっている*3

 藤井貞和日本文法体系』(ちくま新書2016)は、「-け(り)-」に「詠嘆」の意を汲み取ることを批判したうえで、

 物語はしつこく「〜けり、〜けり、〜ける、〜ける」と語られる。すべて、語り手が物語内容を伝承として聞き知っている(内容の真偽にはタッチしない)というアピールを「けり」は果たす。(p.51)

 歌物語の文体や物語文学その他の、「…けり、…けり、…けり」(「…ける、…けれ」を含む〈以下同じ〉)とつづく展開が、口承文学に負うとは基本の確認としてある。「けり」が“時間の経過”をあらわすとは、伝承であることを最もよく示す、というほかない。(p.75)

などと述べている。その妥当性のほどは分からないが、流布本が口承性に重きを置いた結果、このように「-け(り)-」を多用している可能性はあるかもしれない。もっとも、『太平記』受容の歴史*4を考慮する必要もあるけれど。

 それから、流布本が「強うして」「ついたる」と音便形を用いる傾向にあるのもひとつの特徴であろうか。ただし「[解説4]『太平記』の本文(テクスト)」によると、西源院本の巻二十三には「事悪しとや思ひけん、跡を暗うして、皆己が本国へ逃げ下る」と、「跡を暗うして」という音便形が出て来るのであって、これは、

「跡を暗む」をへて、南北朝期あたりを境に、しだいに「跡を暗ます」へ交替した語と思われるが(なお、『日葡辞書』に、「Atouo curamacasu(跡を暗まかす)」とある)、南都本(同系統の簗田本、相承院本)や今川家本は、(略)「跡を暗まして」と改めており、流布本や梵舜本(および米沢本、天正本等)は、

 頼遠も行春も、かくては事悪しかりなんと思ひければ、皆己(おの)が本国へぞ逃げ下りける。

とあり、あまり使われなくなった『跡を暗うして』という語そのものを削除している。(pp.511-12)

というわけなので、音便形といっても、その先後関係は語によりけりである

 また音便といえば、後藤著に、

 そこに、康胤に滅ぼされた千葉胤直の弟の息子・実胤も加わり、総勢一万余騎となって、康生二(一四五六)年四月十一日、千葉城に押し寄せ「稲麻竹葦(とうまちくい)」(これは『太平記』巻第三「赤坂の城軍の事」で、楠木正成赤坂城を二十万の東国軍が取り囲む有様を形容した言葉)に取り囲み、揉みに揉んで攻め動かした。(「首塚の上のアドバルーン」pp.199-200)

という一節がある。実は引用文中の「揉みに揉んで」もまた、『太平記』由来の表現で、西源院本では第三巻「赤坂軍の事、同(おなじく)城落つる事」に「ただ揉みに揉み落とさんと」(『太平記(一)』岩波文庫p.167)とある(ちなみに西源院本では、「稲麻竹葦」なる表現が第四巻「呉越闘ひの事」に出ている。p.211)のだが、第六巻「六波羅勢討たるる事」にも、「六波羅勢、勝(かつ)に乗つて、人馬の息をも継がせず、天王寺在家のはづれまで、揉みに揉うでぞ追うたりける」(『太平記(一)』岩波文庫p.283)という形で出て来る。

 先日、『保元物語』を読んでいた際にも、「河原を下りに二町ばかり、鞭・鐙をそろへて、もみにもうでぞ逃げたりける」(日下力訳注『保元物語角川ソフィア文庫2015:中巻p.99)という表現に逢著したから、これは一種の定型表現として軍記物語によく使われていたのかも知れない。

 ところで後藤の「分身」には、次の様なくだりがある。

 この本(『難太平記』)は、足利一族で九州探題もつとめた今川了俊が書いたもので、『難太平記』という書名は『太平記』を批判するという意味を持つのだそうですが、それによると『太平記』は約三十巻が出来上ったあたりで、足利直義尊氏の弟)の検閲を受けたり、削除あるいは加筆されたりしていたらしいということです。その一例として山下(宏明)氏は、足利尊氏北条方から後醍醐天皇への寝返り、を挙げています。つまり直義が検閲した『太平記』では、その尊氏の「寝返り」が、「降参せられけり」と書かれていたらしい。それを削除させたと『難太平記』には書かれているそうです。そして、いまわたしたちが読んでいる『太平記』には、なるほど「降参」の字はどこにも見当りません。事実としての「寝返り」が繰り返されるだけです。(p.151)

 そもそも太平記』における「室町幕府の諸将の描かれ方はあまりよくな」く、「(高)師直が悪人として描写されているのは有名だが、直義も目的のためには手段を選ばない狡猾な人物と辛辣な評価を下されている」し、「尊氏の影も薄い」。室町期の「正史」としてこれを見るならば、確かに客観的だとはいえるだろうが、「史実としては再検討すべき論点も当然多い」。こういった記述態度による『太平記史観に基づいて、「近年、如意王(直義の男児)誕生を契機として直義が野心を抱いたのが、観応の擾乱の大きな原因であったとする説が提起されている」という(以上、亀田俊和観応の擾乱中公新書2017:31より*5)ほどで、何らかのバイアスがかかっている可能性も否めない。

 それを批判する『難太平記』もこれまた然りで、了俊が足利家時の置文を尊氏の「反後醍醐」挙兵に結びつけることには「了俊の創作にすぎぬ疑いがきわめて濃」いという(笠松宏至「一通の文書の『歴史』」;『法と言葉中世史』平凡社ライブラリー1993所収:243)。すなわち、了俊自身もやはり政治的バイアスからは逃れられなかったということだ*6

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 さて後藤明生は、「首塚の上のアドバルーン」で、

 こんもりした丘の上で偶然に見つけた首塚からはじまったわたしの『平家物語』『太平記めぐりが、めぐりめぐって、『仮名手本忠臣蔵』にたどり着いたということです。馬加康胤の首塚新田義貞首塚→『太平記』→瀧口寺→『平家物語』→『瀧口入道』→『平家』→『太平記』→『徒然草』→『太平記』とアミダクジ式遍歴を重ねるうちに、『仮名手本忠臣蔵』にたどり着いたという不思議なのです。(p.208)

と書いているが、この「アミダクジ」という表現は、「『平家』の首」にも三箇所出てきており、

 実際、体じゅう管だらけでした。まず点滴の音。これは血管につながっているのは一本ですが、その一本めがけて、アミダクジ式に何本もの管が群がっています。(p.125)

 まずはじめに、十四階のベランダから見えるこんもりした丘のてっぺんに、見知らぬ首塚があったわけです。それが『平家』『太平記めぐりのはじまりでした。そして二つの本と首塚と十四階のベランダの間をアミダクジ式に行きつ戻りつするうち、ある日、入院手術ということに相成った次第であります。(p.129)

 しかし、その偶然は、わたしの『平家』『太平記めぐりに割り込んで来て、そのアミダクジの回路を変化させたわけです。(p.130)

とある。「アミダクジ」とはすなわち、テキストとの出会いが、ひいては物語の展開が偶然の作用の結果であることを意味する。

 最近出た後藤明生『アミダクジ式ゴトウメイセイ【対談篇】』(つかだま書房2017)には、後藤富岡幸一郎氏の対談「後藤明生と『首塚の上のアドバルーン』」が収録されていて(pp.247-64)*7後藤はそのなかで次のように語っている。

 意識の変化は、当然のことながら文体にあらわれますね。例えば、はじめは街との対話です。また風景とか首塚との対話です。それは割合いにゆったりしていますが、それがテキストとの対話になると、スピードが出て来た。/そして、読んでごらんになるとわかるんだけれども、三つ目からとつぜん手紙になっちゃっている。なんで、いつの間に手紙になったんだと言う人がいるかもしれない。もちろん、これは僕が書いたことなので、意図的にやったわけなんだけれども……。(略)あらかじめ予定された古典文学散歩ではないですからね。(略)どのテキストとの出会いも、すべて、とつぜんであり偶然であるわけですね。そういう驚き興奮が、文体になる。そういうテキストとの対話が激しくなるにつれて、いつの間にか書簡体になってしまったのかもしれない。(略)アミダクジ式と書いたけれど『仮名手本忠臣蔵』が出てくるあたりは我ながらちょっと興奮した。全然予期してなかったですね。(pp.263-64)

 したがって、読み手たる我々も次にどこへ連れて行かれるのか全く見当がつかないので、いわば小説が生成する現場に立ち会えるというわけである

首塚の上のアドバルーン (講談社文芸文庫)

首塚の上のアドバルーン (講談社文芸文庫)

太平記(一) (岩波文庫)

太平記(一) (岩波文庫)

太平記(二) (岩波文庫)

太平記(二) (岩波文庫)

太平記(三) (岩波文庫)

太平記(三) (岩波文庫)

太平記(四) (岩波文庫)

太平記(四) (岩波文庫)

日本文法体系 ((ちくま新書 1221))

日本文法体系 ((ちくま新書 1221))

法と言葉の中世史 (平凡社ライブラリー)

法と言葉の中世史 (平凡社ライブラリー)

*12015年11月に復刊。

*2:「ピラミッドトーク」に、「転居して間もなく、日航ジャンボ機の墜落事故が発生した。新聞テレビも連日、大々的にその大事故の模様を報道していた」(P.10)とある

*3:二つめの引用では、「納受し給ひけるにや」(西源院本):「納受やしたまひけん」(流布本)と、流布本で「-け(り)-」が「-け(む)-」になっているところがある。ここは「龍神(八部)」が動作主であるため、流布本が意図的過去推量の接尾辞に改めている可能性もあるだろう。

*4江戸期に盛んに読まれたことについては、後藤も「江戸時代の『太平記ブームは知っておりましたが」(「分身」pp.174-75)などと少しだけ言及している。

*5:なお亀田氏は、如意王誕生を擾乱の原因と見なすことには与しない。

*6:『難太平記』の記述態度については、先引神田著pp.32-38も参考になる。

*7:初出:「すばる1989年4月号

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2017-07-11 松本恵子訳『アクロイド殺し』のことなど このエントリーを含むブックマーク

 「叙述ミステリ」は、「そういう作品である」とあらかじめ聞かされて手に取ることが多い、と以前書いた。むしろそのような前提知識があった方がありがたい場合もあるので、この前Nさんにすすめられて読んだ麻耶雄嵩こうもり」(『貴族探偵集英社文庫2013所収)は、叙述系だという予備知識がなければ、結末を理解するのにきっと時間がかかったことだろう。

 同様に、「意外な犯人」の古典的作品も、どこかで結末を聞かされてから読む場合が少なからずあるのではないかと思う。わたし場合、『モルグ街の殺人』『黄色い部屋の謎』などはみなそうだった。これらは、子供向けの「学研まんが」「てのり文庫」などであらすじを読んだために、大人向けの邦訳を繙く前からすでにトリック犯人を「知っていた」。

 この春、安原和見氏による新訳(光文社古典新訳文庫*1で出た、アガサ・クリスティーオリエント急行殺人事件』もそのひとつ。これによって久々に新訳でクリスティー作品を楽しんだが、その「訳者あとがき」は原作矛盾・疑問点にも言及していて、ああなるほどな、と思わせる。「解説」は斎藤兆史氏が書いており、こちらも興味深く、おもしろく読んだ。ちなみに斎藤氏が、『ロジャーアクロイド殺人事件』(『アクロイド殺し』)や『ABC殺人事件』『ナイルに死す』などクリスティーの名作を列挙するくだり(pp.406-07)は、ほぼ同じ記述が、斎藤氏の『めざせ達人! 英語道場教養ある言葉を身につける』(ちくま新書2017)の「コーヒーブレイク(2)英語教材としてのクリスティー推理小説」にも見えるのだが(pp.60-61)、なぜか後者は、『ナイルに死す』のタイトル映画邦題の『ナイル殺人事件』になっている。

 ところで、このあいだN書房店頭にて、函入のクリスチイ作/松本惠子訳『アクロイド殺し』(平凡社1929)800円、を拾った。「世界探偵小説全集」の第18巻である。同書は『アクロイド殺し』のほか、短篇の「クラパムの料理女」「呪はれたる長男」「魔法の人」も併録している。

 訳者松本恵子については、川本三郎氏が「アガサ・クリスティの紹介者、松本恵子のこと」*2(『老い荷風白水社2017所収)で次のように書いている。

 松本恵子(明治二十四年―昭和五十一年)という翻訳家がいた。

 私などの世代アガサ・クリスティミステリ松本恵子の訳で読んだ。手元にはいまも十代の頃に読んだ松本恵子訳のクリスティ『青列車殺人事件』(日本出版共同、昭和二十九年)がある。「現代女流探偵作家の最高作」「本邦完訳」と銘打たれている。(略)

 そもそも松本恵子は大正時代クリスティ短篇魔法の人」を中野圭介の名義で訳している(「探偵文藝大正十五年十一月号)。この号にはもうひとつクリスティ短篇白鳥の歌」も載っている。訳者名がないが、中野圭介、つまり松本恵子といっていいだろう。

 男の名前になっているのは当時、女性ミステリ(当時の言葉でいえば探偵小説)に関わることが遠慮されたためという。

 大正時代クリスティを訳している。日本におけるクリスティ紹介の草分けといっていい。昭和四年には『アクロイド殺し』も出版している。(pp.168-69)

 最後に挙がっている昭和四年刊の『アクロイド殺し』というのが、今回わたしの入手した本をさすのだろう。また併録の「魔法の人」は、引用文中にある、中野圭介名義で訳されたものと同一かと思われる(『アクロイド殺し』には初出誌の明示などがないので、そのあたりのことが全くわからないのだ)。川本氏が書いている初出誌の「探偵文藝」は、もと「秘密探偵雑誌」といい、松本恵子が夫の松本泰とともに設立した出版社(奎運社)から創刊されたものだという(川本著p.173)。

 さてこの『アクロイド殺し』も、「意外な犯人もの」として有名で、わたしも、真犯人をあらかじめ知った上で邦訳羽田詩津子訳)に取りかかったくちである。そういえば故・瀬戸川猛資氏も、中学時代高木彬光のある作品によって『アクロイド』の真相を知らされてしまい、「怒りくるい、もう読むものかと心に決め」た(「誰がアクロイドを殺したって?」『夜明けの睡魔海外ミステリ新しい波』創元ライブラリ1999所収:205)と書いていた。

 東秀紀氏は、『アガサ・クリスティー大英帝国―名作ミステリと「観光」の時代』(筑摩選書2017)で、「クリスティーストーリーをつくっている手順が、多くの場合、「舞台」の設定から始められていた」というジョン・カラン氏の指摘(p.28)に触れた上で、『アクロイド』や『オリエント急行』は「先ず、犯人に関する着想が、あったに違いない」(p.29)、と書いている*3

貴族探偵 (集英社文庫)

貴族探偵 (集英社文庫)

老いの荷風

老いの荷風

*1:帯に「ジョニー・デップほか豪華キャスト映画化2017年11月全米公開!!」とある

*2:初出:「図書平成二十五年九月。

*3:また東氏は、クリスティーが『アクロイド』の舞台に設定した「英国の田園」を、「人々を優しく慰めてくれるユートピア」(p.68)と定義し、これは横溝正史が描いた「不吉な因習、陰惨、血生臭さに満ち」た日本田舎(p.66)とは対蹠的な存在だとも書いていて、この分析面白かった。

広島桜広島桜 2017/07/15 16:57 推理小説には、矛盾がつきものだ、と個人的にはそう思います。かの、クロフツもそうです。あの、A川氏にも。また、筆を折ったU田氏や、鉄道ミステリのN村氏には、死んでいた人が、執筆者が知らずに生きていて登場、またその逆も・・・、どんでん返しのように動き回ることになります。あまり、深く考えないようにしています。

higonosukehigonosuke 2017/07/19 14:02 広島桜さま、コメント下さりどうもありがとう御座います。遅くなりすみません。
推理小説の矛盾や誤解をあげつらう本をずいぶん以前に読んだことがありますが、それが眼を瞑って構わないものならばまだしも、推理の根幹にかかわるようなものであればとたんにアンフェアになってしまいますよね。とはいえ、たくさん連載を抱えているような売れっ子作家でしたら、そういう矛盾が生ずるのも致し方ないようにも思います。(ところで、U田氏と云うのがどなたのことか判りませんでした。差し支えなければお教え下さい。)

広島桜広島桜 2017/07/19 17:56 すでに公にされているので、差し支えないように思いますが・・・、内田康夫氏、2年前ぐらいに倒れられて、最近休筆宣言されて、最近作は、他の方に、公募か何かで続編を募集されるようです。前から自分は連載は無理だ、とストーリー展開のうえでおっしゃったようです。連載中に名前が一字違うようなことも生じるようです。ということで、推理小説にはあまりこだわらず読んでいます。

higonosukehigonosuke 2017/07/23 01:45 成程、内田氏でありましたか。お教え頂いた後に、「毎日新聞」のサイトで詳しい事情と経緯とを初めて知った次第です。どうもありがとう御座います。
連載に向いている作家と、不向きな作家とがあるというのはなかなか興味深いことですね。

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2017-05-22 北村薫『六の宮の姫君』 このエントリーを含むブックマーク

 先日、北村薫『六の宮の姫君』(創元推理文庫1999)を再読した。

 北村薫「円紫さんと私」シリーズ第四作・長篇『六の宮の姫君』は、芥川龍之介短篇「六の宮の姫君」についての芥川自身発言の謎をめぐって推理が展開される、いわゆる「ビブリオミステリである。それはまた、主人公「私」の大学卒業論文テーマそのものでもあるわけだが、文庫版の「解説」(佐藤夕子*1)によれば、北村氏が「早稲田大学第一文学部在学中にものした幻の卒業論文で」もある(p.271)、らしい。

 この長篇のなかには様々な本が出て来て、発行年や値段、簡単書誌などがそのつど示されるのが楽しい(むろんなかに架空の本もあるが、それは作中で大体わかるようになっている)。

 たとえば、「今度の岩波の『拾遺和歌集』、そのために買っちゃったのよ、三千六百円もするのに」(p.64)は、「今度の岩波の」とあるように、「新日本古典文学大系」本をさすのだろう*2。それで当時の新大系本『拾遺和歌集』が、「三千六百円」であったと知られるのである(現行版は五千円強)。

 一方、『今昔物語』を読む際に「私」が参照するのは、「岩波の『日本古典文学大系』」(p.76)、いわゆる旧大系本。このほか、「昭和四十六年の筑摩書房芥川龍之介全集』」(p.80)*3、「小学館の『群像日本作家11 芥川龍之介』」(p.94)、などといった具合だ。『日本国語大辞典』(小学館)の初版からも、ある項目の用例(片岡鉄兵)が引用されている(pp.74-75)。

 作中で「私」に重要な手がかりを与えることになる『沙石集』については、次の如くある。

 父の本棚まで行って、問題の『沙石集』を捜した。私は古典大系本を持っていないのである。あちこち引っ繰り返すと、古い岩波文庫版が出て来た。裏表紙をめくると鉛筆で《50》と書いてある。五十円。父が、古書店で買った本なのだ

 トントン階段を踏み二階に帰り、今度は座布団に座って、今よりやや大きめの文庫本を開いた。(p.233)

 わたしの手許にあるのも岩波文庫版(上下二冊)、しかも一冊50円で拾ったものだが、「1988年4月7日」発行の第2刷で、現行の文庫と同じ判型である。奥付には「1943年11月25日」に初刷が発行されたとある。「私」が手にしているのもこの初刷だろう。ちなみに、北村著には「実に鎌倉時代の僧、『沙石集』の作者といわれる(解説を読んだら、そう書いてあった)無住である」(p.235)というくだりもあって、この「解説」は、校訂者の筑土鈴寛(つくどれいかん)が書いている。筑土といえば、小松和彦『神々の精神史』(福武文庫1992)*4の第三部「筑土鈴寛の世界」は必読だろう。小松氏は筑土を「まさに異端の国文学であると同時に、悲しむべきことだが、忘れられた民俗学者でもあるのだった」(p.304)と評し、また、次のようにも書いている。

 だが、彼がライフ・ワークとして著述していた『中世文学史研究』全三巻は、度重なる戦火のために資料とともに一切消失ママ)してしまうという、惜しみて余りある不幸に襲われねばならなかった。

 戦後柳田国男久松潜一たちの激励・援助によって東大図書館内に研究室を借り、新たな出発を決意したが、しかし、惜しいかな病に倒れた。享年四十五歳というその若さは、彼の研究がほとんど未完成であることを物語っているが、それにもかかわらず、彼の残した研究成果の豊かさに、いまなお私たちは驚かされるのである。(p.305)

 柳田というと、筑土の「解説」(『沙石集・上巻』)にも、「また柳田國男先生から、始終に亙って配慮賜つたことを、こゝに記して、深く感謝申上げる」(pp.8-9)と謝辞が述べられている。

 話が逸れた。さて、北村版『六の宮の姫君』には下記のようなくだりもあった。

(河出の『現代日本小説大系』の)第三十三巻。『新現実主義1』、芥川龍之介菊池寛という取り合わせである解説川端康成。(略)

 私は首を振って、

「鼠はいなかったけど、『六の宮の姫君』にはお会いしたわ」

「はあ?」

 語尾の上がった声と一緒に、正ちゃんは身を起こす。こちらは、隣のベッドに腰を下ろして説明する。

「というわけ。なかなかに運命というのも、味のあるものね」

「なるほど。で、川端康成は『姫君』について、何といってるんだい」

「そうね」

 解説は、かなりの長文である。取り敢えず、収録作品について触れている部分を見ると、こう書いてあった。

「《王朝にありがちの話で、そのあはれに、芥川近代の冷たい光をあてたのである》」

「それだけ?」

「うん」

ちょっと狡いな。見た目は整ってるけど、実は何もいってないじゃない」

「そうねえ、ラスト芥川流の冴え冴えとした解釈があるということなんだろうけど、そのどの辺が《近代》で、どの辺が《冷たい光》だというのか。うーん、解説なのに説明してくれない。川端先生のお考えは、しかとは分からない」

「そこはそれ、一目見て美しく、分かる人には奥があるという作風の方だから

pp.124-25)

 この「かなりの長文」とされる川端解説は、川西政明編『川端康成随筆集』(岩波文庫2013)にも収録されている(pp.291-324「芥川竜之介菊池寛」、新かなづかい)。当該の一文はpp.319-20に見える。ただしその「初出一覧」を見ると、「「現代日本小説大系」三一巻(河出書房刊、一九四九年一〇月一〇日)原題解説」」とあって、巻数が違う。これはどうやら北村著の誤記のようである(版によって違いがあるようです。コメント欄ご参看)

 それから北村著に何度か出て来る「永井龍男の『菊池寛』」(この本がまた、「私」に重要なヒントを与えることになる)に触発され、乾英治郎『評伝 永井龍男芥川賞直木賞育ての親―』(青山ライフ出版2017)を読んでいたところ、思いもよらぬ記述に逢著した。

1953年の第二回「世界短編小説コンクール」の)出品作となる(永井の)「小美術館で」は、昭和三〇(一九五五)年八月『新潮』に掲載されている。内容は、美術館鎌倉美術館モデルと思われる)喫茶室に務める(ママ)三〇代の戦争未亡人水野が、館に足繁く通う紳士に求婚されて惑う様子をスケッチ風に描いたものである喫茶室には水野の他に二人の老婦人と、そのうち一人が籠ごと連れてくる鸚鵡がいる。その鸚鵡が突然「ええい! どうして俺は、古臭い言葉ばかりしか知らないんだ。それも、みんな人間の口真似じゃあないか。俺自身の鳴き方って云うのじゃ、いったいどんなんだ。退屈だ。ええい、退屈だ。逆立ちをして、二、三度世の中を眺めたが、へん、やっぱり変わりはあるもんか。蓮の花が、ぐるぐる廻って見えただけさ」と矢継ぎ早に叫ぶ。自分の鳴き方が判らない鸚鵡というモチーフは第三短編集『朝霧』所収の「ペロツケ」を思わせるが、「逆立ちをして、二、三度世の中を眺めたが、へん、やっぱり変わりはあるもんか」という言葉は、芥川龍之介の「河童」(『改造』昭和2・3)の中で河童の一人が口にする「いえ、余り憂鬱ですから、逆まに世の中を眺めて見たのです。けれどもやはり同じことですね」という台詞本歌取りではないかと思える。また、「蓮の花が、ぐるぐる廻って見えただけさ」は、同じく芥川の「六の宮の姫君」(『表現』大11・8)の中で、瀕死の姫が「金の蓮華が見えまする。天蓋のやうに大きい蓮華が。……」という場面を思わせる。pp.240-41)

 この「六の宮の姫君」から引用、「金の蓮華が」と云うのは「金蓮華が」の誤脱かと思われるが、永井短篇芥川の「六の宮の姫君」とが結びつく(かもしれない)という事実はたいへん興味深いことである

 さて北村氏の「六の宮の姫君」は、芥川の、あるいは菊池寛作品等を通じて、「人と人との繋がりの哀しさ」(p.167、円紫の発言)を描いた佳品であるが、さらに意外な事実が明かされるのが、同じ「円紫さんと私」シリーズの「山眠る」(『朝霧*5創元推理文庫2004所収)である

 そこには、芥川が「六の宮の姫君」を「強引に慶滋の保胤で結んだ」理由(p.29)について、「田崎信」の口からある推測が語られる(その「推測」の根拠となる事実について、北村氏は作品の末尾で「石川哲也さんに御教示いただきました」p.92と述べている)。それは、芥川がおそらく意図的に「(慶滋保胤という)俗名を挙げ、内記上人と呼ばれたことまで記しながら、法名を書いていない」(p.29)ことに関わっているのだが、これとちょうど逆のような書きぶりが、幸田露伴の「連環記」に見られることを思い出した。すなわち露伴は、保胤(寂心)の弟子・寂照が三河守定基である事実をしばらく伏せたまま物語を展開し、終盤でようやく俗名を記しているのである「幸田露伴「連環記」」を参照されたい)。

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 北村薫太宰治辞書』(創元推理文庫2017)に附されたエッセイのうちの一つ、「二つの現代日本小説大系』」(pp.265-73)で北村氏は、「現代日本小説大系」の件についてくわしくお書きになっています。わたしブログにも触れてくださっています。

 わたくしお得意の「早とちり」が発端だったとはいえ、こうして北村氏の新たなエッセイを読めたうえに事情を知ることもできたわけですから、これもまた、“怪我の功名”と云うべきでしょうか。

六の宮の姫君 (創元推理文庫)

六の宮の姫君 (創元推理文庫)

沙石集 (上巻) (岩波文庫)

沙石集 (上巻) (岩波文庫)

神々の精神史 (講談社学術文庫)

神々の精神史 (講談社学術文庫)

川端康成随筆集 (岩波文庫)

川端康成随筆集 (岩波文庫)

朝霧 (創元推理文庫)

朝霧 (創元推理文庫)

太宰治の辞書 (創元推理文庫)

太宰治の辞書 (創元推理文庫)

*1:『日本語教育学の視点国際基督教大学大学院教授飛田良文博士退任記念』(東京堂出版2004)http://rnavi.ndl.go.jp/mokuji_html/000007500694.htmlに「翻訳小説文体」という論文を寄せている佐藤氏と同一人物らしい。

*2北村氏『六の宮の姫君』の発表年1992年で、新大系本『拾遺和歌集』は1990年刊行されている。ちなみに、古典文学全集類の注釈のそれぞれの特徴については、最近林望『役に立たない読書』(インターナショナル新書2017)pp.124-32が、『源氏物語』を例に説いているのを読んだ。林氏は、新大系の「注釈は、一般読書人にとっては不親切なところがあって、全訳などは一切付けられていないのですから、これだけで「源氏」をスラスラと「読書」するのは相当にむずかしいことと思います。どうもこれは、最初から古典を相当に読み慣れている人を対象として作られた注釈のような感じがするのです」(p.128)と述べている。

*3:この全集本のある「誤記」について、第八巻の解説吉田精一が「後から付け足したような活字で」(p.84)触れ、それが「岩波版の新しいの」(p.85)で訂正されている、という事実も明らかにされている。

*4:のちに講談社学術文庫版も刊行され、そちらも長らく品切であったが、今年に入って新カバーで復刊された。

*5北村氏は、この表題作を書くにあたって永井龍男の『朝霧』を意識されたか、どうか。

本が好き本が好き 2017/05/27 22:14 北村の通り、三十三巻。ちなみに三十一巻は野上弥生子・宮本百合子です。
また、現代日本小説大系三十三巻「芥川・菊池」は昭和二十九年八月五日初版発行です。

本が好き本が好き 2017/05/28 13:53 すみません。五年後に、序巻補巻などを巻数に入れ、再度出し直していますね。北村の読んだのは、五年後の「現代日本小説大系」でした。作中人物が手にしたのもそれになりますから、説明が必要ですね。

北村薫北村薫 2017/05/28 15:31 ご指摘ありがとうございます。こういう書き込みはしたことがないので、実はやり方がよくわかりませんが、お許しください。そういえば、現代日本小説大系、箱の違うものを古書店で見たことがあります。しかし、巻数の違う版とは考えもしませんでした。事情か複雑ですので、簡単に手もいれられません。三十三巻を三十一巻に直すと、本の版が違ってしまいますので。
いずれ、エッセーなどの形で、読み手に届くような説明をしたいと思います。ご了解ください。

higonosukehigonosuke 2017/05/29 13:00 >本が好き 様
ご指教、まことにありがとう御座います。現物をろくに確認もせず軽率なことを書いてしまいました。お手を煩わせてしまって申しわけないことです。
本文を修正いたしました。どうぞ御確認くださいませ。
わたしは、ゆまに書房による復刻版(http://www.yumani.co.jp/np/isbn/9784843332788)の書誌を確認しただけで済ませておりました。ここは慎重に確かめなければならない所でした。

>北村薫 様
わざわざお越しいただきご返事下さいまして、まことにありがとう御座います。現物を見ずにいいかげんなことを書いてしまった非礼を御寛恕くださればと存じます。
さて、貴著を再読して触発されるところ多々あり、たとえば今は『日本の鶯』を繙くなどしております。
向後も、愉しい小説やエセーを拝読できること、また、アンソロジーで知らなかった物語に触れ得ることを楽しみにして居ります。

2017-04-24 おとうさん/おかあさん このエントリーを含むブックマーク

 原作(深見じゅんのマンガ)は未読ながら、かつてオンタイムで見ていたドラマぽっかぽか』(1〜3,1994-97)が、BS-TBS再放送されている。「花王愛の劇場」枠で放送されたいわゆる「昼ドラ」だが、これが何よりも印象的なのは幼稚園児の田所あすか上脇結友)が、父親の慶彦(羽場裕一)を「チチ」、母親麻美七瀬なつみ)を「ハハ」と呼ぶということであった。

 「チチ」「ハハ」は、現代でこそ改まった場で自分父親母親をいう呼称だとされるが、同音連呼から、「ヂヂ」(爺)「ババ」(婆)「おテテ」(手)「おメメ」(目)などと同じく、元来は幼児語であったと推測される。

 しかし今は、藝能人やスポーツ選手などが、公の場で自分の父母のことを「お父さん」「お母さん」などと言おうものなら、特に中年以上の方々から、ケシカラン、という内容の声や投書が届く。「チチ」「ハハ」と言わせろ、というわけだ。

 ところで「おかあさん」は、すでに江戸期の確例がある。

 再掲になるが、森銑三『讀書日記』(出版科學總合研究所1981)が以下のように記している。

十二日昭和八年九月―引用者) 從夫(それから)以來記は萬象亭の黄表紙中或は最もよきものなり。稀書複製會本にて讀むに、幼兒が「かゝさんや、とん\/とうがらしをかつてくんねへ、おかアさん」といふところあり。江戸の子供が「おかアさん」といふこと訝かしく、夜圖書館にて原本を借りて見しに、やはり「おかアさん」とあり、ふしぎなり。圖書館本は南畝の舊藏本なり。但し識語はなし。(p.41)

 後年、森は別のところで、この十八世紀末黄表紙を再び目にすることとなる。

四日昭和十三年四月―引用者) 某氏を訪ひて黄表氏(ママ)二百餘部を見る。(略)なほ萬象亭の從夫以來記あり。この作先年稀書複製會本にて讀みし時、「かゝさんや、とん\/とうがらしをかつてくんねへ、おかアさん」とある。その「おかアさん」を疑問としたりしが、今原本を見るに、またその如くにして、刻の誤にはあらず。江戸下町にて「おかアさん」などいふ子のありしにや。(p.290)

 この用例は、『日本国語大辞典【第二版】』(小学館)も採録している。

 以前、渡辺邦男『蛇姫様』(1959)を観ていると、市川雷蔵が「おとうさん」を連呼する場面があって若干違和感をおぼえたことがあるが、ありえない話でもなさそうだ。

 大森洋平『考証要集―秘伝! MHK時代考証資料』(文春文庫2013)は、「おとうさん・おかあさん」の項を収めていて、

 江戸時代江戸京都大坂中流以上の商家で使われたが、武家には「品がない」と見られていた。「オトウサン・オカアサン」が明治三七年の国定教科書全国的になると、士族からは相当の反発があったという(大野敏明『知って合点 江戸ことば』文春新書、八八・二〇一頁)。また、三田村鳶魚は「おとうさま、おかあさまは近頃のことばで昔は使わない」と言っている(三田村鳶魚江戸生活事典青蛙房、二五二頁)。時代劇武家台詞では「父上・母上」とする。(p.62-63)

と書いている。

 時代は下がるが、永井荷風(1879-1959)は、1927(昭和二)年10月の「申訳」(「荷風随筆 抄」『日和下駄 一名 東京散策記』講談社文芸文庫ワイド2017所収←講談社文芸文庫1999)で、「僕が文壇の諸友と平生会談場所と定めて置いた或カッフェーに」いた「お民」という女性が、自分の父母を「おっかさん、おとっつぁん」と呼んだことに関連して、以下の如く記している。

 お民は父母のことを呼ぶに、当世の娘のように、「おとうさん、おかあさん」とは言わず「おっかさん、おとッつァん」と言う。僕の見る所では、これは東京在来の町言葉で、「おとうさん」と云い、「おかアさん」と云い、或は略して、「とうさん、かアさん」と云うのは田舎言葉から転化して今は一般通用語となったものである。薗八節の鳥辺山に「ととさんやかかさんのあるはお前も同じこと」という詞がある。されば「とうさん、かアさん」の語は関西地方のものであろうか。近年に至って都下花柳の巷には芸者茶屋待合の亭主或は客人のことを呼んで「とうさん」となし、茶屋の内儀又は妓家の主婦を「かアさん」というのを耳にする。良家に在っては児輩が厳父を呼んで「のんきなとうさん」と言っている。人倫の廃頽も亦極れりと謂うべきである。因にしるす。僕は小石川の家に育てられた頃には「おととさま、おかかさま」と言うように教えられていた。これは僕の家が尾張藩の士分であった故でもあろうか。其の由来を審にしない。(pp.167-68)

 また、荷風の四半世紀後に生れた佐多稲子(1904-1998)は、『素足の娘』(1940年3月刊)で、

私たちも父母を呼ぶのに、父ちゃん、母ちゃん、と言わせられ、小学校一年生の時、先生に父母の呼び方を一人々々たずねられたが、みんな、おとつっあんママ)、おっかさん、で、私のように父ちゃん、母ちゃん、と言うものは、ただ私ひとりであった。その時は恥ずかしかったけれど、その方がハイカラなのだ、ということは小さい私も知っていた。(新潮文庫版1961:34)

と回想している。

 さら山田俊雄(1922-2005)は、『忘れかけてゐ言葉』(三省堂2003)で、荷風と同世代にあたる父親話し言葉について、次のように述べている。

 オトッツァンだの、オッカサンだのといふと、今の若い人は聞いただけで、笑ひ出したり、不謹慎にも、トニー某の發明發見した、ふざけた言葉の一つだと思つたりする。(略)

 私の少年の頃、父はすでに、その頃の世間竝みにいふと老年に近かつた。父は一八七五年の生れで、私は一九二二年の出生だから四十七歳の時の子である。私が小學校に上る頃、父はとうに五十歳を過ぎてゐた。

 父の口から出るオトッツァンは、主として彼の父、つまり私から云ふと、祖父をさしてゐた。毎月二十五日には、

今日はオトッツァンの日だ、オッカサンは何をこしらへるのかな?」

といふ工合に、祖父の命日の朝など、母と同席してゐ子供達にも聞えるやうに、祖父の位牌の前に供へる御馳走の話になることがあつた。オッカサンの日も、ほぼ同様であつた。(略)

 オッカサンも、オトッツァンも、別にいやしいことばではないし、田舎詞でもなかつた。木山捷平の件の短篇にも、「お父ッつぁん」は幼な言葉の類であるやうに書いてある。(略)

 また、ヘボンの「和英・英和語林集成」に、

OTOTTSAN オトッサン 阿爺 n. (cont. of o-toto-san, com. coll,) Father. Syn.CHICHI, TETEGO.

とあつて、ヘボンの横文字と、片假名との對照によると、オトッサンの片假名は、發音式に書くとオトッツァンに当ること明白である。これは明治前期のことに属する*1

(「『お父ッさん』の話」平成九年十月pp.220-24

 この前年にも山田氏は「おとつさん」という文章を書いており、『詞苑間歩―移る時代・移ることば(下)』(三省堂1999)などに収めてある(pp.344-47)。両者で取り上げているのが、式亭三馬浮世風呂』前編巻上に出る「おとつさん」で、「さ」に「しろきにごり」が附されている。ゆえに発音上は「おとっ『つぁ』ん」だろうと見られていて、山田氏は「おとつさん」で、「標題はオトッツァンと發音して貰ひたい」(p.344)と書いている。

 なお山田氏は、

「オトッツァン」「オッカサン」は国定教科書の「おとうさん」「おかあさん」によつて、今ではすつかり片隅の者になつたのだが、山の手中流教養ある人々のことばには、どうもいまだに造り物らしい匂のするものがある。(『詞苑間歩(下)』p.347)

とも書いている。こうして見てくると、少くとも十九世紀末から二十世紀初頭にかけて生れた人々の多くは、自分の両親のことを、「おとうさん」「おかあさん」ではなく、「おとっつぁん」「おっかさん」と呼んでいたらしいことが知られるのである

 教科書に現れる親族呼称批判的に捉えたものとしては、大岡信氏(1931-2017)による文章もある。こちらは「チチ」「ハハ」に対する見解である

 今中学に通っている私の息子が、六年生のとき出来事だが、ある日彼が私のところへ国語教科書をもってきていうには、「この教科書おかしいよ。本物とちがうよ」。

 宮沢賢治作「けんじゅう公園林」として、賢治の「虔十公園林」がのっていた。(略)

 私の息子は小学校時代、長いあい宮沢賢治童話に熱中していたので、教科書方言がすべていわゆる標準語に書きかえられているところまでくると、「これは本物とちがう」と気づいたのである。(略)「なぜ方言のままで出さないの?」ときかれて、あらためて教科書を眺めれば、そこに出ている会話は、今日の都会のサラリーマン一家が、日曜菜園か何かでかわしている会話以外の何ものでもないではないか。(略)

 「おっかさん」を「母」、「にいさん」を「兄」、「お父さん」を「父」と呼びかえている偽善性も、まったく気に入らない。国語教科書が率先して家族の親しい呼び名に水をぶっかけるようつとめているのではないか。言葉問題何が悪いといって、偽善的な言葉を使うほど悪いことはない。なんで「おっかさん」ではいけないのか、私はこの改変をつまらないことだと思う。正当な根拠がない改変だと思う。戦後のいちじるしい現象だと思うが、「おとうさん」「おかあさん」の類を何が何でも「父」「母」というふうに子どもに教えこむ教育上の悪慣習が生じたように私は感じている。まさか、かの悪名高い当用漢字音訓表に「父(とう)」「母(かあ)」の訓みが許容されていなかったから、などということではなかろうが、あるいはそんなことも関係があるかと、つい勘ぐりたくなる。

 たしかに、自分の父母兄弟について言う場合なら、チチ、ハハと言えと教えるべきであるときどき「ぼくのおとうさんが」などという青年出会っておどろくことがある。けれども、これがつねにチチ、ハハでなければならないという掟はどこにもない。「虔十公園林」の場合、「おっかさん」「にいさん」「お父さん」と言っているのは、虔十自身ではない。作者の宮沢賢治である。賢治はこれらを「母」「兄」「父」と書くこともできたのに、そうは書かなかったのである。この生きた感情生理無視するのはまちがっている。

(「仙人が碁をうつところ―子ども言語経験について―」1973.7,『青き麦萌ゆ』中公文庫1982所収←毎日新聞社1975:70-75)

 文中の「私の息子」とは、大岡玲氏(1958-)である

 後年、大岡玲氏は自著で次のように書いている。

僕も子供の頃から宮沢賢治が大好きで、岩波書店が1963(昭和38)年に出した単行本風の又三郎』(1931〜33)と『銀河鉄道の夜』2冊を毎晩枕元に置いて寝たほど愛着があった。そんな風だったから教科書掲載方法不審を抱いたというか、ほとんど激怒したのだ。(略)

 もちろん、採用したこと自体は悪くない。あ、「虔十公園林」だ、と小学生だった僕も、一瞬喜んだ。その喜びが腹立ちに変わったのは、収録に際して原文を改悪していたからなのだ

 どういうことかというと、賢治はこの物語の中で交わされる会話(とてもイキイキした会話だ!)を、生まれ故郷岩手方言で書いている。それなのに、教科書ではそれを標準語に直してしまっていたのだ。雰囲気台なしであるしかも、そこには潜在的差別意識が透けて見える。方言はわかりにくいし、子供には正しい標準語を教える必要があるという判断。まるで、方言は「少し足りない」から正しい日本語に改良してやると暗に主張しているみたいに感じられてしまう。それじゃあ、虔十をバカにした人々の行為と同じではないか。

 小学生だった僕が、そんな風に明確に差別を読み取ったとは思わないけれど、なにかすごくカチンときたことははっきり覚えている。

大岡玲『不屈に生きるための名作文学講義―本と深い仲になってみよう』ベスト新書2016:183-86

読書日記 (1981年)

読書日記 (1981年)

素足の娘 (新潮文庫 さ 4-2)

素足の娘 (新潮文庫 さ 4-2)

忘れかけてゐた言葉

忘れかけてゐた言葉

詞苑間歩―移る時代・変ることば〈下〉

詞苑間歩―移る時代・変ることば〈下〉

青き麦萌ゆ (1982年) (中公文庫)

青き麦萌ゆ (1982年) (中公文庫)

*1:「明治前期」とあるから再版か。手許には講談社学術文庫版(第三版の縮刷影印)しかないので分らない。むろんその三版は採録している(p.493)。ちなみに初版慶應年間に刊行された。

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