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2016-05-26 「爆笑」誤用説 このエントリーを含むブックマーク

 岡本喜八『にっぽん三銃士 おさらば東京の巻』(1972東京映画)という映画のなかで、小林桂樹岡田裕介との間に次のような会話が交わされる。

岡田 まあ、すさまじきものは宮仕えってことです

小林 すさまじきじゃないよ、すまじきものは宮仕えだよ。それがどうした?

小林 華燭の宴*1! カッ、近頃の若い者はこんな字も読めんのか

岡田 こんな字、当用漢字にないはずですがね

小林 あ…あるはずだ!

岡田 三階に部屋なし

小林 違う違う、三界に家なしだよ!

 原作五木寛之著)は未読なので、このようなやり取りがそこにあるのかどうか分からないが、こういった個人的思い込みに基づく誤用誤読を指摘するのは容易なことである

 だが、しばしば「誤用」といわれる表現なかには、よくよく調べてみると、実際にはそうとは言い切れなかったり、むしろ実はそれこそが「正用」だったりするものがある。

 「爆笑」などは、その最たる例である

 この「爆笑」、近年の国語辞書類の語釈ではどう説かれているのかというと……(以下の引用では、符号の形を改めたところがある)。

ばくしょう【爆笑《名・ス自》大勢が大声でどっと笑うこと。(『岩波国語辞典【第七版】』岩波書店2009)

ばく-しょう【爆笑―セウ《名・自サ変》大勢が声をあげていっせいに笑うこと。「聴衆から―が起こる」「会場の―を誘う」「―王」>弾けるように笑う意から。[表現]近年、一人で大声を上げて笑う場合にもいう。(『明鏡国語辞典【第二版】』大修館書店2010)

ばくしょう ―セウ【爆笑―する(自サ)おかしな話を聞いて、その場に居る人が一斉にどっと吹きだすようにして笑うこと。(『新明解国語辞典【第七版】』三省堂2012*2

爆笑〈・・セウ〉(物がはじけるように)人々が一斉にどっと大声で笑う。「―のうず」(『岩波新漢語辞典【第三版】』岩波書店2014)

 すこし遡って、『新版国語辞典』(講談社学術文庫1984)から

ばくしょう【爆笑(名・サ変自)大ぜいでどっと笑うこと。

 以上の如く、判で押したように、「『大勢で』笑うこと」または「『一斉に』笑うこと」、となっている。『明鏡』のみ、「一人で大声を上げて笑う場合にもいう」と記しているものの、それは「近年」の用法であるとみている。

 ところが、『三省堂国語辞典【第七版】』(三省堂2014)を引くと、次のようにある。

ばくしょう爆笑](名・自サ)ふき出すように大きく笑うこと。「さむらいが大口をあけて―した・会場が―のうずになる」〔笑う人数が問題にされることが多いが、もともと、何人でもよい〕

 「もともと、何人でもよい」。つまり、大笑いしているのであれば、大人数ではなくたった一人でも誤りではない、ということである

 この注釈はいかにして追加されるに至ったか。種明かしは、飯間浩明三省堂国語辞典のひみつ』(三省堂2014)でなされている。飯間氏は次のように述べている。

 テレビで言われることはすぐ広まります口コミで、ツイッターで、「『爆笑』は大人数で笑うことらしいよ。知らなかった」と、ごく軽い気持ちで伝えられます

 実際には、話を伝える本人も、周囲の人々も、それまで「爆笑」をひとりの場合に使っていて、べつに何の不自然さも感じなかったはずです。長年違和感がなかったのに、ちょっとテレビで言っていることを聞いただけで、あっさり「自分は間違っていた」と認めてしまうのは、いささか早計というべきです。

 「爆笑」は比較的新しいことばで、昭和時代に入ってから一般化したものと考えられます。その当初からひとりで笑う例はありました。(pp.38-39)

 そして、直木三十五の「(ひとりで笑う)爆笑」の使用例(1929年)を示している。

 しかし「爆笑問題が根深いのは、上記のように多くの国語辞典が「爆笑」=「大勢で笑うこと」、と明記しているからである。飯間氏は、その記述が『辞海』(1952年)あたりまで遡ると見て、「『爆笑』の意味がそのように(大勢で笑うというように―引用者)変化したからではなく、辞書編纂者の不注意ないし誤解によるものだったと考えられ」る(p.40)、と結論している。

 そこで、『三国』の第七版では、「ひとりで笑う例、大勢で笑う例を仲よく並べ、さらに注記を添えて、どちらでも使えることを示し」た(同前)わけである。「比較的新しいことば」といいながら、わざわざ「さむらいが大口をあけて―」という作例にしているのが面白いが、それはともかく、「爆笑」=「大勢で笑う」説には何の根拠もないことになる。

 また神永曉『悩ましい国語辞典辞書編集者だけが知っていることばの深層』(時事通信社2015)は、徳川夢声漫談集』(1929年から「ひとり笑い」の「爆笑」の例を拾っている(pp.208-09)*3

 恥ずかしながら、わたしも以前、「爆笑」は「大勢で笑う」義だと信じて疑わなかったクチで、四、五年前のさるコラムに「爆笑はもともと『万座爆笑』などといって大勢で笑うことを意味した」、と書いたことがある。

 ちなみに小谷野敦氏は、『頭の悪い日本語』(新潮新書2014)で、

 これは最近知ったのだが、(「爆笑」は―引用者)大勢でどっと笑うことらしい。私も他と同様、一人でも「爆笑」を使っていた。だが、思わず弾けるように一人で笑ってしまうこともあって、そういう時は何と言えばいいのだろう。(p.27)

と書いているが、「そういう時」にも「爆笑」を使って差し支えない、ということになる。

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 青空文庫で探ってみると、「爆笑」=「ひとりで笑う」例がいくつも見つかりました

 「全然〜ない」や「銀ブラ」(「銀座ブラジルコーヒーを飲む」に由来する、という俗説)、この「爆笑」など、俗説がひとたび「正用」として広まってしまうと、後々改めるのに、たいへんな労力を要することとなります

 関連記事として、「言葉の正しさ?」「『全然〜ない』の神話」を挙げておきます。あわせてご参照くださいましたら幸いです。

岩波 国語辞典 第7版 普通版

岩波 国語辞典 第7版 普通版

明鏡国語辞典 第二版

明鏡国語辞典 第二版

新明解国語辞典 第七版

新明解国語辞典 第七版

岩波 新漢語辞典 第三版

岩波 新漢語辞典 第三版

国語辞典 改訂新版 (講談社学術文庫)

国語辞典 改訂新版 (講談社学術文庫)

三省堂国語辞典のひみつ

三省堂国語辞典のひみつ

悩ましい国語辞典 ―辞書編集者だけが知っていることばの深層―

悩ましい国語辞典 ―辞書編集者だけが知っていることばの深層―

頭の悪い日本語 (新潮新書)

頭の悪い日本語 (新潮新書)

*1:手許のメモによれば、「華燭の典」ではなく「華燭の宴」。

*2:手許に第三版(1981年刊)が有るので見てみたが、全く同じ語釈であった。

*3:そういう古い確例を拾いながらも、神永氏は、「爆笑」=「大勢が一度に笑う」というのが「本来意味であると捉えている。

甕星亭主人甕星亭主人 2016/05/27 22:46  何時の間にか、爆笑の語義が変わってたのですね。 TVプログラムを視無い所為か一向に気付きませんでした。 一同爆笑したって態々云わなく良いのか。 時勢に遅れてるのを痛感しました。

higonosukehigonosuke 2016/05/28 23:25  コメント下さり、ありがたく存じます。語義が変わったというより、人為的に歪められてしまっていた、とでもいうべきでしょうか。
 しかしわたしも、俗説の紹介に荷担したという意味で、責任を感じております。

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2016-05-08 藤枝晃『文字の文化史』/聖徳太子 このエントリーを含むブックマーク

 藤枝晃の『文字文化史』は、「文字漢字好きのバイブル」ともされ、これまでに岩波書店単行本1971年刊)、岩波時代ライブラリー版(1991年刊)、講談社学術文庫版(1999年刊)、と何度か形を変えて世に出ている。だが、現在はいずれも絶版もしくは版元品切である

 わたし学術文庫版が刊行された際にこれを求め、センター試験直前だというのに夜更かしして読んでいた記憶が有る*1。その後、同時代ライブラリー版も購い、同好の士には、事あるごとに一読をすすめている。

 同時代ライブラリー版のあとがきに、「アカデミーフランス学士金石文アカデミーのこと)は、この小著を私の一生の仕事ダイジェストと見なした模様である」(p.292)とあるが、事実、このことは、小題のつけ方からもうかがい知れる。たとえば、「長城のまもり」(同時代ライブラリー版p.90)というのは、藤枝による雄篇(1955)と同じタイトルである。その論考は、「森鹿三教授主宰の居延漢簡研究班の主力メンバーとして執筆した」もの(礪波護「藤枝先生の学恩」『京洛の学風』中央公論新社2001所収:48)で、「系統的史料整理の方法とその有效性を提示した」(籾山明『秦漢出土文字史料研究形態制度社会―』創文社2015:338)などと評される。

 『文字文化史』の副読本としては、藤枝晃『敦煌学とその周辺』(ブレーンセンター1999)が挙げられる*2藤枝自身の「コディコロジー」(codicologie)*3確立など、「その後」の進展が述べられている。

 さて先日、「聖徳太子研究最前線」というブログの、「三経義疏中国撰述説は終わり」や、その続篇「藤枝晃先生のもう一つの勇み足」おもしろく読んだ。

 ブログ主である石井公成氏は、敦煌学における藤枝の功績を認めながらも、彼の「三経義疏中国撰述説」を批判している。藤枝説は、『敦煌学とその周辺』の「第三回講座 聖徳太子」(pp.107-36)で(裏話も含めて)手軽に知ることが出来る。そこで藤枝は、「(三経義疏は)間違いなく渡来物です」(p.134)と言い切っているのだが、石井氏はその説を誤りとして斥けているわけである

 石井氏は、今年初めに『聖徳太子実像伝説の間』(春秋社)という一般向けの本も出されており、pp.34-36 やpp.167-73 あたりに、上掲のブログ記事で展開される話題をさらに詳しく平易に説いている。それは、「森博達氏や筆者自身を初めとする変格漢文研究の成果と、仲間たちで開発したNGSMと称するコンピュータによる比較分析方法」(p.169)に裏打ちされているから学説は印象論にとどまることがないし、説得力がある。

 個別的には、たとえば、次の指摘など興味ふかいものがある。

 ただ、三経義疏は変格漢文が目立つとはいえ、「憲法七条」および変格漢文で書かれた『書紀』β群の諸巻に多数見られる「之」を文の中止・終止の形で用いる用法が、まったく見られません。これは、文体面での重要な違いです。「憲法七条」と三経義疏を同じ時期に同じ人が書いたとは、とうてい考えられません。(p.173)

 また、聖徳太子の別名「厩戸王(うまやとおう)」が現存史料には全く出て来ないという指摘なども面白かった。ということは、

 なお、(蘇我)馬子と呼んでいるが、その「子」の字は、孔子孫子と同じような尊称である。したがって名前本質は「馬」となる。一方の厩戸皇子も「うまやと」で、また厩戸の娘も「馬屋古(うまやこ)女王」であり、「うま」という名前共通性も注目される。

吉村武彦『蘇我氏古代岩波新書2015:120)

という記述の後半部などは、怪しくなってくるのか知ら。

文字の文化史 (講談社学術文庫)

文字の文化史 (講談社学術文庫)

京洛の学風

京洛の学風

敦煌学とその周辺 (対話講座なにわ塾叢書)

敦煌学とその周辺 (対話講座なにわ塾叢書)

聖徳太子: 実像と伝説の間

聖徳太子: 実像と伝説の間

蘇我氏の古代 (岩波新書)

蘇我氏の古代 (岩波新書)

*1解説は、藤枝の娘婿・石塚晴通氏が担当

*2特に「第一回講座『文字文化史』のあとさき」。

*3:「古写本の材料・かたち・書き方・作り方・しまい方など、写本の内容以外の一切のことを追求してい」く(p.24学問のこと。籾山前掲の「序章」を読んで知った術語、「搬送体」(石上英一の造語)とも重なり合う概念であろう。

森 洋介森 洋介 2016/05/09 23:41  『敦煌学とその周辺』は、一九九九年三月刊行の201ページの版と同年十二月刊行の202ページの版とがあること、CiNiiで確認されます。後者を所有する友人によると、石塚晴通氏による編集後記が201ページから202ページにかけて記され、前者が非売品であった事と、誤記を訂正し寫眞を一部差し替えた旨が書かれてゐる由。
 藤枝晃先生追悼文集刊行会事務局編『藤枝晃』(自然文化研究会、二〇〇〇年六月)を二〇一三年に讀んだことがあり、聖徳太子の功業を否定するやうな研究への抵抗は、京都や奈良のやうな寺や信者の多い地域では想像以上であると思ったことが記憶に殘ってゐます。

higonosukehigonosuke 2016/05/11 01:38  どうも有難う御座います。私が持っているのも、一九九九年十二月刊行の編輯後記が附いた版です。そこで石塚氏は、「第三回講座(聖徳太子―引用者)以降分は(略)内容的にもその後の学界の進展から見て如何かと思われる部分を含み、公表にはいささかのためらいも伴った」(p.201)と書かれています。ここ十数年間における聖徳太子研究の進展も考慮されてのことでしょうか。
 ところで本文中には、石塚氏による註釈が時折挟まれています。たとえば「奈良時代の日本には仏教の注釈書が全くない」という藤枝の発言に対しては、「これは言い過ぎであり、奈良時代後期には日本撰述の注釈書が確実に著作されている」(p.124)、とあります。
 ご紹介下さった『藤枝晃』は未見でした。興味を引かれるところです。

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2016-04-25 「二銭銅貨」「心理試験」のことなど このエントリーを含むブックマーク

 年明けに「江戸川乱歩「二銭銅貨」と点字とビブリア古書堂」(「くうざん、本を見る」)を拝読しておおいに触発され、このところ、乱歩の初期作品をちびちび再読するなどしていた。

 青空文庫版「二銭銅貨」の底本たる光文社文庫全集本(第一巻『屋根裏散歩者』)は、前掲ブログにあるように平凡社全集(S.6)に基づくが、末尾の校異(山前譲「解題」)はテキスト全体の異同について、「初出(T12.4「新青年」)、初刊本(T14.7春陽堂創作探偵小説集第一巻『心理試験』)、平凡社全集(S6.6『江戸川乱歩全集』第一巻)に大きな異同はない」(p.653)と述べ、また点字部分については、「桃源社全集(S36.10江戸川乱歩全集』第一巻)では点字暗号を訂正して書き改めている。本書もこれにならった」(同上p.654)とあるのみで、それ以上詳しいことは書いていない。

 点字暗号改訂に関しては、今野真二リメイク日本文学史』(平凡社新書2016)によれば次のようである

 なお、「二銭銅貨」では暗号点字がかかわっているが、初出時(『新青年』発表時)には点字に関する誤りがあり、桃源社版の『江戸川乱歩全集』(一九六一年〜一九六三年)においてそれが訂正された。しかし、その後に読者からの指摘で、点字部分について、再び『新青年』に拠るようになったために、また点字に関する誤りがいわば「継承」されてしまうことになった。このことについては『日本探偵小説全集2 江戸川乱歩集』(一九八四年、創元推理文庫)の戸川安宣の「編集後記」に述べられている。現在入手しやすいものとしては、『江戸川乱歩傑作選』(昭和三十五年発行、平成元年四十八刷改版、平成十七年八十八刷、新潮文庫)が桃源社全集踏襲している。例えば、この『江戸川乱歩傑作選』の二八〜二九頁に示されている点字の解読表は、リライト版が二四八〜二四九頁に示す解読表と異なる。例えば「チ」と対応する点字の形が異なっている。こうしたことも広い意味合いでの「書き換え」にあたる。乱歩は自らの誤りに気づいてそれを訂正=書き換えたが、それがまた第三者の手によって、「誤り」のかたちに引き戻されたことになる。そして、点字を自ら読むことができない多くの読者はそのことに気づかない。(p.181)

 戸川保宣「編集後記」は今ただちに参照できないので、ちょっとわかりにくいが、「読者からの指摘」とは、乱歩自身による訂正を訂正だとは思わずに(別のテキストと比べるなりして)誤植と解した「指摘」、ということを意味するのだろう。

 次に『江戸川乱歩傑作選』を見てみる(手許のは「平成二十一年四月二十日 九十三刷改版」で、頁数だとpp32-33となる)。今野氏によると「桃源社全集踏襲し」たとのことであったが、これは「くうざん、本を見る」において「新たな異文」とされたもの、すなわち拗音の扱いを、

イ段音の仮名点字 + ヤ行音の仮名点字

とするもので、前掲ブログにあるとおり、『日本文学 100年の名作1 夢を見る部屋』(新潮文庫2014)に出ているものと同じだ。

 見かけ上は、オリジナルから拗音符を抜いた形だが、kuzan氏によれば「改訂方式から修正と考えた方がよい」ということになる*1。『日本文学100年の名作』所収のものは、恐らく、同じ新潮文庫の『江戸川乱歩傑作選』をそのまま引き写しているのだろう。しかし、作中には「点字五十音、濁音符、半濁音符、拗音符、長音符、数字などが、ズッと並べて書いてあった」とあるのだから、拗音符を無視してしまうと、文章理解にも影響が出て来ることになりはしまいか

 また、今野前掲の文中に「リライト版」とあるのは、「少年探偵 江戸川乱歩全集」(ポプラ社)の第37巻『暗黒星』所収版(1971)をさす。リライト氷川瓏(渡辺祐一)が行っているとされる。このポプラ社版もいま手許になく、直ぐには参照できない。よって確かなことはいえないのだが、上引に「「チ」と対応する点字の形が異なっている」とあるのは、正確にいうと、「「チ」に対応する部分が拗音符の点字に改められている」ことだと解せそうである

 さてそこで、「新たな異文」の出現がどこまで遡れるのか、にわかに気になってくるわけだが、角川文庫版『D坂の殺人事件』(2016)*2所収の「二銭銅貨」もこの形になっている。いや、実はもっとひどくて、解読のためのキーワードとなる「南無阿」「弥陀仏」が、全て「左縦書き」ではなく「右縦書き」に改められてしまっている。すると、たとえば「コ」「カ」は、反転してそれぞれ「タ」「ヤ」になってしまう。文中でも、登場人物松村が、わざわざ「今、南無阿弥陀仏を、から始めて、三字ずつ二行に並べれば」云々と言っているにもかかわらず、である

 角川文庫の拠っているのは、旧版角川文庫一寸法師』(1973)所収のものらしい(例の水色の背の文庫だろうが、『一寸法師』は持っていなかったと思う)。だとすれば、この「異文の異文」は四十年以上前から存在していることになるが、本当だろうか。あるいは、この度の新版が書き改めたものか。

 いずれにせよ、「新たな異文」は『江戸川乱歩傑作選』(1960年旧版から?)や角川文庫版『一寸法師』(1973)などにも見える形であるらしい。

 ついでに、最近出たものをいくつか見ておくことにしよう。

 たとえば岩波文庫所収版(千葉俊二編『江戸川乱歩短篇集』2008)pp.28-29に掲げられる点字暗号は、オリジナルのものである。底本は初出誌(T12.4)に基づいており、なおかつ、「平凡社全集版と校合」したために、点字が改められることはなかったわけである。昨年改版された、春陽文庫版(江戸川乱歩文庫心理試験』所収)pp.76-77も、『江戸川乱歩全集』(春陽堂昭和29年昭和30年刊)を底本としているからオリジナルのままである

 一方、『桜庭一樹江戸川乱歩傑作選 獣』(文春文庫2016)所収版pp.32-33は、光文社文庫全集版を底本としているから修正後の形となっている。

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 この1月に、NHK-BSプレミアムで「シリーズ江戸川乱歩編集 1925年明智小五郎」が放送された。「D坂の殺人事件」(1.11放送)、「心理試験」(1.23放送)、「屋根裏散歩者」(1.24放送)の全三話で、三篇とも、明智を満島ひかりが演じていた。

 これまでの映像作品では、小林少年女性が演じたことは有ったが(実相寺昭雄『D坂の殺人事件』1998の三輪ひとみ*3)、女性が明智に扮したのは初めてではないか。いずれも「ほぼ原作どおり」の映像であるとうたっている。たとえば『D坂』は、明智と「私」とが谷崎潤一郎「途上」の話をすることなどはカットされているが、会話や展開などはほぼそのままであった。

 満島以外も配役に凝っており、『D坂』の「私」は“アーバンギャルド”の松永天馬、古本屋のおかみに中村中(その手があったか!)、小林刑事には、「平泉成」の物まねで知られる末吉くん。『心理試験』の蕗谷清一郎は菅田将暉*4笹森判事田中要次下宿の老婆に嶋田久作*5。そして『屋根裏』の郷田三郎は篠原信一役者ではないので台詞はほとんどなし)。

 選曲面白くて、『心理試験』には、ダリオ・アルジェントサスペリアPART2*6挿入曲子守唄)「スクール・アット・ナイト」や、欧陽菲菲「恋の追跡」、丸山圭子「どうぞこのまま」が使われているし、『屋根裏』には尺八アレンジの「Take5」が流れる。

 ただし演出は凝り過ぎていて、『D坂』ではまだましだったのが、『心理試験』、『屋根裏』、と回を追うごとに過剰となり、たとえば『心理試験』のラストで、菅田・満島・田中の三人が「ワーーッ」と叫び合う展開など、あまり感心しなかった(というか、わかりにくかった)。

 ディテールにいろいろ注目して見ていたのだが、『心理試験』で、字幕とともに、

「辞林」の何万という単語ひとつ残らず調べてみて、少しでも訊問されそうな言葉を書き抜いた。(菅田によるナレーション

という件が出て来る。しかし、菅田が実際に手に取って見ているのは金澤庄三郎編『辞林』ではなく、新村出編『辞苑』(博文館刊)であった。『辞林』を小道具として用意できなかったのかどうかは知らないが、『辞苑』は1935(昭和十)年刊だから時代が合わなくなってしまう。

 それはいいとして、これは「原文」に、

 そこで、彼は「辞林」の中の何万という単語ひとつ残らず調べてみて、少しでも訊問されそうな言葉をすっかり書き抜いた。(『江戸川乱歩傑作選』新潮文庫改版p.134)

とあるところ。この箇所にも異文があることに気づいた。

 たとえば河出市民文庫版(1951)『心理試驗』では、この箇所が、

 そこで、彼は『辭林』の中の何萬といふ單語を一つ殘らず調べて見て、少しでも訊問されさうな言葉をすつかり書き拔いた。(p.177)

というふうに、「ひとつ残らず」となっている。というよりも、むしろ「も」の有るほうが圧倒的多数で、春陽文庫版や光文社文庫版、岩波文庫版など全てこちらであったが、角川文庫版(『D坂の殺人事件』所収)が、「ひとつ残らず」となっている。この箇所は光文社文庫版の校異(「解題」)にも出てこないので、比較的新しい異文であろう*7

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 「暗号小説」といえば、ちょうど竹本健治氏の『涙香迷宮』(講談社)を読み始めたところ。「いろは」や「あめつち」に興味を持つ向きは読むべきだろう。

 山田航氏によると、竹本氏は「いろは歌作りが趣味なのだとかで、「短歌雑誌短歌研究」二〇一三年十一月号で「いろは歌に挑戦」という特集がなぜか組まれたのだが、そこに自選いろは歌を十五首寄稿している」(『ことばおてだまジャグリング文藝春秋2016:52)という。

江戸川乱歩全集 第1巻 屋根裏の散歩者 (光文社文庫)

江戸川乱歩全集 第1巻 屋根裏の散歩者 (光文社文庫)

江戸川乱歩傑作選 (新潮文庫)

江戸川乱歩傑作選 (新潮文庫)

D坂の殺人事件 (角川文庫)

D坂の殺人事件 (角川文庫)

江戸川乱歩短篇集 (岩波文庫)

江戸川乱歩短篇集 (岩波文庫)

ことばおてだまジャグリング

ことばおてだまジャグリング

*1:「くうざん、本を見る」の記事の中ほどに、「ト」の仮名を「ソ」と誤記されているところ(二か所)があるのではなかろうか?

*2カバー絵が、アニメ文豪ストレイドッグス」とのコラボ作品だとの由。

*3:なお原作小林少年は出て来ない。

*4:劇中で蕗谷が、傲岸をもって知られた島田清次郎の『地上』を読んでいる、という演出面白かった。

*5嶋田は、実相寺昭雄版『屋根裏散歩者』1992と『D坂』1998とで明智小五郎を演じた。

*6:これは邦題で、『サスペリア』とは連続性がない。原題は“Profondo Rosso”(真紅である

*7:上に述べたように、「二銭銅貨」の点字暗号の扱いも新潮文庫版と角川文庫版とで共通していたのであった。あるいは同じ底本に拠ったのだろうか。

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2016-03-28 知里真志保『アイヌ語入門』のこと このエントリーを含むブックマーク

 知里真志保アイヌ語入門―とくに地名研究者のために―』(北海道出版企画センター)という本がある。判型でいうと、「小B6判」というのだろうか、一般的新書よりもすこしだけ小さなサイズの本である。同じデザインでかつ同じ判型の本に、『地名アイヌ語辞典』『和人は舟を食う』(いずれも知里の著作)などもあるから、多分、シリーズのうちの一冊といった位置づけになるのだろう。

 この『アイヌ語入門』は、1956年6月初版が出ており、手許にあるのは2004年1月の「七刷」。現在も新本で入手できるようだ。小さな本ながら、アイヌ語音韻法則などについて詳述されており、たいへん勉強になるのだが、先覚たちへの批判には容赦がない。たとえば、「この人(Kという農学博士引用者)は大まじめで,こういうチャランケ*1をつけたのである」(p.11)、「K氏ていどのアイヌ文法の知識では」云々(p.13)、「永田方正氏は,そういうキマリのあることを知らないものから,誰も分る筈がないと思って,開音節だろうと閉音節だろうと気の向くままに -p をつけて,勝手アイヌ語地名でっちあげて知らん顔をしていた」(p.30)、などといった調子である。ちなみにそのK氏というのは、河野広道のことだと「あとがき」で明かされている(p.275)。

 『アイヌ語入門』は、岡茂雄「『分類アイヌ語辞典』と金田博士」(『本屋風情』)にもちょっとだけ出て来る。

 (『分類アイヌ語辞典』の―引用者)第一巻『植物篇』は、昭和二十八年の春先にできたのだが、その前、序文原稿を渡された時、その長大なのにまず驚き、内容を拝見して、更に目を見張ったのであった。そして、知里さんの満々たる自負もさることながら、学究の純粋さと仮借ない筆鋒に、思わず身の引きしまるのを覚えた。今にして思えば、知里さん晩年の名著といわれた『アイヌ語入門』の、あとがきのその末尾に「アイヌ研究を正しい軌道にのせるために」という、特にゴシック活字で、力をこめて表示されたその悲願が、この序文にも脈々として流れていたのである中公文庫版1983:119-20

 『分類アイヌ語辞典 植物篇』は、日本常民文化研究所から刊行されている。同書は朝日賞候補として推薦されたことがあるが、知里の師・金田一京助が、それに賛同しかねるという意見を表明したために、受賞の話はいったん流れてしまった。

 京助の非推薦理由は――『本屋風情』p.120から孫引きになるが――、

 開巻第一ページに、北海道大学先生やり玉にあげているのです。痛快には違いないけれども、開ける早々、そういうことを書いてあるものですから、困ってしまった。やり玉にあげられているのは、二人とも北海道大学では神様のように尊ばれている大先生たちです。そこで、私は、こういうのを朝日賞にしたばあい朝日新聞社だって困るだろうし、それにまた、この『植物篇』はなにぶん小さいし、引き続いて『動物篇』だの、『人間篇』だの、どんどん出るのだから、急ぐには及ばない(金田一京助『私の歩いて来た道』)

ということであったという。ここにいう「大先生たち」とは、宮部金吾、三宅勉の二人である

 岡は、京助のこの辯明に疑問を呈し、「(知里の批判は)あくまでも学問上の批判であり、アイヌ語の正確な解明を希求しているのであって、私たちはむしろ学徒の純粋性がうかがえて、清々しくさえ覚えるのであったが、どんなものであろうか。(金田一)先生は触れておられないが、この序文の中には、わずかではあるが、金田先生御著作中の植物名解についての批判も盛りこまれているのである」(p.121)と述べている。さらに、「なおまた「引き続いて『動物篇』だの、『人間篇』だの、どんどん出るのだから……」といっておられるが、その非推薦文をお綴りになる時には、どのようなものが続刊されるかは御存じなかったはずである」(同前)ともいう。

 結局、京助は「その時の御措置を気にされたものか、『人間篇』が翌年末刊行されると、まことに素早く激賞推賛された」(同p.122)ため、昭和三十(1955)年1月16日、知里に朝日賞が贈られることとなった。その授賞式や祝宴に京助の姿はなかった。

 岡のこの記述だけをみると、京助の方が大人げないように見えてしまうかもしれない。

 しかし、山内昌之弟子をねたむ師、師をそねむ弟子?―金田一京助知里真志保場合」(『歴史政治の間』岩波現代文庫2006)を読むと、一概にそうとも言えないことがわかる。

 山内氏は、京助が分類語辞典植物篇を推薦しなかったとき、知里が「先生は俺を嫉妬している」と周囲に漏らしたと記しているが、「むしろ金田一の方こそ、あれこれの嫉妬さらされたことは有名である」(p.267)と書き、藤本英夫『金田一京助』(新潮選書)や大友幸男『金田一京助アイヌ語』(三一書房)を参照しつつ、京助が周囲の嫉妬の念からアイヌ語学」の世界に閉じ込められて孤立していたことについて述べる*2

 そして、昭和二十八(1953)年に札幌で人類学会・民族学会連合学会が開かれた際、京助は特別講演を依頼されたのだが、「『知里君とのことがあるから』とさびしそうに辞退した」こと(p.271)や、周囲に和解を勧められた知里が上京時に京助のもとを訪ねた折、京助が「(息子の)春彦に電話で『知里君が来てくれたんだよ』と涙ながらに伝えたという話」(同前)、それから昭和三十六(1961)年に知里は急逝するのだが、「七十九歳の金田一は空路かけつけ」た(p.273)という話*3などを紹介する。なお、知里の授賞記念の祝宴に京助はもともと呼ばれていなかったという。

 おもうに、「断碑」の木村卓治*4を髣髴させるような知里の狷介は、アイヌ民族としての強烈な自意識に支えられたところも大きかったのだろう。

 さて『アイヌ語入門』の話に戻ると、同書には、山田秀三「知里博士の『アイヌ語入門』」という二つ折りの附録が挟みこまれている*5。それを見ると、知里の河野への批判については「これではもう悪口だ」と評してあるし、またこうも述べてある。

 知里君の恩師金田一京助先生は,先輩の評をするのに欠点は全く触れないで,長所だけを賞讃される。その愛弟子の知里さんは,先人の長所を挙げずに,欠点を拾って鋭く攻撃するだけだ。二つ足して二で割るとちょうどいいのだが。知里さんの兄貴分として何度それを説いたことだったか

 この附録には、他にも興味ふかいことが色々と書かれているのだが、ここでの紹介は控える。ただ山田は、知里の知られざる穏やかな一面も明らかにしているとだけ述べておこう。

 現在では、知里の説といえども修正を余儀なくされる部分もあるらしい。たとえば「川」を意味する「ペッ」「ナイ」*6の先後関係(成立順)について、知里は「ペッ」→「ナイ」という順を想定した*7が、これは逆で、「ナイ」→「ペッ」ではなかったか、という説が近年は有力であるそうだ(瀬川拓郎『アイヌ学入門』講談社現代新書2015:72-79)。

本屋風情 (1983年) (中公文庫)

本屋風情 (1983年) (中公文庫)

歴史と政治の間 (岩波現代文庫)

歴史と政治の間 (岩波現代文庫)

アイヌ学入門 (講談社現代新書)

アイヌ学入門 (講談社現代新書)

*1:「北海道方言で,「苦情をいう」「なんくせをつける」の意。もとアイヌ語の「ちャランケ」(cháranke)から來て,それは本來は動詞で「論弁する」「談判する」の意であるが,「弁論」「談判」というような名詞にもなる」(p.11脚注)。

*2山内氏は「正確な事実は知る由もない」、と留保してはいるが。

*3:知里が自身の死を報せてほしい人のリスト生前に作っており、そこに京助の名が入っていなかったにもかかわらず、である

*4森本六爾がそのモデルだという。

*5印刷の具合から見て、初刷ではなく後刷でつけられたものだろうが、どの時点から附録としてついているのかはわからない。

*6:知里によると、「『ペッ』や『ナイ』を単に『川』と訳することにすら問題があるのである。なぜなら,川というものに対する古いアイヌの考え方は,現代人たるわれわれのそれとはいちじるしく異っているからである。古い時代アイヌは,川を人間同様の生物と考えていた」(p.40)という。

*7山田秀三も同じ見解だという。

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2016-03-13 岩阪恵子選『木下杢太郎随筆集』 このエントリーを含むブックマーク

 そもそもわたしが、木下太郎に関心を抱くようになったのは、平澤一「古本屋列伝」(『書物航游』)によるところが大きい。以前にもその一部を紹介したことがあるが、重複をいとわず引いておこう。

 その次に訪ねた時、若林さん*1は折よく店にいた。こちらから名乗って、「これから宜しく」と挨拶すると、「杢太郎を探しておいでと、藤原さん*2から伺っています、こんなものはお持ちですか」と、数冊の雑誌と小冊子とを、とりだした。雑誌は『芸林諒癲戮梁莪豺罅木下太郎の追悼記事が五編ある)と『文芸』(太田博士追悼号)であった(木下太郎本名太田正雄である)。この二冊は、既に八木さん*3の店で手に入れていたが、小冊子の三冊は、聞いたこともないものであった。伊東市、杢太郎会の『小学校時代の回想』と、『木下太郎の横顔』と、『木下太郎建設経過・除幕式模様・会計報告』であった。こちらの方は、持っていませんと答えると、宜しければ、さしあげますということであった。

 その頃(昭和三十六年頃―引用者)、私は杢太郎の本を手にしない日はなく、古本屋に入れば、必ず彼の本はないかと書棚の本の背に眼を走らせた。また、雑誌など定期刊行物の杢太郎に関する記事をも集めていた。当時は、木下太郎は既に忘れられた人であった。(略)京都古本屋では、『食後の唄』は、とうとう、みつからなかった。『えすぱにや・ぽるつがる記』とグワルチエリの『日本遣欧使者記』は、少し高いのを我慢すれば手に入った。『芸林諒癲戞◆愨狭饌饗記』や『木下太郎選集』などは、五、六軒も店をまわれば、必ずあった。『日本吉利丹史鈔』が三百円であった。戦後出版された『葱南雑稿』(昭和二十一年九月発行)は、五十円か百円で、時には見切り本の中に入っていたりした。(中公文庫pp.283-85) 

 杢太郎の著作は、これまでに七冊購っている。

 まず単行本は、『支那傳説集』の精華書院版*4、およびその改訂版たる座右寶刊行會版*5、『藝林諒癲戞岩波書店)、『葱南雜稿』(東京出版)の四冊、それ以外は文庫本で、『南蛮寺門前 和泉屋染物店 他三篇』(岩波文庫)、日夏耿之介編『木下太郎詩集』(アテネ文庫)、前川誠郎編『新編 百花譜百選』(岩波文庫)の三冊――で、計七冊。共著の『五足の靴』(岩波文庫)もここに加えることができようか。

 いずれも、千円に満たない金額で入手できたことは幸だったといわねばなるまい(『支那傳説集』の二冊は裸本、『藝林諒癲戮肋線引有であるけれども)。現在、新本で手に入るのは、『新編 百花譜百選』『五足の靴』のみであろうが、これとても、いつ品切・絶版となってしまうかわからない。

 このうち最もわたしの気に入っているのは、戦後に出た遺著の『葱南雜稿』(太田正雄名義)である。同書の完成を目前にして杢太郎は長逝するが、あとを野田宇太郎が引き継いで、無事に刊行までこぎつけた。

 杢太郎自身の「序」によると、その内容は、大きく「佛印紀聞」、「學藝微言」、「燕石瑣屑」(杢太郎言葉を藉りると「心の小さい鏡の上にたまゆらに印象した、有るか無きかの物かげを危く捉へ得たままに札記したもの」)、「餘燼詩篇」の四部に分たれる。さらに附録として、「日本醫學史に於ける古方家」、「わらひ蕈(現代狂言)」、随筆「すかんぽ」(遺稿)を附す。

 なお「葱南」は杢太郎の雅号。号の由来は、「大正御宇の初、余南満に在り、職を醫學堂に奉じた。未だ心友を得ず、秋冬の夜は煢然として孤燈に對し、好んで西域の諸傳を讀んだ。天山葱嶺の南路は、若し能ふべくんば一度踏破して見たいと冀願した」(「序」三頁)ことにあるという。

 ちなみにいうと、生島遼一が「葱南先生のこと」という一篇を書いている。生島はその短文のなかで、かつては、

文人木下太郎には若干の偏見をいだき、この人の仕事に適切な敬意をはらっていなかった。チョコレートを楂古聿と書いたりする趣味は好きではなかった。この人が白秋らに先んじて手をつけたキリシタン文芸に関しても、その時代の反映を見るにとどまり特につよい好奇心をおぼえなかった。(略)鷗外の小型エピゴーネンと簡単に考え、随筆類も、学者随筆なら寺田寅彦のほうが文章もあっさりしていいくらいに思っていた。

(『春夏秋冬講談社文芸文庫:121)

吐露しているが、しかし、「伊豆伊東へ度々行くようになって、ここを郷里とする木下太郎太田正雄)に親しみをもつようになった」(同p.120)と述べる。やがて、「とかく衒学的と思った文体の抵抗もあまりな」くなり、「紀行文随筆のそこかしこに、じみながらよくかがやく眼光」を感じるようにさえなったという(同p.122)。

 生島は、『葱南雜稿』に限っていえば、夙くから愛読していたらしく、

古いことだが、私がまだ教師をしていたとき、この本(『葱南雜稿』のこと)の中の《フランスに於ける教育改革》の一部を、たしか教育課程の課目としてしゃべる講義に利用させてもらった恩恵もある。よく調べてあった。(同pp.120-21)

と記している。

 とまれこの『葱南雜稿』一冊だけでも、杢太郎の様々の貌を知ることが出来る。さきに引用したように、この書は、以前は「時には見切り本の中に入っていたりした」(平澤一)というほどであったが、わたしは約五年前、大阪のTにて800円で購った。これはまだ安いほうで、1500〜2000円の値がついているのを何度か見かけた。

 さて、かつて富士川英郎は、杢太郎随筆を好んで読み、お気に入り随筆を集めた文集の出現を「夢想」していた。

 私が年来、特に愛読しているものに、彼の独特な随筆がある。そしてそのうちでも、杢太郎がその晩年執筆した幾篇かの随筆に、私は特に傾倒しているが、それらは、

 小学校時の回想*6

 すかんぽ

 僻郡記

 残響

 研究室裏の空想

 本の装釘

 あかざ(藜)とひゆ(莧)(ママ。正しくは「あかざ(藜)とひゆ(莧)と」)

などの諸篇である。私はこの七篇を、右に列挙した順序で並べた一冊の随筆集の出現をしばしば夢想しているが、(略)いずれもえも言われぬ味わいの随筆となっているのである

 いま私は、私の空想するこの一冊の杢太郎随筆集の巻頭に、先ず「小学校時の回想」と「すかんぽ」という二篇を置きたいと思う。(略)右の二篇についで、その次に置かれるのは、「僻郡記」という随筆である。(略)

 ところで、この「僻郡記」は、前にも述べた通り、杢太郎東北教授だった頃に巡回診療に際しての見聞を記したものであるが、「残響」は彼が昭和十二年五月、東京大学医学部教授となったとき家族仙台に残したまま、単身赴任して、駿河台の竜名館に宿をとって、大学に通っていた期間に執筆された随筆である。(略)

 私はこの「残響」という随筆を昔から愛読しつづけているが、これはひとり杢太郎のそればかりでなく、一般昭和随筆文学中の白眉ひとつと言うことができるだろう。(略)

 「研究室裏の空想」は、「残響」の続篇のような趣きのある随筆であるが、その主人公日常生活なかに嵌めこまれ実験室での生活空想を述べた、これも杢太郎ならではの興趣深い随筆である

 最後の二篇、「本の装釘」と「あかざ(藜)とひゆ(莧)」(ママ)は、杢太郎晩年に著しく緊密になった雑草や草花とのかかわりあいのなかからまれたような随筆であるが、私はこのうちでは特に「本の装釘」を好んでいる。(略)

 以上の七篇で、私の空想する杢太郎随筆集は完結する。これは我国に稀れであった一人のポエタ・ドクトゥスの、いわば晩年生活記とでもいうべきものであるが、頁数にして凡そ百五十頁に近い小冊子となるだろう。さて、その表題は集中の一篇のそれを採って、『残響』と名づけたいと思う。(「木下太郎随筆*7読書清遊―富士川英郎随筆選』講談社文芸文庫:82-87)

 およそ本好きであればたれしも、このような「夢想」をいかにも愉しげに語ることに強く共感するであろうし、それがまた、読書の悦びのひとつであると思う。この七篇のうち、『葱南雜稿』に収められたのは、さきに触れた「すかんぽ」、そして「僻郡記」、「本の装釘」の計三篇である

 英郎の息・富士川義之氏によると、英郎は「いずれまとまった杢太郎論を執筆したい意向を持っていたようだが」、かなわなかったという(『ある文人学者肖像―評伝・富士川英郎新書館:157)。また「残響」は、やはり英郎が特に好んだ随筆であったらしい。富士川氏も英郎の随筆引用しながら、次のように述べている。

 (英郎は)「例えばその「残響」という絶妙随筆を読んだときなど、自分にもいつかこのようなものが書けたらと、身の程も弁えず思ったりしたものであった」(「木下太郎のこと」)という。とりわけ魅惑的だったのは、その散文のうちに、「学識と思索と詩心とが渾然と融合している」ことであった。この「学識と思索と詩心とが渾然と融合している」という杢太郎像は、杢太郎をめぐる短いエッセイ随筆のなかで数回引き合いに出されるが、これは富士川英郎にとって、自分のあるべき像としても強く意識されていたものではなかっただろうか。英郎の著作もまた、昭和四十年代以降、つまり年齢で言うと、五十五、六歳以後、「学識と思索と詩心とが渾然と融合している」という趣を多分に呈しているように見えるからだ。(同前pp.157-58)

 英郎が、「小学校時の回想」とともに架空随筆集の劈頭に置いた「すかんぽ」については、平澤一氏も興味深い一篇として紹介している。

 この時期(昭和十二年から太郎が亡くなる昭和二十年までの「第二次東京時代」―引用者)にも植物に関する随筆は、長短とりまぜて十三篇ばかりある。その中から興味深いものをあげてみよう。「銀杏とGinkgo」は、銀杏ラテン語学名の由来について記したもので、杢太郎の考証的随筆の中の佳篇である。杢太郎森鷗外の『フアウスト』および『フアウスト』考の装幀のほか、自分の著書と友人の著書おそらく二十冊位の表紙を描いている。その中の十冊位は植物を使っており、天下の草木、どれを見ても表紙の図案に見えぬものはないと戯れている。「本の装幀」(ママ)は、その一々の表紙についての苦心談である。「すかんぽ」は小学生の時、年上の友達にそそのかされて、こっそり塩を台所から盗んで、折れ口に塩をつけてたべた話から始まる。大学時代にも大学の構内のすかんぽをみつけて、たべてみたが、少年時代に感じた一種の酸味と新鮮なにおいを、もはや感じることはできなかった。次に奉天時代と第二次東京時代との植物採集、近頃始めた野草試食について語り、最後に今度幾十年かぶりに、またすかんぽをたべた話で、杢太郎最後随筆を結んでいる。(「木下太郎植物」『書物航游』中公文庫:58-59)

 英郎の「木下太郎随筆」や、この平澤氏の文章などに導かれ、「すかんぽ」はそれこそ幾度となく読み返した随筆であるが、その一方で、長らく「残響」が気になっていた。さりとて図書館で杢太郎全集を借り出そうとするほどの気は起らずにいた(というよりも図書館へ行った折にはすっかり失念してしまっているのが常だった)。

 しかし、昨秋に出た岩阪恵子『わたし木下太郎』(講談社)などを読むにつけ、「残響」を読みたい気持がむくむくと頭を擡げていた折も折、ついにこの三月、岩阪恵子氏の選になる『木下太郎随筆集』(講談社文芸文庫)が刊行された。杢太郎初の「文芸文庫」入り、しかも、初めての文庫随筆選集である

 その冒頭に収められたのは、「小学校時の回想」「すかんぽ」「僻郡記」で、これはちょうど、英郎が夢想した架空随筆集の並び順となっている。そしてその間にも幾篇かを挟みつつ、「残響」、「研究室裏の空想」、「本の装釘」、「あかざ(藜)とひゆ(莧)と」がこの順序で収録されるという、まったく心にくいばかりの演出である(岩阪氏は特に触れていないけれども、英郎の文章念頭に置かれたに違いない)。

 また、岩阪氏が『わたし木下太郎』で「いわば「残響」の姉妹篇ともいうべき随筆」(p.141)と評する「真昼の物のけ」も「残響」の直前に置かれているし、「不思議な長い題名の(略)含蓄のある面白いもの」(同p.145)という「古語は不完全である・然し趣が深い」(これは『藝林諒癲戮房められている)も末尾のほうに採られている。

 さらには、三島由紀夫が『文章読本』「附 質疑応答」のなかで、「私がいちばん美しい紀行文と信ずるのは、木下太郎氏の文章であります。私は文章によって見知らぬ他国にあこがれ、そこの国に行っても、木下氏文章を通じて物を見ているような感じさえしたのであります」(中公文庫改版p.211)と述べた上で例として引いた、「クウバ紀行」も収められている*8

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 つい最近知ったことだが、約四年前に、平田芳樹氏と云う方がSWALLOW-DALEで、杢太郎の『其國其俗記』(「クウバ紀行」を収めている)について主に語りながら、「文庫本木下太郎随筆集』の編集企画準備が必要である」と愬えかけておられた。

 しかしこれでようやく、杢太郎のおもだった随筆文庫本で読めるようになったのだ。実に喜ばしいことである

 これからしばらくは、『木下太郎随筆集』が車中の供となることであろう。

書物航游 (中公文庫)

書物航游 (中公文庫)

葱南雑稿 (1946年)

葱南雑稿 (1946年)

春夏秋冬 (講談社文芸文庫)

春夏秋冬 (講談社文芸文庫)

読書清遊 富士川英郎随筆選 (講談社文芸文庫)

読書清遊 富士川英郎随筆選 (講談社文芸文庫)

ある文人学者の肖像 評伝・富士川英郎

ある文人学者の肖像 評伝・富士川英郎

わたしの木下杢太郎

わたしの木下杢太郎

文章読本 (中公文庫)

文章読本 (中公文庫)

*1若林正治。春和堂主人。

*2創造社の藤原富長。

*3八木敏夫八木書店主人。

*4:「世界少年文學名作集」というシリーズの一冊。第十八卷。カラー口絵は木村荘八挿絵木村所蔵のものクロス装で装幀は美しいが、惜しむらくは誤植が少なから散見する。

*5:表紙に梅原龍三郎の絵、紙装。

*6:これは、先の平澤氏の引用文中にみえる『小学校時代の回想』と同じものであろうか。

*7:初出は「海燕昭和五十九年三月号。のち『読書好日』(小沢書店1987)に収める。

*8三島が「クウバ紀行」の一節を引いていることは、岩阪氏も『わたし木下太郎』p.66で言及している。

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2016-03-10 『松本清張索引辞典』補遺 このエントリーを含むブックマーク

 昨年末、森信勝編『松本清張索引辞典』(日本図書刊行会)という労作が出た。清張ファンの私などにとってはよい手引きになるし、たいへんありがたいことである

 2015.12.22付「毎日新聞」2016.1.6付「中日新聞」2016.2.29付「読売新聞」にも記事が出ている。この辞典データ2015年6月1日までのもので、その後も、清張作品や清張関連書は陸続と刊行映像化されている。

 「補遺」などというのは口幅ったいことだが、同書に収録されていない刊行物のうち、気づいたものを以下に挙げておくこととしたい。

 まず、「松本清張著書・共著年次別刊行索引」の1996(平成8)年、

或る「小倉日記」伝/父系の指(新潮pico文庫) 1996.3.25 新潮社 

 1998(平成10)年、

のもの見方 考え方―私の人生観(人物文庫) 1998.6 学陽書房

 2011(平成23)年、

紅刷り江戸噂 新装版(講談社文庫) 2011.1.14 講談社

高台の家(PHP文芸文庫) 2011.7.16 PHP研究所

 2013(平成25)年、

古書ミステリー倶楽部*1 ミステリー文学資料館編(光文社文庫) 2013.10.20 光文社

 次に、「松本清張参考文献年次別刊行索引」の1980(昭和55)年、

戦後世代風景1964年以後 松本健一 1980.1 第三文明社

 1999(平成11)年、

人生は五十一から 小林信彦 1999.6(2001年文庫化) 文藝春秋

 2008(平成20)年、

古本屋群雄伝 (ちくま文庫青木正美 2008.12.10 筑摩書房

 2009(平成21)年、

文藝春秋SPECIAL夏号「映画人生を教えてくれた」(みうらじゅん「清張映画見て、わがフリ直せ」

(※この年は、清張の生誕100年にあたるが、雑誌等の特集のうちの一部はここに記した。)

 2010(平成22)年、

作家の食と酒と 重金敦之 2010.12.1 左右社

 2013(平成25)年、

図書館に通う―当世「公立無料貸本屋事情*2 宮田昇 2013.5.17 みすず書房

 2014(平成26)年、

ある文人学者の肖像―評伝・富士川英郎*3 富士川義之 2014.3.5 新書館(2016.3.13追加)

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 他に気づいた点。p.374、「195 昭和史 松本清張と私(ビジネス社)」の著者名(渡部昇一)ヌケ。したがって「収録人名索引」に渡部氏の名がない。

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 2015.6以降に刊行された作品で、「松本清張著書・共著年次別刊行索引」に新たに追加すべきもの

白と黒革命(P+D BOOKS) 2015.7.24 小学館

分離の時間 松本清張プレミアムミステリー光文社文庫) 2015.8.6 光文社

彩霧 松本清張プレミアムミステリー光文社文庫) 2015.9.9 光文社

詩城の旅びと(P+D BOOKS) 2015.10.6 小学館

梅雨西洋風呂 松本清張プレミアムミステリー光文社文庫) 2015.10.8 光文社

混声の森(上・下) 松本清張プレミアムミステリー光文社文庫) 2015.11.11 光文社

大奥婦女記 レジェンド歴史時代小説講談社文庫) 2015.11.13 講談社

喪失儀礼 改版(新潮文庫) 2016.3.5 新潮社

風の息(上)(P+D BOOKS) 2016.3.8 小学館

 「松本清張参考文献年次別刊行索引」に新たに追加すべきもの

芥川賞の謎を解く―全選評完全読破*4 (文春新書)鵜飼哲夫 2015.6.20 文藝春秋

この作家この10*5 本の雑誌編集部編 2015.8.20 本の雑誌社

本と読書の斜解学―本に関するコラムあれこれ*6 植沢淳一郎 2015.9.15 ブレーン

ケトル VOL.27 特集松本清張が大好き! 2015.10.27 太田出版

 他に追加すべきものもあると思う。とりあえず、いま手持ちの資料でわかるものを挙げておいた。思い出したり調べがついたりしたら、適宜更新してゆく予定である

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 ところで「序にかえて」(森信勝)に、「没後23年を経た本年4月より「新・松本清張ミステリー時代劇」全12話の第1話「流人騒ぎ」が開始される」(p.2)とある

 番組タイトルの「新」は不要かと思うが、このシリーズは、「BSジャパン開局15周年」を記念して昨年の4月7日から放送された番組である。本放送に先立ち、3月31日に「松本清張ミステリー時代劇100%楽しむための公式ガイドブック」(司会:住吉美紀、出演:新井康弘眞鍋かをり金子貴俊八田亜矢子ほか、解説大石学)が放送された。

 そして、「流人騒ぎ」(4/7)、「七種粥」(4/14)、「役者絵」(5/5)、「左の腕」(5/12)、「大黒屋」(6/2)、「山椒魚」(6/9)、「逃亡」(7/7)、「大山詣で」(7/14)、「虎」(8/4)、「雨と川の音」(8/11)、「赤猫」(9/8)、「町の島帰り」(9/15)の順で12話が放送された。その後、10月から1カ月に2話ずつ(第3,4火曜日)のペースで再放送されており、今月でその再放送も完結することになる。

 BS放送といえば、昨年12月5日にはBS日テレが「オリジナルドラマ」と銘打って、「わるいやつら」(主演:船越英一郎)を放送した。年が明けて1月21日には、BSプレミアムで「松本清張ゼロの焦点』を読む」(出演:小森陽一橋本麻里、中村文則笠井潔華恵)が放送*7された。これに触発されて、『ゼロの焦点』を久しぶりでじっくり読み返したものである

 また今月12、13日(二夜連続)には、地上波テレビ朝日で「地方紙を買う女」(主演:田村正和)、「黒い樹海」(主演:北川景子)が放送されるので、楽しみにしている。

 テレビ朝日は、清張歿後20年の2012年にも、二夜連続で清張原作の「十万分の一の偶然」「熱い空気」を放送しており、前者でも田村正和が主演を務めている。また、一昨年の12月にも、やはり二夜連続で「坂道の家」(主演:尾野真千子)、「霧の旗」(主演:堀北真希)を放送している。こちらもなかなか見ごたえがあった。

松本清張索引辞典

松本清張索引辞典

*1:「二冊の同じ本」収録。

*2pp.186-98「『点と線』と書評役割」。

*3pp.211-16「松本清張の京水探索」等。

*4pp.89-91。

*5pp.342-49「松本清張10冊」(香山二三郎)。

*6pp.41-45「松本清張『或る「小倉日記」伝』(新潮文庫)」、pp.138-44「苦労人の文学時代昭和時代松本清張物語もの…」。

*7:「シリーズ・Jミステリーはここから始まった」第一回。第二回は横溝正史の『八つ墓村』で、今のところこの二回しか放送されていないようである

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2016-03-06 『駿臺雜話』/冨山房百科文庫 このエントリーを含むブックマーク

 前回の記事引用した室鳩巣『駿臺雜話』は、享保十七(1732)年に成立したものであるが、この(確か)再版本を、四天王寺古本市だったかで端本で拾ったことがある。しかし廉価だったこともあって虫損がそれなりにひどく、披くたびにパリパリと音がするのでそのうち披かぬようになってしまい、いまは実家書庫に眠っている。

 それで『駿臺雜話』を参照する際には、森銑三の校訂にかかる岩波文庫本(1988第6刷。1936第1刷)を読むことにしている。

 ちなみに森の『讀書日記』(出版科學總合研究所1981)は、残念なことに、岩波文庫本『駿臺雜話』の出た昭和十一(1936)年の記述を丸ごと缺いているが、同書中には『駿臺雜話』が、少なくとも二箇所出てくる。

 まず、その昭和九年二月四日條、

 夜駿臺雜話を讀む。われらにはやはり事實を敍したる條々が面白し。「結解の何がし」「二人の乞兒」など、無名の人々の佳話嘉行を書ける、殊によし。將軍と老僧との問答、板倉重宗の「あれ周防こそ通らるれ」の條など、鳩巣の人の言を文語に寫すことの巧なる、敬服するに堪へたり。この種の文の技倆に於て、鳩巣は白石の下にあらず。(p.80)

 次に、同年同月十七日條、

 鳩巣の駿臺隨筆(ママ)五卷を讀む。鳩巣が少年時に彦根岡本半助宣就より兵學を授かりしなどいふこと珍し。(p.83)

 「『あれ周防こそ通らるれ』の條」というのは、巻四「燈臺もと暗し」のことだろう。しかし、「鳩巣が少年時に彦根岡本半助宣就より兵學を授かりしなどいふこと」がどの話をさすのか分らない。井伊掃部頭直孝は出て来る*1のだけれど…。

 『駿臺雜話』は断定調が多く、たとえば「神道を交へたる闇齋學」(森銑三「解題」)*2古文辞学派等を排撃したり(卷一「異説まちまち」、卷五「作文は讀書にあり」など)、伊勢物語源氏物語を「淫亂を導く媒(なかだち)」「冗長にて醜惡なる物」と評したり(卷四「つれづれ草」)するなど、かなりの「毒」を含んでいるが、森のいうように無名氏の佳話も多く、引用したい誘惑にかられるところもある。言葉に関しても一家言あるし、話題が詩評に及ぶ(卷五「詩文の評品」「一日の澤」)こともあって、なかなか面白い

 かつて新村出は、同書について「本来随筆というよりはむしろエッセイに近い名著として、室鳩巣の『駿台雑話』のごときは、私の愛誦措くあたわざるものである」(「随筆の名義」『語源をさぐる』旺文社文庫1981:268)、と書いていたことがある。

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 森の『讀書日記』は、以前ここで紹介したことが有るが、その他にも興味深い記述が色々出て来る。過日拾い読みしていて気になったのが次の記述だ。

 富山房(ママ)の市村宏氏來訪、近く出でんとする百科文庫の計畫につきて聽くところあり。山海經などいふものを出して見たしといはる*3、わが意を得たり。十部に一二部は現代離れのした型破りの書物をも出して欲し。どこの叢書も極まりきつたるもののみ出すこと、甚だ以て面白からず。(昭和十二年十月二十七日、p.234)

 「冨山房百科文庫」はこの翌年の六月に創刊されるが、昭和十六年八月までに約一二〇冊が刊行される。しか戦争によって刊行が中断され、約三十年後の昭和五十二年四月に、「冨山房百科文庫新書判)」として新たに発刊されることになった。

 そして、「新生」百科文庫の発刊時に文章を寄せた文化人六人のうちの一人が、森銑三であった*4(以上、植田康夫出版冒険者たち。―活字を愛した者たちのドラマ』水曜社2016:245-46参照)。翌年には森の『おらんだ正月』がラインナップに加わることとなる。

 なお植田氏によれば、

この(戦前版の冨山房百科)文庫は、ふつう文庫本に比べて少し縦長で新書判のサイズであったが、契沖著、武田祐吉校註『萬葉代匠記』一、川田順校註『全註金槐和歌集』(略)などが発刊当初の書目である。(p.245)

ということだが、私の持っている『萬葉代匠記』一〜四巻(全五巻とか)は、全て一般的文庫本の判型であるしかし、戦前版の永井荷風改訂 下谷叢話』や中島孤島譯『新譯 西遊記』は新書判になっている。途中でサイズが変わったのだろうか。

 百科文庫は、戦前版・戦後版を含めて三十冊ほど持っている。今でもよく憶えているが、十三年前の春に、『完本 茶話(上中下)』を買ったのが最初だった。その後、目にする度に大体買っていて、大阪のTでエズラ・パウンド/沢崎順之助訳『詩学入門』を100円で釣り上げたときは狂喜したものであった。

 また、ここでは、寿岳文章/布川角左衛門編『書物とともに』について書いたことがある。

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 森銑三といえば、最近中野三敏森銑三翁」(『師恩―忘れ得ぬ江戸文芸研究者岩波書店2016)をおもしろく読んだ。

 森銑三翁は齢の割には随分と背の高い人で、何時もステッキ代りのコーモリ傘を携えておられた。一寸カン高い御声で「ス」音を「ツ」と発音されたように思うが、これは三河弁だったものか。(p.27)*5

駿台雑話 (岩波文庫)

駿台雑話 (岩波文庫)

江戸の朱子学 (筑摩選書)

江戸の朱子学 (筑摩選書)

読書日記 (1981年)

読書日記 (1981年)

語源をさぐる (1981年) (旺文社文庫)

語源をさぐる (1981年) (旺文社文庫)

出版の冒険者たち。 活字を愛した者たちのドラマ

出版の冒険者たち。 活字を愛した者たちのドラマ

師恩――忘れ得ぬ江戸文芸研究者

師恩――忘れ得ぬ江戸文芸研究者

*1:卷四「大敵外になし」。

*2:ちなみに山崎闇齋は、神道で重視される「心は神明の舎」なる表現継承したそうだが、土田健次郎氏によれば、かかる表現江戸期の朱子学者たちには「特に神道に限ったものではないと観念されていたようであっ」たという(『江戸朱子学筑摩選書2014:186)。その例として土田氏は『駿臺雜話』(卷一「鬼神の徳」)を挙げている。

*3:いま平凡社ライブラリーで読める『山海経』は、結局、入らなかったのではないか。

*4:他の五人は、杉捷夫高橋義孝辻邦生中野好夫吉田秀和という。

*5:初出は「余語雑抄」『西日本新聞』2013.7.15〜16付。

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2016-03-01 一鴟/鴟鵂 このエントリーを含むブックマーク

 王楙の『野客叢書』巻第十一「借書一鴟」に、面白いことが書かれている*1

 それによれば、李正文『資暇集』が次のごとく述べているという。

 書物の貸借について、俗に「謂借一癡。與二癡。索三癡。還四癡(借るは一癡、與ふるは二癡、索むるは三癡、還すは四癡と謂ふ)」(まず借りるのがバカ、与えるのもバカ、返してくれと頼むのもバカ、返すのはさらにバカと云う)が*2、杜元凱(杜預)がその息に送った書に「借書一嗤。還書一嗤(書を借るは一嗤、書を還すは一嗤)」*3という「古諺」がみえることなどから、「與二癡。索三癡」というのは後人がつけ加えたものであり、また本来「一瓻(いっち)」とあるべきところを譌って「一癡(いっち)」としたのではないか――。

 王楙は、その傍証として、僕觀『廣韻』注や張孟『押韻』の「瓻」字項に「借書盛酒器也とあるのを引き、蘇養直の詩に「休言貧病惟三篋。已辦借書無一鴟(言ふを休めよ貧病惟れ三篋なるを、已にして借書に辦ふるに一鴟無し)」とあるのを引く。

 「一鴟」の「鴟」は「鴟夷」のこと。「鴟夷」は、「馬の革で作つたふくろ、酒を入れるもの」で、「形鴟の腹の如く、鴺(ガランテウ)の胡(アゴ)の如くふくれてゐからいふ、夷は鴺」だという(小柳司気太『新修漢和大字典 増補版』博友社)。拝借した書物を返すときに一瓻の酒を返したという故事に基づいて、「一瓻」は「書物の貸借」を意味する語となったようだ。

 これが正しいとすると、「本を貸すバカ、借りるバカ」論の嚆矢として「借一癡。與二癡」云々の句を引くならば注意を要することにもなろう。とまれ、えてして愛書家は自らの蔵書を容易に貸し出さないものであるが(極端な例だと、フローベール「愛書狂」のジャコモがある)、その点、本邦の本居宣長などは、実にあっさりしたものである

めづらしき書をえたらむには、したしきもうときも、同じこゝろざしならむ人には、かたみにやすく借して、見せもし寫させもして、世にひろくせまほしきわざなるを、人には見せず、おのれひとり見て、ほこらむとするは、いと\/心ぎたなく、物まなぶ人のあるまじきこと也。

(『玉勝間』一の巻*4

 しかし、つづけて「あるは道のほどにてはふれうせ、あるは其人にはかになくなりなどもして、つひにその書かへらずなる事あるは、いと心うきわざ也」(同)とも書く。もしかすると、宣長もその経験者だったのかもしれない。

 書物の貸借をめぐっては、チャールズラムの『エリア随筆』(完訳が国書刊行会から刊行中で、まもなく一年半ぶりに三冊めが出るようだ)にも記述があったと記憶しているが、いま直ちには確かめられない。

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 ところで、「鴟」字そのものは「ふくろう」を指す。「鴟鵂(しきゅう)」では「みみずく」。

 室鳩巣『駿臺雜話』には、次のような挿話がみえて可笑しい。

ある人鴟鵂を畜(かひ)て、それを囮(をとり)にして鳥を捕(とらへ)けるに、同じく殺生する友達のもとより、みゝづくをかりに越けるが、其ふみに、みゝづくを略し「づく」とかきて、其末に「づくとはみゝづくの事にて候。みゝづくとかき候へば、文字かず多くこと長に成候故に、づくとかき候」となが\/とことわりけり。それならば始よりみゝづくとかけかしと片腹いたし。文字をつゞめんとて、多くの文字をそへ、詞を短くせんとて、かへりてながくなる事をしらず(森銑三校訂)。

 また、富士川英郎*5は、鎌倉にあった書斎を「鴟鵂庵」と名づけた。その名を冠したのが、麦書房が出していた雑誌「本」に連載されたエッセイ「鴟鵂庵詩話」である。これは、「その後半部を増補して、『江戸後期の詩人たち』という表題単行本として麦書房から出版され、さらにその後「筑摩叢書」のうちに収められて今日に至っている」(「江戸漢詩文とわたし」、高橋英夫編『読書清遊―富士川英郎随筆選』講談社文芸文庫2011*6)。書名は連載時から変わったものの、麦書房版の表紙には副題「鴟鵂庵詩話」が刻まれている。なお、富士川の歿後(約9年後の2012年)には、平凡社東洋文庫にも入った。

 「鴟鵂庵詩話」と対をなすものが、富士川の『鴟鵂庵閑話』(筑摩書房1977)であるわたしはこの函入本を最近神保町のNで入手し、横浜へと向かう車中じっくり読んでいた。これが実に面白く(p.127「頼山陽の病志」以降は未読)、あらためて内容を紹介してみたいのだが(daily-sumusに心躍る紹介記事あり)、いまは控えるとして、その「あとがき」をみると、以下のようにある。

 本書の表題の「鴟鵂庵」ということについて、この閑話が「ちくま」に連載されていた頃にも、よくひとから訊ねられたが、「鴟鵂」とは「ミミヅク」のことである鎌倉市山ノ内にある拙宅の近くの山でよく「ミミヅク」が鳴く。いな、残念ながら、近頃はそれが稀れになってしまったが、十年前までは、「ミミヅク」が夜半は言うに及ばず、時としては早くも夕方から鳴いていたのであった。そんなわけで、私は自分のみすぼらしい書斎を鴟鵂庵と名づけたのであるが、しかし、同時にまた、私自身が夜型の人間で、毎日、ひとが寝しずまる夜半から妙に元気が出て、読書執筆をして、時刻の移るのも知らず、従って大へんな朝寝坊だということも、この命名の一つのきっかけになっていたのである

 この閑話が「ちくま」に連載されていた間に、筆者の記載の誤りについて指摘して下さった方は少なくないが、とりわけ今治市石丸和雄氏と前橋市原田種成氏とからは、さまざまの懇切な御教示を得た。(pp.197-98)

 この、「原田種成(たねしげ)」という名に、おもわず反応してしまったのだった。

玉勝間〈上〉 (岩波文庫)

玉勝間〈上〉 (岩波文庫)

駿台雑話 (岩波文庫)

駿台雑話 (岩波文庫)

読書清遊 富士川英郎随筆選 (講談社文芸文庫)

読書清遊 富士川英郎随筆選 (講談社文芸文庫)

*1中華書局「學術筆記叢刊」版参照。2007年第3刷。

*2:『資暇集』の原文であるが、『叢殘小語』の引用http://bbs.guoxue.com/viewthread.php?tid=3320)には「借」が二度出て来る。これは、「借」二字でもって「貸借」の両義を表しているのだろう。ところで、人口膾炙しているのは、「與」が「惜」=「貸したのを後悔する」となっているものだろう。この場合、「借」字は「貸す」と解釈するのが妥当である。さきの「謂借一癡、借二癡」がもとの形であったとすれば、二字めの「借」はあるいは字形類似によって「惜」に誤られたという見方もできよう。

*3http://bbs.guoxue.com/viewthread.php?tid=3320引用は多少異なる。なお『叢殘小語』は、本来の字句がどうであったかという判断を保留している。

*4岩波文庫版を参照。

*5:いま、神奈川近代文学館企画展・収蔵コレクション展の「文人学者富士川英郎展」が開催されている。

*6:初出は「玉川学園学術教育研究所所報」1985.12、のち『読書好日』(小沢書店1987)に収める。

森 洋介森 洋介 2016/03/02 18:29  山下武「本を貸すバカ、借りるバカ論」(初出『本の本』1976.2→『書物万華鏡』実業之日本社1980.6所收→『古書を求めて』青弓社1994再收)は、「表題とした古諺」の出典につき、「中国の『艮斎雑説』という本に「李済翁いわく、書を借るは一痴、書を惜しむは二痴、書を索むるは三痴、書を還するは四痴と。予はこれに続けていわん、書を蔵するは五痴と」とみえるのがあるいはその出所であろうか」としてゐました。李濟翁は李匡文、匡字が宋の太祖の諱なので宋版では字の濟翁を以て名に代へられた由にて、擧げられた『資暇集』著者の李正文と同じ人でせう。さらに山下著の餘白に我が書き込みあり、「書ヲ借スモ一(いつ)ノ痴(おろか)ナリ、書ヲ還スモ一ノ痴ナリ」云々(訓點が記せないのでここでは訓み下しにした)と引いてあるも、何から抄したやらその出典名を空欄にしたまま考證が中絶してゐます。「借書一瓻、還書一瓻」は『康熙字典』「癡」の項(http://www.zdic.net/z/1f/kx/7661.htm)にも載せられてゐて、王楙説を攝り入れたのでせうか。なほアラブの諺が英語に入って「He who lends a book is an idiot. He who returns the book is more of an idiot. 」と言ふさうです(http://archive.ifla.org/I/humour/subj.htm#borr)。
 以上、『書物蔵』2007/8/28へのコメントと重複しますが、御參考まで。
 http://d.hatena.ne.jp/shomotsubugyo/20070828/p1#c1188705094

higonosukehigonosuke 2016/03/03 05:51 森 様、避諱字からアラブの諺に至るまで、ご丁寧に御教示下さいまして、たいへんありがたく存じます。該コメント欄は現在参照することがかなわないため、助かりました。
 『康煕字典』は、億劫がらずに見ておくべきでした。『藝苑雌黄』に引く「李濟翁」の記述が「借書一癡惜書二癡」となっているのも、興味深いことですね。
 なお、王力「康煕字典音讀訂誤」(『王力文集』第十三巻所収)に、字典が「《唐韻》丑之切,《集韻》《韻會》《正韻》超之切,並音鴟」と注することについて、「“癡”是徹母之韻字,“鴟”是穿母脂韻字,大不合」と評し、「癡」「鴟」は声母も韻母も異なっていると述べています。「支脂之」三韻は古来しばしば通用しますが…(後に合流)。
 ところで、清の杭世駿『訂訛類編』巻三(学術筆記叢刊所収)にも、「一瓻」の項が有るのを先ほど見つけましたが、『聞見録』が「俗語借書與人爲一癡。還書爲一癡」について「乃知今人訛以瓻爲癡」と断じているのを引いています。当該項にも「韻會」からの引用が見えますが、「音鴟」ではなく「通作鴟」となっていました(節録の『古今韻會舉要』で「瓻」項を見てみると、そちらにも『聞見録』が引いてありました。「古語借書一瓻還書一瓻乃知今人訛以瓻爲癡也」、とあります。巻二平声上「四、支與脂之通」)。同音と通用とではかなりの違いです。
 『聞見録』というのは宋代成立の『邵氏聞見録』でしょうか。手持ちの資料では詳らかに出来ませんが、「一瓻」は宋代以降の随筆類に好んで取り上げられた話柄であると思われます。
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 話はまったく異なるのですが、以前このコメント欄でお教え頂いた『学藝記者 高原四郎遺稿集』(非売品)を、関係者の方が譲ってくださいました。森さまの御教示がなければ、関係者の目に留まることもありませんでした。ブログ本文で近々報告する所存です。どうもありがとうございます。

2016-01-21 「勉強」 このエントリーを含むブックマーク

 本年も宜しくお願い申し上げます

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 昨年末、前野直彬の著作を古本と新本とで一冊ずつ購った。古本は『蒲松齢伝』(秋山叢書1976)、新本は文庫化されたばかりの『漢文入門』(ちくま学芸文庫である

 『蒲松齢伝』は、相田洋『シナに魅せられた人々―シナ列伝』(研文出版2014)に、平井雅尾について書かれた数少ない文献のひとつとして引用されている(p.351)*1ので気になっていたところだった。

 『漢文入門』は、元本(講談社現代新書1968年刊)を古書市などで見かけたことはあるが、手に取ってじっくり見た記憶はない。しかし、今回の文庫化に際して附された「解説」(齋藤希史氏)に、「本書は、いま盛んに行われる訓読論の先駆となる著作である」(p.210)とあるのを見て、迷わず購入を決めたのだった。

 いかにも、この本の一番の読みどころは第四章の「訓読歴史」であろう。それだけでも「『漢文』入門」としては異色であるのに、第一章「漢文とは何か」では、「漢文」を「中国古典的な文を、中国語を使わずに、直接日本語として読んだ場合、その文に対してつけられた名称である」(p.18)と定義し、「韻文・散文の双方を含めた」広義のものと「散文だけをいう」狭義のものとがある(p.19)、と話を進めていくあたりに独自性や慎重さを感じた。もっとも、たとえば「馬」の字音についての説明(p.58)など、若干怪しい記述もあるにはあるけれど、小さな本ながら色々と示唆に富んでおり、今まで読んでいなかったことを後悔したくらいだった。

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 ところで、その『漢文入門』p.33-34に、

勉強」という漢語がある。日本語としての意味はいうまでもないし、たしか中国から渡来した語で、中国でもこの言葉を使う。ただし中国での意味は「努力する」、とくに「いやいやながら、むりに努力する」「不本意ながらつとめる」といった意味である努力する内容はなんでもよいのであって、学問努力する場合にも使われることは使われるが、それはほんの一部分であるしかも「いやいやながら」という意味が加わらずに使われることは、まずないといっていい。だから日本での使い方としては、このごろはすくなくなったが、商店の主人が「千円の品ですが勉強して八百円にしておきます」というときの「勉強」が、この漢語の原義にかなっている。「勉強が好きだ」などというのは、原義から見れば完全に矛盾した表現となるわけである

とある

 ここでたとえば、愛知大学中日辞典編纂処編『中日大辭典【第三版】』(大修館書店2010)の「勉強」項を引くと、

勉強】mian(3)・qiang(3) 〈1〉間に合わせに*2.どうにか.やっと.まあまあ:心から満足できる状況*3にない場合に用いる.(略)〈2〉強いる.無理にさせる.*4(略)〈3〉不十分である.むりである.(略)

とあって、たしか現代普通話としては、「無理に」というニュアンスが加わることが多いことが知られる。

 一海知義『漢語の知識』(岩波ジュニア新書1981)は、白居易楽天)の「東城に春を尋ぬ」詩中の「勉強一來尋」を引き、「勉強」の原義について述べている(pp.2‐8)。

 当該詩句は、「無理をしてちょっと尋ねて来た」というような意味になるが、一海氏は、「無理をする」という義は「つとめはげむこと」でもあるから日本語の「勉強」の義(「学習する」)はこれと通底している、とも書いている。すなわち、「勉強」≒「学習」となるのは、まったく根拠のない話ではない、ということである。また、『中庸』の「或いは勉強して之を行ふ」を引きつつ「勉強」を解釈しているのが、興膳宏『平成漢字語往来―世相を映すコトバたち』(日本経済新聞社2007)pp.16‐17 である(初出:2004.1.25付「日本経済新聞」)。

 さて日本語における「勉強」のもう一方の意味――「勉強しまっせ」「勉強ときます」の「勉強」だが、一海氏、興膳氏ともにこの義に言及していて、特に興膳氏は、「勉強ときます」の「勉強」のほうが原義に近いのではないかと述べている。

 高島俊男お言葉ですが…(7)漢字語源の筋ちがい』(文春文庫2006pp.211-15 の「勉強しまっせ」(初出:2002.3.7号『週刊文春』)にも、商売人の「勉強しまっせ」がむしろ「勉強」の原義に近い用法とある

 ちなみに高島氏は、そこで以下のような回想を語っている。

 「勉強」ということばは、まずかんたんな「強」のほうからかたづけるならば、これは無論「しいる」ということである。「強要」の「強」だ。人にしいるのも自分自分にしいるのも「強」である

 さてそこで「勉」だが、これは「免」と「娩」と「勉」とが元来は一つのことばである。字も、もともとは「免」だけだ。――日本では、「免」はメン、「娩」と「勉」とはベンで音がちがうようだが、これは「免」はもっぱら呉音が、「娩」と「勉」とは漢音がおこなわれているからで、本来はおなじ音である

 で、「免」は何かというと、せまいところを抜ける、狭義には「赤ちゃん誕生」だ。

 学生のころ、藤堂明保先生が授業でこれをやって見せてくれた。

 生れてくる赤ん坊が、両手をぴたりと脇につけ、ミミズのように身をくねらせつつ、頭を突きあげ突きあげして、せまい産道を苦闘前進する。そのさまをやりながら、ひとくねりごとに「ミエン、ミエン、ミエン」と叫ぶのである学生は大笑いだ。

 先生はそうやって、ミエン(免)ということばは、この「ミエン」という音自体がまさしくせまいところを無理に通ってゆく感じをあらわしているのだ、とわれわれに教えたのである。(pp.212-13)

 藤堂の「学説」は「単語家族」ともよばれるが、それにもとづいてハルペンジャック氏は『漢字の再発見外人の目が拓いた この驚くべき世界』(祥伝社ノン・ブック1987)という本を著した。この本の pp.13-14にも「免」「勉」字の字原解釈が説かれている。

 以上はいずれも、「勉強」の原義として「無理に」というニュアンスを認める説であった。

 これに疑義を呈しているのが、荒川清秀『中国語を歩く―辞書街角考現学パート2』(東方選書2014)である荒川氏は、前野著(元本の講談社現代新書版)から勉強」について書かれた一節を引用して、それを批判的に検討している。

 荒川氏曰く、「『勉強』の本来意味は『一生懸命やる、励む』意味である(p.110)。

 古橋ふみ子氏(愛知大学)がこの問題調査して修士論文にまとめたのだそうだ。それによると――、『中庸』にみえる「勉強」の初出例(興膳氏が引用したもの)は単に「一生懸命する」という意味で解すべきで、「この『励む』の意味は宋ぐらいまで使われている」というのである(同p.111)。そして「励む」義は、「朱子の著作や二程遺書」には「まだ残っているが、『無理やり』義もかなり出てきている。この『むりやり義』は魏あたりから出てくる」(同前)――のだという。

 また荒川氏は、

勉強」の「勉」は「勤める」の意味だが、「強」の方は元「勤める」という意味であったが、後に「しいる」の意味になった。こうした構成要素の意味変化も全体の漢語の意味に影響を与えているのではないか。これはわたしの考えである。(p.111)

とも書いている。

 なお岸田知子『漢語百題』(大修館書店2015)は、やはり『中庸』の当該箇所を引きつつ、「『勉強』はもともと、はげみつとめるの意味で用いられてきた」(p.221)と述べているが、「自分に足りないところを無理に励まして身につけるというところから」ともあるので、原義として「無理に」を認めているのであろう*5

蒲松齢伝 (1976年) (秋山叢書)

蒲松齢伝 (1976年) (秋山叢書)

漢文入門 (ちくま学芸文庫)

漢文入門 (ちくま学芸文庫)

シナに魅せられた人々―シナ通列伝 (研文選書)

シナに魅せられた人々―シナ通列伝 (研文選書)

中日大辭典 第3版

中日大辭典 第3版

漢語の知識 (岩波ジュニア新書 25)

漢語の知識 (岩波ジュニア新書 25)

お言葉ですが…〈7〉漢字語源の筋ちがい (文春文庫)

お言葉ですが…〈7〉漢字語源の筋ちがい (文春文庫)

漢語百題

漢語百題

*1:ただし、書名が『蒲松齢』となっていたり、引用部について「一七八〜一八〇頁」とあるべきところが「一七六〜一八〇頁」となっていたりする。

*2:「増訂第二版」(1987年刊)はここが「無理に」となっていた。

*3:増訂第二版は「情況」。

*4:増訂第二版は「無理をする(させる)」。

*5:以上は、かつて別のところで公開した文章を加筆修正したものです。

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2015-12-19 ことば諸々 このエントリーを含むブックマーク

来〇

 村上春樹ラオスにいったい何があるというんですか?―紀行文集』(文藝春秋2015)に、

この前『来熊』(らいゆうと読む。熊本の人々はなぜかこの言葉をよく使う。他県の人にはまず読めないだろうに)したのは1967年、僕はまだ十八歳で、高校を出たばかりだった。(p.212)

とあった。

 「来〇」(〇に来ること)は、熊本県民に限らず、地方に住む人々ならよく使う表現だろう。札幌へ行ったときには「来札」を何度か見かけたし、松山へ行ったときには「来媛(らいえん?)」というのを見かけた。

 これらの表現は、以前、「ことば会議室」でも話題となったことがある(「来沢、来広」「来沢、来広♯『来宰』」参照)。そちらには、「来松」(松山に来ること)というのも挙がっているが、過日の松山行では見かけなかった。

 実をいうと上記HPに、「田島照生」というHN(つまり本名ではない)で書きこんでいるのは、このわたしである。その際、「帰熊(きぐま)」という表現にも触れたが、本来は「きゆう」と読んだらしい。地元の人が「きぐま」と読んでいたのでそう書いたのだが、地元にずっと住んでいる人ならばほとんど使うことのないことばだろう。

 「来神」(神戸に来ること)、もあった。

顔馴染み日本人の女秘書は、突然の来神に驚いたようだったが、…

獅子文六バナナ中央公論社普及版〕1961:79)

 「来名」(名古屋に来ること)も発見(2016.4.20追記)。

住田は十二日午後七時東京駅発名古屋着九時の新幹線特急来名し、××大学指定のA旅館投宿し、…

松本清張喪失儀礼新潮文庫改版2016*1:55)

喪失の儀礼 (新潮文庫)

喪失の儀礼 (新潮文庫)

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宇野哲人明解漢和辞典』(三省堂

 以前ここで、宇野哲人版『明解漢和』について書いたが、花村太郎知的トレーニング技術〔完全独習版〕』(ちくま学芸文庫2015←JICC出版局1980)にこの『明解漢和』のことが出て来た。

 親字(単字)だけの「字」典はないかと探していて、戦前三省堂ででた、宇野哲人明解漢和辞典』というのが古本屋で手に入った。これはいまのハンディな漢和よりずっと小さくて軽く、ポケットに入れて図書館に持ちこむこともできる。収録字数比較的多く、旧字体であるのもぼくにはありがたい。熟語の収録は最小限にかぎっている。

 もうひとつの特徴は、親字の配列が、部首別でなく、字音による五〇音順配列である点で、これはたいへん便利だ。というのも、漢字の八〇%は「形声文字」で、音符を見つければ字音はほとんど予想がつくからだ。たとえば「貔」なんていう字にでくわしても、音符の「比」から「ヒ」と読むんだなと見当がつくし、意符「豸」に注目すれば、猛獣一種だろうという予想はつく。この漢和なら国語辞典と同様、ハ行の「ヒ」の項目をめくっていれば「比」の並びにでてくる。部首引きとくらべ音引きは、ワンタッチ分は確実に早い。これは戦後もしばらく出ていたから古本で手に入る確率は高い。(pp.82-83)

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わや

 「わや」は江戸期の文献にもみられることばだが、最近では、どこそこの方言、と捉えられることが多い。最近拾った例を示す。

ワヤ 乱雑、無茶、駄目。愛知岐阜以西長崎まで、西日本一円分布する方言 「どうじゃったかい。入社試験の方は?」「どこば受けてもさっぱりワヤばい。第一キミ、常識試験ちゅうとがどこの社でも非常識問題ばかり、いい合わせたごと出すけんワヤたい」「そうかも知れん。原子力潜艦ば原始力戦艦て書いたり、カルテルカクテルと取り違えたりジエット機(ママ)ば日本海海戦の時出した旗て説明する君のけん、何ば出しても大ていワヤじゃろ」「それでもシゴキと原宿族はくわしかけんウントコマカセ書いた」「よかったかい」「やっぱりワヤさ。あとで聞いた話じゃイッチつまらんことばば、イッチくわしゅう書くと減点げな」「それでも一社ぐらい通ったろ」「協和青党グループの一社だけ。受かったともたら、こんだ向こうの方がワヤになった」

(『長崎方言 ばってん帳―唐・南蛮・紅毛なまり―』長崎新聞社1974:239)

「色々と人知れず苦労があるのね」

「あぃ……、さっぱりワヤや」(花菱アチャコ)(萩山輝男『アチャコの子宝仁義』1956松竹京都

「折角の毛皮が、わややないか」

隆慶一郎『鬼麿斬人剣』新潮文庫2008改版:331←1987新潮社

鬼麿斬人剣 (新潮文庫)

鬼麿斬人剣 (新潮文庫)

*1初版1978,単行本1972年刊。

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