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2017-05-22 北村薫『六の宮の姫君』 このエントリーを含むブックマーク

 先日、北村薫『六の宮の姫君』(創元推理文庫1999)を再読した。

 北村薫「円紫さんと私」シリーズ第四作・長篇『六の宮の姫君』は、芥川龍之介短篇「六の宮の姫君」についての芥川自身発言の謎をめぐって推理が展開される、いわゆる「ビブリオミステリである。それはまた、主人公「私」の大学卒業論文テーマそのものでもあるわけだが、文庫版の「解説」(佐藤夕子*1)によれば、北村氏が「早稲田大学第一文学部在学中にものした幻の卒業論文で」もある(p.271)、らしい。

 この長篇のなかには様々な本が出て来て、発行年や値段、簡単書誌などがそのつど示されるのが楽しい(むろんなかに架空の本もあるが、それは作中で大体わかるようになっている)。

 たとえば、「今度の岩波の『拾遺和歌集』、そのために買っちゃったのよ、三千六百円もするのに」(p.64)は、「今度の岩波の」とあるように、「新日本古典文学大系」本をさすのだろう*2。それで当時の新大系本『拾遺和歌集』が、「三千六百円」であったと知られるのである(現行版は五千円強)。

 一方、『今昔物語』を読む際に「私」が参照するのは、「岩波の『日本古典文学大系』」(p.76)、いわゆる旧大系本。このほか、「昭和四十六年の筑摩書房芥川龍之介全集』」(p.80)*3、「小学館の『群像日本作家11 芥川龍之介』」(p.94)、などといった具合だ。『日本国語大辞典』(小学館)の初版からも、ある項目の用例(片岡鉄兵)が引用されている(pp.74-75)。

 作中で「私」に重要な手がかりを与えることになる『沙石集』については、次の如くある。

 父の本棚まで行って、問題の『沙石集』を捜した。私は古典大系本を持っていないのである。あちこち引っ繰り返すと、古い岩波文庫版が出て来た。裏表紙をめくると鉛筆で《50》と書いてある。五十円。父が、古書店で買った本なのだ

 トントン階段を踏み二階に帰り、今度は座布団に座って、今よりやや大きめの文庫本を開いた。(p.233)

 わたしの手許にあるのも岩波文庫版(上下二冊)、しかも一冊50円で拾ったものだが、「1988年4月7日」発行の第2刷で、現行の文庫と同じ判型である。奥付には「1943年11月25日」に初刷が発行されたとある。「私」が手にしているのもこの初刷だろう。ちなみに、北村著には「実に鎌倉時代の僧、『沙石集』の作者といわれる(解説を読んだら、そう書いてあった)無住である」(p.235)というくだりもあって、この「解説」は、校訂者の筑土鈴寛(つくどれいかん)が書いている。筑土といえば、小松和彦『神々の精神史』(福武文庫1992)*4の第三部「筑土鈴寛の世界」は必読だろう。小松氏は筑土を「まさに異端の国文学であると同時に、悲しむべきことだが、忘れられた民俗学者でもあるのだった」(p.304)と評し、また、次のようにも書いている。

 だが、彼がライフ・ワークとして著述していた『中世文学史研究』全三巻は、度重なる戦火のために資料とともに一切消失ママ)してしまうという、惜しみて余りある不幸に襲われねばならなかった。

 戦後柳田国男久松潜一たちの激励・援助によって東大図書館内に研究室を借り、新たな出発を決意したが、しかし、惜しいかな病に倒れた。享年四十五歳というその若さは、彼の研究がほとんど未完成であることを物語っているが、それにもかかわらず、彼の残した研究成果の豊かさに、いまなお私たちは驚かされるのである。(p.305)

 柳田というと、筑土の「解説」(『沙石集・上巻』)にも、「また柳田國男先生から、始終に亙って配慮賜つたことを、こゝに記して、深く感謝申上げる」(pp.8-9)と謝辞が述べられている。

 話が逸れた。さて、北村版『六の宮の姫君』には下記のようなくだりもあった。

(河出の『現代日本小説大系』の)第三十三巻。『新現実主義1』、芥川龍之介菊池寛という取り合わせである解説川端康成。(略)

 私は首を振って、

「鼠はいなかったけど、『六の宮の姫君』にはお会いしたわ」

「はあ?」

 語尾の上がった声と一緒に、正ちゃんは身を起こす。こちらは、隣のベッドに腰を下ろして説明する。

「というわけ。なかなかに運命というのも、味のあるものね」

「なるほど。で、川端康成は『姫君』について、何といってるんだい」

「そうね」

 解説は、かなりの長文である。取り敢えず、収録作品について触れている部分を見ると、こう書いてあった。

「《王朝にありがちの話で、そのあはれに、芥川近代の冷たい光をあてたのである》」

「それだけ?」

「うん」

ちょっと狡いな。見た目は整ってるけど、実は何もいってないじゃない」

「そうねえ、ラスト芥川流の冴え冴えとした解釈があるということなんだろうけど、そのどの辺が《近代》で、どの辺が《冷たい光》だというのか。うーん、解説なのに説明してくれない。川端先生のお考えは、しかとは分からない」

「そこはそれ、一目見て美しく、分かる人には奥があるという作風の方だから

pp.124-25)

 この「かなりの長文」とされる川端解説は、川西政明編『川端康成随筆集』(岩波文庫2013)にも収録されている(pp.291-324「芥川竜之介菊池寛」、新かなづかい)。当該の一文はpp.319-20に見える。ただしその「初出一覧」を見ると、「「現代日本小説大系」三一巻(河出書房刊、一九四九年一〇月一〇日)原題解説」」とあって、巻数が違う。これはどうやら北村著の誤記のようである

 それから北村著に何度か出て来る「永井龍男の『菊池寛』」(この本がまた、「私」に重要なヒントを与えることになる)に触発され、乾英治郎『評伝 永井龍男芥川賞直木賞育ての親―』(青山ライフ出版2017)を読んでいたところ、思いもよらぬ記述に逢著した。

1953年の第二回「世界短編小説コンクール」の)出品作となる(永井の)「小美術館で」は、昭和三〇(一九五五)年八月『新潮』に掲載されている。内容は、美術館鎌倉美術館モデルと思われる)喫茶室に務める(ママ)三〇代の戦争未亡人水野が、館に足繁く通う紳士に求婚されて惑う様子をスケッチ風に描いたものである喫茶室には水野の他に二人の老婦人と、そのうち一人が籠ごと連れてくる鸚鵡がいる。その鸚鵡が突然「ええい! どうして俺は、古臭い言葉ばかりしか知らないんだ。それも、みんな人間の口真似じゃあないか。俺自身の鳴き方って云うのじゃ、いったいどんなんだ。退屈だ。ええい、退屈だ。逆立ちをして、二、三度世の中を眺めたが、へん、やっぱり変わりはあるもんか。蓮の花が、ぐるぐる廻って見えただけさ」と矢継ぎ早に叫ぶ。自分の鳴き方が判らない鸚鵡というモチーフは第三短編集『朝霧』所収の「ペロツケ」を思わせるが、「逆立ちをして、二、三度世の中を眺めたが、へん、やっぱり変わりはあるもんか」という言葉は、芥川龍之介の「河童」(『改造』昭和2・3)の中で河童の一人が口にする「いえ、余り憂鬱ですから、逆まに世の中を眺めて見たのです。けれどもやはり同じことですね」という台詞本歌取りではないかと思える。また、「蓮の花が、ぐるぐる廻って見えただけさ」は、同じく芥川の「六の宮の姫君」(『表現』大11・8)の中で、瀕死の姫が「金の蓮華が見えまする。天蓋のやうに大きい蓮華が。……」という場面を思わせる。pp.240-41)

 この「六の宮の姫君」から引用、「金の蓮華が」と云うのは「金蓮華が」の誤脱かと思われるが、永井短篇芥川の「六の宮の姫君」とが結びつく(かもしれない)という事実はたいへん興味深いことである

 さて北村氏の「六の宮の姫君」は、芥川の、あるいは菊池寛作品等を通じて、「人と人との繋がりの哀しさ」(p.167、円紫の発言)を描いた佳品であるが、さらに意外な事実が明かされるのが、同じ「円紫さんと私」シリーズの「山眠る」(『朝霧*5創元推理文庫2004所収)である

 そこには、芥川が「六の宮の姫君」を「強引に慶滋の保胤で結んだ」理由(p.29)について、「田崎信」の口からある推測が語られる(その「推測」の根拠となる事実について、北村氏は作品の末尾で「石川哲也さんに御教示いただきました」p.92と述べている)。それは、芥川がおそらく意図的に「(慶滋保胤という)俗名を挙げ、内記上人と呼ばれたことまで記しながら、法名を書いていない」(p.29)ことに関わっているのだが、これとちょうど逆のような書きぶりが、幸田露伴の「連環記」に見られることを思い出した。すなわち露伴は、保胤(寂心)の弟子・寂照が三河守定基である事実をしばらく伏せたまま物語を展開し、終盤でようやく俗名を記しているのである「幸田露伴「連環記」」を参照されたい)。

六の宮の姫君 (創元推理文庫)

六の宮の姫君 (創元推理文庫)

沙石集 (上巻) (岩波文庫)

沙石集 (上巻) (岩波文庫)

神々の精神史 (講談社学術文庫)

神々の精神史 (講談社学術文庫)

川端康成随筆集 (岩波文庫)

川端康成随筆集 (岩波文庫)

朝霧 (創元推理文庫)

朝霧 (創元推理文庫)

*1:『日本語教育学の視点国際基督教大学大学院教授飛田良文博士退任記念』(東京堂出版2004)http://rnavi.ndl.go.jp/mokuji_html/000007500694.htmlに「翻訳小説文体」という論文を寄せている佐藤氏と同一人物らしい。

*2北村氏『六の宮の姫君』の発表年1992年で、新大系本『拾遺和歌集』は1990年刊行されている。ちなみに、古典文学全集類の注釈のそれぞれの特徴については、最近林望『役に立たない読書』(インターナショナル新書2017)pp.124-32が、『源氏物語』を例に説いているのを読んだ。林氏は、新大系の「注釈は、一般読書人にとっては不親切なところがあって、全訳などは一切付けられていないのですから、これだけで「源氏」をスラスラと「読書」するのは相当にむずかしいことと思います。どうもこれは、最初から古典を相当に読み慣れている人を対象として作られた注釈のような感じがするのです」(p.128)と述べている。

*3:この全集本のある「誤記」について、第八巻の解説吉田精一が「後から付け足したような活字で」(p.84)触れ、それが「岩波版の新しいの」(p.85)で訂正されている、という事実も明らかにされている。

*4:のちに講談社学術文庫版も刊行され、そちらも長らく品切であったが、今年に入って新カバーで復刊された。

*5北村氏は、この表題作を書くにあたって永井龍男の『朝霧』を意識されたか、どうか。

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2017-04-24 おとうさん/おかあさん このエントリーを含むブックマーク

 原作(深見じゅんのマンガ)は未読ながら、かつてオンタイムで見ていたドラマぽっかぽか』(1〜3,1994-97)が、BS-TBS再放送されている。「花王愛の劇場」枠で放送されたいわゆる「昼ドラ」だが、これが何よりも印象的なのは幼稚園児の田所あすか上脇結友)が、父親の慶彦(羽場裕一)を「チチ」、母親麻美七瀬なつみ)を「ハハ」と呼ぶということであった。

 「チチ」「ハハ」は、現代でこそ改まった場で自分父親母親をいう呼称だとされるが、同音連呼から、「ヂヂ」(爺)「ババ」(婆)「おテテ」(手)「おメメ」(目)などと同じく、元来は幼児語であったと推測される。

 しかし今は、藝能人やスポーツ選手などが、公の場で自分の父母のことを「お父さん」「お母さん」などと言おうものなら、特に中年以上の方々から、ケシカラン、という内容の声や投書が届く。「チチ」「ハハ」と言わせろ、というわけだ。

 ところで「おかあさん」は、すでに江戸期の確例がある。

 再掲になるが、森銑三『讀書日記』(出版科學總合研究所1981)が以下のように記している。

十二日昭和八年九月―引用者) 從夫(それから)以來記は萬象亭の黄表紙中或は最もよきものなり。稀書複製會本にて讀むに、幼兒が「かゝさんや、とん\/とうがらしをかつてくんねへ、おかアさん」といふところあり。江戸の子供が「おかアさん」といふこと訝かしく、夜圖書館にて原本を借りて見しに、やはり「おかアさん」とあり、ふしぎなり。圖書館本は南畝の舊藏本なり。但し識語はなし。(p.41)

 後年、森は別のところで、この十八世紀末黄表紙を再び目にすることとなる。

四日昭和十三年四月―引用者) 某氏を訪ひて黄表氏(ママ)二百餘部を見る。(略)なほ萬象亭の從夫以來記あり。この作先年稀書複製會本にて讀みし時、「かゝさんや、とん\/とうがらしをかつてくんねへ、おかアさん」とある。その「おかアさん」を疑問としたりしが、今原本を見るに、またその如くにして、刻の誤にはあらず。江戸下町にて「おかアさん」などいふ子のありしにや。(p.290)

 この用例は、『日本国語大辞典【第二版】』(小学館)も採録している。

 以前、渡辺邦男『蛇姫様』(1959)を観ていると、市川雷蔵が「おとうさん」を連呼する場面があって若干違和感をおぼえたことがあるが、ありえない話でもなさそうだ。

 大森洋平『考証要集―秘伝! MHK時代考証資料』(文春文庫2013)は、「おとうさん・おかあさん」の項を収めていて、

 江戸時代江戸京都大坂中流以上の商家で使われたが、武家には「品がない」と見られていた。「オトウサン・オカアサン」が明治三七年の国定教科書全国的になると、士族からは相当の反発があったという(大野敏明『知って合点 江戸ことば』文春新書、八八・二〇一頁)。また、三田村鳶魚は「おとうさま、おかあさまは近頃のことばで昔は使わない」と言っている(三田村鳶魚江戸生活事典青蛙房、二五二頁)。時代劇武家台詞では「父上・母上」とする。(p.62-63)

と書いている。

 時代は下がるが、永井荷風(1879-1959)は、1927(昭和二)年10月の「申訳」(「荷風随筆 抄」『日和下駄 一名 東京散策記』講談社文芸文庫ワイド2017所収←講談社文芸文庫1999)で、「僕が文壇の諸友と平生会談場所と定めて置いた或カッフェーに」いた「お民」という女性が、自分の父母を「おっかさん、おとっつぁん」と呼んだことに関連して、以下の如く記している。

 お民は父母のことを呼ぶに、当世の娘のように、「おとうさん、おかあさん」とは言わず「おっかさん、おとッつァん」と言う。僕の見る所では、これは東京在来の町言葉で、「おとうさん」と云い、「おかアさん」と云い、或は略して、「とうさん、かアさん」と云うのは田舎言葉から転化して今は一般通用語となったものである。薗八節の鳥辺山に「ととさんやかかさんのあるはお前も同じこと」という詞がある。されば「とうさん、かアさん」の語は関西地方のものであろうか。近年に至って都下花柳の巷には芸者茶屋待合の亭主或は客人のことを呼んで「とうさん」となし、茶屋の内儀又は妓家の主婦を「かアさん」というのを耳にする。良家に在っては児輩が厳父を呼んで「のんきなとうさん」と言っている。人倫の廃頽も亦極れりと謂うべきである。因にしるす。僕は小石川の家に育てられた頃には「おととさま、おかかさま」と言うように教えられていた。これは僕の家が尾張藩の士分であった故でもあろうか。其の由来を審にしない。(pp.167-68)

 また、荷風の四半世紀後に生れた佐多稲子(1904-1998)は、『素足の娘』(1940年3月刊)で、

私たちも父母を呼ぶのに、父ちゃん、母ちゃん、と言わせられ、小学校一年生の時、先生に父母の呼び方を一人々々たずねられたが、みんな、おとつっあんママ)、おっかさん、で、私のように父ちゃん、母ちゃん、と言うものは、ただ私ひとりであった。その時は恥ずかしかったけれど、その方がハイカラなのだ、ということは小さい私も知っていた。(新潮文庫版1961:34)

と回想している。

 さら山田俊雄(1922-2005)は、『忘れかけてゐ言葉』(三省堂2003)で、荷風と同世代にあたる父親話し言葉について、次のように述べている。

 オトッツァンだの、オッカサンだのといふと、今の若い人は聞いただけで、笑ひ出したり、不謹慎にも、トニー某の發明發見した、ふざけた言葉の一つだと思つたりする。(略)

 私の少年の頃、父はすでに、その頃の世間竝みにいふと老年に近かつた。父は一八七五年の生れで、私は一九二二年の出生だから四十七歳の時の子である。私が小學校に上る頃、父はとうに五十歳を過ぎてゐた。

 父の口から出るオトッツァンは、主として彼の父、つまり私から云ふと、祖父をさしてゐた。毎月二十五日には、

今日はオトッツァンの日だ、オッカサンは何をこしらへるのかな?」

といふ工合に、祖父の命日の朝など、母と同席してゐ子供達にも聞えるやうに、祖父の位牌の前に供へる御馳走の話になることがあつた。オッカサンの日も、ほぼ同様であつた。(略)

 オッカサンも、オトッツァンも、別にいやしいことばではないし、田舎詞でもなかつた。木山捷平の件の短篇にも、「お父ッつぁん」は幼な言葉の類であるやうに書いてある。(略)

 また、ヘボンの「和英・英和語林集成」に、

OTOTTSAN オトッサン 阿爺 n. (cont. of o-toto-san, com. coll,) Father. Syn.CHICHI, TETEGO.

とあつて、ヘボンの横文字と、片假名との對照によると、オトッサンの片假名は、發音式に書くとオトッツァンに当ること明白である。これは明治前期のことに属する*1

(「『お父ッさん』の話」平成九年十月pp.220-24

 この前年にも山田氏は「おとつさん」という文章を書いており、『詞苑間歩―移る時代・移ることば(下)』(三省堂1999)などに収めてある(pp.344-47)。両者で取り上げているのが、式亭三馬浮世風呂』前編巻上に出る「おとつさん」で、「さ」に「しろきにごり」が附されている。ゆえに発音上は「おとっ『つぁ』ん」だろうと見られていて、山田氏は「おとつさん」で、「標題はオトッツァンと發音して貰ひたい」(p.344)と書いている。

 なお山田氏は、

「オトッツァン」「オッカサン」は国定教科書の「おとうさん」「おかあさん」によつて、今ではすつかり片隅の者になつたのだが、山の手中流教養ある人々のことばには、どうもいまだに造り物らしい匂のするものがある。(『詞苑間歩(下)』p.347)

とも書いている。こうして見てくると、少くとも十九世紀末から二十世紀初頭にかけて生れた人々の多くは、自分の両親のことを、「おとうさん」「おかあさん」ではなく、「おとっつぁん」「おっかさん」と呼んでいたらしいことが知られるのである

 教科書に現れる親族呼称批判的に捉えたものとしては、大岡信氏(1931-2017)による文章もある。こちらは「チチ」「ハハ」に対する見解である

 今中学に通っている私の息子が、六年生のとき出来事だが、ある日彼が私のところへ国語教科書をもってきていうには、「この教科書おかしいよ。本物とちがうよ」。

 宮沢賢治作「けんじゅう公園林」として、賢治の「虔十公園林」がのっていた。(略)

 私の息子は小学校時代、長いあい宮沢賢治童話に熱中していたので、教科書方言がすべていわゆる標準語に書きかえられているところまでくると、「これは本物とちがう」と気づいたのである。(略)「なぜ方言のままで出さないの?」ときかれて、あらためて教科書を眺めれば、そこに出ている会話は、今日の都会のサラリーマン一家が、日曜菜園か何かでかわしている会話以外の何ものでもないではないか。(略)

 「おっかさん」を「母」、「にいさん」を「兄」、「お父さん」を「父」と呼びかえている偽善性も、まったく気に入らない。国語教科書が率先して家族の親しい呼び名に水をぶっかけるようつとめているのではないか。言葉問題何が悪いといって、偽善的な言葉を使うほど悪いことはない。なんで「おっかさん」ではいけないのか、私はこの改変をつまらないことだと思う。正当な根拠がない改変だと思う。戦後のいちじるしい現象だと思うが、「おとうさん」「おかあさん」の類を何が何でも「父」「母」というふうに子どもに教えこむ教育上の悪慣習が生じたように私は感じている。まさか、かの悪名高い当用漢字音訓表に「父(とう)」「母(かあ)」の訓みが許容されていなかったから、などということではなかろうが、あるいはそんなことも関係があるかと、つい勘ぐりたくなる。

 たしかに、自分の父母兄弟について言う場合なら、チチ、ハハと言えと教えるべきであるときどき「ぼくのおとうさんが」などという青年出会っておどろくことがある。けれども、これがつねにチチ、ハハでなければならないという掟はどこにもない。「虔十公園林」の場合、「おっかさん」「にいさん」「お父さん」と言っているのは、虔十自身ではない。作者の宮沢賢治である。賢治はこれらを「母」「兄」「父」と書くこともできたのに、そうは書かなかったのである。この生きた感情生理無視するのはまちがっている。

(「仙人が碁をうつところ―子ども言語経験について―」1973.7,『青き麦萌ゆ』中公文庫1982所収←毎日新聞社1975:70-75)

 文中の「私の息子」とは、大岡玲氏(1958-)である

 後年、大岡玲氏は自著で次のように書いている。

僕も子供の頃から宮沢賢治が大好きで、岩波書店が1963(昭和38)年に出した単行本風の又三郎』(1931〜33)と『銀河鉄道の夜』2冊を毎晩枕元に置いて寝たほど愛着があった。そんな風だったから教科書掲載方法不審を抱いたというか、ほとんど激怒したのだ。(略)

 もちろん、採用したこと自体は悪くない。あ、「虔十公園林」だ、と小学生だった僕も、一瞬喜んだ。その喜びが腹立ちに変わったのは、収録に際して原文を改悪していたからなのだ

 どういうことかというと、賢治はこの物語の中で交わされる会話(とてもイキイキした会話だ!)を、生まれ故郷岩手方言で書いている。それなのに、教科書ではそれを標準語に直してしまっていたのだ。雰囲気台なしであるしかも、そこには潜在的差別意識が透けて見える。方言はわかりにくいし、子供には正しい標準語を教える必要があるという判断。まるで、方言は「少し足りない」から正しい日本語に改良してやると暗に主張しているみたいに感じられてしまう。それじゃあ、虔十をバカにした人々の行為と同じではないか。

 小学生だった僕が、そんな風に明確に差別を読み取ったとは思わないけれど、なにかすごくカチンときたことははっきり覚えている。

大岡玲『不屈に生きるための名作文学講義―本と深い仲になってみよう』ベスト新書2016:183-86

読書日記 (1981年)

読書日記 (1981年)

素足の娘 (新潮文庫 さ 4-2)

素足の娘 (新潮文庫 さ 4-2)

忘れかけてゐた言葉

忘れかけてゐた言葉

詞苑間歩―移る時代・変ることば〈下〉

詞苑間歩―移る時代・変ることば〈下〉

青き麦萌ゆ (1982年) (中公文庫)

青き麦萌ゆ (1982年) (中公文庫)

*1:「明治前期」とあるから再版か。手許には講談社学術文庫版(第三版の縮刷影印)しかないので分らない。むろんその三版は採録している(p.493)。ちなみに初版慶應年間に刊行された。

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2017-04-09 叙述ミステリ(トリック)が好き。 このエントリーを含むブックマーク

 気持ちよく騙されるのが好きだから、叙述ミステリも好んで読む。『盤上の敵』『十角館殺人』『ハサミ男』『殺戮にいたる病』『葉桜の季節に君を想うということ』『ロートレック事件』「依子の日記」等々。

 海外作品だと、最近(昨秋)読んだのが、フレッド・カサック平岡敦訳『殺人交叉点』(創元推理文庫2000)*1だ。

 この『殺人交叉点』は、瀬戸川猛資が『夜明けの睡魔海外ミステリ新しい波』(創元ライブラリ1999)のp.94で、「文句なしの大ひっかけミステリ」として紹介しているほか、

フランス風小手先芸の極致小手先芸もここまでくれば、芸術品というしかない。(p.264)

とも評している。

 ちなみに瀬戸川は、単行本版(1987刊)の付記で、

読者からお便りがあり、(瀬戸川が)ベストワンにあげていた『殺人点』を読んだのだが、まったく驚かなかった、ひょっとして翻訳問題があるのではないか、という質問を受けた。文庫版の『殺人点』を読んでみたら(わたしがあげたのは、〈クライムクラブ〉版の『殺人点』。不覚にも、文庫版を読まずに推奨していたのだ)、たしかトリックがわかるまずい部分があったので、その文句を書きつらねたのであるしかし、創元推理文庫版のこの本はもう絶版だし、将来、まずい部分を訳し直して刊行する予定とのこと。文句は、(単行本刊行時に)自主規制してカットした。(p.99)

と書き残している。残念ながら、改訳版は瀬戸川の存命中には間に合わず、歿後一年を経て、平岡敦訳『殺人交叉点』(2000)として刊行された(手許のは2013年2月1日3版)。また平岡氏の「訳者あとがき」に拠ると、旧訳2種は1957年刊の旧版を訳したものだが、新訳はカサックが大幅に改稿した版(1972年刊。「フランスミステリ批評家賞」を受賞)を訳したものという。

 なおカサック自身は覚書で、改稿に際して「ほとんど全面的に手を入れた。そしていやらしい恐喝犯を当世風にあらため」た(p.193)云々、と記している。

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 わたし瀬戸川の評言に触発されて『殺人交叉点』を繙いたように、叙述ミステリは、あらかじめ「その手の作品」だということを聞かされて読む場合が少なくないとおもう。

 つい先日やっと読んだ、小泉喜美子『弁護側の証人』(集英社文庫)もそうだった。

 この作品は、綾辻行人氏が伊坂幸太郎氏との対談で、

国内作品では、(叙述トリックを利用した)先駆的な傑作として小泉喜美子さんの『弁護側の証人』(一九六三年)がありましたね。でも、その後はあまり作例が多くない。叙述トリックという言葉も今のように一般的じゃなかったんですよ。(「ミステリー作家連城三紀彦の魅力を語る」『連城三紀彦 レジェンド―傑作ミステリー集』講談社文庫2014:313)

と触れたこともあって気になっていたところ、戸川安宣氏が、空犬太郎編『ぼくのミステリクロニクル』(国書刊行会2016)で、

その当時、生島(治郎)さんはまだ小泉喜美子さんと結婚していて、結婚するときに、小泉さん作家をやめろといって結婚したというんです。『弁護側の証人』は結婚前の作品だったのですが、小泉喜美子名義で出たのは、結婚してから本になったからなんでしょう(生島治郎本名小泉太郎引用者注)。とにかく条件として、これを最後作家はやめろと言った、というエピソードは耳にしていました。せっかくゲスト作家に会ったんだから、これは何か聞かなくちゃいけない、でも何も読んでいない、というので、「奥さんはもう書かないんでしょうか」みたいなことを聞いたら、生島さんはむすっとして、もう書きませんみたいなことをおっしゃっていました。(p.104)

と語っているのを目にして、よし読もうというわけで、2009年刊の新版2016年10月17日第15刷)で読んだ。

 実をいうと、作者が用意した仕掛けには、警戒していたせいか早々に気づいてしまったのだが(とは云え「真相」にまではたどり着けず)、しかし、これが五十年以上前に書かれたというのは畏るべきことである。なるほど「莫連女」(p.136)など、たしか歴史を感じさせることばも出て来るけれど、後半部は法廷ミステリとしても読めるし、読者を飽きさせない工夫も凝らしてある。タイトルは、多分、クリスティの『検察側の証人*2意識したものだろう。

 そうしたところへ、昨夏は小泉の『血の季節』が復刊され(宝島社文庫)、今年に入って『殺人はお好き?』(同)も復刊された。また先月には、『痛みかたみ妬み―小泉喜美子短篇集』(中公文庫)も「増補再編集版」として刊行された。同書の編者・日下三蔵氏によると、『痛みかたみ妬み』は「小泉喜美子の全著作の中で、もっとも入手困難だった一冊」(p.409)なのだそうで、その短篇集に、「またたかない星(スター)」「兄は復讐する」「オレンジ色のアリバイ」「ヘア・スタイル殺人事件」の四篇を増補収録している。

 その後、『弁護側の証人』を集英社文庫旧版1978年刊)で入手した。ちょうど巧い具合に、行きつけの書肆の店頭に転がっていたのであるしかしこれは、カバーの内容紹介がいけない。「種」を半分明かしてしまっているようなもの*3

 その一方で、解説は読みごたえがある。何しろ生島治郎の友人で、小泉喜美子とも親交のあった青木雨彦が書いているのだから特にラスト8行(p.240)には、こういう「愛」の形もあるのか、と唸らされてしまう。

殺人交叉点 (創元推理文庫)

殺人交叉点 (創元推理文庫)

弁護側の証人 (集英社文庫)

弁護側の証人 (集英社文庫)

ぼくのミステリ・クロニクル

ぼくのミステリ・クロニクル

*1:カサックの『連鎖反応』を併録。

*2:大傑作・ビリー・ワイルダー情婦』の原作。『情婦』のラストは、「どんでん返し」の原作をさらにもうひとひねりしている。

*3:そう云えば都筑道夫のある作品や、横溝正史のある作品も同様に、内容紹介やカバー絵がほとんど「種」を明かしてしまっており、残念に感じたことがある。

2017-04-05 濁る「田」と濁らない「田」と このエントリーを含むブックマーク

 (大島は)二、三分後には手紙をもったまま車に戻ってきて、

「お客さん、さっき『イシダ』って言ったの? 西田って客なら予約が入っていて、さっき『到着がもっと遅れる』って電話が入ったって。イシダって客はいないと言うから

 と言った。

 女はちょっと困ったようにしていたが、「私は西田って言ったのよ。運転手さんの聞き間違い。あ、でももういいから、駅の方へ戻って」と言い、大島から手紙を受けとった。

 確かに『イシダ』と聞いた気がしたので大島は納得がいかなかったが、それでも黙って、女に言われた通り、車をUターンさせた。

連城三紀彦無人駅」『小さな異邦人文春文庫2016所収:45-46)

 ここで大島が、「確かに『イシダ』と聞いた気がした」と自信をもってそう思えるのは、音韻が異なる(/i/と/ni/)ことだけに因るのではあるまい。それだけなら聞き違えてもおかしくはない。超分節要素(かぶせ音素とも)のアクセントが違っているからだと思われる。

 共通語では、「いしだ」は無核型で、「にしだ」は有核型のアクセントをもつ。

「(二拍)+田」姓の場合、無核型は、

浅田(あさだ)、飯田(いいだ)、池田(いけだ)、石田(いしだ)、上田(うえだ)、内田(うちだ)、岡田(おかだ)、長田(おさだ)、岸田(きしだ)、北田(きただ)、沢田(さわだ)、武田(たけだ)、土田(つちだ)、寺田(てらだ)、徳田(とくだ)、畑田(はただ)、深田(ふかだ)、福田(ふくだ)、前田(まえだ)、町田(まちだ)、松田(まつだ)、持田(もちだ)、安田やすだ)、吉田(よしだ)*1

と、ほとんどの場合、「田」が連濁で濁る*2

 無核型の非連濁形は、

青田(あおた)、岩田(いわた)、太田(おおた)、倉田(くらた)、桑田(くわた)、永田(ながた)、宮田(みやた)、村田(むらた)*3

など、濁る場合に比べてかなり少ない。「田」の直前が後舌のア段・オ段音に偏るのは偶然か。

 これとは逆に、有核型は、

秋田(あきた)、有田(ありた)、角田(かくた)、梶田(かじた)、門田(かどた)、川田(かわた)*4、窪田(くぼた)、栗田(くりた)、坂田(さかた)、柴田(しばた)、杉田(すぎた)、関田(せきた)、鶴田(つるた)、飛田(とびた)、富田(とみた)、豊田(とよた)、成田(なりた)、春田(はるた)、弘田(ひろた)、蛭田(ひるた)、藤田ふじた)、古田(ふるた)、堀田(ほりた)、牧田(まきた)、水田(みずた)、室田(むろた)、百田(ももた)、森田(もりた)、横田(よこた)

など非連濁形が多い。連濁形はむしろ少なくて、

金田(かだ)、上田(かだ)、亀田(かだ)、黒田(くろだ)、菰田(こだ)、里田(さとだ)、篠田(しだ)、園田(そだ)、角田(つだ)、殿田(とだ)、友田(とだ)、西田(にしだ)、羽田(はだ)、浜田(はだ)、蓑田(みだ)、米田(よだ)

などに限られる。

 次の例は、「マセタ」なら有核型、正しい読みの「マセダ」なら(「アクセントにも気をつけて」ということだから)無核型で呼んだ、ということを意味するのであろう。

 私が高校の教師をしていたとき、そこの女子生徒に間世田さんという子がいた。これは放っておくと「マセタさん」と読めて、十五、六の女の子がマセタさんではかわいそうなので、教員一同、アクセントにも気をつけて「マセダさん」と呼ぶことにしていた。

(柳沼重剛「名前について」『語学者の散歩道』岩波現代文庫2008所収:238)

 さて、有核型の例外を見てみると、「田」の直前に鼻音性子音を有するナマ行の音節が来る場合がほとんどだから、「田」が濁る要因は、形態論的な連濁ではなくむしろ音声環境によるところが大きいと思われる。いわゆる「新濁」(「連声濁」)である

 「新濁」は、ロドリゲス以来「うむの下濁る」などと言い慣わされてきたが、これは、現在とは違って、「濁音」が「鼻音要素(m,n,ngなど)+阻害音」であった時代の現象である

 現在では、「濁音化」がおおむね「無声音の有声音化」*5意味するのに対し、当時は、阻害音(無声か有声かに関わらない)が鼻音要素と共起しておれば「濁音」と見なされていたとおぼしい。このあたりのことについては、高山(2012)が早田輝洋説などを援用しつつ「濁音の弁別的特徴に史的な変化があった」(p.99)と結論しており、たいへん勉強になる。

 つまり「新濁」は、現在はその痕跡を見出せるにすぎない現象なのであって、新たに生産された語にそれが生ずる*6訣ではない。

 「観測所」「紹介所」「脱衣所」などで「所」が濁ることもあるのは、連濁の異例*7解釈できる餘地もあるが、「公文所(くもんじょ)」「見山所(けんざんじょ)」などの新濁例から類推があるかも知れないし(高山2012:115)、「場(じょう)」などの干渉もあるのだろう。

 連濁のように見える「羽生結弦(はにゅうゆる)」の名「結弦」は、多分、名付け親が「弓弦(ゆる)」を念頭に置いたものだろう。これは、「弓束(ゆか)」「弓削(ゆ)」等と同じく、「弓(ゆ)」の鼻音性子音が阻害音と共起して新濁を生じたケースであろう。

 「文手(ふて)」→「筆(ふ)」も、同様の過程を辿ったもの

【参考】

金田一春彦(1976)「連濁の解」『Sophia Linguistica』二(『日本語音韻音調史の研究吉川弘文館2001所収)

高山倫明(2012)『日本語音韻史の研究ひつじ書房

田中伸一(2009)『日常言語に潜む音法則世界』開拓社

小さな異邦人 (文春文庫)

小さな異邦人 (文春文庫)

語学者の散歩道 (岩波現代文庫)

語学者の散歩道 (岩波現代文庫)

日本語音韻音調史の研究

日本語音韻音調史の研究

日本語音韻史の研究 (ひつじ研究叢書(言語編) 第97巻)

日本語音韻史の研究 (ひつじ研究叢書(言語編) 第97巻)

日常言語に潜む音法則の世界 (開拓社言語・文化選書)

日常言語に潜む音法則の世界 (開拓社言語・文化選書)

*1今田(いまだ)、梅田(うめだ)、神田(かんだ)、熊田(くまだ)、島田しまだ)、下田(しもだ)、正田(しょうだ)、船田(ふなだ)、本田(ほんだ)、門田(もんだ)、山田(やまだ)などは、阻害音の直前にナマ行音節、もしくは鼻音要素があるので、除外しておいたほうが無難か。さらに正確を期するなら、「田」の直前が濁音のものも除外しておくべきところだろうが、取り敢えずそのままにしておく。

*2:もちろん、たとえば「上田」姓などには「うえた」という非連濁形もあるが、ここでは「概ねそう読みうる」という傾向を言っている。なお、「上田」=「かみだ」の場合は有核型で発音され、連濁形の例外に属する。後述。

*3堀田(ほった)は無核型だが、音声環境からして「た」が濁ることはあり得ない。

*4:「かわだ」と連濁形になる場合は無核型になって、いずれにせよ典型例となる。金田一(1976)p.340など参照。

*5現代日本語共通語)では、たとえばハ行音は清(p)-濁(b)ではなく、清(h,f)−濁(b)という対立をなすから、これは決して正確な表現ではないが、旧来のこの言い方に従っておく。

*6:この「生ずる」も新濁によるもの。「生」は鼻音性の-ngで終る音節で、日本語母語話者はそれを鼻にかかるuで発音した。「東国トーゴク)」も同様の理由による。「西国サイコク)」を「サイゴク」と濁るのは「トーゴク」「南国(ナンゴク)」に引きずられたものであろう。金田一(1976)p.338も参照のこと。

*7:連濁は、原則として和語のみに生じ、漢語を含む外来語には生じない。ただし、「夫婦喧嘩(げんか)」「株式会社(がいしゃ)」「芋焼酎(じょうちゅう)」「出刃庖丁(ぼうちょう)」「すけ鉄砲(でっぽう)」「青写真(じゃしん)」「当て推量(ずいりょう)」「黒砂糖(ざとう)」「雨ガッパ」「いろはガルタ」などの例外が知られる。

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2017-03-28 梁啓超『和文漢読法』のことなど このエントリーを含むブックマーク

 顧頡剛/平岡武夫訳『ある歴史家の生い立ち―古史辨自序―』(岩波文庫1987)に、次のような一節がある。

この時は、ちょうど国内革新運動が勃発した時であって、学校を開け、纏足を止めよ、鉄道を敷け、米国シナ労働者禁止条例に抗議せよ、政府憲法を布き国会を開かせよ、梁任公先生梁啓超 一八七三−一九二九年〕の言論一世を風靡した。私も、この潮流に揺り動かされて、自分でも救国の責任を感じ、いつも忼慨激昂して時事を論じた。『中国魂』のなかの「傍観者を叱る文」や、「中国武士道」の長い序文の類は、私のもっとも愛好する読物であった。(p.26)

 梁啓超のこの「纏足を止めよ」という主張は、たとえば坂元ひろ子『中国近代思想文化史』(岩波新書2016)も、

一八九七年には梁啓超・汪康年・譚嗣同らによって最大規模の「上海纏足総会」が組織され、各地に分会が作られた。同年に梁啓超が『時務報』に掲載した「変法通議」でも、女子教育重要性を論じ、纏足女性の「廃疾」化とみなし、「国の恥」と意識する。(p.49)

言及している。

 坂元著の前半部のキーパーソンのひとりが梁啓超だ。坂元氏は同書において、1917年ごろに梁、熊希齢、張君勱らが結成したグループのことを「梁啓超系」と名づけているほどで(p.98)、p.129やp.141ではこの術語を使っている。

 また上掲引用にみえる「時務報」や「変法通議」については、下記を参照のこと。

 梁啓超(広東新会の人)は中国ジャーナリズムの祖とも称せられる。新聞雑誌編集最初に精彩を放ったのは、一八九六年上海で創刊した『時務報』である

 初代駐日公使・何如璋に随行渡日経験もある強学会員、黄遵憲と汪康年で計画し、封鎖された上海学会の残金をもとに、梁啓超編集長、汪康年を代表責任者とし、「変法図存」(変法で生き残りをはかる)を旨として創刊。梁啓超は、国を強めるために科挙改変、学校学会新聞設立等の変法を唱え、男女の人材育成をその基本とする「変法通議」十数篇等を自ら執筆し『時務報』に掲載した。自然界は絶えざる変化の過程にあり、その自然法則組織としての生命もつ社会においても「公理」、つまり法則である、という梁の議論は多くの知識人に愛読され、『時務報』は最高部数一万七千に上り、これは当時の雑誌発行部数の最高記録となった。(略)

 梁啓超新聞雑誌の人気は、新知識の紹介、変法の鼓舞という点だけでなく、その文体にあった。明晰、平明、通俗的かつ情熱的な文体で、従来の古漢語文の形式に囚われずに、東西古典知識をおりまぜた。これが新鮮な躍動感を生み、アピール力ある独特な「時務文体」を創出したのである。その文章の平明さを浅薄とし、「報館(文屋)の文章」(厳復)、「報館八股文」との批判もあったが、何よりもそれは大衆化の条件であり、新聞文体趨勢であった。(坂元pp.37-38)

 ちなみに梁と盟友・汪とはその後「訣別」しており(梁は後に師の康有為とも「訣別」してしまうことになる)、これについては『変法派の書簡と『燕山楚水紀遊』―「山本関係資料」の世界』(汲古書院2017)が、筆談記録一篇、山本あて書簡七通を公開しつつ明らかにしたところである

 さて梁は日本亡命した後、『和文漢読法』という著作を編んでいる。

 梁啓超日本漢文訓読法を逆転させた『和文漢読法』(羅晋*1と共著)を駆使し日本で紹介されていた近代西洋思想を吸収、華僑の子弟教育にも尽力した。(坂元p.52)

 『和文漢読法』というのは、大略以下のような本である

 来日わず半年の上掲の文章*2ではすでに『和文漢読法』に言及している。同書は梁啓超と羅普の共著で、漢字が七、八割を占めている日本文中国人なら数日でいくらか読めるようになり、半年で十分書けるようになるという視角から書かれた入門書なのである。残された文章から見るなら、梁啓超がかなりはやくに日本文の読解能力を身につけたことは確かである。その実践論が上掲の『和文漢読法』である。題を見れば、それが「漢文訓読法」を真似たものであることはだれでもすぐに気付くだろう。しかし、「漢文訓読法」が日本語文法に即した体系を備えているのにたいし、『和文漢読法』は日本語中国語いずれの体系をもふまえぬ簡便理解術という点で、まったく異質のものなのである。梁作の増補版がつぎつぎと刊行されたことから漢字を見るだけですこしは分かる(分かったつもりになる)簡便さが受けたことは確かなのだが、「正則」ならざる「変則」の速成学習法が内包する問題点はその後ながく論議対象となった。(狹間直樹『梁啓超東アジア文明史の転換』岩波現代全書2016:87-88)

 『和文漢読法』そのもの、また諸本に関しては、古田島洋介(2008)「梁啓超『和文漢読法』(盧本)簡注」(明星大学学術機関リポジトリで読める)に詳しい。これによれば、同書は長らく稀覯書であったという(もっとも、現在でも容易に参照できる代物ではない)。この「盧本」とされた一本は必ずしも善本ではないようだが、京大文学研究科図書館蔵本で、豹軒鈴木虎雄の旧蔵にかかるらしい。古田島氏によると、「日本語を学ぼうとする者たちが、たぶん梁に無断で出版した」と思われ、1899年前半に編まれて、刊行されたのは1900年頃と推定されるという。初版本は未だに発見されていないようだ。

 古田島氏は当該論考を書くにあたって参照していないようだが、これが書かれる以前、齋藤希史漢文脈の近代―清末=明治文学圏』(名古屋大学出版会2005)の第5章「官話と和文―梁啓超言語意識―」*3が、『和文漢読法』に言及している(pp.115-17)。

 齋藤氏はその品詞区分特に着目し、上掲の古田論文が省略した第三十八節の和製漢語一覧の一部を紹介している(pp.116-17)。

 齋藤から一節を引いておく。

 さて、中国人日本語を学ぶときの一つの難所が用言活用であるが、梁啓超はこれについては大胆に切り捨てる。「我輩於其変化之法、皆可置之不理。但熟認之知其為此字足矣(我々は活用については無視する。よくよく見てどの字なのかわかればよい)」(第十六節)、見てそれと分かれば、つまり活用する部分がすべてラ行なりカ行なりの同一の行であることが分かればよいのである。他にも、長文の断句に窮したときは、「而」にあたる「テ」、「的」にあたる「ル」を目印にすればよい(第三十一節)などの虎の巻風の指示、日本印刷では濁音を省くことが多い(第三十七節)などの細かい注意まで、この『和文漢読法』は、なかなか周到な実用書と言える。(齋藤p.116)

 不思議なことに、齋藤氏がこれを書くうえで参照した『和文漢読法』の書誌が、註釈にも明示されていない。

 「盧本」すなわち京大蔵本に拠った、と考えるのが自然だろう。

---

 なお、齋藤著の第2部(第3〜5章)は梁啓超関連の論文によって構成されているのだが、該書の編集にあたった橘宗吾氏が興味深い「裏話」を明かしている。以下に引く。

 この本は四部構成になっていまして、その第2部は「梁啓超近代文学」と題して、明治日本亡命した清末の知識人梁啓超という人が日本の政治小説を手がかりに新しい文学概念をつくりあげていった様を扱っていますが、実はこの部分は最初、この本に収めるつもりではありませんでした。それは、私の方が、ゆるやかに考えるようになったとはいいましても、まだまだ「アジアからの衝撃」つまりアジアから日本への衝撃」という図式に囚われていたからだと思います。

 齋藤さんの方はこの本のテーマに関わる論文を少しずつ書いていってくれていたのですが、本全体の骨組みがいまひとつ定まらずにいました。訪ねていっては「ぼちぼち」「そろそろ」といった話はするものの、具体的にはなかなか刊行のめどが立ちませんでした。そこで私はだんだん、それは梁啓超についての論文を外そうとしていることに原因があるのではないかと思いはじめ、論文をもう一度読み返したりしているうちに、自分無意識のうちに日本主体においてこの本を考えようとしていたことに気づきました。日本が衝撃を受けるという形で、いわば受動態の主語だったので気がつきにくかったのですが、よく考えてみるとやはりそうでした。そしていったんそう気がついてみると、それにこだわる必要がないこともわかり、むしろウェスタン・インパクト=西洋の衝撃のもとでの日本中国相互作用をこそ主題にすべきだと思うようになりました。そして齋藤さんの論文の強みの一つはそこにあったのです。

 そこで、梁啓超論文を含めた形で目次を考えまして、駒場研究室を訪ねていって、齋藤さんに提案してみました。齋藤さんも梁啓超論文を本に入れたいと、たぶんずっと思っていたのだと思います。その場で今の目次がほぼ固まりまして、一気に刊行に向けて動き出しました。(橘宗吾『学術書の編集者慶應義塾大学出版会2016:75-76)

 また、「副題は最初、『清末=明治エクリチュール』だったものを、私が『エクリチュール』の部分に反対しまして、結局いまの『文学圏』に落ち着いたのだったと思います」(p.81)、というエピソード面白い

中国近代の思想文化史 (岩波新書)

中国近代の思想文化史 (岩波新書)

梁啓超――東アジア文明史の転換 (岩波現代全書)

梁啓超――東アジア文明史の転換 (岩波現代全書)

漢文脈の近代―清末=明治の文学圏―

漢文脈の近代―清末=明治の文学圏―

学術書の編集者

学術書の編集者

*1:本文ママ。これは誤記で、「羅普」が正しい。字は孝高。『佳人之奇遇』の翻訳作業にも協力したらしい。

*2:「論学日本文之益(日本文を学ぶの益を論ず)」(「清議」一〇号,1899.4)。

*3:もとになったのは、1998年カリフォルニア大学サンタバーバラ校で行われたシンポジウムにおける発表原稿で、初出は、"Liang Qichao’s Consciouness of Languages" , Joshua A. Fogel ed. ,The Role of Japan in Liang Qichao’s Introduction of Modern Western Civilization in China , The Institute of East Asian Studies, University of California, Berkeley, 2004.

2017-03-23 佐多稲子のこと このエントリーを含むブックマーク

 葉山嘉樹ほか『教科書で読む名作 セメント樽の中の手紙ほか―プロレタリア文学』(ちくま文庫2017)という昨年12月から刊行され始めたシリーズのうちの一冊に、佐多稲子処女作キャラメル工場から」が収められている(pp.33-58)。

 この作品は、青木文庫角川文庫表題作として収録されたこともあったようだが、文庫という形では長らく入手困難になっており、その後、久しぶりで紅野敏郎ほか編『日本近代短篇小説昭和篇1』(岩波文庫2012)に収められた。したがって、今回の文庫入りは約4年半ぶりということになろう。

 佐多の自伝『年譜の行間』(中公文庫1986)によると、

キャラメル工場から』も初めは八枚ぐらいの随筆のようなものでした。それを中野重治もっと長く、小説に書くようにと言って、それで小説にしたのです。(p.163)

という。この、元になった随筆も、中野のすすめで書いたようだ。佐多の『夏の栞―中野重治をおくる―』(講談社文芸文庫2010)には、

帰り際に中野が、窪川(佐多の夫。後に離婚引用者)に、と封書をおいて行ったのが、私のたびたび云う「キヤラメ工場から」を私に書かせるきっかけになるものだったのである。私は少し前に、これも中野から云われてだったとおもうが、「プロ芸」(「プロレタリア芸術」―引用者)編集部に、随筆を書いて渡していた。その随筆を、小説に書き直すようにとすすめた中野手紙がその封書であった。(p.88)

とある

 わたしは、昨春頃から佐多の文章をよく読むようになって、佐多と田村俊子宮本百合子らとの関係を描いた『灰色の午後』(講談社文芸文庫1999)を特におもしろく読んだのだが、古本屋で以前はよく見かけていたはずの『素足の娘』(新潮文庫)をなかなか見つけられず、また読書の中断期間を挟んだこともあり、少し遠ざかっていたところが、最近古書肆Sの店頭にその『素足の娘』を見出し(100円)、直後にA店頭でも見つけた(50円)ことを切っ掛けとして、再び佐多作品をちびちび読み始めている。読みながら、佐多研究者でもあるK先生蕎麦を奢っていただいて一緒に食べた日のことを懐かしく思い起すなどしていた(「私」と父親とが蕎麦を食う場面がある)。

 ところで、『灰色の午後』に次のような印象的なくだりがある。

この前九月半ばに行われた防空演習の夜、茶の間の電燈に遮蔽して、その下だけ光りの射す卓の上に岩波文庫里見八犬伝をおき、惣吉が音読をした。それを囲むようにして、折江と子ども二人の頭が揃っていた。そのときから半月すぎたばかりであった。あのとき惣吉は、燈火管制の下で馬琴を讀むというおもいつきに、表情まで改めたように自信深げであった。亮吉は卓の上に肩をのり出していた。節子は折江のそばに身体を寄せていた。惣吉は先ず、里見八犬伝の作者が、この書物を書く間に目が見えなくなって息子の嫁に口述をして筆記させたことなどから話しはじめた。表も暗かった。表の暗さに背を向けて馬琴を読むというわが家の籠もった空気は、心より密度を保っているかにおもわれた。(p.185)

 ここを読んでふと思い出したのが、前田愛音読から黙読へ―近代読者の成立」*1(『近代読者の成立』岩波現代文庫2001所収)である。そこにも、(時代こそ違うものの)山川均が少年の頃に、八犬伝を借りてきた父親が家じゅうの者にその読み聞かせをしていた、という証言が引かれている(p.168)。

 前田というと、前掲ちくま文庫の佐多のプロフィル欄に、「昭和六〇年に樋口一葉たけくらべ』の美登利をめぐって日本近代文学研究者前田愛相手に論争するなど終生活動的であった」(p.245)と記されている。

 この「論争」については、佐多稲子月の宴』(講談社文芸文庫1991)所収の「『たけくらべ解釈へのひとつの疑問」*2「『たけくらべ解釈のその後」*3を参照されたい。もっとも佐多自身は、後者文章で、「私はこれを書きながら、前田愛さんに対して論争のつもりなどをしているのではない。それは前田さんの書かれた『美登利のために』が、優しく書かれているせいである。優しく、という云い方は単純になるけれど」(p.164)と書いてはいるが。

 佐多の短篇作品としては、「キャラメル工場から」のほか、「水」もよく知られるところだろう。教科書採用されたこともあるそうだ。文庫版だと、現在は品切になっているが、佐多稲子『女の宿』(講談社文芸文庫1990)に収録されている(pp.47-56)。

 この「水」について、立野幸雄越中文学の情景―富山の近・現代文学作品―』(桂書房2013)は、

本を読んでいると、その本に巡り会った喜びで何かに感謝したくなることがある。その作品が長くても短かくても問題ではない。「水」はそのような作品である文芸評論家奥野健男氏はこの作品を「一行一行に無限人間のかなしみ、生活の重さがこめられて、何百枚かの長編を読んだと同じ感銘を受ける」と激賞した。(pp.54-55)

と述べているし、また最近出た福田和也鏡花水上、万太郎』(キノブックス2017)も「私小説の路、主義者の道、みち、――佐多稲子*4の末尾で、「水」を「佐多の短篇作家としての腕前を存分に示し」た作品(p.183)であるとして、その内容を紹介している。

---

 佐多稲子には『私の東京地図』(講談社文芸文庫)という愛すべき短篇集があり、わたしは「挽歌」の章が特に好きなのだが、オリジナル選集の小沢信男『ぼくの東京全集』(ちくま文庫)に、この作品について述べた「佐多稲子東京地図」が収められている(pp.414-43)*5小沢氏はこれを角川文庫版で読んでいるようだ。

 『私の東京地図』も、角川文庫(1955刊)、講談社文庫(1972刊)、講談社文芸文庫(1989刊)、と装いをかえて何度も世に出ている。手許にあるのは、2011年刊の「講談社文芸文庫スタンダード」版。4度目の文庫版ということになる。(3.25追記)

年譜の行間 (中公文庫)

年譜の行間 (中公文庫)

夏の栞―中野重治をおくる― (講談社文芸文庫)

夏の栞―中野重治をおくる― (講談社文芸文庫)

灰色の午後 (講談社文芸文庫)

灰色の午後 (講談社文芸文庫)

近代読者の成立 (岩波現代文庫―文芸)

近代読者の成立 (岩波現代文庫―文芸)

女の宿 (講談社文芸文庫)

女の宿 (講談社文芸文庫)

越中文学の情景―富山の近・現代文学作品

越中文学の情景―富山の近・現代文学作品

鏡花、水上、万太郎

鏡花、水上、万太郎

私の東京地図 (講談社文芸文庫)

私の東京地図 (講談社文芸文庫)

ぼくの東京全集 (ちくま文庫)

ぼくの東京全集 (ちくま文庫)

*1:初出:1962.6「国語国文学」ほか

*2:初出:1985.5「群像

*3:初出:1985.8「學鐙」

*4:初出:「en-taxi」第25号

*5:初出:1978.11新日本文学

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2017-03-06 葦の髄から… このエントリーを含むブックマーク

 第1部第二章で紹介される『五十音和解』という本が気になって、内村和至『異形の念仏行者―もうひとつ日本精神史』(青土社2016)を読みはじめたのだが、誤記が少なくないのは残念なことである

 たとえばp.327の注(17)に「井筒彦」とあったり、同じく注(22)で竹村牧男氏の著作名が『日本仏教 思想み』(正しくは「思想あゆみ」)となっていたり。本文p.51では「蘇東披の『渓声便チ是長広舌、…』」云々とあって、「長広舌」の語がこの時代からあるのかと思って一寸吃驚したが、沖本克己角田恵理子『禅語の茶掛を読む辞典』(講談社学術文庫2017)を見てみると、やはり「渓声便ち是れ広長舌」(p.102)となっていて、引用ミスだとわかった。気づかれた方もあろうが、「蘇東披」というのも本文ママで、これは「蘇東」が正しい。

 また「水火木金土」とあるべき所が「水火金土」となっていたり(p.83)、翻刻部分の丁変わりで「と」字を脱していたりもする(p.85)。ほかに、p.63「逆に言え」、p.308の注(1)で挙げられる馬淵和夫(この「淵」も「渕」表記にすべきだろう)『五十音図の話』の刊行年が「一九三六」となっているのもひどい。

 まだ100ページ弱しか読んでいないが、これだけ誤記が多いのも珍しいように思う。むしろ次に出てくる誤記が気になってしまう。まあこれも一種の「職業病」なのかも知れないが……。

 馬渕氏の『五十音図の話』といえば、池澤夏樹個人編集による「日本文学全集」第30巻『日本語のために』(河出書房新社2016)に、松岡正剛「馬渕和夫『五十音図の話』について」(pp.261-68)が収められている。そうそうこれにも、「問題五十音図だけに絞っているのも効奏した」(p.267)とあって、「効奏」は、「奏効」もしくは「奏功」の誤だろうと思った。やはり職業病である 原文を見てみると、この箇所が消されて(?)いる。

 ちなみに、「功を奏する」(奏功)が正しく「効を奏する」(奏効)を誤りと断ずる辞書もあるが、実は「効を奏する」も誤りでないこと、石山茂利夫「『効を奏する』―日本語の中の漢語に残るあいまいさ」(『今様こくご辞書読売新聞社1998:77-82)等が述べるとおりである

---

 「一鴟/鴟鵂」に関連して。

 大内白月「粘り強い執着」(『支那典籍史談』昭森社1944)に、

 まあまあ酒に釣られたりなどして、門外不出の本でも貸す。一旦貸したら、屹度返されるものとは請合へない。「本というものは、貸すも一癡、遣るのも一癡、催促するのも一癡、還すのも一癡で、合計四癡になる。」とは、李正文の勘定。「貸さぬが一癡、還さぬが亦一癡」とは、劉祈の是正。何れにしても、自分の貸した本が返って來なければ、人情として胸にこだはりが結ぼれる。(p.149)

とあり。

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 「三上読書」に関連して。

 郝懿行著/松枝茂夫譯「廁で本を讀むこと」(『模糊集』*1生活社1945)に、

 『歸田録』*2に據れば、錢思公は平生讀書を好まれ、坐する時には經史を讀み、臥する時には小説を讀み、廁に上つた時には小詞を閲せられた。また宋公垂は廁に入るとき必ず本を抱へて行き、その諷誦の聲は琅々として遠近に聞えた、と謝希深も言つてゐる云々とある

 私はこれを讀んで甚だ可笑しなことだと思つた。廁に入つて褌を脱ぎ、手には又書物を持つてゐるとは、あまりにも穢いばかりでなく、又あまりにも忙(せは)しいことではなからうか。いかに篤學な人だつたにせよ、何もさうまでせずともよささうなものである

 歐公(『歸田録』の著者―原注)は更に謝希深の「平生作る所は多く三上に在り、乃ち馬上枕上廁上なり。」(「三上」に傍点引用者)といふ言葉を引いて、「蓋しこれらは思索を練るのに最もよい場所だといふ程の意味であらう。」と云つてゐられるが、むしろこの方がずつと心にくい言葉である。その心にくさは、ぴつたり當つてゐて少しも浮いたところのない點に在るのである。(pp.66-67)

とあり。

今様こくご辞書

今様こくご辞書

支那典籍史談 (1944年)

支那典籍史談 (1944年)

模糊集 (1944年)

模糊集 (1944年)

*1:書名は訳者の松枝による。『曬書堂筆録』からの抄録。

*2:欧陽脩の手になる。

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2017-02-26 尾形亀之助/松田甚次郎 このエントリーを含むブックマーク

 「詩」と云えば、どちらかというと漢詩を思い泛べてしまう様な身であるから散文詩に対してはあまり昵みがなかったのだけれど、最近わたし読書師匠のひとりKさん詩人でもある)が、近代から現代にかけての詩人とその作品とをたくさん教えてくださるので有難いことである

 たとえば、深尾贇之丞*1の「私の自叙傳」だったり、萩原恭次郎の『死刑宣告』だったり、左川ちかの全詩集のことだったり。

 このところ、Kさんにすすめられるがまま平田詩織『歌う人』を読むなどしていたのだが、そういう風に「詩歌づいて」いなければ、あるいは、尾形亀之助『美しい街』(夏葉社)を購ってまで読むことはしなかったかも知れない。「夏葉社の本」、と云うことで、手に取って見ることくらいはしていたのだろうけれども……。

 物思いに沈んで輾転反側していた或る深更、この『美しい街』に収められた「いつまでも寝ずにいると朝になる」「眼が見えない」「夜がさみしい」「夜」等といったごくごく短い詩になにげなく目を通していると、何故だかいたく心を動かされた。

 尾形の詩を読むのは初めてのことだったが、その名前は、宮澤賢治関係する人物、ということで記憶に留めていた。

 堀尾青史『年譜 宮澤賢治伝』(中公文庫1991)にその略歴が掲げられているので、次に引用して置こう。

 尾形(亀之助)は宮城県柴田郡大河原町まれ、生家は東北屈指の豪農だったので、家から金を出させたのである。小児喘息のため生涯苦しんだ。未来派画家として出発したが、一方詩を書き、やがて画は廃した。一九二五年十一月第一詩集『色ガラスの街』を出した。この出版記念会で草野心平しりあい『銅鑼』の同人となり賢治の『注文の多い料理店』を草野からすすめられた。それが『月曜』*2に「オツベルと象*3の発表される因縁である*4

 尾形は一九三二年仙台にうつった実家へ帰り市役所吏員となって、一九四二年十二月二日になくなった。『歴程』の一九三九年四月号に「宮澤賢治第六十回生誕祝賀会」という風変わりな随筆をのこしている。(pp.184-85)

 「風変わり」といえば、『美しい街』に収められた散文「泉ちゃんと猟坊へ」もまた随分風変わりだが、巻末エセー「明るい部屋にて」で能町みね子氏は、それを「私の生涯を左右する文章」と書き、そこに「私はたいへんな希望を見」た(p.168)、と述べている。

 『美しい街』は、あわせて収められた松本竣介の画も含めて、不思議な魅力をもった、じつに佇まいの美しい本である

---

 『年譜 宮澤賢治伝』には様々な人物が登場するが、なかで印象に残る者として、たとえば松田甚次郎が挙げられる。

 一九二七(昭和二)年、賢治三十一歳の三月八日の條に、松田は初めて登場する。

三月八日 盛岡高農農業別科生松田甚次郎が来訪。松田岩手日報*5によって協会の活動を知ったのである。十一時半賢治と会い教えを聞く。日記に「今日の喜ビヲ吾の幸福トスル宮澤君の誠心を吾人ハ心カラ取入ルノヲ得タ(中略)現代農村生活ヲ活カスノダ」云々と平かな片かな交りのメモがある。この時松田野菜スープとにぎりめしをごちそうになり、「小作人たれ。農村劇をやれ」といわれた。松田郷里山形県鳥越村に帰り、それを実行した。(p.260)

 同書は触れていないが、松田は後年、『宮澤賢治名作選』を編むことになる。

 少年時代にこの書物で賢治作品に親しんだことを記憶している人も少なからずあるようだ。

 その一人が、大岡信である

 ぼくはいま、超現実主義とか原言語かいう語を書きしるしながら、ふと宮沢賢治をおもい、その思いに誘われて、羽田書店版、松田甚次郎編の『宮沢賢治名作選』をとりだしてしばらくこれに読みふけったのだった。この名作選は、幼い日のぼくを宮沢賢治世界に導き入れてくれた懐かしい本なのだ。賢治を読もうと思うと、ぼくの手は、他の版にのびず、まずこの選集にのびる。「銀河鉄道の夜」などを落としているこの版は、必ずしも遺漏ない選集とはいえなかろうが、にもかかわらず、宮沢賢治世界、とりわけ童話世界へのぼくのかかわりにとっては、この楽譜写真の挿入された分厚い選集こそ、最も私的な、濃い思い出にみちた橋懸りでありつづけている。こういう経験は、他の多くの本についても多かれ少なかれあるといえばいえるのだが、とくに賢治に関してそれが強いというのは、ぼくには面白いことに思われる。本に対する一種神秘主義というものが、そこにいやおうなしに生じてくるのである

大岡信『肉眼の思想現代芸術意味中公文庫1979:138←中央公論社1969)

 山田俊雄も、またその一人なのであった。

 この二、三年の間、手許に置いておかうと思つてゐ古本がやつと手にはひつた。(略)

 さかのぼると、昭和十四年の昔のことになる。その本を、私は自分の小遣ひで買つて愛讀した記憶がある。旧制高等學校の一年の夏だつたか。(略)

 たまたまある日、ある古本屋カタログの中にその本のタイトル見出したのである

 見出して、すぐ私の感じたことは、意外にも、随分永い間探求してゐたやうな感じを覺えたことで、やつとめぐり遭へるかなといふやうな懐しさともどかしさがあつた。

 注文すると、幸ひに他人の手には渡つて居らず、私の書架に加へることになつた。しかし、その本は信州あたりとおぼしい中學校の圖書部の蔵書印の捺してある汚れたものだつた。その本の名は『宮澤賢治名作選』(松田甚次郎編、昭和十四年三月第一刷發行、羽田書店である

 奥附には、版権所有者の示す印として、丸の中に宮澤といふ二字を草書に刻んだ朱印が捺してあり、その傍に「印章は著者の自刻遺愛のもの」としてある。著作権者の檢印の、日本制度は、福澤諭吉に始つたものだといふが、昭和十四年頃も勿論旺(さか)んに行はれてゐたのである羽田書店の創立經営は、たしか代議士羽田孜君の父上武嗣郎氏だつたかと思ふ。(山田俊雄「永く忘れてゐ書物との再會」*6『忘れかけてゐ言葉三省堂2003:211-13)

 私が、夏葉社版の選集によって尾形の作品に初めて触れて感動したことも、なるほど、「一種神秘主義」に繋がる体験であったのにちがいない。

 尾形の詩は、本の質感やその手触りなどとともに深く印象されたわけで、後年また尾形の詩を読みたいとふと思ったとき、「この夏葉社版でなければならない」と、きっと考えることになるはずだ。

美しい街

美しい街

年譜 宮沢賢治伝 (中公文庫)

年譜 宮沢賢治伝 (中公文庫)

忘れかけてゐた言葉

忘れかけてゐた言葉

*1:名の訓みは、「うたのじょう」「ひろのすけ」「ひろのじょう」など諸説ある。「丞」は「亟」+「灬」が正確な表記だとの旨を示したサイトもあり、だとすると、「烝」と書くのが理にかなう様にも思うが、ここは一般的表記に従う。

*2:尾形の「自費出版編集」になる「随筆雑誌」。

*3:このタイトルの「読み方」については、「オツベルと象」(http://d.hatena.ne.jp/higonosuke/20070722)という記事で書いたことがあった。

*4:これが一九二六年、賢治三十歳の年の元日のことで、二月には同誌(第二号)に「ざしき童子のはなし」、三月(第三号)に「猫の事務所」を発表する(堀尾著p.185)。

*5:同年二月一日付夕刊三面。賢治が、花巻青年三十数人と「農村文化創造努力し、都市文化に対抗する一大復興運動を起こ」そうとしている(堀尾著p.259)、という趣旨記事

*6:初出は「花信風」(平成七年八月)。

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2017-02-22 三度目の『やちまた』 このエントリーを含むブックマーク

 このブログでは個人的事情をいちいち書き連ねることをなるべく控えているので、詳細は縷々述べないが、昨年12月初旬から三週間強、仕事がほとんど手につかず、本を1ページどころか一字も読めない深刻な状況に陥った。

 「本好き」を僭称するようになってから初めての危機的な一大事態であった。一時は、もしかするとこのさき一生本が読めなくなるのではなかろうか、このまま本ぎらいになってしまうのではないか、だとすれば本好きを名乗れなくなるからこのブログを続ける意義もなくなるし、いっそ閉鎖してしまおうか、という気持にさえなり、ますます自己嫌悪をおぼえた。

 しかし、そんな私を救ってくれたのもやはり本(そして映画)なのであった。たとえば森まゆみ氏が、つらい時期に道浦母都子『風の婚』が「私を救ってくれた」と記すように、私も書物のなかに「『自分に似た人』をさがし、生きる力を取り戻」しつつある(『読書休日晶文社1994:270-74)。

 とはいえ、漸く少しずつ読めるようになってからも、しばらくは、「ウェルテル」とか武者小路実篤人生論・愛について』とかいった類ばかり読んでいた。ウェルテルなんぞに手をのばしたのは、多感な高校時代以来のことである*1

 そうして、本がふたたび「心の支え」となって戻ってきてくれたばかりでなく、たくさんの人と積極的にお会いして色々な話をすることで、次第に心身が恢復して行ったように思う。これほど「生活者孤独」を味わわされた時期もかつてなかったが、その一方、かくまで多くの人たちの心の温かさに触れた時期もまたなかった。この間に、あらたに出会った人々は十数人にのぼる。交友関係も一気に広がった。しかし、そういう自分は、他の人たちに対して何事かをなしえたであろうか。我と我が身を振りかえり、大いに反省させられたことであった。

 まだ完全復活とまではいかないけれど、1月も中旬になってから、そろそろと長篇にも手をつけることが出来るようになった。自分自身勉強も、ほんの少しずつだが再開した。

 さてその長篇で、最初にえらんだのは、『ハリー・クバート事件』と『やちまた』と、小説以外では、『宇宙統一理論を求めて』と『意識本質』とである

 『やちまた』を読むのは、これで三度目である。初読・再読は河出書房新社単行本再版)によったが、今回は「中公文庫プレミアム」版で読んでいる(いま下巻の三分の一のあたりを読み進めているところ。以下の引用はこの文庫版に拠った)。

 さすがに三度目ともなると、細かい点にまで目が行く。たとえば並列の「と」。作中では、「文語調と口語調とを」(上巻p.161)、「写真と文とで」(下巻p.149)、「倦怠と不安とを」(同前)等のように、「AとBと」の後者の「と」を省かない。これは、「文法上ノ許容スベキ事項」(文部省告示明治三十八年十二月)の第十三條で、「語句を列挙する場合に用ゐるテニヲハの「ト」は誤解を生ぜざるときに限り最終の語句の下に之を省くも妨なし」と省略を許容されたものであるが、『やちまた』では唯一箇所、「遮莫とわたしはきれいに飲んでしまっていた」(上巻p.301)とその許容形が出て来る。河出書房単行本初版からこのようになっており、これは著者か編集サイドかのミスだろうと思う。

 文庫版は、口絵や図版を一切省いているのが残念だが、呉智英氏による巻末エセーを収める。さら足立巻一『人の世やちまた』から、「吉川幸次郎先生」を再録しているのがありがたい。

 以前、このブログで『やちまた』について書いたのは約2年前のこと(「『やちまた』二度目の文庫化」)で、さらに遡ると、約6年前、春庭の『詞通路』三冊を入手した直後にも書いている(「足立巻一『やちまた』」)。

 この6年のあいだに、足立巻一のほかの著作や、『やちまた』関連書を少しずつ入手している。まずは、伊藤正雄(『やちまた』の拝藤教授モデル)の『ごまめの歯ぎしり福澤諭吉とともに歩む―』(初音書房1972)をKの店頭で入手した。同人誌「笹」(神戸)に連載された「不文院漫筆」を主としているが、副題が示すように、福澤について書かれた文章を少なからず収める。

 ちなみに『やちまた』には、昭和二十二年春の伊藤の様子が次のごとく描かれている。

 別れぎわに、拝藤教授さらに意外なことばをもらした。近ごろは福沢諭吉おもしろく読んでいる、という。わたし教科書代わりに『福翁自伝』を使っただけに、この一致には内心驚き、そのことを申しあげた。

「そらいいです。遺憾ながら福沢を過去世界に葬り去るほど、ぼくたちはまだ進歩しとりません」

 教授は笑い、福沢が一生をつうじて真摯に念願し、努力したのは弱小国日本独立であり、いまの日本は福沢時代に逆転している、というようなことをボソボソ語った。

 それにしても、学生時代近世文学講義が耳についていて、福沢諭吉と拝藤教授とのとりあわせは奇妙であった。(下巻p.134)

 『ごまめの歯ぎしり』には、「本居春庭のこと―足立巻一君に―」(pp.79-80)という文章も収めてあり、これは足立に宛てた葉書文章足立企画したテレビ番組「本居春庭のこと」の感想)をそのまま「笹」に載せたもののようである。『やちまた』第十五章には葉書文章引用されており、上記のものとほとんど(「聞」「聴」の表記の違い等を除き)一致する(下巻pp.200-01)。

 そして、Nでは、本居春庭『詞の八衢』の木版を二種購った。

 一つは中本、すなわち美濃半截本で、刊年は不明。見返しに「浪華 前川文榮堂櫻」とある

 もう一つは(これを『詞の八衢』の異本に数えるのは苦しいが)『増補標註 詞の八衢』で、明治十三年刊。中本よりも若干大きい半紙本。鼇頭に、清水濱臣による増補、岡本保孝による標註が施されている。清水岡本の名は『やちまた』にも出て来る。

 『詞の八衢』に疑問をおこして徹底的な補正をはかったのは若狭の僧義門であったが、江戸の林圀雄ははじめて「下一段活用」を立てたし、富樫広蔭は分類を大成し、桑名黒沢翁満は「上二段」の名称最初に用いた。中島広足、清水浜臣、岡本保孝、八木立札、黒川春村、山田直温らも春庭説を修正したという。(上巻p.167)

 『やちまた』は、『詞の八衢』の木版本について次の如く述べる。

 春庭の主著三種については『本居春庭全集』の活字版で一応読了を果たせたが、それだけでは物足らず、あらためて木版本を買い集めた。

『詞の八衢』は文化五年が初刊であり、そののち同十三年、文政元年、弘化三年、慶応二年と四回も版を重ねており、わたしはそのうち二種を買ったが、奥づけに刊行年が刻んでないので、どのものともわかりかねる。

 その一つは大阪心斎橋安土町南入ル東側河内屋和助から出されたもので、美濃版の大きさで、「千種文庫蔵」の蔵書印が押してある。もう一つはその半截の体裁になっていて浪華の八重堂桜という書物所の刊行であり、これには「滋賀県師範学校」の蔵書印にかぶせて同校の消し印がななめに押されてある。(上巻pp.145-46)

 「浪華 八重堂桜」は、「浪華 前川文榮堂櫻」に似ているが、両者は何か関係が有るのだろうか。くわしいことは分からない。

 さらにNでは東秀三『足立巻一』(編集工房ノア1995)も買い、Yの店頭では、随分前に加藤秀俊氏がメールで御教示くださった足立巻一忍術』(平凡社1957)を見つけて入手した。これらの本については、いずれ述べる機会があろうかと思う。

 またこの間、『やちまた』を取り上げていた本としては、大竹たかし裁判官書架』(白水社2015)、荒川洋治過去もつ人』(みすず書房2016)が印象に残った。

 大竹著は、次の如く述べている。

 引っ越しでは、そのたびに愛着のある本が見つからなくなることがありますが、八回の引越しママ)に耐え、本棚の取り出しやすい場所を占め続けている本が、足立巻一『やちまた』(河出書房新社)です。(略)

 著者(足立巻一)は白江教授の授業から、春庭が、「この書を八衢と名づけたについては、おなじことばでもその働きざまによってどちらへもいくものであるから道にたとえたのだと述べている」と紹介します。この作品を読むたびに、時の流れの中で交錯する道を進んでいく人びとの生きる姿を怖いほどに目をこらして見つめる著者の視線に圧倒される思いがします。(pp.78-89)

 また荒川著は、次の如く書いている。

 長編評伝『やちまた』は一九七四年の刊行足立巻一(一九一三−一九八五)が残した内容の深い、特別な名作だ。多くの人に深い感動をもたらした。この日本に、このような著作が存在すること。それを知るしあわせを読む人は感じることだろう。(略)

 春庭に少しおくれて生まれ、『詞の八衢』を要約して、初学のために、とてもいい案内書を書いた人、春庭のことばを人知れず大切にした人など、それぞれにひとつの道を歩き通した人たちの姿は、影となり光となって、読む人の心に残ることだろう。足立巻一『やちまた』は、さまざまな一筋を描く。ことばが果てるまで描いていく。(「雨の中の道」pp.216-18)

 『やちまた』の文字を追っている間、たしかに私は読書の「しあわせ」を感じることができる。そして上記のような評にも心を動かされる。

 文庫で容易に入手がかなう今のうちに、出来るだけ多くの人がこの本に触れてほしい、と思う。

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 『裁判官書架』は、著者大竹氏の誠実さが行間からにじみ出て来るような好著で、これに触発されて読んだ本もある。

 たとえば、アーザル・ナフィーシー/市川恵里訳『テヘランロリータを読む』(白水社2006)。最近新装版が出たので、読むことがかなった。さら大竹氏の文章中で、同じ訳者によるアランベネット『やんごとなき読者』(白水社)が紹介されており、これも巧い具合に、できたばかりの古書新刊書店A*2の棚で見つけて購った。

 ちなみに大竹著は、原田國男『裁判非情人情』(岩波新書2017)の「裁判官が書いた本」冒頭で、

 最近、後輩の大竹たかしさんが『裁判官書架』という素晴らしい本を書かれた。彼は、大竹しのぶさんの兄のような名前のおかげで皆にすぐ名前を覚えてもらえたと自己紹介で言っていた。第一章でふれた兄弟間の相続事件*3を見事に解決した裁判官その人でもある。(p.135)

と紹介されている。

裁判官の書架

裁判官の書架

過去をもつ人

過去をもつ人

裁判の非情と人情 (岩波新書)

裁判の非情と人情 (岩波新書)

*1:そのほか、エーリヒ・ケストナー小松太郎訳『人生処方詩集』(岩波文庫2014)にも助けられた。ついでにいうと、同書巻末には富士川英郎小松太郎訳『人生処方詩集』」(『黒い風琴』小沢書店1984から転載)が附いていて、これが解説の役目を果している。

*2リブロで棚を作っていた方が始められたお店、といえば、わかる人はわかるだろう。

*3:詳細は同書を繙かれたい。

森 洋介森 洋介 2017/02/23 08:56  隱れた『やちまた』關聯書として、伊藤正雄『文章のすすめ ●後篇(言葉の智恵)――小言幸兵衛文筆談議[こごとこうべえふでのくりごと]――』(春秋社、一九七八年五月)を追加できます。その「四二 書評のコツ――読み手の食欲をそそるのが決め手――」末pp.201-204に、文例として著者による足立巻一『やちまた』評全文を轉載してゐますので。但し、足立が「昔の教え子」だとは述べるも、自分も同書中に「拝藤教授」の名で登場する人物である事實は默して觸れず。

higonosukehigonosuke 2017/02/25 01:20  御指教、まことにありがとう御座います。
 これまた全く存じませんでした。探書帖に加えておきます(お蔭をもちまして、あらたな愉しみが増えました)。主要な登場人物による『やちまた』評ということであれば、チェックしない訣にはゆきません。
 ときに、上では書き忘れましたが、足立が作中で「(伊藤が)長い学究生活の感懐をわたしあての手紙の形である雑誌に発表された」(下巻p.203)と述べて引用する文章(pp.203-05)も、『ごまめの歯ぎしり』に採録されていました(pp.58-63「一粒の麦―学界放浪児の弁ー」)。
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 そう云えば最近、呉智英氏がかつて(11年ほど前)某紙夕刊で『やちまた』について大略以下のようなことを書いていたのを見つけました。

 …若い人になにか面白い本はないかと訊かれたら、よく『やちまた』を薦める。しかしその人が『やちまた』を読み通せずに挫折した場合には、「君は健全だね」と言ってやることにしている。
 教養には危険な魅力がある。いま(11年前の当時)この本が品切れなのは、社会が健全であるということを象徴しているのかも知れない。…

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2016-11-28 『文章読本』 このエントリーを含むブックマーク

 文章はいっこう巧くならないが、文章読本の類を読むのは以前から好きである

 たとえば、斎藤美奈子文章読本さん江』は単行本刊行時に(どんな内容であるかも知らずに)飛びついたし、最近でも、岩淵悦太郎編著『悪文―伝わる文章作法』が文庫*1で出て、単行本を持っているはずなのに買い直したし、小谷野敦文章読本X』(中央公論新社2016)も「即買い」で、出張時の車中にて一気に読み了えた。

 その小谷野著で気になったところを挙げるなら、たとえば、

小説などの場合、人の動きを描写するには、「した」「来た」「買った」など、「た」が引き続いて文末に来ることが多く、読んでいるといかにも平板な感じがするため、小説家は、適宜、語り手の思考を挿入したり、現在形を使ってみたりして工夫を凝らした。つまり、「死体をすぐに処分しなかったのは、やはりためらわれたからであろう」といった具合である。(p.74)

という箇所がある*2。これは、小説家でも何でもないわたしでさえよく悩む問題である

 高校生の時分に、小説とも随筆もつかない文を書いた際、同級のH君に批評を求めたところ、「畳み掛けるような『〜た』の連続面白い」と言われ、多分それは彼なりの手厳しい批判だったと思うのだが、それ以後、文章ものするときは気を配るようにしている。

 中条省平氏は、『文章読本文豪に学ぶテクニック講座』(中公文庫2003)*3で、「統計を取ってみたわけではありませんが、鷗外は、文の『〜た』止めの割合もっとも低い作家の部類に属するのではない」か(p.20)と述べ、それに比べると「漱石は『〜た』止めを続けて使ってもあまり気にしないほうの作家」だ(p.26)と記している。そして、漱石それから』末尾の表現について、

それにしても、この「〜た」止めの連続は異常です。しかし、ここまで来ると、この「〜た」の過剰がやはり呪術的なリズムを刻み、代助の心象風景の極端なエスカレートぶりをがっちりと支える機能すら担っています。(p.26)

と書いているのだが、わたしのような素人が下手にこれを真似しようとすれば、火傷するだけである。やはり、「〜た」が過剰にならぬよう注意しておくに越したことはない。

 また小谷野氏は、小説を書くときに「〜と言った」が連続してしまうのを苦労する点として挙げたり(p.90)、伝記で「〜という」が連発するのに悩まされると述べたりしている(p.102)が、これも同様に「作文あるある」で、特に「〜という」などは、気をつけていないと、うっかり何度も使ってしまっていたりする。

 小谷野著では、谷崎作品について論じたくだりが最も面白かったが、それに関しては他日に譲るとして、次の話柄も印象に残った。

 人はかっこうをつけたがって、別に周知のことでもないものを、「周知のこと」と書きたがるものである。「人形浄瑠璃今日文楽と言うのは、明治時代大阪で植村文楽軒が文楽座という人形浄瑠璃小屋運営していたからであることは、今さら言うまでもない」といった類である。これは、国文学者が国文学相手に書く分にはいいようだが、逆に国文学者なら、それこそ言うまでもないから書かないだろう。言うまでもないなら書かなければいいのに、書いてしまうのが病である

「知れ切ったことだ」というのは小林秀雄のよく使っていた言葉だが、これも嫌味で、知れ切っているなら書かなければよいのである。概して、文藝評論のまねをしようとすると、文章は悪くなる。私は今でも、さすがに「周知のとおり」はやらないが、「言うまでもなく」は書きそうになってあわてて消すことがある。またこれに類する言い回しとして「を引くまでもなく」がある。(p.19)

 これを読んで、ふとおもい出したのは富士川英郎『鴟鵂庵閑話』(筑摩書房1977)。この随筆集はすこぶる面白いのだが、残念なことに、「言うまでもなく」の類の多用が読者を択んでしまっているような気もしたのである

 その一部を引くと、「『南翁』は言うまでもなく河南儀平のことであり」(p.7)、「(葛子琴が)浪華の混沌社中、切っての詩人であったことは周知の通りである」(p.30)、「(菊池五山が)江湖社の詩人たちのうちでの重鎮となったのは、周知のところだろう」(p.68)、「『剣南集』が陸放翁の詩集であることは言うまでもなかろう」(p.71)、「道真の『九月十日』という有名な詩の、『恩賜御衣今在此、捧持毎日拝余香』という転結の二句を踏まえていることは言うまでもない」(p.73)、「山陽の『論詩絶句』では、言うまでもなく…」(p.74)、「(山陽が如亭の遺稿集の)序文を書いていることは、周知のところだろう」(p.79)……、といった具合である

 小谷野著ではそのほか、「しかし」の多義性(pp.96-98)や「立ち上げる」(pp.160-61)など、言葉のものについて書かれたところもあるし、相変らず読書慾が刺戟される記述も多々あり、久しぶりで『細雪』を再読しはじめたり、志賀直哉の「焚火」を行きつけの古本屋で見つけて買ったりした(改造文庫版)のだった。

 さて、数多ある『文章読本』のなかでも、わたし特におすすめしたいのは、中村真一郎文章読本』(新潮文庫1982)だ。口語文の文体としての確立やその歴史概観するには恰好副読本となることだろう。最近、某先生がこの本を推薦されていたので、大いに意を強くしたものであった。元版は1975年文化出版局から刊行されたが、「文庫に入れるに際して、現在若い読者のために文例を増補し」た(p.214「あとがき」)とのことだから、どちらかというと文庫版を参照するほうがよかろう。また、吉行淳之介・選/日本ペンクラブ編『文章読本』(ランダムハウス講談社文庫2007)*4というアンソロジーには、中村著の「口語文の改革」第三節が入っている*5しかし、この「口語文の改革」よりも、「口語文の成立」「口語文の完成」「口語文の進展」の章を重点的に読むことをすすめたい。

 中村著の「口語文の成立」の章について、先に引いた中条著は、

 中村(真一郎)氏の卓見は、花袋、藤村などいわゆる自然主義流派対立する硯友社文学、とくに泉鏡花の、伝統的で、古風な、歌うような文語調を消化した文体なかに近代口語文のもうひとつ成熟のかたちを見出していることで、文学史を大胆に、原理的に簡略化しながら、こうした繊細な卓見さりげなく挿入しているところに、作者の感性の確かさがうかがわれます。(「文章読本の変遷」p.196)

と賞讃しているが、一方で、最終章口語文の改革」の第三節を「ほとんどやぶれかぶれの貼り混ぜアルバム」「後半のこの腰砕けぶりはかなり悲惨ものになって」いる(p.197)、などと酷評している。

 ちなみにいうと、須賀敦子中村版『文章読本』の一読をすすめていた。

某日某日

 丸谷才一文章読本』。中公文庫

 おなじような趣旨題名の本が半世紀にも満たないうちに、五冊も書かれることの異様さを、著者も指摘しているが、丸谷氏のものと、中村真一郎氏の本は、若い人たちにも読んでほしい。中村氏の『文章読本』の、とくに口語文の発展の経緯を述べた部分は、新鮮な指摘に満ちていて、文体史的『文章読本』として貴重である。(「読書日記」『須賀敦子全集 第4巻』河出文庫2007所収:495)

 この文章は、文庫版だと須賀の『塩一トンの読書』(河出文庫2014)pp.64-65でも読むことが出来る。

 ところで先日、中村著を読み返していると、「そこで私たち近代古典なかに、そのモデルを求めて、様々の模索あいだに、鷗外の戯曲に遭着しました」(p.75)とあるのに気付いた。「遭着」は「逢着」と同義だろうが、冷僻の字である。まだちゃんと調べていないけれど、元雑劇白話文等にしか出ない語だと思う。

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 「文体」といえば、「尾崎紅葉言文一致時代」という文章ここで書いたことがある。

文章読本X

文章読本X

文章読本―文豪に学ぶテクニック講座 (中公文庫)

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鴟〓@6EFA庵閑話 (1977年)

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文章読本 (新潮文庫)

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須賀敦子全集〈第4巻〉 (河出文庫)

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塩一トンの読書 (河出文庫)

塩一トンの読書 (河出文庫)

*1角川ソフィア文庫。『第三版 悪文』の文庫化

*2:なお小谷野氏は、「(伝記を書く際に―引用者)『た、た、た』と時系列で押し通した大谷(晃一)は、ある意味で偉い」(p.103)、とも書いている。

*3単行本朝日新聞社刊、2000年

*4:親本は、かつて福武文庫として出た(1988年刊)。

*5福永武彦『夜の寂しい顔』、島尾敏雄『月暈』、そして吉行自身の『暗室』の文例などが省いてある。

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