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2017-03-23 佐多稲子のこと このエントリーを含むブックマーク

 葉山嘉樹ほか『教科書で読む名作 セメント樽の中の手紙ほか―プロレタリア文学』(ちくま文庫2017)という昨年12月から刊行され始めたシリーズのうちの一冊に、佐多稲子処女作キャラメル工場から」が収められている(pp.33-58)。

 この作品は、青木文庫角川文庫表題作として収録されたこともあったようだが、文庫という形では長らく入手困難になっており、その後、久しぶりで紅野敏郎ほか編『日本近代短篇小説昭和篇1』(岩波文庫2012)に収められた。したがって、今回の文庫入りは約4年半ぶりということになろう。

 佐多の自伝『年譜の行間』(中公文庫1986)によると、

キャラメル工場から』も初めは八枚ぐらいの随筆のようなものでした。それを中野重治もっと長く、小説に書くようにと言って、それで小説にしたのです。(p.163)

という。この、元になった随筆も、中野のすすめで書いたようだ。佐多の『夏の栞―中野重治をおくる―』(講談社文芸文庫2010)には、

帰り際に中野が、窪川(佐多の夫。後に離婚引用者)に、と封書をおいて行ったのが、私のたびたび云う「キヤラメ工場から」を私に書かせるきっかけになるものだったのである。私は少し前に、これも中野から云われてだったとおもうが、「プロ芸」(「プロレタリア芸術」―引用者)編集部に、随筆を書いて渡していた。その随筆を、小説に書き直すようにとすすめた中野手紙がその封書であった。(p.88)

とある

 わたしは、昨春頃から佐多の文章をよく読むようになって、佐多と田村俊子宮本百合子らとの関係を描いた『灰色の午後』(講談社文芸文庫1999)を特におもしろく読んだのだが、古本屋で以前はよく見かけていたはずの『素足の娘』(新潮文庫)をなかなか見つけられず、また読書の中断期間を挟んだこともあり、少し遠ざかっていたところが、最近古書肆Sの店頭にその『素足の娘』を見出し(100円)、直後にA店頭でも見つけた(50円)ことを切っ掛けとして、再び佐多作品をちびちび読み始めている。読みながら、佐多研究者でもあるK先生蕎麦を奢っていただいて一緒に食べた日のことを懐かしく思い起すなどしていた(「私」と父親とが蕎麦を食う場面がある)。

 ところで、『灰色の午後』に次のような印象的なくだりがある。

この前九月半ばに行われた防空演習の夜、茶の間の電燈に遮蔽して、その下だけ光りの射す卓の上に岩波文庫里見八犬伝をおき、惣吉が音読をした。それを囲むようにして、折江と子ども二人の頭が揃っていた。そのときから半月すぎたばかりであった。あのとき惣吉は、燈火管制の下で馬琴を讀むというおもいつきに、表情まで改めたように自信深げであった。亮吉は卓の上に肩をのり出していた。節子は折江のそばに身体を寄せていた。惣吉は先ず、里見八犬伝の作者が、この書物を書く間に目が見えなくなって息子の嫁に口述をして筆記させたことなどから話しはじめた。表も暗かった。表の暗さに背を向けて馬琴を読むというわが家の籠もった空気は、心より密度を保っているかにおもわれた。(p.185)

 ここを読んでふと思い出したのが、前田愛音読から黙読へ―近代読者の成立」*1(『近代読者の成立』岩波現代文庫2001所収)である。そこにも、(時代こそ違うものの)山川均が少年の頃に、八犬伝を借りてきた父親が家じゅうの者にその読み聞かせをしていた、という証言が引かれている(p.168)。

 前田というと、前掲ちくま文庫の佐多のプロフィル欄に、「昭和六〇年に樋口一葉たけくらべ』の美登利をめぐって日本近代文学研究者前田愛相手に論争するなど終生活動的であった」(p.245)と記されている。

 この「論争」については、佐多稲子月の宴』(講談社文芸文庫1991)所収の「『たけくらべ解釈へのひとつの疑問」*2「『たけくらべ解釈のその後」*3を参照されたい。もっとも佐多自身は、後者文章で、「私はこれを書きながら、前田愛さんに対して論争のつもりなどをしているのではない。それは前田さんの書かれた『美登利のために』が、優しく書かれているせいである。優しく、という云い方は単純になるけれど」(p.164)と書いてはいるが。

 佐多の短篇作品としては、「キャラメル工場から」のほか、「水」もよく知られるところだろう。教科書採用されたこともあるそうだ。文庫版だと、現在は品切になっているが、佐多稲子『女の宿』(講談社文芸文庫1990)に収録されている(pp.47-56)。

 この「水」について、立野幸雄越中文学の情景―富山の近・現代文学作品―』(桂書房2013)は、

本を読んでいると、その本に巡り会った喜びで何かに感謝したくなることがある。その作品が長くても短かくても問題ではない。「水」はそのような作品である文芸評論家奥野健男氏はこの作品を「一行一行に無限人間のかなしみ、生活の重さがこめられて、何百枚かの長編を読んだと同じ感銘を受ける」と激賞した。(pp.54-55)

と述べているし、また最近出た福田和也鏡花水上、万太郎』(キノブックス2017)も「私小説の路、主義者の道、みち、――佐多稲子*4の末尾で、「水」を「佐多の短篇作家としての腕前を存分に示し」た作品(p.183)であるとして、その内容を紹介している。

年譜の行間 (中公文庫)

年譜の行間 (中公文庫)

夏の栞―中野重治をおくる― (講談社文芸文庫)

夏の栞―中野重治をおくる― (講談社文芸文庫)

灰色の午後 (講談社文芸文庫)

灰色の午後 (講談社文芸文庫)

近代読者の成立 (岩波現代文庫―文芸)

近代読者の成立 (岩波現代文庫―文芸)

女の宿 (講談社文芸文庫)

女の宿 (講談社文芸文庫)

越中文学の情景―富山の近・現代文学作品

越中文学の情景―富山の近・現代文学作品

鏡花、水上、万太郎

鏡花、水上、万太郎

*1:初出:1962.6「国語国文学」ほか

*2:初出:1985.5「群像

*3:初出:1985.8「學鐙」

*4:初出:「en-taxi」第25号

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2017-03-06 葦の髄から… このエントリーを含むブックマーク

 第1部第二章で紹介される『五十音和解』という本が気になって、内村和至『異形の念仏行者―もうひとつ日本精神史』(青土社2016)を読みはじめたのだが、誤記が少なくないのは残念なことである

 たとえばp.327の注(17)に「井筒彦」とあったり、同じく注(22)で竹村牧男氏の著作名が『日本仏教 思想み』(正しくは「思想あゆみ」)となっていたり。本文p.51では「蘇東披の『渓声便チ是長広舌、…』」云々とあって、「長広舌」の語がこの時代からあるのかと思って一寸吃驚したが、沖本克己角田恵理子『禅語の茶掛を読む辞典』(講談社学術文庫2017)を見てみると、やはり「渓声便ち是れ広長舌」(p.102)となっていて、引用ミスだとわかった。気づかれた方もあろうが、「蘇東披」というのも本文ママで、これは「蘇東」が正しい。

 また「水火木金土」とあるべき所が「水火金土」となっていたり(p.83)、翻刻部分の丁変わりで「と」字を脱していたりもする(p.85)。ほかに、p.63「逆に言え」、p.308の注(1)で挙げられる馬淵和夫(この「淵」も「渕」表記にすべきだろう)『五十音図の話』の刊行年が「一九三六」となっているのもひどい。

 まだ100ページ弱しか読んでいないが、これだけ誤記が多いのも珍しいように思う。むしろ次に出てくる誤記が気になってしまう。まあこれも一種の「職業病」なのかも知れないが……。

 馬渕氏の『五十音図の話』といえば、池澤夏樹個人編集による「日本文学全集」第30巻『日本語のために』(河出書房新社2016)に、松岡正剛「馬渕和夫『五十音図の話』について」(pp.261-68)が収められている。そうそうこれにも、「問題五十音図だけに絞っているのも効奏した」(p.267)とあって、「効奏」は、「奏効」もしくは「奏功」の誤だろうと思った。やはり職業病である 原文を見てみると、この箇所が消されて(?)いる。

 ちなみに、「功を奏する」(奏功)が正しく「効を奏する」(奏効)を誤りと断ずる辞書もあるが、実は「効を奏する」も誤りでないこと、石山茂利夫「『効を奏する』―日本語の中の漢語に残るあいまいさ」(『今様こくご辞書読売新聞社1998:77-82)等が述べるとおりである

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 「一鴟/鴟鵂」に関連して。

 大内白月「粘り強い執着」(『支那典籍史談』昭森社1944)に、

 まあまあ酒に釣られたりなどして、門外不出の本でも貸す。一旦貸したら、屹度返されるものとは請合へない。「本というものは、貸すも一癡、遣るのも一癡、催促するのも一癡、還すのも一癡で、合計四癡になる。」とは、李正文の勘定。「貸さぬが一癡、還さぬが亦一癡」とは、劉祈の是正。何れにしても、自分の貸した本が返って來なければ、人情として胸にこだはりが結ぼれる。(p.149)

とあり。

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 「三上読書」に関連して。

 郝懿行著/松枝茂夫譯「廁で本を讀むこと」(『模糊集』*1生活社1945)に、

 『歸田録』*2に據れば、錢思公は平生讀書を好まれ、坐する時には經史を讀み、臥する時には小説を讀み、廁に上つた時には小詞を閲せられた。また宋公垂は廁に入るとき必ず本を抱へて行き、その諷誦の聲は琅々として遠近に聞えた、と謝希深も言つてゐる云々とある

 私はこれを讀んで甚だ可笑しなことだと思つた。廁に入つて褌を脱ぎ、手には又書物を持つてゐるとは、あまりにも穢いばかりでなく、又あまりにも忙(せは)しいことではなからうか。いかに篤學な人だつたにせよ、何もさうまでせずともよささうなものである

 歐公(『歸田録』の著者―原注)は更に謝希深の「平生作る所は多く三上に在り、乃ち馬上枕上廁上なり。」(「三上」に傍点引用者)といふ言葉を引いて、「蓋しこれらは思索を練るのに最もよい場所だといふ程の意味であらう。」と云つてゐられるが、むしろこの方がずつと心にくい言葉である。その心にくさは、ぴつたり當つてゐて少しも浮いたところのない點に在るのである。(pp.66-67)

とあり。

今様こくご辞書

今様こくご辞書

支那典籍史談 (1944年)

支那典籍史談 (1944年)

模糊集 (1944年)

模糊集 (1944年)

*1:書名は訳者の松枝による。『曬書堂筆録』からの抄録。

*2:欧陽脩の手になる。

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2017-02-26 尾形亀之助/松田甚次郎 このエントリーを含むブックマーク

 「詩」と云えば、どちらかというと漢詩を思い泛べてしまう様な身であるから散文詩に対してはあまり昵みがなかったのだけれど、最近わたし読書師匠のひとりKさん詩人でもある)が、近代から現代にかけての詩人とその作品とをたくさん教えてくださるので有難いことである

 たとえば、深尾贇之丞*1の「私の自叙傳」だったり、萩原恭次郎の『死刑宣告』だったり、左川ちかの全詩集のことだったり。

 このところ、Kさんにすすめられるがまま平田詩織『歌う人』を読むなどしていたのだが、そういう風に「詩歌づいて」いなければ、あるいは、尾形亀之助『美しい街』(夏葉社)を購ってまで読むことはしなかったかも知れない。「夏葉社の本」、と云うことで、手に取って見ることくらいはしていたのだろうけれども……。

 物思いに沈んで輾転反側していた或る深更、この『美しい街』に収められた「いつまでも寝ずにいると朝になる」「眼が見えない」「夜がさみしい」「夜」等といったごくごく短い詩になにげなく目を通していると、何故だかいたく心を動かされた。

 尾形の詩を読むのは初めてのことだったが、その名前は、宮澤賢治関係する人物、ということで記憶に留めていた。

 堀尾青史『年譜 宮澤賢治伝』(中公文庫1991)にその略歴が掲げられているので、次に引用して置こう。

 尾形(亀之助)は宮城県柴田郡大河原町まれ、生家は東北屈指の豪農だったので、家から金を出させたのである。小児喘息のため生涯苦しんだ。未来派画家として出発したが、一方詩を書き、やがて画は廃した。一九二五年十一月第一詩集『色ガラスの街』を出した。この出版記念会で草野心平しりあい『銅鑼』の同人となり賢治の『注文の多い料理店』を草野からすすめられた。それが『月曜』*2に「オツベルと象*3の発表される因縁である*4

 尾形は一九三二年仙台にうつった実家へ帰り市役所吏員となって、一九四二年十二月二日になくなった。『歴程』の一九三九年四月号に「宮澤賢治第六十回生誕祝賀会」という風変わりな随筆をのこしている。(pp.184-85)

 「風変わり」といえば、『美しい街』に収められた散文「泉ちゃんと猟坊へ」もまた随分風変わりだが、巻末エセー「明るい部屋にて」で能町みね子氏は、それを「私の生涯を左右する文章」と書き、そこに「私はたいへんな希望を見」た(p.168)、と述べている。

 『美しい街』は、あわせて収められた松本竣介の画も含めて、不思議な魅力をもった、じつに佇まいの美しい本である

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 『年譜 宮澤賢治伝』には様々な人物が登場するが、なかで印象に残る者として、たとえば松田甚次郎が挙げられる。

 一九二七(昭和二)年、賢治三十一歳の三月八日の條に、松田は初めて登場する。

三月八日 盛岡高農農業別科生松田甚次郎が来訪。松田岩手日報*5によって協会の活動を知ったのである。十一時半賢治と会い教えを聞く。日記に「今日の喜ビヲ吾の幸福トスル宮澤君の誠心を吾人ハ心カラ取入ルノヲ得タ(中略)現代農村生活ヲ活カスノダ」云々と平かな片かな交りのメモがある。この時松田野菜スープとにぎりめしをごちそうになり、「小作人たれ。農村劇をやれ」といわれた。松田郷里山形県鳥越村に帰り、それを実行した。(p.260)

 同書は触れていないが、松田は後年、『宮澤賢治名作選』を編むことになる。

 少年時代にこの書物で賢治作品に親しんだことを記憶している人も少なからずあるようだ。

 その一人が、大岡信である

 ぼくはいま、超現実主義とか原言語かいう語を書きしるしながら、ふと宮沢賢治をおもい、その思いに誘われて、羽田書店版、松田甚次郎編の『宮沢賢治名作選』をとりだしてしばらくこれに読みふけったのだった。この名作選は、幼い日のぼくを宮沢賢治世界に導き入れてくれた懐かしい本なのだ。賢治を読もうと思うと、ぼくの手は、他の版にのびず、まずこの選集にのびる。「銀河鉄道の夜」などを落としているこの版は、必ずしも遺漏ない選集とはいえなかろうが、にもかかわらず、宮沢賢治世界、とりわけ童話世界へのぼくのかかわりにとっては、この楽譜写真の挿入された分厚い選集こそ、最も私的な、濃い思い出にみちた橋懸りでありつづけている。こういう経験は、他の多くの本についても多かれ少なかれあるといえばいえるのだが、とくに賢治に関してそれが強いというのは、ぼくには面白いことに思われる。本に対する一種神秘主義というものが、そこにいやおうなしに生じてくるのである

大岡信『肉眼の思想現代芸術意味中公文庫1979:138←中央公論社1969)

 山田俊雄も、またその一人なのであった。

 この二、三年の間、手許に置いておかうと思つてゐ古本がやつと手にはひつた。(略)

 さかのぼると、昭和十四年の昔のことになる。その本を、私は自分の小遣ひで買つて愛讀した記憶がある。旧制高等學校の一年の夏だつたか。(略)

 たまたまある日、ある古本屋カタログの中にその本のタイトル見出したのである

 見出して、すぐ私の感じたことは、意外にも、随分永い間探求してゐたやうな感じを覺えたことで、やつとめぐり遭へるかなといふやうな懐しさともどかしさがあつた。

 注文すると、幸ひに他人の手には渡つて居らず、私の書架に加へることになつた。しかし、その本は信州あたりとおぼしい中學校の圖書部の蔵書印の捺してある汚れたものだつた。その本の名は『宮澤賢治名作選』(松田甚次郎編、昭和十四年三月第一刷發行、羽田書店である

 奥附には、版権所有者の示す印として、丸の中に宮澤といふ二字を草書に刻んだ朱印が捺してあり、その傍に「印章は著者の自刻遺愛のもの」としてある。著作権者の檢印の、日本制度は、福澤諭吉に始つたものだといふが、昭和十四年頃も勿論旺(さか)んに行はれてゐたのである羽田書店の創立經営は、たしか代議士羽田孜君の父上武嗣郎氏だつたかと思ふ。(山田俊雄「永く忘れてゐ書物との再會」*6『忘れかけてゐ言葉三省堂2003:211-13)

 私が、夏葉社版の選集によって尾形の作品に初めて触れて感動したことも、なるほど、「一種神秘主義」に繋がる体験であったのにちがいない。

 尾形の詩は、本の質感やその手触りなどとともに深く印象されたわけで、後年また尾形の詩を読みたいとふと思ったとき、「この夏葉社版でなければならない」と、きっと考えることになるはずだ。

美しい街

美しい街

年譜 宮沢賢治伝 (中公文庫)

年譜 宮沢賢治伝 (中公文庫)

忘れかけてゐた言葉

忘れかけてゐた言葉

*1:名の訓みは、「うたのじょう」「ひろのすけ」「ひろのじょう」など諸説ある。「丞」は「亟」+「灬」が正確な表記だとの旨を示したサイトもあり、だとすると、「烝」と書くのが理にかなう様にも思うが、ここは一般的表記に従う。

*2:尾形の「自費出版編集」になる「随筆雑誌」。

*3:このタイトルの「読み方」については、「オツベルと象」(http://d.hatena.ne.jp/higonosuke/20070722)という記事で書いたことがあった。

*4:これが一九二六年、賢治三十歳の年の元日のことで、二月には同誌(第二号)に「ざしき童子のはなし」、三月(第三号)に「猫の事務所」を発表する(堀尾著p.185)。

*5:同年二月一日付夕刊三面。賢治が、花巻青年三十数人と「農村文化創造努力し、都市文化に対抗する一大復興運動を起こ」そうとしている(堀尾著p.259)、という趣旨記事

*6:初出は「花信風」(平成七年八月)。

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2017-02-22 三度目の『やちまた』 このエントリーを含むブックマーク

 このブログでは個人的事情をいちいち書き連ねることをなるべく控えているので、詳細は縷々述べないが、昨年12月初旬から三週間強、仕事がほとんど手につかず、本を1ページどころか一字も読めない深刻な状況に陥った。

 「本好き」を僭称するようになってから初めての危機的な一大事態であった。一時は、もしかするとこのさき一生本が読めなくなるのではなかろうか、このまま本ぎらいになってしまうのではないか、だとすれば本好きを名乗れなくなるからこのブログを続ける意義もなくなるし、いっそ閉鎖してしまおうか、という気持にさえなり、ますます自己嫌悪をおぼえた。

 しかし、そんな私を救ってくれたのもやはり本(そして映画)なのであった。たとえば森まゆみ氏が、つらい時期に道浦母都子『風の婚』が「私を救ってくれた」と記すように、私も書物のなかに「『自分に似た人』をさがし、生きる力を取り戻」しつつある(『読書休日晶文社1994:270-74)。

 とはいえ、漸く少しずつ読めるようになってからも、しばらくは、「ウェルテル」とか武者小路実篤人生論・愛について』とかいった類ばかり読んでいた。ウェルテルなんぞに手をのばしたのは、多感な高校時代以来のことである*1

 そうして、本がふたたび「心の支え」となって戻ってきてくれたばかりでなく、たくさんの人と積極的にお会いして色々な話をすることで、次第に心身が恢復して行ったように思う。これほど「生活者孤独」を味わわされた時期もかつてなかったが、その一方、かくまで多くの人たちの心の温かさに触れた時期もまたなかった。この間に、あらたに出会った人々は十数人にのぼる。交友関係も一気に広がった。しかし、そういう自分は、他の人たちに対して何事かをなしえたであろうか。我と我が身を振りかえり、大いに反省させられたことであった。

 まだ完全復活とまではいかないけれど、1月も中旬になってから、そろそろと長篇にも手をつけることが出来るようになった。自分自身勉強も、ほんの少しずつだが再開した。

 さてその長篇で、最初にえらんだのは、『ハリー・クバート事件』と『やちまた』と、小説以外では、『宇宙統一理論を求めて』と『意識本質』とである

 『やちまた』を読むのは、これで三度目である。初読・再読は河出書房新社単行本再版)によったが、今回は「中公文庫プレミアム」版で読んでいる(いま下巻の三分の一のあたりを読み進めているところ。以下の引用はこの文庫版に拠った)。

 さすがに三度目ともなると、細かい点にまで目が行く。たとえば並列の「と」。作中では、「文語調と口語調とを」(上巻p.161)、「写真と文とで」(下巻p.149)、「倦怠と不安とを」(同前)等のように、「AとBと」の後者の「と」を省かない。これは、「文法上ノ許容スベキ事項」(文部省告示明治三十八年十二月)の第十三條で、「語句を列挙する場合に用ゐるテニヲハの「ト」は誤解を生ぜざるときに限り最終の語句の下に之を省くも妨なし」と省略を許容されたものであるが、『やちまた』では唯一箇所、「遮莫とわたしはきれいに飲んでしまっていた」(上巻p.301)とその許容形が出て来る。河出書房単行本初版からこのようになっており、これは著者か編集サイドかのミスだろうと思う。

 文庫版は、口絵や図版を一切省いているのが残念だが、呉智英氏による巻末エセーを収める。さら足立巻一『人の世やちまた』から、「吉川幸次郎先生」を再録しているのがありがたい。

 以前、このブログで『やちまた』について書いたのは約2年前のこと(「『やちまた』二度目の文庫化」)で、さらに遡ると、約6年前、春庭の『詞通路』三冊を入手した直後にも書いている(「足立巻一『やちまた』」)。

 この6年のあいだに、足立巻一のほかの著作や、『やちまた』関連書を少しずつ入手している。まずは、伊藤正雄(『やちまた』の拝藤教授モデル)の『ごまめの歯ぎしり福澤諭吉とともに歩む―』(初音書房1972)をKの店頭で入手した。同人誌「笹」(神戸)に連載された「不文院漫筆」を主としているが、副題が示すように、福澤について書かれた文章を少なからず収める。

 ちなみに『やちまた』には、昭和二十二年春の伊藤の様子が次のごとく描かれている。

 別れぎわに、拝藤教授さらに意外なことばをもらした。近ごろは福沢諭吉おもしろく読んでいる、という。わたし教科書代わりに『福翁自伝』を使っただけに、この一致には内心驚き、そのことを申しあげた。

「そらいいです。遺憾ながら福沢を過去世界に葬り去るほど、ぼくたちはまだ進歩しとりません」

 教授は笑い、福沢が一生をつうじて真摯に念願し、努力したのは弱小国日本独立であり、いまの日本は福沢時代に逆転している、というようなことをボソボソ語った。

 それにしても、学生時代近世文学講義が耳についていて、福沢諭吉と拝藤教授とのとりあわせは奇妙であった。(下巻p.134)

 『ごまめの歯ぎしり』には、「本居春庭のこと―足立巻一君に―」(pp.79-80)という文章も収めてあり、これは足立に宛てた葉書文章足立企画したテレビ番組「本居春庭のこと」の感想)をそのまま「笹」に載せたもののようである。『やちまた』第十五章には葉書文章引用されており、上記のものとほとんど(「聞」「聴」の表記の違い等を除き)一致する(下巻pp.200-01)。

 そして、Nでは、本居春庭『詞の八衢』の木版を二種購った。

 一つは中本、すなわち美濃半截本で、刊年は不明。見返しに「浪華 前川文榮堂櫻」とある

 もう一つは(これを『詞の八衢』の異本に数えるのは苦しいが)『増補標註 詞の八衢』で、明治十三年刊。中本よりも若干大きい半紙本。鼇頭に、清水濱臣による増補、岡本保孝による標註が施されている。清水岡本の名は『やちまた』にも出て来る。

 『詞の八衢』に疑問をおこして徹底的な補正をはかったのは若狭の僧義門であったが、江戸の林圀雄ははじめて「下一段活用」を立てたし、富樫広蔭は分類を大成し、桑名黒沢翁満は「上二段」の名称最初に用いた。中島広足、清水浜臣、岡本保孝、八木立札、黒川春村、山田直温らも春庭説を修正したという。(上巻p.167)

 『やちまた』は、『詞の八衢』の木版本について次の如く述べる。

 春庭の主著三種については『本居春庭全集』の活字版で一応読了を果たせたが、それだけでは物足らず、あらためて木版本を買い集めた。

『詞の八衢』は文化五年が初刊であり、そののち同十三年、文政元年、弘化三年、慶応二年と四回も版を重ねており、わたしはそのうち二種を買ったが、奥づけに刊行年が刻んでないので、どのものともわかりかねる。

 その一つは大阪心斎橋安土町南入ル東側河内屋和助から出されたもので、美濃版の大きさで、「千種文庫蔵」の蔵書印が押してある。もう一つはその半截の体裁になっていて浪華の八重堂桜という書物所の刊行であり、これには「滋賀県師範学校」の蔵書印にかぶせて同校の消し印がななめに押されてある。(上巻pp.145-46)

 「浪華 八重堂桜」は、「浪華 前川文榮堂櫻」に似ているが、両者は何か関係が有るのだろうか。くわしいことは分からない。

 さらにNでは東秀三『足立巻一』(編集工房ノア1995)も買い、Yの店頭では、随分前に加藤秀俊氏がメールで御教示くださった足立巻一忍術』(平凡社1957)を見つけて入手した。これらの本については、いずれ述べる機会があろうかと思う。

 またこの間、『やちまた』を取り上げていた本としては、大竹たかし裁判官書架』(白水社2015)、荒川洋治過去もつ人』(みすず書房2016)が印象に残った。

 大竹著は、次の如く述べている。

 引っ越しでは、そのたびに愛着のある本が見つからなくなることがありますが、八回の引越しママ)に耐え、本棚の取り出しやすい場所を占め続けている本が、足立巻一『やちまた』(河出書房新社)です。(略)

 著者(足立巻一)は白江教授の授業から、春庭が、「この書を八衢と名づけたについては、おなじことばでもその働きざまによってどちらへもいくものであるから道にたとえたのだと述べている」と紹介します。この作品を読むたびに、時の流れの中で交錯する道を進んでいく人びとの生きる姿を怖いほどに目をこらして見つめる著者の視線に圧倒される思いがします。(pp.78-89)

 また荒川著は、次の如く書いている。

 長編評伝『やちまた』は一九七四年の刊行足立巻一(一九一三−一九八五)が残した内容の深い、特別な名作だ。多くの人に深い感動をもたらした。この日本に、このような著作が存在すること。それを知るしあわせを読む人は感じることだろう。(略)

 春庭に少しおくれて生まれ、『詞の八衢』を要約して、初学のために、とてもいい案内書を書いた人、春庭のことばを人知れず大切にした人など、それぞれにひとつの道を歩き通した人たちの姿は、影となり光となって、読む人の心に残ることだろう。足立巻一『やちまた』は、さまざまな一筋を描く。ことばが果てるまで描いていく。(「雨の中の道」pp.216-18)

 『やちまた』の文字を追っている間、たしかに私は読書の「しあわせ」を感じることができる。そして上記のような評にも心を動かされる。

 文庫で容易に入手がかなう今のうちに、出来るだけ多くの人がこの本に触れてほしい、と思う。

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 『裁判官書架』は、著者大竹氏の誠実さが行間からにじみ出て来るような好著で、これに触発されて読んだ本もある。

 たとえば、アーザル・ナフィーシー/市川恵里訳『テヘランロリータを読む』(白水社2006)。最近新装版が出たので、読むことがかなった。さら大竹氏の文章中で、同じ訳者によるアランベネット『やんごとなき読者』(白水社)が紹介されており、これも巧い具合に、できたばかりの古書新刊書店A*2の棚で見つけて購った。

 ちなみに大竹著は、原田國男『裁判非情人情』(岩波新書2017)の「裁判官が書いた本」冒頭で、

 最近、後輩の大竹たかしさんが『裁判官書架』という素晴らしい本を書かれた。彼は、大竹しのぶさんの兄のような名前のおかげで皆にすぐ名前を覚えてもらえたと自己紹介で言っていた。第一章でふれた兄弟間の相続事件*3を見事に解決した裁判官その人でもある。(p.135)

と紹介されている。

裁判官の書架

裁判官の書架

過去をもつ人

過去をもつ人

裁判の非情と人情 (岩波新書)

裁判の非情と人情 (岩波新書)

*1:そのほか、エーリヒ・ケストナー小松太郎訳『人生処方詩集』(岩波文庫2014)にも助けられた。ついでにいうと、同書巻末には富士川英郎小松太郎訳『人生処方詩集』」(『黒い風琴』小沢書店1984から転載)が附いていて、これが解説の役目を果している。

*2リブロで棚を作っていた方が始められたお店、といえば、わかる人はわかるだろう。

*3:詳細は同書を繙かれたい。

森 洋介森 洋介 2017/02/23 08:56  隱れた『やちまた』關聯書として、伊藤正雄『文章のすすめ ●後篇(言葉の智恵)――小言幸兵衛文筆談議[こごとこうべえふでのくりごと]――』(春秋社、一九七八年五月)を追加できます。その「四二 書評のコツ――読み手の食欲をそそるのが決め手――」末pp.201-204に、文例として著者による足立巻一『やちまた』評全文を轉載してゐますので。但し、足立が「昔の教え子」だとは述べるも、自分も同書中に「拝藤教授」の名で登場する人物である事實は默して觸れず。

higonosukehigonosuke 2017/02/25 01:20  御指教、まことにありがとう御座います。
 これまた全く存じませんでした。探書帖に加えておきます(お蔭をもちまして、あらたな愉しみが増えました)。主要な登場人物による『やちまた』評ということであれば、チェックしない訣にはゆきません。
 ときに、上では書き忘れましたが、足立が作中で「(伊藤が)長い学究生活の感懐をわたしあての手紙の形である雑誌に発表された」(下巻p.203)と述べて引用する文章(pp.203-05)も、『ごまめの歯ぎしり』に採録されていました(pp.58-63「一粒の麦―学界放浪児の弁ー」)。
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 そう云えば最近、呉智英氏がかつて(11年ほど前)某紙夕刊で『やちまた』について大略以下のようなことを書いていたのを見つけました。

 …若い人になにか面白い本はないかと訊かれたら、よく『やちまた』を薦める。しかしその人が『やちまた』を読み通せずに挫折した場合には、「君は健全だね」と言ってやることにしている。
 教養には危険な魅力がある。いま(11年前の当時)この本が品切れなのは、社会が健全であるということを象徴しているのかも知れない。…

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2016-11-28 『文章読本』 このエントリーを含むブックマーク

 文章はいっこう巧くならないが、文章読本の類を読むのは以前から好きである

 たとえば、斎藤美奈子文章読本さん江』は単行本刊行時に(どんな内容であるかも知らずに)飛びついたし、最近でも、岩淵悦太郎編著『悪文―伝わる文章作法』が文庫*1で出て、単行本を持っているはずなのに買い直したし、小谷野敦文章読本X』(中央公論新社2016)も「即買い」で、出張時の車中にて一気に読み了えた。

 その小谷野著で気になったところを挙げるなら、たとえば、

小説などの場合、人の動きを描写するには、「した」「来た」「買った」など、「た」が引き続いて文末に来ることが多く、読んでいるといかにも平板な感じがするため、小説家は、適宜、語り手の思考を挿入したり、現在形を使ってみたりして工夫を凝らした。つまり、「死体をすぐに処分しなかったのは、やはりためらわれたからであろう」といった具合である。(p.74)

という箇所がある*2。これは、小説家でも何でもないわたしでさえよく悩む問題である

 高校生の時分に、小説とも随筆もつかない文を書いた際、同級のH君に批評を求めたところ、「畳み掛けるような『〜た』の連続面白い」と言われ、多分それは彼なりの手厳しい批判だったと思うのだが、それ以後、文章ものするときは気を配るようにしている。

 中条省平氏は、『文章読本文豪に学ぶテクニック講座』(中公文庫2003)*3で、「統計を取ってみたわけではありませんが、鷗外は、文の『〜た』止めの割合もっとも低い作家の部類に属するのではない」か(p.20)と述べ、それに比べると「漱石は『〜た』止めを続けて使ってもあまり気にしないほうの作家」だ(p.26)と記している。そして、漱石それから』末尾の表現について、

それにしても、この「〜た」止めの連続は異常です。しかし、ここまで来ると、この「〜た」の過剰がやはり呪術的なリズムを刻み、代助の心象風景の極端なエスカレートぶりをがっちりと支える機能すら担っています。(p.26)

と書いているのだが、わたしのような素人が下手にこれを真似しようとすれば、火傷するだけである。やはり、「〜た」が過剰にならぬよう注意しておくに越したことはない。

 また小谷野氏は、小説を書くときに「〜と言った」が連続してしまうのを苦労する点として挙げたり(p.90)、伝記で「〜という」が連発するのに悩まされると述べたりしている(p.102)が、これも同様に「作文あるある」で、特に「〜という」などは、気をつけていないと、うっかり何度も使ってしまっていたりする。

 小谷野著では、谷崎作品について論じたくだりが最も面白かったが、それに関しては他日に譲るとして、次の話柄も印象に残った。

 人はかっこうをつけたがって、別に周知のことでもないものを、「周知のこと」と書きたがるものである。「人形浄瑠璃今日文楽と言うのは、明治時代大阪で植村文楽軒が文楽座という人形浄瑠璃小屋運営していたからであることは、今さら言うまでもない」といった類である。これは、国文学者が国文学相手に書く分にはいいようだが、逆に国文学者なら、それこそ言うまでもないから書かないだろう。言うまでもないなら書かなければいいのに、書いてしまうのが病である

「知れ切ったことだ」というのは小林秀雄のよく使っていた言葉だが、これも嫌味で、知れ切っているなら書かなければよいのである。概して、文藝評論のまねをしようとすると、文章は悪くなる。私は今でも、さすがに「周知のとおり」はやらないが、「言うまでもなく」は書きそうになってあわてて消すことがある。またこれに類する言い回しとして「を引くまでもなく」がある。(p.19)

 これを読んで、ふとおもい出したのは富士川英郎『鴟鵂庵閑話』(筑摩書房1977)。この随筆集はすこぶる面白いのだが、残念なことに、「言うまでもなく」の類の多用が読者を択んでしまっているような気もしたのである

 その一部を引くと、「『南翁』は言うまでもなく河南儀平のことであり」(p.7)、「(葛子琴が)浪華の混沌社中、切っての詩人であったことは周知の通りである」(p.30)、「(菊池五山が)江湖社の詩人たちのうちでの重鎮となったのは、周知のところだろう」(p.68)、「『剣南集』が陸放翁の詩集であることは言うまでもなかろう」(p.71)、「道真の『九月十日』という有名な詩の、『恩賜御衣今在此、捧持毎日拝余香』という転結の二句を踏まえていることは言うまでもない」(p.73)、「山陽の『論詩絶句』では、言うまでもなく…」(p.74)、「(山陽が如亭の遺稿集の)序文を書いていることは、周知のところだろう」(p.79)……、といった具合である

 小谷野著ではそのほか、「しかし」の多義性(pp.96-98)や「立ち上げる」(pp.160-61)など、言葉のものについて書かれたところもあるし、相変らず読書慾が刺戟される記述も多々あり、久しぶりで『細雪』を再読しはじめたり、志賀直哉の「焚火」を行きつけの古本屋で見つけて買ったりした(改造文庫版)のだった。

 さて、数多ある『文章読本』のなかでも、わたし特におすすめしたいのは、中村真一郎文章読本』(新潮文庫1982)だ。口語文の文体としての確立やその歴史概観するには恰好副読本となることだろう。最近、某先生がこの本を推薦されていたので、大いに意を強くしたものであった。元版は1975年文化出版局から刊行されたが、「文庫に入れるに際して、現在若い読者のために文例を増補し」た(p.214「あとがき」)とのことだから、どちらかというと文庫版を参照するほうがよかろう。また、吉行淳之介・選/日本ペンクラブ編『文章読本』(ランダムハウス講談社文庫2007)*4というアンソロジーには、中村著の「口語文の改革」第三節が入っている*5しかし、この「口語文の改革」よりも、「口語文の成立」「口語文の完成」「口語文の進展」の章を重点的に読むことをすすめたい。

 中村著の「口語文の成立」の章について、先に引いた中条著は、

 中村(真一郎)氏の卓見は、花袋、藤村などいわゆる自然主義流派対立する硯友社文学、とくに泉鏡花の、伝統的で、古風な、歌うような文語調を消化した文体なかに近代口語文のもうひとつ成熟のかたちを見出していることで、文学史を大胆に、原理的に簡略化しながら、こうした繊細な卓見さりげなく挿入しているところに、作者の感性の確かさがうかがわれます。(「文章読本の変遷」p.196)

と賞讃しているが、一方で、最終章口語文の改革」の第三節を「ほとんどやぶれかぶれの貼り混ぜアルバム」「後半のこの腰砕けぶりはかなり悲惨ものになって」いる(p.197)、などと酷評している。

 ちなみにいうと、須賀敦子中村版『文章読本』の一読をすすめていた。

某日某日

 丸谷才一文章読本』。中公文庫

 おなじような趣旨題名の本が半世紀にも満たないうちに、五冊も書かれることの異様さを、著者も指摘しているが、丸谷氏のものと、中村真一郎氏の本は、若い人たちにも読んでほしい。中村氏の『文章読本』の、とくに口語文の発展の経緯を述べた部分は、新鮮な指摘に満ちていて、文体史的『文章読本』として貴重である。(「読書日記」『須賀敦子全集 第4巻』河出文庫2007所収:495)

 この文章は、文庫版だと須賀の『塩一トンの読書』(河出文庫2014)pp.64-65でも読むことが出来る。

 ところで先日、中村著を読み返していると、「そこで私たち近代古典なかに、そのモデルを求めて、様々の模索あいだに、鷗外の戯曲に遭着しました」(p.75)とあるのに気付いた。「遭着」は「逢着」と同義だろうが、冷僻の字である。まだちゃんと調べていないけれど、元雑劇白話文等にしか出ない語だと思う。

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 「文体」といえば、「尾崎紅葉言文一致時代」という文章ここで書いたことがある。

文章読本X

文章読本X

文章読本―文豪に学ぶテクニック講座 (中公文庫)

文章読本―文豪に学ぶテクニック講座 (中公文庫)

鴟〓@6EFA庵閑話 (1977年)

鴟〓@6EFA庵閑話 (1977年)

文章読本 (新潮文庫)

文章読本 (新潮文庫)

須賀敦子全集〈第4巻〉 (河出文庫)

須賀敦子全集〈第4巻〉 (河出文庫)

塩一トンの読書 (河出文庫)

塩一トンの読書 (河出文庫)

*1角川ソフィア文庫。『第三版 悪文』の文庫化

*2:なお小谷野氏は、「(伝記を書く際に―引用者)『た、た、た』と時系列で押し通した大谷(晃一)は、ある意味で偉い」(p.103)、とも書いている。

*3単行本朝日新聞社刊、2000年

*4:親本は、かつて福武文庫として出た(1988年刊)。

*5福永武彦『夜の寂しい顔』、島尾敏雄『月暈』、そして吉行自身の『暗室』の文例などが省いてある。

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2016-11-13 「鸚鵡石」、あるいは誤植の話など このエントリーを含むブックマーク

 高橋輝次編著『増補版 誤植読本』(ちくま文庫2013)に「かづの」なる誤植(というか誤記)があることは、以前ここに書いたとおり。同書にはそのほか、堀江敏幸氏の文庫解説「誤って植えられた種」に句点の重複があったりする(p.294)のだが*1、それはいいとして、このアンソロジーには、対話形式森鷗外「鸚鵡石(序に代うる対話)」が収められている(pp.176-89)。

 「鸚鵡石」は、「おうむいし」と読むよりも「おうむせき」と読んでおくほうがよいかもしれない。というのは、山田俊雄『詞苑間歩 下』(三省堂1999)に、「(日本国語大辞典が)『あうむせき』の讀みには、實証が多いことを報告してゐるのは、かへつて江戸時代に『あうむいし』の實在したことを疑はしめる手がかりになる」(「鸚鵡石」*2p.114)とあるからで、山田氏は、「不用意に言はれる、『あうむいし』の讀みが、私にとつては耳障りに聞えて來る」(同)とも述べている。柳瀬尚紀氏(今年亡くなった)との対談『ことば談義 寐ても寤ても』(岩波書店2003)にも、「鸚鵡石」に「おうむせき」と態々ルビを振っている箇所がある(p.63)。

 さて鷗外の「鸚鵡石」は、斎藤茂吉「鷗外全集校正寸言」(『増補版 誤植読本』所収pp.190-93)に、

鷗外先生校正は非常にやかましかった人であり、「三田文学」の外国文学の紹介文中の洋語誤植を気にせられて、ドイツ語自分校正してやっていいと云われたほどであり、また、スバル」に載った、「鸚鵡石」のごとき対話もあるのだから、…(p.190)

と紹介されているように、初出は「昴」である

 初出誌を確認したことはないが、「序に代うる対話」なる副題は初出時からあったわけではなく、大町桂月・佐伯常麿共著『机上寶典 誤用便覽』(春秋社書店1911)に「序」として収められた際に附された。

 これはなにも私の推測などではなくて、山田俊雄氏がそう書いている。

 「鸚鵡石(対話)」という一篇は、はじめ明治四十二年五月、その年創刊された「昴(すばる)」の第五号に掲げられたが、すぐ後に大町桂月佐々木常麿両人編の『机上宝典誤用便覧』という書物序文に、再度の用を務めたものである。鷗外全集には、その後の方の姿で「鸚鵡石」(序に代ふる対話)という題で収められた。(「『訣』を用いるわけ」*3『詞林逍遥角川書店1983:116-17

 『誤植読本』は、鷗外全集に拠ったために、上のようなタイトルになっているという“訣”である

 ところで、『誤植読本』と『誤用便覽』との二つの「鸚鵡石」を較べてみると、いきなり「僕は初からあんな物出板したくはなかった」(『誤植読本』所収)、「僕は初からあんな物出板したくはなかつた」(『誤用便覽』所収)という相違が見つかる。

 また、「嘘字」(『誤植読本』)は「譃字」をそのように直したものかと思ったけれど、これは原文のとおりだった。なぜそう考えたかといえば、『誤用便覽』に、

うそ――譃、嘘

嘘は「ふく」「うそぶく」と訓ずる字、正文章軌範、韓文公の雜説下に「龍嘘氣爲雲」云々とあり、吹嘘と熟していきを吹くの義、轉じて相助くるの意ともなる、この字に「うそ」といふ義はなく、正しくは譃(音はク若しくはコにしてキヨに非ず)とすべきであるが、併し口扁に虚の字形から意味をとつて、これを「うそ」と訓ずるやうになつたのである。(p.48)

とあったからだ。

 しかも、鷗外とひとまわり違う文人でも「譃」の方を好んで使う者がある。

譃ですよ。仲田君よりもっと下手なのですよ(武者小路実篤友情』上十二,岩波文庫改版p.42)

両方本当ともいえるし、両方とも譃ともいえるでしょう(同 上二十一pp.70-71)

譃がつけない点ではお互にまけないまでも。(同 上三十二,p.117)

あなたは譃つきです。本当に譃つきよ。(同 下五,p.133)

 山田俊雄氏は、鷗外のこの「嘘字」について――「譃」「噓」の相違には言及していないが――、「鸚鵡石」の文中での意味は「字畫をいい加減にする嘘字のことではな」く「『誤用文字』のことである」(「嘘字」『詞苑間歩 続』三省堂2005:68)、と書いている。事実、鷗外(というか作中の「主人」)が例として挙げるのが、「身に染む」を「沁む」と書いたり、「中有に迷ふ」を「宙宇に迷ふ」としたりする類である

 「鸚鵡石」には、「音便形」の仮名づかいに言及したくだりも有る。当該部を引くと次のようである

主人。 (校正刷を机の側に積んである書籍の間より出す。)これを見てくれ給へ。一番澤山ある此の「申す」といふ字なんぞを見給へ。これが雜誌には皆「まをす」とルビの振つてあるのを、僕が「まうす」と直して遣つたのだ。それを初校に皆「まをす」にしてゐる。又直して遣つても、再校にも直つてゐないで、この通(とほり)「まうすは聊へんなる樣存候」と冷かして書いてあるのだ。

客。 はゝゝゝ。成程これは妙ですなあ。併し先生が「まうす」に直しなすつたのは、どういふわけですか。

主人。 どういふわけも何もない。僕だつて「まをす」が誤でない事は知つてゐる。知つてゐるどころではない。明治になつてから「まをす」を不斷使ふやうに復活させたのは、多分僕だらうと思ふ位だ。國民新聞なんぞへ、和文らしい文章でいろんなものを書いた頃は、友達が「まをす」は可笑しいと云つて冷かしたものだ。併し談話のものに「まをす」と書かれると、どうも心持が惡い。祝詞(のりと)を讀むときは、今でも「まーをーす」とはつきり讀むのだ。僕はあれを思ひ出す。談話には誰だつてあんな事を言ふものはない。「もおす」と發音するではないか。音便で「まうす」と書くのが當前だ。他の例を考へて見給へ。箒は「ははき」だ。併し談話體には「はうき」と書いてもらひたいのだ。「ほうかむり」(頰冠)を「ほほかぶり」と書かれては溜らない。果して樂文館が一切の音便を排斥するのなら、何故(なぜ)「いうて聞せて下さりませ」といふ白(せりふ)を其儘植字するのだ。「いひて聞せて」と直さなければならない筈ではないか。(森林太郎「鸚鵡石(序に代ふる對話)」『机上寶典 誤用便覽』pp.9-11

 鷗外が地の文と「談話體」とを区別しているところが興味深いが、この手のものは、いわゆる「ハ行四段」に現れ易い。「×会ふて ○会うて(<会ひて)」「×追ふて ○追うて(<追ひて)」「×思ふて ○思うて(<思ひて)」「×添ふて ○添うて(<添ひて)」などである

 門井慶喜『東京帝大叡古教授』(小学館文庫2016)には、「食ふて」の仮名遣いを指摘する場面が出て来る。

クフテ(食ふて)という表記は誤りであり、正しくは、

「クウテ(食うて)」

 となるべきだったのだ。

 なぜならこの語は「食ふ」と「て」に分けられるが、このうち「食ふ」はハ行四段活用動詞であり、(略)そのつぎの「て」は助詞、つねに動詞連用形にくっつくから、ここは本来ならば、

「食ひて」

 とならねばならないところなのだ

「すなわち『食ひて』が正則である。まずこのことを念頭に置くのだ、藤太」

 ところがこの電報文章場合、そこへさらに、

「ウ音便」

 と呼ばれる現象がはたらいている。発音しやすいよう或る種の語尾が「ウ」になってしまう、音韻同化現象だ。(略)

「注意すべきは、このウ音便というやつ、あくまでも発音上の現象だということだ。動詞活用という根本的かつ組織的な語形変化――いわゆる狭義の文法――とは基本的に何の関係もなし。したがって文字うつすに当たっても、活用のハ行にとらわれることなく、発音をそのまま書き取るのが正しい態度ということになる」

 よふやった、有り難ふ、という表記が誤りであるように、食ふてが誤りである所以である。それが叡古教授結論だった。(pp.197-99)

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 高橋輝次『増補版 誤植読本』(ちくま文庫2013)の元版は、2000年7月刊の『誤植読本』(東京書籍である。この元版が出た翌年の五月に、高橋氏は「校正者の出てくる小説」(「道標」五一八号)というエッセイを書いており(のち『古本古本を呼ぶ』青弓社2002に収む)、そこで和田芳恵「祝煙」、佐多稲子祝辞」、船山馨「善人伝」、河内仙介行間さん」の四篇の小説と、小宮豊隆随筆誤植」とを新たに紹介している。

 このうち小宮豊隆誤植」は『増補版 誤植読本』に収められ*4和田芳恵「祝煙」、佐多稲子祝辞」、河内仙介行間さん」の三篇は、高橋輝次編著『誤植文学アンソロジー校正者のいる風景』(論創社2015)に収められた*5

 元版にも増補版にもある稲垣達郎「誤記誤植、校訂」は、筑摩書房版『角鹿の蟹』から採られている。その末尾に、

 それにつけても、本文校訂というものは、なかなかむずかしいものだ。〈あきらかな誤植〉などと判断して手を加えると、筆者の意にそむくさかしらに陥ることもあり得るのである。(筑摩書房版p.108)

とあるのは考えさせられる。たとえば山下浩『本文(ほんもん)の生態学漱石・鷗外・芥川―』(日本エディタースクール出版部1993)に、そのような「さかしら」の具体例が示されているので参照されたい。

 ちょっと慾をいうと、稲垣の「誤植でないことば―あるいは、「格」のありなし」(『角鹿の蟹』pp.257-64*6)も、『誤植文学アンソロジー』で新たに採ってくれたらよかった。もっとも、この随筆は、「誤植」そのものを扱ったというよりも、「言葉とがめ」の観があるが…。

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 長谷川鑛平『本と校正』(中公新書1965)の「鷗外、校正子を叱る」(pp.70-74)に、「鸚鵡石」が紹介されている。「まをす」云々のくだりも、pp.71-72に引かれている。(11月28日追記)

増補版 誤植読本 (ちくま文庫)

増補版 誤植読本 (ちくま文庫)

詞林逍遥

詞林逍遥

詞苑間歩―移る時代・変ることば〈上〉

詞苑間歩―移る時代・変ることば〈上〉

詞苑間歩―移る時代・変ることば〈下〉

詞苑間歩―移る時代・変ることば〈下〉

詞苑間歩―移る時代・変ることば 続

詞苑間歩―移る時代・変ることば 続

ことば談義 寐ても寤ても

ことば談義 寐ても寤ても

誤用便覧

誤用便覧

友情 (岩波文庫)

友情 (岩波文庫)

東京帝大叡古教授 (小学館文庫)

東京帝大叡古教授 (小学館文庫)

古本が古本を呼ぶ―編集者の書棚

古本が古本を呼ぶ―編集者の書棚

角鹿の蟹 (1980年)

角鹿の蟹 (1980年)

*1:ついでにいうと、大岡信校正とは交差することと見つけたり」に「藤堂明保氏の学研版漢和大辞典」(p.96)とあるのは、原文ママなのかな。

*2:初出は「木語」平成三年六月号。

*3:初出は「木語」昭和五十七年二月号。のち『詞苑間歩(上)』(三省堂1999)pp.94-98に、旧仮名遣い(一部旧字)に改めて収録。

*4:そのほか「誤植」(林真理子)、「粟か栗か」(坪内稔典)、「「ろ」と「る」について」(佐多稲子)、「誤植」(多田道太郎)、「誤植の憾み」(十川信介)の五篇が増補された。

*5:奥付に「大屋幸世氏と連絡がとれませんでした」とあるのに吃驚。なぜといって、大屋氏は最近も『小辞典探索’75〜’05』や『百円均一本蒐集日誌』などを「大屋幸世叢刊」という叢書名で刊行日本古書通信社刊)していたので…。

*6:初出は「群像」一九六七年三月号。

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2016-10-28 辻邦生『嵯峨野明月記』 このエントリーを含むブックマーク

 「舌」をつかって何かを「見分ける」能力をもった人物といえば、辻邦生嵯峨野明月記』に出てくる「経師屋の宗二」(紙師宗二)もそうだった。

宗二は何かを見分けようとするとき、紙でも木ぎれでも、かならず舌先でなめてみるのである。まるでその味を吟味してでもいるように、眼をつぶり、しばらくなめてから、これはどこそこの紙だとか、この木ぎれは何の木だとか言いあてるのだった。そしてそれが不思議によくあたった。のちに、宗二が経師の職をついで、備中伯耆美作あたりの紙を扱うようになると、紙を舌先にあてただけで、それがどこの、誰の手ですかれたものか、ぴたりと言いあてるようになり、おれの店にくる紙商人などは「宗二殿の舌にかかると、夏にすいたか、冬にすいたかまでわかるんですからね。かないませんな」と言っていたほどだ。(中公文庫1990:224-25)

 文中の「おれ」は俵屋宗達。『嵯峨野明月記』には三人の語り手が登場し、「一の声」が「私」(本阿弥光悦)、「二の声」が「おれ」(宗達)、「三の声」が「わたし」(角倉与一=素庵)、ということになっている。

 この作品は、「嵯峨本(光悦本)」をテーマにした小説であるが(嵯峨本が主題となる作品としては、ほかに梶山季之せどり男爵数奇譚』の第一話「色模様一気通貫」が有る)、作者の辻邦生は、これを書きあげるにあたって相当な苦労をしたようだ。

 辻の日記メモの抜萃である『モンマルトル日記』(集英社文庫1979)には、そのあたりの経緯が生々しく描かれている。一部を引く。

十月十六日(水)*1

…いま『嵯峨野明月記』にあっては共同で仕事を企てながらも、結局は各人は、どうしようもない孤独からのがれられぬことが語られてゆく。このどうしようもない深淵をどうやって耐え、のりこえるのか。しかしのりこえられない。その人間悲劇問題なのである。(p.9)

十月十八日(金)

 ここずっと『嵯峨野明月記』の素材を調べている。前によんだものを読みなおし、表に書きいれ、幅の広いひろがりを持たせる Base をつくっている。これも書きだせば一挙にすすむだろう。『嵯峨野明月記』を三百枚の予定ではじめたのは、自分ではまだこうしたドラマ視点が残っていると思っていたからだが、すでに加筆のあいだに視点が変っていて、さて『嵯峨野明月記』にとりかかると、個々のエピソードたっぷりとうたわせてゆくため、はじめの予定枚数では全体の三分の一も進まないという結果になったのだと思う。(p.14)

十月二十九日(火)

 今朝おきぬけに堀田(善衛)さんからパリに来ているので連絡してほしいとの手紙。『嵯峨野明月記』のはじめの部分を読みかえし、手を入れ、前編を読みかえしたりしたら、どうもあとが見おとりして、困ったと思った。前のは、たしかに異常な集中力で書いているので全体がおそろしく animer しているが、今かいているところは、いやに気どっていて、この生命感がなくなっているような感じがする。もっと美的ものに近づいてゆくところだから仕方ないとしても、これでは困る。あとで手を入れようとして前へ進もうとするが、どうも気力がない。今日は少し動揺している。(p.42)

十二月一日(日)曇

 とうとう『嵯峨野明月記』持ちこして十二月になった。こんなに書けないとは夢にも思わなかったので、一向に勉強がすすまないのと相俟って、やや消耗した。しかしなんとしてもここで挑戦しなければならないので、今後は一切の問題を切って専念すること。(p.94)

十二月十一日(水)

…『嵯峨野明月記』いよいよすすまず、困った。(p.99)

十二月二十日(金)曇 異常な暖かさ

 昨日までで『嵯峨野明月記』の細かい覚書をとる。

 論文ではないので、知的に展開するのではない。あくまで「情感」を流出させてゆく。この点で、現代小説の流れと対立する。しかしそれが本道なのだ。これを守りぬくことだ。「情感」の支えとなる出来事を展開する。そこでは非対象化される。「感じ」だけが主語となる。(pp.108-09)

十二月三十一日(ママ曜日なし)

 とうとう『嵯峨野明月記』ができあがらないまま一九六八年も終りとなる。(p.122)

一月六日 フェート・デ・ロワ

 ようやく、ようやく、『嵯峨野明月記』がすすみだした。この調子をうしないたくない。あまりにもこの五ヶ月つらかった。…『嵯峨野明月記』は三天才嵯峨本をめぐるドラマを通して、滅びと永遠という主題を書こうとしている。そしてその主題を支え現前させてくれるのは本能寺の変であり、町々のにぎわいであり、関ケ原の役であり、大坂夏の陣である。(pp.132-35)

五月十日

 問題は、ぼくが、時代なり、風俗なりを、なんら詩的よろこびを感じないのに、対象化した点にある。そこから説明的な、愚劣さが生じた。『嵯峨野明月記』後半の誤りと苦しさはそこにある。(p.191)

五月十六日

 『嵯峨野明月記』の中断は、時代風俗コピーしようというかかる誤りによって生みだされたものだ。(p.195)

 『嵯峨野明月記』の執筆中断や、執筆に至る過程については、夫人の辻佐保子氏も言及している。長くなるが引く。

 三人の登場人物独白を長短さまざまに繋ぎあわせた『嵯峨野明月記』(新潮社中公文庫)は、やはり一時中断したのちに、後半を執筆している。しかし、その本質や成立までの状況には、『天草の雅歌』の場合とはまた別の複雑な経験が積み重なっている。戦中、戦後にかけての「日本的もの」をめぐる忌避感は、この世代の人にしかもはや追想できないだろう。留学中にパリで開かれた日本美術展ではじめて「鳥獣戯画」を見て、ようやくその種の禁忌から解放されたとはいえ、帰国後もなかなか素直には「祖国を愛する」気持になれなかった。そのころのある日、京都での障屏画の調査に同行したおり、水尾比呂志さん(大学での私の同級生)の定宿に一緒に泊めていただいたことがある。(略)そのおりに見た藁葺家屋を描いた宗達の扇面画と、水尾さんの著書『デザイナー誕生』で展開される扇面構図のみごとな分析が引き金となって、しだいに宗達世界に引き込まれていったのだろう。しばらくのちに宗達展で「蔦の細道」を見て、(略)はじめて魂を震撼されたようである。(略)二人ともまだ暇だったそのころは、年末になるとゴム版の年賀状を彫り、藤枝静男さんにいただいた陶製のハンコを押し、ていねいに墨をすって宛名を書いたりしていた。そんな些細な仕事の楽しみも、料紙の共同制作にあたった宗達や光悦の気持を想像する手掛かりになったに違いない。

 学問家業に引き裂かれて悩む角倉素庵を登場させたのは、大学卒業後の進路に迷ったころの重苦しい気分の投影でもあろうが、林屋辰三郎先生の古い著書を東大図書館でみつけてから、「これでやっと全体を支える骨格ができた」と言って喜んでいた。職人気質から創造者へとそれぞれ飛躍してゆく二人の登場人物だけでは、現実世界の苛酷なメカニズム海外貿易運河開削)を十分には捉えきれないからである

 単行本が完成*2してから、まず最初に林屋先生のお宅にご挨拶にうかがい、それから素庵や光悦のお墓にお礼参りしたことを思いだす。(以下略

 『嵯峨野明月記』は、旧制高校のおりの恩師、狂言研究家であった古川先生に捧げられている。それは、先生が岳父から譲られた「嵯峨本」を大切に秘蔵されており、学生時代に一度だけ見せていただいたことがあったかである。このように遠い昔の記憶映像までが、ふとしたきっかから呼び覚まされ、他のさまざまな偶然の要素と絡まりあいながら、最終的にひとつ作品へと凝集してゆく不思議さは、書き手意志を超えた魔術としか言いようがない。(『「たえず書く人」辻邦生暮らして』*3中公文庫2011:pp.37-39)

 『嵯峨野明月記』は、同時代の三人の思想が「嵯峨本」という藝術に「凝集」されるゆくたてが描かれる。ラストでは藝術の永遠性が称揚される。

 これと同様に、ある一冊の書物をめぐって、「滅びと永遠」(辻邦生)なる主題について描いた作品としては、萩耿介『イモータル』(中公文庫2014)*4が挙げられるだろう。

 もっとも、この作品の語り手たちは、国も時代背景も全く異にはしている。しかし、特に「第四章 信頼」に出てくるシコーの苦悩は、上記の素庵の苦悩とも響き合うものがあるように思う。『イモータル』を面白く読んだ人には、(もし未読なら)『嵯峨野明月記』をすすめたい。

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 今夏の「春の戴冠・嵯峨野明月記」展(ミニ展示。於学習院大史料館)へは、残念ながら行けなかったが、学習院大は定期的に辻のミニ展示を行っているし、生誕百年(だいぶ先だが2025年)には回顧展が予定されている由なので、楽しみにしておこう。

嵯峨野明月記 (中公文庫)

嵯峨野明月記 (中公文庫)

モンマルトル日記 (1979年) (集英社文庫)

モンマルトル日記 (1979年) (集英社文庫)

「たえず書く人」辻邦生と暮らして (中公文庫)

「たえず書く人」辻邦生と暮らして (中公文庫)

イモータル (中公文庫)

イモータル (中公文庫)

*11968年

*21971年のこと。

*3:「辻邦生全集」(新潮社)の月報に書かれた文章をまとめたもの

*4:『不滅の書』(中央公論新社2012)を改題、改稿したもの

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2016-10-04 門井慶喜作品を読む このエントリーを含むブックマーク

 門井慶喜作品中の人物たちは、しばしば「舌を出す」。

…隆彦が二度うなずくと、志織はちょっと舌を出し、…

(「図書館ではお静かに」『おさがしの本は』光文社文庫2011:50)

「それ以前に就職ですね。私の場合

 郁太は舌を出した。(『小説あります』光文社文庫2014:303)

「残念でした」敬典は舌を出して見せた。(「人形の部屋」『人形の部屋』創元推理文庫*12014:19)

「言い忘れてた」敬典は舌を出した。(同上:75)

 三郎は舌を出し、こめかみを掻いた。(『この世にひとつの本』創元推理文庫2015:12

 幽嶺はちらりと舌を出した。(同上:290)

 それこそ、清張が「唇の 厚い/うすい 男/女」を作中のそこここに登場させたほどの頻度で出て来るのだが、大の大人が、実際に「舌を出してみせる」というのは、人前ではほとんどしない行為であるだろう。誤解をおそれずに言えば、これは戯画的な表現であるとさえいえる。してみれば、これらは作者が意図的に鏤めた描写なのかもしれない。しか門井作品では、「舌」が重要な器官となる場合が多い。美術探偵シリーズ主人公・神永美有みゆう)は「舌」で美術作品の真贋を見分けるという設定だし、『こちら警視庁美術犯罪捜査班』(光文社文庫2016)には「仏像なめる」という一篇があって、「なめるとしょっぱい味がする仏像」が出て来る。

 門井作品にはこの他にも、「舌打ちをする」「こめかみを掻く」「目をしばたたく」など、クリシエといっても過言ではない表現が、現代小説時代小説を問わず頻出するのだが、それらもやはり、作者がそのつど故意に用いているように思える。

 また、門井作品を読んでいて面白く思うのが、丸括弧の使い方である

 もっとも豪気にすれば、これは、

(したくてしたくて、たまらなかった)

 行為でもある。(「てのひらのロダン」『こちら警視庁美術犯罪捜査班』:62)

 しかしこんな遠大な理想は、この場にはあまりにも、

(ふさわしくない)

 ということも、俊輔は冷静に判断していた。(『シュンスケ!』角川文庫2016:320)

 いま家康の命を受ければ、その先にあるのは、あきらかに、

(この世の誰もが、まだ見ぬ風景

 それを見たい、という以外になかった。(『家康江戸を建てる』祥伝社2016:116)

 門井作品の、(特に時代小説について、改行の仕方などに司馬遼太郎作品からの影響がうかがえる、と評した人もあったが、私は、少なくとも上記のような丸括弧の用法についていえば、池波正太郎作品に影響を受けたものと考える。

 こころみに池波の『真田太平記』のうちの一冊を披いてみると、

…角兵衛は子供心に、

自分は、御方さまから、たよりにされている……)

 ことを直感したのである。(『真田太平記 第二巻 秘密新潮文庫2005改版:145)

 しかし、そのつぎに、源二郎信繁がいい出た言葉は佐平次にとって、

(おもいもおよばぬこと……)

 であった。(同上p.319)

…佐平次などの想像をこえた親族の成り立ちがあることを、

(おれは知った……)

 のであった。(同上p.327)

などと、類似表現が見つかる。これらはいわば、「括弧によって文法的な破格や不整合表現さえ可能にさせる例」で、かつて藤田保幸氏が、池波の『剣客商売』を例にとりながら言及したものである*2藤田氏は、池波作品の、

 三浦金太郎は「助勢はしない」といったそうだが、しかし、村垣が念のために別手の刺客をさし向けることも考えられる。

(そのような卑怯なまねをするのだったら、わしが出てもよい)

 のであった。(池波正太郎剣客商売』)

という例などを引き、「こうしたカギカッコ使用は、統語的には無理な表現を、当該部分が実はどこかにあった誰かのコトバを引いたものだという情報を付加することで強引に読ませるものである」、と述べている。

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 門井作品は、まだ全部読んだわけではないが、とりわけ私の気に入っているのは、ブッキッシュな興味をかきたててやまない*3『おさがしの本は』である。「日常の謎」系の作品だが、主人公はやがて図書館の存廃をかけて行政機関対峙することになる。

 その連作小説の一篇、「図書館滅ぶべし」は、外来語喃語が絡んで来る、という内容の作品である

 主人公・和久山隆彦の思考が別な方向へと逸れて行ってしまうのを、読者はハラハラながら見守るわけだが、伏線もあることだし、会話の内容からも、大体「答え」は見えてくる。

 作品中には、外来語喃語関係では、実在する三冊の本が登場する。一冊めは吉沢典男・石綿敏雄『外来語語源』(角川書店1979)、二冊めは斎藤静『日本語に及ぼしたオランダ語の影響』(東北学院大学1967)、三冊めは桐谷滋編『ことばの獲得』(ミネルヴァ書房1999)。

 『外来語語源』は「角川小辞典シリーズの一冊。二冊めはちょっと触れられるだけだが、三冊めは主に小島祥三「声からことばへ」が参照される。

 欲をいえば、/N/ が両脣音の直前にくると音声的には[m]となることにも作中で触れて欲しかった、とは思うが、それは望蜀の嘆だろうか。

 また、「謎」の根幹に関わる部分なので、やや「ネタばれ」めいてしまうが、次のようなくだりが有る。

 「ひとつめは『餡』をアンと読むことについて。もちろん『餡』の字そのもの一世紀の漢字渡来と同時期にわが国に存在したと見ていいんですが、ただし当初は、おそらくカンとかコンとかいうふうに読まれていました。アンはその後のわりあい新しい時期に日本に定着した、いわゆる唐音(とうおん)なんですね」

 「唐音?」

 「はい。胡乱(うろん)とか、行燈あんどん)とかと同じ系統の読み。この種の音のなかには極端な場合江戸時代に定着したものもあるため注意が必要なんですが、この場合はだいじょうぶです。私のこの箇条書きでいう2に該当する恐れはない。なぜなら『餡』の字は、近世以前にはもうアンと読まれていたことが『日葡(にっぽ)辞書』という資料により確実だからです。『日葡辞書』というのは」(「図書館滅ぶべし」pp.164-65)

 まず「唐音」の読みは、明治以降「トウイン」又は「トウオン」となったのであって、近世までは、通例「タウイン」「トウイン」と読まれていた。湯沢質幸氏によると、「トウオン」の出現は、「ゴオン(呉音)」「カンオン(漢音)」の類推であるかという。

 次に「江戸時代に定着したもの」というのは、「近世唐音」のことであって、唐音は大きくいって「中世唐音」「近世唐音」に分けられる。いずれも重層性を有するが、その特徴についてはここでは省略に従う。

 文中に挙げられた「ウロン」「アンドン」は、大槻文彦の『言海』にそれぞれ「字ノ廣東音ナリト云」「字ノ宋音」との注釈みえ、「カンパン(甲板)」や「トン(榻)」などに附された「字ノ唐音」との注(すなわち「唐音語」)とは区別されているかの如くである*4。ただし、「唐音語」という術語を無批判に使うことも問題があろう。詳しくは岡島昭浩氏の「唐音語存疑」を参照されたい。

 「餡」は咸摂匣母開口二等字。匣母字は、中世唐音でアヤワカ行、淅江音系にもとづく近世唐音はアヤワ行で写されるが、全濁声母だから呉音系ではおおむねガ行音で写される(ex.「降ガウ」「護ゴ)。たとえば『支那文を讀む爲の漢字典』は、「餡」に「ガン」「カン」の両音を認める。

 ただし、呉音系でもカ行及びワ行となる場合が有る。すこし細かくいうと、「開口韻母:g-(k-)、合口韻母:w-」と対応する。このことから、「母胎となった呉音字音の原音(主層)では、〈匣母〉がɦ-とφ-/w-に分かれていた可能性が大き」いともいう(小倉肇『続・日本呉音研究 第1部 研究篇』和泉書院2014:145)。ちなみに「餡」字は、潮州や福州、建瓯などの淅江音系では頭子音の匣母が弱化しており、主母音がむき出しになっている*5厦門では、官話系の文言音はh-であるが、白話音はやはり頭子音を脱している(『漢語方音字匯』第二版2003:258)。

 それから、「カン」「コン」という字音について*6。漢和辞典類では、唐音「アン」のほか、漢音に「カンカム)」のみ認めて、ふつう「コン(コム)」という音を採録しない。

 咸摂所属韻のうちでは、覃韻字の一部、厳韻字などが呉音系では「オ段+ン(ム)」で写される。覃韻字の「オ段+ン(ム)」形などは『切韻』よりやや前の状態を反映した和音の祖系音で、古音の状態を留めるものがあったことを示しているだろう、との見方も有る(沼本克明氏など)が、「餡」は陥韻(咸韻の相配去声)所属であって、「エ段+ン(ム)」と写されることはあっても*7、「オ段+ン(ム)」となるのはきわめてありにくいように思える。

 「餡」の「コン」という字音が何に拠っているのか、ちょっと気になる所である

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……と書いていたが、謎はすぐに解けた。『大漢和辞典』の字音欄をみてみると、「(一)カン コン(二)カン ゲン(唐)アン」とあり、(一)は『集韻』反切の「苦紺切」(勘韻)に拠ったことが示されている。『集韻』は、いわゆる「切韻系韻書」とは反切体系を大きく異にしており(改変しており)、「諸橋大漢和」はなぜか第一にこの反切を掲出していることで知られる。

 勘韻は覃韻の相配去声であるから、「コン」(=オ段+ン)という字音が、あくまで“理論上は”導き出せることになる。

 そこではっと思い当ったのが、門井慶喜天才たちの値段―美術探偵・神永美有』(文春文庫2010)に収める大津波悦子氏の「解説である。そこに以下の如くある。

 そうそう、本書を手始めとして、他の単行本を読んでの筆者の推測をひとつ作家仕事場には諸橋轍次の『大漢和辞典』全十五巻(大修館書店)が架蔵されていると見た。

 種明かしをすれば、とある作品で『大漢和』自体が取り上げられているということなのだが、作家の折々の言葉選択にそういう風を感じたのである。もちろん、小説家なのだから言葉にはすぐれて意識的なはず。なにも一種類の漢和辞典を名指しするなんて失礼なことかもしれないが、一読者の推理としてお許しあれ。(pp.310-11

 大津波氏が、「餡」=「コン」という字音に「そういう風」を感じとったのかどうかは知る由もないけれども、門井氏が「諸橋大漢和」を愛用している(かもしれない)証左がここにひとつ加わったといえるだろう。

おさがしの本は (光文社文庫)

おさがしの本は (光文社文庫)

小説あります (光文社文庫)

小説あります (光文社文庫)

人形の部屋 (創元推理文庫)

人形の部屋 (創元推理文庫)

シュンスケ! (角川文庫)

シュンスケ! (角川文庫)

家康、江戸を建てる

家康、江戸を建てる

真田太平記(二)秘密 (新潮文庫)

真田太平記(二)秘密 (新潮文庫)

国語文字史の研究〈4〉

国語文字史の研究〈4〉

続・日本呉音の研究(全6冊セット)

続・日本呉音の研究(全6冊セット)

天才たちの値段―美術探偵・神永美有 (文春文庫)

天才たちの値段―美術探偵・神永美有 (文春文庫)

*1カバー裏と扉とに内容紹介が記してあるが、登場人物の名が「つばさ」になっている。正しくは「つばめである

*2藤田保幸(1998)「書記テキストにおける引用マーカーとしてのカギカッコ用法――池波正太郎剣客商売」を例として――」(『国語文字史の研究 四』和泉書院)。

*3:『大崎梢リクエスト本屋さんのアンソロジー』(光文社文庫2014)に収められた「夫のお弁当箱に石をつめた奥さんの話」も、適度にマニアックで、好みにあう。

*4:「唐音」は「宋音」ないし「唐宋音」などと呼ばれることもあるが、大槻がどの程度これらを厳密に区別しているのかは不明

*5:先に挙げた「胡」も匣母字。

*6:正確にいうと「餡」の韻尾は-nではなく-m。ただし両者は平安後期からすでに混乱していて、いずれも−イ、−ム、−ン、−ニのカナ等で写された。

*7:それだから、「餡」に「ゲンゲム)」という音を認めることがある。たとえば『大正漢和字典』(育英書院)、現行版だと『新漢語林 第二版』など。しかし、あくまで人工音であろうと思う。

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2016-09-11 文庫本で読む『菜根譚』 このエントリーを含むブックマーク

 宗助は一封の紹介状を懐にして山門を入った。彼はこれを同僚の知人の某から得た。その同僚は役所の往復に、電車の中で洋服の隠袋(かくし)から菜根譚を出して読む男であった。こう云う方面趣味のない宗助は、固より菜根譚の何物なるかを知らなかった。ある日一つ車の腰掛に膝を並べて乗った時、それは何だと聞いて見た。同僚は小形の黄色い表紙を宗助の前に出して、こんな妙な本だと答えた。宗助は重ねてどんな事が書いてあるかと尋ねた。その時同僚は、一口説明出来る格好な言葉を有っていなかったと見えて、まあ禅学の書物だろうという様な妙な挨拶をした。(夏目漱石『門』十八*1

 わたし記憶が確かならば、洪自誠/今井宇三郎訳注菜根譚』(岩波文庫)は、まだカバーがついていなかった時代初刷1975年1月刊)では青帯で、なぜか後になって赤帯に編入された。「後に」といっても、具体的にはいつのことなのかわからない。先日、1987年の第15刷*2だったか古本屋に出ていたが、それもすでに赤帯だった。

 この今井版『菜根譚』は、今春の「名著名作再発見」フェアに入っており、その帯が巻かれた本の奥付を見ると、「2016年4月26日第66刷発行」となっているから、「品切・重版未定」になることもなく、ずっと売れ続けているのだろう。たしかハードカバーの特装版*3刊行されたはずだ。

 ところでわたしが親しんだ訳本は、魚返善雄訳『菜根談』(角川文庫1955)の改版(1969刊)である。これは、今井版で「俗語語釈に優れている」(p.389)と評されたものもっとも、「男一匹…」「年増芸者もかたずママけば…」など、訳文に古めかしいところがあるものの、終始くだけた口調だから、内容が頭に入ってきやすい。

 たとえば第二条の訳は、

 しろうとは、シミのない人。くろうとは、腹黒い人。だから人間ジョサイないより、正直がよい。ネコかぶりより、ぶ遠慮がよい。(p.4)

 第二三四条の訳であれば、

 世界のものがもともとミジン人間はミジンのまたミジンからだそのものがもともとアブク、そのほかの物はアブクのアブク。なみの知恵では、悟りきれまい。(p.141)

といった具合*4。また、原文や読み下しを示してあるし、註釈もきわめて簡潔で良い。

 この魚返版、現在古本しか入手できないが、新本屋で手に入る邦訳文庫本としては、今井版のほか、中村璋八・石川力山による全訳注版(講談社学術文庫1986)、それから抄訳だが、湯浅邦弘訳(角川ソフィア文庫、「ビギナーズ・クラシックス中国古典シリーズ、2014)もある。昨年には、野口定男『世俗価値を超えて 菜根譚*5というのが鉄筆文庫に入ったが、こちらは、エセーふうの解説に主眼を置いており、全文を紹介するものではない*6

 魚返版が独特なのは、まず、于孔兼による題詞が省かれているということ*7。次に、上にあげた文庫版のどれもが本文を「前集」二二二条、「後集」一三四条(ないしは一三五条―後述)と分けて、「前集五六」、「後集一二五」、などと示しているのに対して、それらを一緒にして通番で示しているということだ。たとえば「後集一三四」(一三五)であれば、通番で「三五六」となっている。

 魚返は「解説」で、「「菜根譚」のテクストとしては、中国刊本には信頼できるものが見当たらない」(p.217)と述べ、尊経閣文庫蔵の「明刊本「菜根譚前後集二冊」(単行本)と文政重刊本とを「対照することにより、文政本の不注意による「錯簡」や、区切りの誤りを正」すことができる(p.218)ため、明刊本によって「在来日本テクストの誤りを訂正しておいた」(同前)という。文政本は、文政五年(1822)に加賀藩儒者であった林瑜(1781-1835)が刊行したものである

 今井版はその文政本を底本にしており、中村石川版は「内閣文庫*8所蔵の『遵生八牋』*9付録として収録された、覚迷居士汪乾初の明代の刊本を用い、段落区切り方もこれにしたがった」(「凡例」p.6)という。

 文政本は「遵生八牋」本の流れをくむものだが、これとは別に民国二十年(1931)の「還初同人著書二種」に収められた異本もあるという。しかし、こちらは全体を五部に分けているうえ条目の出入りも多く、別系統の本と見なすべきだから、ここでくわしく述べることはしない。

 では、文庫本間での排列の異同に関して述べることにする。

 さきに記したとおり、『菜根譚』全体の構成は「前集」二二二条、「後集」一三四条(または一三五条)で、計三五六条(三五七条から成る

 まず「前集四三」の「風恬浪静中、見人生之真境。味淡声希処、識心体之本然」は、魚返版は「文政本はこの項を彫り落としたらしく、前集の最後にくっつけている」(p.30)とする。したがって文政本に拠った今井版は、「前集四三」から「前集二二一」までが魚返本とはひとつずつずれており、「前集二二二」の位置に「風恬浪静中、見人生之真境。味淡声希処、識心体之本然」を持って来ている。

 魚返版と同じ処理をしているのが中村石川版で、「前集四三」に、「※この一段は文政刊本では前集の最後に置かれているが、ここでは定本にしたがった」(p.76)との注記がみえる。

 次に、「後集十七」である。すなわち、「有浮雲富貴之風、而不必岩棲穴処。無膏肓泉石之癖、而常自酔酒耽詩。競逐聴人而不嫌尽酔、恬淡適己而不誇独醒。此釈氏所謂、不為法纏、不為空纏、心身両自在者」という文章について、今井版は文政本にもとづき「競逐」以下を別項として立てて十八条とする。その注釈には、「内閣文庫本は此の条を前文に続けて一条としているが、底本は文意により別条とする」(p.248)とある中村石川版は内閣文庫本に拠っているから、こちらは切り出さずにそのまま一条とする。魚返版も同様で、「文政本は誤ってこの項を二つに分けている」(p.145)と注する。いずれの処理が適当なのかはいま措くが、このために今井版は、「後集」が魚返版や中村石川版に比べて一条多くなっている(一三五条)のである

 これで、排列順や項目数に「ずれ」が生じた理由がおわかりになったことと思う。

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 『菜根譚』を読むための副読本としては、湯浅邦弘『菜根譚中国の処世訓』(中公新書2010)がある。概説書であるから、もちろん全文は収録していない。また、所々に誤記散見するので注意したい。角川ソフィア文庫抄訳本か、その他の訳本を手許に置きながら読み進めることをおすすめする。

 誤記というのは次のとおり――まずp.28に、魚返版の書名を『菜根譚』とするが、これは誤りで、上記のように『菜根談』が正しい*10

 魚返は意図的にそうしているのであって、「解説」の冒頭に、

 まず書名であるが、「譚」と「談」は同じ意味で、中国の版本にも「菜根談」としたのがあるから、わかりやすいほうの字に改めた。(p.215)

と述べている(「昭和二十八年九月」*11とあるから初版からそうしているようだ)。

 次に、湯浅氏の中公新書白文を示さず、書き下しのみ記しているのだが、その書き下しに誤記が少々ある。「前集一四二」で「人の救難する処に遇えば、…」となっているところ(p.56)は、「救難」ではなく「急難」。ソフィア文庫版は返り点をつけた白文のほか、書き下しを示していて、そちらでは修正されている(p.125)。

 また、「前集七二」で「享受も亦た涼薄なり」となっているところ(p.73)、「享受」ではなく「受享」。これもソフィア文庫版では直っている(p.82)。

 さらに、「後集一〇九」で「皆想念より造成す」とあるところ(p.242)、「想念」ではなく「念想」。やはり、ソフィア文庫で直っている(p.210)。

 条数にも注意が必要で、「善を為して其の益を見ざるは、…」を「前集一六二」(p.160、魚返版は通番一六二、今井版は前集一六一、中村石川版は前集一六二)、「機の動くは、弓影も疑いて…」を「後集四七」(p.183、魚返版は通番二六九、今井版は後集四八、中村石川版は後集四七)、「歩を進むるの処に、便ち歩を退くるを思わば、…」を「後集二八」(p.201、魚返版は通番二五〇、今井版は後集二九、中村石川版は後集二八)とする。

 湯浅氏は「凡例」で、「大阪大学懐徳堂文庫所蔵『菜根譚』(文政五年刊本をもとにした重刊本)」を底本にした旨を述べており(p.31)、「他のテキストとの照合により、文字の一部を改めた箇所がある」(同)と書いているから、あるいは上記の字句の異同も、懐徳堂本に拠ったために生じた部分があるのかもしれない。だとしても、文政本がもとになっているのなら、少なくとも「前集一六二」は、「前集一六一」とあるべき所かと思われる。

 また、「後集四七」、「後集二八」も、今井版と同様にそれぞれ「後集四八」、「後集二九」、となるはずであるしかし、「後集」の次第が、魚返版と中村石川版とによく一致するということは、懐徳堂本も「後集一七」のところで、「競逐」以下を別項として立てていないことが予想される。

 ちなみにソフィア文庫版では、「本書の凡例」で、懐徳堂本に拠ったことが述べられはするけれども、「条の区切りについては、底本を基本としながらも、他のテキストを参考にして改めた箇所がありますので、結果的には、下記の岩波文庫本と同様の区切りになっています」(p.18)と付け加えられている。岩波文庫本というのは今井である

 それから細かいことだが、漢字の読みについて一点。

 中公新書では、「貪私」(前集七八)に「たんし」(p.119)、「貪と為す」(前集六二)に「どん」(p.173)、「貪愛」(後集一〇九)に「どんあい」(p.242)とルビを振っている。ソフィア文庫版もこれと同じ。

 今井版は「貪私」が「たんし」(p.99)、「貪と為す」が「たん」(p.84)、「貪愛」が連声形の「とんない」(p.340)。中村石川版は、それぞれを「どんし」(p.115)、「どん」(p.99)、「とんあい」(p.389)とする。「トム(ン)」「タム(ン)」という字音があてがわれるべきだった透母字(次清音)の「貪」が「ドン」と読まれるようになったのは、比較的近年のことに属するが、上記の「読み分け」はそれぞれの習慣に基づくものなのだろうか。はたまた何か理由あってのことだろうか。

 つい細かいことばかり書き連ねてしまったが、『菜根譚』の副読本として、湯浅氏の『菜根譚中国の処世訓』を強くおすすめしたい。なんと云っても最大の特長は、pp.58-59、pp.101-02、pp.261-66など、新出の木簡による成果を採り入れている点にある。また、コンパクトな体裁でありながら、時代背景や典拠についてもかなり丁寧に説いている。

菜根譚 (岩波文庫)

菜根譚 (岩波文庫)

菜根談 (1955年) (角川文庫)

菜根談 (1955年) (角川文庫)

菜根譚 (講談社学術文庫)

菜根譚 (講談社学術文庫)

世俗の価値を超えて―菜根譚 (鉄筆文庫)

世俗の価値を超えて―菜根譚 (鉄筆文庫)

菜根譚―中国の処世訓 (中公新書)

菜根譚―中国の処世訓 (中公新書)

漢文入門 (1966年) (現代教養文庫)

漢文入門 (1966年) (現代教養文庫)

門 (新潮文庫)

門 (新潮文庫)

*1新潮文庫版(平成十四年改版)p.247。

*2カバーがついていた。

*3ワイド版ではない。

*4しかし、ここでわたしは、魚返の息女・昭子氏の次のような言をおもい出さずにはおれない――「とにかく彼(魚返善雄引用者)は、いつも、どの本も姿勢を正して書いた。身も心もである。読む人にはどれほど面白おかし書き飛ばしたように見えても、実は苦吟に満ちている」(「父魚返善雄の思い出」『漢文入門』現代教養文庫1966,p.218)。

*5渡辺憲司氏の「解説」によると、同書はもと「現代人のための中国思想叢書」の一冊として、1973年4月新人物往来社から刊行されたという。

*6:附言すると、今年6月には野口の『中国四千年の智恵 故事ことわざ語源202』も鉄筆文庫に入った。

*7:魚返版の拠った尊経閣文庫所蔵の単行本(後述)には、「題詞」がもともと無いという(中村石川版「解説」p.426)。つまり魚返が意図的に省いたわけではない。

*8内閣文庫現在独立行政法人国立公文書館移管されている。

*9:この「遵生八牋」には、「菜根譚」を附載するやや後期の十二冊本および十八冊本(国立公文書館蔵)と、附載しない初期の十一冊本(国立公文書館尊経閣文庫蔵)とがあるという。

*10中村石川版の「解説」も、誤って「菜根譚」とする(p.431)

*11:ちなみに、別号の「半鼓堂戯有益斎主人」が記されている。

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2016-08-14 「フェスティーナ・レンティ」 このエントリーを含むブックマーク

 先日、尾崎俊介ホールデン肖像ペーパーバックからみるアメリカ読書文化』(新宿書房2014)を読み了えた。「本の本」が好きな向きや、書物そのものが好きな方にもおすすめしたい好著である

 とりわけわたしの気に入ったのは、表題作ホールデン肖像―表紙絵に描かれた『ライ麦畑でつかまえて』」(pp.28-53)や、「アメリカを変えたブッククラブ―「ブック・オブ・ザ・マンス・クラブ」の過去現在未来」(pp.202-30)などであるが、巻頭の「「フェスティーナ・レンティ」ということ」(pp.10-13)を読みはじめたときに、あれっ、この「フェスティーナ・レンティ」は何かの本で目にしたぞ、という「既視感」があった。

 「フェスティーナ・レンティ」は「ゆっくり急げ」という意味で、尾崎氏のこの文章は、ペーパーバック叢書アンカー・ブックス(Anchor Books)」のロゴが「イルカの巻き付いた錨」になっている、という話から始まる。そして、次のように述べる。

 錨は「引き留める力」の象徴イルカは「先に進む力」の象徴であって、その謂わんとするところは「ゆっくり急げ」ということだったのであるラテン語で言えば「フェスティーナ・レンティ」(Festina lente)。これは元来、為政者が性急なる施策を自ら戒めるための言葉として、ローマ皇帝アウグストゥスウェスパシアヌスに重んじられたものだそうだが、これがやがて「読書の極意」とも解釈されるようになり、そんなことから、かのルネサンスの人文学者エラスムスとも親しかった出版社アルドゥス・マヌティウスもこの言葉座右の銘とするようになって、それで彼は「錨」と「イルカ」を組み合わせて図案化したものを、自分出版する「アルダイ古典叢書」のロゴとして採用したのであった。そしてその伝統が連綿と受け継がれて、二十世紀半ばのアンカー・ブックスのロゴとして再登場したというわけなのである。(pp.12-13)

 ここまで読んでようやく、ああ、とおもい当たり、柳沼重剛『語学者の散歩道』(研究社出版1991)を披く。「フェスティーナ・レンティ」の話はたしかこの本で読んだのだった。

 しかし、いくら探してもその記述が見つからない。おかしいな、わたしの覚え違いだろうかとおもいながら、尾崎著をすっかり読み了えてしまったわけであるが、後日、本の整理をしているときに、柳沼重剛『語学者の散歩道』(岩波現代文庫2008)*1が出てきたので、何気なく読み返していたところ、まさに「Festina lente」(pp.41-48)という一文が目に飛びこんできたのであった。

 わたしの頼りなげな記憶は間違っていなかったわけだが、単行本文庫版との相違を考えずにいたのは不覚であった。

 文庫版では、単行本に入っていた「田舎のねずみと町のねずみ」「クセノポンの『アナシス』」「きわめて異色な本のこと」「役者偽善者」「白鳥の歌」「はじめて暮らし英国で驚いたこと」「一万年後の東京大学あるいはポケットティッシュについて」の七篇が外され、そのかわりに、雑誌図書」に掲載された「Festina lente」「書き言葉について」「カタカナ名前雑感」(収録にあたって「カタカナ語雑感」と改題)「名前について」の四篇が加えられている。

 その「Festina lente」についてみておくと、柳沼氏は、この表現がなぜギリシア語ではなくてラテン語で言い慣わされてきたのだろうか、ということを問題にする。スエトニウス『ローマ教皇伝』「アウグストゥス」の巻には、これが、 Speude bradeos*2(スプエウデ・ブラデオース)というギリシア語で出ていたからだ。

 その後しばらくして、ラテン語の受講者から、「Festina lente」の項がエラスムスの『アダギア』(第二巻一・一)に出ていることを教えられる。柳沼氏がレクラム文庫版の節略本で当該箇所を確認してみると、エラスムスはこの表現を称賛し、アウグストゥスウェスパシアヌスという二人の皇帝がこの表現を好んだと述べていたという。

 それから

 印刷業者アルドゥス・マヌティウスがあるとき私にウェスパシアヌス銀貨を見せてくれたのだが、とエラスムスはつづける。アルドゥスはこれを人文主義者のペトルス・ベンブス(ピエトロ・ベンボ)から贈られたのだそうで、この銀貨の片面にはウェスパシアヌス肖像と VESPASIANUS という文字が、裏の面には、縁(へり)に円環、その中に錨、その錨に海豚が巻きついて帆柱のごとくに立っている図柄が刻まれている。この図柄はまさに、アウグストゥスの Speude bradeos ということばと同じ意味を表している。(略)そして今や、「錨に海豚」は、全世界の友なる印刷業者紋章になっている、と結んでいる。(p.44-45)

 今回検索して知ったのだが、この話題については福岡大の浦上雅司氏も書かれている*3。柳沼氏は触れていなかったが、「錨に海豚」の図案は、なんとヒエログリフ時代から存在したという。

 さて話を戻すと、柳沼氏は、のちに鋳造されたアルドゥスの肖像入りのメダリオンを見て驚く。その裏面の縁に、 Speude bradeos がギリシア文字で刻まれていたというのである。そして、次のように結論する。

 ひょっとしたらアルドゥスは、ウェスパシアヌス銀貨の錨と海豚についてエラスムスから説明を聞いて、感動して自分紋章にしたのかもしれない。そして「ゆっくり急げ」という文句そのものも、アウグストゥス以来ずっとギリシア語で伝えられてきて、それをエラスムスが『アダギア』で、これは Festina lente ということだと説明したのが、このラテン語の発端だったのかもしれないと思える。(p.45)

 ともあれ、わたしの「既視感」は解決されたわけで、これでようやくすっきりした。こういうこともあるから単行本文庫本とを重複して持っていても、うっかり手放せないのである

語学者の散歩道 (岩波現代文庫)

語学者の散歩道 (岩波現代文庫)

*1:柳沼氏は、この文庫版が刊行された翌月の7月永眠された。

*2:「o」はマクロン付きの「o」。以下同。

*3:柳沼重剛編『ギリシアローマ名言集』(岩波文庫)がこの表現を取り上げていることにも言及されている。

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