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2016-11-28 『文章読本』 このエントリーを含むブックマーク

 文章はいっこう巧くならないが、文章読本の類を読むのは以前から好きである

 たとえば、斎藤美奈子文章読本さん江』は単行本刊行時に(どんな内容であるかも知らずに)飛びついたし、最近でも、岩淵悦太郎編著『悪文―伝わる文章作法』が文庫*1で出て、単行本を持っているはずなのに買い直したし、小谷野敦文章読本X』(中央公論新社2016)も「即買い」で、出張時の車中にて一気に読み了えた。

 その小谷野著で気になったところを挙げるなら、たとえば、

小説などの場合、人の動きを描写するには、「した」「来た」「買った」など、「た」が引き続いて文末に来ることが多く、読んでいるといかにも平板な感じがするため、小説家は、適宜、語り手の思考を挿入したり、現在形を使ってみたりして工夫を凝らした。つまり、「死体をすぐに処分しなかったのは、やはりためらわれたからであろう」といった具合である。(p.74)

という箇所がある*2。これは、小説家でも何でもないわたしでさえよく悩む問題である

 高校生の時分に、小説とも随筆もつかない文を書いた際、同級のH君に批評を求めたところ、「畳み掛けるような『〜た』の連続面白い」と言われ、多分それは彼なりの手厳しい批判だったと思うのだが、それ以後、文章ものするときは気を配るようにしている。

 中条省平氏は、『文章読本文豪に学ぶテクニック講座』(中公文庫2003)*3で、「統計を取ってみたわけではありませんが、鷗外は、文の『〜た』止めの割合もっとも低い作家の部類に属するのではない」か(p.20)と述べ、それに比べると「漱石は『〜た』止めを続けて使ってもあまり気にしないほうの作家」だ(p.26)と記している。そして、漱石それから』末尾の表現について、

それにしても、この「〜た」止めの連続は異常です。しかし、ここまで来ると、この「〜た」の過剰がやはり呪術的なリズムを刻み、代助の心象風景の極端なエスカレートぶりをがっちりと支える機能すら担っています。(p.26)

と書いているのだが、わたしのような素人が下手にこれを真似しようとすれば、火傷するだけである。やはり、「〜た」が過剰にならぬよう注意しておくに越したことはない。

 また小谷野氏は、小説を書くときに「〜と言った」が連続してしまうのを苦労する点として挙げたり(p.90)、伝記で「〜という」が連発するのに悩まされると述べたりしている(p.102)が、これも同様に「作文あるある」で、特に「〜という」などは、気をつけていないと、うっかり何度も使ってしまっていたりする。

 小谷野著では、谷崎作品について論じたくだりが最も面白かったが、それに関しては他日に譲るとして、次の話柄も印象に残った。

 人はかっこうをつけたがって、別に周知のことでもないものを、「周知のこと」と書きたがるものである。「人形浄瑠璃今日文楽と言うのは、明治時代大阪で植村文楽軒が文楽座という人形浄瑠璃小屋運営していたからであることは、今さら言うまでもない」といった類である。これは、国文学者が国文学相手に書く分にはいいようだが、逆に国文学者なら、それこそ言うまでもないから書かないだろう。言うまでもないなら書かなければいいのに、書いてしまうのが病である

「知れ切ったことだ」というのは小林秀雄のよく使っていた言葉だが、これも嫌味で、知れ切っているなら書かなければよいのである。概して、文藝評論のまねをしようとすると、文章は悪くなる。私は今でも、さすがに「周知のとおり」はやらないが、「言うまでもなく」は書きそうになってあわてて消すことがある。またこれに類する言い回しとして「を引くまでもなく」がある。(p.19)

 これを読んで、ふとおもい出したのは富士川英郎『鴟鵂庵閑話』(筑摩書房1977)。この随筆集はすこぶる面白いのだが、残念なことに、「言うまでもなく」の類の多用が読者を択んでしまっているような気もしたのである

 その一部を引くと、「『南翁』は言うまでもなく河南儀平のことであり」(p.7)、「(葛子琴が)浪華の混沌社中、切っての詩人であったことは周知の通りである」(p.30)、「(菊池五山が)江湖社の詩人たちのうちでの重鎮となったのは、周知のところだろう」(p.68)、「『剣南集』が陸放翁の詩集であることは言うまでもなかろう」(p.71)、「道真の『九月十日』という有名な詩の、『恩賜御衣今在此、捧持毎日拝余香』という転結の二句を踏まえていることは言うまでもない」(p.73)、「山陽の『論詩絶句』では、言うまでもなく…」(p.74)、「(山陽が如亭の遺稿集の)序文を書いていることは、周知のところだろう」(p.79)……、といった具合である

 小谷野著ではそのほか、「しかし」の多義性(pp.96-98)や「立ち上げる」(pp.160-61)など、言葉のものについて書かれたところもあるし、相変らず読書慾が刺戟される記述も多々あり、久しぶりで『細雪』を再読しはじめたり、志賀直哉の「焚火」を行きつけの古本屋で見つけて買ったりした(改造文庫版)のだった。

 さて、数多ある『文章読本』のなかでも、わたし特におすすめしたいのは、中村真一郎文章読本』(新潮文庫1982)だ。口語文の文体としての確立やその歴史概観するには恰好副読本となることだろう。最近、某先生がこの本を推薦されていたので、大いに意を強くしたものであった。元版は1975年文化出版局から刊行されたが、「文庫に入れるに際して、現在若い読者のために文例を増補し」た(p.214「あとがき」)とのことだから、どちらかというと文庫版を参照するほうがよかろう。また、吉行淳之介・選/日本ペンクラブ編『文章読本』(ランダムハウス講談社文庫2007)*4というアンソロジーには、中村著の「口語文の改革」第三節が入っている*5しかし、この「口語文の改革」よりも、「口語文の成立」「口語文の完成」「口語文の進展」の章を重点的に読むことをすすめたい。

 中村著の「口語文の成立」の章について、先に引いた中条著は、

 中村(真一郎)氏の卓見は、花袋、藤村などいわゆる自然主義流派対立する硯友社文学、とくに泉鏡花の、伝統的で、古風な、歌うような文語調を消化した文体なかに近代口語文のもうひとつ成熟のかたちを見出していることで、文学史を大胆に、原理的に簡略化しながら、こうした繊細な卓見さりげなく挿入しているところに、作者の感性の確かさがうかがわれます。(「文章読本の変遷」p.196)

と賞讃しているが、一方で、最終章口語文の改革」の第三節を「ほとんどやぶれかぶれの貼り混ぜアルバム」「後半のこの腰砕けぶりはかなり悲惨ものになって」いる(p.197)、などと酷評している。

 ちなみにいうと、須賀敦子中村版『文章読本』の一読をすすめていた。

某日某日

 丸谷才一文章読本』。中公文庫

 おなじような趣旨題名の本が半世紀にも満たないうちに、五冊も書かれることの異様さを、著者も指摘しているが、丸谷氏のものと、中村真一郎氏の本は、若い人たちにも読んでほしい。中村氏の『文章読本』の、とくに口語文の発展の経緯を述べた部分は、新鮮な指摘に満ちていて、文体史的『文章読本』として貴重である。(「読書日記」『須賀敦子全集 第4巻』河出文庫2007所収:495)

 この文章は、文庫版だと須賀の『塩一トンの読書』(河出文庫2014)pp.64-65でも読むことが出来る。

 ところで先日、中村著を読み返していると、「そこで私たち近代古典なかに、そのモデルを求めて、様々の模索あいだに、鷗外の戯曲に遭着しました」(p.75)とあるのに気付いた。「遭着」は「逢着」と同義だろうが、冷僻の字である。まだちゃんと調べていないけれど、元雑劇白話文等にしか出ない語だと思う。

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 「文体」といえば、「尾崎紅葉言文一致時代」という文章ここで書いたことがある。

文章読本X

文章読本X

文章読本―文豪に学ぶテクニック講座 (中公文庫)

文章読本―文豪に学ぶテクニック講座 (中公文庫)

鴟〓@6EFA庵閑話 (1977年)

鴟〓@6EFA庵閑話 (1977年)

文章読本 (新潮文庫)

文章読本 (新潮文庫)

須賀敦子全集〈第4巻〉 (河出文庫)

須賀敦子全集〈第4巻〉 (河出文庫)

塩一トンの読書 (河出文庫)

塩一トンの読書 (河出文庫)

*1角川ソフィア文庫。『第三版 悪文』の文庫化

*2:なお小谷野氏は、「(伝記を書く際に―引用者)『た、た、た』と時系列で押し通した大谷(晃一)は、ある意味で偉い」(p.103)、とも書いている。

*3単行本朝日新聞社刊、2000年

*4:親本は、かつて福武文庫として出た(1988年刊)。

*5福永武彦『夜の寂しい顔』、島尾敏雄『月暈』、そして吉行自身の『暗室』の文例などが省いてある。

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2016-11-13 「鸚鵡石」、あるいは誤植の話など このエントリーを含むブックマーク

 高橋輝次編著『増補版 誤植読本』(ちくま文庫2013)に「かづの」なる誤植(というか誤記)があることは、以前ここに書いたとおり。同書にはそのほか、堀江敏幸氏の文庫解説「誤って植えられた種」に句点の重複があったりする(p.294)のだが*1、それはいいとして、このアンソロジーには、対話形式森鷗外「鸚鵡石(序に代うる対話)」が収められている(pp.176-89)。

 「鸚鵡石」は、「おうむいし」と読むよりも「おうむせき」と読んでおくほうがよいかもしれない。というのは、山田俊雄『詞苑間歩 下』(三省堂1999)に、「(日本国語大辞典が)『あうむせき』の讀みには、實証が多いことを報告してゐるのは、かへつて江戸時代に『あうむいし』の實在したことを疑はしめる手がかりになる」(「鸚鵡石」*2p.114)とあるからで、山田氏は、「不用意に言はれる、『あうむいし』の讀みが、私にとつては耳障りに聞えて來る」(同)とも述べている。柳瀬尚紀氏(今年亡くなった)との対談『ことば談義 寐ても寤ても』(岩波書店2003)にも、「鸚鵡石」に「おうむせき」と態々ルビを振っている箇所がある(p.63)。

 さて鷗外の「鸚鵡石」は、斎藤茂吉「鷗外全集校正寸言」(『増補版 誤植読本』所収pp.190-93)に、

鷗外先生校正は非常にやかましかった人であり、「三田文学」の外国文学の紹介文中の洋語誤植を気にせられて、ドイツ語自分校正してやっていいと云われたほどであり、また、スバル」に載った、「鸚鵡石」のごとき対話もあるのだから、…(p.190)

と紹介されているように、初出は「昴」である

 初出誌を確認したことはないが、「序に代うる対話」なる副題は初出時からあったわけではなく、大町桂月・佐伯常麿共著『机上寶典 誤用便覽』(春秋社書店1911)に「序」として収められた際に附された。

 これはなにも私の推測などではなくて、山田俊雄氏がそう書いている。

 「鸚鵡石(対話)」という一篇は、はじめ明治四十二年五月、その年創刊された「昴(すばる)」の第五号に掲げられたが、すぐ後に大町桂月佐々木常麿両人編の『机上宝典誤用便覧』という書物序文に、再度の用を務めたものである。鷗外全集には、その後の方の姿で「鸚鵡石」(序に代ふる対話)という題で収められた。(「『訣』を用いるわけ」*3『詞林逍遥角川書店1983:116-17

 『誤植読本』は、鷗外全集に拠ったために、上のようなタイトルになっているという“訣”である

 ところで、『誤植読本』と『誤用便覽』との二つの「鸚鵡石」を較べてみると、いきなり「僕は初からあんな物出板したくはなかった」(『誤植読本』所収)、「僕は初からあんな物出板したくはなかつた」(『誤用便覽』所収)という相違が見つかる。

 また、「嘘字」(『誤植読本』)は「譃字」をそのように直したものかと思ったけれど、これは原文のとおりだった。なぜそう考えたかといえば、『誤用便覽』に、

うそ――譃、嘘

嘘は「ふく」「うそぶく」と訓ずる字、正文章軌範、韓文公の雜説下に「龍嘘氣爲雲」云々とあり、吹嘘と熟していきを吹くの義、轉じて相助くるの意ともなる、この字に「うそ」といふ義はなく、正しくは譃(音はク若しくはコにしてキヨに非ず)とすべきであるが、併し口扁に虚の字形から意味をとつて、これを「うそ」と訓ずるやうになつたのである。(p.48)

とあったからだ。

 しかも、鷗外とひとまわり違う文人でも「譃」の方を好んで使う者がある。

譃ですよ。仲田君よりもっと下手なのですよ(武者小路実篤友情』上十二,岩波文庫改版p.42)

両方本当ともいえるし、両方とも譃ともいえるでしょう(同 上二十一pp.70-71)

譃がつけない点ではお互にまけないまでも。(同 上三十二,p.117)

あなたは譃つきです。本当に譃つきよ。(同 下五,p.133)

 山田俊雄氏は、鷗外のこの「嘘字」について――「譃」「噓」の相違には言及していないが――、「鸚鵡石」の文中での意味は「字畫をいい加減にする嘘字のことではな」く「『誤用文字』のことである」(「嘘字」『詞苑間歩 続』三省堂2005:68)、と書いている。事実、鷗外(というか作中の「主人」)が例として挙げるのが、「身に染む」を「沁む」と書いたり、「中有に迷ふ」を「宙宇に迷ふ」としたりする類である

 「鸚鵡石」には、「音便形」の仮名づかいに言及したくだりも有る。当該部を引くと次のようである

主人。 (校正刷を机の側に積んである書籍の間より出す。)これを見てくれ給へ。一番澤山ある此の「申す」といふ字なんぞを見給へ。これが雜誌には皆「まをす」とルビの振つてあるのを、僕が「まうす」と直して遣つたのだ。それを初校に皆「まをす」にしてゐる。又直して遣つても、再校にも直つてゐないで、この通(とほり)「まうすは聊へんなる樣存候」と冷かして書いてあるのだ。

客。 はゝゝゝ。成程これは妙ですなあ。併し先生が「まうす」に直しなすつたのは、どういふわけですか。

主人。 どういふわけも何もない。僕だつて「まをす」が誤でない事は知つてゐる。知つてゐるどころではない。明治になつてから「まをす」を不斷使ふやうに復活させたのは、多分僕だらうと思ふ位だ。國民新聞なんぞへ、和文らしい文章でいろんなものを書いた頃は、友達が「まをす」は可笑しいと云つて冷かしたものだ。併し談話のものに「まをす」と書かれると、どうも心持が惡い。祝詞(のりと)を讀むときは、今でも「まーをーす」とはつきり讀むのだ。僕はあれを思ひ出す。談話には誰だつてあんな事を言ふものはない。「もおす」と發音するではないか。音便で「まうす」と書くのが當前だ。他の例を考へて見給へ。箒は「ははき」だ。併し談話體には「はうき」と書いてもらひたいのだ。「ほうかむり」(頰冠)を「ほほかぶり」と書かれては溜らない。果して樂文館が一切の音便を排斥するのなら、何故(なぜ)「いうて聞せて下さりませ」といふ白(せりふ)を其儘植字するのだ。「いひて聞せて」と直さなければならない筈ではないか。(森林太郎「鸚鵡石(序に代ふる對話)」『机上寶典 誤用便覽』pp.9-11

 鷗外が地の文と「談話體」とを区別しているところが興味深いが、この手のものは、いわゆる「ハ行四段」に現れ易い。「×会ふて ○会うて(<会ひて)」「×追ふて ○追うて(<追ひて)」「×思ふて ○思うて(<思ひて)」「×添ふて ○添うて(<添ひて)」などである

 門井慶喜『東京帝大叡古教授』(小学館文庫2016)には、「食ふて」の仮名遣いを指摘する場面が出て来る。

クフテ(食ふて)という表記は誤りであり、正しくは、

「クウテ(食うて)」

 となるべきだったのだ。

 なぜならこの語は「食ふ」と「て」に分けられるが、このうち「食ふ」はハ行四段活用動詞であり、(略)そのつぎの「て」は助詞、つねに動詞連用形にくっつくから、ここは本来ならば、

「食ひて」

 とならねばならないところなのだ

「すなわち『食ひて』が正則である。まずこのことを念頭に置くのだ、藤太」

 ところがこの電報文章場合、そこへさらに、

「ウ音便」

 と呼ばれる現象がはたらいている。発音しやすいよう或る種の語尾が「ウ」になってしまう、音韻同化現象だ。(略)

「注意すべきは、このウ音便というやつ、あくまでも発音上の現象だということだ。動詞活用という根本的かつ組織的な語形変化――いわゆる狭義の文法――とは基本的に何の関係もなし。したがって文字うつすに当たっても、活用のハ行にとらわれることなく、発音をそのまま書き取るのが正しい態度ということになる」

 よふやった、有り難ふ、という表記が誤りであるように、食ふてが誤りである所以である。それが叡古教授結論だった。(pp.197-99)

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 高橋輝次『増補版 誤植読本』(ちくま文庫2013)の元版は、2000年7月刊の『誤植読本』(東京書籍である。この元版が出た翌年の五月に、高橋氏は「校正者の出てくる小説」(「道標」五一八号)というエッセイを書いており(のち『古本古本を呼ぶ』青弓社2002に収む)、そこで和田芳恵「祝煙」、佐多稲子祝辞」、船山馨「善人伝」、河内仙介行間さん」の四篇の小説と、小宮豊隆随筆誤植」とを新たに紹介している。

 このうち小宮豊隆誤植」は『増補版 誤植読本』に収められ*4和田芳恵「祝煙」、佐多稲子祝辞」、河内仙介行間さん」の三篇は、高橋輝次編著『誤植文学アンソロジー校正者のいる風景』(論創社2015)に収められた*5

 元版にも増補版にもある稲垣達郎「誤記誤植、校訂」は、筑摩書房版『角鹿の蟹』から採られている。その末尾に、

 それにつけても、本文校訂というものは、なかなかむずかしいものだ。〈あきらかな誤植〉などと判断して手を加えると、筆者の意にそむくさかしらに陥ることもあり得るのである。(筑摩書房版p.108)

とあるのは考えさせられる。たとえば山下浩『本文(ほんもん)の生態学漱石・鷗外・芥川―』(日本エディタースクール出版部1993)に、そのような「さかしら」の具体例が示されているので参照されたい。

 ちょっと慾をいうと、稲垣の「誤植でないことば―あるいは、「格」のありなし」(『角鹿の蟹』pp.257-64*6)も、『誤植文学アンソロジー』で新たに採ってくれたらよかった。もっとも、この随筆は、「誤植」そのものを扱ったというよりも、「言葉とがめ」の観があるが…。

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 長谷川鑛平『本と校正』(中公新書1965)の「鷗外、校正子を叱る」(pp.70-74)に、「鸚鵡石」が紹介されている。「まをす」云々のくだりも、pp.71-72に引かれている。(11月28日追記)

増補版 誤植読本 (ちくま文庫)

増補版 誤植読本 (ちくま文庫)

詞林逍遥

詞林逍遥

詞苑間歩―移る時代・変ることば〈上〉

詞苑間歩―移る時代・変ることば〈上〉

詞苑間歩―移る時代・変ることば〈下〉

詞苑間歩―移る時代・変ることば〈下〉

詞苑間歩―移る時代・変ることば 続

詞苑間歩―移る時代・変ることば 続

ことば談義 寐ても寤ても

ことば談義 寐ても寤ても

誤用便覧

誤用便覧

友情 (岩波文庫)

友情 (岩波文庫)

東京帝大叡古教授 (小学館文庫)

東京帝大叡古教授 (小学館文庫)

古本が古本を呼ぶ―編集者の書棚

古本が古本を呼ぶ―編集者の書棚

角鹿の蟹 (1980年)

角鹿の蟹 (1980年)

*1:ついでにいうと、大岡信校正とは交差することと見つけたり」に「藤堂明保氏の学研版漢和大辞典」(p.96)とあるのは、原文ママなのかな。

*2:初出は「木語」平成三年六月号。

*3:初出は「木語」昭和五十七年二月号。のち『詞苑間歩(上)』(三省堂1999)pp.94-98に、旧仮名遣い(一部旧字)に改めて収録。

*4:そのほか「誤植」(林真理子)、「粟か栗か」(坪内稔典)、「「ろ」と「る」について」(佐多稲子)、「誤植」(多田道太郎)、「誤植の憾み」(十川信介)の五篇が増補された。

*5:奥付に「大屋幸世氏と連絡がとれませんでした」とあるのに吃驚。なぜといって、大屋氏は最近も『小辞典探索’75〜’05』や『百円均一本蒐集日誌』などを「大屋幸世叢刊」という叢書名で刊行日本古書通信社刊)していたので…。

*6:初出は「群像」一九六七年三月号。

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2016-10-28 辻邦生『嵯峨野明月記』 このエントリーを含むブックマーク

 「舌」をつかって何かを「見分ける」能力をもった人物といえば、辻邦生嵯峨野明月記』に出てくる「経師屋の宗二」(紙師宗二)もそうだった。

宗二は何かを見分けようとするとき、紙でも木ぎれでも、かならず舌先でなめてみるのである。まるでその味を吟味してでもいるように、眼をつぶり、しばらくなめてから、これはどこそこの紙だとか、この木ぎれは何の木だとか言いあてるのだった。そしてそれが不思議によくあたった。のちに、宗二が経師の職をついで、備中伯耆美作あたりの紙を扱うようになると、紙を舌先にあてただけで、それがどこの、誰の手ですかれたものか、ぴたりと言いあてるようになり、おれの店にくる紙商人などは「宗二殿の舌にかかると、夏にすいたか、冬にすいたかまでわかるんですからね。かないませんな」と言っていたほどだ。(中公文庫1990:224-25)

 文中の「おれ」は俵屋宗達。『嵯峨野明月記』には三人の語り手が登場し、「一の声」が「私」(本阿弥光悦)、「二の声」が「おれ」(宗達)、「三の声」が「わたし」(角倉与一=素庵)、ということになっている。

 この作品は、「嵯峨本(光悦本)」をテーマにした小説であるが(嵯峨本が主題となる作品としては、ほかに梶山季之せどり男爵数奇譚』の第一話「色模様一気通貫」が有る)、作者の辻邦生は、これを書きあげるにあたって相当な苦労をしたようだ。

 辻の日記メモの抜萃である『モンマルトル日記』(集英社文庫1979)には、そのあたりの経緯が生々しく描かれている。一部を引く。

十月十六日(水)*1

…いま『嵯峨野明月記』にあっては共同で仕事を企てながらも、結局は各人は、どうしようもない孤独からのがれられぬことが語られてゆく。このどうしようもない深淵をどうやって耐え、のりこえるのか。しかしのりこえられない。その人間悲劇問題なのである。(p.9)

十月十八日(金)

 ここずっと『嵯峨野明月記』の素材を調べている。前によんだものを読みなおし、表に書きいれ、幅の広いひろがりを持たせる Base をつくっている。これも書きだせば一挙にすすむだろう。『嵯峨野明月記』を三百枚の予定ではじめたのは、自分ではまだこうしたドラマ視点が残っていると思っていたからだが、すでに加筆のあいだに視点が変っていて、さて『嵯峨野明月記』にとりかかると、個々のエピソードたっぷりとうたわせてゆくため、はじめの予定枚数では全体の三分の一も進まないという結果になったのだと思う。(p.14)

十月二十九日(火)

 今朝おきぬけに堀田(善衛)さんからパリに来ているので連絡してほしいとの手紙。『嵯峨野明月記』のはじめの部分を読みかえし、手を入れ、前編を読みかえしたりしたら、どうもあとが見おとりして、困ったと思った。前のは、たしかに異常な集中力で書いているので全体がおそろしく animer しているが、今かいているところは、いやに気どっていて、この生命感がなくなっているような感じがする。もっと美的ものに近づいてゆくところだから仕方ないとしても、これでは困る。あとで手を入れようとして前へ進もうとするが、どうも気力がない。今日は少し動揺している。(p.42)

十二月一日(日)曇

 とうとう『嵯峨野明月記』持ちこして十二月になった。こんなに書けないとは夢にも思わなかったので、一向に勉強がすすまないのと相俟って、やや消耗した。しかしなんとしてもここで挑戦しなければならないので、今後は一切の問題を切って専念すること。(p.94)

十二月十一日(水)

…『嵯峨野明月記』いよいよすすまず、困った。(p.99)

十二月二十日(金)曇 異常な暖かさ

 昨日までで『嵯峨野明月記』の細かい覚書をとる。

 論文ではないので、知的に展開するのではない。あくまで「情感」を流出させてゆく。この点で、現代小説の流れと対立する。しかしそれが本道なのだ。これを守りぬくことだ。「情感」の支えとなる出来事を展開する。そこでは非対象化される。「感じ」だけが主語となる。(pp.108-09)

十二月三十一日(ママ曜日なし)

 とうとう『嵯峨野明月記』ができあがらないまま一九六八年も終りとなる。(p.122)

一月六日 フェート・デ・ロワ

 ようやく、ようやく、『嵯峨野明月記』がすすみだした。この調子をうしないたくない。あまりにもこの五ヶ月つらかった。…『嵯峨野明月記』は三天才嵯峨本をめぐるドラマを通して、滅びと永遠という主題を書こうとしている。そしてその主題を支え現前させてくれるのは本能寺の変であり、町々のにぎわいであり、関ケ原の役であり、大坂夏の陣である。(pp.132-35)

五月十日

 問題は、ぼくが、時代なり、風俗なりを、なんら詩的よろこびを感じないのに、対象化した点にある。そこから説明的な、愚劣さが生じた。『嵯峨野明月記』後半の誤りと苦しさはそこにある。(p.191)

五月十六日

 『嵯峨野明月記』の中断は、時代風俗コピーしようというかかる誤りによって生みだされたものだ。(p.195)

 『嵯峨野明月記』の執筆中断や、執筆に至る過程については、夫人の辻佐保子氏も言及している。長くなるが引く。

 三人の登場人物独白を長短さまざまに繋ぎあわせた『嵯峨野明月記』(新潮社中公文庫)は、やはり一時中断したのちに、後半を執筆している。しかし、その本質や成立までの状況には、『天草の雅歌』の場合とはまた別の複雑な経験が積み重なっている。戦中、戦後にかけての「日本的もの」をめぐる忌避感は、この世代の人にしかもはや追想できないだろう。留学中にパリで開かれた日本美術展ではじめて「鳥獣戯画」を見て、ようやくその種の禁忌から解放されたとはいえ、帰国後もなかなか素直には「祖国を愛する」気持になれなかった。そのころのある日、京都での障屏画の調査に同行したおり、水尾比呂志さん(大学での私の同級生)の定宿に一緒に泊めていただいたことがある。(略)そのおりに見た藁葺家屋を描いた宗達の扇面画と、水尾さんの著書『デザイナー誕生』で展開される扇面構図のみごとな分析が引き金となって、しだいに宗達世界に引き込まれていったのだろう。しばらくのちに宗達展で「蔦の細道」を見て、(略)はじめて魂を震撼されたようである。(略)二人ともまだ暇だったそのころは、年末になるとゴム版の年賀状を彫り、藤枝静男さんにいただいた陶製のハンコを押し、ていねいに墨をすって宛名を書いたりしていた。そんな些細な仕事の楽しみも、料紙の共同制作にあたった宗達や光悦の気持を想像する手掛かりになったに違いない。

 学問家業に引き裂かれて悩む角倉素庵を登場させたのは、大学卒業後の進路に迷ったころの重苦しい気分の投影でもあろうが、林屋辰三郎先生の古い著書を東大図書館でみつけてから、「これでやっと全体を支える骨格ができた」と言って喜んでいた。職人気質から創造者へとそれぞれ飛躍してゆく二人の登場人物だけでは、現実世界の苛酷なメカニズム海外貿易運河開削)を十分には捉えきれないからである

 単行本が完成*2してから、まず最初に林屋先生のお宅にご挨拶にうかがい、それから素庵や光悦のお墓にお礼参りしたことを思いだす。(以下略

 『嵯峨野明月記』は、旧制高校のおりの恩師、狂言研究家であった古川先生に捧げられている。それは、先生が岳父から譲られた「嵯峨本」を大切に秘蔵されており、学生時代に一度だけ見せていただいたことがあったかである。このように遠い昔の記憶映像までが、ふとしたきっかから呼び覚まされ、他のさまざまな偶然の要素と絡まりあいながら、最終的にひとつ作品へと凝集してゆく不思議さは、書き手意志を超えた魔術としか言いようがない。(『「たえず書く人」辻邦生暮らして』*3中公文庫2011:pp.37-39)

 『嵯峨野明月記』は、同時代の三人の思想が「嵯峨本」という藝術に「凝集」されるゆくたてが描かれる。ラストでは藝術の永遠性が称揚される。

 これと同様に、ある一冊の書物をめぐって、「滅びと永遠」(辻邦生)なる主題について描いた作品としては、萩耿介『イモータル』(中公文庫2014)*4が挙げられるだろう。

 もっとも、この作品の語り手たちは、国も時代背景も全く異にはしている。しかし、特に「第四章 信頼」に出てくるシコーの苦悩は、上記の素庵の苦悩とも響き合うものがあるように思う。『イモータル』を面白く読んだ人には、(もし未読なら)『嵯峨野明月記』をすすめたい。

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 今夏の「春の戴冠・嵯峨野明月記」展(ミニ展示。於学習院大史料館)へは、残念ながら行けなかったが、学習院大は定期的に辻のミニ展示を行っているし、生誕百年(だいぶ先だが2025年)には回顧展が予定されている由なので、楽しみにしておこう。

嵯峨野明月記 (中公文庫)

嵯峨野明月記 (中公文庫)

モンマルトル日記 (1979年) (集英社文庫)

モンマルトル日記 (1979年) (集英社文庫)

「たえず書く人」辻邦生と暮らして (中公文庫)

「たえず書く人」辻邦生と暮らして (中公文庫)

イモータル (中公文庫)

イモータル (中公文庫)

*11968年

*21971年のこと。

*3:「辻邦生全集」(新潮社)の月報に書かれた文章をまとめたもの

*4:『不滅の書』(中央公論新社2012)を改題、改稿したもの

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2016-10-04 門井慶喜作品を読む このエントリーを含むブックマーク

 門井慶喜作品中の人物たちは、しばしば「舌を出す」。

…隆彦が二度うなずくと、志織はちょっと舌を出し、…

(「図書館ではお静かに」『おさがしの本は』光文社文庫2011:50)

「それ以前に就職ですね。私の場合

 郁太は舌を出した。(『小説あります』光文社文庫2014:303)

「残念でした」敬典は舌を出して見せた。(「人形の部屋」『人形の部屋』創元推理文庫*12014:19)

「言い忘れてた」敬典は舌を出した。(同上:75)

 三郎は舌を出し、こめかみを掻いた。(『この世にひとつの本』創元推理文庫2015:12

 幽嶺はちらりと舌を出した。(同上:290)

 それこそ、清張が「唇の 厚い/うすい 男/女」を作中のそこここに登場させたほどの頻度で出て来るのだが、大の大人が、実際に「舌を出してみせる」というのは、人前ではほとんどしない行為であるだろう。誤解をおそれずに言えば、これは戯画的な表現であるとさえいえる。してみれば、これらは作者が意図的に鏤めた描写なのかもしれない。しか門井作品では、「舌」が重要な器官となる場合が多い。美術探偵シリーズ主人公・神永美有みゆう)は「舌」で美術作品の真贋を見分けるという設定だし、『こちら警視庁美術犯罪捜査班』(光文社文庫2016)には「仏像なめる」という一篇があって、「なめるとしょっぱい味がする仏像」が出て来る。

 門井作品にはこの他にも、「舌打ちをする」「こめかみを掻く」「目をしばたたく」など、クリシエといっても過言ではない表現が、現代小説時代小説を問わず頻出するのだが、それらもやはり、作者がそのつど故意に用いているように思える。

 また、門井作品を読んでいて面白く思うのが、丸括弧の使い方である

 もっとも豪気にすれば、これは、

(したくてしたくて、たまらなかった)

 行為でもある。(「てのひらのロダン」『こちら警視庁美術犯罪捜査班』:62)

 しかしこんな遠大な理想は、この場にはあまりにも、

(ふさわしくない)

 ということも、俊輔は冷静に判断していた。(『シュンスケ!』角川文庫2016:320)

 いま家康の命を受ければ、その先にあるのは、あきらかに、

(この世の誰もが、まだ見ぬ風景

 それを見たい、という以外になかった。(『家康江戸を建てる』祥伝社2016:116)

 門井作品の、(特に時代小説について、改行の仕方などに司馬遼太郎作品からの影響がうかがえる、と評した人もあったが、私は、少なくとも上記のような丸括弧の用法についていえば、池波正太郎作品に影響を受けたものと考える。

 こころみに池波の『真田太平記』のうちの一冊を披いてみると、

…角兵衛は子供心に、

自分は、御方さまから、たよりにされている……)

 ことを直感したのである。(『真田太平記 第二巻 秘密新潮文庫2005改版:145)

 しかし、そのつぎに、源二郎信繁がいい出た言葉は佐平次にとって、

(おもいもおよばぬこと……)

 であった。(同上p.319)

…佐平次などの想像をこえた親族の成り立ちがあることを、

(おれは知った……)

 のであった。(同上p.327)

などと、類似表現が見つかる。これらはいわば、「括弧によって文法的な破格や不整合表現さえ可能にさせる例」で、かつて藤田保幸氏が、池波の『剣客商売』を例にとりながら言及したものである*2藤田氏は、池波作品の、

 三浦金太郎は「助勢はしない」といったそうだが、しかし、村垣が念のために別手の刺客をさし向けることも考えられる。

(そのような卑怯なまねをするのだったら、わしが出てもよい)

 のであった。(池波正太郎剣客商売』)

という例などを引き、「こうしたカギカッコ使用は、統語的には無理な表現を、当該部分が実はどこかにあった誰かのコトバを引いたものだという情報を付加することで強引に読ませるものである」、と述べている。

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 門井作品は、まだ全部読んだわけではないが、とりわけ私の気に入っているのは、ブッキッシュな興味をかきたててやまない*3『おさがしの本は』である。「日常の謎」系の作品だが、主人公はやがて図書館の存廃をかけて行政機関対峙することになる。

 その連作小説の一篇、「図書館滅ぶべし」は、外来語喃語が絡んで来る、という内容の作品である

 主人公・和久山隆彦の思考が別な方向へと逸れて行ってしまうのを、読者はハラハラながら見守るわけだが、伏線もあることだし、会話の内容からも、大体「答え」は見えてくる。

 作品中には、外来語喃語関係では、実在する三冊の本が登場する。一冊めは吉沢典男・石綿敏雄『外来語語源』(角川書店1979)、二冊めは斎藤静『日本語に及ぼしたオランダ語の影響』(東北学院大学1967)、三冊めは桐谷滋編『ことばの獲得』(ミネルヴァ書房1999)。

 『外来語語源』は「角川小辞典シリーズの一冊。二冊めはちょっと触れられるだけだが、三冊めは主に小島祥三「声からことばへ」が参照される。

 欲をいえば、/N/ が両脣音の直前にくると音声的には[m]となることにも作中で触れて欲しかった、とは思うが、それは望蜀の嘆だろうか。

 また、「謎」の根幹に関わる部分なので、やや「ネタばれ」めいてしまうが、次のようなくだりが有る。

 「ひとつめは『餡』をアンと読むことについて。もちろん『餡』の字そのもの一世紀の漢字渡来と同時期にわが国に存在したと見ていいんですが、ただし当初は、おそらくカンとかコンとかいうふうに読まれていました。アンはその後のわりあい新しい時期に日本に定着した、いわゆる唐音(とうおん)なんですね」

 「唐音?」

 「はい。胡乱(うろん)とか、行燈あんどん)とかと同じ系統の読み。この種の音のなかには極端な場合江戸時代に定着したものもあるため注意が必要なんですが、この場合はだいじょうぶです。私のこの箇条書きでいう2に該当する恐れはない。なぜなら『餡』の字は、近世以前にはもうアンと読まれていたことが『日葡(にっぽ)辞書』という資料により確実だからです。『日葡辞書』というのは」(「図書館滅ぶべし」pp.164-65)

 まず「唐音」の読みは、明治以降「トウイン」又は「トウオン」となったのであって、近世までは、通例「タウイン」「トウイン」と読まれていた。湯沢質幸氏によると、「トウオン」の出現は、「ゴオン(呉音)」「カンオン(漢音)」の類推であるかという。

 次に「江戸時代に定着したもの」というのは、「近世唐音」のことであって、唐音は大きくいって「中世唐音」「近世唐音」に分けられる。いずれも重層性を有するが、その特徴についてはここでは省略に従う。

 文中に挙げられた「ウロン」「アンドン」は、大槻文彦の『言海』にそれぞれ「字ノ廣東音ナリト云」「字ノ宋音」との注釈みえ、「カンパン(甲板)」や「トン(榻)」などに附された「字ノ唐音」との注(すなわち「唐音語」)とは区別されているかの如くである*4。ただし、「唐音語」という術語を無批判に使うことも問題があろう。詳しくは岡島昭浩氏の「唐音語存疑」を参照されたい。

 「餡」は咸摂匣母開口二等字。匣母字は、中世唐音でアヤワカ行、淅江音系にもとづく近世唐音はアヤワ行で写されるが、全濁声母だから呉音系ではおおむねガ行音で写される(ex.「降ガウ」「護ゴ)。たとえば『支那文を讀む爲の漢字典』は、「餡」に「ガン」「カン」の両音を認める。

 ただし、呉音系でもカ行及びワ行となる場合が有る。すこし細かくいうと、「開口韻母:g-(k-)、合口韻母:w-」と対応する。このことから、「母胎となった呉音字音の原音(主層)では、〈匣母〉がɦ-とφ-/w-に分かれていた可能性が大き」いともいう(小倉肇『続・日本呉音研究 第1部 研究篇』和泉書院2014:145)。ちなみに「餡」字は、潮州や福州、建瓯などの淅江音系では頭子音の匣母が弱化しており、主母音がむき出しになっている*5厦門では、官話系の文言音はh-であるが、白話音はやはり頭子音を脱している(『漢語方音字匯』第二版2003:258)。

 それから、「カン」「コン」という字音について*6。漢和辞典類では、唐音「アン」のほか、漢音に「カンカム)」のみ認めて、ふつう「コン(コム)」という音を採録しない。

 咸摂所属韻のうちでは、覃韻字の一部、厳韻字などが呉音系では「オ段+ン(ム)」で写される。覃韻字の「オ段+ン(ム)」形などは『切韻』よりやや前の状態を反映した和音の祖系音で、古音の状態を留めるものがあったことを示しているだろう、との見方も有る(沼本克明氏など)が、「餡」は陥韻(咸韻の相配去声)所属であって、「エ段+ン(ム)」と写されることはあっても*7、「オ段+ン(ム)」となるのはきわめてありにくいように思える。

 「餡」の「コン」という字音が何に拠っているのか、ちょっと気になる所である

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……と書いていたが、謎はすぐに解けた。『大漢和辞典』の字音欄をみてみると、「(一)カン コン(二)カン ゲン(唐)アン」とあり、(一)は『集韻』反切の「苦紺切」(勘韻)に拠ったことが示されている。『集韻』は、いわゆる「切韻系韻書」とは反切体系を大きく異にしており(改変しており)、「諸橋大漢和」はなぜか第一にこの反切を掲出していることで知られる。

 勘韻は覃韻の相配去声であるから、「コン」(=オ段+ン)という字音が、あくまで“理論上は”導き出せることになる。

 そこではっと思い当ったのが、門井慶喜天才たちの値段―美術探偵・神永美有』(文春文庫2010)に収める大津波悦子氏の「解説である。そこに以下の如くある。

 そうそう、本書を手始めとして、他の単行本を読んでの筆者の推測をひとつ作家仕事場には諸橋轍次の『大漢和辞典』全十五巻(大修館書店)が架蔵されていると見た。

 種明かしをすれば、とある作品で『大漢和』自体が取り上げられているということなのだが、作家の折々の言葉選択にそういう風を感じたのである。もちろん、小説家なのだから言葉にはすぐれて意識的なはず。なにも一種類の漢和辞典を名指しするなんて失礼なことかもしれないが、一読者の推理としてお許しあれ。(pp.310-11

 大津波氏が、「餡」=「コン」という字音に「そういう風」を感じとったのかどうかは知る由もないけれども、門井氏が「諸橋大漢和」を愛用している(かもしれない)証左がここにひとつ加わったといえるだろう。

おさがしの本は (光文社文庫)

おさがしの本は (光文社文庫)

小説あります (光文社文庫)

小説あります (光文社文庫)

人形の部屋 (創元推理文庫)

人形の部屋 (創元推理文庫)

シュンスケ! (角川文庫)

シュンスケ! (角川文庫)

家康、江戸を建てる

家康、江戸を建てる

真田太平記(二)秘密 (新潮文庫)

真田太平記(二)秘密 (新潮文庫)

国語文字史の研究〈4〉

国語文字史の研究〈4〉

続・日本呉音の研究(全6冊セット)

続・日本呉音の研究(全6冊セット)

天才たちの値段―美術探偵・神永美有 (文春文庫)

天才たちの値段―美術探偵・神永美有 (文春文庫)

*1カバー裏と扉とに内容紹介が記してあるが、登場人物の名が「つばさ」になっている。正しくは「つばめである

*2藤田保幸(1998)「書記テキストにおける引用マーカーとしてのカギカッコ用法――池波正太郎剣客商売」を例として――」(『国語文字史の研究 四』和泉書院)。

*3:『大崎梢リクエスト本屋さんのアンソロジー』(光文社文庫2014)に収められた「夫のお弁当箱に石をつめた奥さんの話」も、適度にマニアックで、好みにあう。

*4:「唐音」は「宋音」ないし「唐宋音」などと呼ばれることもあるが、大槻がどの程度これらを厳密に区別しているのかは不明

*5:先に挙げた「胡」も匣母字。

*6:正確にいうと「餡」の韻尾は-nではなく-m。ただし両者は平安後期からすでに混乱していて、いずれも−イ、−ム、−ン、−ニのカナ等で写された。

*7:それだから、「餡」に「ゲンゲム)」という音を認めることがある。たとえば『大正漢和字典』(育英書院)、現行版だと『新漢語林 第二版』など。しかし、あくまで人工音であろうと思う。

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2016-09-11 文庫本で読む『菜根譚』 このエントリーを含むブックマーク

 宗助は一封の紹介状を懐にして山門を入った。彼はこれを同僚の知人の某から得た。その同僚は役所の往復に、電車の中で洋服の隠袋(かくし)から菜根譚を出して読む男であった。こう云う方面趣味のない宗助は、固より菜根譚の何物なるかを知らなかった。ある日一つ車の腰掛に膝を並べて乗った時、それは何だと聞いて見た。同僚は小形の黄色い表紙を宗助の前に出して、こんな妙な本だと答えた。宗助は重ねてどんな事が書いてあるかと尋ねた。その時同僚は、一口説明出来る格好な言葉を有っていなかったと見えて、まあ禅学の書物だろうという様な妙な挨拶をした。(夏目漱石『門』十八*1

 わたし記憶が確かならば、洪自誠/今井宇三郎訳注菜根譚』(岩波文庫)は、まだカバーがついていなかった時代初刷1975年1月刊)では青帯で、なぜか後になって赤帯に編入された。「後に」といっても、具体的にはいつのことなのかわからない。先日、1987年の第15刷*2だったか古本屋に出ていたが、それもすでに赤帯だった。

 この今井版『菜根譚』は、今春の「名著名作再発見」フェアに入っており、その帯が巻かれた本の奥付を見ると、「2016年4月26日第66刷発行」となっているから、「品切・重版未定」になることもなく、ずっと売れ続けているのだろう。たしかハードカバーの特装版*3刊行されたはずだ。

 ところでわたしが親しんだ訳本は、魚返善雄訳『菜根談』(角川文庫1955)の改版(1969刊)である。これは、今井版で「俗語語釈に優れている」(p.389)と評されたものもっとも、「男一匹…」「年増芸者もかたずママけば…」など、訳文に古めかしいところがあるものの、終始くだけた口調だから、内容が頭に入ってきやすい。

 たとえば第二条の訳は、

 しろうとは、シミのない人。くろうとは、腹黒い人。だから人間ジョサイないより、正直がよい。ネコかぶりより、ぶ遠慮がよい。(p.4)

 第二三四条の訳であれば、

 世界のものがもともとミジン人間はミジンのまたミジンからだそのものがもともとアブク、そのほかの物はアブクのアブク。なみの知恵では、悟りきれまい。(p.141)

といった具合*4。また、原文や読み下しを示してあるし、註釈もきわめて簡潔で良い。

 この魚返版、現在古本しか入手できないが、新本屋で手に入る邦訳文庫本としては、今井版のほか、中村璋八・石川力山による全訳注版(講談社学術文庫1986)、それから抄訳だが、湯浅邦弘訳(角川ソフィア文庫、「ビギナーズ・クラシックス中国古典シリーズ、2014)もある。昨年には、野口定男『世俗価値を超えて 菜根譚*5というのが鉄筆文庫に入ったが、こちらは、エセーふうの解説に主眼を置いており、全文を紹介するものではない*6

 魚返版が独特なのは、まず、于孔兼による題詞が省かれているということ*7。次に、上にあげた文庫版のどれもが本文を「前集」二二二条、「後集」一三四条(ないしは一三五条―後述)と分けて、「前集五六」、「後集一二五」、などと示しているのに対して、それらを一緒にして通番で示しているということだ。たとえば「後集一三四」(一三五)であれば、通番で「三五六」となっている。

 魚返は「解説」で、「「菜根譚」のテクストとしては、中国刊本には信頼できるものが見当たらない」(p.217)と述べ、尊経閣文庫蔵の「明刊本「菜根譚前後集二冊」(単行本)と文政重刊本とを「対照することにより、文政本の不注意による「錯簡」や、区切りの誤りを正」すことができる(p.218)ため、明刊本によって「在来日本テクストの誤りを訂正しておいた」(同前)という。文政本は、文政五年(1822)に加賀藩儒者であった林瑜(1781-1835)が刊行したものである

 今井版はその文政本を底本にしており、中村石川版は「内閣文庫*8所蔵の『遵生八牋』*9付録として収録された、覚迷居士汪乾初の明代の刊本を用い、段落区切り方もこれにしたがった」(「凡例」p.6)という。

 文政本は「遵生八牋」本の流れをくむものだが、これとは別に民国二十年(1931)の「還初同人著書二種」に収められた異本もあるという。しかし、こちらは全体を五部に分けているうえ条目の出入りも多く、別系統の本と見なすべきだから、ここでくわしく述べることはしない。

 では、文庫本間での排列の異同に関して述べることにする。

 さきに記したとおり、『菜根譚』全体の構成は「前集」二二二条、「後集」一三四条(または一三五条)で、計三五六条(三五七条から成る

 まず「前集四三」の「風恬浪静中、見人生之真境。味淡声希処、識心体之本然」は、魚返版は「文政本はこの項を彫り落としたらしく、前集の最後にくっつけている」(p.30)とする。したがって文政本に拠った今井版は、「前集四三」から「前集二二一」までが魚返本とはひとつずつずれており、「前集二二二」の位置に「風恬浪静中、見人生之真境。味淡声希処、識心体之本然」を持って来ている。

 魚返版と同じ処理をしているのが中村石川版で、「前集四三」に、「※この一段は文政刊本では前集の最後に置かれているが、ここでは定本にしたがった」(p.76)との注記がみえる。

 次に、「後集十七」である。すなわち、「有浮雲富貴之風、而不必岩棲穴処。無膏肓泉石之癖、而常自酔酒耽詩。競逐聴人而不嫌尽酔、恬淡適己而不誇独醒。此釈氏所謂、不為法纏、不為空纏、心身両自在者」という文章について、今井版は文政本にもとづき「競逐」以下を別項として立てて十八条とする。その注釈には、「内閣文庫本は此の条を前文に続けて一条としているが、底本は文意により別条とする」(p.248)とある中村石川版は内閣文庫本に拠っているから、こちらは切り出さずにそのまま一条とする。魚返版も同様で、「文政本は誤ってこの項を二つに分けている」(p.145)と注する。いずれの処理が適当なのかはいま措くが、このために今井版は、「後集」が魚返版や中村石川版に比べて一条多くなっている(一三五条)のである

 これで、排列順や項目数に「ずれ」が生じた理由がおわかりになったことと思う。

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 『菜根譚』を読むための副読本としては、湯浅邦弘『菜根譚中国の処世訓』(中公新書2010)がある。概説書であるから、もちろん全文は収録していない。また、所々に誤記散見するので注意したい。角川ソフィア文庫抄訳本か、その他の訳本を手許に置きながら読み進めることをおすすめする。

 誤記というのは次のとおり――まずp.28に、魚返版の書名を『菜根譚』とするが、これは誤りで、上記のように『菜根談』が正しい*10

 魚返は意図的にそうしているのであって、「解説」の冒頭に、

 まず書名であるが、「譚」と「談」は同じ意味で、中国の版本にも「菜根談」としたのがあるから、わかりやすいほうの字に改めた。(p.215)

と述べている(「昭和二十八年九月」*11とあるから初版からそうしているようだ)。

 次に、湯浅氏の中公新書白文を示さず、書き下しのみ記しているのだが、その書き下しに誤記が少々ある。「前集一四二」で「人の救難する処に遇えば、…」となっているところ(p.56)は、「救難」ではなく「急難」。ソフィア文庫版は返り点をつけた白文のほか、書き下しを示していて、そちらでは修正されている(p.125)。

 また、「前集七二」で「享受も亦た涼薄なり」となっているところ(p.73)、「享受」ではなく「受享」。これもソフィア文庫版では直っている(p.82)。

 さらに、「後集一〇九」で「皆想念より造成す」とあるところ(p.242)、「想念」ではなく「念想」。やはり、ソフィア文庫で直っている(p.210)。

 条数にも注意が必要で、「善を為して其の益を見ざるは、…」を「前集一六二」(p.160、魚返版は通番一六二、今井版は前集一六一、中村石川版は前集一六二)、「機の動くは、弓影も疑いて…」を「後集四七」(p.183、魚返版は通番二六九、今井版は後集四八、中村石川版は後集四七)、「歩を進むるの処に、便ち歩を退くるを思わば、…」を「後集二八」(p.201、魚返版は通番二五〇、今井版は後集二九、中村石川版は後集二八)とする。

 湯浅氏は「凡例」で、「大阪大学懐徳堂文庫所蔵『菜根譚』(文政五年刊本をもとにした重刊本)」を底本にした旨を述べており(p.31)、「他のテキストとの照合により、文字の一部を改めた箇所がある」(同)と書いているから、あるいは上記の字句の異同も、懐徳堂本に拠ったために生じた部分があるのかもしれない。だとしても、文政本がもとになっているのなら、少なくとも「前集一六二」は、「前集一六一」とあるべき所かと思われる。

 また、「後集四七」、「後集二八」も、今井版と同様にそれぞれ「後集四八」、「後集二九」、となるはずであるしかし、「後集」の次第が、魚返版と中村石川版とによく一致するということは、懐徳堂本も「後集一七」のところで、「競逐」以下を別項として立てていないことが予想される。

 ちなみにソフィア文庫版では、「本書の凡例」で、懐徳堂本に拠ったことが述べられはするけれども、「条の区切りについては、底本を基本としながらも、他のテキストを参考にして改めた箇所がありますので、結果的には、下記の岩波文庫本と同様の区切りになっています」(p.18)と付け加えられている。岩波文庫本というのは今井である

 それから細かいことだが、漢字の読みについて一点。

 中公新書では、「貪私」(前集七八)に「たんし」(p.119)、「貪と為す」(前集六二)に「どん」(p.173)、「貪愛」(後集一〇九)に「どんあい」(p.242)とルビを振っている。ソフィア文庫版もこれと同じ。

 今井版は「貪私」が「たんし」(p.99)、「貪と為す」が「たん」(p.84)、「貪愛」が連声形の「とんない」(p.340)。中村石川版は、それぞれを「どんし」(p.115)、「どん」(p.99)、「とんあい」(p.389)とする。「トム(ン)」「タム(ン)」という字音があてがわれるべきだった透母字(次清音)の「貪」が「ドン」と読まれるようになったのは、比較的近年のことに属するが、上記の「読み分け」はそれぞれの習慣に基づくものなのだろうか。はたまた何か理由あってのことだろうか。

 つい細かいことばかり書き連ねてしまったが、『菜根譚』の副読本として、湯浅氏の『菜根譚中国の処世訓』を強くおすすめしたい。なんと云っても最大の特長は、pp.58-59、pp.101-02、pp.261-66など、新出の木簡による成果を採り入れている点にある。また、コンパクトな体裁でありながら、時代背景や典拠についてもかなり丁寧に説いている。

菜根譚 (岩波文庫)

菜根譚 (岩波文庫)

菜根談 (1955年) (角川文庫)

菜根談 (1955年) (角川文庫)

菜根譚 (講談社学術文庫)

菜根譚 (講談社学術文庫)

世俗の価値を超えて―菜根譚 (鉄筆文庫)

世俗の価値を超えて―菜根譚 (鉄筆文庫)

菜根譚―中国の処世訓 (中公新書)

菜根譚―中国の処世訓 (中公新書)

漢文入門 (1966年) (現代教養文庫)

漢文入門 (1966年) (現代教養文庫)

門 (新潮文庫)

門 (新潮文庫)

*1新潮文庫版(平成十四年改版)p.247。

*2カバーがついていた。

*3ワイド版ではない。

*4しかし、ここでわたしは、魚返の息女・昭子氏の次のような言をおもい出さずにはおれない――「とにかく彼(魚返善雄引用者)は、いつも、どの本も姿勢を正して書いた。身も心もである。読む人にはどれほど面白おかし書き飛ばしたように見えても、実は苦吟に満ちている」(「父魚返善雄の思い出」『漢文入門』現代教養文庫1966,p.218)。

*5渡辺憲司氏の「解説」によると、同書はもと「現代人のための中国思想叢書」の一冊として、1973年4月新人物往来社から刊行されたという。

*6:附言すると、今年6月には野口の『中国四千年の智恵 故事ことわざ語源202』も鉄筆文庫に入った。

*7:魚返版の拠った尊経閣文庫所蔵の単行本(後述)には、「題詞」がもともと無いという(中村石川版「解説」p.426)。つまり魚返が意図的に省いたわけではない。

*8内閣文庫現在独立行政法人国立公文書館移管されている。

*9:この「遵生八牋」には、「菜根譚」を附載するやや後期の十二冊本および十八冊本(国立公文書館蔵)と、附載しない初期の十一冊本(国立公文書館尊経閣文庫蔵)とがあるという。

*10中村石川版の「解説」も、誤って「菜根譚」とする(p.431)

*11:ちなみに、別号の「半鼓堂戯有益斎主人」が記されている。

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2016-08-14 「フェスティーナ・レンティ」 このエントリーを含むブックマーク

 先日、尾崎俊介ホールデン肖像ペーパーバックからみるアメリカ読書文化』(新宿書房2014)を読み了えた。「本の本」が好きな向きや、書物そのものが好きな方にもおすすめしたい好著である

 とりわけわたしの気に入ったのは、表題作ホールデン肖像―表紙絵に描かれた『ライ麦畑でつかまえて』」(pp.28-53)や、「アメリカを変えたブッククラブ―「ブック・オブ・ザ・マンス・クラブ」の過去現在未来」(pp.202-30)などであるが、巻頭の「「フェスティーナ・レンティ」ということ」(pp.10-13)を読みはじめたときに、あれっ、この「フェスティーナ・レンティ」は何かの本で目にしたぞ、という「既視感」があった。

 「フェスティーナ・レンティ」は「ゆっくり急げ」という意味で、尾崎氏のこの文章は、ペーパーバック叢書アンカー・ブックス(Anchor Books)」のロゴが「イルカの巻き付いた錨」になっている、という話から始まる。そして、次のように述べる。

 錨は「引き留める力」の象徴イルカは「先に進む力」の象徴であって、その謂わんとするところは「ゆっくり急げ」ということだったのであるラテン語で言えば「フェスティーナ・レンティ」(Festina lente)。これは元来、為政者が性急なる施策を自ら戒めるための言葉として、ローマ皇帝アウグストゥスウェスパシアヌスに重んじられたものだそうだが、これがやがて「読書の極意」とも解釈されるようになり、そんなことから、かのルネサンスの人文学者エラスムスとも親しかった出版社アルドゥス・マヌティウスもこの言葉座右の銘とするようになって、それで彼は「錨」と「イルカ」を組み合わせて図案化したものを、自分出版する「アルダイ古典叢書」のロゴとして採用したのであった。そしてその伝統が連綿と受け継がれて、二十世紀半ばのアンカー・ブックスのロゴとして再登場したというわけなのである。(pp.12-13)

 ここまで読んでようやく、ああ、とおもい当たり、柳沼重剛『語学者の散歩道』(研究社出版1991)を披く。「フェスティーナ・レンティ」の話はたしかこの本で読んだのだった。

 しかし、いくら探してもその記述が見つからない。おかしいな、わたしの覚え違いだろうかとおもいながら、尾崎著をすっかり読み了えてしまったわけであるが、後日、本の整理をしているときに、柳沼重剛『語学者の散歩道』(岩波現代文庫2008)*1が出てきたので、何気なく読み返していたところ、まさに「Festina lente」(pp.41-48)という一文が目に飛びこんできたのであった。

 わたしの頼りなげな記憶は間違っていなかったわけだが、単行本文庫版との相違を考えずにいたのは不覚であった。

 文庫版では、単行本に入っていた「田舎のねずみと町のねずみ」「クセノポンの『アナシス』」「きわめて異色な本のこと」「役者偽善者」「白鳥の歌」「はじめて暮らし英国で驚いたこと」「一万年後の東京大学あるいはポケットティッシュについて」の七篇が外され、そのかわりに、雑誌図書」に掲載された「Festina lente」「書き言葉について」「カタカナ名前雑感」(収録にあたって「カタカナ語雑感」と改題)「名前について」の四篇が加えられている。

 その「Festina lente」についてみておくと、柳沼氏は、この表現がなぜギリシア語ではなくてラテン語で言い慣わされてきたのだろうか、ということを問題にする。スエトニウス『ローマ教皇伝』「アウグストゥス」の巻には、これが、 Speude bradeos*2(スプエウデ・ブラデオース)というギリシア語で出ていたからだ。

 その後しばらくして、ラテン語の受講者から、「Festina lente」の項がエラスムスの『アダギア』(第二巻一・一)に出ていることを教えられる。柳沼氏がレクラム文庫版の節略本で当該箇所を確認してみると、エラスムスはこの表現を称賛し、アウグストゥスウェスパシアヌスという二人の皇帝がこの表現を好んだと述べていたという。

 それから

 印刷業者アルドゥス・マヌティウスがあるとき私にウェスパシアヌス銀貨を見せてくれたのだが、とエラスムスはつづける。アルドゥスはこれを人文主義者のペトルス・ベンブス(ピエトロ・ベンボ)から贈られたのだそうで、この銀貨の片面にはウェスパシアヌス肖像と VESPASIANUS という文字が、裏の面には、縁(へり)に円環、その中に錨、その錨に海豚が巻きついて帆柱のごとくに立っている図柄が刻まれている。この図柄はまさに、アウグストゥスの Speude bradeos ということばと同じ意味を表している。(略)そして今や、「錨に海豚」は、全世界の友なる印刷業者紋章になっている、と結んでいる。(p.44-45)

 今回検索して知ったのだが、この話題については福岡大の浦上雅司氏も書かれている*3。柳沼氏は触れていなかったが、「錨に海豚」の図案は、なんとヒエログリフ時代から存在したという。

 さて話を戻すと、柳沼氏は、のちに鋳造されたアルドゥスの肖像入りのメダリオンを見て驚く。その裏面の縁に、 Speude bradeos がギリシア文字で刻まれていたというのである。そして、次のように結論する。

 ひょっとしたらアルドゥスは、ウェスパシアヌス銀貨の錨と海豚についてエラスムスから説明を聞いて、感動して自分紋章にしたのかもしれない。そして「ゆっくり急げ」という文句そのものも、アウグストゥス以来ずっとギリシア語で伝えられてきて、それをエラスムスが『アダギア』で、これは Festina lente ということだと説明したのが、このラテン語の発端だったのかもしれないと思える。(p.45)

 ともあれ、わたしの「既視感」は解決されたわけで、これでようやくすっきりした。こういうこともあるから単行本文庫本とを重複して持っていても、うっかり手放せないのである

語学者の散歩道 (岩波現代文庫)

語学者の散歩道 (岩波現代文庫)

*1:柳沼氏は、この文庫版が刊行された翌月の7月永眠された。

*2:「o」はマクロン付きの「o」。以下同。

*3:柳沼重剛編『ギリシアローマ名言集』(岩波文庫)がこの表現を取り上げていることにも言及されている。

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2016-07-13 『学芸記者 高原四郎遺稿集』 このエントリーを含むブックマーク

 五年半ほど前のことです。「阿部真之助の本」というエントリを記した際に、書誌学者の森洋介氏が、「阿部部長による東京日日新聞學藝部の黄金時代を偲ぶ」著作の一冊として、非売品の『学芸記者 高原四郎遺稿集』(高原里子1988)という本をすすめてくださったことがありました。

 今年に入って、高原氏のご遺族の方がそのコメント欄たまたまお目を留めて下さり、当該書を譲ってくださったのでした。

 はやいもので、このブログをはじめてから十年以上の時が経ちました。その間、ブログを通じて多くの方々との出会いがありました。そのひとつひとつの御縁に、わたしはたいへん感謝しております。それに対する「恩返し」がいささかなりともできればと、そしてまた、たったひとりの読者でもいい、わたしのこの拙い文章が、どこかのたれかになにがしかの有益な情報を提供できたらいいなと希いながら、このブログを記すことが多くなりました。最近は、なかなか以前のように頻繁に更新することができなくなりましたが、たまに覗いてやって、「あいつまだ生きてるな」と確認していただけるならば、これに過ぎる喜びはありません。

 さて今回は、その『学芸記者 高原四郎遺稿集』についての話――。

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 さる方から、『学芸記者 高原四郎遺稿集』(高原里子1988)を頂いた。東京日日新聞毎日新聞)の記者であった故・高原四郎氏の一周忌の際に、ご遺族が編んだものだ。「偲ぶ」「記者の眼」「読む 聞く―書評落語評―」「随想」の四部構成で、さらに「高原四郎年譜」、萬里子夫人による「感謝をこめて」が附いている。

 「偲ぶ」は、高原氏を知る人々による追悼文からなり、その書き手には、井伏鱒二永井龍男横山隆一、殿木圭一、椎野力、扇谷正造大山康晴小林治雄……等々、錚々たる顔ぶれが並ぶ。

 「記者の眼」以降は、高原氏の文章(それまで未公表だったものを含む)から構成されている。

 その高原氏の文章について、同書を下さった方は、書簡に「小生の好みでは 回想の帝大新聞 河合(教授)事件 脛の傷 古本の海(で) あたり/従軍コント 脛の傷 は故扇谷正造さんのご推奨でした」とお書きになっていたので、まずはそのあたりの文章から読み進めて、さらに興味の赴くまま読んでいる。

 たとえば阿部真之助に関する「阿部さんの思い出」や「死に上手だった恐妻家阿部真之助氏」、わたしの好きな獅子文六も出て来る「挿絵の思い出」、それから、「『良人の貞操』御用心」、「菊池寛先生(上)(下)」、「吉川(英治)さんの思い出」、「ポスト四天王 小三治を推す」等……。

 「脛の傷」は、さすがに扇谷が名品と評しただけあって、エッセイアンソロジーに採りたくなるほどだし、「古本の海で」はあたかも短篇小説であるかのような味わいがある。

 それにわたしは、故人の人柄を髣髴させるような文章をよむのがすきなので、高原氏の人物描写や人物評をとりわけおもしろく読んでいる。たとえば次のようなくだり――。

 かくいう私も低空すれすれの状態で本郷を出たのだった。竹田助教授からは何回も一度教室へ出てくるようにという勧告を受けた。卒業口述試験には、誰でも読めそうな漢文が読めず塩谷温教授が啞然として、君は卒業したらどうするつもりかときいた。それでもお情けでどうにか卒業ときまって、宇野哲人教授にお礼の挨拶を述べ、ちっとも勉強しないですみませんとあやまったら、いや、いや、君は新聞勉強をしたからそれでよろしい、大学というところは何かひとつ身につけて出ればそれでいいのだと、あたたかくいってくれたのは肝に銘じた。(「回想の帝大新聞」p.113)

 主任教授塩谷温先生(私は支那文学科に在籍していた)は、口述試験のとき、「卒業なさっても、東洋文学精神は忘れないように……」と念を押してパスさせてくれた。

 宇野哲人先生にも在学中の不勉強をおわびしたが、先生は「いや、大学へきて何かひとつ身につければいい。まあ君は新聞を身につけたからね」といってくれた。(「トロッコ時代」p.140)

 あるいはまた、次のような文章

 そんな関係で『集団』同人原稿がよく掲載された。高見順さんに書いてもらった記憶もある。そのころの高見さんは転向以前で、プロ文学の陣営に属していた。それらのグループのなかのひとりに林熊王という人がいた。でっぷりした感じの、そして同人のなかでも重きをなしているように思われる人間であった。その人の原稿も何度か文芸欄に出た。ところが、その林熊王が転身して、大阪漫才の作者、秋田実になったことを知ったのは、昭和十三年の暮れであった。大阪カフェーで偶然この人物に出会った。彼は大宅壮一さんといっしょであった。大宅さんは私に「これは秋田実君だよ」と紹介してくれたが、私は思わず「なんだ、林熊王さんじゃないですか」といってしまった。秋田さんは、それを例によって「あっはっはっはー」と豪放に笑いのけた。(「トロッコ時代」p.130)

 そのなか(「集団」同人引用者)に、高見順さんがいたわけである。細面のやさ男で、ヒゲづらの、林熊王などと対照的な感じであった。

 (略)その当時既に中堅作家となっていた大阪藤沢桓夫さんに手紙を出して寄稿をお願いした。

 運よく承諾の返事があって、約束の期日に原稿が届いてきた。ところが、その原稿が長すぎたのである

 五枚くらいと頼んだのが、六枚半もある。これではとても掲載しきれないので、蛮勇をふるって、その原稿適当な長さにまで削りまくってしまった。

 さらに表題のサブタイトルに「清玄君へ」とあったのだが、それではいかに字面が淋しいと感じて「獄中の清玄君へ」と「獄中の」の三字を加えた。この「清玄君」は田中清玄氏であることはいうまでもない。

 その掲載誌作家に届くと、すぐ折り返し藤沢さんから速達はがきがきた。

 いま新聞をみたが、題を勝手に直してある、まことけしからんから訂正しろというのであった。

 それから時間もすると、また速達がきた。題だけかと思ったら、内容を削っている。こんなことでは我慢ができない、この件は文芸家協会へ提訴して適当に処分してもらうと書いてあった。

 えらいことになってしまったと、私は途方にくれた。

 そこで考えたのは、藤沢さんと「大学左派」時代に面識ある高見さんたちに、このとりなしを頼もうということであった。赤門前の喫茶店に林さんや高見さんに集まってもらって、事情を話した。

 ところが、高見さんは意外に戦闘的であった。題名に手を加えたぐらいでおこるなんて、思いあがっているというのである

 田中清玄が獄中にあるのは事実なのだから、そのことを題名に書き加えて何が悪いか、それに多少削られたからといって文句いうほど、彼の文章価値あるかなど、とりなしてもらうどころか、かえって挑発的であった。

 それほど彼は闘争的であり、既に藤沢さんとは思想的立場をはっきり区別していたようであった。

 結局、林熊王さんが手紙を書いて諒解を求めてやろうということで、この喫茶店の会合は終わったが、あのおとなしそうな高見さんが、たいへん強い立場をとったことに、私は彼のシンの強さを感じとった。(「レビューガールにふられた高見順」pp.277-79)

 ちなみに秋田実東京帝大在学時、「一年上には、中島健蔵今日出海中野好夫林房雄、同年には、武田麟太郎藤沢桓夫舟橋聖一堀辰雄らの仲間がいて、ほぼ同じ世代では、大宅壮一水野成夫小林秀雄らもいた」(戸田学上方漫才黄金時代岩波書店2016:8)という*1

 それから菊池寛については、次のようなくだりなどが印象に残った。

 その底知れない知識のなかから、菊池さんは文芸春秋の入社問題をつくった。あるとき、その問題を私に示して、「うちの試験はむずかしいだろう」と得意そうであった。その難問題のなかに「橘曙覧」というのがあって、私はなにげなく「タチバナショウラン*2と読んだ。それは「ショウラン」でなく「アケミであることは承知していたが、人物さえわかればいいと思ってそう読んだのであるが、先生はそれをききとがめた。「だめだね。近ごろの大学出なんてちっとも勉強していないんだね」ときめつけた。とんだテストを受けたことであったが、もしそれを正しく読んで「江戸後期の歌人」くらいの簡単な答えをしたら、どうであったろうか。あるいは眼を細めて「君も案外知っているんだね」くらいの言葉があったかもしれない。軽率な読みかたをして、とんだ失敗をした。「酒は灘、醤油野田だね。それじゃあ酢はどこだい」と先生は私にきく。「さあ酢はね」「すわ鎌倉さ」といって、嬉しそうに笑う。そんなナンセンス問答をよくやったものである。若い芸妓を相手に「ネズミが蔵の穴から出てきて、右を向いて、左を向いたんだって、どうしてだかわかる」と質問する。女たちはガヤガヤさわいで、いろいろな答を出す。それが静まると、おもむろに「両方いっしょに向けないからだよ」といって女たちを啞然とさせて喜んでいた。二・二六事件の直後、私は大まじめな顔で先生にいった。「斎藤(実)さんや高橋(是清)さんが殺されたことをきいて、天皇はふらふらっとよろめかれたそうですね」「ふうん、そうかね」「朕は重心(重臣)を失ったって」。まんまとひっかけて、私はいい気持であった。阿部定事件についてもそういう問答の新作がたくさんできた。先生はその新作で芸妓たちをかついでは喜んでいた。酒ものまず、歌も歌わない先生にすれば、そこいらが精いっぱいの遊びであったろう。(「菊池寛先生(上)」pp.246-47)

 「橘曙覧」のやり取りでおもい出したが、平野岑一『文字は踊る』(大阪毎日新聞社東京日日新聞社、1931)に次のような記述があった。

 原敬氏の名は、「タカシ」といふのが、ほんとう(ママ)の讀み方であるが、世間では、「ケイ」といふ音讀みでとほつてゐた。濱口雄幸氏は、「ヲサチ」であるが、「ユウコウ」(ママ)でとほつてゐた。どちらも、何と呼ばれても、平氣なやうであつた。犬養毅氏は、「ツヨシ」であるが、これも「キ」で聞えてゐる。本人は、別段苦にもしないやうである。しかし、名前を讀みちがへられると、憤慨する人もある。

 法學博士末弘嚴太郎氏は、スポーツ仲間では、「ガンチヤン」でとほつてゐたが、これは、「嚴」を「巖」と取りちがへたものらしい。氏は、ある學生が、「末弘ゲンタロウ先生」(ママ)といつたので、叱りとばしたといふ話がある。ほんとうは、「ゲンタロウ」でもなく、「イヅタロウ」といふのである。(p.210)

 また平野といえば、『学芸記者』に、大阪毎日新聞社校正部編『校正研究』(春陽堂1929)の「事実上の著者は校正部長平野岑一」(「校正恐るべし」p.403)とあった。ちなみに平野は、同書の序文を書いている*3

 最後に、獅子文六については次のようにある。

 ある日、例によって随筆を頼みに文六さんの家を訪れたとき、私の顔を見るなり「おい、とうとう朝日から小説の注文がきたよ。おれはニチ(東京日日新聞―現毎日新聞)の方が先にくると思ってたんだがね」といった。その当時、新聞小説舞台に出るのはごく選ばれた作家に限られていた。文六さんはそれ以前に、報知新聞に『悦ちゃん』を連載して好評を博した経験者であり、当然注目される作家ではあったが、自分自身でも必ず大新聞から依頼があるものと、心のなかでは自信を持っていたらしい。そしてついにその機会を得たというわけであったが、できれば東日の方が自分の気風にあっていると思っていたように思われた。私は競争紙に先手をとられてくやしかったが、それはそれとして「よかったですね。御成功を祈りますよ」といった。朝日の夕刊一面に出たその小説は『達磨町七番地』であった。調べてみると、昭和十二年の作品とあるが、その話をきいたのは、その前年の暮ごろではなかったかと思う。文六さんが毎日新聞にはじめて登場したのは、昭和十三年の『沙羅乙女であるが、そのとき私は社会部に転勤していた。

 獅子文六さんは古くからの野球ファンでもあった。戦後都市対抗野球をみてもらって、その観戦記をお願いしたことがあった。後楽園球場のスタンドにならんで観戦中、しきりに文六さんは戦前プロ野球をなつかしがっていた。巨人の沢村投手はなやかな時代のことであろう。阪神の強打者景浦がバックスクリーンに打ち込んだホームランがいかにめざましいものであったかを話してくれた。その当時の後楽園はいまみたいに満員ということはなく、食堂でビールを飲みながらのんびりとゲームがみられたという話もしていた。学生野球では出身校とあって慶応ファン、したがってアンチ早稲田であった。プロ野球アンチ巨人。「いったい、早稲田巨人ファンなんて」と痛烈にこきおろす。(「挿絵の思い出」pp.198-99)

 『沙羅乙女』連載終了前後の文六先生については、「こんなところに獅子文六」をご参照いただきたい。

 獅子文六について書かれた文章は、気がつくかぎりチェックしているが、最近では、大佛次郎『「ちいさい隅」の四季大佛次郎エッセー』(神奈川新聞社2016)にも「獅子文六」というエッセーが収められていた(pp.214-17)。1963年4月16日付「神奈川新聞」に掲載されたもの。

 大佛曰く、「文六さんの小説は、実は社会批評なのである日本日本人に対する観察なのである人間の面白さ、自分は賢いと信じている愚かさに対する批評である。また文六さんにおそらく恵まれなかったであろう底抜けで快活な人生に対する讃歌、大ぼら吹きに対する礼讃なのである」(p.216)。

上方漫才黄金時代

上方漫才黄金時代

*1:同書には、「文筆に親しみ、高見順新田潤などと同人雑誌も出した」(p.8)ともある。その「同人雑誌」が、「集団」をさすと思われる。

*2ママ、「ショラン」ではなく。

*3わたしはこの『校正研究』を持っていないが、改訂版大阪毎日新聞社『文字と鬪ふ』(1940)を所有している。

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2016-05-26 「爆笑」誤用説 このエントリーを含むブックマーク

 岡本喜八『にっぽん三銃士 おさらば東京の巻』(1972東京映画)という映画のなかで、小林桂樹岡田裕介との間に次のような会話が交わされる。

岡田 まあ、すさまじきものは宮仕えってことです

小林 すさまじきじゃないよ、すまじきものは宮仕えだよ。それがどうした?

小林 華燭の宴*1! カッ、近頃の若い者はこんな字も読めんのか

岡田 こんな字、当用漢字にないはずですがね

小林 あ…あるはずだ!

岡田 三階に部屋なし

小林 違う違う、三界に家なしだよ!

 原作五木寛之著)は未読なので、このようなやり取りがそこにあるのかどうか分からないが、こういった個人的思い込みに基づく誤用誤読を指摘するのは容易なことである

 だが、しばしば「誤用」といわれる表現なかには、よくよく調べてみると、実際にはそうとは言い切れなかったり、むしろ実はそれこそが「正用」だったりするものがある。

 「爆笑」などは、その最たる例である

 この「爆笑」、近年の国語辞書類の語釈ではどう説かれているのかというと……(以下の引用では、符号の形を改めたところがある)。

ばくしょう【爆笑《名・ス自》大勢が大声でどっと笑うこと。(『岩波国語辞典【第七版】』岩波書店2009)

ばく-しょう【爆笑―セウ《名・自サ変》大勢が声をあげていっせいに笑うこと。「聴衆から―が起こる」「会場の―を誘う」「―王」>弾けるように笑う意から。[表現]近年、一人で大声を上げて笑う場合にもいう。(『明鏡国語辞典【第二版】』大修館書店2010)

ばくしょう ―セウ【爆笑―する(自サ)おかしな話を聞いて、その場に居る人が一斉にどっと吹きだすようにして笑うこと。(『新明解国語辞典【第七版】』三省堂2012*2

爆笑〈・・セウ〉(物がはじけるように)人々が一斉にどっと大声で笑う。「―のうず」(『岩波新漢語辞典【第三版】』岩波書店2014)

 すこし遡って、『新版国語辞典』(講談社学術文庫1984)から

ばくしょう【爆笑(名・サ変自)大ぜいでどっと笑うこと。

 以上の如く、判で押したように、「『大勢で』笑うこと」または「『一斉に』笑うこと」、となっている。『明鏡』のみ、「一人で大声を上げて笑う場合にもいう」と記しているものの、それは「近年」の用法であるとみている。

 ところが、『三省堂国語辞典【第七版】』(三省堂2014)を引くと、次のようにある。

ばくしょう爆笑](名・自サ)ふき出すように大きく笑うこと。「さむらいが大口をあけて―した・会場が―のうずになる」〔笑う人数が問題にされることが多いが、もともと、何人でもよい〕

 「もともと、何人でもよい」。つまり、大笑いしているのであれば、大人数ではなくたった一人でも誤りではない、ということである

 この注釈はいかにして追加されるに至ったか。種明かしは、飯間浩明三省堂国語辞典のひみつ』(三省堂2014)でなされている。飯間氏は次のように述べている。

 テレビで言われることはすぐ広まります口コミで、ツイッターで、「『爆笑』は大人数で笑うことらしいよ。知らなかった」と、ごく軽い気持ちで伝えられます

 実際には、話を伝える本人も、周囲の人々も、それまで「爆笑」をひとりの場合に使っていて、べつに何の不自然さも感じなかったはずです。長年違和感がなかったのに、ちょっとテレビで言っていることを聞いただけで、あっさり「自分は間違っていた」と認めてしまうのは、いささか早計というべきです。

 「爆笑」は比較的新しいことばで、昭和時代に入ってから一般化したものと考えられます。その当初からひとりで笑う例はありました。(pp.38-39)

 そして、直木三十五の「(ひとりで笑う)爆笑」の使用例(1929年)を示している。

 しかし「爆笑問題が根深いのは、上記のように多くの国語辞典が「爆笑」=「大勢で笑うこと」、と明記しているからである。飯間氏は、その記述が『辞海』(1952年)あたりまで遡ると見て、「『爆笑』の意味がそのように(大勢で笑うというように―引用者)変化したからではなく、辞書編纂者の不注意ないし誤解によるものだったと考えられ」る(p.40)、と結論している。

 そこで、『三国』の第七版では、「ひとりで笑う例、大勢で笑う例を仲よく並べ、さらに注記を添えて、どちらでも使えることを示し」た(同前)わけである。「比較的新しいことば」といいながら、わざわざ「さむらいが大口をあけて―」という作例にしているのが面白いが、それはともかく、「爆笑」=「大勢で笑う」説には何の根拠もないことになる。

 また神永曉『悩ましい国語辞典辞書編集者だけが知っていることばの深層』(時事通信社2015)は、徳川夢声漫談集』(1929年から「ひとり笑い」の「爆笑」の例を拾っている(pp.208-09)*3

 恥ずかしながら、わたしも以前、「爆笑」は「大勢で笑う」義だと信じて疑わなかったクチで、四、五年前のさるコラムに「爆笑はもともと『万座爆笑』などといって大勢で笑うことを意味した」、と書いたことがある。

 ちなみに小谷野敦氏は、『頭の悪い日本語』(新潮新書2014)で、

 これは最近知ったのだが、(「爆笑」は―引用者)大勢でどっと笑うことらしい。私も他と同様、一人でも「爆笑」を使っていた。だが、思わず弾けるように一人で笑ってしまうこともあって、そういう時は何と言えばいいのだろう。(p.27)

と書いているが、「そういう時」にも「爆笑」を使って差し支えない、ということになる。

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 青空文庫で探ってみると、「爆笑」=「ひとりで笑う」例がいくつも見つかりました

 「全然〜ない」や「銀ブラ」(「銀座ブラジルコーヒーを飲む」に由来する、という俗説)、この「爆笑」など、俗説がひとたび「正用」として広まってしまうと、後々改めるのに、たいへんな労力を要することとなります

 関連記事として、「言葉の正しさ?」「『全然〜ない』の神話」を挙げておきます。あわせてご参照くださいましたら幸いです。

岩波 国語辞典 第7版 普通版

岩波 国語辞典 第7版 普通版

明鏡国語辞典 第二版

明鏡国語辞典 第二版

新明解国語辞典 第七版

新明解国語辞典 第七版

岩波 新漢語辞典 第三版

岩波 新漢語辞典 第三版

国語辞典 改訂新版 (講談社学術文庫)

国語辞典 改訂新版 (講談社学術文庫)

三省堂国語辞典のひみつ

三省堂国語辞典のひみつ

悩ましい国語辞典 ―辞書編集者だけが知っていることばの深層―

悩ましい国語辞典 ―辞書編集者だけが知っていることばの深層―

頭の悪い日本語 (新潮新書)

頭の悪い日本語 (新潮新書)

*1:手許のメモによれば、「華燭の典」ではなく「華燭の宴」。

*2:手許に第三版(1981年刊)が有るので見てみたが、全く同じ語釈であった。

*3:そういう古い確例を拾いながらも、神永氏は、「爆笑」=「大勢が一度に笑う」というのが「本来意味であると捉えている。

甕星亭主人甕星亭主人 2016/05/27 22:46  何時の間にか、爆笑の語義が変わってたのですね。 TVプログラムを視無い所為か一向に気付きませんでした。 一同爆笑したって態々云わなく良いのか。 時勢に遅れてるのを痛感しました。

higonosukehigonosuke 2016/05/28 23:25  コメント下さり、ありがたく存じます。語義が変わったというより、人為的に歪められてしまっていた、とでもいうべきでしょうか。
 しかしわたしも、俗説の紹介に荷担したという意味で、責任を感じております。

2016-05-08 藤枝晃『文字の文化史』/聖徳太子 このエントリーを含むブックマーク

 藤枝晃の『文字文化史』は、「文字漢字好きのバイブル」ともされ、これまでに岩波書店単行本1971年刊)、岩波時代ライブラリー版(1991年刊)、講談社学術文庫版(1999年刊)、と何度か形を変えて世に出ている。だが、現在はいずれも絶版もしくは版元品切である

 わたし学術文庫版が刊行された際にこれを求め、センター試験直前だというのに夜更かしして読んでいた記憶が有る*1。その後、同時代ライブラリー版も購い、同好の士には、事あるごとに一読をすすめている。

 同時代ライブラリー版のあとがきに、「アカデミーフランス学士金石文アカデミーのこと)は、この小著を私の一生の仕事ダイジェストと見なした模様である」(p.292)とあるが、事実、このことは、小題のつけ方からもうかがい知れる。たとえば、「長城のまもり」(同時代ライブラリー版p.90)というのは、藤枝による雄篇(1955)と同じタイトルである。その論考は、「森鹿三教授主宰の居延漢簡研究班の主力メンバーとして執筆した」もの(礪波護「藤枝先生の学恩」『京洛の学風』中央公論新社2001所収:48)で、「系統的史料整理の方法とその有效性を提示した」(籾山明『秦漢出土文字史料研究形態制度社会―』創文社2015:338)などと評される。

 『文字文化史』の副読本としては、藤枝晃『敦煌学とその周辺』(ブレーンセンター1999)が挙げられる*2藤枝自身の「コディコロジー」(codicologie)*3確立など、「その後」の進展が述べられている。

 さて先日、「聖徳太子研究最前線」というブログの、「三経義疏中国撰述説は終わり」や、その続篇「藤枝晃先生のもう一つの勇み足」おもしろく読んだ。

 ブログ主である石井公成氏は、敦煌学における藤枝の功績を認めながらも、彼の「三経義疏中国撰述説」を批判している。藤枝説は、『敦煌学とその周辺』の「第三回講座 聖徳太子」(pp.107-36)で(裏話も含めて)手軽に知ることが出来る。そこで藤枝は、「(三経義疏は)間違いなく渡来物です」(p.134)と言い切っているのだが、石井氏はその説を誤りとして斥けているわけである

 石井氏は、今年初めに『聖徳太子実像伝説の間』(春秋社)という一般向けの本も出されており、pp.34-36 やpp.167-73 あたりに、上掲のブログ記事で展開される話題をさらに詳しく平易に説いている。それは、「森博達氏や筆者自身を初めとする変格漢文研究の成果と、仲間たちで開発したNGSMと称するコンピュータによる比較分析方法」(p.169)に裏打ちされているから学説は印象論にとどまることがないし、説得力がある。

 個別的には、たとえば、次の指摘など興味ふかいものがある。

 ただ、三経義疏は変格漢文が目立つとはいえ、「憲法七条」および変格漢文で書かれた『書紀』β群の諸巻に多数見られる「之」を文の中止・終止の形で用いる用法が、まったく見られません。これは、文体面での重要な違いです。「憲法七条」と三経義疏を同じ時期に同じ人が書いたとは、とうてい考えられません。(p.173)

 また、聖徳太子の別名「厩戸王(うまやとおう)」が現存史料には全く出て来ないという指摘なども面白かった。ということは、

 なお、(蘇我)馬子と呼んでいるが、その「子」の字は、孔子孫子と同じような尊称である。したがって名前本質は「馬」となる。一方の厩戸皇子も「うまやと」で、また厩戸の娘も「馬屋古(うまやこ)女王」であり、「うま」という名前共通性も注目される。

吉村武彦『蘇我氏古代岩波新書2015:120)

という記述の後半部などは、怪しくなってくるのか知ら。

文字の文化史 (講談社学術文庫)

文字の文化史 (講談社学術文庫)

京洛の学風

京洛の学風

敦煌学とその周辺 (対話講座なにわ塾叢書)

敦煌学とその周辺 (対話講座なにわ塾叢書)

聖徳太子: 実像と伝説の間

聖徳太子: 実像と伝説の間

蘇我氏の古代 (岩波新書)

蘇我氏の古代 (岩波新書)

*1解説は、藤枝の娘婿・石塚晴通氏が担当

*2特に「第一回講座『文字文化史』のあとさき」。

*3:「古写本の材料・かたち・書き方・作り方・しまい方など、写本の内容以外の一切のことを追求してい」く(p.24学問のこと。籾山前掲の「序章」を読んで知った術語、「搬送体」(石上英一の造語)とも重なり合う概念であろう。

森 洋介森 洋介 2016/05/09 23:41  『敦煌学とその周辺』は、一九九九年三月刊行の201ページの版と同年十二月刊行の202ページの版とがあること、CiNiiで確認されます。後者を所有する友人によると、石塚晴通氏による編集後記が201ページから202ページにかけて記され、前者が非売品であった事と、誤記を訂正し寫眞を一部差し替えた旨が書かれてゐる由。
 藤枝晃先生追悼文集刊行会事務局編『藤枝晃』(自然文化研究会、二〇〇〇年六月)を二〇一三年に讀んだことがあり、聖徳太子の功業を否定するやうな研究への抵抗は、京都や奈良のやうな寺や信者の多い地域では想像以上であると思ったことが記憶に殘ってゐます。

higonosukehigonosuke 2016/05/11 01:38  どうも有難う御座います。私が持っているのも、一九九九年十二月刊行の編輯後記が附いた版です。そこで石塚氏は、「第三回講座(聖徳太子―引用者)以降分は(略)内容的にもその後の学界の進展から見て如何かと思われる部分を含み、公表にはいささかのためらいも伴った」(p.201)と書かれています。ここ十数年間における聖徳太子研究の進展も考慮されてのことでしょうか。
 ところで本文中には、石塚氏による註釈が時折挟まれています。たとえば「奈良時代の日本には仏教の注釈書が全くない」という藤枝の発言に対しては、「これは言い過ぎであり、奈良時代後期には日本撰述の注釈書が確実に著作されている」(p.124)、とあります。
 ご紹介下さった『藤枝晃』は未見でした。興味を引かれるところです。

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2016-04-25 「二銭銅貨」「心理試験」のことなど このエントリーを含むブックマーク

 年明けに「江戸川乱歩「二銭銅貨」と点字とビブリア古書堂」(「くうざん、本を見る」)を拝読しておおいに触発され、このところ、乱歩の初期作品をちびちび再読するなどしていた。

 青空文庫版「二銭銅貨」の底本たる光文社文庫全集本(第一巻『屋根裏散歩者』)は、前掲ブログにあるように平凡社全集(S.6)に基づくが、末尾の校異(山前譲「解題」)はテキスト全体の異同について、「初出(T12.4「新青年」)、初刊本(T14.7春陽堂創作探偵小説第一巻『心理試験』)、平凡社全集(S6.6『江戸川乱歩全集第一巻)に大きな異同はない」(p.653)と述べ、また点字部分については、「桃源社全集(S36.10江戸川乱歩全集第一巻)では点字暗号を訂正して書き改めている。本書もこれにならった」(同上p.654)とあるのみで、それ以上詳しいことは書いていない。

 点字暗号改訂に関しては、今野真二リメイク日本文学史』(平凡社新書2016)によれば次のようである

 なお、「二銭銅貨」では暗号点字がかかわっているが、初出時(『新青年』発表時)には点字に関する誤りがあり、桃源社版の『江戸川乱歩全集』(一九六一年〜一九六三年)においてそれが訂正された。しかし、その後に読者からの指摘で、点字部分について、再び『新青年』に拠るようになったために、また点字に関する誤りがいわば「継承」されてしまうことになった。このことについては『日本探偵小説全集2 江戸川乱歩集』(一九八四年、創元推理文庫)の戸川安宣の「編集後記」に述べられている。現在入手しやすいものとしては、『江戸川乱歩傑作選』(昭和三十五年発行、平成元年四十八刷改版、平成十七年八十八刷、新潮文庫)が桃源社全集踏襲している。例えば、この『江戸川乱歩傑作選』の二八〜二九頁に示されている点字の解読表は、リライト版が二四八〜二四九頁に示す解読表と異なる。例えば「チ」と対応する点字の形が異なっている。こうしたことも広い意味合いでの「書き換え」にあたる。乱歩は自らの誤りに気づいてそれを訂正=書き換えたが、それがまた第三者の手によって、「誤り」のかたちに引き戻されたことになる。そして、点字を自ら読むことができない多くの読者はそのことに気づかない。(p.181)

 戸川保宣「編集後記」は今ただちに参照できないので、ちょっとわかりにくいが、「読者からの指摘」とは、乱歩自身による訂正を訂正だとは思わずに(別のテキストと比べるなりして)誤植と解した「指摘」、ということを意味するのだろう。

 次に『江戸川乱歩傑作選』を見てみる(手許のは「平成二十一年四月二十日 九十三刷改版」で、頁数だとpp32-33となる)。今野氏によると「桃源社全集踏襲し」たとのことであったが、これは「くうざん、本を見る」において「新たな異文」とされたもの、すなわち拗音の扱いを、

イ段音の仮名点字 + ヤ行音の仮名点字

とするもので、前掲ブログにあるとおり、『日本文学 100年の名作1 夢を見る部屋』(新潮文庫2014)に出ているものと同じだ。

 見かけ上は、オリジナルから拗音符を抜いた形だが、kuzan氏によれば「改訂方式から修正と考えた方がよい」ということになる*1。『日本文学100年の名作』所収のものは、恐らく、同じ新潮文庫の『江戸川乱歩傑作選』をそのまま引き写しているのだろう。しかし、作中には「点字五十音、濁音符、半濁音符、拗音符、長音符、数字などが、ズッと並べて書いてあった」とあるのだから、拗音符を無視してしまうと、文章理解にも影響が出て来ることになりはしまいか

 また、今野前掲の文中に「リライト版」とあるのは、「少年探偵 江戸川乱歩全集」(ポプラ社)の第37巻『暗黒星』所収版(1971)をさす。リライト氷川瓏(渡辺祐一)が行っているとされる。このポプラ社版もいま手許になく、直ぐには参照できない。よって確かなことはいえないのだが、上引に「「チ」と対応する点字の形が異なっている」とあるのは、正確にいうと、「「チ」に対応する部分が拗音符の点字に改められている」ことだと解せそうである

 さてそこで、「新たな異文」の出現がどこまで遡れるのか、にわかに気になってくるわけだが、角川文庫版『D坂の殺人事件』(2016)*2所収の「二銭銅貨」もこの形になっている。いや、実はもっとひどくて、解読のためのキーワードとなる「南無阿」「弥陀仏」が、全て「左縦書き」ではなく「右縦書き」に改められてしまっている。すると、たとえば「コ」「カ」は、反転してそれぞれ「タ」「ヤ」になってしまう。文中でも、登場人物松村が、わざわざ「今、南無阿弥陀仏を、から始めて、三字ずつ二行に並べれば」云々と言っているにもかかわらず、である

 角川文庫の拠っているのは、旧版角川文庫一寸法師』(1973)所収のものらしい(例の水色の背の文庫だろうが、『一寸法師』は持っていなかったと思う)。だとすれば、この「異文の異文」は四十年以上前から存在していることになるが、本当だろうか。あるいは、この度の新版が書き改めたものか。

 いずれにせよ、「新たな異文」は『江戸川乱歩傑作選』(1960年旧版から?)や角川文庫版『一寸法師』(1973)などにも見える形であるらしい。

 ついでに、最近出たものをいくつか見ておくことにしよう。

 たとえば岩波文庫所収版(千葉俊二編『江戸川乱歩短篇集』2008)pp.28-29に掲げられる点字暗号は、オリジナルのものである。底本は初出誌(T12.4)に基づいており、なおかつ、「平凡社全集版と校合」したために、点字が改められることはなかったわけである。昨年改版された、春陽文庫版(江戸川乱歩文庫心理試験』所収)pp.76-77も、『江戸川乱歩全集』(春陽堂昭和29年昭和30年刊)を底本としているからオリジナルのままである

 一方、『桜庭一樹江戸川乱歩傑作選 獣』(文春文庫2016)所収版pp.32-33は、光文社文庫全集版を底本としているから修正後の形となっている。

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 この1月に、NHK-BSプレミアムで「シリーズ江戸川乱歩編集 1925年明智小五郎」が放送された。「D坂の殺人事件」(1.11放送)、「心理試験」(1.23放送)、「屋根裏散歩者」(1.24放送)の全三話で、三篇とも、明智を満島ひかりが演じていた。

 これまでの映像作品では、小林少年女性が演じたことは有ったが(実相寺昭雄『D坂の殺人事件』1998の三輪ひとみ*3)、女性が明智に扮したのは初めてではないか。いずれも「ほぼ原作どおり」の映像であるとうたっている。たとえば『D坂』は、明智と「私」とが谷崎潤一郎「途上」の話をすることなどはカットされているが、会話や展開などはほぼそのままであった。

 満島以外も配役に凝っており、『D坂』の「私」は“アーバンギャルド”の松永天馬、古本屋のおかみに中村中(その手があったか!)、小林刑事には、「平泉成」の物まねで知られる末吉くん。『心理試験』の蕗谷清一郎は菅田将暉*4笹森判事田中要次下宿の老婆に嶋田久作*5。そして『屋根裏』の郷田三郎は篠原信一役者ではないので台詞はほとんどなし)。

 選曲面白くて、『心理試験』には、ダリオ・アルジェントサスペリアPART2*6挿入曲子守唄)「スクール・アット・ナイト」や、欧陽菲菲「恋の追跡」、丸山圭子「どうぞこのまま」が使われているし、『屋根裏』には尺八アレンジの「Take5」が流れる。

 ただし演出は凝り過ぎていて、『D坂』ではまだましだったのが、『心理試験』、『屋根裏』、と回を追うごとに過剰となり、たとえば『心理試験』のラストで、菅田・満島・田中の三人が「ワーーッ」と叫び合う展開など、あまり感心しなかった(というか、わかりにくかった)。

 ディテールにいろいろ注目して見ていたのだが、『心理試験』で、字幕とともに、

「辞林」の何万という単語ひとつ残らず調べてみて、少しでも訊問されそうな言葉を書き抜いた。(菅田によるナレーション

という件が出て来る。しかし、菅田が実際に手に取って見ているのは金澤庄三郎編『辞林』ではなく、新村出編『辞苑』(博文館刊)であった。『辞林』を小道具として用意できなかったのかどうかは知らないが、『辞苑』は1935(昭和十)年刊だから時代が合わなくなってしまう。

 それはいいとして、これは「原文」に、

 そこで、彼は「辞林」の中の何万という単語ひとつ残らず調べてみて、少しでも訊問されそうな言葉をすっかり書き抜いた。(『江戸川乱歩傑作選』新潮文庫改版p.134)

とあるところ。この箇所にも異文があることに気づいた。

 たとえば河出市民文庫版(1951)『心理試驗』では、この箇所が、

 そこで、彼は『辭林』の中の何萬といふ單語を一つ殘らず調べて見て、少しでも訊問されさうな言葉をすつかり書き拔いた。(p.177)

というふうに、「ひとつ残らず」となっている。というよりも、むしろ「も」の有るほうが圧倒的多数で、春陽文庫版や光文社文庫版、岩波文庫版など全てこちらであったが、角川文庫版(『D坂の殺人事件』所収)が、「ひとつ残らず」となっている。この箇所は光文社文庫版の校異(「解題」)にも出てこないので、比較的新しい異文であろう*7

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 「暗号小説」といえば、ちょうど竹本健治氏の『涙香迷宮』(講談社)を読み始めたところ。「いろは」や「あめつち」に興味を持つ向きは読むべきだろう。

 山田航氏によると、竹本氏は「いろは歌作りが趣味なのだとかで、「短歌雑誌短歌研究」二〇一三年十一月号で「いろは歌に挑戦」という特集がなぜか組まれたのだが、そこに自選いろは歌を十五首寄稿している」(『ことばおてだまジャグリング文藝春秋2016:52)という。

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 北村薫『遠い唇』(角川書店2016)に、「続・二銭銅貨」が収められており、巻末注記に、

二銭銅貨」の本文は、点字に関する誤りを正した創元推理文庫版『日本探偵小説全集2 江戸川乱歩集』によった。(p.210)

とあった。(2016.10.28記す)

江戸川乱歩全集 第1巻 屋根裏の散歩者 (光文社文庫)

江戸川乱歩全集 第1巻 屋根裏の散歩者 (光文社文庫)

江戸川乱歩傑作選 (新潮文庫)

江戸川乱歩傑作選 (新潮文庫)

D坂の殺人事件 (角川文庫)

D坂の殺人事件 (角川文庫)

江戸川乱歩短篇集 (岩波文庫)

江戸川乱歩短篇集 (岩波文庫)

ことばおてだまジャグリング

ことばおてだまジャグリング

遠い唇

遠い唇

*1:「くうざん、本を見る」の記事の中ほどに、「ト」の仮名を「ソ」と誤記されているところ(二か所)があるのではなかろうか?

*2カバー絵が、アニメ文豪ストレイドッグス」とのコラボ作品だとの由。

*3:なお原作小林少年は出て来ない。

*4:劇中で蕗谷が、傲岸をもって知られた島田清次郎の『地上』を読んでいる、という演出面白かった。

*5嶋田は、実相寺昭雄版『屋根裏散歩者』1992と『D坂』1998とで明智小五郎を演じた。

*6:これは邦題で、『サスペリア』とは連続性がない。原題は“Profondo Rosso”(真紅である

*7:上に述べたように、「二銭銅貨」の点字暗号の扱いも新潮文庫版と角川文庫版とで共通していたのであった。あるいは同じ底本に拠ったのだろうか。