Hatena::ブログ(Diary)

黌門客 このページをアンテナに追加

2017-09-01 青木正児「陶然亭」 このエントリーを含むブックマーク

 神吉拓郎短篇集『二ノ橋 柳亭』が光文社文庫に入った。

 この作品集が、『二ノ橋 柳亭』というタイトル刊行されるのは初めてのことで、かつては『ブラックバス』という題で文春文庫に入っていた。

 春先に、大竹聡編『神吉拓郎傑作選1 珠玉短編』(国書刊行会)、神吉拓郎私生活』(文春文庫)を読んで慰められるところが大いにあり、清張の名篇「発作」に似た味わいのある「警戒水域*1や、「涅槃西風」、「鰻」、「心のこり」、「信濃食堂の秋」、「ブラックバス」あたりは、とりわけ印象に残ったものだった。しか国書刊行会の選集には、「二ノ橋 柳亭」が択ばれていなかったので、さっそく光文社文庫版を求め、帰省時の車中で表題作からじっくり読んでみたところ、これがまた一読三嘆の佳品であった。何より、文章がいい。併録の色川武大室内楽文学」によると、神吉は相当な遅筆だったらしいが……。

 さてこの「二ノ橋 柳亭」に、次のようなくだりが有る。

 と、村上の方に向き直ると、

「きみ、青木正児という人を知ってるか」

 と訊いた。

 あまり唐突質問なので、村上は戸惑った。咄嗟に思い当らないままに、問い返すと、三田自分質問の性急さに少々照れた様子で、こういい改めた。

「まあ、だしぬけにそういわれてもわからないだろうがね。学者なんだ。元曲といってね。シナの、元の時代戯曲が専門なんだが……」

(略)

「この間の戦争が終って、その翌年あたりのことだが……」

 君がまだ生れる前のことになるかな、ま、とにかく古い話だ、と、三田は前置きをした。

 或る雑誌に、その青木先生の筆で、〔陶然亭〕という随筆が載った。

 学者としてばかりではなく、随筆家としても、すでに高名な人であった。

 その題名の通り、話題はその陶然亭という呑み屋で終始している。

 その店のたたずまい、主人の気っぷ、いい酒、気のきいたさかな、と、手にとるように写し取ってあるので、酒呑みは、さあ、たまらない。

 戦後のすさみ切った世の中に、まだそんな店があったのかと、わざわざ、文中に書かれた京都高台寺××町を尋ね歩いた人もあった。

 ××町と、わざと詳しい住所が伏せてあるので、探すのも容易ではない。その人は足が棒になるほど歩いて、とうとう見つけられないまま帰って来て、その後、その陶然亭が架空の呑み屋であることを知った。

 念の為に、知合いを通じて、ひそかにその青木先生にお伺いを立てると、やはり実在しないことがわかって、その人は安心すると同時に失望もした。しかし、時がたつにつれて、あらためてこの学者の雅気に、むしろ感心するようになった。(pp.159-60)

 この記述について、荻原魚雷解説――みんな神吉拓郎が好きだった」(光文社文庫で新たに附された)が、「架空評論家三田仙之介―引用者)が書いた架空の店の話の中に実在人物が書いた架空の店の話が出てくる。ちょっとややこしい」(p.261)と書いているとおり、青木正児(まさる)*2随筆「陶然亭」は実在する(「陶然亭」という飲み屋架空の店である)。

 そして、上の引用文中で「或る雑誌」とされるのは「知慧」のことで、「陶然亭」は、昭和二十一年十月、同二十二年五月の二回にわけて掲載された。

 この「陶然亭」がまた、「書巻の気」をひそませた名篇で、再読三読に値する作品なのである。ことに、「陶然亭酒肴目録」全目を数ページに亙って掲げたところなどは壮観だ。手が込んでいる。実在の店と思いなした向きがあったのも故なしとしない。

 「陶然亭」は、後に青木正児『華国風味』(岩波文庫1984)のなかに「花甲寿菜単」*3とともに「附録」として収められた。そもそも元本(弘文堂刊、昭和二十四年)が収めていたのだろうが、まだ確かめていない。なおこの架空の店の名前、ひいては随筆タイトルは、

そして旨い旨くないにかかわらず、何か変った物に出くわすと狂喜して酒味が一段と引立ち、知らず識らず唇は頻りに盃を吸い寄せ、膏液は舌上を流れて咽に下り、興会飄挙(こうかいひょうきょ)して陶然頽然(たいぜん)、玉山遂に倒るるに至るものである。(pp.199-200)

という記述に由来するものでもあろう。

 青木はその後、『抱樽酒話』(アテネ文庫1948)の「はしがき」で、この随筆について言及している。執筆動機にも触れているし面白くもあるので、以下に全文を引用して置こう。

 先頃私は酒徒の天國を痴想した戲作一篇を草して「陶然亭」と題し、「抱樽病夫」の假名で雜誌「智慧」に掲載した。すると此の度弘文堂で「アテネ文庫」を叢刊するに付き、早速酒の話を私に割當て、「抱樽酒話」と云ふ題まで考へて來てくれた。下地はすきなり題もよし、よし\/と其のまゝ受納れることにしたが、さて樽は空樽。

 元來かの「陶然亭」一篇は、をとどしの正月から三月ばかり榮養失調で床に就いた所の、つれづれのすさびであつたが、病間一日弘文堂主人が見舞に來て、「榮養失調なら白米を食ふと癒りますよ」と云ふ。「馬鹿な、白米ぐらゐで癒つてたまるものか。白米のエッキスが缺乏してゐるのぢや」とはね返せば、「それでは其のお藥を何とか致しませう」と約束して去つた。果せるかな此の藥の効きめで私は日に増し元氣づき、去年の秋には體重も一貫目だけ取戻して、某月某日天氣晴朗、一瓢を携へて老妻と杖を北郊に曳くほどの浮れた氣持にさへなつて來た。

 と云ふやうな次第で、弘文堂から酒話を一册と頼まれては、義理にも斷るわけにゆかぬ。いや寧ろ調子に乘つて快諾したのであるが、遺憾ながら私はただの酒ズキで酒ツウでない。書齋に籠つて古本いぢりするより外に藝は無く、漢文畑の隱居仕事ゆゑ、陳腐なところは幾重にも御容赦。(pp.3-4)

 青木はこの『抱樽酒話』につづいて『酒の肴』もアテネ文庫から出しているのだが(昭和二十五年十月)、「余りにも活字が小さくて読みづらく、余りに小冊子で紛失の恐れもあるので、この二書を今少し大きい活字で、一冊に纏めておきたい」という思いから、合冊して訳文の「酒顚」を加え、筑摩書房版『酒中趣』として刊行している(昭和三十七年刊、のち筑摩叢書昭和五十九年刊)。

 その後、「酒顚」の翻訳部分を省いた『酒の肴・抱樽酒話』(岩波文庫1989)が刊行されており、これは今のところ品切になっていない。で、いま『酒の肴・抱樽酒話』を披いて気づいたのだけれど、上で引いた「はしがき」はこの岩波文庫版でも読めた(pp.127-28)。もっとも、「三月」:「三箇月」、「日に増し」:「日増しに」など若干字句の異なるところもあるし、せっかくなので、全文を掲げたままとしておく。

二ノ橋 柳亭 (光文社文庫)

二ノ橋 柳亭 (光文社文庫)

神吉拓郎傑作選1  珠玉の短編

神吉拓郎傑作選1 珠玉の短編

華国風味 (岩波文庫)

華国風味 (岩波文庫)

酒の肴・抱樽酒話 (岩波文庫)

酒の肴・抱樽酒話 (岩波文庫)

*1:「発作」の主人公が罪を犯してしまうのに対し、「警戒水域」の主人公はどうにか思い止まる。なお、TVドラマ半沢直樹』の滝藤賢一演出には、「警戒水域」の描写を思わせるところが有った。

*2:どうでもよいことだが、この「まさる」の振り仮名、本文中にはないのに荻原氏の解説にはある。

*3:初出:昭和二十二年八月「支那学」。こちらも必読の随筆である

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/higonosuke/20170901

2017-07-31 『首塚の上のアドバルーン』と『太平記』と このエントリーを含むブックマーク

 後藤明生首塚の上のアドバルーン』(講談社文芸文庫1999)*1は、「ピラミッドトーク」「黄色い箱」「変化する風景」「『瀧口入道』異聞」「『平家』の首」「分身」「首塚の上のアドバルーン」の七つの中短篇から構成される連作小説である

 著者が1985年の夏*2マンションの十四階に転居してくるところから物語は始まる。その「近景がない」(「ピラミッドトーク」)眺めのベランダから見える「こんもり繁った丘のようなもの」(「黄色い箱」)にふと目を留め、それが馬加康胤(まくわりやすたね)の首塚だと知る。

 「変化する風景」以下の五篇は書翰体の形式をとっており、ひたすら首塚文学作品における首級を巡る考察が続く。

 「変化する風景」には、「祇王寺から首塚までは、せいぜい五十メートルくらいの距離でしょう。『平家物語』の祇王と、『太平記』の義貞との時間差は、約百六十年です。その祇王の墓と義貞の首塚が、五十メートルの距離の中にある。それが京都だ、ということになるのでしょう」(p.80)という一節が有るが、この小説自体、『太平記』『平家物語』はじめ、『瀧口入道』、『日本城郭大系』、『千葉大系図』、『仮名手本忠臣蔵』、ベンヤミンドストエフスキー、ブルワー=リットンボルヘス、『楠木正成』(大谷晃一)、『室町小説集』(花田清輝)、「二条河原落書」、謡曲「鞍馬天狗」、「鎌倉」(文部省唱歌)、「大楠公」(落合直文作詞)、「四条畷」(大和田建樹・作詞小山作之助・作曲)、堀内敬三『定本・日本の軍歌』等から夥しいまでの引用がなされている。つまり、時代や地域、ジャンルを全く異にした作品群が同一のフラットな小説空間に置かれるわけで、上引をもじって言うならば、「それが小説だ」、ということになるのだろう。

 このうち最も頻繁に引用・参照されるのが『太平記』で、「変化する風景」だけで少なくとも八箇所の引用がみられる。

 岩波文庫版の兵藤裕己校注『太平記』(全六巻、2014-16)によってその当該箇所を探ったところ、引用部分によってはかなりの異同があった。二、三の例を見てみる。

 まず後藤による引用から。新田義貞が初登場する場面である

 上野(かうづけの)国の住人新田(にったの)小太郎義貞と申すは、八幡太郎義家十七代の後胤、源家嫡流(げんけちやくりう)の名家なり。しかれども平氏世を執つて、四海皆その威に服するをりふしなれば、力無く関東の催促に従つて、金剛山の搦手(からめで)にぞ向はれける。

 ここにいかなる所存か出で来にけん、ある時、執事船田入道義昌を近づけてのたまひけるは、「いにしへより源平両家朝家(てうか)に仕へて、平氏世を乱る時は源家これを鎮(しづ)め、源氏上(かみ)を侵(をか)す日は平家これを治む。義貞不肖(ふせう)なりといへども、当家の門楣(もんび)として、譜代弓矢の名を汚(けが)せり。しかるに今、相模入道の行跡を見るに、滅亡遠きにあらず。われ本国に帰つて義兵を挙げ、先朝の宸襟(しんきん)を休めたてまつらんと存ずるが、勅命をかうむらでは叶(かな)ふまじ。いかがして大塔宮令旨(りやうじ)を賜つて、この素懐(そくわい)を達すべき」と問ひたまひければ、云々(巻第七「新田義貞綸旨を賜ふ事」―「変化する風景」pp.81-82)

 これが岩波文庫本では次のようになっている。

 上野国の住人新田小太郎義貞と申すは、八幡太郎義家十七代の後胤、源家嫡流名家なり。しかれども、平氏世を執って、四海皆をの威に服する時節(をりふし)なれば、力なく関東の催促に随つて、金剛山の搦手にぞ向かはれける。

 ここに、いかなる所存かありけん、或る時、執事船田入道義昌を近づけて宣ひけるは、「古へより、源平両家朝家に仕へて、平氏世を乱る時は、源氏これを鎮め、源氏上を侵す日は、平家これを治む。義貞、不肖なりと云へども、当家の門楣として譜代弓箭の名を汚せり。しかるに今、相模入道の行迹を見るに、滅亡遠きにあらず。われ本国に帰つて義兵を挙げ、先朝の宸襟を休め奉らんと存ずるが、勅命を蒙らでは叶ふまじ。いかがして大塔宮令旨を給はつて、この素懐を達すべき」と問ひ給へば、云々(第七巻「義貞綸旨を賜る事」―『太平記(一)』岩波文庫pp.344-45)

 この箇所については、「所存か出で来にけん」か「所存かありけん」か、そして「問ひたまひければ」か「問ひ給へば」か、という相違を除けば、さほど違いがないように見える。しいていうと、岩波文庫本の方が漢字で表記される語がやや多い点くらいか。しかしそれは校注者の態度によっても違ってくる部分なので、比較してもさほど意味はないことだろう。

 そもそも後藤が参照したのはどんな本だったかというと、作中に「実はわたしは、新潮日本古典集成の『太平記』(山下宏明・校注 全五冊)をずっと愛読しているのですが」(「分身」p.150)とあるので、引用もこれに基づいていると思しい。

 『太平記(四)』(岩波文庫)附載「[解説4]『太平記』の本文(テクスト)」によれば、岩波文庫本の底本は「西源院(せいげんいん)本」(原本は漢字片かな交じり)と呼ばれる古本系の一種で、「応永年間に書写され、現存本の転写が行われたのは、大永・天文年間であるという」(p.469)。一方、新潮日本古典集成本や岩波古典文学大系本が底本としているのはいわゆる「流布本」で、これは近世(慶長年間以降)に校訂・版行されたもの。「誤写や脱文が少なく、また誤字・当て字も少ないなど(ほかに、係り結びの乱れも少ない)、かなり整備された本文を持つ」という(p.503)。

 さて引用本文に戻ると、上引で表明される「源平交代」史観は、当時の日本では人口膾炙した歴史観であったようだ。そのゆえにか、宣教師たちも『太平記』を『平家物語』と並ぶ「源平交代」史観歴史書と見なしていたようで、キリシタン版『太平記抜書』にも「古へより、源平両家朝家に仕へて」云々というくだりはそのまま収録されているという(神田千里『宣教師と『太平記』―シリーズ〈本と日本史〉(4)』集英社新書2017:101-02)。

 では次に、鎌倉幕府滅亡に至る場面を見てみよう。まずは後藤による流布本の引用から。

 新田義貞、逞兵(ていへい)二万余騎を率して、二十一日の夜半ばかりに、片瀬・腰越をうち回り、極楽寺坂へうちのぞみたまふ。明け行く月に敵の陣を見たまへば、北は切通しまで山高く路けはしきに、木戸をかまへかい楯(だて)を掻いて、数万(すまん)の兵陣を並べて並みゐたり。南は稲村崎にて、沙頭(しやとう)路せばきに、波打ちぎはまで逆木(さかもぎ)を繁く引き懸けて、沖四、五町が程に大船どもを並べて、櫓をかきて横矢(よこや)に射させんと構へたり。げにもこの陣の寄手、かなはで引きぬらんも理(ことわり)なりと見給ひければ、義貞馬より下りたまひて、冑(かぶと)を脱いで海上を遥々と伏し拝み、龍神に向つて祈誓(きせい)したまひける。(……)と至信(ししん)に祈念し、みづから佩(は)きたまへる金作(こがねづく)りの太刀を抜いて、海中へ投げたまひけり。まことに龍神納受(なふじゆ)やしたまひけん、その夜の月の入り方に、(……)稲村崎にはかに二十余町干あがつて、平沙渺々(へいしゃべうべう)たり。横矢射んと構へぬる数千(すせん)の兵船も、落ち行く塩に誘はれて、遥かの沖に漂へり(巻第十「稲村崎干潟に成る事」―「変化する風景」p.75)

 岩波文庫本(西源院本)の対応箇所は次のようである

 新田義貞、二万余騎を率して、二十一日の夜半ばかり、肩瀬、腰越を打ち廻つて、極楽寺坂へ打ち莅(のぞ)み給ふ。明け行く月に、平家の陣を見給へば、北は切通しにて、山高く路嶮(けは)しきに、城戸を結ひ、垣楯(かいだて)を掻き、数万(すまん)騎の兵、陣を並べて並み居たり。南は稲村崎にて、道狭(せば)きに、波打際まで逆木を繁く引つ懸け、澳(おき)四、五町の程に、大船を並べ、矢倉を掻き、横矢を射させんと支度せり。げにもこの陣の合戦に、寄手叶はで引きけるは理(ことわ)りなりとぞ見給ひける。

 義貞、馬より下り、甲(かぶと)を脱いで、海上の方を伏し拝み、龍神に向かつて祈誓し給ひけるは、(……)と、信心を凝らして祈念を致し、自ら佩き給へる金作りの太刀を解いて、海底に沈められける。

 実に龍神八部も納受し給ひけるにや、その日の月の入り方に、(……)稲村崎、二十余町干揚がり、平沙まさに渺々たり。横矢を射させんと支度したりし数千の兵船も、塩に誘はれて遥かの澳に漂へり(第十巻「鎌倉中合戦の事」―『太平記(二)』岩波文庫pp.127-29)

 これを見ると、「木戸をかまへ」(流布本):「城戸を結ひ」(西源院本)、「射させんと構へたり」「射んと構へぬる」(流布本):「射させんと支度せり」「射させんと支度したりし」(西源院本)と、流布本は他動詞「構ふ」を多用していることが知られるし、また、「海中へ投げたまひけり」(流布本):「海底に沈められける」(西源院本)と、西源院本の「係り結びの乱れ」を流布本が解消している箇所も見られる。なお同本に「肩瀬」とあるのは、当て字であろうか。

 ちなみに流布本が、「平家の陣」を「敵の陣」と表現しているのは、近世南朝正閏論の影響もあったのだろう。

 続いて義貞最期の場面である

 大将義貞は、燈明寺の前にひかへて手負の実検しておはしけるが、藤島の戦ひ強うして、官軍ややもすれば追つ立てらるる体(てい)に見えけるあひだ、安からぬ事に思はれけるにや、馬に乗り替へ鎧を着かへて、わづかに五十余騎の勢を相従へ、路をかへ畔を伝ひ、藤島の城へぞ向はれける。その時分黒丸(くろまるの)城より、細川出羽守・鹿草(かくさ)彦太郎両大将にて、藤島城を攻めける寄手どもを追ひ払はんとて、三百余騎の勢にて横畷(よこなはて)を回りけるに、義貞覿面(てきめん)に行き合ひたまふ。細川が方には、歩立(かちだ)ちにて楯をついたる射手(いて)ども多かりければ、深田に走り下り、前に持楯(もちだて)を衝き並べて、鏃(やじり)を支へて散々に射る。義貞の方には、射手の一人もなく、楯の一帖をも持たせざれば、前なる兵義貞の矢面に立ち塞がつて、ただ的に成つてぞ射られける。中野藤内左衛門(とうないざゑもん)は、義貞に目くばせして、「千鈞(せんきん)の弩(ど)は、鼷鼠(けいそ)のために機を発せず」と申しけるを、義貞ききもあへず、「士を失してひとり免るるは、我意にあらず」と言ひてなほ敵の中へ懸け入らんと、駿馬に一鞭をすすめらる。この馬名誉の駿足なりければ、一、二丈の堀をも、前々たやすく越えけるが、五筋まで射立てられける矢にやよわりけん、小溝一つをこえかねて、屏風をたふすが如く岸の下にぞころびける。義貞弓手(ゆんで)の足をしかれて、起きあがらんとしたまふところに、白羽の矢一筋、真向(まつかう)のはづれ、眉間の真中にぞ立つたりける。急所の痛手(いたで)なれば、一矢に目くれ心迷ひければ、義貞今は叶(かな)はじとや思ひけん、抜いたる太刀を左の手に取り渡し、みづから首をかき切つて、深泥(しんでい)の中にかくして、その上に横たはつてぞ臥したまひける(巻第二十「義貞自害の事」―「変化する風景」pp.86-87)

 当該箇所は、西源院本では次の如くである

 新田中将は、東郷寺の前にひかへて、手負の実検しておはしけるが、藤島城強(こは)くして、官軍ややもすれば追つ立てらるる体に見えける間、安からぬ事に思はれけるにや、馬に乗り替へ、鎧を着替へて、わづかに五十余騎の勢を相随へ、路を要(よこぎ)り、田を渡つて、藤島城へぞ向かはれける。

 その時節、黒丸城より、細川出羽守、鹿草彦太郎、両大将にて、藤島城を攻むる寄手を追ひ払はんとて、三百余騎の勢にて、横縄手を廻りけるに、義貞朝臣、覿面に行き合ひ給ふ。細川が方には、徒立にて楯をつきたる射手ども多かりければ、深田に走り下り、前に持楯をつき並べて、鏃を支(そろ)へて散々に射る。左中将の方には、射手は一人もなく、楯の一帖をも持たざりければ、前なる兵、義貞の矢面に塞がつて、ただ的になつてぞ射られける。中野左衛門大将に目加せして、「千鈞の弩は、鼷鼠のために機を発せず」と云ひけるを、義貞、聞きもあへず、「士を失して独り免れんこと、何の面目あつてか人に見えん」とて、なほ敵の中へ懸け入らんと、駿馬に一鞭を進めらる。

 この馬名誉の駿足なりければ、一、二丈の堀をば前々たやすく越えけるが、五筋まで射立てられたる矢にや弱りたりけん、小溝一つ越えかねて、屏風を返すが如く岸の下にぞ倒れたりける。義貞、弓手の足を敷かれて、起き上がらんとし給ふ処に、白羽の矢一筋、真向のはづれ、眉間の真中にぞ立つたりける。義貞、今は叶はじとや思はれけん、腰の刀を抜いて、自ら首を掻き落とし、深泥の中にぞ臥し給ひける(第二十巻「義貞朝臣自殺の事」―『太平記(三)』岩波文庫pp.377-79)

 岩波文庫本の脚注によれば、「東郷寺」は「不詳。梵舜本同じ。神田本・流布本「燈明寺」。玄玖本・簗田本東門寺」。天正本「東明寺」。足羽にあった平泉寺の末寺か」(p.376)といい、諸本間でかなり異なっているようだ。

 また、「よわりけん」「ころびける」(流布本):「弱りたりけん」「倒れたりける」(西源院本)という違いを見れば、流布本では完了(-た(り)-)と回想・過去・推量(-け(り)-、-け(む)-)を表す動詞接尾辞とが共起しにくいようにも見受けられるが、「立つたりける」という用例も見えるので、簡潔性や音読の際のリズムを重視しているだけのようにも思われる。

 一方最初の引用で、古本系が「問ひ給へば」としていたのを流布本が「問ひたまひければ」としていたのを上で見たように、流布本は時制にも気を配っているように見受けられる。他の引用箇所でも、「泣き倒れ給ふ」(西源院本):「泣き倒れたまひけり」(流布本)、「これを哀れまずと云ふ事なし」(西源院本):「共に涙を流さぬは無かりけり」(流布本)(第二十巻「左中将の首を梟る事」)、「河合庄へ馳せ集まる」(西源院本):「河合の庄へ馳せ集まりけり」(流布本)(第二十巻「水練栗毛付けずまひの事」)となっている*3

 藤井貞和日本文法体系』(ちくま新書2016)は、「-け(り)-」に「詠嘆」の意を汲み取ることを批判したうえで、

 物語はしつこく「〜けり、〜けり、〜ける、〜ける」と語られる。すべて、語り手が物語内容を伝承として聞き知っている(内容の真偽にはタッチしない)というアピールを「けり」は果たす。(p.51)

 歌物語の文体や物語文学その他の、「…けり、…けり、…けり」(「…ける、…けれ」を含む〈以下同じ〉)とつづく展開が、口承文学に負うとは基本の確認としてある。「けり」が“時間の経過”をあらわすとは、伝承であることを最もよく示す、というほかない。(p.75)

などと述べている。その妥当性のほどは分からないが、流布本が口承性に重きを置いた結果、このように「-け(り)-」を多用している可能性はあるかもしれない。もっとも、『太平記』受容の歴史*4を考慮する必要もあるけれど。

 それから、流布本が「強うして」「ついたる」と音便形を用いる傾向にあるのもひとつの特徴であろうか。ただし「[解説4]『太平記』の本文(テクスト)」によると、西源院本の巻二十三には「事悪しとや思ひけん、跡を暗うして、皆己が本国へ逃げ下る」と、「跡を暗うして」という音便形が出て来るのであって、これは、

「跡を暗む」をへて、南北朝期あたりを境に、しだいに「跡を暗ます」へ交替した語と思われるが(なお、『日葡辞書』に、「Atouo curamacasu(跡を暗まかす)」とある)、南都本(同系統の簗田本、相承院本)や今川家本は、(略)「跡を暗まして」と改めており、流布本や梵舜本(および米沢本、天正本等)は、

 頼遠も行春も、かくては事悪しかりなんと思ひければ、皆己(おの)が本国へぞ逃げ下りける。

とあり、あまり使われなくなった『跡を暗うして』という語そのものを削除している。(pp.511-12)

というわけなので、音便形といっても、その先後関係は語によりけりである

 また音便といえば、後藤著に、

 そこに、康胤に滅ぼされた千葉胤直の弟の息子・実胤も加わり、総勢一万余騎となって、康生二(一四五六)年四月十一日、千葉城に押し寄せ「稲麻竹葦(とうまちくい)」(これは『太平記』巻第三「赤坂の城軍の事」で、楠木正成赤坂城を二十万の東国軍が取り囲む有様を形容した言葉)に取り囲み、揉みに揉んで攻め動かした。(「首塚の上のアドバルーン」pp.199-200)

という一節がある。実は引用文中の「揉みに揉んで」もまた、『太平記』由来の表現で、西源院本では第三巻「赤坂軍の事、同(おなじく)城落つる事」に「ただ揉みに揉み落とさんと」(『太平記(一)』岩波文庫p.167)とある(ちなみに西源院本では、「稲麻竹葦」なる表現が第四巻「呉越闘ひの事」に出ている。p.211)のだが、第六巻「六波羅勢討たるる事」にも、「六波羅勢、勝(かつ)に乗つて、人馬の息をも継がせず、天王寺在家のはづれまで、揉みに揉うでぞ追うたりける」(『太平記(一)』岩波文庫p.283)という形で出て来る。

 先日、『保元物語』を読んでいた際にも、「河原を下りに二町ばかり、鞭・鐙をそろへて、もみにもうでぞ逃げたりける」(日下力訳注『保元物語角川ソフィア文庫2015:中巻p.99)という表現に逢著したから、これは一種の定型表現として軍記物語によく使われていたのかも知れない。

 ところで後藤の「分身」には、次の様なくだりがある。

 この本(『難太平記』)は、足利一族で九州探題もつとめた今川了俊が書いたもので、『難太平記』という書名は『太平記』を批判するという意味を持つのだそうですが、それによると『太平記』は約三十巻が出来上ったあたりで、足利直義尊氏の弟)の検閲を受けたり、削除あるいは加筆されたりしていたらしいということです。その一例として山下(宏明)氏は、足利尊氏北条方から後醍醐天皇への寝返り、を挙げています。つまり直義が検閲した『太平記』では、その尊氏の「寝返り」が、「降参せられけり」と書かれていたらしい。それを削除させたと『難太平記』には書かれているそうです。そして、いまわたしたちが読んでいる『太平記』には、なるほど「降参」の字はどこにも見当りません。事実としての「寝返り」が繰り返されるだけです。(p.151)

 そもそも太平記』における「室町幕府の諸将の描かれ方はあまりよくな」く、「(高)師直が悪人として描写されているのは有名だが、直義も目的のためには手段を選ばない狡猾な人物と辛辣な評価を下されている」し、「尊氏の影も薄い」。室町期の「正史」としてこれを見るならば、確かに客観的だとはいえるだろうが、「史実としては再検討すべき論点も当然多い」。こういった記述態度による『太平記史観に基づいて、「近年、如意王(直義の男児)誕生を契機として直義が野心を抱いたのが、観応の擾乱の大きな原因であったとする説が提起されている」という(以上、亀田俊和観応の擾乱中公新書2017:31より*5)ほどで、何らかのバイアスがかかっている可能性も否めない。

 それを批判する『難太平記』もこれまた然りで、了俊が足利家時の置文を尊氏の「反後醍醐」挙兵に結びつけることには「了俊の創作にすぎぬ疑いがきわめて濃」いという(笠松宏至「一通の文書の『歴史』」;『法と言葉中世史』平凡社ライブラリー1993所収:243)。すなわち、了俊自身もやはり政治的バイアスからは逃れられなかったということだ*6

---

 さて後藤明生は、「首塚の上のアドバルーン」で、

 こんもりした丘の上で偶然に見つけた首塚からはじまったわたしの『平家物語』『太平記めぐりが、めぐりめぐって、『仮名手本忠臣蔵』にたどり着いたということです。馬加康胤の首塚新田義貞首塚→『太平記』→瀧口寺→『平家物語』→『瀧口入道』→『平家』→『太平記』→『徒然草』→『太平記』とアミダクジ式遍歴を重ねるうちに、『仮名手本忠臣蔵』にたどり着いたという不思議なのです。(p.208)

と書いているが、この「アミダクジ」という表現は、「『平家』の首」にも三箇所出てきており、

 実際、体じゅう管だらけでした。まず点滴の音。これは血管につながっているのは一本ですが、その一本めがけて、アミダクジ式に何本もの管が群がっています。(p.125)

 まずはじめに、十四階のベランダから見えるこんもりした丘のてっぺんに、見知らぬ首塚があったわけです。それが『平家』『太平記めぐりのはじまりでした。そして二つの本と首塚と十四階のベランダの間をアミダクジ式に行きつ戻りつするうち、ある日、入院手術ということに相成った次第であります。(p.129)

 しかし、その偶然は、わたしの『平家』『太平記めぐりに割り込んで来て、そのアミダクジの回路を変化させたわけです。(p.130)

とある。「アミダクジ」とはすなわち、テキストとの出会いが、ひいては物語の展開が偶然の作用の結果であることを意味する。

 最近出た後藤明生『アミダクジ式ゴトウメイセイ【対談篇】』(つかだま書房2017)には、後藤富岡幸一郎氏の対談「後藤明生と『首塚の上のアドバルーン』」が収録されていて(pp.247-64)*7後藤はそのなかで次のように語っている。

 意識の変化は、当然のことながら文体にあらわれますね。例えば、はじめは街との対話です。また風景とか首塚との対話です。それは割合いにゆったりしていますが、それがテキストとの対話になると、スピードが出て来た。/そして、読んでごらんになるとわかるんだけれども、三つ目からとつぜん手紙になっちゃっている。なんで、いつの間に手紙になったんだと言う人がいるかもしれない。もちろん、これは僕が書いたことなので、意図的にやったわけなんだけれども……。(略)あらかじめ予定された古典文学散歩ではないですからね。(略)どのテキストとの出会いも、すべて、とつぜんであり偶然であるわけですね。そういう驚き興奮が、文体になる。そういうテキストとの対話が激しくなるにつれて、いつの間にか書簡体になってしまったのかもしれない。(略)アミダクジ式と書いたけれど『仮名手本忠臣蔵』が出てくるあたりは我ながらちょっと興奮した。全然予期してなかったですね。(pp.263-64)

 したがって、読み手たる我々も次にどこへ連れて行かれるのか全く見当がつかないので、いわば小説が生成する現場に立ち会えるというわけである

首塚の上のアドバルーン (講談社文芸文庫)

首塚の上のアドバルーン (講談社文芸文庫)

太平記(一) (岩波文庫)

太平記(一) (岩波文庫)

太平記(二) (岩波文庫)

太平記(二) (岩波文庫)

太平記(三) (岩波文庫)

太平記(三) (岩波文庫)

太平記(四) (岩波文庫)

太平記(四) (岩波文庫)

日本文法体系 ((ちくま新書 1221))

日本文法体系 ((ちくま新書 1221))

法と言葉の中世史 (平凡社ライブラリー)

法と言葉の中世史 (平凡社ライブラリー)

*12015年11月に復刊。

*2:「ピラミッドトーク」に、「転居して間もなく、日航ジャンボ機の墜落事故が発生した。新聞テレビも連日、大々的にその大事故の模様を報道していた」(P.10)とある

*3:二つめの引用では、「納受し給ひけるにや」(西源院本):「納受やしたまひけん」(流布本)と、流布本で「-け(り)-」が「-け(む)-」になっているところがある。ここは「龍神(八部)」が動作主であるため、流布本が意図的過去推量の接尾辞に改めている可能性もあるだろう。

*4江戸期に盛んに読まれたことについては、後藤も「江戸時代の『太平記ブームは知っておりましたが」(「分身」pp.174-75)などと少しだけ言及している。

*5:なお亀田氏は、如意王誕生を擾乱の原因と見なすことには与しない。

*6:『難太平記』の記述態度については、先引神田著pp.32-38も参考になる。

*7:初出:「すばる1989年4月号

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/higonosuke/20170731

2017-07-11 松本恵子訳『アクロイド殺し』のことなど このエントリーを含むブックマーク

 「叙述ミステリ」は、「そういう作品である」とあらかじめ聞かされて手に取ることが多い、と以前書いた。むしろそのような前提知識があった方がありがたい場合もあるので、この前Nさんにすすめられて読んだ麻耶雄嵩こうもり」(『貴族探偵集英社文庫2013所収)は、叙述系だという予備知識がなければ、結末を理解するのにきっと時間がかかったことだろう。

 同様に、「意外な犯人」の古典的作品も、どこかで結末を聞かされてから読む場合が少なからずあるのではないかと思う。わたし場合、『モルグ街の殺人』『黄色い部屋の謎』などはみなそうだった。これらは、子供向けの「学研まんが」「てのり文庫」などであらすじを読んだために、大人向けの邦訳を繙く前からすでにトリック犯人を「知っていた」。

 この春、安原和見氏による新訳(光文社古典新訳文庫*1で出た、アガサ・クリスティーオリエント急行殺人事件』もそのひとつ。これによって久々に新訳でクリスティー作品を楽しんだが、その「訳者あとがき」は原作矛盾・疑問点にも言及していて、ああなるほどな、と思わせる。「解説」は斎藤兆史氏が書いており、こちらも興味深く、おもしろく読んだ。ちなみに斎藤氏が、『ロジャーアクロイド殺人事件』(『アクロイド殺し』)や『ABC殺人事件』『ナイルに死す』などクリスティーの名作を列挙するくだり(pp.406-07)は、ほぼ同じ記述が、斎藤氏の『めざせ達人! 英語道場教養ある言葉を身につける』(ちくま新書2017)の「コーヒーブレイク(2)英語教材としてのクリスティー推理小説」にも見えるのだが(pp.60-61)、なぜか後者は、『ナイルに死す』のタイトル映画邦題の『ナイル殺人事件』になっている。

 ところで、このあいだN書房店頭にて、函入のクリスチイ作/松本惠子訳『アクロイド殺し』(平凡社1929)800円、を拾った。「世界探偵小説全集」の第18巻である。同書は『アクロイド殺し』のほか、短篇の「クラパムの料理女」「呪はれたる長男」「魔法の人」も併録している。

 訳者松本恵子については、川本三郎氏が「アガサ・クリスティの紹介者、松本恵子のこと」*2(『老い荷風白水社2017所収)で次のように書いている。

 松本恵子(明治二十四年―昭和五十一年)という翻訳家がいた。

 私などの世代アガサ・クリスティミステリ松本恵子の訳で読んだ。手元にはいまも十代の頃に読んだ松本恵子訳のクリスティ『青列車殺人事件』(日本出版共同、昭和二十九年)がある。「現代女流探偵作家の最高作」「本邦完訳」と銘打たれている。(略)

 そもそも松本恵子は大正時代クリスティ短篇魔法の人」を中野圭介の名義で訳している(「探偵文藝大正十五年十一月号)。この号にはもうひとつクリスティ短篇白鳥の歌」も載っている。訳者名がないが、中野圭介、つまり松本恵子といっていいだろう。

 男の名前になっているのは当時、女性ミステリ(当時の言葉でいえば探偵小説)に関わることが遠慮されたためという。

 大正時代クリスティを訳している。日本におけるクリスティ紹介の草分けといっていい。昭和四年には『アクロイド殺し』も出版している。(pp.168-69)

 最後に挙がっている昭和四年刊の『アクロイド殺し』というのが、今回わたしの入手した本をさすのだろう。また併録の「魔法の人」は、引用文中にある、中野圭介名義で訳されたものと同一かと思われる(『アクロイド殺し』には初出誌の明示などがないので、そのあたりのことが全くわからないのだ)。川本氏が書いている初出誌の「探偵文藝」は、もと「秘密探偵雑誌」といい、松本恵子が夫の松本泰とともに設立した出版社(奎運社)から創刊されたものだという(川本著p.173)。

 さてこの『アクロイド殺し』も、「意外な犯人もの」として有名で、わたしも、真犯人をあらかじめ知った上で邦訳羽田詩津子訳)に取りかかったくちである。そういえば故・瀬戸川猛資氏も、中学時代高木彬光のある作品によって『アクロイド』の真相を知らされてしまい、「怒りくるい、もう読むものかと心に決め」た(「誰がアクロイドを殺したって?」『夜明けの睡魔海外ミステリ新しい波』創元ライブラリ1999所収:205)と書いていた。

 東秀紀氏は、『アガサ・クリスティー大英帝国―名作ミステリと「観光」の時代』(筑摩選書2017)で、「クリスティーストーリーをつくっている手順が、多くの場合、「舞台」の設定から始められていた」というジョン・カラン氏の指摘(p.28)に触れた上で、『アクロイド』や『オリエント急行』は「先ず、犯人に関する着想が、あったに違いない」(p.29)、と書いている*3

貴族探偵 (集英社文庫)

貴族探偵 (集英社文庫)

老いの荷風

老いの荷風

*1:帯に「ジョニー・デップほか豪華キャスト映画化2017年11月全米公開!!」とある

*2:初出:「図書平成二十五年九月。

*3:また東氏は、クリスティーが『アクロイド』の舞台に設定した「英国の田園」を、「人々を優しく慰めてくれるユートピア」(p.68)と定義し、これは横溝正史が描いた「不吉な因習、陰惨、血生臭さに満ち」た日本田舎(p.66)とは対蹠的な存在だとも書いていて、この分析面白かった。

広島桜広島桜 2017/07/15 16:57 推理小説には、矛盾がつきものだ、と個人的にはそう思います。かの、クロフツもそうです。あの、A川氏にも。また、筆を折ったU田氏や、鉄道ミステリのN村氏には、死んでいた人が、執筆者が知らずに生きていて登場、またその逆も・・・、どんでん返しのように動き回ることになります。あまり、深く考えないようにしています。

higonosukehigonosuke 2017/07/19 14:02 広島桜さま、コメント下さりどうもありがとう御座います。遅くなりすみません。
推理小説の矛盾や誤解をあげつらう本をずいぶん以前に読んだことがありますが、それが眼を瞑って構わないものならばまだしも、推理の根幹にかかわるようなものであればとたんにアンフェアになってしまいますよね。とはいえ、たくさん連載を抱えているような売れっ子作家でしたら、そういう矛盾が生ずるのも致し方ないようにも思います。(ところで、U田氏と云うのがどなたのことか判りませんでした。差し支えなければお教え下さい。)

広島桜広島桜 2017/07/19 17:56 すでに公にされているので、差し支えないように思いますが・・・、内田康夫氏、2年前ぐらいに倒れられて、最近休筆宣言されて、最近作は、他の方に、公募か何かで続編を募集されるようです。前から自分は連載は無理だ、とストーリー展開のうえでおっしゃったようです。連載中に名前が一字違うようなことも生じるようです。ということで、推理小説にはあまりこだわらず読んでいます。

higonosukehigonosuke 2017/07/23 01:45 成程、内田氏でありましたか。お教え頂いた後に、「毎日新聞」のサイトで詳しい事情と経緯とを初めて知った次第です。どうもありがとう御座います。
連載に向いている作家と、不向きな作家とがあるというのはなかなか興味深いことですね。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/higonosuke/20170711

2017-05-22 北村薫『六の宮の姫君』 このエントリーを含むブックマーク

 先日、北村薫『六の宮の姫君』(創元推理文庫1999)を再読した。

 北村薫「円紫さんと私」シリーズ第四作・長篇『六の宮の姫君』は、芥川龍之介短篇「六の宮の姫君」についての芥川自身発言の謎をめぐって推理が展開される、いわゆる「ビブリオミステリである。それはまた、主人公「私」の大学卒業論文テーマそのものでもあるわけだが、文庫版の「解説」(佐藤夕子*1)によれば、北村氏が「早稲田大学第一文学部在学中にものした幻の卒業論文で」もある(p.271)、らしい。

 この長篇のなかには様々な本が出て来て、発行年や値段、簡単書誌などがそのつど示されるのが楽しい(むろんなかに架空の本もあるが、それは作中で大体わかるようになっている)。

 たとえば、「今度の岩波の『拾遺和歌集』、そのために買っちゃったのよ、三千六百円もするのに」(p.64)は、「今度の岩波の」とあるように、「新日本古典文学大系」本をさすのだろう*2。それで当時の新大系本『拾遺和歌集』が、「三千六百円」であったと知られるのである(現行版は五千円強)。

 一方、『今昔物語』を読む際に「私」が参照するのは、「岩波の『日本古典文学大系』」(p.76)、いわゆる旧大系本。このほか、「昭和四十六年の筑摩書房芥川龍之介全集』」(p.80)*3、「小学館の『群像日本作家11 芥川龍之介』」(p.94)、などといった具合だ。『日本国語大辞典』(小学館)の初版からも、ある項目の用例(片岡鉄兵)が引用されている(pp.74-75)。

 作中で「私」に重要な手がかりを与えることになる『沙石集』については、次の如くある。

 父の本棚まで行って、問題の『沙石集』を捜した。私は古典大系本を持っていないのである。あちこち引っ繰り返すと、古い岩波文庫版が出て来た。裏表紙をめくると鉛筆で《50》と書いてある。五十円。父が、古書店で買った本なのだ

 トントン階段を踏み二階に帰り、今度は座布団に座って、今よりやや大きめの文庫本を開いた。(p.233)

 わたしの手許にあるのも岩波文庫版(上下二冊)、しかも一冊50円で拾ったものだが、「1988年4月7日」発行の第2刷で、現行の文庫と同じ判型である。奥付には「1943年11月25日」に初刷が発行されたとある。「私」が手にしているのもこの初刷だろう。ちなみに、北村著には「実に鎌倉時代の僧、『沙石集』の作者といわれる(解説を読んだら、そう書いてあった)無住である」(p.235)というくだりもあって、この「解説」は、校訂者の筑土鈴寛(つくどれいかん)が書いている。筑土といえば、小松和彦『神々の精神史』(福武文庫1992)*4の第三部「筑土鈴寛の世界」は必読だろう。小松氏は筑土を「まさに異端の国文学であると同時に、悲しむべきことだが、忘れられた民俗学者でもあるのだった」(p.304)と評し、また、次のようにも書いている。

 だが、彼がライフ・ワークとして著述していた『中世文学史研究』全三巻は、度重なる戦火のために資料とともに一切消失ママ)してしまうという、惜しみて余りある不幸に襲われねばならなかった。

 戦後柳田国男久松潜一たちの激励・援助によって東大図書館内に研究室を借り、新たな出発を決意したが、しかし、惜しいかな病に倒れた。享年四十五歳というその若さは、彼の研究がほとんど未完成であることを物語っているが、それにもかかわらず、彼の残した研究成果の豊かさに、いまなお私たちは驚かされるのである。(p.305)

 柳田というと、筑土の「解説」(『沙石集・上巻』)にも、「また柳田國男先生から、始終に亙って配慮賜つたことを、こゝに記して、深く感謝申上げる」(pp.8-9)と謝辞が述べられている。

 話が逸れた。さて、北村版『六の宮の姫君』には下記のようなくだりもあった。

(河出の『現代日本小説大系』の)第三十三巻。『新現実主義1』、芥川龍之介菊池寛という取り合わせである解説川端康成。(略)

 私は首を振って、

「鼠はいなかったけど、『六の宮の姫君』にはお会いしたわ」

「はあ?」

 語尾の上がった声と一緒に、正ちゃんは身を起こす。こちらは、隣のベッドに腰を下ろして説明する。

「というわけ。なかなかに運命というのも、味のあるものね」

「なるほど。で、川端康成は『姫君』について、何といってるんだい」

「そうね」

 解説は、かなりの長文である。取り敢えず、収録作品について触れている部分を見ると、こう書いてあった。

「《王朝にありがちの話で、そのあはれに、芥川近代の冷たい光をあてたのである》」

「それだけ?」

「うん」

ちょっと狡いな。見た目は整ってるけど、実は何もいってないじゃない」

「そうねえ、ラスト芥川流の冴え冴えとした解釈があるということなんだろうけど、そのどの辺が《近代》で、どの辺が《冷たい光》だというのか。うーん、解説なのに説明してくれない。川端先生のお考えは、しかとは分からない」

「そこはそれ、一目見て美しく、分かる人には奥があるという作風の方だから

pp.124-25)

 この「かなりの長文」とされる川端解説は、川西政明編『川端康成随筆集』(岩波文庫2013)にも収録されている(pp.291-324「芥川竜之介菊池寛」、新かなづかい)。当該の一文はpp.319-20に見える。ただしその「初出一覧」を見ると、「「現代日本小説大系」三一巻(河出書房刊、一九四九年一〇月一〇日)原題解説」」とあって、巻数が違う。これはどうやら北村著の誤記のようである(版によって違いがあるようです。コメント欄ご参看)

 それから北村著に何度か出て来る「永井龍男の『菊池寛』」(この本がまた、「私」に重要なヒントを与えることになる)に触発され、乾英治郎『評伝 永井龍男芥川賞直木賞育ての親―』(青山ライフ出版2017)を読んでいたところ、思いもよらぬ記述に逢著した。

1953年の第二回「世界短編小説コンクール」の)出品作となる(永井の)「小美術館で」は、昭和三〇(一九五五)年八月『新潮』に掲載されている。内容は、美術館鎌倉美術館モデルと思われる)喫茶室に務める(ママ)三〇代の戦争未亡人水野が、館に足繁く通う紳士に求婚されて惑う様子をスケッチ風に描いたものである喫茶室には水野の他に二人の老婦人と、そのうち一人が籠ごと連れてくる鸚鵡がいる。その鸚鵡が突然「ええい! どうして俺は、古臭い言葉ばかりしか知らないんだ。それも、みんな人間の口真似じゃあないか。俺自身の鳴き方って云うのじゃ、いったいどんなんだ。退屈だ。ええい、退屈だ。逆立ちをして、二、三度世の中を眺めたが、へん、やっぱり変わりはあるもんか。蓮の花が、ぐるぐる廻って見えただけさ」と矢継ぎ早に叫ぶ。自分の鳴き方が判らない鸚鵡というモチーフは第三短編集『朝霧』所収の「ペロツケ」を思わせるが、「逆立ちをして、二、三度世の中を眺めたが、へん、やっぱり変わりはあるもんか」という言葉は、芥川龍之介の「河童」(『改造』昭和2・3)の中で河童の一人が口にする「いえ、余り憂鬱ですから、逆まに世の中を眺めて見たのです。けれどもやはり同じことですね」という台詞本歌取りではないかと思える。また、「蓮の花が、ぐるぐる廻って見えただけさ」は、同じく芥川の「六の宮の姫君」(『表現』大11・8)の中で、瀕死の姫が「金の蓮華が見えまする。天蓋のやうに大きい蓮華が。……」という場面を思わせる。pp.240-41)

 この「六の宮の姫君」から引用、「金の蓮華が」と云うのは「金蓮華が」の誤脱かと思われるが、永井短篇芥川の「六の宮の姫君」とが結びつく(かもしれない)という事実はたいへん興味深いことである

 さて北村氏の「六の宮の姫君」は、芥川の、あるいは菊池寛作品等を通じて、「人と人との繋がりの哀しさ」(p.167、円紫の発言)を描いた佳品であるが、さらに意外な事実が明かされるのが、同じ「円紫さんと私」シリーズの「山眠る」(『朝霧*5創元推理文庫2004所収)である

 そこには、芥川が「六の宮の姫君」を「強引に慶滋の保胤で結んだ」理由(p.29)について、「田崎信」の口からある推測が語られる(その「推測」の根拠となる事実について、北村氏は作品の末尾で「石川哲也さんに御教示いただきました」p.92と述べている)。それは、芥川がおそらく意図的に「(慶滋保胤という)俗名を挙げ、内記上人と呼ばれたことまで記しながら、法名を書いていない」(p.29)ことに関わっているのだが、これとちょうど逆のような書きぶりが、幸田露伴の「連環記」に見られることを思い出した。すなわち露伴は、保胤(寂心)の弟子・寂照が三河守定基である事実をしばらく伏せたまま物語を展開し、終盤でようやく俗名を記しているのである「幸田露伴「連環記」」を参照されたい)。

六の宮の姫君 (創元推理文庫)

六の宮の姫君 (創元推理文庫)

沙石集 (上巻) (岩波文庫)

沙石集 (上巻) (岩波文庫)

神々の精神史 (講談社学術文庫)

神々の精神史 (講談社学術文庫)

川端康成随筆集 (岩波文庫)

川端康成随筆集 (岩波文庫)

朝霧 (創元推理文庫)

朝霧 (創元推理文庫)

*1:『日本語教育学の視点国際基督教大学大学院教授飛田良文博士退任記念』(東京堂出版2004)http://rnavi.ndl.go.jp/mokuji_html/000007500694.htmlに「翻訳小説文体」という論文を寄せている佐藤氏と同一人物らしい。

*2北村氏『六の宮の姫君』の発表年1992年で、新大系本『拾遺和歌集』は1990年刊行されている。ちなみに、古典文学全集類の注釈のそれぞれの特徴については、最近林望『役に立たない読書』(インターナショナル新書2017)pp.124-32が、『源氏物語』を例に説いているのを読んだ。林氏は、新大系の「注釈は、一般読書人にとっては不親切なところがあって、全訳などは一切付けられていないのですから、これだけで「源氏」をスラスラと「読書」するのは相当にむずかしいことと思います。どうもこれは、最初から古典を相当に読み慣れている人を対象として作られた注釈のような感じがするのです」(p.128)と述べている。

*3:この全集本のある「誤記」について、第八巻の解説吉田精一が「後から付け足したような活字で」(p.84)触れ、それが「岩波版の新しいの」(p.85)で訂正されている、という事実も明らかにされている。

*4:のちに講談社学術文庫版も刊行され、そちらも長らく品切であったが、今年に入って新カバーで復刊された。

*5北村氏は、この表題作を書くにあたって永井龍男の『朝霧』を意識されたか、どうか。

本が好き本が好き 2017/05/27 22:14 北村の通り、三十三巻。ちなみに三十一巻は野上弥生子・宮本百合子です。
また、現代日本小説大系三十三巻「芥川・菊池」は昭和二十九年八月五日初版発行です。

本が好き本が好き 2017/05/28 13:53 すみません。五年後に、序巻補巻などを巻数に入れ、再度出し直していますね。北村の読んだのは、五年後の「現代日本小説大系」でした。作中人物が手にしたのもそれになりますから、説明が必要ですね。

北村薫北村薫 2017/05/28 15:31 ご指摘ありがとうございます。こういう書き込みはしたことがないので、実はやり方がよくわかりませんが、お許しください。そういえば、現代日本小説大系、箱の違うものを古書店で見たことがあります。しかし、巻数の違う版とは考えもしませんでした。事情か複雑ですので、簡単に手もいれられません。三十三巻を三十一巻に直すと、本の版が違ってしまいますので。
いずれ、エッセーなどの形で、読み手に届くような説明をしたいと思います。ご了解ください。

higonosukehigonosuke 2017/05/29 13:00 >本が好き 様
ご指教、まことにありがとう御座います。現物をろくに確認もせず軽率なことを書いてしまいました。お手を煩わせてしまって申しわけないことです。
本文を修正いたしました。どうぞ御確認くださいませ。
わたしは、ゆまに書房による復刻版(http://www.yumani.co.jp/np/isbn/9784843332788)の書誌を確認しただけで済ませておりました。ここは慎重に確かめなければならない所でした。

>北村薫 様
わざわざお越しいただきご返事下さいまして、まことにありがとう御座います。現物を見ずにいいかげんなことを書いてしまった非礼を御寛恕くださればと存じます。
さて、貴著を再読して触発されるところ多々あり、たとえば今は『日本の鶯』を繙くなどしております。
向後も、愉しい小説やエセーを拝読できること、また、アンソロジーで知らなかった物語に触れ得ることを楽しみにして居ります。

2017-04-24 おとうさん/おかあさん このエントリーを含むブックマーク

 原作(深見じゅんのマンガ)は未読ながら、かつてオンタイムで見ていたドラマぽっかぽか』(1〜3,1994-97)が、BS-TBS再放送されている。「花王愛の劇場」枠で放送されたいわゆる「昼ドラ」だが、これが何よりも印象的なのは幼稚園児の田所あすか上脇結友)が、父親の慶彦(羽場裕一)を「チチ」、母親麻美七瀬なつみ)を「ハハ」と呼ぶということであった。

 「チチ」「ハハ」は、現代でこそ改まった場で自分父親母親をいう呼称だとされるが、同音連呼から、「ヂヂ」(爺)「ババ」(婆)「おテテ」(手)「おメメ」(目)などと同じく、元来は幼児語であったと推測される。

 しかし今は、藝能人やスポーツ選手などが、公の場で自分の父母のことを「お父さん」「お母さん」などと言おうものなら、特に中年以上の方々から、ケシカラン、という内容の声や投書が届く。「チチ」「ハハ」と言わせろ、というわけだ。

 ところで「おかあさん」は、すでに江戸期の確例がある。

 再掲になるが、森銑三『讀書日記』(出版科學總合研究所1981)が以下のように記している。

十二日昭和八年九月―引用者) 從夫(それから)以來記は萬象亭の黄表紙中或は最もよきものなり。稀書複製會本にて讀むに、幼兒が「かゝさんや、とん\/とうがらしをかつてくんねへ、おかアさん」といふところあり。江戸の子供が「おかアさん」といふこと訝かしく、夜圖書館にて原本を借りて見しに、やはり「おかアさん」とあり、ふしぎなり。圖書館本は南畝の舊藏本なり。但し識語はなし。(p.41)

 後年、森は別のところで、この十八世紀末黄表紙を再び目にすることとなる。

四日昭和十三年四月―引用者) 某氏を訪ひて黄表氏(ママ)二百餘部を見る。(略)なほ萬象亭の從夫以來記あり。この作先年稀書複製會本にて讀みし時、「かゝさんや、とん\/とうがらしをかつてくんねへ、おかアさん」とある。その「おかアさん」を疑問としたりしが、今原本を見るに、またその如くにして、刻の誤にはあらず。江戸下町にて「おかアさん」などいふ子のありしにや。(p.290)

 この用例は、『日本国語大辞典【第二版】』(小学館)も採録している。

 以前、渡辺邦男『蛇姫様』(1959)を観ていると、市川雷蔵が「おとうさん」を連呼する場面があって若干違和感をおぼえたことがあるが、ありえない話でもなさそうだ。

 大森洋平『考証要集―秘伝! MHK時代考証資料』(文春文庫2013)は、「おとうさん・おかあさん」の項を収めていて、

 江戸時代江戸京都大坂中流以上の商家で使われたが、武家には「品がない」と見られていた。「オトウサン・オカアサン」が明治三七年の国定教科書全国的になると、士族からは相当の反発があったという(大野敏明『知って合点 江戸ことば』文春新書、八八・二〇一頁)。また、三田村鳶魚は「おとうさま、おかあさまは近頃のことばで昔は使わない」と言っている(三田村鳶魚江戸生活事典青蛙房、二五二頁)。時代劇武家台詞では「父上・母上」とする。(p.62-63)

と書いている。

 時代は下がるが、永井荷風(1879-1959)は、1927(昭和二)年10月の「申訳」(「荷風随筆 抄」『日和下駄 一名 東京散策記』講談社文芸文庫ワイド2017所収←講談社文芸文庫1999)で、「僕が文壇の諸友と平生会談場所と定めて置いた或カッフェーに」いた「お民」という女性が、自分の父母を「おっかさん、おとっつぁん」と呼んだことに関連して、以下の如く記している。

 お民は父母のことを呼ぶに、当世の娘のように、「おとうさん、おかあさん」とは言わず「おっかさん、おとッつァん」と言う。僕の見る所では、これは東京在来の町言葉で、「おとうさん」と云い、「おかアさん」と云い、或は略して、「とうさん、かアさん」と云うのは田舎言葉から転化して今は一般通用語となったものである。薗八節の鳥辺山に「ととさんやかかさんのあるはお前も同じこと」という詞がある。されば「とうさん、かアさん」の語は関西地方のものであろうか。近年に至って都下花柳の巷には芸者茶屋待合の亭主或は客人のことを呼んで「とうさん」となし、茶屋の内儀又は妓家の主婦を「かアさん」というのを耳にする。良家に在っては児輩が厳父を呼んで「のんきなとうさん」と言っている。人倫の廃頽も亦極れりと謂うべきである。因にしるす。僕は小石川の家に育てられた頃には「おととさま、おかかさま」と言うように教えられていた。これは僕の家が尾張藩の士分であった故でもあろうか。其の由来を審にしない。(pp.167-68)

 また、荷風の四半世紀後に生れた佐多稲子(1904-1998)は、『素足の娘』(1940年3月刊)で、

私たちも父母を呼ぶのに、父ちゃん、母ちゃん、と言わせられ、小学校一年生の時、先生に父母の呼び方を一人々々たずねられたが、みんな、おとつっあんママ)、おっかさん、で、私のように父ちゃん、母ちゃん、と言うものは、ただ私ひとりであった。その時は恥ずかしかったけれど、その方がハイカラなのだ、ということは小さい私も知っていた。(新潮文庫版1961:34)

と回想している。

 さら山田俊雄(1922-2005)は、『忘れかけてゐ言葉』(三省堂2003)で、荷風と同世代にあたる父親話し言葉について、次のように述べている。

 オトッツァンだの、オッカサンだのといふと、今の若い人は聞いただけで、笑ひ出したり、不謹慎にも、トニー某の發明發見した、ふざけた言葉の一つだと思つたりする。(略)

 私の少年の頃、父はすでに、その頃の世間竝みにいふと老年に近かつた。父は一八七五年の生れで、私は一九二二年の出生だから四十七歳の時の子である。私が小學校に上る頃、父はとうに五十歳を過ぎてゐた。

 父の口から出るオトッツァンは、主として彼の父、つまり私から云ふと、祖父をさしてゐた。毎月二十五日には、

今日はオトッツァンの日だ、オッカサンは何をこしらへるのかな?」

といふ工合に、祖父の命日の朝など、母と同席してゐ子供達にも聞えるやうに、祖父の位牌の前に供へる御馳走の話になることがあつた。オッカサンの日も、ほぼ同様であつた。(略)

 オッカサンも、オトッツァンも、別にいやしいことばではないし、田舎詞でもなかつた。木山捷平の件の短篇にも、「お父ッつぁん」は幼な言葉の類であるやうに書いてある。(略)

 また、ヘボンの「和英・英和語林集成」に、

OTOTTSAN オトッサン 阿爺 n. (cont. of o-toto-san, com. coll,) Father. Syn.CHICHI, TETEGO.

とあつて、ヘボンの横文字と、片假名との對照によると、オトッサンの片假名は、發音式に書くとオトッツァンに当ること明白である。これは明治前期のことに属する*1

(「『お父ッさん』の話」平成九年十月pp.220-24

 この前年にも山田氏は「おとつさん」という文章を書いており、『詞苑間歩―移る時代・移ることば(下)』(三省堂1999)などに収めてある(pp.344-47)。両者で取り上げているのが、式亭三馬浮世風呂』前編巻上に出る「おとつさん」で、「さ」に「しろきにごり」が附されている。ゆえに発音上は「おとっ『つぁ』ん」だろうと見られていて、山田氏は「おとつさん」で、「標題はオトッツァンと發音して貰ひたい」(p.344)と書いている。

 なお山田氏は、

「オトッツァン」「オッカサン」は国定教科書の「おとうさん」「おかあさん」によつて、今ではすつかり片隅の者になつたのだが、山の手中流教養ある人々のことばには、どうもいまだに造り物らしい匂のするものがある。(『詞苑間歩(下)』p.347)

とも書いている。こうして見てくると、少くとも十九世紀末から二十世紀初頭にかけて生れた人々の多くは、自分の両親のことを、「おとうさん」「おかあさん」ではなく、「おとっつぁん」「おっかさん」と呼んでいたらしいことが知られるのである

 教科書に現れる親族呼称批判的に捉えたものとしては、大岡信氏(1931-2017)による文章もある。こちらは「チチ」「ハハ」に対する見解である

 今中学に通っている私の息子が、六年生のとき出来事だが、ある日彼が私のところへ国語教科書をもってきていうには、「この教科書おかしいよ。本物とちがうよ」。

 宮沢賢治作「けんじゅう公園林」として、賢治の「虔十公園林」がのっていた。(略)

 私の息子は小学校時代、長いあい宮沢賢治童話に熱中していたので、教科書方言がすべていわゆる標準語に書きかえられているところまでくると、「これは本物とちがう」と気づいたのである。(略)「なぜ方言のままで出さないの?」ときかれて、あらためて教科書を眺めれば、そこに出ている会話は、今日の都会のサラリーマン一家が、日曜菜園か何かでかわしている会話以外の何ものでもないではないか。(略)

 「おっかさん」を「母」、「にいさん」を「兄」、「お父さん」を「父」と呼びかえている偽善性も、まったく気に入らない。国語教科書が率先して家族の親しい呼び名に水をぶっかけるようつとめているのではないか。言葉問題何が悪いといって、偽善的な言葉を使うほど悪いことはない。なんで「おっかさん」ではいけないのか、私はこの改変をつまらないことだと思う。正当な根拠がない改変だと思う。戦後のいちじるしい現象だと思うが、「おとうさん」「おかあさん」の類を何が何でも「父」「母」というふうに子どもに教えこむ教育上の悪慣習が生じたように私は感じている。まさか、かの悪名高い当用漢字音訓表に「父(とう)」「母(かあ)」の訓みが許容されていなかったから、などということではなかろうが、あるいはそんなことも関係があるかと、つい勘ぐりたくなる。

 たしかに、自分の父母兄弟について言う場合なら、チチ、ハハと言えと教えるべきであるときどき「ぼくのおとうさんが」などという青年出会っておどろくことがある。けれども、これがつねにチチ、ハハでなければならないという掟はどこにもない。「虔十公園林」の場合、「おっかさん」「にいさん」「お父さん」と言っているのは、虔十自身ではない。作者の宮沢賢治である。賢治はこれらを「母」「兄」「父」と書くこともできたのに、そうは書かなかったのである。この生きた感情生理無視するのはまちがっている。

(「仙人が碁をうつところ―子ども言語経験について―」1973.7,『青き麦萌ゆ』中公文庫1982所収←毎日新聞社1975:70-75)

 文中の「私の息子」とは、大岡玲氏(1958-)である

 後年、大岡玲氏は自著で次のように書いている。

僕も子供の頃から宮沢賢治が大好きで、岩波書店が1963(昭和38)年に出した単行本風の又三郎』(1931〜33)と『銀河鉄道の夜』2冊を毎晩枕元に置いて寝たほど愛着があった。そんな風だったから教科書掲載方法不審を抱いたというか、ほとんど激怒したのだ。(略)

 もちろん、採用したこと自体は悪くない。あ、「虔十公園林」だ、と小学生だった僕も、一瞬喜んだ。その喜びが腹立ちに変わったのは、収録に際して原文を改悪していたからなのだ

 どういうことかというと、賢治はこの物語の中で交わされる会話(とてもイキイキした会話だ!)を、生まれ故郷岩手方言で書いている。それなのに、教科書ではそれを標準語に直してしまっていたのだ。雰囲気台なしであるしかも、そこには潜在的差別意識が透けて見える。方言はわかりにくいし、子供には正しい標準語を教える必要があるという判断。まるで、方言は「少し足りない」から正しい日本語に改良してやると暗に主張しているみたいに感じられてしまう。それじゃあ、虔十をバカにした人々の行為と同じではないか。

 小学生だった僕が、そんな風に明確に差別を読み取ったとは思わないけれど、なにかすごくカチンときたことははっきり覚えている。

大岡玲『不屈に生きるための名作文学講義―本と深い仲になってみよう』ベスト新書2016:183-86

読書日記 (1981年)

読書日記 (1981年)

素足の娘 (新潮文庫 さ 4-2)

素足の娘 (新潮文庫 さ 4-2)

忘れかけてゐた言葉

忘れかけてゐた言葉

詞苑間歩―移る時代・変ることば〈下〉

詞苑間歩―移る時代・変ることば〈下〉

青き麦萌ゆ (1982年) (中公文庫)

青き麦萌ゆ (1982年) (中公文庫)

*1:「明治前期」とあるから再版か。手許には講談社学術文庫版(第三版の縮刷影印)しかないので分らない。むろんその三版は採録している(p.493)。ちなみに初版慶應年間に刊行された。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/higonosuke/20170424

2017-04-09 叙述ミステリ(トリック)が好き。 このエントリーを含むブックマーク

 気持ちよく騙されるのが好きだから、叙述ミステリも好んで読む。『盤上の敵』『十角館殺人』『ハサミ男』『殺戮にいたる病』『葉桜の季節に君を想うということ』『ロートレック事件』「依子の日記」等々。

 海外作品だと、最近(昨秋)読んだのが、フレッド・カサック平岡敦訳『殺人交叉点』(創元推理文庫2000)*1だ。

 この『殺人交叉点』は、瀬戸川猛資が『夜明けの睡魔海外ミステリ新しい波』(創元ライブラリ1999)のp.94で、「文句なしの大ひっかけミステリ」として紹介しているほか、

フランス風小手先芸の極致小手先芸もここまでくれば、芸術品というしかない。(p.264)

とも評している。

 ちなみに瀬戸川は、単行本版(1987刊)の付記で、

読者からお便りがあり、(瀬戸川が)ベストワンにあげていた『殺人点』を読んだのだが、まったく驚かなかった、ひょっとして翻訳問題があるのではないか、という質問を受けた。文庫版の『殺人点』を読んでみたら(わたしがあげたのは、〈クライムクラブ〉版の『殺人点』。不覚にも、文庫版を読まずに推奨していたのだ)、たしかトリックがわかるまずい部分があったので、その文句を書きつらねたのであるしかし、創元推理文庫版のこの本はもう絶版だし、将来、まずい部分を訳し直して刊行する予定とのこと。文句は、(単行本刊行時に)自主規制してカットした。(p.99)

と書き残している。残念ながら、改訳版は瀬戸川の存命中には間に合わず、歿後一年を経て、平岡敦訳『殺人交叉点』(2000)として刊行された(手許のは2013年2月1日3版)。また平岡氏の「訳者あとがき」に拠ると、旧訳2種は1957年刊の旧版を訳したものだが、新訳はカサックが大幅に改稿した版(1972年刊。「フランスミステリ批評家賞」を受賞)を訳したものという。

 なおカサック自身は覚書で、改稿に際して「ほとんど全面的に手を入れた。そしていやらしい恐喝犯を当世風にあらため」た(p.193)云々、と記している。

---

 わたし瀬戸川の評言に触発されて『殺人交叉点』を繙いたように、叙述ミステリは、あらかじめ「その手の作品」だということを聞かされて読む場合が少なくないとおもう。

 つい先日やっと読んだ、小泉喜美子『弁護側の証人』(集英社文庫)もそうだった。

 この作品は、綾辻行人氏が伊坂幸太郎氏との対談で、

国内作品では、(叙述トリックを利用した)先駆的な傑作として小泉喜美子さんの『弁護側の証人』(一九六三年)がありましたね。でも、その後はあまり作例が多くない。叙述トリックという言葉も今のように一般的じゃなかったんですよ。(「ミステリー作家連城三紀彦の魅力を語る」『連城三紀彦 レジェンド―傑作ミステリー集』講談社文庫2014:313)

と触れたこともあって気になっていたところ、戸川安宣氏が、空犬太郎編『ぼくのミステリクロニクル』(国書刊行会2016)で、

その当時、生島(治郎)さんはまだ小泉喜美子さんと結婚していて、結婚するときに、小泉さん作家をやめろといって結婚したというんです。『弁護側の証人』は結婚前の作品だったのですが、小泉喜美子名義で出たのは、結婚してから本になったからなんでしょう(生島治郎本名小泉太郎引用者注)。とにかく条件として、これを最後作家はやめろと言った、というエピソードは耳にしていました。せっかくゲスト作家に会ったんだから、これは何か聞かなくちゃいけない、でも何も読んでいない、というので、「奥さんはもう書かないんでしょうか」みたいなことを聞いたら、生島さんはむすっとして、もう書きませんみたいなことをおっしゃっていました。(p.104)

と語っているのを目にして、よし読もうというわけで、2009年刊の新版2016年10月17日第15刷)で読んだ。

 実をいうと、作者が用意した仕掛けには、警戒していたせいか早々に気づいてしまったのだが(とは云え「真相」にまではたどり着けず)、しかし、これが五十年以上前に書かれたというのは畏るべきことである。なるほど「莫連女」(p.136)など、たしか歴史を感じさせることばも出て来るけれど、後半部は法廷ミステリとしても読めるし、読者を飽きさせない工夫も凝らしてある。タイトルは、多分、クリスティの『検察側の証人*2意識したものだろう。

 そうしたところへ、昨夏は小泉の『血の季節』が復刊され(宝島社文庫)、今年に入って『殺人はお好き?』(同)も復刊された。また先月には、『痛みかたみ妬み―小泉喜美子短篇集』(中公文庫)も「増補再編集版」として刊行された。同書の編者・日下三蔵氏によると、『痛みかたみ妬み』は「小泉喜美子の全著作の中で、もっとも入手困難だった一冊」(p.409)なのだそうで、その短篇集に、「またたかない星(スター)」「兄は復讐する」「オレンジ色のアリバイ」「ヘア・スタイル殺人事件」の四篇を増補収録している。

 その後、『弁護側の証人』を集英社文庫旧版1978年刊)で入手した。ちょうど巧い具合に、行きつけの書肆の店頭に転がっていたのであるしかしこれは、カバーの内容紹介がいけない。「種」を半分明かしてしまっているようなもの*3

 その一方で、解説は読みごたえがある。何しろ生島治郎の友人で、小泉喜美子とも親交のあった青木雨彦が書いているのだから特にラスト8行(p.240)には、こういう「愛」の形もあるのか、と唸らされてしまう。

殺人交叉点 (創元推理文庫)

殺人交叉点 (創元推理文庫)

弁護側の証人 (集英社文庫)

弁護側の証人 (集英社文庫)

ぼくのミステリ・クロニクル

ぼくのミステリ・クロニクル

*1:カサックの『連鎖反応』を併録。

*2:大傑作・ビリー・ワイルダー情婦』の原作。『情婦』のラストは、「どんでん返し」の原作をさらにもうひとひねりしている。

*3:そう云えば都筑道夫のある作品や、横溝正史のある作品も同様に、内容紹介やカバー絵がほとんど「種」を明かしてしまっており、残念に感じたことがある。

2017-04-05 濁る「田」と濁らない「田」と このエントリーを含むブックマーク

 (大島は)二、三分後には手紙をもったまま車に戻ってきて、

「お客さん、さっき『イシダ』って言ったの? 西田って客なら予約が入っていて、さっき『到着がもっと遅れる』って電話が入ったって。イシダって客はいないと言うから

 と言った。

 女はちょっと困ったようにしていたが、「私は西田って言ったのよ。運転手さんの聞き間違い。あ、でももういいから、駅の方へ戻って」と言い、大島から手紙を受けとった。

 確かに『イシダ』と聞いた気がしたので大島は納得がいかなかったが、それでも黙って、女に言われた通り、車をUターンさせた。

連城三紀彦無人駅」『小さな異邦人文春文庫2016所収:45-46)

 ここで大島が、「確かに『イシダ』と聞いた気がした」と自信をもってそう思えるのは、音韻が異なる(/i/と/ni/)ことだけに因るのではあるまい。それだけなら聞き違えてもおかしくはない。超分節要素(かぶせ音素とも)のアクセントが違っているからだと思われる。

 共通語では、「いしだ」は無核型で、「にしだ」は有核型のアクセントをもつ。

「(二拍)+田」姓の場合、無核型は、

浅田(あさだ)、飯田(いいだ)、池田(いけだ)、石田(いしだ)、上田(うえだ)、内田(うちだ)、岡田(おかだ)、長田(おさだ)、岸田(きしだ)、北田(きただ)、沢田(さわだ)、武田(たけだ)、土田(つちだ)、寺田(てらだ)、徳田(とくだ)、畑田(はただ)、深田(ふかだ)、福田(ふくだ)、前田(まえだ)、町田(まちだ)、松田(まつだ)、持田(もちだ)、安田やすだ)、吉田(よしだ)*1

と、ほとんどの場合、「田」が連濁で濁る*2

 無核型の非連濁形は、

青田(あおた)、岩田(いわた)、太田(おおた)、倉田(くらた)、桑田(くわた)、永田(ながた)、宮田(みやた)、村田(むらた)*3

など、濁る場合に比べてかなり少ない。「田」の直前が後舌のア段・オ段音に偏るのは偶然か。

 これとは逆に、有核型は、

秋田(あきた)、有田(ありた)、角田(かくた)、梶田(かじた)、門田(かどた)、川田(かわた)*4、窪田(くぼた)、栗田(くりた)、坂田(さかた)、柴田(しばた)、杉田(すぎた)、関田(せきた)、鶴田(つるた)、飛田(とびた)、富田(とみた)、豊田(とよた)、成田(なりた)、春田(はるた)、弘田(ひろた)、蛭田(ひるた)、藤田ふじた)、古田(ふるた)、堀田(ほりた)、牧田(まきた)、水田(みずた)、室田(むろた)、百田(ももた)、森田(もりた)、横田(よこた)

など非連濁形が多い。連濁形はむしろ少なくて、

金田(かだ)、上田(かだ)、亀田(かだ)、黒田(くろだ)、菰田(こだ)、里田(さとだ)、篠田(しだ)、園田(そだ)、角田(つだ)、殿田(とだ)、友田(とだ)、西田(にしだ)、羽田(はだ)、浜田(はだ)、蓑田(みだ)、米田(よだ)

などに限られる。

 次の例は、「マセタ」なら有核型、正しい読みの「マセダ」なら(「アクセントにも気をつけて」ということだから)無核型で呼んだ、ということを意味するのであろう。

 私が高校の教師をしていたとき、そこの女子生徒に間世田さんという子がいた。これは放っておくと「マセタさん」と読めて、十五、六の女の子がマセタさんではかわいそうなので、教員一同、アクセントにも気をつけて「マセダさん」と呼ぶことにしていた。

(柳沼重剛「名前について」『語学者の散歩道』岩波現代文庫2008所収:238)

 さて、有核型の例外を見てみると、「田」の直前に鼻音性子音を有するナマ行の音節が来る場合がほとんどだから、「田」が濁る要因は、形態論的な連濁ではなくむしろ音声環境によるところが大きいと思われる。いわゆる「新濁」(「連声濁」)である

 「新濁」は、ロドリゲス以来「うむの下濁る」などと言い慣わされてきたが、これは、現在とは違って、「濁音」が「鼻音要素(m,n,ngなど)+阻害音」であった時代の現象である

 現在では、「濁音化」がおおむね「無声音の有声音化」*5意味するのに対し、当時は、阻害音(無声か有声かに関わらない)が鼻音要素と共起しておれば「濁音」と見なされていたとおぼしい。このあたりのことについては、高山(2012)が早田輝洋説などを援用しつつ「濁音の弁別的特徴に史的な変化があった」(p.99)と結論しており、たいへん勉強になる。

 つまり「新濁」は、現在はその痕跡を見出せるにすぎない現象なのであって、新たに生産された語にそれが生ずる*6訣ではない。

 「観測所」「紹介所」「脱衣所」などで「所」が濁ることもあるのは、連濁の異例*7解釈できる餘地もあるが、「公文所(くもんじょ)」「見山所(けんざんじょ)」などの新濁例から類推があるかも知れないし(高山2012:115)、「場(じょう)」などの干渉もあるのだろう。

 連濁のように見える「羽生結弦(はにゅうゆる)」の名「結弦」は、多分、名付け親が「弓弦(ゆる)」を念頭に置いたものだろう。これは、「弓束(ゆか)」「弓削(ゆ)」等と同じく、「弓(ゆ)」の鼻音性子音が阻害音と共起して新濁を生じたケースであろう。

 「文手(ふて)」→「筆(ふ)」も、同様の過程を辿ったもの

【参考】

金田一春彦(1976)「連濁の解」『Sophia Linguistica』二(『日本語音韻音調史の研究吉川弘文館2001所収)

高山倫明(2012)『日本語音韻史の研究ひつじ書房

田中伸一(2009)『日常言語に潜む音法則世界』開拓社

小さな異邦人 (文春文庫)

小さな異邦人 (文春文庫)

語学者の散歩道 (岩波現代文庫)

語学者の散歩道 (岩波現代文庫)

日本語音韻音調史の研究

日本語音韻音調史の研究

日本語音韻史の研究 (ひつじ研究叢書(言語編) 第97巻)

日本語音韻史の研究 (ひつじ研究叢書(言語編) 第97巻)

日常言語に潜む音法則の世界 (開拓社言語・文化選書)

日常言語に潜む音法則の世界 (開拓社言語・文化選書)

*1今田(いまだ)、梅田(うめだ)、神田(かんだ)、熊田(くまだ)、島田しまだ)、下田(しもだ)、正田(しょうだ)、船田(ふなだ)、本田(ほんだ)、門田(もんだ)、山田(やまだ)などは、阻害音の直前にナマ行音節、もしくは鼻音要素があるので、除外しておいたほうが無難か。さらに正確を期するなら、「田」の直前が濁音のものも除外しておくべきところだろうが、取り敢えずそのままにしておく。

*2:もちろん、たとえば「上田」姓などには「うえた」という非連濁形もあるが、ここでは「概ねそう読みうる」という傾向を言っている。なお、「上田」=「かみだ」の場合は有核型で発音され、連濁形の例外に属する。後述。

*3堀田(ほった)は無核型だが、音声環境からして「た」が濁ることはあり得ない。

*4:「かわだ」と連濁形になる場合は無核型になって、いずれにせよ典型例となる。金田一(1976)p.340など参照。

*5現代日本語共通語)では、たとえばハ行音は清(p)-濁(b)ではなく、清(h,f)−濁(b)という対立をなすから、これは決して正確な表現ではないが、旧来のこの言い方に従っておく。

*6:この「生ずる」も新濁によるもの。「生」は鼻音性の-ngで終る音節で、日本語母語話者はそれを鼻にかかるuで発音した。「東国トーゴク)」も同様の理由による。「西国サイコク)」を「サイゴク」と濁るのは「トーゴク」「南国(ナンゴク)」に引きずられたものであろう。金田一(1976)p.338も参照のこと。

*7:連濁は、原則として和語のみに生じ、漢語を含む外来語には生じない。ただし、「夫婦喧嘩(げんか)」「株式会社(がいしゃ)」「芋焼酎(じょうちゅう)」「出刃庖丁(ぼうちょう)」「すけ鉄砲(でっぽう)」「青写真(じゃしん)」「当て推量(ずいりょう)」「黒砂糖(ざとう)」「雨ガッパ」「いろはガルタ」などの例外が知られる。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/higonosuke/20170405

2017-03-28 梁啓超『和文漢読法』のことなど このエントリーを含むブックマーク

 顧頡剛/平岡武夫訳『ある歴史家の生い立ち―古史辨自序―』(岩波文庫1987)に、次のような一節がある。

この時は、ちょうど国内革新運動が勃発した時であって、学校を開け、纏足を止めよ、鉄道を敷け、米国シナ労働者禁止条例に抗議せよ、政府憲法を布き国会を開かせよ、梁任公先生梁啓超 一八七三−一九二九年〕の言論一世を風靡した。私も、この潮流に揺り動かされて、自分でも救国の責任を感じ、いつも忼慨激昂して時事を論じた。『中国魂』のなかの「傍観者を叱る文」や、「中国武士道」の長い序文の類は、私のもっとも愛好する読物であった。(p.26)

 梁啓超のこの「纏足を止めよ」という主張は、たとえば坂元ひろ子『中国近代思想文化史』(岩波新書2016)も、

一八九七年には梁啓超・汪康年・譚嗣同らによって最大規模の「上海纏足総会」が組織され、各地に分会が作られた。同年に梁啓超が『時務報』に掲載した「変法通議」でも、女子教育重要性を論じ、纏足女性の「廃疾」化とみなし、「国の恥」と意識する。(p.49)

言及している。

 坂元著の前半部のキーパーソンのひとりが梁啓超だ。坂元氏は同書において、1917年ごろに梁、熊希齢、張君勱らが結成したグループのことを「梁啓超系」と名づけているほどで(p.98)、p.129やp.141ではこの術語を使っている。

 また上掲引用にみえる「時務報」や「変法通議」については、下記を参照のこと。

 梁啓超(広東新会の人)は中国ジャーナリズムの祖とも称せられる。新聞雑誌編集最初に精彩を放ったのは、一八九六年上海で創刊した『時務報』である

 初代駐日公使・何如璋に随行渡日経験もある強学会員、黄遵憲と汪康年で計画し、封鎖された上海学会の残金をもとに、梁啓超編集長、汪康年を代表責任者とし、「変法図存」(変法で生き残りをはかる)を旨として創刊。梁啓超は、国を強めるために科挙改変、学校学会新聞設立等の変法を唱え、男女の人材育成をその基本とする「変法通議」十数篇等を自ら執筆し『時務報』に掲載した。自然界は絶えざる変化の過程にあり、その自然法則組織としての生命もつ社会においても「公理」、つまり法則である、という梁の議論は多くの知識人に愛読され、『時務報』は最高部数一万七千に上り、これは当時の雑誌発行部数の最高記録となった。(略)

 梁啓超新聞雑誌の人気は、新知識の紹介、変法の鼓舞という点だけでなく、その文体にあった。明晰、平明、通俗的かつ情熱的な文体で、従来の古漢語文の形式に囚われずに、東西古典知識をおりまぜた。これが新鮮な躍動感を生み、アピール力ある独特な「時務文体」を創出したのである。その文章の平明さを浅薄とし、「報館(文屋)の文章」(厳復)、「報館八股文」との批判もあったが、何よりもそれは大衆化の条件であり、新聞文体趨勢であった。(坂元pp.37-38)

 ちなみに梁と盟友・汪とはその後「訣別」しており(梁は後に師の康有為とも「訣別」してしまうことになる)、これについては『変法派の書簡と『燕山楚水紀遊』―「山本関係資料」の世界』(汲古書院2017)が、筆談記録一篇、山本あて書簡七通を公開しつつ明らかにしたところである

 さて梁は日本亡命した後、『和文漢読法』という著作を編んでいる。

 梁啓超日本漢文訓読法を逆転させた『和文漢読法』(羅晋*1と共著)を駆使し日本で紹介されていた近代西洋思想を吸収、華僑の子弟教育にも尽力した。(坂元p.52)

 『和文漢読法』というのは、大略以下のような本である

 来日わず半年の上掲の文章*2ではすでに『和文漢読法』に言及している。同書は梁啓超と羅普の共著で、漢字が七、八割を占めている日本文中国人なら数日でいくらか読めるようになり、半年で十分書けるようになるという視角から書かれた入門書なのである。残された文章から見るなら、梁啓超がかなりはやくに日本文の読解能力を身につけたことは確かである。その実践論が上掲の『和文漢読法』である。題を見れば、それが「漢文訓読法」を真似たものであることはだれでもすぐに気付くだろう。しかし、「漢文訓読法」が日本語文法に即した体系を備えているのにたいし、『和文漢読法』は日本語中国語いずれの体系をもふまえぬ簡便理解術という点で、まったく異質のものなのである。梁作の増補版がつぎつぎと刊行されたことから漢字を見るだけですこしは分かる(分かったつもりになる)簡便さが受けたことは確かなのだが、「正則」ならざる「変則」の速成学習法が内包する問題点はその後ながく論議対象となった。(狹間直樹『梁啓超東アジア文明史の転換』岩波現代全書2016:87-88)

 『和文漢読法』そのもの、また諸本に関しては、古田島洋介(2008)「梁啓超『和文漢読法』(盧本)簡注」(明星大学学術機関リポジトリで読める)に詳しい。これによれば、同書は長らく稀覯書であったという(もっとも、現在でも容易に参照できる代物ではない)。この「盧本」とされた一本は必ずしも善本ではないようだが、京大文学研究科図書館蔵本で、豹軒鈴木虎雄の旧蔵にかかるらしい。古田島氏によると、「日本語を学ぼうとする者たちが、たぶん梁に無断で出版した」と思われ、1899年前半に編まれて、刊行されたのは1900年頃と推定されるという。初版本は未だに発見されていないようだ。

 古田島氏は当該論考を書くにあたって参照していないようだが、これが書かれる以前、齋藤希史漢文脈の近代―清末=明治文学圏』(名古屋大学出版会2005)の第5章「官話と和文―梁啓超言語意識―」*3が、『和文漢読法』に言及している(pp.115-17)。

 齋藤氏はその品詞区分特に着目し、上掲の古田論文が省略した第三十八節の和製漢語一覧の一部を紹介している(pp.116-17)。

 齋藤から一節を引いておく。

 さて、中国人日本語を学ぶときの一つの難所が用言活用であるが、梁啓超はこれについては大胆に切り捨てる。「我輩於其変化之法、皆可置之不理。但熟認之知其為此字足矣(我々は活用については無視する。よくよく見てどの字なのかわかればよい)」(第十六節)、見てそれと分かれば、つまり活用する部分がすべてラ行なりカ行なりの同一の行であることが分かればよいのである。他にも、長文の断句に窮したときは、「而」にあたる「テ」、「的」にあたる「ル」を目印にすればよい(第三十一節)などの虎の巻風の指示、日本印刷では濁音を省くことが多い(第三十七節)などの細かい注意まで、この『和文漢読法』は、なかなか周到な実用書と言える。(齋藤p.116)

 不思議なことに、齋藤氏がこれを書くうえで参照した『和文漢読法』の書誌が、註釈にも明示されていない。

 「盧本」すなわち京大蔵本に拠った、と考えるのが自然だろう。

---

 なお、齋藤著の第2部(第3〜5章)は梁啓超関連の論文によって構成されているのだが、該書の編集にあたった橘宗吾氏が興味深い「裏話」を明かしている。以下に引く。

 この本は四部構成になっていまして、その第2部は「梁啓超近代文学」と題して、明治日本亡命した清末の知識人梁啓超という人が日本の政治小説を手がかりに新しい文学概念をつくりあげていった様を扱っていますが、実はこの部分は最初、この本に収めるつもりではありませんでした。それは、私の方が、ゆるやかに考えるようになったとはいいましても、まだまだ「アジアからの衝撃」つまりアジアから日本への衝撃」という図式に囚われていたからだと思います。

 齋藤さんの方はこの本のテーマに関わる論文を少しずつ書いていってくれていたのですが、本全体の骨組みがいまひとつ定まらずにいました。訪ねていっては「ぼちぼち」「そろそろ」といった話はするものの、具体的にはなかなか刊行のめどが立ちませんでした。そこで私はだんだん、それは梁啓超についての論文を外そうとしていることに原因があるのではないかと思いはじめ、論文をもう一度読み返したりしているうちに、自分無意識のうちに日本主体においてこの本を考えようとしていたことに気づきました。日本が衝撃を受けるという形で、いわば受動態の主語だったので気がつきにくかったのですが、よく考えてみるとやはりそうでした。そしていったんそう気がついてみると、それにこだわる必要がないこともわかり、むしろウェスタン・インパクト=西洋の衝撃のもとでの日本中国相互作用をこそ主題にすべきだと思うようになりました。そして齋藤さんの論文の強みの一つはそこにあったのです。

 そこで、梁啓超論文を含めた形で目次を考えまして、駒場研究室を訪ねていって、齋藤さんに提案してみました。齋藤さんも梁啓超論文を本に入れたいと、たぶんずっと思っていたのだと思います。その場で今の目次がほぼ固まりまして、一気に刊行に向けて動き出しました。(橘宗吾『学術書の編集者慶應義塾大学出版会2016:75-76)

 また、「副題は最初、『清末=明治エクリチュール』だったものを、私が『エクリチュール』の部分に反対しまして、結局いまの『文学圏』に落ち着いたのだったと思います」(p.81)、というエピソード面白い

中国近代の思想文化史 (岩波新書)

中国近代の思想文化史 (岩波新書)

梁啓超――東アジア文明史の転換 (岩波現代全書)

梁啓超――東アジア文明史の転換 (岩波現代全書)

漢文脈の近代―清末=明治の文学圏―

漢文脈の近代―清末=明治の文学圏―

学術書の編集者

学術書の編集者

*1:本文ママ。これは誤記で、「羅普」が正しい。字は孝高。『佳人之奇遇』の翻訳作業にも協力したらしい。

*2:「論学日本文之益(日本文を学ぶの益を論ず)」(「清議」一〇号,1899.4)。

*3:もとになったのは、1998年カリフォルニア大学サンタバーバラ校で行われたシンポジウムにおける発表原稿で、初出は、"Liang Qichao’s Consciouness of Languages" , Joshua A. Fogel ed. ,The Role of Japan in Liang Qichao’s Introduction of Modern Western Civilization in China , The Institute of East Asian Studies, University of California, Berkeley, 2004.

2017-03-23 佐多稲子のこと このエントリーを含むブックマーク

 葉山嘉樹ほか『教科書で読む名作 セメント樽の中の手紙ほか―プロレタリア文学』(ちくま文庫2017)という昨年12月から刊行され始めたシリーズのうちの一冊に、佐多稲子処女作キャラメル工場から」が収められている(pp.33-58)。

 この作品は、青木文庫角川文庫表題作として収録されたこともあったようだが、文庫という形では長らく入手困難になっており、その後、久しぶりで紅野敏郎ほか編『日本近代短篇小説昭和篇1』(岩波文庫2012)に収められた。したがって、今回の文庫入りは約4年半ぶりということになろう。

 佐多の自伝『年譜の行間』(中公文庫1986)によると、

キャラメル工場から』も初めは八枚ぐらいの随筆のようなものでした。それを中野重治もっと長く、小説に書くようにと言って、それで小説にしたのです。(p.163)

という。この、元になった随筆も、中野のすすめで書いたようだ。佐多の『夏の栞―中野重治をおくる―』(講談社文芸文庫2010)には、

帰り際に中野が、窪川(佐多の夫。後に離婚引用者)に、と封書をおいて行ったのが、私のたびたび云う「キヤラメ工場から」を私に書かせるきっかけになるものだったのである。私は少し前に、これも中野から云われてだったとおもうが、「プロ芸」(「プロレタリア芸術」―引用者)編集部に、随筆を書いて渡していた。その随筆を、小説に書き直すようにとすすめた中野手紙がその封書であった。(p.88)

とある

 わたしは、昨春頃から佐多の文章をよく読むようになって、佐多と田村俊子宮本百合子らとの関係を描いた『灰色の午後』(講談社文芸文庫1999)を特におもしろく読んだのだが、古本屋で以前はよく見かけていたはずの『素足の娘』(新潮文庫)をなかなか見つけられず、また読書の中断期間を挟んだこともあり、少し遠ざかっていたところが、最近古書肆Sの店頭にその『素足の娘』を見出し(100円)、直後にA店頭でも見つけた(50円)ことを切っ掛けとして、再び佐多作品をちびちび読み始めている。読みながら、佐多研究者でもあるK先生蕎麦を奢っていただいて一緒に食べた日のことを懐かしく思い起すなどしていた(「私」と父親とが蕎麦を食う場面がある)。

 ところで、『灰色の午後』に次のような印象的なくだりがある。

この前九月半ばに行われた防空演習の夜、茶の間の電燈に遮蔽して、その下だけ光りの射す卓の上に岩波文庫里見八犬伝をおき、惣吉が音読をした。それを囲むようにして、折江と子ども二人の頭が揃っていた。そのときから半月すぎたばかりであった。あのとき惣吉は、燈火管制の下で馬琴を讀むというおもいつきに、表情まで改めたように自信深げであった。亮吉は卓の上に肩をのり出していた。節子は折江のそばに身体を寄せていた。惣吉は先ず、里見八犬伝の作者が、この書物を書く間に目が見えなくなって息子の嫁に口述をして筆記させたことなどから話しはじめた。表も暗かった。表の暗さに背を向けて馬琴を読むというわが家の籠もった空気は、心より密度を保っているかにおもわれた。(p.185)

 ここを読んでふと思い出したのが、前田愛音読から黙読へ―近代読者の成立」*1(『近代読者の成立』岩波現代文庫2001所収)である。そこにも、(時代こそ違うものの)山川均が少年の頃に、八犬伝を借りてきた父親が家じゅうの者にその読み聞かせをしていた、という証言が引かれている(p.168)。

 前田というと、前掲ちくま文庫の佐多のプロフィル欄に、「昭和六〇年に樋口一葉たけくらべ』の美登利をめぐって日本近代文学研究者前田愛相手に論争するなど終生活動的であった」(p.245)と記されている。

 この「論争」については、佐多稲子月の宴』(講談社文芸文庫1991)所収の「『たけくらべ解釈へのひとつの疑問」*2「『たけくらべ解釈のその後」*3を参照されたい。もっとも佐多自身は、後者文章で、「私はこれを書きながら、前田愛さんに対して論争のつもりなどをしているのではない。それは前田さんの書かれた『美登利のために』が、優しく書かれているせいである。優しく、という云い方は単純になるけれど」(p.164)と書いてはいるが。

 佐多の短篇作品としては、「キャラメル工場から」のほか、「水」もよく知られるところだろう。教科書採用されたこともあるそうだ。文庫版だと、現在は品切になっているが、佐多稲子『女の宿』(講談社文芸文庫1990)に収録されている(pp.47-56)。

 この「水」について、立野幸雄越中文学の情景―富山の近・現代文学作品―』(桂書房2013)は、

本を読んでいると、その本に巡り会った喜びで何かに感謝したくなることがある。その作品が長くても短かくても問題ではない。「水」はそのような作品である文芸評論家奥野健男氏はこの作品を「一行一行に無限人間のかなしみ、生活の重さがこめられて、何百枚かの長編を読んだと同じ感銘を受ける」と激賞した。(pp.54-55)

と述べているし、また最近出た福田和也鏡花水上、万太郎』(キノブックス2017)も「私小説の路、主義者の道、みち、――佐多稲子*4の末尾で、「水」を「佐多の短篇作家としての腕前を存分に示し」た作品(p.183)であるとして、その内容を紹介している。

---

 佐多稲子には『私の東京地図』(講談社文芸文庫)という愛すべき短篇集があり、わたしは「挽歌」の章が特に好きなのだが、オリジナル選集の小沢信男『ぼくの東京全集』(ちくま文庫)に、この作品について述べた「佐多稲子東京地図」が収められている(pp.414-43)*5小沢氏はこれを角川文庫版で読んでいるようだ。

 『私の東京地図』も、角川文庫(1955刊)、講談社文庫(1972刊)、講談社文芸文庫(1989刊)、と装いをかえて何度も世に出ている。手許にあるのは、2011年刊の「講談社文芸文庫スタンダード」版。4度目の文庫版ということになる。(3.25追記)

---

 中川成美戦争をよむ―70冊の小説案内』(岩波新書2017)で、「キャラメル工場から」が紹介されている(pp.94-96)。(7.23追記)

年譜の行間 (中公文庫)

年譜の行間 (中公文庫)

夏の栞―中野重治をおくる― (講談社文芸文庫)

夏の栞―中野重治をおくる― (講談社文芸文庫)

灰色の午後 (講談社文芸文庫)

灰色の午後 (講談社文芸文庫)

近代読者の成立 (岩波現代文庫―文芸)

近代読者の成立 (岩波現代文庫―文芸)

女の宿 (講談社文芸文庫)

女の宿 (講談社文芸文庫)

越中文学の情景―富山の近・現代文学作品

越中文学の情景―富山の近・現代文学作品

鏡花、水上、万太郎

鏡花、水上、万太郎

私の東京地図 (講談社文芸文庫)

私の東京地図 (講談社文芸文庫)

ぼくの東京全集 (ちくま文庫)

ぼくの東京全集 (ちくま文庫)

*1:初出:1962.6「国語国文学」ほか

*2:初出:1985.5「群像

*3:初出:1985.8「學鐙」

*4:初出:「en-taxi」第25号

*5:初出:1978.11新日本文学

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/higonosuke/20170323

2017-03-06 葦の髄から… このエントリーを含むブックマーク

 第1部第二章で紹介される『五十音和解』という本が気になって、内村和至『異形の念仏行者―もうひとつ日本精神史』(青土社2016)を読みはじめたのだが、誤記が少なくないのは残念なことである

 たとえばp.327の注(17)に「井筒彦」とあったり、同じく注(22)で竹村牧男氏の著作名が『日本仏教 思想み』(正しくは「思想あゆみ」)となっていたり。本文p.51では「蘇東披の『渓声便チ是長広舌、…』」云々とあって、「長広舌」の語がこの時代からあるのかと思って一寸吃驚したが、沖本克己角田恵理子『禅語の茶掛を読む辞典』(講談社学術文庫2017)を見てみると、やはり「渓声便ち是れ広長舌」(p.102)となっていて、引用ミスだとわかった。気づかれた方もあろうが、「蘇東披」というのも本文ママで、これは「蘇東」が正しい。

 また「水火木金土」とあるべき所が「水火金土」となっていたり(p.83)、翻刻部分の丁変わりで「と」字を脱していたりもする(p.85)。ほかに、p.63「逆に言え」、p.308の注(1)で挙げられる馬淵和夫(この「淵」も「渕」表記にすべきだろう)『五十音図の話』の刊行年が「一九三六」となっているのもひどい。

 まだ100ページ弱しか読んでいないが、これだけ誤記が多いのも珍しいように思う。むしろ次に出てくる誤記が気になってしまう。まあこれも一種の「職業病」なのかも知れないが……。

 馬渕氏の『五十音図の話』といえば、池澤夏樹個人編集による「日本文学全集」第30巻『日本語のために』(河出書房新社2016)に、松岡正剛「馬渕和夫『五十音図の話』について」(pp.261-68)が収められている。そうそうこれにも、「問題五十音図だけに絞っているのも効奏した」(p.267)とあって、「効奏」は、「奏効」もしくは「奏功」の誤だろうと思った。やはり職業病である 原文を見てみると、この箇所が消されて(?)いる。

 ちなみに、「功を奏する」(奏功)が正しく「効を奏する」(奏効)を誤りと断ずる辞書もあるが、実は「効を奏する」も誤りでないこと、石山茂利夫「『効を奏する』―日本語の中の漢語に残るあいまいさ」(『今様こくご辞書読売新聞社1998:77-82)等が述べるとおりである

---

 「一鴟/鴟鵂」に関連して。

 大内白月「粘り強い執着」(『支那典籍史談』昭森社1944)に、

 まあまあ酒に釣られたりなどして、門外不出の本でも貸す。一旦貸したら、屹度返されるものとは請合へない。「本というものは、貸すも一癡、遣るのも一癡、催促するのも一癡、還すのも一癡で、合計四癡になる。」とは、李正文の勘定。「貸さぬが一癡、還さぬが亦一癡」とは、劉祈の是正。何れにしても、自分の貸した本が返って來なければ、人情として胸にこだはりが結ぼれる。(p.149)

とあり。

---

 「三上読書」に関連して。

 郝懿行著/松枝茂夫譯「廁で本を讀むこと」(『模糊集』*1生活社1945)に、

 『歸田録』*2に據れば、錢思公は平生讀書を好まれ、坐する時には經史を讀み、臥する時には小説を讀み、廁に上つた時には小詞を閲せられた。また宋公垂は廁に入るとき必ず本を抱へて行き、その諷誦の聲は琅々として遠近に聞えた、と謝希深も言つてゐる云々とある

 私はこれを讀んで甚だ可笑しなことだと思つた。廁に入つて褌を脱ぎ、手には又書物を持つてゐるとは、あまりにも穢いばかりでなく、又あまりにも忙(せは)しいことではなからうか。いかに篤學な人だつたにせよ、何もさうまでせずともよささうなものである

 歐公(『歸田録』の著者―原注)は更に謝希深の「平生作る所は多く三上に在り、乃ち馬上枕上廁上なり。」(「三上」に傍点引用者)といふ言葉を引いて、「蓋しこれらは思索を練るのに最もよい場所だといふ程の意味であらう。」と云つてゐられるが、むしろこの方がずつと心にくい言葉である。その心にくさは、ぴつたり當つてゐて少しも浮いたところのない點に在るのである。(pp.66-67)

とあり。

今様こくご辞書

今様こくご辞書

支那典籍史談 (1944年)

支那典籍史談 (1944年)

模糊集 (1944年)

模糊集 (1944年)

*1:書名は訳者の松枝による。『曬書堂筆録』からの抄録。

*2:欧陽脩の手になる。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/higonosuke/20170306