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2018-05-15 ヒッチコックの『泥棒成金』 このエントリーを含むブックマーク

 ヒッチコック作品は、高校*1大学生の時分にある程度まとめて観て、その後――山田宏一和田誠両氏による対談本『ヒッチコックに進路を取れ』が刊行された2009年(一昨年に文庫化された)、同書に触発されて、『見知らぬ乗客』を皮切りに、それまで観たことがなかった作品も含めて集中的に観ており、以降もBSやCSでヒッチコック映画や「ヒッチコック劇場*2が放送されるたびに観てきた。

 どちらかというと洋画よりも邦画を好むわたしにとって、また、洋画になると必ずしも「作家主義*3を標榜し(たく)なくなるわたしにとって、ヒッチコックチャップリンウディ・アレンフランク・キャプラビリー・ワイルダーバスター・キートンウィリアム・ワイラー、そしてルネ・クレールジャック・ドゥミフランソワ・オゾンあたりは、その監督作品だというだけで、ついつい観てしまうのである

 最近はこちらで映画のことを書かずにいたが(映画音楽についてはここ野村芳太郎八つ墓村』について書き、作品自体についてはここ伊藤大輔『弁天小僧』を観たときの感興を記して以来、ということになる)、なんとか時間を捻出して、たとえ細切れでもできるだけ観るようにはしており、この3月は12本、4月には11本観ている*4

 5月は多忙につき(?)なかなか観られなかったが、ようやく1本目を観ることがかなった。

 それが、アルフレッド・ヒッチコック泥棒成金』(1955米、"To Catch a Thief")なのである。もうずいぶん前に一度観たはずだが、細部はすっかり忘れていたので、初めての鑑賞といっていい。

 この作品が歴史的重要なのはヒッチコックの長篇作品としてはこれ以前に『裏窓』(ジェームズ・スチュアート主演)、『ダイヤルMを廻せ!』(ロバート・カミングス主演)の2本に出演したヒロイングレース・ケリーの「最後の出演作」になったからで、ヒッチコックはそれ以降、自分の作品に同じような(ブロンドの)ヒロイン像を求めて試行錯誤を繰り返すことになる。

 このことに関しては、山田宏一氏が『映画術 ヒッチコックトリュフォー』を翻訳するにあたって、疑問点をフランソワ・トリュフォーに書翰で、ないしは直接会って問い質しており、その当時のインタヴューでも言及されている。トリュフォーの言を引く。

 ヒッチコックの最大の不幸は、言うまでもなく、彼の永遠ヒロインともいうべきグレース・ケリーを失ったことでしたが、彼女モナコのレーニエ三世結婚して引退したことヒッチコックは惜しみつつも恨んではいませんでした。南仏で『泥棒成金』を撮影中にヒッチコックグレース・ケリーとともにレーニエ三世に食事やパーティーに招かれ、それがきっかけで彼のヒロインモナコ大公との恋がはじまったことをヒッチコックはよく知っていたし、レーニエ三世とも仲がよかったからです。(略)しかし、グレース・ケリーの引退にはただ愛惜の念を示していただけでした。それだけに、じつは絶望も深かったのでしょう。『泥棒成金』以後のヒッチコック映画ヒロインを演じた女優たちは、ティッピ・ヘドレンもキム・ノヴァクエヴァ・マリー・セイントヴェラ・マイルズも、すべてグレース・ケリーの代用品だったと言ってもいいくらいです。『めまい』はグレース・ケリーのために企画された映画でしたが、彼女がいなくなったために、もうひとりのグレース・ケリーをつくりだそうとするヒッチコック自身の悲痛な物語とみなすこともできます。(山田宏一ヒッチコック映画読本』平凡社2016:68)

 さて映画は、クレジットタイトルが終ってその冒頭、高齢の女性クロース・アップで幕をあける。朝に目が覚めて、自分の宝石が何者かに盗まれたことを知った彼女は、顔を歪めて悲鳴をあげるのだが、これは後年の『サイコ』のジャネット・リーの絶叫シークェンスの先取りとも見える。

 プロットとしては、ヒッチコックお得意の「巻き込まれ型サスペンス」で、海外を舞台にしているところは『知りすぎていた男』(英国時代の『暗殺者の家』のリメイク)や後年の『引き裂かれたカーテン』などと同工、『泥棒成金』のニースの花市場での追いつ追われつの緊迫感は、『知りすぎていた男』のマラケシュ市場でのシーンを想起させる。

 また、『バルカン超特急』や『裏窓』、『ダイヤルMを廻せ!』、『サイコ』などでみられた男女一組のいわゆる“素人探偵”の筋書きはここでは姿を消しており、主人公たるケーリー・グラントは有名な元「宝石泥棒」*5にして「対独抵抗運動レジスタンス)」の闘士、という設定で、あろうことかグレース・ケリーからも疑いの目を向けられることとなり、彼はその疑いを晴らすために孤独な戦いを強いられる*6。しかし最後の最後には、自分の誤解を認めたグレース・ケリーも彼の側について、大団円を迎えることになる。

 この作品では、ケーリー・グラント警察の任意聴取からのがれるために屋根の上へと逃げるところが、最初のサスペンスフルな展開となるのだが、「屋根の上」のシーククェンスは、ラスト間際のクライマックスで今度は“大捕物”の場面として反復される。そこでふとおもい出したのが、伊藤大輔『弁天小僧』(1958大映の凄絶なラストであり、またブライアン・デ・パルマアンタッチャブル』(1987米、"The Untouchables")ケビン・コスナービリードラゴとが「対決」するシーン*7だったのだが、そういえばデ・パルマには、殺しのドレス』(1980米、"Dressed to Kill")というヒッチコック作品のオマージュ山田宏一氏などは「イミテーション?」とも評する)があるのだった*8! それはともかく、警察をまいたケーリー・グラントは悠々乗合自動車に乗り込んでひと息吐くが、そこで向かって右の席に何食わぬ顔をして坐っているのがヒッチコック本人、なのだった。監督本人の「カメオ出演」のシーンをさがすのも、ヒッチコック映画の愉しみのひとつだ。

 それにしても、この作品のグレース・ケリーの「亭主狩り(マン・ハント)」ぶり(山田宏一)はものすごい。

 これについては、山田宏一映画的なあまりに映画的な 美女と犯罪』(ハヤカワ文庫1989)の劈頭を飾る「グレース・ケリーヒッチコック映画の女たち」(pp.9-21)が詳述している。

 これはまだ、グレース・ケリーケーリー・グラントを疑い始めるよりも前の場面に関する記述なのだが――(つまり、以下のやり取りで彼女は「本気で疑っている」わけではない)、

 『泥棒成金』のグレース・ケリーも、男(ケーリー・グラント)をホテルの寝室のベッドには誘わないが(彼女は、ただ、寝室の入口で、その晩はじめて会った男に燃えるようなくちづけをするのだが)、翌日、早速、車には誘う。もちろん、運転するのは彼女だ。なにしろ彼女は「タクシーのなかで生まれた」というぐらいだから、車のなかは揺籃同然、我が家同然といったところ。男を車のなかに誘いこんだら、もうお手のものである。『泥棒成金』の原題《To Catch a Thief》そのままに、彼女はねらった男(ケーリー・グラントはかつては〈ネコ〉と呼ばれた名高い宝石泥棒である)をつかまえたのだ。(略)

 グレース・ケリーケーリー・グラントドライブに誘い、モンテカルロの町と海が一望に見渡せる場所に車をとめる。(略)

 グレース・ケリーケーリー・グラントに「胸がほしい? それとも、脚?」などときくので、ケーリー・グラントがギョッとすると、それはピクニックのために用意してきた昼食のフライドチキンのことだったというようなおふざけがあって、グレース・ケリーはなおも逃げ腰のケーリー・グラントに迫る。かつて〈ネコ〉の異名で世間を騒がせたこの素敵な中年の紳士泥棒をもうすぐ罠にかけられるという思いにワクワクしているのがわかる。

「〈ネコ〉におてんばの子ネコができたのよ」

冗談はよせ」(とケーリー・グラントはぐっとグレース・ケリーの腕をつかむ)

「あたしの手首に指紋がついてよ」

「ぼくは〈ネコ〉じゃない」

あなたって握る力が強いのね。泥棒はそうでなくっちゃ」

「このために来たんだろう?」(とケーリー・グラントグレース・ケリーをひきよせてキスをする)

「今夜、八時にカクテル、八時半にお食事――あたしの部屋でね」

「行けない。カジノへ行って花火を見物するんだ」

「あたしの部屋からのほうがよく見えるわ」

「約束があるんだ」

「来てくれなきゃ、あなたの行った先に“〈ネコ〉のジョン・ロビーさまァ”って呼びだしをかけるから。では、八時にね、遅れてはだめよ」

時計がない」

「盗みなさい」

 ふたりはそのまま抱きあうのだが、じつに見事な、そして魅惑的なヒッチコック的美女の〈亭主狩り(マン・ハント)〉の一と幕であった。デイヴィッド・ドッジの原作にはこんなすばらしくばかげたシーンがあるかどうかは知らないけれども、このしゃれたせりふを書いたのは、『裏窓』から『泥棒成金』をへて『ハリーの災難』『知りすぎていた男』に至るヒッチコック映画の最もウィットに富んだ台詞を書いている(そもそもラジオ作家だという)ジョン・マイケル・ヘイズであるグレース・ケリーは「盗みなさい」と言うところで、まるで「あたしをつかまえなさい」といわんばかりのいたずらっぽい目つきをする。(pp.13-19)*9

 「ピクニックチキン」のくだりについては、これ以前にも山田宏一氏が、『シネ・ブラボー 小さな映画誌』(ケイブンシャ文庫1984)というチャーミングな本(カバー、本文イラストともども和田誠氏が担当している)のなかで言及している*10

 『泥棒成金』のピクニックのシーンで、グレース・ケリーが「胸? 腿? どっちがほしい?」と言うので、ケイリー・グラントが一瞬ドキンとすると、それはバスケットからとりだした昼食用のチキンだったというようなせりふのユーモラスな、しかしエロチックニュアンス。(「ヒッチコックフェイク」p.201)

 なおつけ加えておくと、グレース・ケリーハンドルを握るシーンでは、車は切り立った崖がちらちら視界に入る山道を猛スピードで走り抜けるのだが――後年のグレース・ケリーの最期に思いを致すとき、複雑な気持ちになるけれど――、そしてこれは映画冒頭ちかくに見られる、南仏の海や街を背景にして行われる幾分のんびりした印象の空撮でのカーチェイスよりもはるかに迫力があるのだが(時々主観ショットが挟まれるので当然なのだろうが)、隣に坐るケーリー・グラントが、恐怖心から膝がガクガクするのをどうしても抑えられず、思わず手で押さえてしまうというショットが2、3度挿入されている。

 少なくとも美女の前では余裕をみせていたさしものケーリー・グラントも、このときばかりは目も泳いでいて全く余裕がなく、完全にグレース・ケリー支配下にあり、おもわず笑わされてしまうのだが、笑ってばかりもいられないのは、それが、グレース・ケリーというかフランセス・スティーヴンス(役名)による、一世一代の真剣な「亭主狩り」の一環であるからなのだろう。

 さきに引いたインタヴューで、トリュフォーケーリー・グラントについて次のように語っている。

 なぜヒッチコックが『北北西に進路を取れ』の主人公の役にゲーリー・クーパーではなくケーリー・グラントを起用したのか。その交替の理由は、たぶん、これはわたし想像にしかすぎませんが、あえてその理由をさぐれば、当時ゲーリー・クーパー病気がちで、すっかり老けこんでいたからだと思います。おそらくすでにガンに冒されていたのかもしれません。ケーリー・グラントは、ゲーリー・クーパーとほとんど同年齢だったけれども、ずっと若々しく、老いのイメージがまったくなかったので、ヒッチコックは彼を起用したにちがいないのです。(略)ヒッチコック映画はすべてラヴ・ストーリーなので、『北北西に進路を取れ』のときもヒッチコックはそれにふさわしい若さのあるスターを考えたのだと思います。ケーリー・グラントは年齢的にはジェームズ・スチュアートよりも若くはなかったけれども、ヒッチコックの『泥棒成金』(一九五五)でカムバックして身も心も若返っていた。その後、ケーリー・グラントが第二の青春ともいうべき二枚目スターとしての新しいキャリアをつづけていくことはごぞんじのとおりです。(山田宏一ヒッチコック映画読本』平凡社2016:66-67)

 確かにケーリー・グラントは、例えば(6歳年長だった)アイリーン・ダンと共演したレオ・マッケリー『新婚道中記』(1937米、"The Awful Truth")*11と比較して見るとき、当時からさほど変わっているようには見えず、それどころか、ますます脂が乗りきっているという印象を受ける。

 山田宏一氏も、彼について次のように記している。

 (ケーリー・グラントは)老いることを知らない「永遠の青年」ともいわれた。ゲーリー・クーパークラーク・ゲーブルとわずか三歳違いにもかかわらず、まるで一世代も若々しい感じで、しかも年齢とともに男らしい色気というか、セクシーな風格と品位を増したスターであった。一九五五年に五十一歳で出演した『泥棒成金』と五九年に五十五歳で出演した『北北西に進路を取れ』という二本のスリルサスペンスにみちたロマンティックなヒッチコック映画では、「ただ突っ立っているだけ」でなく、スタントまがいのダイナミックなアクションを披露し、そのはつらつとした若さで美しいヒロイングレース・ケリーエヴァ・マリー・セイントを魅了した。(略)

 いつまでも子供っぽい、やんちゃムードを失わなかったケーリー・グラントの、あの愛すべき笑顔魅せられて、『シャレード』のオードリー・ヘップバーンが言うように、「欠点のないことが欠点」というところがケーリー・グラントの魅惑の美徳だったのかもしれない。(山田宏一ミスター・ソフィスティケーション」『何が映画を走らせるのか?』草思社2005:330-32)

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何が映画を走らせるのか?

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*1:初めに観たのが、(中学時代の友人O君が怖くて直視できなかったという)ダフネ・デュ・モーリア原作の『鳥』だったことをおもい出す。その映像感覚、ストーリーテリングぶりに驚倒し、続けて『知りすぎていた男』を観たのだったか。

*2:冒頭にヒッチコック本人が現れて人を喰った「解説」を行う(「世にも奇妙な物語」のタモリはこれを意識したものなのだろうか?)のが、その風丰と相俟っておかしい。グノーの「マリオネットの葬送行進曲」でお馴染みだ。この音楽は、のちに日本のCMなどでも使われた。

*3作家主義については、山田宏一『何が映画を走らせるのか?』(草思社2005)の「『作家主義』の功罪」(pp.46-57)がたいへん参考になる。

*4:あえて月ごとにベストワンを挙げるとすれば、3月はルチオ・フルチ『真昼の用心棒』(1966伊)、4月は川島雄三『風船』(1956日活)になろうか。後者は再鑑賞。

*5:劇中では、「十五年間盗みははたらいていない」と言っている。

*6もっとも、ジョン・ウィリアムズジェシー・ロイス・ランディスという全篇を通じての理解者がいることはいるのだが、ケーリー・グラントは彼/彼女と一緒に冒険を繰り広げるわけではない。ちなみに、後者ジェシー・ロイス・ランディスについて、山田宏一氏は「ヒッチコック映画母親」と称し、「ざっくばらんで、剽軽で、ひと目でケイリー・グラント母親になる。(略)『泥棒成金』でも『北北西に進路を取れ』でも、彼女はあざやかに(というか、ケロリとして)警察の目をごまかしたりしてケイリー・グアントの危機を救う」(「ヒッチコックフェスティバル」『シネ・ブラボー 小さな映画誌』ケイブンシャ文庫1984:214-26)と述べている。この記述は、山田宏一ヒッチコック映画読本』(平凡社2016)p.240にそのまま利用されている。

*7:この場面で流れるエンニオ・モリコーネの"on the rooftops"は、ひところ「警察24時」といった類の番組のBGMで頻用されていた。

*8:これを「下品」と評する向きもあるが、わたしはこの作品を、探偵役(のひとり)を演じたナンシー・アレンとともに「偏愛」している。またナンシー・アレンというと、『ミッドナイトスキャンダル』(1993)での猛烈な演技が忘れられない。

*9:この引用の一部は、山田宏一ヒッチコック読本』(平凡社2016)pp.99-100にも使われている。

*10:のちに山田宏一ヒッチコック映画読本』(平凡社2016)でも言及されている(p.275)。

*11:『新婚道中記』は、ギャグはさすがに古めかしいが、スミスという名の犬の使い方や、壊れた扉などの小道具の使い方が非常に巧い。ケーリー・グラントは以降もアイリーン・ダンと2作品で共演することになる。

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2018-05-13 早川孝太郎の『花祭』『猪・鹿・狸』 このエントリーを含むブックマーク

 早川孝太郎(1889-1956)、という民俗学者がいた。

 わたしはその名を、たしか岡茂雄の『本屋風情』で初めて知り、深く記憶に刻みつけたはずである。なにしろ同書の書名の由来に関わってくる人物なのだから

 少し長くなるが、そのくだりを「まえがき」から引いておこう。

 本書の表題を『本屋風情』としたが、私はけっして卑下して用いたのではない。これには次のような動機があったのである

 柳田国男先生がある事情からじれて関連者たちがほとほと困ったことがある。その事情や困った話のかずかずは、いずれ筆を改めて書こうと思っている。事は昭和三、四年の頃であったと思う。渋沢敬三さんも困った揚句、「柳田さんを呼んでいっしょに飯を食おうではないか」と提案され、私も賛成したが、「その時は君も主人側としてくるんだよ」といわれたので、「それは困る。荒れ(私たち柳田先生のじれて当たり散らされるのを、荒れといっていた)の相手の一人である私は、はずしたほうがよい」といったのだが、「それはいかんよ、そんなことをいえばぼくだってその一人ではないか、それなら早川孝太郎)君にも――これだってその一人といえないことはないんだが、主人側としてきてもらうから我慢して出たまえ、そのほうが却って、こだわりが薄れると思うからだよ」といわれ、不承不承加わることにした。「客としても柳田さん一人では、やはり具合が悪かろうから石黒(忠篤)にもきてもらおう」ということになった。

 これらの人の間柄が、どのようなものであったかを、簡単に記しておこう。

(略)

 早川孝太郎氏についてはあまり広く知られていないようであるが、川端龍子門下の画人であり、後には柳田先生の末弟松岡映丘画伯のひきいる「新興大和絵会」の客員でもあったが、一面早くから柳田先生学問に馴染んで師事することになっていた。氏は民俗採訪の優れた才能をそなえていたところから渋沢さんの絶えざる支援を得て、時には石黒さんと連れ立ったりして、全国を採集して回り、あるいはまた石黒さんの推挙で、九大の小出満二博士のもとで、農村民俗調査等の仕事をしたりしたが、晩年は、これもまた石黒さんの世話で、鰐淵学園で教鞭をとってもいた。『花祭』の大著をはじめ、『猪 鹿 狸』『大蔵永常』、そして柳田先生との共著『女性と民間伝承』等の著作がある。

 さてこの催しは、数日後に実現し、渋沢邸(今の第一公邸)にひげてんを出張させ、座敷てんぷらで会食をした。表面はとにかく歓談という格好で、二、三時間を過ごした。終わって、主賓の柳田先生渋沢家の車で送られ、石黒さんと早川氏と私は、当時の市電で帰途についた。三人とももちろんこの催しの意味は承知の上であったので、電車の中で、まずまず平穏無事でめでたしめでたしだったと語り合った。ところが、その二、三日後早川氏がきて、「きのう砧村柳田邸所在)へ行ったが、だいぶ御不興だったよ」という。「ぼくがいたからでしょう」というと、早川氏は「そうなんだ。なぜ本屋風情を同席させたというんですよ」といい、私も「そんなことだろうと思っていたんだ」といって、二人で笑ったことであった。

 本屋風情とは、いかにも柳田先生持ち前の姿勢そのままの表現であり、いうまでもなく蔑辞として口走られたのではあるが、私にとってはまことに相応わしいものと思い、爾来――出版業を離れて久しいが、この「本屋風情」の四字に愛着をさえもつようになっていたのである。(「まえがき」『本屋風情』中公文庫1983、pp.10-13)

 ちなみに、上記で早川が「川端龍子門下の画人」だったことになっているのはどうも誤りらしい。須藤功『早川孝太郎―民間に存在するすべての精神的所産』(ミネルヴァ書房2016)には、次の如くある。

 早川兵役を終えると上野美術学校近くの家に書生として入り、絵画勉強を続けた。洋画から日本画に転じ、大正二年(一九一二)に川端玉章主宰する川端学校入学したようである川端龍子の門下になったという説もあるが、龍子は昭和二年(一九二七)に青龍社を結成するまで弟子を取っていないとされる。(pp.66-67)

 昨秋、早川の著作のうち二冊――『花祭』『猪・鹿・狸』が、角川ソフィア文庫に入った。

 『花祭』はまず1930年、前・後篇計千七百ページ超の大部の書物として岡書院から限定三百部で刊行されたが、早川の歿後(1958年)に、その“抄縮版”が岩崎美術社の「民俗民藝双書」に入った(第12冊)。抄縮版は、原著の約五分の一の分量で、このほど出たソフィア文庫版はこれをもとにしている。『花祭』はかつて講談社学術文庫にも入ったことがあり、まだ現物を確かめていないが、こちらも抄縮版に基づくと思しい。

 「花祭」というのは奥三河山里数箇所に伝わる霜月祭りだが、早川の著作によって全国区のものになったとされる。

 ソフィア文庫版にも収録された澁澤敬三の「早川さんを偲ぶ」によると、

 昭和五年この出版慶祝として、小宅改築を機に最も因縁の深かった中在家花祭東京に招致し、柳田・折口(信夫)・石黒(忠篤)諸先輩を初め、多くの知友に見て頂き現地へ出難き方々にも真似事乍ら花祭を味って頂いたのであった。出席者の御一人泉鏡花老はその後小説花祭光景を扱われた。(pp.8-9)

といい、文人にも何らかの刺戟を与えたようだ。その招待客のなかには、金田一京助新村出小林古径らもいたという(須藤功『早川孝太郎』p.30)。

 一方『猪・鹿・狸』は1926年、郷土研究社から「炉辺叢書」につづく“第二叢書”の一冊として刊行された。約三十年後、これに「雞の話其他」(1925年、「民族」第一巻第一号に発表された)を再構成した「鳥の話」の章が附録として加えられ、角川文庫に入った(1955年)。その後講談社学術文庫に入ったようだが、筆者は未見である。今回のソフィア文庫版は、奥付をみると角川文庫版の「改版」という扱いになっており、角川文庫版の鈴木棠三「解説」のほか、新たに常光徹氏の「解説―新装にあたって」を附している。

 ついでに述べておくと、『猪・鹿・狸』の「凡例、その他」には、

 本の標題であるが、これがこの本に続いて「鷹、猿、山犬」および「鳥の話」を刊行し、二部作あるいは三部作としたい気持ちもあって撰んだものであった。実は書名について、当時健在であられ芥川龍之介さんから自分は近く「梅、馬、鶯」という本を出す予定であるので、あなたの本を見て、その偶然に驚いたという意味を申し送られたものであった。(pp.9-10)

とあり、この件は鈴木の「解説」も触れている。

 『猪・鹿・狸』は、当時炉辺叢書というシリーズ出版しておられた故岡村千秋さんの郷土研究社の第二叢書ということで刊行された。折から『梅・馬・鶯』という、名詞三つを並べた題名の随筆集を公にしようとしていた芥川龍之介氏が、先を越された偶合に驚き賞讃した早川さん宛の書簡は、全集にも入っている。都会人の郷愁とのみ言い切れぬものと思う。

 このついでに言うと、(早川の―引用者)『三州横山話』が出た時、島崎藤村氏が書を寄せて、自分もかねがね郷土の民話を書いてみたいと思っていた、と賞揚されたことがあったという。(pp.239-40)

 実は、芥川もかつて『三州横山話』を随筆で取りあげたことがある。

 なお次手に広告すれば、早川氏の「三州横山話」は柳田国男氏の「遠野物語」以来、最も興味のある伝説集であろう。(略)但し僕は早川氏も知らず、勿論広告も頼まれた訳ではない。(「家」『澄江堂雑記』、石割透編『芥川竜之介随筆集』岩波文庫2014所収:195)

 また鈴木は、さきに引いた「解説」で続けて次のように書いている。

 中国文人周作人氏が、日本の書物の中で最も愛読した本として、この『猪・鹿・狸』を挙げて、非常に叮嚀な紹介をされたことは、最高の知己の言であったとせねばならぬであろう。このような具眼者によって、渝(かわ)らぬ支持が、本書の初刊以来ほとんど三十年にわたってなされてきたことは、それだけの高い評価に値するものが本書に具わっていたことの証左というべきである。(pp.240-41)

 周作人が『猪・鹿・狸』を愛読書の一つとして挙げたことは、前述の須藤功『早川孝太郎』も触れており(p.6)、須藤氏によれば、後年早川は周作人に北京で面会したといい*1、またその際、中国人学生向けに「日本民俗学の現状」と題する講義も行ったという(p.234)。

 周の『猪・鹿・狸』評が日本で知られるようになったのは、松枝茂夫訳の『周作人文藝随筆抄』*2によってであろうが、当該の文章最近、新訳で中島長文訳注『周作人読書雑記2』(平凡社東洋文庫2018)に収められた(pp.37-42)。周はそこで、「最初出た時に一冊買い、後で北平店頭で一冊見たのでそれも買った。もともと友人にやるつもりだったのだが、今もって送っていない。それもケチなためではなく、人にこんな好みがなかったらと恐れたからだ」(p.37)と述べ、「全部で五十九篇、その中で猪と狸に関するものが最も面白く、鹿の部分はやや劣る」(p.38)と評している。さらに、その文章の末尾では『三州横山話』も引いている。

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 さて『花祭』は、ソフィア文庫版の帯に「柳田国男折口信夫も衝撃を受けた日本民俗学不朽の名著」とあるように、民俗学人類学方面ではよく知られた書物であり、現在に至るまでしばしば参照されている。

 例えば山口昌男は、日本祭りのなかで「狂気」が定型化された例として、「故早川孝太郎氏によって精細に記述されて、あまりにもよく知られている三河花祭り」を挙げたうえで、早川の『花祭から「せいと」についての文章引用している。

 「せいと」は「せいと衆」ともいい、「大部分がいわゆるよそもので、祭りにもなんら交渉のないただの見物」客で、かつ「なんの節制も統一もない群衆」のことだが、「舞子に対してはもちろん、その他神座の客や楽の座に対して、あるかぎりの悪態をあびせる」(『花祭角川ソフィア文庫、pp.391-92)*3。「どんな悪態、悪口」とは言い條、そこには「一定の型」が認められたようで、これを山口は「祭りのものの構文法」と見なし、「定型媒介として、狂躁が成立している」ことに着目すべきだと説いた(「文化狂気」、今福龍太編『山口昌男コレクションちくま学芸文庫2013所収、pp.123-25*4)。

 また、戦中の早川柳田の動向ひいては「日本民俗学」を断罪する論者、例えば村井紀氏でさえ、“早川方法論を評価する従来のやり方ではなく、その著作が日本植民地主義の作物だった側面に注目すべきだ”――という考えのもと、「『花祭』も、“黒島調査”も、その「俗」なる部分を見なければならない」(「日本民俗学農村早川孝太郎について」『新版南島イデオロギーの発生―柳田国男植民地主義岩波文庫2004所収p.256*5)と述べ、やはり『花祭』を例に挙げている。

 早川の様々の貌に触れ得るという意味で、今回のソフィア文庫での復刊が、『花祭』だけにとどまらず、『猪・鹿・狸』との併せての刊行であったことを、まずは寿ぎたい。

本屋風情 (中公文庫 M 212)

本屋風情 (中公文庫 M 212)

花祭 (角川ソフィア文庫)

花祭 (角川ソフィア文庫)

猪・鹿・狸 (角川ソフィア文庫)

猪・鹿・狸 (角川ソフィア文庫)

芥川竜之介随筆集 (岩波文庫)

芥川竜之介随筆集 (岩波文庫)

周作人読書雑記2 (東洋文庫)

周作人読書雑記2 (東洋文庫)

南島イデオロギーの発生―柳田国男と植民地主義 (岩波現代文庫)

南島イデオロギーの発生―柳田国男と植民地主義 (岩波現代文庫)

*1:この当時、周作人は北京大学教授となっていた。1942年2月11日、周らによって早川の招待会が開かれたという。その後、同年3月14日早川が帰国の途につくまで何度か会っていたかも知れない。

*2須藤著巻末の「早川孝太郎年譜」によると、1940年6月5日刊。

*3須藤著によると、「花祭の別名は「悪態祭」で、舞をまう祭場の舞戸ではどんな悪態、悪口も自由に言ってよかった」。そして、これを見物した澁澤敬三にも遠慮会釈なく悪口が浴びせられた。「着ている外套(オーバー)を指して、「その外套どこで盗んできたか」などと言った。渋澤はそんな悪態ニコニコしながら聞いて、「花」を楽しんだ。早川のことを、「また座敷乞食が来ている」と言ったという」(p.11)。

*4:初出は「中央公論1969年1月号、のち『人類学的思考』せりか書房1971に収む。

*5:初出は「日本文学1993年3月。

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2018-04-28 『陶庵夢憶』や周作人のこと このエントリーを含むブックマーク

 張岱(ちょうたい)著/松枝茂夫訳『陶庵夢憶』(岩波文庫1981)という、滋味あふれる明代随筆集がある。気が向いたときに、時々本棚から取り出しては読む。とりわけ「三代の蔵書」(巻二、pp.105-07)、「韻山」(巻六、pp.230-32)あたりが気に入っている。

 当時の江南地方飲食風習に関する記述も読んで面白く、たとえば篠田一士グルメのための文藝読本』(朝日文庫1986)は、「蜜柑」という文章でこれを取り上げて、

(張岱が―引用者)四十余年をかけて書きつづけた明末の歴史『石匱(せきき)書後集』は中国史書の傑作だが、晩年、往時を回想して書きつづった小品集『陶庵夢憶(とうあんむおく)』も、また、抒情的エッセーの逸品として忘れることはできない。ここには明末のはなやかな世相風俗のさまざまな局面が作者の経験にもとづいてえがかれていて、もちろん、口腹の楽しみについても、筆を惜しんではいない。

 この種の文人にしては、めずらしく下戸だったが、食べ物については、食通にふさわしい旺盛な好奇心と食い意地が張っていたようで、「各地のうまいもの」と題する一篇を読むと、生地紹興のある浙江省一帯はいうまでもなく、北は北京山東、南は福建などの各地から、それぞれ名物を取り寄せていることが、品目の一覧表によって明らかである。(p.292)

と書いている。しかしこの『陶庵夢憶』、訳者の松枝にいわせると、「文章が恐ろしくむずかしく、(北京留学していた二十代後半頃は―引用者)てんで歯が立たなかった」(p.9)。そこで、張岱の同郷人でもあった周作人(魯迅の弟)に、「字句のわからぬ個所についても質問した」(「あとがき」p.377)ことがあるのだそうだ。

 松枝の「まえがき」によると、『陶庵夢憶』の版本には二種――「硯雲甲編」に収められた一巻本(短文四十三條)と、王文誥(おうぶんこう、字は見大)の序のある八巻本(百二十三條)とがあるという。重複は三十九條。咸豊五年(1855)には、「粤雅堂叢書」に後者の八巻本が収められ、兪平伯の校点本(1927刊)、台静農の校点本(1958刊)などはみなこれに拠るというが、粤雅堂叢書しかり校点本しかり、残念なことに誤植が少なからずあったらしい。

 松枝が『陶庵夢憶』に初めて触れたのは、1930年北京大学の近くにあった小さな本屋・景山書社で、樸社刊の兪平伯校点本を見つけたことによる。これに周作人が序文を寄せていたらしい。周は、当時殆ど忘れられていた張岱を、『中国新文学の源流』などの書物によって再び世に知らしめたという。

 ちなみに景山書社や樸社に関しては、松枝が「あとがき」で次のように記している。

 この景山書社(けいざんしょしゃ)という本屋では妙に面白い本を売っていた。樸社(ぼくしゃ)出版部の出版物が多かった。すぐ店の前の道を隔てた筋向いに「樸社出版部」と書いた看板が掛かっていた。兪平伯とか顧頡剛(こけつごう)とか、北京大学若い優秀な学徒たちがこの中にたむろしているのだなあと、私はこの店にくるたびにその緑色の五字を眺めながら感慨にふけったものだった。

 樸社の出版物はみな毛色が変っていた。うしろに付載されている出版書目を見ても、売れそうにもない本ばかり並んでいる。しかしそこに樸社の人々の利益度外視したいちずな心意気がうかがわれた。それらの中に顧頡剛の『古史辨(こしべん)』があり、兪平伯の校点した『浮生六記』や『陶庵夢憶』があり、あるいは王国維(おうこくい)の『人間詞話(じんかんしわ)』等々があった。いずれも情熱の書というにふさわしく、人を魅きつける何ものかがあった。樸社の人々の学問文学の対するひたむきな愛情がこうした本を選ばせたのだと思われた。(p.373)

 文中の顧頡剛『古史辨』*1は、特に第一冊に附された「自序」が著名で、オランダの「ライデンシナ叢書」(Sinica Leidensia)の一冊目に加えられたといい、西洋でもよく知られているそうだが、邦訳としても、顧頡剛著/平岡武夫訳『ある歴史家の生い立ち―古史辨自序―』(岩波文庫1987)がある。その「文庫あとがき」(平岡)は、樸社の由来にも触れているので、ついでながら引用しておく。

 最も興味深いのは、樸社の成立である上海で、沈雁冰(しんがんひょう)・胡愈之(こゆし)・周予同(しゅうよどう)・葉聖陶(しょうせいとう)・王伯祥(おうはくしょう)・鄭振鐸(ていしんたく)・兪平伯(ゆへいはく)らが、文学研究会に集まって閑談しているうちに、我々が本を書いて商務印書館に儲けさせておくことはない、自前で出版しよう、と鄭振鐸が言い出し、みなが賛成して、月に各人十元を積み立てることにした。「樸社」の名は、清朝の樸字から取った。周予同の提案による。顧氏が総幹事に推された。この企ては、二年の後に、上海における戦禍のために解散した。顧氏と兪平伯が北平において更めて范文瀾(はんぶんらん)・馮友蘭(ふうゆうらん)・潘家洵(ばんかじゅん)ら十人と謀り、積み立てること一年北京大学の向いに三間の小房を借りて「景山書社」を開いた。そして『古史辨』第一冊を出版した。売れ行き甚だよく、一年の間に二十版を重ねた。(p.232)

 さて平岡による『古史辨』自序の初訳は、もと「昭和十五年五月に『創元支那叢書』の一つとして刊行された」(「新書あとがき」p.198)。

 「創元支那叢書」というシリーズ存在は確かこのあとがきで知ったのだったが、同叢書の第五冊、周作人/松枝茂夫譯『瓜豆集』(創元社1940)をのちに均一棚で入手したことがある*2。これはしかし完訳ではなく、巻頭の「譯者のことば」には、

 譯者は初め本書の全譯をなすつもりであつたが、途中又考へがかはり、都合により四篇だけ省略することにした。『日本文化を談ずるの書の二』『童二樹に關して』『邵無恙に關して』『年寄冷水』がこれである。無くとも大旨はきずつけぬと信じてゐる。(pp.7-8)

とある。このうちの二篇、「日本文化を談ずるの書の二」「年寄冷水」は、現在、周作人/木山英雄編訳『日本談義集』(平凡社東洋文庫2002)で邦訳を読むことができる*3

 同書での邦題はそれぞれ「日本文化を語る手紙(その二)」「年寄り冷水」となっていて、これらが邦訳版『瓜豆集』で省かれたのは、読んでみると判るのだが、恐らく、日本あるいは特定日本人を激越な調子批判しているからで、時局がそれを許さなかったものと思われる。

 もっとも、省略されなかった文章なかに日本批判したくだりが少し含まれている。しかしそれも訳出されていない。たとえば「日本文化を談るの書」に、「譬へば『源氏物語』や浮世繪を鑑賞できる者でも、(削除)必ずやたゞ醜惡愚劣を感ずるだけでせう」(p.117)とあるところ、『日本談義集』所収の「日本文化を語る手紙」を見ると、「例えば『源氏物語』や浮世絵を鑑賞できるものが、柳条溝、満州国蔵本失踪華北自治それに密貿易などを見れば、醜悪愚劣としか感じられぬでしょう」(p.257)、となっている。

 そういった日本批判がみられるのも、「知日家」周作人なればこそなのだろうが、この一月から刊行され始めた中島長文訳注『周作人読書雑記』(全五冊、既刊は二冊)を見ると、周は、日本書物中国古典だけでなく西洋書物もバランスよく読みこなす読書人であったことがうかがい知られる。

 上記との関連でいうと、「東京書店」(第一巻、pp.112-20)など『瓜豆集』に収められた文章の新訳のほか、「王見大本『夢憶』」(第二巻、pp.270-72)も収められている。『夢憶』はすなわち『陶庵夢憶』のことだが、これは先に述べた、兪平伯校点本に附された序とは別のものであろう*4(『書房一角』〈1944刊〉に収められた文章であるらしい)。当該文は、周が最初に入手した甲寅(乾隆五十九年=1794)本や、「最近」入手した王文誥本の書誌について記しており、短いながら、『陶庵夢憶』諸本系統の考察一助になる。

陶庵夢憶 (岩波文庫 青 217-1)

陶庵夢憶 (岩波文庫 青 217-1)

日本談義集 (東洋文庫)

日本談義集 (東洋文庫)

周作人読書雑記1 (東洋文庫)

周作人読書雑記1 (東洋文庫)

周作人読書雑記2 (東洋文庫)

周作人読書雑記2 (東洋文庫)

*1:第五冊まで樸社刊、第六・七冊は樸社が閉じたために開明書店上海から刊行されたらしい。

*2:巻末の既刊書目を見ると、『古史辨自序』は第三冊に入っている。

*3:ここ(http://d.hatena.ne.jp/higonosuke/20170328)で触れた梁啓超和文漢読法』に関する文章も収めてある(pp.208-13)。

*4凡例には「周作人が書いた『序跋』類は、彼が見た書物現物に関わる部分が多く、それを見ることにはかなりの困難が伴うので、原則として採らなかった」、とある

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2018-04-24 大泉滉・大泉黒石 このエントリーを含むブックマーク

 濱田研吾*1『脇役本』が、ちくま文庫に入った。元版の右文書院版はかつて読んだことがあり、「中村伸郎の随筆集」で触れたこともあるが、増補がなされているというので手に取ってみた。

 増補部分であらたに加えられた役者の顔ぶれがまた豪華だ。高田稔、賀原夏子細川俊夫多々良純伊豆肇、月形龍之介杉狂児天知茂等々19人、なかには主役級の役者も含まれる。たとえ単行本を持っていたとしても、文庫版を購う価値は大いにある*2

 個人的には、そこに大泉滉(あきら)を加えてくれた(pp.413-18)のが嬉しい。文中で取り上げられた大泉の著作、『ポコチン男爵おんな探検記』『ぼく野菜人―自分で種まき、育て、食べようよ!』の二冊は知らなかったが。

 濱田氏も「(大泉が)三人目の妻といっしょに出て、恐妻家胃腸が悪そうなイメージお茶の間に広めた和漢の生薬「奥田胃腸薬」」(p.413)云々、と書いているように、濱田氏や少し下の我々の世代にとって、リアルタイムで見た大泉は、バラエティー番組「わてら陽気なオバタリアン」等で妻道子さんの尻に敷かれる“恐妻家”としての姿である(ちなみに私自身はけっして恐妻家というわけではないのだが、恐妻家という存在自体に興味があり、「『恐妻家』」「ふたたび恐妻家」「阿部真之助の本」などでそれに言及したことがある)。実際には、テレビでの恐妻家の姿は「演出」で、道子さんとの夫婦仲はたいへんよかったようだ。大泉告別式だったかで、道子さんの憔悴しきった姿を見て涙を誘われた記憶もある。

 その後、モノクロ邦画をよく観るようになって、『自由学校』『お早よう』等、優男でハンサムなのに絶妙な三枚目を演ずる大泉のことがさらに気になり始めた。そして2013年、確かMXで、「プロレスの星 アステカイザー」(円谷プロ)という特撮ヒーローものが再放送されていて、たまたま第五話あたりから最終回まで通して見た*3のだが、これに大泉が「坂田」という新聞記者役でレギュラー出演しており、眼が釘付けになってしまった(坪内祐三氏が「本の雑誌」の当時の読書日記で、この番組最終回サタンデモン=山本昌平の「最期」について書いていた)。

 つい最近も、『昭和の謎99―2018初夏の特別号』(ミリオン出版)という雑誌巻頭カラー片山由美子氏のインタヴュー記事が載っていて、その発言中に、

「(「プレイガール」の―引用者)ゲストは毎回ユニークな方ばかり。コメディアン由利徹さん(故人)は、宿泊先の温泉で男風呂と女風呂の敷居の板の底の部分の隙間から潜水して、女風呂に侵入してきましたし、大泉滉さん(故人)なんて女湯の上の部屋から逆さまにぶらさがって覗いていた、っていう伝説もあるんです。両足を誰かに持ってもらってたんでしょうけど、覗く方も命がけ(笑)」(p.7)

とあり、もちろんこれはいけないことなのだけれど、逆さまにぶらさがる大泉想像して、つい笑ってしまった。

 ことしで歿後20年になるそうだが(4月23日が命日とのことである)、大泉はこうして思わぬところに時々顔を出すので、私にとっては、やはり気になるバイプレーヤーの一人だ。

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 しかし、大泉滉の父親が作家大泉黒石(1893-1957)だと知ったのは、つい最近2013年夏のことであった。黒石の生誕120年を紀念して刊行された『黄(ウォン)夫人の手―黒石怪奇物語集』(河出文庫)、そのカバー袖に「俳優の滉は三男」とあり、驚いたのだ。なお文庫版の帯には「生誕120年、ついにあの黒石、初文庫!」とあったが、黒石によるロシア文学の概説書『ロシア文学史』(原題:『露西亜文学史』)が、20年近く前(1989年)、講談社学術文庫に入っている。

 文庫の『黄夫人の手』が出るまで、わたしは黒石の文学作品を読んだことがなかったけれど、存在は知っていた。それは、由良君美が黒石全集の解題を書いているという事実によってだったかもしれないし、「怪奇物語作家の系譜を辿ることによってだったかもしれないが、それでも、ロシア人日本人とを両親にもつ特異な作家、というぐらいの認識しかなかった。

 黒石は、「中央公論」の編集者だった木佐木勝大正8年入社)が残した日記の前半部にしばしば顔を出している。最近、この日記が上下二巻本で復刊された。それを見てみると、黒石が文壇の新星として期待されながらも、編集者文学者の信頼を失ってやがて消えてゆく過程がかなり詳細に描かれている。

 木佐木勝『木佐木日記 上―『中央公論』と吉野・谷崎・芥川の時代』(中央公論新社2016)から、以下、主な記述を引いておくことにする。

 今日午後から田中貢太郎氏と大泉黒石氏現わる。大泉氏はロシア人を父とし、日本人を母とした混血児で、その数奇な運命を「俺の自叙伝」としてこんどの特別号に書いている。この人の原稿田中氏の紹介で(滝田)樗陰氏が読んだのだそうだが、樗陰氏は例に依って最大級言葉で「面白い面白い」とほめ上げていた。自分も校正で、読んで面白いとは思ったが、少し面白すぎるとも思っていた。(略)「俺の自叙伝」も変っているが、この人自身が変っているという印象だ。自叙伝を読み、実物を見て正体がつかめないところがあると思った。黒石は十二ヵ国語に通じているという田中氏の話もにわかに信用できないと思った。しかし樗陰氏は今日大泉氏が持って来た次の原稿の話にすぐ飛びつき、来月号に続編を書いて持ってくるように勧めた。(大正八年八月二十日、pp.38-39)

 今日の『朝日新聞』に大泉黒石の記事が写真入りで出ていた。二、三日前に『中央公論』が出たばかりなのに、早くもキヨスキー大泉クローズアップされて、彼の経歴談が彼自身の口で語られている。自分の故郷トルストイの住んでいたヤスヤナポリヤナに近いので、トルストイはよく知っているなどとも言っていた。「俺の自叙伝」に出ていたフランス時代の話や、これからの仕事に対する抱負らしいことも、謙遜しながら語っていた。新聞に出るのが早いのにも感心したが、黒石氏もどうやら「俺の自叙伝」で一躍、世に出たという感じだ。(大正八年九月十日、p.55)

 今朝、編集室で皆と雑談していた時、樗陰氏が久米(正雄)君から聞いた話だが、大泉黒石の「俺の自叙伝」にはでたらめなところがあるそうだと、その個所を指摘していた。それは黒石ことキヨスキー少年が、フランス中学校にいたとき、悪戯をして校長室に呼ばれ、校長に青竹で尻をたたかれていたら、窓からアルフォンス・ドオデエがのぞいていてニヤニヤ笑って見ていたというところだが、実は黒石ことキヨスキー少年フランスに居た時期は、ドオデエはすでにこの世にいなかったということだ。

 樗陰氏は久米君に指摘されるまですこしも気がつかなかったと言い、どうも話がうますぎると思ったと笑っていた。(略)高野*4もそばから、そういえば、トルストイ田舎路で会って、石を投げつけたらトルストイが怒って、猿のように真赤になって石を投げ返した話なども、少し怪しいものですネというと、樗陰氏は、今まで「俺の自叙伝」を激賞していた手前、少し興醒めた顔をしていたが、「しかしあれは面白いことはたしかに面白いよ、黒石は一種の奇才だネ」とこんどは逆にほめていた。(大正八年九月十一日、pp.56-57)

 そのとき、こんどの特別号に大泉黒石小説が入るという話をしたら久米氏ちょっと妙な顔をした。大泉黒石の「俺の自叙伝」の中のでたらめを指摘したのは久米氏だったが、樗陰氏はこの読物作家の奇才を買ってか、その後引き続いて黒石の自叙伝物を書かせ、どういうわけか創作欄にも小説を載せるようになった。久米氏などの意見はどうかと興味を持って尋ねてみたが、久米氏は別に問題にしていないらしく黙っていた。自分などこの場ちがいの作者が一枚、こんどの特別号に加わるために、何か白米の中に砂が交じっているような気がしている。どうもこの作者はニセモノだと思っているが、どこが樗陰氏の気に入っているのか自分には分からない。久米氏に限らず、どの作家でも大泉黒石のことになると触れたがらないから妙だ。(大正九年三月十五日、p.178)

 近ごろ大泉黒石氏の評判が社の内外でひどく悪いようだ。いつだか田中貢太郎氏が来たとき、「黒石はひどいうそつきだ」と怒っていたが、話を聞くと諸方へ行って、田中氏のことについて根も葉もないでたらめな噂を撒き散らして歩いているのだそうだ。今日村松梢風氏が来たときも、「黒石はうそつきの天才ですよ」と言っていたが、村松氏も被害者の一人らしかった。村松氏は「黒石が何んのためにありもしないでたらめな噂を撒き散らして歩くのか、その気持が全くわからない」と不思議がっていた。樗陰氏もいつか黒石氏を相撲に招待したところ、そのあとで、国技館で樗陰氏が両国〔梶之助〕に声援していたら、両国ぎらいの隣りの客とけんかになり、帰りにその仲間のために袋だたきにあったなどと、黒石氏が方々へ行ってしゃべって歩いていたのが樗陰氏の耳に入ったので、樗陰氏は呆れていたようだった。村松氏の話を聞いて、樗陰氏は「僕が袋だたきにあったなどとしゃべって歩くのは、どういうつもりなのか全く見当もつかない。近ごろは黒石が恐ろしくなった」と言っていた。

 黒石氏も『中央公論』に「俺の自叙伝」を発表して以来すっかり読み物の人気作家になり、その後『中央公論』や『改造』に創作も発表して作家の仲間入りをし、ほうぼうの雑誌で引っ張り凧の人気者になったのに、どういうわけか今年になってから余り社にも寄りつかなくなっていた。近ごろになって、黒石氏の知り合い関係から黒石氏についての悪い噂が流れるようになった。初めは黒石氏が先輩を抜いて一躍文壇の人気ものになったので、その人たちのそねみから黒石氏のことをとやかく取り沙汰するのではないかと思ったこともあったが、だんだん話を聞けばそうばかりではないように思われた。樗陰氏まで被害者にされて怒っているところをみると、評判どおり黒石という人物の正体がわからなくなってきた。(略)村松氏の話だと、「ある人が黒石のところへロシヤ人を連れて行って話をさせたところ、黒石は全然ロシヤ語がわからなかった」と言っていた*5。「それにしても近ごろどうして黒石が寄りつかなくなったのだろう」と樗陰氏は不思議がっていた。村松氏も最近会っていないということだが、たぶん余りでたらめを言いふらしたあとなので、来にくくなったのだろうということになった。(大正一年五月二十五日、pp.349-50)

 読物作家から『中央公論』や『改造』の創作欄に起用されて新作を発表していた大泉黒石氏も今では人気が落ちてしまった。(大正十二年三月三十一日、p.383)

 近ごろ自分は大泉黒石という人は、精神国籍のないロシア人だと思うようになったが、佐々木指月氏は精神国籍はやはり日本だと思うようになった。(大正十二年四月四日、p.389)

 さて『黄夫人の手』の巻末には、由良君美の「大泉黒石掌伝」と「解説 無為の饒舌―大泉黒石素描」とが附されている。

 由良は「無為の饒舌」で、上で引用した『木佐木日記』の一部を紹介し、

 大正十二年三月三十一日には、(木佐木が) 「読物作家から『中央公論』や『改造』の創作欄に起用されて新作を発表していた大泉黒石氏も今では人気が落ちてしまった」と書き、これを最後に『木佐木日記』から黒石にかんする記述が姿を消すのは歴史的重要なことである。木佐木は黒石をあくまで中間物作者の枠に入れて、ウサン臭く眺めることに終始し、二重国籍者の悲哀はおろか、小説家黒石の意義も、黒石のニヒリズムも、全く分っていなかった人である。(pp.271-72)

と木佐木を酷評している。ただし正確には*6、上でみたように、「大正十二年四月四日」の條が黒石に触れた最後である。そこで木佐木が、黒石を「精神国籍のないロシア人」と評した真意は分からないものの、これが好意的な記述とは思われない。

 一方、由良が「小説家黒石の意義」「黒石のニヒリズム」と述べるのは、具体的には以下のようなことをさす。

その(黒石作品の)〈無為〉の哲学には意外に野太い支柱が通っており、その〈饒舌〉のレトリックには意外に錯綜した陰翳の襞がたたみこまれており、滑稽の鎧の影に、スケールの大きな痛みをかかえていたことを、マヤカシ屋として大泉黒石文壇から一挙に抹殺した連中は、まったく理解していなかったのである。彼の生涯に支払われた高価な代償は、ようやく現時点をまって、その重みを露わにしはじめたということができよう。おそらく大泉黒石哲学レトリックは、〈無為〉と〈饒舌〉をつなぐ線上で、大杉栄辻潤坂口安吾石川淳たちを微妙に包摂し、的確に予言さすものをもっていた。戯作者の連綿たる伝統が、現代のニヒリズムと結んで甦えるところに昭和無頼派の成立根拠があるとすれば、その道を予感する海燕の唄を大泉黒石は、たしかな旋律で歌い、またそのゆえに、〈束の間の騎士*7にいよいよ徹する世俗的自己抹殺の後半生をひきうけざるをえなかったのである。(「無為の饒舌」p.267)

 「無為の饒舌」は初出が「ユリイカ」(1970年10月号)で、のち『風狂 虎の巻』(青土社1983)にも収録された。

 由良の著作は、近年ちくま文庫平凡社ライブラリーで復刊されており、その流れに乗ったか、『風狂 虎の巻』も新装版として復刊されている(青土社2016年)。

 この『風狂 虎の巻』は、黒石についての文章として、「無為の饒舌」のほか「『黒石怪奇物語集』のあとに」「大泉黒石人間廃業』」の計三つを収めているが、「『黒石怪奇物語集』のあとに」の記述は、「無為の饒舌」のそれとかなり重なっている。そこでは由良は、上引の文章とはやや異なる形で黒石を次のごとく評している。

 作家黒石の本領は――読み物作家ではなく――むしろ「デラシネの痛み」をニヒリズムを根幹にして戯作調諷刺へと昇華したところに認められなければなるまい。したがって彼の命脈は江戸期戯作の伝統を、同時代の大杉栄辻潤と雁行しながら、ロシア中国の素養を生かして継承し、昭和における坂口安吾石川淳たちに媒介する長大な流れのなかで摑まれるべきであり、大泉黒石はこの意味で、昭和無頼派への貴重な中継所なのである。(「『黒石怪奇物語集』のあとに」『風狂 虎の巻』所収p.195)

 なお「無為の饒舌」には、次のようにもある。

 第二次大戦暗黒時代は、黒石にとって、生涯のうちでも最も暗澹たる一時期であったに相違ない。どのような暮しをしていたのか、詳かでないが、ここでも、どん底のなかでの思想的節操はうかがわれる。昭和十八年七月十日の奥付で、大新社から、大泉清著『草の味』が発行された。ここには戦時下の食糧難に悩む日本人にたいして、親切を極めた食用雑草の献立法とその詳しい解説がなされており、あわせて、草食主義にことよせて、往年の老子思想がこっそりと顔をのぞかせている。文人黒石がこのような書物を書くことを、おそらく恥じてであろうか、黒石は本名の「清」をこの本にだけ冠した。(『黄夫人の手』pp.276-77)

 これは、黒石の息・大泉滉が著した『ぼく野菜人―自分で種まき、育て、食べようよ!』へとつながってゆく思想だともいえるであろう。

 濱田研吾氏は次のように述べている。

 大泉滉ものごころいたころ、父の黒石は売れっ子作家ではなかった。まずしい生活を強いられ、野草を食し、自給自足のまねごとをやり、みずから野菜人となる。野菜づくりは趣味の延長ではなく、この珍優の人生哲学、生きる術であった。(『脇役本』ちくま文庫p.416)

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 おそらく昭和ヒトケタ台の頃のことだと思うが、林芙美子は随筆「柿の実」で次のように記している(当時の黒石の暮らしぶりの一斑をうかがわしめる文章なので、引いておく)。

 隣家(となり)には子供が七人もあった。(略)

 この家族が越して来て間もなく、洽子ちゃんと云う十二になるお姉ちゃんと、ポオちゃん(四番目の男児―引用者)が手紙を持って、夜が更けてから遊びに来た。手紙には大泉黒石と書いてあった。まあ、そうですか、お父さまもよかったらいらっしゃいなと云うと、男の子はすぐ檜の垣根をくぐってお父さんをむかえに行った。(略)

 私は大泉黒石と云うひとにまるで知識がないので、どんなお話をしたものかと考えていると、ポオちゃんの連れて来た大泉さんは、まるで自分の家へあがるみたいにかんらかんらと笑って座敷へあがって来て、私の母の隣へ坐ったものだから、母は吃驚したような眼をしていた。手拭いを腰にぶらさげて、息子さんのつんつるてんの飛白(かすり)を着ているせいか、容子をかまわないひとだけに山男のように見えた。(略)

 今年は最早その家族もサギノミヤとかへ越してしまった。

林芙美子「柿の実」、庄野雄治編『コーヒーと随筆』ミルブックス2017所収pp.120-25)

脇役本 増補文庫版 (ちくま文庫)

脇役本 増補文庫版 (ちくま文庫)

黄夫人の手 (河出文庫)

黄夫人の手 (河出文庫)

ロシア文学史 (講談社学術文庫)

ロシア文学史 (講談社学術文庫)

風狂 虎の巻

風狂 虎の巻

コーヒーと随筆

コーヒーと随筆

*1:「濱」は正確には異体字だが、環境依存字のためこの形で示す。

*2:濱田氏は、文庫版追記で「脇役本全体から見るとわずかな増補に過ぎず」(p.7)と書かれており、かなり控えめだが、ページ数でいうと110ページ超(!)にのぼる。

*3:第何話かは忘れたが、「向ヶ丘遊園」がロケ地になっていたこともある。成瀬巳喜男『おかあさん』でロケ地に選ばれたもこの向ヶ丘遊園であるhttp://d.hatena.ne.jp/higonosuke/20060316参照。

*4:名は不明。木佐木の大学早稲田大)の先輩にあたる人らしい。

*5:ただし、大泉黒石ロシア文学史』(講談社学術文庫1989)の「解説」で校訂者の川端香男里氏は、「たとえばイワン雷帝とクルプスキー公の往復書簡をとり上げているが、エピソード的に面白いものをこのように選び出したというのは、黒石が出来合いのロシア文学史に頼らず、アンソロジー類で原典を実際に読んでそれを基にしていたからであろうと考えられる」(p.439)と書いており、少なくとも黒石はロシア語を原典で「読む」ことができたようである

*6:ついでながら、由良は黒石の歿年を「一九五六(昭和三十一)年」としているが(「大泉黒石掌伝」p.265)、これは「一九五七(昭和三十二)年」の誤のようである

*7ゴーリキー『チェルカーシュ』に登場する浮浪人たちを踏まえる。「海燕の唄」も、ゴーリキーの『海燕の歌』を踏まえている。

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2018-03-21 ちくま文庫の「ベスト・エッセイ」 このエントリーを含むブックマーク

 ちくま文庫が、昨年12月から4カ月連続で「ベストエッセイ」と冠したエッセイ選集を刊行している。大庭萱朗編『田中小実昌ベストエッセイ』(12月刊)、大庭萱朗編『色川武大阿佐田哲也ベストエッセイ』(1月刊)、荻原魚雷編『吉行淳之介ベストエッセイ』(2月刊)、小玉武編『山口瞳ベストエッセイ』(3月刊)の4冊である

 かつてちくま文庫は、「田中小実昌エッセイコレクション」(全6冊)、「色川武大阿佐田哲也エッセイズ」(全3冊)、「吉行淳之介エッセイコレクション」(全4冊)などといったシリーズを出していたが、軒並み版元品切となってしまったので*1、今回それらの“よりぬき本”(むろんそれらに収められていなかったのも含まれるが)といった趣のある一冊本を改めて刊行してくれたのはまことにありがたい。

 まことにありがたいといえば、結城昌治*2や、獅子文六の相次ぐちくま文庫入りなども特筆すべきことなのだろうが、それについて書くのはまたの機会にしたい(ここに『可否道』=『コーヒー恋愛』が再文庫化された話を書いたが、まさかその後オリジナル選集を含めて文六作品11冊も文庫化されることになる〈3月現在〉とは思ってもみなかった。文六ファンとしては嬉しいかぎりである)。

 さて上記の「ベストエッセイ」、偶然なのかどうかは分からないけれど、『色川武大阿佐田哲也』以外の3冊が3冊とも、色川武大阿佐田哲也)の登場するエッセイを収めているのがおもしろい。以下、その一部を紹介してみる。

 色川武大とは『まえだ』でもあったし、『あり』や甲州街道のむこうのもとの旭町の、ドヤ街の裏壁と裏壁のあいだの裂け目の奥の、ドヤの住人でもいかない、ひどい飲屋の『姫』でもあった。ここは夜の女やオカマなどがあつまる店で、ぼくはモノが言えないサチという若い女となかがよかった。こんなところでも色川武大はにこにこおだやかな態度だった。『姫』も『姫』をとりかこんだドヤの建物もとっくになくなった。色川武大も死んじまった。(「路地に潜む陽気な人びと」『田中小実昌ベストエッセイ』所収p.42)

 元号が改って、その二月十八日に色川武大の予告なしの訪問を受けた。スケジュール表のその日に、「色川来ル」とメモがある。二十年ほど前から、私は訪問することもされることもあまり好まなくなり、彼が訪れてくるのも初めてだった。

 色川武大は大きな紙袋を提げていて、大国主神(おおくにぬしのみこと)のようだった。その袋から、三鞭丸のアンプルやロイヤルゼリーやそのほか漢方系の元気の出る薬を一山、テーブルの上に積み上げた。そして、これから結城(昌治)さんの家に行く、と言った。袋の中身は半分残っていて、それを届けるのだという。

 こういうことは偶然に過ぎない筈だが、いまにしておもうと、袋を提げて歩き出した色川武大は、ちょっと立止った。そして、「ま、これでいいか」と呟いて、巨体を揺らして立去ったような気になってくる。

 それが、色川武大を見た最後である。(「色川武大追悼」『吉行淳之介ベストエッセイ』所収pp.318-19)

 向田邦子の爆死のとき、小さな酒場色川武大に会った。彼は血走った目で私に「こんなにツキまくってるときにオンボロ飛行機に乗る莫迦いるかよ」と、憤るように言った。人生九勝六敗説もしくは八勝七敗説を唱える彼は、幸と不幸は綯交ぜになっていると信じていた。彼は昭和六十三年、生涯の最高傑作である狂人日記』(読売文学賞)を書き終り、翌年、まだ寒さの厳しい東北の一都市移住しようとして急死する。『狂人日記』を書いて、もうこれでいいやと思ったかどうか私は知らない。色川武大昭和四年十月の生まれであって私より三歳若い。私の定義から少しずれるが、二人とも怖しい位に早熟であったので、心情は戦中派であったに違いないと思っている。(「ある戦中派」『山口瞳ベストエッセイ』所収pp.65-66)

 ちなみに色川のエッセイ選集には、「九勝六敗を狙え――の章」が収めてあって、そこに、「名前を出してわるいんだけれども、向田邦子さん、仕事に油(ママ)が乗りきって書く物皆大当たり、人気絶頂、全勝街道を突っ走る勢いだった。それで、飛行機事故。/向田さんはばくち打ちじゃないんだから、悲運の事故ということだ。/けれども、もしばくち打ちが飛行機事故にあったら、不運ではなくて、やっぱり、エラーなんだな」(p.49)、とある

 共通して登場するのは色川だけではない。例えば山口が「十返肇さんが、亡くなる二年前ごろ、一ト月に一冊は古典文学を読むことにしていると語ったことがある。そういう思いも、よく理解できた」(「活字中毒者の一日」『山口瞳ベストエッセイ』p.237)と言及する十返肇については、吉行が「実感的十返肇論」(『吉行淳之介ベストエッセイpp.324-41)で論じているし*3山口が「これも友人の一人である島健一さんが「作家との一時間」という企画で、藤原審爾さんにインタビューを試みたときに、藤原さんが、好きな人間として「バカ人間」というのをあげておられた。「ダメ人間」であったかもしれない。/その後、藤原さんにお目にかかったときに、あれは小説の題になりますねと申しあげた記憶がある」(「元祖『マジメ人間』大いに怒る」『山口瞳ベストエッセイ』p.53)と記した藤原審爾に関しては、色川が「藤原審爾さん」(『色川武大阿佐田哲也ベストエッセイpp.280-88)という追悼文をものしているし、また田中が、「川上宗薫も、なにしろ国電の吊革にぶらさがって、となりにきたガキみたいな女のコを口説くという見さかいのない実戦派だから、こんなのといっしょにいたら、失神遺恨のある男性に、いつ、どんなインネンをふっかけられ、そのとばっちりをうけるかわからない」(『田中小実昌ベストエッセイ』「優雅な仲間たち」p.33)とおもしろおかしく評する川上宗薫については、色川が「川上宗薫さん」(『色川武大阿佐田哲也ベストエッセイpp.297-306)という追悼的回想文を書いている。

――と、このように互いに同じ人物の出てくる記述がみられるのは、この著者たちが同年代交流もあったから当然といえば当然なのかもしれないが、編者が挙って人物回想記や交遊録を択んで採っているというのは興味深いことである

 酒や食味、趣味や遊びに関するエッセイときには「怒り」や「毒」を含んだ批評的な随筆も、もちろんそれぞれにおもしろいのだが、この世代エッセイ人物に関するものこそが最もおもしろい、と云ったら、それは言い過ぎになるだろうか。

 なお吉行は、「(昭和)四十九年から色川武大の名で短篇連作「怪しい来客簿」を『話の特集』に載せはじめた。これは、私の最も好きな作品である」(「色川武大追悼」『吉行淳之介ベストエッセイ』p.317)と書いており、山口もまた「僕は『怪しい来客簿』を読んだとき、オーバーに言えば驚倒し昭和文学史に残る名作だと思った。家へ来る誰彼なしに吹聴し、本欄では「即刻書店へ行って買い給え」といったうわずった原稿を書いてしまった。ずっと後になって色川さんはそれを何度も何度も読みかえしたと語ってくれた。『怪しい来客簿』は生の根元に迫るものである。全体に一種異様な悲しみと戦慄に満ちている。これが直木賞落選したとき僕は本気になって腹を立てた」(「色川武大さん」『山口瞳ベストエッセイ』p.356)、と書いている。

 この『怪しい来客簿』、わたしも初読で衝撃を受けたくちで、角川文庫版と文春文庫版とをもっているのだが、上の記述に触発されて、また読み返そうと、今まさに再び手に取ったところである

怪しい来客簿 (文春文庫)

怪しい来客簿 (文春文庫)

*1わたしは、コミさんの全6冊のうち第1〜5巻だけ、何年も前に在庫僅少フェアでなんとか入手することができたのだけれど、その他は気がつけばいつの間にか品切になっていた。

*2:昨秋、日下三蔵編の短篇傑作選が出て、この4月には『夜の終る時』が他の短篇抱き合わせちくま文庫に入るという。『夜の終る時』は結城の“悪徳刑事もの”の一作だが、わたしは『終着駅』などと並ぶ名作だと思っている。かつて岸谷五朗主演で映像化されたことがあるが(それ以前には永島敏行主演でドラマ化されたこともあるらしいが)、うっかり録画しそびれて、以来、残念ながら見ることを得ていない。

*3:p.85には、「(父親エイスケが)近所に下宿していた十返肇たちと麻雀ばかりやっていた」(「断片的に」)ともある。

2018-03-05 『女と刀』のことから このエントリーを含むブックマーク

 「明治150年」であるためか、日本近代関連書の出版や復刊が相次いでいる。大河ドラマの「西郷(せご)どん」(林真理子原作関係はもちろん、たとえば中公文庫でも、石光真清の手記が新編集で復刊されたり*1橋本昌樹の『田原坂』が増補新版刊行されたり*2している。

 この流れに乗って、中村きい子『女と刀』(講談社文庫1976←カッパ・ノベルスジャイアントエディション1966)も復刊してくれないものだろうか、と思う。

 語り手の「わたし」=キヲ*3は、西南の役明治10〈1877〉年)の5年後、鹿児島・黒葛原(つづらばら)で年貢取締りの実権を有した名頭(みょうず)の権領司(ごんりょうじ)家の直左衛門エイとの間に長女として生れた。薩摩の一外城(とじょう)士族の出ではあるが、里では「有士(きけて)」といわれる立場にあり、城下士族も一目置く存在であったらしい。

 直左衛門は、西郷隆盛のもとで西南の役を戦い、「熊本鎮台を踏みしだく意気で、熊本城を攻めた」(p.21、講談社文庫版。以下同)経験もつ。この「十年のいくさ」で「日本」そのものに敗北したことが、直左衛門の生涯を決定づけており、彼の子育ても、時代に抗して「野(や)にある権領司という郷士の『鋼』の精神をうちこんでおかねばならぬ」(p.27)といった信念のもとで行う劇しいものであった。

 ゆえに娘のキヲも、「世間のしきたりに抗って生き」る(p.78)ことを信条としている。それは、「士族という身分によりいっそうの強い誇りをも」ちながら(p.98)*4、一方で「血の体制(まとまり)」なる羈絆を否定し、「おのれの血ひといろに染めあげていくという、そのたたかいにかぎりない執着をもつ」(p.248)といった強烈な自家撞著でもある。誤解をおそれずに云えば、主人公は、近世以来の国家体制近代的自我自律性との間で引き裂かれているように見える。しかしキヲが、作品冒頭で「名頭の役」「名頭という役目」をしきりに強調していることから、これがそもそも古来の強制性を伴う「役」ではなく、個人存在意義を支える「役」であったことが知られるのであって、そうだとすれば、「士族という身分」「おのれの血ひといろ」は、キヲの精神に容易に同居しうるものだったといえる。

 尾藤正英氏によると、日本近世の「役」は、「自発的に、その責任を果たすことに誇りを感じて、遂行されるような義務」、「それぞれの身分所属していることの象徴表現とでもいうべき性格が強く(略)個人自発性に支えられたもの」であり(「序説 日本史時代区分」『江戸時代とはなにか―日本史上の近世近代岩波現代文庫2006:22-23*5)、その点から強制性を有する古来の「役」とは区別されるという。そしてこれを、日本独特の「『役(やく)』の観念」と位置づけている。キヲは生涯、古来の「役」を引きずった「日本」そのもの対峙し、それに反撥し続けたとも解釈できるのではないか。

 この作品特に「読みどころ」となるのは、太平洋戦争末期、キヲが自らの末娘の名古屋行きを阻止せんと、その末娘・成に刀をつきつける場面(pp.280-83)であろうが、そこでキヲが持ち出すのが、「十年のいくさ」というイエにとっての「痛苦の歴史である。そして、「日本」とアメリカとの戦争を「わたしのいくさではないこのいくさ」(p.282)と突き放してみせる。しかるに、戦後に至ってもキヲは、父親がかつて「文明開化」を軽蔑したのと同じように、「民主主義なるもの」を否定し去るのだ(pp.292-93)。

 いわゆる“名文”ではないし、独特の方言も頻出するし*6、「種子田(たねだ)という人のもとに私淑した」(p.169)といった表現があったりもするが、とにかく形容しがたい迫力に満ちた小説なのである

 講談社文庫版の解説鶴見俊輔)は、次のように評している。

 この本には、明治以後の百年を、この本一冊によって見かえすほどの力がある。明治百年が日本の男が表にたって指導した歴史であったことと考えあわせるならば、明治以後の日本の男たち全体を見かえす力がある。その明治百年が、敗戦後の年月をふくめていることは勿論のことで、この本は、戦後民主主義批判の書でもある。戦後日本民主主義批判するだけでなく、地上のさまざまの民主主義のそだてやすい人間性のもろさを見すえてしかりつけるようなきびしさをそなえている。

 そのしかりつける語り口は、男にだけむけられるものではない。女もまたしかりつけるだけの公平さをもっている。こうしかりつけられていてはかなわないという感想も、時にはわいてくるのだけれども、男はみなよくない、女は正しいというような思想によって書かれた本ではなく、人間全体をしかりつけるすがすがしい語り口に感動する。(p.335)*7

 「明治以後の百年を、この本一冊によって見かえすほどの力がある」など、いささか評価が高すぎるようにも思うが、鶴見氏はこの作品にかなり感銘を受けたらしい。たとえば加藤典洋氏は、鶴見俊輔文章心得帖』(ちくま学芸文庫2013)の文庫解説「火の用心―文章の心得について」*8で、次のように述べている。

 私は一九八〇年代半ばから九五年の休刊にいたるあいだ、『思想の科学』の編集委員として鶴見さんとおつきあいさせていただいた。その間、書き手として個人的に、鶴見さんにこれを読め、そしてこれについて書け、といわれた本が二冊ある。一つは中村きい子の『女と刀』、もう一つは、仁木靖武の『戦塵』である。ともにそれほど名高いものではない。特に後者は私家版の戦記。なぜということはいわれなかったし、聞かなかった。この二つの本は、読んで書くのが大変だった。ごろごろと石だらけの土地を開墾し、耕作地に変えて、それから種を播き、収穫するような難儀さがあった。(pp.215-16)

 『女と刀』は、1967年TBS系の「木下惠介アワー」枠でドラマ化された(中原ひとみ主演)。その脚色に携わったのが山田太一氏で、山田氏の『月日の残像』(新潮文庫2016←新潮社2013)には、まさに「『女と刀』」という一文*9が収めてある。

 山田氏も、前述のキヲと末娘とが対峙する場面を紹介している。

 父の無念は、「意向」を「こころ」といい替えられて、主人公に伝えられて行く。第二次大戦の敗色が濃くなるころになっても、これは大久保(利通―引用者)たちのつくった「日本」の不始末で、かかわりなどあるものか、と軍需工場へ行って国のために戦うという娘に、主人公は刀をつきつけて行かせぬといって押し通す。周囲から非国民呼ばわりされても「なんとよばれようがわたし覚悟のうえでやったことじゃよ」と動じない。(p.157)

 さて山田氏の「『女と刀』」は、彼がかつて書いた随筆のことから書き起こされている。

 ほぼ三十年前の、短い私の随筆が、ある新聞コラムで、要約という形で言及された。その内容に「何故そんなことをいうのか」という数通の反応があった。おかげで忘れかけていた自分文章を読むことになった。

 私なりに要約すると、湘南電車の四人掛けの席で、中年の男が他の三人(老人と若い女性と私)に、いろいろ話しかけて来たのである。(略)

 ところがやがて、バナナカバンからとり出し、お食べなさいよ、と一本ずつさし出したのである。私は断った。「遠慮じゃない。欲しくないから」「まあ、ここへ置くから」と男はかまわず窓際へ一本バナナを置いた。

 食べている老人に「おいしいでしょう」という。娘さんにもいう。「ええ」「ほら、おいしいんだから、お食べなさいって」と妙にしつこいのだ。「どうして食べないのかなあ」

 そのうち食べ終えた老人までが置いたままのバナナを気にして「いただきなさいよ。せっかくなごやかに話していたのに、あんたいけないよ」といい出す。

 そのコラムの要約は「貰って食べた人を非難する気はないが、たちまち『なごやかになれる』人々がなんだか怖いのである」という私の文章引用でまとめられている。(pp.153-54)

 そして、これを受けるかたちで、

 私はかつて「なごやかになれない人」の結晶のような人物を描いた小説テレビドラマに脚色したことがある。脚本家になって一年目のことだった。鹿児島作家中村きい子さんの「女と刀」である企画木下恵介さん、はじめの三回は木下さんが書き、あとを引き継いで三十分二十六回のドラマだった。(p.155)

と書き、「もしこれが映画だったら、木下恵介監督代表作の一つになったかもしれないと、ひそかに思っている」(p.159)と記しているのである

 ちなみに、山田氏の「短い私の随筆」というのは「車中のバナナ」で、一昨年の三月に出た『昭和を生きて来た―山田太一エッセイコレクション』(河出文庫)に収められ、さらに昨秋には、頭木弘樹編『絶望図書館―立ち直れそうもないとき、心に寄り添ってくれる12物語』(ちくま文庫)にも収められた。編者の頭木氏は、作品解説を兼ねたあとがきで、「私は、このたった三ページの作品が、好きでたまりません。/なぜといって、『これこそ、私が人間関係で苦しんできたことだ!』という典型的な状況が、見事に表現されているからです」(p.350)と評し、『月日の残像』にその後日譚が書かれていることに言及している。

 わたしがこの『月日の残像』に触発されて再読したのが、フェルナンド・ペソア澤田直訳『[新編]不穏の書、断章』(平凡社ライブラリー2013)なのだが、それについては、また稿(項?)を改めて述べることにしたい。

女と刀 (講談社文庫)

女と刀 (講談社文庫)

文章心得帖 (ちくま学芸文庫)

文章心得帖 (ちくま学芸文庫)

月日の残像 (新潮文庫)

月日の残像 (新潮文庫)

*1:真清による短篇小説や手記(いずれも初公開)などを新たに附している。

*2旧版は、裏表紙松本清張の短い評言(節略)が載っているだけだったが、新版はこれが増補部に収録されている。

*3:作者の母親モデルにしている。

*4:「ザイ(平民)」に対する優越独白のそこここに表れている。

*5:また同書所収「江戸時代社会政治思想特質pp.39-45など参照のこと。

*6:「濃ゆい」「胸のこまか(度胸の小さな)」などはまさにそれをよく表すものだろう。

*7:のち『鶴見俊輔書評集成2 1970-1987』(みすず書房2007)に収む。

*8潮文庫版(1985刊)の再録か?

*9:初出は季刊誌「考える人」(2008.11)。

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2018-02-25 路線バスで読む梅崎春生 このエントリーを含むブックマーク

 うろ覚えだが、草森紳一氏が、東京大阪間の新幹線の車内で読むのに好適な本として松本清張短篇集を挙げていた。ほどよい長さのため車中読書にうってつけで、しかもやみつきになる、というわけで、その状況を“手が伸びることさながらバターピーナッツのごとし”、といった面白い表現でたとえていたと記憶する。

 交通機関読書との関係といえば、確かに、乗り物や路程の違いに応じて本の分量や冊数、またはジャンル意識的に変えるのはこれまでによくあることだったが、いわゆる「文章テンポリズム」も勘案すべき要素のひとつだと感じたのは、先日、路線バス小一時間揺られながら、梅崎春生荻原魚雷編『怠惰美徳』(中公文庫2018)を愉しく読んだからだ。

 同書所収の「チョウチンアンコウについて」「衰頽から脱出」、それから、編者の荻原氏が「この小説を読み終えた途端、全集衝動買いした。心を摑まれた。自分のための文学だとおもった」(解説p.301)という「寝ぐせ」あたりは、沖積舎作品集や別の文庫本で読んだことはあったけれど、大半は今回が初読だった。各篇が長すぎず、かと云って短すぎることもなく、時折クスリ、ないしはハッとさせられながら、一篇一篇読み了えるたび、窓外の景色に目をやっていた(その日はまた天気もすこぶる良かった)。文章テンポリズムバスの動きと絶妙に合って、久しぶりで、純粋に愉しく餘裕のある読書をしたという感触が残った。

 ところで、この最初の方に、「憂鬱青春」(pp.20-33)なるエセーが収めてある。そこに次のような記述がみえる。

 それで昭和七年、首尾よく第五高等学校文科に入学が許可された。試験はあまり出来なかったから、すれすれで入学したに違いない。そこで詩を書き始めた。同級に霜多正次などがいて、それらの刺戟もあったのだろう。当時の五高には「竜南」という雑誌が年三回発行され、文芸部委員には三年生に中井正文土井寛之、二年生に河北倫明や斯波四郎がいて、私がせっせと詩を投稿するけれど、なかなか載せて貰えない。上出来な詩じゃなかったからだろうと思う。

 二年生になって、やっと掲載されるようになった。そして文芸部の委員になることが出来た。委員になれば、おおむねお手盛りといった形で、毎号掲載ということになる。(略)

 落第する前のクラスはあかるくて、遊び好きの連中が多かったが、あとのクラス何だか暗くて、あまり私にはなじめなかった。落第したひがみもあったのかも知れぬ。木下順二などがいたが、彼はその頃秀才で(今も秀才だろうが)文学に関心は持っていないように見えた。(pp.22-24)

 木下順二も、梅崎と同じく五高から東京帝大に進んでいる。それで思い出したのだが、木下も自らの半生記で当時の梅崎について書いていた。梅崎の別の貌を表しているようでもあるので、やや長くなるが以下に引く。

 五高三年の秋、私は突然一篇の私小説を書いて、文芸部委員梅崎春生に提出した。

 梅崎は私が二年に上るとき落第して来て私と同級になったのだが、なにしろその頃の私は前述の仕儀で学業格別精励のほうだったから、初めて同級になったあの駘蕩たる詩人と、いきなり仲よくなるということもなかった。それが三年になって、教室で机が並んだりしたこともあってか、急にわりに親しくなった。当時の英語教科書の余白に、授業中に梅崎がよこした漢詩(?)が写してある。私の名を詠みこんだ五言絶句というつもりだろう。木花離堂前/下草連野辺/順風吹不尽/二月漸纒綿/梅生 というのである。そして私は早速その時間中にお返しをしたらしく、余白に書き散らしてある苦吟のあとを辿ってみるとこういうふうになる。梅花漸数苞/崎陽二月朝/春日雪未消/生動万物更/木生。(略)

 校友会誌の合評会に出向いたりしているところを見ると、いま思いだすほど私も創作活動に冷淡ではなかったのかという気がしないでもないけれど、なにしろ自分が書くなどということはわれながら全く唐突であって、自分にとって小さからざる事件でそれはあったのだが、梅崎委員はいとも簡単に、「大したもんじゃなかね」という感想と一所にその原稿を返してよこした。(略)

 ところで年を越した一九三六年、ということは五高を卒業する年の一月二十九日水曜日曜日まで私は書きつけているが、またまた英語の授業中に梅崎がそっとよこした漢詩(?)が、教科書の余白に写してある。今度は題がついていていわく「勧転志詩」――白面美衣青春行/肥馬銀鞭思亦遠/可憐此人誤針路/老夫無職乞路傍/梅生。――肥馬銀鞭というのは私が馬術部のキャプテンをしていたからだろうが、どうもこれは、私のあの一篇を読んだ梅崎が、私に転志を勧告した詩であるとおぼしいけれども、何で年を越した今頃になってこんなものをよこしたのだか分らない。授業が終ったあと、この詩について梅崎と何か話をしたにきまっているがそれは忘れた。私はきっと、おれは創作なんて考えてもおらん。学者になるつもりだけん、つまり学校の教師になるつもりだけん、老夫無職ということにはまあならんで済むだろう、というようなことをいったのだったろう。とにかく、梅崎から二度も漢詩をもらっていたことなど、今度何とはなしに昔の教科書をひろげてみるまで、すべてまるきり忘れていた。

 別のことだが、(略)大学時代、あるいはその少しあとだったか、いや、大分あとのことになるはずだ、太平洋戦争戦時下の、もう喫茶店で甘いものが飲めなくなっていた頃の殺風景な本郷通り、東大正門前の郁文堂のところで、実に久しぶりに梅崎と会った時のことが、戦後になって時おり会うようになってからのことよりも忘れられない。ばさばさの髪に、そろそろ寒い時節だったが素足の下駄ばきで、立ったままちょっと何か話すと、黒いマントの裾をひるがえして三丁目のほうへ走って行った。肩の線がやわらかく、しかしなにかやり切れない表情が背中にあった。その後ろ姿から眼が離せないで見送った自分を、今でも覚えている。(木下順二本郷講談社文芸文庫1988:146-50←講談社1983)

 なお、この『本郷』はコミガレで拾ったものだが、その時分は、「五高出身者」という要素がアンテナに引っかかったから買ったわけではなく、坪内祐三氏の次の記述に触発されて購ったのであった。

 数カ月前に私は、神田淡路町交差点近くにある新古本屋の百円均一コーナーで木下順二の『本郷』(講談社文芸文庫)を見つけた。元版で既に通読していたけれど、あまりにも安かったので購入してしまったのである。帰りの地下鉄で読み進めて行った。すると、初読の時には見落していたのだが(いや、正確に書けば、当時はその固有名詞に反応出来なかっただけなのだが)、木下順二の母方の伯父に国文学者の佐々醒雪がいることを知った。そして帰宅後、私は、『忘れ得ぬ国文学者たち』の「佐々醒雪博士」の章を開いた。(坪内祐三「解説」、伊藤正雄『新版 忘れ得ぬ国文学者たち―并、憶い出の明治大正―』右文書院2001:400)

 ところで『本郷』は、「わるごろ(悪五郎)」「おンなはらん」等々、熊本方言について書かれた箇所が特に印象に残っていて、なかにこういう一節もあった。

 (熊本白川小学校では―引用者)発音と言葉づかいで毎日のようにやられた。今はあんまりはやらないらしい大声の朗読というよい習慣があの頃の小学校にはあって、こっちはそいつが得意のつもりだから手を挙げて当てられて立ち上って読みだすと、皆が笑うのである。「今日ぼくの兄さんが」――この“が”の鼻濁音がまずおかしいというわけだ。やがて休み時間になって運動場へ出ると、朝礼で校長先生が立つ台の上から一人が先生調子で「おい木下くん、きみが“が”は鼻っぽんぞ」(ジフィリスで鼻の障子がなくなって息が漏れるごとくである、ということらしい)、そういって冷かされている私のそれこそ鼻の先を、「ンーンガアー」と鼻濁音の口真似をしながら飛行機の格好に両手をひろげた奴が通過して行くや否や、反対方からたちまち一機「ンーンガアー」と飛んでくる。それからまた一機。(木下同前p.116)

 九州が非‐鼻濁音地域だというのはよく知られており、長崎諫早出身野呂邦暢小説中で触れていたことがある。

盲目のわが子)といったとき、がの音は鼻声音になっていた。九州人はガ行の音をやわらかな鼻声音で発音できない。九州である中尾昭介も上京して二十年以上になるけれど、まだきれいなガ行の音を口にすることができないでいる。(「ある殺人」『野呂邦暢小説集成6―猟銃・愛についてデッサン』文遊社2016:22)

 ちなみに、本好きならご存じのことだろうが、「野呂邦暢」は本名ではなく(本名は納所〈のうしょ〉邦暢)、梅崎の『ボロ家の春秋』の登場人物から借りたペンネームである

 交通機関読書との関係について述べる積りが、今回も横道に逸れてしまった。

 これもまた、“読書醍醐味”なのかも知れない。

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 梅崎というと、『桜島』についてここで少しだけ触れたことが有る。

怠惰の美徳 (中公文庫)

怠惰の美徳 (中公文庫)

本郷 (講談社文芸文庫)

本郷 (講談社文芸文庫)

新版 忘れ得ぬ国文学者たち―并、憶い出の明治大正

新版 忘れ得ぬ国文学者たち―并、憶い出の明治大正

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2018-02-04 異分析、民間語源 このエントリーを含むブックマーク

 例えば「あくどい」を「悪どい」と捉えたり、「いさぎよい」を「いさぎ(が)良い」と解釈したりすることを、「異分析(metanalysis)」という。國語國文研究會編『趣味の語原』(桑文社1937)を見てみると、この手のものがたくさん出て来て、なかなか面白い。「呆(あきれ)」<「嗚極み荒れ(あーきはみあれ)」、「曰(いはく)」<「思吐(おもひはく)」、「怠(おこたる)」<「措き棄て肖る(おきすてある)」、「男(をとこ)」<「食し取り君(をしとりぎみ)」、「傍(かたはら)」<「片腹(かたはら)」、「慕(したふ)」<「後に立ち追ふ(しりにたちおふ)」、「相撲(すまふ)」<「進み挑み合ふ(すゝみいどみあふ)」、「養(やしなふ)」<「生け肥し擔ふ(いけこやしになふ)」……、といった具合で、ここまでくると、もう単なる語呂合わせや駄洒落の類である

 イェスペルセン/三宅鴻訳『言語―その本質・発達・起源―(上)』(岩波文庫1981)の第二部「子ども」、第十章「子どもの影響・続」の第二節「異分析メタナリシス)」に、この用語はイェスペルセン自身が「敢えて造った」もの(p.322)とあって、これらは特に子供が「耳にした分析を一旦誤り、次いでこの形を生涯にわたって繰り返し続けることから生」じた(p.324)可能性が高い、と書いてある。全てその通りだと言い切れるかどうか分からないが、異分析は古来、洋の東西を問わずしばしば見られたようだ。これは、語源俗解、いわゆる「民間語源(folk-etymology)」*1とも関わる現象である

 ちなみに英語民間語源ならば、ウィークリー/寺澤芳雄・出淵博訳『ことばのロマンス英語語源』(岩波文庫1987)の第九章(pp.232-82)あるいは第一三章(pp.378-413)が豊富実例を挙げており面白く読めるので、一読をおすすめしたい。

 また、ついでながら、モンテーニュによる民間語源を挙げておく。

 この死という一言は彼らの耳にあまりに強く響き、その言葉は不吉に聞こえるので、ローマ人はそれをやわらげて遠廻しに言うことを覚えた。彼らは、「彼は死んだ」というかわりに、「彼は生きることをやめた」、「彼は生きてしまった」と言う。「生きる」ということでさえあれば、「生き終わった」でも気がすむのである。われわれが故ジャン殿 feu Maistre-Jehan というのもここからの借用である。(モンテーニュ/原二郎訳『エセー(一)』岩波文庫1965,第一巻第二十章:154-55)

 訳注によると、「モンテーニュはこの feu を『あった』から来たと考えたらしい。しかし実際は俗ラテン語の fatutum『自分運命を終えた』という語に由来する」(p.179)という。

 さて、日本語の異分析民間語源の例としてしばしば紹介されるもののうちのひとつが、「あかぎれである。その実例には、

小せえじぶんから手足にひびあかぎれをきらし、汗だくになって追い使われてきたんだ(山本周五郎さぶ』二の二)

といった言いまわしもあることから、「あかぎれ」を、「あか+ぎれ(あか+切れ)」と解釈する向きが多いのではなかろうか。

 しかし、『日本国語大辞典【第二版】』(小学館)の「あかがり」の項の語誌欄に、

アカガリのアは足で、カカリは動詞カカル」の連用形名詞。「カカル」は、ひびがきれる意の上代語。アカガリは、江戸時代まで命脈を保つ。虎明本狂言「皸」に、「あかがりは恋の心にあらね共、ひびにまさりてかなしかりけり」とあり、「ひび」よりも傷の大きく深いものと認められていたらしい。

とあり、また「あかぎれ」の項の語誌欄に、

アカギレは一七世紀のころ、アカガリに代わって現われる。アカガリに、ア‐カガリ語源意識消失して、アカを垢・赤とするアカ‐ガリの異分析を生じ、さらにガリの意味の不明なのをアカ(垢・赤)ギレ(切)という変形で安定させたものと考えられる。

とあるように、「あかぎれ」は本来、「あ+かがり」であったと考えられる。

 このことについては、言葉に関する本でしばしば言及される。例えば次のようである

あかぎれ」は手足の皮膚が寒さなどで乾燥したため、ひび割れなどができる病気である。古くは「アカカリ」あるいは「アカガリ」といった。「ア」とは足のことである。ところがこの「アカガリ」を「アカ+ガリ」と解釈して、そのために「アカ」は「赤」であるという民間語源が生まれてしまった。だが残った「ガリ」が意味不明だ。そこで「ガリ」の代わりに皮膚が切れているという理由で「キレ」を充て、その結果「アカギレ」になってしまったのである

 こうなってくると、民間語源自身言語変化の要因となっているともいえる。(略)

 ただし「アカギレ」のような例は、日本語の音パターンとも関係している。つまりアカギレ」のように四拍分の音があれば、それを二対二で分けるのが、日本語として落ち着くのだ。したがって本来の「ア+カギレ」ではなく、「アカ+ギレ」と解釈してしまう。

黒田龍之助『ことばはフラフラ変わる』白水社2018:185*2

 本来は、「あ+かぎれ」であって、この本来とは違う切れ目で(言語学では「異分析」と言う)捉えた結果が、「赤+切れ」なのだ本来は、「足」を意味する「あ」と「皮膚がひび割れる」ことを意味する「かがる」からなる「足皸(あかがり)」だったのが、これが「あかぎれ」に変化したのである。赤くなるからあかぎれ」と解釈しやすかったのは確かだろうが、「かがる」という動詞平安時代以降はほとんど使われず、江戸時代にはすでに足以外でも「あかがり」と言っているくらいである現代人が、語源を知らずに、「手にあかぎれができる」と言ったとしても、責めることはできない。

加藤重広日本人も悩む日本語―ことばの誤用はなぜ生まれるのか?』朝日新書2014:147)

 しかし、なかには「あか+切れ」の民間語源採用している現代辞典もあり、山田忠雄ほか編『新明解国語辞典【第七版】』(三省堂2012)の「あかぎれ」の項には、「赤く腫(ハ)れて切れる意」、と明記してある。

 異分析による民間語源であっても、長い時間を経たり権威を生じたりすると、それも立派な「古典語」となる。その一例を見てみよう。

 卜部兼好の『徒然草』第七十三段に、

また、我も真しからずは思ひながら、人の言ひしままに、鼻の程、蠢(おごめ)きて言ふは、その人の空言にはあらず。(島内裕子校訂・訳、ちくま文庫p.151)

とあって、こちらは慶長十八年(1613)の「烏丸からすまる)本」(烏丸光広校訂本)を底本としているのだが、同じく「烏丸本」を底本とした小川剛生訳注本は、当該箇所を、

また、我もまことしからずは思ひながら、人の言ひしままに、鼻のほどおこめきて言ふは、その人の虚言にはあらず。(角川ソフィア文庫p.79)

と起こしている。すなわち、「おごめく」:「おこめく」という解釈の相違があるわけだ。小川訳注本の補注には次のようにある。

 これまでは「おごめきて」、「蠢く」の母音交替形で、「鼻のあたりをぴくぴくさせて」の意と解されてきた。この表現は、源氏物語・帚木、雨夜の品定めで式部丞が博士の娘につき語るくだり、「残りいはせむとて、「さてさてをかしかりける女かな」と、(源氏は)すかいたまふを、心得ながら、鼻のわたりをこめきて、語りなす」(河内本による)を踏まえる。ところが源氏物語「おこめく」という語は、物語中の用例を検討すれば、清音で「嗚呼めく」、つまり「ふざけて」「おどけて」の意とするのが正しい。徒然草の本文もこの用法解釈すべきで、厳密に清濁を区別したと言われる底本にも濁点はない。林羅山の野槌で濁点が現れ、「蠢く」との連想、また羅山の権威が加わり、「おごめきて」が定着したらしい。白石良夫「徒然草「鼻のほどおこめきて」考―続オゴメク幻想」(語文研究105、平20・5)参照。(p.239)

 附言すると、小川氏の参照した白石氏の論文は、その他の論文とともに一般向きに書き改められ、白石良夫『古語の謎―書き替えられる読みと意味』(中公新書2010)に収められた(第四章「濁点もばかにならない―架空古語の成立」)。白石氏によれば、羅山は故意に濁点を附したのではなく、版本の段階で「ほと」の「と」に附すはずだった濁点が「こ」に附されたと思しく、「羅山の認識は(略)「おこめきて」であった」(p.101)という。

 いずれにせよ、「烏滸(痴)+めく」の異分析による“幽霊語ghost word)”*3「おごめく」は、江戸期以降に古典語として定着をみたらしい。これも異分析の与った例といえるだろう。

 新版として刊行中の『源氏物語(一)』(岩波文庫)は、「帚木」の当該箇所を大島本(古代学協会蔵、大島太郎氏旧蔵本)に基づき「鼻のわたりをこづきて」(鼻の辺りをおどけて見せて)と解し(p.138)、注釈で、「底本「おこつきて」は、河内本など「をこめきて」」(p.139)、とする。

※『徒然草』については、ここにも書いたことがある。

趣味の語原 (1937年)

趣味の語原 (1937年)

言語 上―その本質・発達・起源 (岩波文庫 青 657-1)

言語 上―その本質・発達・起源 (岩波文庫 青 657-1)

さぶ (角川文庫)

さぶ (角川文庫)

ことばはフラフラ変わる

ことばはフラフラ変わる

新明解国語辞典 第七版

新明解国語辞典 第七版

徒然草 (ちくま学芸文庫)

徒然草 (ちくま学芸文庫)

古語の謎―書き替えられる読みと意味 (中公新書)

古語の謎―書き替えられる読みと意味 (中公新書)

*1:イェスペルセン前掲書では、「通俗語源」(p.228)と訳されている。

*2旧版黒田龍之助『ことばは変わる―はじめての比較言語学』(白水社2011)はpp.167-68。

*3ウィークリー前掲p.409。

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2018-01-22 久生十蘭「母子像」のことなど このエントリーを含むブックマーク

 神奈川近代文学館スポット展示「久生十蘭資料〜近年の収蔵資料から〜」(2017.12.9〜2018.1.21)は、十蘭の姪にあたる三ッ谷洋子氏の寄贈品をもとに構成されていて、十蘭の改稿癖の一斑がうかがえる「海豹島」切抜きへの夥しい書込み*1等、とりわけ印象に残るものであったが、さら特筆すべきは、吉田健一の遺品から見つかった「母子像」草稿五枚、ならびに「美しい母」の草稿六枚であるわたしはそれを一枚一枚、食入るように、ガラスケース越しに矯めつ眇めつしたのだった。

 このうち「美しい母」は、これまで世に出ていなかったもので、「決定稿『母子像』の準備稿というべきものであろうが、いったいなぜ、そしていつ、吉田の手元に置かれるようになったのか」(江口雄輔「久生十蘭資料の公開」*2)は不明なのだそうだ。もっとも、「母子像」を「世界短篇小説コンクール」(ニューヨークヘラルド・トリビューン主催)に応募するため英訳したのが当の吉田であったから江口氏によると、「十蘭が(中略)英国留学が長く大衆文芸批評をしていた吉田を信頼し、海外での反響を含めて相談した可能性が考えられる」*3という。

 「母子像」は、十蘭自身が、「予言」と共に「最も愛した作品であるといい、これまで何度も文庫に収録されている。新潮社の「小説文庫」に入った短篇集『母子像』(1955.10刊)は正確には新書判だから除外するとしても、このほか、『母子像・鈴木主水』(角川文庫1959)、『肌色の月』(中央公論社1957)を文庫化した『肌色の月』(中公文庫1975)*4、『昆虫図―久生十蘭傑作選4』(現代教養文庫1976)、日下三蔵編『久生十蘭ハムレット怪奇探偵小説傑作選3』(ちくま文庫2001)、『湖畔|ハムレット久生十蘭作品集』(講談社文芸文庫2005)、川崎賢子編『久生十蘭短篇選』(岩波文庫2009)に収められている。

 ただし「母子像」は、必ずしも作品としての評価が高い(または読者の好みにあう)わけではなく、たとえば谷沢永一『紙つぶて 自作自注最終版』(文藝春秋2005)引くところの「蒼鉛嬉遊曲(ビスマスメヌエット)」(塚本邦雄*5には、「「母子像」には卻つて感興を唆(そそ)られぬままにやうやく冷えて行つた。ふたたびはげしい感動を覚えたのは、三十年、新潮社刊『母子像』で「西林図」「野萩」「春雪」「蝶の絵」等、二十三、四年初出の短篇を知つた時である」(p.933)とあるし、一方の「予言」に対しても、たとえば中井英夫が、「久生が自分で“最も愛した”由ながら、私にはいまもって“もっとも優れた”作品とは思えず」(p.181)云々*6と評している。

 また、中井がつづけて指摘したように、「母子像」は「あらかじめ外国語で読まれることを計算しぬいた筋立てと運びと、いっさい感傷をさし挟まぬ淡々とした叙述」(同前p.182)ゆえに、「感興を唆られぬ」者があるのかもしれない。もっとも、「感傷をさし挟まぬ淡々とした叙述」というなら、名品「無惨やな」*7などはまさにそうで、こちらの場合、その簡勁ぶりがむしろ作品の迫力を増しているようでもあり、そこに「文体(章)の魔術師」十蘭の面目躍如たるものがあるといえるのだろう。ついでにいうならば、「無惨やな」には都筑道夫の評があって、曰く、まさにこれは「短篇作家短篇小説」なのであり、「基本の文体に、大きな変化はないにしても、(十蘭は)題材によって、技法をえらんでいる」。さらに都筑は、「無惨やな」を大佛次郎夕凪*8比較しつつ、「雰囲気はなくて、そこにはただ、事実記述だけがある」と述べた*9。この文章は、「男ぶりの小説、女ぶりの小説」(都筑道夫*10記述の一部が重なるらしく、先引の谷沢著は都筑のその見解を引いて賛意を表したうえで、「然り「無惨やな」一篇は痛烈な鷗外批判なのであり、久生十蘭は鷗外の贅肉を無言で辛辣に発いたのだ」(p.804)とさらに踏み込んだ評価を下している。

 なお千野帽子氏は、「久生十蘭あなたも私も』は「戦後文学」です。」(『久生十蘭―評する言葉も失う最高の作家河出書房新社2015.2)のなかで、十蘭と獅子文六とを並べて「いずれもテンポの速いドライ現代小説を書いた。とくに戦後作品は、両者がスピード競争をしているかのような爽快感があ」る(p.10)と評しており、こちらもたいへん興味深い*11

 さて会場の十蘭コーナーには、「母子像」関連資料として、映画化*121956年東宝佐伯清監督植草圭之助脚本)の際に主演の山田五十鈴らと十蘭が写った貴重なスナップや、映画広告などもあわせて展示されていたのだが、それらに触発されたこともあり、「母子像」を三たび読み返した。先に述べたごとく、十蘭には「改稿癖」があった。したがって「母子像」にも、「雑誌新聞初出の本文を底本とした」川崎賢子編になる『久生十蘭短篇選』所収版とそれ以外とでは、少なからず相違点が有る。

 そこで以下、簡単比較してみることにする。「岩」が岩波文庫所収、「ち」が日下三蔵編『久生十蘭ハムレット怪奇探偵小説傑作選3』(ちくま文庫2001)所収のものである。「岩」は、初出の「讀賣新聞」(1954.3.26-28掲載本文に基づく。「ち」は底本がよくわからないが、ざっと見たかぎりでは、『肌色の月』(中公文庫1975)、『湖畔|ハムレット久生十蘭作品集』(講談社文芸文庫2005)とあまり違わない。後者文芸文庫版は、『久生十蘭全集1・2』(三一書房刊1969.11,1970.1)を底本としているらしいからちくま文庫所収のものは(いつの時点のものかは判らぬが)後の改稿版とみてよい。

「お呼びたてして、恐縮でした」(岩p.332)

「お呼びたてして、どうも……」(ちp.338)

心配のないように(岩p.332)

心配なく(ちp.338)

司法主任のおっしゃるとおり、私どもはたいした事件だと思っておりません。(略)」(岩p.332)

司法主任がおっしゃったように、私どもはたいした事件だと思っておりません。(略)」(ちp.338)

ちょっと火をいじったぐらいのことで、(岩pp.332-33

ちょっと火いじりしたくらいのことで、(ちp.338)

家庭関係向性の概略(岩p.333

家庭関係性向の概略(ちp.339)

 これは、熟字として一般的な「性向」に直したものか。

学院では三人預っております(岩p.334

ちp.340は削除

これはもう猥雑なものなのでしょうが(岩p.334

ちp.340は「これはもう」を削除

生長期(岩p.335)

成長期(ちp.340)

 「生長」は植物のそれをいう、といった言説がいつ広まったのかは不明だが、一般的表記に直したものか。

いまもいいましたように、すこし美しすぎるので、(岩p.335)

いまも申しましたように、母親というのは、美しすぎるせいか、(ちp.340)

かえって不安になるくらいです(岩p.335)

かえって不安になることがあるくらいです(ちp.341)

ポン引(岩p.336、2箇所)

パイラー(ちp.341,342)

 中公文庫版、文芸文庫版ともども「パイラー」。初出が「ポン引」だったことからすると、あるいは「バイラー」の誤記か。国書刊行会の定本全集でどうなっているか確認していない。

初発電車(岩p.336)

始発電車(ちp.341)

 「間もなく始発が」(岩p.344)という箇所もあるので、改稿時点でこちらに揃えたのだろう。

あれは母の手にかかって、殺されたことのある子供なんです。(岩p.336-37)

あれは、母の手にかかって、殺されかけたことのある子供なんです。(ちp.342)

島北の台地パンの樹の下で苔色になって死んでいました(岩p.337)

島北の台地パンの樹の下で苔色になってころがっていました(ちp.342)

 以上2箇所は、実態に即した表現に改めたものか。

あれは、どこにおりまか。こんどの事件どういうことだったのか、よく聞いてみたいと思うのですが(岩p.338)

あれは、どこにおりましょうか。どういうことだったのか、よく聞いてみたいので(ちp.343)

巣箱の穴のようなさなから(岩p.338)

巣箱のような窓から(ちp.343)

太郎、水を汲んでいらっしゃい」(岩p.339)

太郎さん、水を汲んでいらっしゃい」(ちp.344)

おどおどして、母の顔色ばかりうかがうようになった(岩p.339)

おどおどしながら母の顔色うかがうようになった(ちp.344)

当り」

 と太郎は心のなかでつぶやいた。(岩p.341)

「当り」……太郎は心のなかでつぶやいた。(ちp.346)

たった一度だけだったのにいったいから聞いたんだろう。(岩p.341)

たった一度だけだったけど、誰から聞いたんだろう。(ちp.346)

ぼくは母の顔を見るために、花売りになって母のバアへ入って行った。八時から十時までの間に五回も入った。(岩p.342)

母の顔を見るために、花売りになってそのバアへ行った。八時から十時までの間に、五回も入ったことがある。(ちp.347)

それは誤解……ぼくはアルバイトなんかしていたんじゃない。(岩p.343)

それは誤解……アルバイトなんかしていたんじゃない。(ちp.347)

 以上2例は、地の文でやや過剰にあらわれる「ぼく」を極力排除しようとしたものか。

それはたいへんなまちがいだった。(岩p.343)

それはよけいなことだった。(ちp.347)

その運転手

「知らなかったら、教えてやろう。こんなにするんだぜ」(岩p.343)

その運転手

「知らないなら、教えてやろう。こんなふうにするんだぜ」(ちp.348)

汚ない、汚ない、汚なすぎる。(岩p.343)

汚い、汚すぎる……(ちp.348)

太郎ロッカーから母の写真や古い手紙をとりだして時間をかけてきれぎれにひき裂くと、炊事場の汚水溜へ捨てた。(岩p.344)

ロッカーから母の写真や古い手紙をとりだすと時間をかけてきれぎれにひき裂塵とりですくいとって炊事場の汚水溜へ捨てた。(ちp.348)

保線工夫がぼくを抱いてホームへ連れて行くと、駅員にこんなことをいっていた。(岩p.345

保線工夫が太郎を抱いてホームへ連れて行くと、駅員にこんなことをいった。(ちp.349)

 こちらは、地の文を心内文ではなく客観的記述に改めている。

警察では、正直にさえいえばゆるすといっている。言わないと罪になるぞ(岩p.345

p350は「言わないと罪になるぞ」を削除

死刑にしてください」

 だしぬけに太郎叫んだ。

死刑にしてくれ、死刑にしてくれ」

 ヨハネは、

「ま静かにしていろ」

 いって、部屋から飛びだして行った。(岩p.346)

 太郎は、だしぬけに叫んだ。

死刑にしてください……死刑にしてくれ、死刑にしてくれ」

「ま、静かにしていろ」

 ヨハネそういって、あわてて部屋から飛び出して行った。(ちp.350)

なにかうんと悪いことをすれば、だまっていても政府ぼくの始末をつけてくれる……(岩p.346)

なにかうんと悪いことをすると、だまっていても政府が始末をつけてくれる……(ちp.350)

撃鉄をひいた。(岩p.347、2箇所)

曳金をひいた。(ちp.351、2箇所)

 これは、適切な表現に改めたものだろう。

正面の壁が壁土の白い粉末飛ばした。(岩p.347)

正面の壁が漆喰の白い粉飛ばした。(ちp.351)

 この他、表記の違い(岩p.337「駒結び」:ちp.342「細結び」など)や読点の位置などの違いも複数あるが、改稿版は概して簡潔を旨としていることがわかる。また川崎賢子氏が指摘するように、「何度書き直しても、ちょっとした誤字や誤記が改まっていな」いこともあるし、「誤記にみえるものが実は巧妙なもじりであったり、パロディーの仕掛けなのかもしれない。表記の揺れにも意味があるのかもしれない」(「解説」『墓地展望亭・ハムレット 他六篇』岩波文庫2016)。だからパイラー」なども実はこのままでよいかもしれない。

 しかし厄介なのは編集サイドもミスをおかすということで、都筑によれば、「ハムレット」には長らく次のような誤植が残されたままになっていた。

 久生十蘭の傑作短篇ハムレット」では、博文館の「新青年」に最初に発表されたときからのもの、と思われるミスが、三一書房全集が出るまで、ずっと持ちこされていた。「ハムレット」の登場人物のひとりの衣裳の描写に、

パイン・ツリー・スーツ」と緑色スキー服の変り型、

 という言葉があって、全集以前はどの版も、変り型にラアンシイというフリガナがついていた。変り型を意味するラアンシイという言葉はない。これはファンシイ誤植なのだ。さいわい三一書房版の全集には、私が参画していたので、訂正することが出来て、それが最近教養文庫版にもおよんでいるが、初出かならずしも信頼できない好例であろう。(都筑道夫推理作家の出来るまで 上巻』フリースタイル2000:175-76)

 ちくま文庫文芸文庫にはもちろん「フアンシイ」のルビ有、しか岩波文庫の『墓地展望亭・ハムレット 他六篇』は、当該箇所のルビを(おそらく意図的に、だろうが)省いている。

久生十蘭短篇選 (岩波文庫)

久生十蘭短篇選 (岩波文庫)

久生十蘭: 文芸の本棚 評する言葉も失う最高の作家

久生十蘭: 文芸の本棚 評する言葉も失う最高の作家

紙つぶて―自作自注最終版

紙つぶて―自作自注最終版

推理作家の出来るまで (上巻)

推理作家の出来るまで (上巻)

*1:そのうちの1枚は、『久生十蘭―評する言葉も失う最高の作家』(河出書房新社2015)のp.87で見ることができる。十蘭はこの作品を六度(七度?)も改稿したらしい。

*2:「神奈川近代文学館」館報第139号p.4

*3:2018.1.20付「朝日新聞」三十一面(東京版)。

*4展覧会で知ることとなったのは、この単行本文庫版にも)に収められた久生幸子「あとがき」が、どうやら「婦人公論」に発表されたエセーを元にしているらしい、と云うことだ。

*5薔薇十字社版『黄金遁走曲(フユーグ・ドレエ)』(1973年刊)の解説

*6:『肌色の月』(中公文庫1975)の解説

*7最近では、『久生十蘭ジュラネスク』(河出文庫2010)に収められた。

*8:「無惨やな」と同じく『姫路陰語』に材をとっている。

*9:『久生十蘭―評する言葉も失う最高の作家河出書房新社2015所収pp.88-93「『無惨やな』について」。初出は「ユリイカ1989年6月号。

*10教養文庫版『無月物語』の解説わたしは未読である

*11:このエセーの中に「獅子文六の『八時間半』」(p.11)というミス? がある。千野氏は、同年2015年5月に復刊された獅子文六の『七時間半』(ちくま文庫)の解説担当した。

*12映画化にあたっては、作中の母親イメージが「聖母」的なものへと変更がなされており、十蘭もそれを諒承したという。

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2018-01-16 『広辞苑』第七版刊行 このエントリーを含むブックマーク

 今月12日、新村出編『広辞苑』第七版(岩波書店)が出た。ネット上では早くも、「LGBT」の語釈に誤りがある(のちに「しまなみ海道」の件も報道された。1.22記)ということで話題となっている。

 第五版の宣伝文句は「私が、/21世紀の/日本語です。」、第六版のそれは「ことばには、/意味がある。」、そして今回は、「ことばは、/自由だ。」である

 また、六版の予約特典は『広辞苑一日一語』(新書判)だったが、今回の予約特典三浦しをん広辞苑をつくるひと』(文庫判である

 まだ中身をじっくり見たわけではないが、気づいた点や、変更点などについていくつか述べておく。

 まず後ろから見て気づいたが、最後採録語が変わった。六版までは末尾が、

ん‐と‐す→むとす。「終わりな―」

という空見出しであって、作例がなかなかしゃれていたのだが、七版はその後に、

ん‐ぼう バウ【ん坊】《接尾》(多く動詞連用形に付く)そういう性質・特色をもつ人や事物。「んぼ」とも。「暴れ―」「食いし―」「赤―」「さくら―」

を追加している。

 山田忠雄ほか編『新明解国語辞典 第七版』(三省堂)は「んぼう」を見出しに立てず、「んぼ」を「『ん坊』の短呼」として採録する。見坊豪紀ほか編『三省堂国語辞典 第七版』(三省堂)は「んぼう」を見出しに立てており、次のようにやや詳しい語釈を施している。

‐んぼう[(ん坊)](造語)(1)困った性質の人を呼ぶことば。「あまえ―・あわて―・けち―・忘れ―」(2)そういう すがたや かっこう、行動(をしている人)。「赤―〔=赤ちゃん。赤いから言う〕・はだか―・立ち―・かくれ―」(3)動植物をしたしんで言うことば。「あめ―・さくら―・つくし―」(4)〔←ぬ+坊〕→ぼう(坊)[三](2)。▽んぼ。

 次に、柳瀬尚紀広辞苑を読む』(文春新書1999)の指摘に即して七版を見てみることにする。

 まず注意しておかなければならないのは、柳瀬著は五版の刊行直後に出ているが、六版でそれらの指摘に応えたとおぼしい箇所がかなりある、ということだ。

 例えば「こゆび」の項。五版の第二義は、「俗に、妻・妾・情婦などの隠語浮世風呂『おめへンとこの―も派手者はでものだの』⇔親指」となっていたが、これについて柳瀬氏は、「他の二冊(『大辞林』『大辞泉』のこと―引用者)にある身振言語としての小指の説明(小指を立てて云々ということ―同)がないのは惜しい」(p.39)と書いている。六版ではこれを受けてか、「(小指を立てて示すことから)」との注記が加えられている。

 さらに柳瀬氏は「しかし、さすが広辞苑浮世風呂(略)を引いているところが他の二冊と決定的に違う」(p.38)と記しているが、これは、先行する上田萬年・松井簡治共著『修訂 大日本國語辭典』(冨山房*1)に見える用例である。当該箇所を引く。

こ‐ゆび 小指 (名)(略)[二]つま(妻)、又は、せふ(妾)をいふ隱語。(おやゆびの對)浮世風呂三上「御新造さん中略おめへん所の小指も派手者だの」

 『広辞苑』のもとになった『辞苑』が、『大日本國語辭典』に採られた用例を多数「孫引き」していることは、新村猛『「広辞苑物語辞典権威の背景』(芸生新書1970)も「異常な短期間の過程で、多くの範を『大日本国語辞典』に仰ぎ」(p.123)と認めるところであったが、松井簡治自身もそのことを把握しており、『修訂 大日本國語辭典』の序文1939年6月)で、

国語辞典の)多くは本辭典に採録した語彙を基礎として、多少の加除修正を施したに過ぎないと言つても、誣言ではないと思ふ。根本的に多數の典籍から語彙を蒐集し、整理するといふ基礎的作業努力されたと見るべきものは、殆ど見當らない。(p.1)

と痛烈に批判している。これが『辞苑』に向けられた批判であることは、倉島長正『「国語」と「国語辞典」の時代(上)その歴史』(小学館1997)が「特に後半部分は多分に『辞苑』を意識していたとみるのは邪推というものでしょうか」(pp.246-47)と書いていることや、石山茂利夫『国語辞書事件簿』(草思社2004)がさらにはっきりと「松井の指弾のターゲットは『辞苑』とその姉妹辞書である『言苑』だったと考えざるを得ない」(p.189)と記していることなどから明らかだが、石山著によれば、語の取捨選択語釈の面では、むしろ『広辞林』や『言泉』が多く参照されているようだという。

 話を戻す。柳瀬著は、「本居長世」やポーランド政治家「ヤルゼルスキ」が『広辞苑』に立項されていないことを指摘しているが(p.23,75)、六版では二人とも加えられた(第七版ではヤルゼルスキの歿年=2014年も示された)。「(「肉球」を)立項して定義してほしい」(p.101)、「鼠害」を立項していない(p.102)という要望や指摘に対しても六版は応えている。「スリジャヤワルダナプラコッテ」の原語の綴りミス(p.106)も訂正されている。「悪太郎」の項の語釈、「たけだけしく悪強い男を人名めかして呼ぶ語」(五版)に対しては、「この『悪強い』が読めない。意味も判然としない」(p.143)と批判しているが、六版ではこの表現が「乱暴な」と書き換えられている。また、五版で新たに採録された「でくわす」に「出会す」という漢字表記しか認められていないことも指摘しているが(p.154)、六版で「出交す」が加えられた。ちなみに、現代言語セミナー辞書にない「あて字」の辞典』(講談社+α文庫1995)は、他に「邂逅す」「出逢す」「撞見す」「遭遇す」の当て字の用例を示している。

 それから、「広辞苑の『伝説的』の定義がほしい」(p.181)という要望にも六版は応えているし、(「学生語」と注記される)「シャン」「エッセン」は「すでに学生語ではないだろう」という指摘(p.193)に対しては、「旧制高校学生語」と訂することでこれに応えているし、「トマト」「たまねぎ」の語釈中の「重要野菜」(p.202)という表現も消えている。

 次に、七版で変更された点について述べる。

 こちらも柳瀬氏の指摘するところであるが、鷗外の史伝に見える語で、かつ『大辞林』や『大辞泉』が採録した「記性」「校讐」「逆推(げきすい)」「救解」「時尚」は、いずれも五版にない。六版にはこのうち「時尚」のみ採録されたが、「記性」「救解」は七版から追加されている。「校讐」「逆推」は七版にも採録されていない。

 「ゴールデンバット golden Bat」は「大辞泉のように(Golden と)大文字で示すのが正しい」(p.138)が、六版では小文字のまま。しかし、七版では“Golden Bat”と明記されている。

 細かいことだが、「じゅげむ寿限無】」の項の語釈、六版まで「雲行末」となっていたところが、七版では「雲来末」となっている。「けいたい【携帯】」の項、六版は第二義として単に「携帯電話の略」と記されていたところが、七版では「(「ケータイ」とも書く)携帯電話の略」となっている。「みみざわり【耳障り】」の項、六版は「「―がよい」というのは誤用」と記していたが、七版は項目を二つに分け、次のように処理している。

みみ‐ざわり・・ザハリ【耳触り】聞いた感じ。耳当たり。「―のよい言葉

みみ‐ざわり・・ザハリ【耳障り】聞いていやな感じがすること。聞いて気にさわること。「―なことを言うが」「―な雑音」

 「みみざわり」については、「日本語の用例拾い」を参照のこと。

 また、「にやける」は六版まで俗用に言及がなかったが、七版は第二義として、

俗に、にやにやする。「―・けた顔」

を掲げている。

 以下は、H氏に教わったことである

 まず「敷居が高い」。六版の語釈は、

不義理または面目ないことなどがあって、その人の家に行きにくい。敷居がまたげない。

となっていたが、七版では、

不義理または面目ないことなどがあって、その人の家に行きにくい。また、高級だったり格が高かったり思えて、その家・店に入りにくい。敷居がまたげない。

となっており、新しい意味を許容しているようである

 次に、「ばくしょう【爆笑】」。六版の語釈は、

大勢が大声でどっと笑うこと。「―の渦につつまれる」

であったが、七版は、

はじけるように大声で笑うこと。「―の渦につつまれる」

となっており、「大勢が」という但し書きがなくなっている。「爆笑」については、「『爆笑』誤用説」をご参照いただきたい。

 さらに、一部の字体については拡張新字体採用している。例えば六版まで「祈禱」だったのが、「祈祷」となっている。

 形の上では、「祈祷」を採用した初版に、いわば「本卦還り」したことになるが、H氏によると、

広辞苑現在、個々の漢字ごとに方針を決めているのではなく、「人名用漢字(表一)で複数字体が掲げられている字種については、簡略字体のほうを採る」という内規をもうけ、それを「表外漢字字体表」以降に人名用漢字入りした字種・字体にも適用している(適用しなくていいのに)と思われます

とのことである。『広辞苑』と(「祷」を含めた)拡張新字体との複雑な関係については、石山茂利夫『国語辞書 誰も知らない出生の秘密』(草思社2007)の第5章「国語改革熱が刻印された辞書たち(上)」をぜひ参照していただきたい。

(※文中の『広辞苑』第六版は、2008.1.11第六版第1刷を参照している。第七版の変更点と見なした諸点のなかに、第六版の増刷で微修正されたものが含まれているかもしれない。その点、どうかご諒承願いたい。)

広辞苑 第七版(普通版)

広辞苑 第七版(普通版)

広辞苑を読む (文春新書)

広辞苑を読む (文春新書)

「広辞苑」物語 (1970年) (芸生新書)

「広辞苑」物語 (1970年) (芸生新書)

「国語」と「国語辞典」の時代〈上〉その歴史

「国語」と「国語辞典」の時代〈上〉その歴史

国語辞書事件簿

国語辞書事件簿

国語辞書 誰も知らない出生の秘密

国語辞書 誰も知らない出生の秘密

*1:修訂版は1939年発行。手許のは1952.11.28刊の新装版。

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