Hatena::ブログ(Diary)

黌門客 このページをアンテナに追加

2016-09-11 文庫本で読む『菜根譚』 このエントリーを含むブックマーク

 宗助は一封の紹介状を懐にして山門を入った。彼はこれを同僚の知人の某から得た。その同僚は役所の往復に、電車の中で洋服の隠袋(かくし)から菜根譚を出して読む男であった。こう云う方面趣味のない宗助は、固より菜根譚の何物なるかを知らなかった。ある日一つ車の腰掛に膝を並べて乗った時、それは何だと聞いて見た。同僚は小形の黄色い表紙を宗助の前に出して、こんな妙な本だと答えた。宗助は重ねてどんな事が書いてあるかと尋ねた。その時同僚は、一口説明出来る格好な言葉を有っていなかったと見えて、まあ禅学の書物だろうという様な妙な挨拶をした。(夏目漱石『門』十八*1

 わたし記憶が確かならば、洪自誠/今井宇三郎訳注菜根譚』(岩波文庫)は、まだカバーがついていなかった時代初刷1975年1月刊)では青帯で、なぜか後になって赤帯に編入された。「後に」といっても、具体的にはいつのことなのかわからない。先日、1987年の第15刷*2だったか古本屋に出ていたが、それもすでに赤帯だった。

 この今井版『菜根譚』は、今春の「名著名作再発見」フェアに入っており、その帯が巻かれた本の奥付を見ると、「2016年4月26日第66刷発行」となっているから、「品切・重版未定」になることもなく、ずっと売れ続けているのだろう。たしかハードカバーの特装版*3刊行されたはずだ。

 ところでわたしが親しんだ訳本は、魚返善雄訳『菜根談』(角川文庫1955)の改版(1969刊)である。これは、今井版で「俗語語釈に優れている」(p.389)と評されたものもっとも、「男一匹…」「年増芸者もかたずママけば…」など、訳文に古めかしいところがあるものの、終始くだけた口調だから、内容が頭に入ってきやすい。

 たとえば第二条の訳は、

 しろうとは、シミのない人。くろうとは、腹黒い人。だから人間ジョサイないより、正直がよい。ネコかぶりより、ぶ遠慮がよい。(p.4)

 第二三四条の訳であれば、

 世界のものがもともとミジン人間はミジンのまたミジンからだそのものがもともとアブク、そのほかの物はアブクのアブク。なみの知恵では、悟りきれまい。(p.141)

といった具合*4。また、原文や読み下しを示してあるし、註釈もきわめて簡潔で良い。

 この魚返版、現在古本しか入手できないが、新本屋で手に入る邦訳文庫本としては、今井版のほか、中村璋八・石川力山による全訳注版(講談社学術文庫1986)、それから抄訳だが、湯浅邦弘訳(角川ソフィア文庫、「ビギナーズ・クラシックス中国古典シリーズ、2014)もある。昨年には、野口定男『世俗価値を超えて 菜根譚*5というのが鉄筆文庫に入ったが、こちらは、エセーふうの解説に主眼を置いており、全文を紹介するものではない*6

 魚返版が独特なのは、まず、于孔兼による題詞が省かれているということ*7。次に、上にあげた文庫版のどれもが本文を「前集」二二二条、「後集」一三四条(ないしは一三五条―後述)と分けて、「前集五六」、「後集一二五」、などと示しているのに対して、それらを一緒にして通番で示しているということだ。たとえば「後集一三四」(一三五)であれば、通番で「三五六」となっている。

 魚返は「解説」で、「「菜根譚」のテクストとしては、中国刊本には信頼できるものが見当たらない」(p.217)と述べ、尊経閣文庫蔵の「明刊本「菜根譚前後集二冊」(単行本)と文政重刊本とを「対照することにより、文政本の不注意による「錯簡」や、区切りの誤りを正」すことができる(p.218)ため、明刊本によって「在来日本テクストの誤りを訂正しておいた」(同前)という。文政本は、文政五年(1822)に加賀藩儒者であった林瑜(1781-1835)が刊行したものである

 今井版はその文政本を底本にしており、中村石川版は「内閣文庫*8所蔵の『遵生八牋』*9付録として収録された、覚迷居士汪乾初の明代の刊本を用い、段落区切り方もこれにしたがった」(「凡例」p.6)という。

 文政本は「遵生八牋」本の流れをくむものだが、これとは別に民国二十年(1931)の「還初同人著書二種」に収められた異本もあるという。しかし、こちらは全体を五部に分けているうえ条目の出入りも多く、別系統の本と見なすべきだから、ここでくわしく述べることはしない。

 では、文庫本間での排列の異同に関して述べることにする。

 さきに記したとおり、『菜根譚』全体の構成は「前集」二二二条、「後集」一三四条(または一三五条)で、計三五六条(三五七条から成る

 まず「前集四三」の「風恬浪静中、見人生之真境。味淡声希処、識心体之本然」は、魚返版は「文政本はこの項を彫り落としたらしく、前集の最後にくっつけている」(p.30)とする。したがって文政本に拠った今井版は、「前集四三」から「前集二二一」までが魚返本とはひとつずつずれており、「前集二二二」の位置に「風恬浪静中、見人生之真境。味淡声希処、識心体之本然」を持って来ている。

 魚返版と同じ処理をしているのが中村石川版で、「前集四三」に、「※この一段は文政刊本では前集の最後に置かれているが、ここでは定本にしたがった」(p.76)との注記がみえる。

 次に、「後集十七」である。すなわち、「有浮雲富貴之風、而不必岩棲穴処。無膏肓泉石之癖、而常自酔酒耽詩。競逐聴人而不嫌尽酔、恬淡適己而不誇独醒。此釈氏所謂、不為法纏、不為空纏、心身両自在者」という文章について、今井版は文政本にもとづき「競逐」以下を別項として立てて十八条とする。その注釈には、「内閣文庫本は此の条を前文に続けて一条としているが、底本は文意により別条とする」(p.248)とある中村石川版は内閣文庫本に拠っているから、こちらは切り出さずにそのまま一条とする。魚返版も同様で、「文政本は誤ってこの項を二つに分けている」(p.145)と注する。いずれの処理が適当なのかはいま措くが、このために今井版は、「後集」が魚返版や中村石川版に比べて一条多くなっている(一三五条)のである

 これで、排列順や項目数に「ずれ」が生じた理由がおわかりになったことと思う。

---

 『菜根譚』を読むための副読本としては、湯浅邦弘『菜根譚中国の処世訓』(中公新書2010)がある。概説書であるから、もちろん全文は収録していない。また、所々に誤記散見するので注意したい。角川ソフィア文庫抄訳本か、その他の訳本を手許に置きながら読み進めることをおすすめする。

 誤記というのは次のとおり――まずp.28に、魚返版の書名を『菜根譚』とするが、これは誤りで、上記のように『菜根談』が正しい*10

 魚返は意図的にそうしているのであって、「解説」の冒頭に、

 まず書名であるが、「譚」と「談」は同じ意味で、中国の版本にも「菜根談」としたのがあるから、わかりやすいほうの字に改めた。(p.215)

と述べている(「昭和二十八年九月」*11とあるから初版からそうしているようだ)。

 次に、湯浅氏の中公新書白文を示さず、書き下しのみ記しているのだが、その書き下しに誤記が少々ある。「前集一四二」で「人の救難する処に遇えば、…」となっているところ(p.56)は、「救難」ではなく「急難」。ソフィア文庫版は返り点をつけた白文のほか、書き下しを示していて、そちらでは修正されている(p.125)。

 また、「前集七二」で「享受も亦た涼薄なり」となっているところ(p.73)、「享受」ではなく「受享」。これもソフィア文庫版では直っている(p.82)。

 さらに、「後集一〇九」で「皆想念より造成す」とあるところ(p.242)、「想念」ではなく「念想」。やはり、ソフィア文庫で直っている(p.210)。

 条数にも注意が必要で、「善を為して其の益を見ざるは、…」を「前集一六二」(p.160、魚返版は通番一六二、今井版は前集一六一、中村石川版は前集一六二)、「機の動くは、弓影も疑いて…」を「後集四七」(p.183、魚返版は通番二六九、今井版は後集四八、中村石川版は後集四七)、「歩を進むるの処に、便ち歩を退くるを思わば、…」を「後集二八」(p.201、魚返版は通番二五〇、今井版は後集二九、中村石川版は後集二八)とする。

 湯浅氏は「凡例」で、「大阪大学懐徳堂文庫所蔵『菜根譚』(文政五年刊本をもとにした重刊本)」を底本にした旨を述べており(p.31)、「他のテキストとの照合により、文字の一部を改めた箇所がある」(同)と書いているから、あるいは上記の字句の異同も、懐徳堂本に拠ったために生じた部分があるのかもしれない。だとしても、文政本がもとになっているのなら、少なくとも「前集一六二」は、「前集一六一」とあるべき所かと思われる。

 また、「後集四七」、「後集二八」も、今井版と同様にそれぞれ「後集四八」、「後集二九」、となるはずであるしかし、「後集」の次第が、魚返版と中村石川版とによく一致するということは、懐徳堂本も「後集一七」のところで、「競逐」以下を別項として立てていないことが予想される。

 ちなみにソフィア文庫版では、「本書の凡例」で、懐徳堂本に拠ったことが述べられはするけれども、「条の区切りについては、底本を基本としながらも、他のテキストを参考にして改めた箇所がありますので、結果的には、下記の岩波文庫本と同様の区切りになっています」(p.18)と付け加えられている。岩波文庫本というのは今井である

 それから細かいことだが、漢字の読みについて一点。

 中公新書では、「貪私」(前集七八)に「たんし」(p.119)、「貪と為す」(前集六二)に「どん」(p.173)、「貪愛」(後集一〇九)に「どんあい」(p.242)とルビを振っている。ソフィア文庫版もこれと同じ。

 今井版は「貪私」が「たんし」(p.99)、「貪と為す」が「たん」(p.84)、「貪愛」が連声形の「とんない」(p.340)。中村石川版は、それぞれを「どんし」(p.115)、「どん」(p.99)、「とんあい」(p.389)とする。「トム(ン)」「タム(ン)」という字音があてがわれるべきだった透母字(次清音)の「貪」が「ドン」と読まれるようになったのは、比較的近年のことに属するが、上記の「読み分け」はそれぞれの習慣に基づくものなのだろうか。はたまた何か理由あってのことだろうか。

 つい細かいことばかり書き連ねてしまったが、『菜根譚』の副読本として、湯浅氏の『菜根譚中国の処世訓』を強くおすすめしたい。なんと云っても最大の特長は、pp.58-59、pp.101-02、pp.261-66など、新出の木簡による成果を採り入れている点にある。また、コンパクトな体裁でありながら、時代背景や典拠についてもかなり丁寧に説いている。

菜根譚 (岩波文庫)

菜根譚 (岩波文庫)

菜根談 (1955年) (角川文庫)

菜根談 (1955年) (角川文庫)

菜根譚 (講談社学術文庫)

菜根譚 (講談社学術文庫)

世俗の価値を超えて―菜根譚 (鉄筆文庫)

世俗の価値を超えて―菜根譚 (鉄筆文庫)

菜根譚―中国の処世訓 (中公新書)

菜根譚―中国の処世訓 (中公新書)

漢文入門 (1966年) (現代教養文庫)

漢文入門 (1966年) (現代教養文庫)

門 (新潮文庫)

門 (新潮文庫)

*1新潮文庫版(平成十四年改版)p.247。

*2カバーがついていた。

*3ワイド版ではない。

*4しかし、ここでわたしは、魚返の息女・昭子氏の次のような言をおもい出さずにはおれない――「とにかく彼(魚返善雄引用者)は、いつも、どの本も姿勢を正して書いた。身も心もである。読む人にはどれほど面白おかし書き飛ばしたように見えても、実は苦吟に満ちている」(「父魚返善雄の思い出」『漢文入門』現代教養文庫1966,p.218)。

*5渡辺憲司氏の「解説」によると、同書はもと「現代人のための中国思想叢書」の一冊として、1973年4月新人物往来社から刊行されたという。

*6:附言すると、今年6月には野口の『中国四千年の智恵 故事ことわざ語源202』も鉄筆文庫に入った。

*7:魚返版の拠った尊経閣文庫所蔵の単行本(後述)には、「題詞」がもともと無いという(中村石川版「解説」p.426)。つまり魚返が意図的に省いたわけではない。

*8内閣文庫現在独立行政法人国立公文書館移管されている。

*9:この「遵生八牋」には、「菜根譚」を附載するやや後期の十二冊本および十八冊本(国立公文書館蔵)と、附載しない初期の十一冊本(国立公文書館尊経閣文庫蔵)とがあるという。

*10中村石川版の「解説」も、誤って「菜根譚」とする(p.431)

*11:ちなみに、別号の「半鼓堂戯有益斎主人」が記されている。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/higonosuke/20160911

2016-08-14 「フェスティーナ・レンティ」 このエントリーを含むブックマーク

 先日、尾崎俊介ホールデン肖像ペーパーバックからみるアメリカ読書文化』(新宿書房2014)を読み了えた。「本の本」が好きな向きや、書物そのものが好きな方にもおすすめしたい好著である

 とりわけわたしの気に入ったのは、表題作ホールデン肖像―表紙絵に描かれた『ライ麦畑でつかまえて』」(pp.28-53)や、「アメリカを変えたブッククラブ―「ブック・オブ・ザ・マンス・クラブ」の過去現在未来」(pp.202-30)などであるが、巻頭の「「フェスティーナ・レンティ」ということ」(pp.10-13)を読みはじめたときに、あれっ、この「フェスティーナ・レンティ」は何かの本で目にしたぞ、という「既視感」があった。

 「フェスティーナ・レンティ」は「ゆっくり急げ」という意味で、尾崎氏のこの文章は、ペーパーバック叢書アンカー・ブックス(Anchor Books)」のロゴが「イルカの巻き付いた錨」になっている、という話から始まる。そして、次のように述べる。

 錨は「引き留める力」の象徴イルカは「先に進む力」の象徴であって、その謂わんとするところは「ゆっくり急げ」ということだったのであるラテン語で言えば「フェスティーナ・レンティ」(Festina lente)。これは元来、為政者が性急なる施策を自ら戒めるための言葉として、ローマ皇帝アウグストゥスウェスパシアヌスに重んじられたものだそうだが、これがやがて「読書の極意」とも解釈されるようになり、そんなことから、かのルネサンスの人文学者エラスムスとも親しかった出版社アルドゥス・マヌティウスもこの言葉座右の銘とするようになって、それで彼は「錨」と「イルカ」を組み合わせて図案化したものを、自分出版する「アルダイ古典叢書」のロゴとして採用したのであった。そしてその伝統が連綿と受け継がれて、二十世紀半ばのアンカー・ブックスのロゴとして再登場したというわけなのである。(pp.12-13)

 ここまで読んでようやく、ああ、とおもい当たり、柳沼重剛『語学者の散歩道』(研究社出版1991)を披く。「フェスティーナ・レンティ」の話はたしかこの本で読んだのだった。

 しかし、いくら探してもその記述が見つからない。おかしいな、わたしの覚え違いだろうかとおもいながら、尾崎著をすっかり読み了えてしまったわけであるが、後日、本の整理をしているときに、柳沼重剛『語学者の散歩道』(岩波現代文庫2008)*1が出てきたので、何気なく読み返していたところ、まさに「Festina lente」(pp.41-48)という一文が目に飛びこんできたのであった。

 わたしの頼りなげな記憶は間違っていなかったわけだが、単行本文庫版との相違を考えずにいたのは不覚であった。

 文庫版では、単行本に入っていた「田舎のねずみと町のねずみ」「クセノポンの『アナシス』」「きわめて異色な本のこと」「役者偽善者」「白鳥の歌」「はじめて暮らし英国で驚いたこと」「一万年後の東京大学あるいはポケットティッシュについて」の七篇が外され、そのかわりに、雑誌図書」に掲載された「Festina lente」「書き言葉について」「カタカナ名前雑感」(収録にあたって「カタカナ語雑感」と改題)「名前について」の四篇が加えられている。

 その「Festina lente」についてみておくと、柳沼氏は、この表現がなぜギリシア語ではなくてラテン語で言い慣わされてきたのだろうか、ということを問題にする。スエトニウス『ローマ教皇伝』「アウグストゥス」の巻には、これが、 Speude bradeos*2(スプエウデ・ブラデオース)というギリシア語で出ていたからだ。

 その後しばらくして、ラテン語の受講者から、「Festina lente」の項がエラスムスの『アダギア』(第二巻一・一)に出ていることを教えられる。柳沼氏がレクラム文庫版の節略本で当該箇所を確認してみると、エラスムスはこの表現を称賛し、アウグストゥスウェスパシアヌスという二人の皇帝がこの表現を好んだと述べていたという。

 それから

 印刷業者アルドゥス・マヌティウスがあるとき私にウェスパシアヌス銀貨を見せてくれたのだが、とエラスムスはつづける。アルドゥスはこれを人文主義者のペトルス・ベンブス(ピエトロ・ベンボ)から贈られたのだそうで、この銀貨の片面にはウェスパシアヌス肖像と VESPASIANUS という文字が、裏の面には、縁(へり)に円環、その中に錨、その錨に海豚が巻きついて帆柱のごとくに立っている図柄が刻まれている。この図柄はまさに、アウグストゥスの Speude bradeos ということばと同じ意味を表している。(略)そして今や、「錨に海豚」は、全世界の友なる印刷業者紋章になっている、と結んでいる。(p.44-45)

 今回検索して知ったのだが、この話題については福岡大の浦上雅司氏も書かれている*3。柳沼氏は触れていなかったが、「錨に海豚」の図案は、なんとヒエログリフ時代から存在したという。

 さて話を戻すと、柳沼氏は、のちに鋳造されたアルドゥスの肖像入りのメダリオンを見て驚く。その裏面の縁に、 Speude bradeos がギリシア文字で刻まれていたというのである。そして、次のように結論する。

 ひょっとしたらアルドゥスは、ウェスパシアヌス銀貨の錨と海豚についてエラスムスから説明を聞いて、感動して自分紋章にしたのかもしれない。そして「ゆっくり急げ」という文句そのものも、アウグストゥス以来ずっとギリシア語で伝えられてきて、それをエラスムスが『アダギア』で、これは Festina lente ということだと説明したのが、このラテン語の発端だったのかもしれないと思える。(p.45)

 ともあれ、わたしの「既視感」は解決されたわけで、これでようやくすっきりした。こういうこともあるから単行本文庫本とを重複して持っていても、うっかり手放せないのである

語学者の散歩道 (岩波現代文庫)

語学者の散歩道 (岩波現代文庫)

*1:柳沼氏は、この文庫版が刊行された翌月の7月永眠された。

*2:「o」はマクロン付きの「o」。以下同。

*3:柳沼重剛編『ギリシアローマ名言集』(岩波文庫)がこの表現を取り上げていることにも言及されている。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/higonosuke/20160814

2016-07-13 『学芸記者 高原四郎遺稿集』 このエントリーを含むブックマーク

 五年半ほど前のことです。「阿部真之助の本」というエントリを記した際に、書誌学者の森洋介氏が、「阿部部長による東京日日新聞學藝部の黄金時代を偲ぶ」著作の一冊として、非売品の『学芸記者 高原四郎遺稿集』(高原里子1988)という本をすすめてくださったことがありました。

 今年に入って、高原氏のご遺族の方がそのコメント欄たまたまお目を留めて下さり、当該書を譲ってくださったのでした。

 はやいもので、このブログをはじめてから十年以上の時が経ちました。その間、ブログを通じて多くの方々との出会いがありました。そのひとつひとつの御縁に、わたしはたいへん感謝しております。それに対する「恩返し」がいささかなりともできればと、そしてまた、たったひとりの読者でもいい、わたしのこの拙い文章が、どこかのたれかになにがしかの有益な情報を提供できたらいいなと希いながら、このブログを記すことが多くなりました。最近は、なかなか以前のように頻繁に更新することができなくなりましたが、たまに覗いてやって、「あいつまだ生きてるな」と確認していただけるならば、これに過ぎる喜びはありません。

 さて今回は、その『学芸記者 高原四郎遺稿集』についての話――。

---

 さる方から、『学芸記者 高原四郎遺稿集』(高原里子1988)を頂いた。東京日日新聞毎日新聞)の記者であった故・高原四郎氏の一周忌の際に、ご遺族が編んだものだ。「偲ぶ」「記者の眼」「読む 聞く―書評落語評―」「随想」の四部構成で、さらに「高原四郎年譜」、萬里子夫人による「感謝をこめて」が附いている。

 「偲ぶ」は、高原氏を知る人々による追悼文からなり、その書き手には、井伏鱒二永井龍男横山隆一、殿木圭一、椎野力、扇谷正造大山康晴小林治雄……等々、錚々たる顔ぶれが並ぶ。

 「記者の眼」以降は、高原氏の文章(それまで未公表だったものを含む)から構成されている。

 その高原氏の文章について、同書を下さった方は、書簡に「小生の好みでは 回想の帝大新聞 河合(教授)事件 脛の傷 古本の海(で) あたり/従軍コント 脛の傷 は故扇谷正造さんのご推奨でした」とお書きになっていたので、まずはそのあたりの文章から読み進めて、さらに興味の赴くまま読んでいる。

 たとえば阿部真之助に関する「阿部さんの思い出」や「死に上手だった恐妻家阿部真之助氏」、わたしの好きな獅子文六も出て来る「挿絵の思い出」、それから、「『良人の貞操』御用心」、「菊池寛先生(上)(下)」、「吉川(英治)さんの思い出」、「ポスト四天王 小三治を推す」等……。

 「脛の傷」は、さすがに扇谷が名品と評しただけあって、エッセイアンソロジーに採りたくなるほどだし、「古本の海で」はあたかも短篇小説であるかのような味わいがある。

 それにわたしは、故人の人柄を髣髴させるような文章をよむのがすきなので、高原氏の人物描写や人物評をとりわけおもしろく読んでいる。たとえば次のようなくだり――。

 かくいう私も低空すれすれの状態で本郷を出たのだった。竹田助教授からは何回も一度教室へ出てくるようにという勧告を受けた。卒業口述試験には、誰でも読めそうな漢文が読めず塩谷温教授が啞然として、君は卒業したらどうするつもりかときいた。それでもお情けでどうにか卒業ときまって、宇野哲人教授にお礼の挨拶を述べ、ちっとも勉強しないですみませんとあやまったら、いや、いや、君は新聞勉強をしたからそれでよろしい、大学というところは何かひとつ身につけて出ればそれでいいのだと、あたたかくいってくれたのは肝に銘じた。(「回想の帝大新聞」p.113)

 主任教授塩谷温先生(私は支那文学科に在籍していた)は、口述試験のとき、「卒業なさっても、東洋文学精神は忘れないように……」と念を押してパスさせてくれた。

 宇野哲人先生にも在学中の不勉強をおわびしたが、先生は「いや、大学へきて何かひとつ身につければいい。まあ君は新聞を身につけたからね」といってくれた。(「トロッコ時代」p.140)

 あるいはまた、次のような文章

 そんな関係で『集団』同人原稿がよく掲載された。高見順さんに書いてもらった記憶もある。そのころの高見さんは転向以前で、プロ文学の陣営に属していた。それらのグループのなかのひとりに林熊王という人がいた。でっぷりした感じの、そして同人のなかでも重きをなしているように思われる人間であった。その人の原稿も何度か文芸欄に出た。ところが、その林熊王が転身して、大阪漫才の作者、秋田実になったことを知ったのは、昭和十三年の暮れであった。大阪カフェーで偶然この人物に出会った。彼は大宅壮一さんといっしょであった。大宅さんは私に「これは秋田実君だよ」と紹介してくれたが、私は思わず「なんだ、林熊王さんじゃないですか」といってしまった。秋田さんは、それを例によって「あっはっはっはー」と豪放に笑いのけた。(「トロッコ時代」p.130)

 そのなか(「集団」同人引用者)に、高見順さんがいたわけである。細面のやさ男で、ヒゲづらの、林熊王などと対照的な感じであった。

 (略)その当時既に中堅作家となっていた大阪藤沢桓夫さんに手紙を出して寄稿をお願いした。

 運よく承諾の返事があって、約束の期日に原稿が届いてきた。ところが、その原稿が長すぎたのである

 五枚くらいと頼んだのが、六枚半もある。これではとても掲載しきれないので、蛮勇をふるって、その原稿適当な長さにまで削りまくってしまった。

 さらに表題のサブタイトルに「清玄君へ」とあったのだが、それではいかに字面が淋しいと感じて「獄中の清玄君へ」と「獄中の」の三字を加えた。この「清玄君」は田中清玄氏であることはいうまでもない。

 その掲載誌作家に届くと、すぐ折り返し藤沢さんから速達はがきがきた。

 いま新聞をみたが、題を勝手に直してある、まことけしからんから訂正しろというのであった。

 それから時間もすると、また速達がきた。題だけかと思ったら、内容を削っている。こんなことでは我慢ができない、この件は文芸家協会へ提訴して適当に処分してもらうと書いてあった。

 えらいことになってしまったと、私は途方にくれた。

 そこで考えたのは、藤沢さんと「大学左派」時代に面識ある高見さんたちに、このとりなしを頼もうということであった。赤門前の喫茶店に林さんや高見さんに集まってもらって、事情を話した。

 ところが、高見さんは意外に戦闘的であった。題名に手を加えたぐらいでおこるなんて、思いあがっているというのである

 田中清玄が獄中にあるのは事実なのだから、そのことを題名に書き加えて何が悪いか、それに多少削られたからといって文句いうほど、彼の文章価値あるかなど、とりなしてもらうどころか、かえって挑発的であった。

 それほど彼は闘争的であり、既に藤沢さんとは思想的立場をはっきり区別していたようであった。

 結局、林熊王さんが手紙を書いて諒解を求めてやろうということで、この喫茶店の会合は終わったが、あのおとなしそうな高見さんが、たいへん強い立場をとったことに、私は彼のシンの強さを感じとった。(「レビューガールにふられた高見順」pp.277-79)

 ちなみに秋田実東京帝大在学時、「一年上には、中島健蔵今日出海中野好夫林房雄、同年には、武田麟太郎藤沢桓夫舟橋聖一堀辰雄らの仲間がいて、ほぼ同じ世代では、大宅壮一水野成夫小林秀雄らもいた」(戸田学上方漫才黄金時代岩波書店2016:8)という*1

 それから菊池寛については、次のようなくだりなどが印象に残った。

 その底知れない知識のなかから、菊池さんは文芸春秋の入社問題をつくった。あるとき、その問題を私に示して、「うちの試験はむずかしいだろう」と得意そうであった。その難問題のなかに「橘曙覧」というのがあって、私はなにげなく「タチバナショウラン*2と読んだ。それは「ショウラン」でなく「アケミであることは承知していたが、人物さえわかればいいと思ってそう読んだのであるが、先生はそれをききとがめた。「だめだね。近ごろの大学出なんてちっとも勉強していないんだね」ときめつけた。とんだテストを受けたことであったが、もしそれを正しく読んで「江戸後期の歌人」くらいの簡単な答えをしたら、どうであったろうか。あるいは眼を細めて「君も案外知っているんだね」くらいの言葉があったかもしれない。軽率な読みかたをして、とんだ失敗をした。「酒は灘、醤油野田だね。それじゃあ酢はどこだい」と先生は私にきく。「さあ酢はね」「すわ鎌倉さ」といって、嬉しそうに笑う。そんなナンセンス問答をよくやったものである。若い芸妓を相手に「ネズミが蔵の穴から出てきて、右を向いて、左を向いたんだって、どうしてだかわかる」と質問する。女たちはガヤガヤさわいで、いろいろな答を出す。それが静まると、おもむろに「両方いっしょに向けないからだよ」といって女たちを啞然とさせて喜んでいた。二・二六事件の直後、私は大まじめな顔で先生にいった。「斎藤(実)さんや高橋(是清)さんが殺されたことをきいて、天皇はふらふらっとよろめかれたそうですね」「ふうん、そうかね」「朕は重心(重臣)を失ったって」。まんまとひっかけて、私はいい気持であった。阿部定事件についてもそういう問答の新作がたくさんできた。先生はその新作で芸妓たちをかついでは喜んでいた。酒ものまず、歌も歌わない先生にすれば、そこいらが精いっぱいの遊びであったろう。(「菊池寛先生(上)」pp.246-47)

 「橘曙覧」のやり取りでおもい出したが、平野岑一『文字は踊る』(大阪毎日新聞社東京日日新聞社、1931)に次のような記述があった。

 原敬氏の名は、「タカシ」といふのが、ほんとう(ママ)の讀み方であるが、世間では、「ケイ」といふ音讀みでとほつてゐた。濱口雄幸氏は、「ヲサチ」であるが、「ユウコウ」(ママ)でとほつてゐた。どちらも、何と呼ばれても、平氣なやうであつた。犬養毅氏は、「ツヨシ」であるが、これも「キ」で聞えてゐる。本人は、別段苦にもしないやうである。しかし、名前を讀みちがへられると、憤慨する人もある。

 法學博士末弘嚴太郎氏は、スポーツ仲間では、「ガンチヤン」でとほつてゐたが、これは、「嚴」を「巖」と取りちがへたものらしい。氏は、ある學生が、「末弘ゲンタロウ先生」(ママ)といつたので、叱りとばしたといふ話がある。ほんとうは、「ゲンタロウ」でもなく、「イヅタロウ」といふのである。(p.210)

 また平野といえば、『学芸記者』に、大阪毎日新聞社校正部編『校正研究』(春陽堂1929)の「事実上の著者は校正部長平野岑一」(「校正恐るべし」p.403)とあった。ちなみに平野は、同書の序文を書いている*3

 最後に、獅子文六については次のようにある。

 ある日、例によって随筆を頼みに文六さんの家を訪れたとき、私の顔を見るなり「おい、とうとう朝日から小説の注文がきたよ。おれはニチ(東京日日新聞―現毎日新聞)の方が先にくると思ってたんだがね」といった。その当時、新聞小説舞台に出るのはごく選ばれた作家に限られていた。文六さんはそれ以前に、報知新聞に『悦ちゃん』を連載して好評を博した経験者であり、当然注目される作家ではあったが、自分自身でも必ず大新聞から依頼があるものと、心のなかでは自信を持っていたらしい。そしてついにその機会を得たというわけであったが、できれば東日の方が自分の気風にあっていると思っていたように思われた。私は競争紙に先手をとられてくやしかったが、それはそれとして「よかったですね。御成功を祈りますよ」といった。朝日の夕刊一面に出たその小説は『達磨町七番地』であった。調べてみると、昭和十二年の作品とあるが、その話をきいたのは、その前年の暮ごろではなかったかと思う。文六さんが毎日新聞にはじめて登場したのは、昭和十三年の『沙羅乙女であるが、そのとき私は社会部に転勤していた。

 獅子文六さんは古くからの野球ファンでもあった。戦後都市対抗野球をみてもらって、その観戦記をお願いしたことがあった。後楽園球場のスタンドにならんで観戦中、しきりに文六さんは戦前プロ野球をなつかしがっていた。巨人の沢村投手はなやかな時代のことであろう。阪神の強打者景浦がバックスクリーンに打ち込んだホームランがいかにめざましいものであったかを話してくれた。その当時の後楽園はいまみたいに満員ということはなく、食堂でビールを飲みながらのんびりとゲームがみられたという話もしていた。学生野球では出身校とあって慶応ファン、したがってアンチ早稲田であった。プロ野球アンチ巨人。「いったい、早稲田巨人ファンなんて」と痛烈にこきおろす。(「挿絵の思い出」pp.198-99)

 『沙羅乙女』連載終了前後の文六先生については、「こんなところに獅子文六」をご参照いただきたい。

 獅子文六について書かれた文章は、気がつくかぎりチェックしているが、最近では、大佛次郎『「ちいさい隅」の四季大佛次郎エッセー』(神奈川新聞社2016)にも「獅子文六」というエッセーが収められていた(pp.214-17)。1963年4月16日付「神奈川新聞」に掲載されたもの。

 大佛曰く、「文六さんの小説は、実は社会批評なのである日本日本人に対する観察なのである人間の面白さ、自分は賢いと信じている愚かさに対する批評である。また文六さんにおそらく恵まれなかったであろう底抜けで快活な人生に対する讃歌、大ぼら吹きに対する礼讃なのである」(p.216)。

上方漫才黄金時代

上方漫才黄金時代

*1:同書には、「文筆に親しみ、高見順新田潤などと同人雑誌も出した」(p.8)ともある。その「同人雑誌」が、「集団」をさすと思われる。

*2ママ、「ショラン」ではなく。

*3わたしはこの『校正研究』を持っていないが、改訂版大阪毎日新聞社『文字と鬪ふ』(1940)を所有している。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/higonosuke/20160713

2016-05-26 「爆笑」誤用説 このエントリーを含むブックマーク

 岡本喜八『にっぽん三銃士 おさらば東京の巻』(1972東京映画)という映画のなかで、小林桂樹岡田裕介との間に次のような会話が交わされる。

岡田 まあ、すさまじきものは宮仕えってことです

小林 すさまじきじゃないよ、すまじきものは宮仕えだよ。それがどうした?

小林 華燭の宴*1! カッ、近頃の若い者はこんな字も読めんのか

岡田 こんな字、当用漢字にないはずですがね

小林 あ…あるはずだ!

岡田 三階に部屋なし

小林 違う違う、三界に家なしだよ!

 原作五木寛之著)は未読なので、このようなやり取りがそこにあるのかどうか分からないが、こういった個人的思い込みに基づく誤用誤読を指摘するのは容易なことである

 だが、しばしば「誤用」といわれる表現なかには、よくよく調べてみると、実際にはそうとは言い切れなかったり、むしろ実はそれこそが「正用」だったりするものがある。

 「爆笑」などは、その最たる例である

 この「爆笑」、近年の国語辞書類の語釈ではどう説かれているのかというと……(以下の引用では、符号の形を改めたところがある)。

ばくしょう【爆笑《名・ス自》大勢が大声でどっと笑うこと。(『岩波国語辞典【第七版】』岩波書店2009)

ばく-しょう【爆笑―セウ《名・自サ変》大勢が声をあげていっせいに笑うこと。「聴衆から―が起こる」「会場の―を誘う」「―王」>弾けるように笑う意から。[表現]近年、一人で大声を上げて笑う場合にもいう。(『明鏡国語辞典【第二版】』大修館書店2010)

ばくしょう ―セウ【爆笑―する(自サ)おかしな話を聞いて、その場に居る人が一斉にどっと吹きだすようにして笑うこと。(『新明解国語辞典【第七版】』三省堂2012*2

爆笑〈・・セウ〉(物がはじけるように)人々が一斉にどっと大声で笑う。「―のうず」(『岩波新漢語辞典【第三版】』岩波書店2014)

 すこし遡って、『新版国語辞典』(講談社学術文庫1984)から

ばくしょう【爆笑(名・サ変自)大ぜいでどっと笑うこと。

 以上の如く、判で押したように、「『大勢で』笑うこと」または「『一斉に』笑うこと」、となっている。『明鏡』のみ、「一人で大声を上げて笑う場合にもいう」と記しているものの、それは「近年」の用法であるとみている。

 ところが、『三省堂国語辞典【第七版】』(三省堂2014)を引くと、次のようにある。

ばくしょう爆笑](名・自サ)ふき出すように大きく笑うこと。「さむらいが大口をあけて―した・会場が―のうずになる」〔笑う人数が問題にされることが多いが、もともと、何人でもよい〕

 「もともと、何人でもよい」。つまり、大笑いしているのであれば、大人数ではなくたった一人でも誤りではない、ということである

 この注釈はいかにして追加されるに至ったか。種明かしは、飯間浩明三省堂国語辞典のひみつ』(三省堂2014)でなされている。飯間氏は次のように述べている。

 テレビで言われることはすぐ広まります口コミで、ツイッターで、「『爆笑』は大人数で笑うことらしいよ。知らなかった」と、ごく軽い気持ちで伝えられます

 実際には、話を伝える本人も、周囲の人々も、それまで「爆笑」をひとりの場合に使っていて、べつに何の不自然さも感じなかったはずです。長年違和感がなかったのに、ちょっとテレビで言っていることを聞いただけで、あっさり「自分は間違っていた」と認めてしまうのは、いささか早計というべきです。

 「爆笑」は比較的新しいことばで、昭和時代に入ってから一般化したものと考えられます。その当初からひとりで笑う例はありました。(pp.38-39)

 そして、直木三十五の「(ひとりで笑う)爆笑」の使用例(1929年)を示している。

 しかし「爆笑問題が根深いのは、上記のように多くの国語辞典が「爆笑」=「大勢で笑うこと」、と明記しているからである。飯間氏は、その記述が『辞海』(1952年)あたりまで遡ると見て、「『爆笑』の意味がそのように(大勢で笑うというように―引用者)変化したからではなく、辞書編纂者の不注意ないし誤解によるものだったと考えられ」る(p.40)、と結論している。

 そこで、『三国』の第七版では、「ひとりで笑う例、大勢で笑う例を仲よく並べ、さらに注記を添えて、どちらでも使えることを示し」た(同前)わけである。「比較的新しいことば」といいながら、わざわざ「さむらいが大口をあけて―」という作例にしているのが面白いが、それはともかく、「爆笑」=「大勢で笑う」説には何の根拠もないことになる。

 また神永曉『悩ましい国語辞典辞書編集者だけが知っていることばの深層』(時事通信社2015)は、徳川夢声漫談集』(1929年から「ひとり笑い」の「爆笑」の例を拾っている(pp.208-09)*3

 恥ずかしながら、わたしも以前、「爆笑」は「大勢で笑う」義だと信じて疑わなかったクチで、四、五年前のさるコラムに「爆笑はもともと『万座爆笑』などといって大勢で笑うことを意味した」、と書いたことがある。

 ちなみに小谷野敦氏は、『頭の悪い日本語』(新潮新書2014)で、

 これは最近知ったのだが、(「爆笑」は―引用者)大勢でどっと笑うことらしい。私も他と同様、一人でも「爆笑」を使っていた。だが、思わず弾けるように一人で笑ってしまうこともあって、そういう時は何と言えばいいのだろう。(p.27)

と書いているが、「そういう時」にも「爆笑」を使って差し支えない、ということになる。

---

 青空文庫で探ってみると、「爆笑」=「ひとりで笑う」例がいくつも見つかりました

 「全然〜ない」や「銀ブラ」(「銀座ブラジルコーヒーを飲む」に由来する、という俗説)、この「爆笑」など、俗説がひとたび「正用」として広まってしまうと、後々改めるのに、たいへんな労力を要することとなります

 関連記事として、「言葉の正しさ?」「『全然〜ない』の神話」を挙げておきます。あわせてご参照くださいましたら幸いです。

岩波 国語辞典 第7版 普通版

岩波 国語辞典 第7版 普通版

明鏡国語辞典 第二版

明鏡国語辞典 第二版

新明解国語辞典 第七版

新明解国語辞典 第七版

岩波 新漢語辞典 第三版

岩波 新漢語辞典 第三版

国語辞典 改訂新版 (講談社学術文庫)

国語辞典 改訂新版 (講談社学術文庫)

三省堂国語辞典のひみつ

三省堂国語辞典のひみつ

悩ましい国語辞典 ―辞書編集者だけが知っていることばの深層―

悩ましい国語辞典 ―辞書編集者だけが知っていることばの深層―

頭の悪い日本語 (新潮新書)

頭の悪い日本語 (新潮新書)

*1:手許のメモによれば、「華燭の典」ではなく「華燭の宴」。

*2:手許に第三版(1981年刊)が有るので見てみたが、全く同じ語釈であった。

*3:そういう古い確例を拾いながらも、神永氏は、「爆笑」=「大勢が一度に笑う」というのが「本来意味であると捉えている。

甕星亭主人甕星亭主人 2016/05/27 22:46  何時の間にか、爆笑の語義が変わってたのですね。 TVプログラムを視無い所為か一向に気付きませんでした。 一同爆笑したって態々云わなく良いのか。 時勢に遅れてるのを痛感しました。

higonosukehigonosuke 2016/05/28 23:25  コメント下さり、ありがたく存じます。語義が変わったというより、人為的に歪められてしまっていた、とでもいうべきでしょうか。
 しかしわたしも、俗説の紹介に荷担したという意味で、責任を感じております。

2016-05-08 藤枝晃『文字の文化史』/聖徳太子 このエントリーを含むブックマーク

 藤枝晃の『文字文化史』は、「文字漢字好きのバイブル」ともされ、これまでに岩波書店単行本1971年刊)、岩波時代ライブラリー版(1991年刊)、講談社学術文庫版(1999年刊)、と何度か形を変えて世に出ている。だが、現在はいずれも絶版もしくは版元品切である

 わたし学術文庫版が刊行された際にこれを求め、センター試験直前だというのに夜更かしして読んでいた記憶が有る*1。その後、同時代ライブラリー版も購い、同好の士には、事あるごとに一読をすすめている。

 同時代ライブラリー版のあとがきに、「アカデミーフランス学士金石文アカデミーのこと)は、この小著を私の一生の仕事ダイジェストと見なした模様である」(p.292)とあるが、事実、このことは、小題のつけ方からもうかがい知れる。たとえば、「長城のまもり」(同時代ライブラリー版p.90)というのは、藤枝による雄篇(1955)と同じタイトルである。その論考は、「森鹿三教授主宰の居延漢簡研究班の主力メンバーとして執筆した」もの(礪波護「藤枝先生の学恩」『京洛の学風』中央公論新社2001所収:48)で、「系統的史料整理の方法とその有效性を提示した」(籾山明『秦漢出土文字史料研究形態制度社会―』創文社2015:338)などと評される。

 『文字文化史』の副読本としては、藤枝晃『敦煌学とその周辺』(ブレーンセンター1999)が挙げられる*2藤枝自身の「コディコロジー」(codicologie)*3確立など、「その後」の進展が述べられている。

 さて先日、「聖徳太子研究最前線」というブログの、「三経義疏中国撰述説は終わり」や、その続篇「藤枝晃先生のもう一つの勇み足」おもしろく読んだ。

 ブログ主である石井公成氏は、敦煌学における藤枝の功績を認めながらも、彼の「三経義疏中国撰述説」を批判している。藤枝説は、『敦煌学とその周辺』の「第三回講座 聖徳太子」(pp.107-36)で(裏話も含めて)手軽に知ることが出来る。そこで藤枝は、「(三経義疏は)間違いなく渡来物です」(p.134)と言い切っているのだが、石井氏はその説を誤りとして斥けているわけである

 石井氏は、今年初めに『聖徳太子実像伝説の間』(春秋社)という一般向けの本も出されており、pp.34-36 やpp.167-73 あたりに、上掲のブログ記事で展開される話題をさらに詳しく平易に説いている。それは、「森博達氏や筆者自身を初めとする変格漢文研究の成果と、仲間たちで開発したNGSMと称するコンピュータによる比較分析方法」(p.169)に裏打ちされているから学説は印象論にとどまることがないし、説得力がある。

 個別的には、たとえば、次の指摘など興味ふかいものがある。

 ただ、三経義疏は変格漢文が目立つとはいえ、「憲法七条」および変格漢文で書かれた『書紀』β群の諸巻に多数見られる「之」を文の中止・終止の形で用いる用法が、まったく見られません。これは、文体面での重要な違いです。「憲法七条」と三経義疏を同じ時期に同じ人が書いたとは、とうてい考えられません。(p.173)

 また、聖徳太子の別名「厩戸王(うまやとおう)」が現存史料には全く出て来ないという指摘なども面白かった。ということは、

 なお、(蘇我)馬子と呼んでいるが、その「子」の字は、孔子孫子と同じような尊称である。したがって名前本質は「馬」となる。一方の厩戸皇子も「うまやと」で、また厩戸の娘も「馬屋古(うまやこ)女王」であり、「うま」という名前共通性も注目される。

吉村武彦『蘇我氏古代岩波新書2015:120)

という記述の後半部などは、怪しくなってくるのか知ら。

文字の文化史 (講談社学術文庫)

文字の文化史 (講談社学術文庫)

京洛の学風

京洛の学風

敦煌学とその周辺 (対話講座なにわ塾叢書)

敦煌学とその周辺 (対話講座なにわ塾叢書)

聖徳太子: 実像と伝説の間

聖徳太子: 実像と伝説の間

蘇我氏の古代 (岩波新書)

蘇我氏の古代 (岩波新書)

*1解説は、藤枝の娘婿・石塚晴通氏が担当

*2特に「第一回講座『文字文化史』のあとさき」。

*3:「古写本の材料・かたち・書き方・作り方・しまい方など、写本の内容以外の一切のことを追求してい」く(p.24学問のこと。籾山前掲の「序章」を読んで知った術語、「搬送体」(石上英一の造語)とも重なり合う概念であろう。

森 洋介森 洋介 2016/05/09 23:41  『敦煌学とその周辺』は、一九九九年三月刊行の201ページの版と同年十二月刊行の202ページの版とがあること、CiNiiで確認されます。後者を所有する友人によると、石塚晴通氏による編集後記が201ページから202ページにかけて記され、前者が非売品であった事と、誤記を訂正し寫眞を一部差し替えた旨が書かれてゐる由。
 藤枝晃先生追悼文集刊行会事務局編『藤枝晃』(自然文化研究会、二〇〇〇年六月)を二〇一三年に讀んだことがあり、聖徳太子の功業を否定するやうな研究への抵抗は、京都や奈良のやうな寺や信者の多い地域では想像以上であると思ったことが記憶に殘ってゐます。

higonosukehigonosuke 2016/05/11 01:38  どうも有難う御座います。私が持っているのも、一九九九年十二月刊行の編輯後記が附いた版です。そこで石塚氏は、「第三回講座(聖徳太子―引用者)以降分は(略)内容的にもその後の学界の進展から見て如何かと思われる部分を含み、公表にはいささかのためらいも伴った」(p.201)と書かれています。ここ十数年間における聖徳太子研究の進展も考慮されてのことでしょうか。
 ところで本文中には、石塚氏による註釈が時折挟まれています。たとえば「奈良時代の日本には仏教の注釈書が全くない」という藤枝の発言に対しては、「これは言い過ぎであり、奈良時代後期には日本撰述の注釈書が確実に著作されている」(p.124)、とあります。
 ご紹介下さった『藤枝晃』は未見でした。興味を引かれるところです。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/higonosuke/20160508

2016-04-25 「二銭銅貨」「心理試験」のことなど このエントリーを含むブックマーク

 年明けに「江戸川乱歩「二銭銅貨」と点字とビブリア古書堂」(「くうざん、本を見る」)を拝読しておおいに触発され、このところ、乱歩の初期作品をちびちび再読するなどしていた。

 青空文庫版「二銭銅貨」の底本たる光文社文庫全集本(第一巻『屋根裏散歩者』)は、前掲ブログにあるように平凡社全集(S.6)に基づくが、末尾の校異(山前譲「解題」)はテキスト全体の異同について、「初出(T12.4「新青年」)、初刊本(T14.7春陽堂創作探偵小説集第一巻『心理試験』)、平凡社全集(S6.6『江戸川乱歩全集』第一巻)に大きな異同はない」(p.653)と述べ、また点字部分については、「桃源社全集(S36.10江戸川乱歩全集』第一巻)では点字暗号を訂正して書き改めている。本書もこれにならった」(同上p.654)とあるのみで、それ以上詳しいことは書いていない。

 点字暗号改訂に関しては、今野真二リメイク日本文学史』(平凡社新書2016)によれば次のようである

 なお、「二銭銅貨」では暗号点字がかかわっているが、初出時(『新青年』発表時)には点字に関する誤りがあり、桃源社版の『江戸川乱歩全集』(一九六一年〜一九六三年)においてそれが訂正された。しかし、その後に読者からの指摘で、点字部分について、再び『新青年』に拠るようになったために、また点字に関する誤りがいわば「継承」されてしまうことになった。このことについては『日本探偵小説全集2 江戸川乱歩集』(一九八四年、創元推理文庫)の戸川安宣の「編集後記」に述べられている。現在入手しやすいものとしては、『江戸川乱歩傑作選』(昭和三十五年発行、平成元年四十八刷改版、平成十七年八十八刷、新潮文庫)が桃源社全集踏襲している。例えば、この『江戸川乱歩傑作選』の二八〜二九頁に示されている点字の解読表は、リライト版が二四八〜二四九頁に示す解読表と異なる。例えば「チ」と対応する点字の形が異なっている。こうしたことも広い意味合いでの「書き換え」にあたる。乱歩は自らの誤りに気づいてそれを訂正=書き換えたが、それがまた第三者の手によって、「誤り」のかたちに引き戻されたことになる。そして、点字を自ら読むことができない多くの読者はそのことに気づかない。(p.181)

 戸川保宣「編集後記」は今ただちに参照できないので、ちょっとわかりにくいが、「読者からの指摘」とは、乱歩自身による訂正を訂正だとは思わずに(別のテキストと比べるなりして)誤植と解した「指摘」、ということを意味するのだろう。

 次に『江戸川乱歩傑作選』を見てみる(手許のは「平成二十一年四月二十日 九十三刷改版」で、頁数だとpp32-33となる)。今野氏によると「桃源社全集踏襲し」たとのことであったが、これは「くうざん、本を見る」において「新たな異文」とされたもの、すなわち拗音の扱いを、

イ段音の仮名点字 + ヤ行音の仮名点字

とするもので、前掲ブログにあるとおり、『日本文学 100年の名作1 夢を見る部屋』(新潮文庫2014)に出ているものと同じだ。

 見かけ上は、オリジナルから拗音符を抜いた形だが、kuzan氏によれば「改訂方式から修正と考えた方がよい」ということになる*1。『日本文学100年の名作』所収のものは、恐らく、同じ新潮文庫の『江戸川乱歩傑作選』をそのまま引き写しているのだろう。しかし、作中には「点字五十音、濁音符、半濁音符、拗音符、長音符、数字などが、ズッと並べて書いてあった」とあるのだから、拗音符を無視してしまうと、文章理解にも影響が出て来ることになりはしまいか

 また、今野前掲の文中に「リライト版」とあるのは、「少年探偵 江戸川乱歩全集」(ポプラ社)の第37巻『暗黒星』所収版(1971)をさす。リライト氷川瓏(渡辺祐一)が行っているとされる。このポプラ社版もいま手許になく、直ぐには参照できない。よって確かなことはいえないのだが、上引に「「チ」と対応する点字の形が異なっている」とあるのは、正確にいうと、「「チ」に対応する部分が拗音符の点字に改められている」ことだと解せそうである

 さてそこで、「新たな異文」の出現がどこまで遡れるのか、にわかに気になってくるわけだが、角川文庫版『D坂の殺人事件』(2016)*2所収の「二銭銅貨」もこの形になっている。いや、実はもっとひどくて、解読のためのキーワードとなる「南無阿」「弥陀仏」が、全て「左縦書き」ではなく「右縦書き」に改められてしまっている。すると、たとえば「コ」「カ」は、反転してそれぞれ「タ」「ヤ」になってしまう。文中でも、登場人物松村が、わざわざ「今、南無阿弥陀仏を、から始めて、三字ずつ二行に並べれば」云々と言っているにもかかわらず、である

 角川文庫の拠っているのは、旧版角川文庫一寸法師』(1973)所収のものらしい(例の水色の背の文庫だろうが、『一寸法師』は持っていなかったと思う)。だとすれば、この「異文の異文」は四十年以上前から存在していることになるが、本当だろうか。あるいは、この度の新版が書き改めたものか。

 いずれにせよ、「新たな異文」は『江戸川乱歩傑作選』(1960年旧版から?)や角川文庫版『一寸法師』(1973)などにも見える形であるらしい。

 ついでに、最近出たものをいくつか見ておくことにしよう。

 たとえば岩波文庫所収版(千葉俊二編『江戸川乱歩短篇集』2008)pp.28-29に掲げられる点字暗号は、オリジナルのものである。底本は初出誌(T12.4)に基づいており、なおかつ、「平凡社全集版と校合」したために、点字が改められることはなかったわけである。昨年改版された、春陽文庫版(江戸川乱歩文庫心理試験』所収)pp.76-77も、『江戸川乱歩全集』(春陽堂昭和29年昭和30年刊)を底本としているからオリジナルのままである

 一方、『桜庭一樹江戸川乱歩傑作選 獣』(文春文庫2016)所収版pp.32-33は、光文社文庫全集版を底本としているから修正後の形となっている。

---

 この1月に、NHK-BSプレミアムで「シリーズ江戸川乱歩編集 1925年明智小五郎」が放送された。「D坂の殺人事件」(1.11放送)、「心理試験」(1.23放送)、「屋根裏散歩者」(1.24放送)の全三話で、三篇とも、明智を満島ひかりが演じていた。

 これまでの映像作品では、小林少年女性が演じたことは有ったが(実相寺昭雄『D坂の殺人事件』1998の三輪ひとみ*3)、女性が明智に扮したのは初めてではないか。いずれも「ほぼ原作どおり」の映像であるとうたっている。たとえば『D坂』は、明智と「私」とが谷崎潤一郎「途上」の話をすることなどはカットされているが、会話や展開などはほぼそのままであった。

 満島以外も配役に凝っており、『D坂』の「私」は“アーバンギャルド”の松永天馬、古本屋のおかみに中村中(その手があったか!)、小林刑事には、「平泉成」の物まねで知られる末吉くん。『心理試験』の蕗谷清一郎は菅田将暉*4笹森判事田中要次下宿の老婆に嶋田久作*5。そして『屋根裏』の郷田三郎は篠原信一役者ではないので台詞はほとんどなし)。

 選曲面白くて、『心理試験』には、ダリオ・アルジェントサスペリアPART2*6挿入曲子守唄)「スクール・アット・ナイト」や、欧陽菲菲「恋の追跡」、丸山圭子「どうぞこのまま」が使われているし、『屋根裏』には尺八アレンジの「Take5」が流れる。

 ただし演出は凝り過ぎていて、『D坂』ではまだましだったのが、『心理試験』、『屋根裏』、と回を追うごとに過剰となり、たとえば『心理試験』のラストで、菅田・満島・田中の三人が「ワーーッ」と叫び合う展開など、あまり感心しなかった(というか、わかりにくかった)。

 ディテールにいろいろ注目して見ていたのだが、『心理試験』で、字幕とともに、

「辞林」の何万という単語ひとつ残らず調べてみて、少しでも訊問されそうな言葉を書き抜いた。(菅田によるナレーション

という件が出て来る。しかし、菅田が実際に手に取って見ているのは金澤庄三郎編『辞林』ではなく、新村出編『辞苑』(博文館刊)であった。『辞林』を小道具として用意できなかったのかどうかは知らないが、『辞苑』は1935(昭和十)年刊だから時代が合わなくなってしまう。

 それはいいとして、これは「原文」に、

 そこで、彼は「辞林」の中の何万という単語ひとつ残らず調べてみて、少しでも訊問されそうな言葉をすっかり書き抜いた。(『江戸川乱歩傑作選』新潮文庫改版p.134)

とあるところ。この箇所にも異文があることに気づいた。

 たとえば河出市民文庫版(1951)『心理試驗』では、この箇所が、

 そこで、彼は『辭林』の中の何萬といふ單語を一つ殘らず調べて見て、少しでも訊問されさうな言葉をすつかり書き拔いた。(p.177)

というふうに、「ひとつ残らず」となっている。というよりも、むしろ「も」の有るほうが圧倒的多数で、春陽文庫版や光文社文庫版、岩波文庫版など全てこちらであったが、角川文庫版(『D坂の殺人事件』所収)が、「ひとつ残らず」となっている。この箇所は光文社文庫版の校異(「解題」)にも出てこないので、比較的新しい異文であろう*7

---

 「暗号小説」といえば、ちょうど竹本健治氏の『涙香迷宮』(講談社)を読み始めたところ。「いろは」や「あめつち」に興味を持つ向きは読むべきだろう。

 山田航氏によると、竹本氏は「いろは歌作りが趣味なのだとかで、「短歌雑誌短歌研究」二〇一三年十一月号で「いろは歌に挑戦」という特集がなぜか組まれたのだが、そこに自選いろは歌を十五首寄稿している」(『ことばおてだまジャグリング文藝春秋2016:52)という。

江戸川乱歩全集 第1巻 屋根裏の散歩者 (光文社文庫)

江戸川乱歩全集 第1巻 屋根裏の散歩者 (光文社文庫)

江戸川乱歩傑作選 (新潮文庫)

江戸川乱歩傑作選 (新潮文庫)

D坂の殺人事件 (角川文庫)

D坂の殺人事件 (角川文庫)

江戸川乱歩短篇集 (岩波文庫)

江戸川乱歩短篇集 (岩波文庫)

ことばおてだまジャグリング

ことばおてだまジャグリング

*1:「くうざん、本を見る」の記事の中ほどに、「ト」の仮名を「ソ」と誤記されているところ(二か所)があるのではなかろうか?

*2カバー絵が、アニメ文豪ストレイドッグス」とのコラボ作品だとの由。

*3:なお原作小林少年は出て来ない。

*4:劇中で蕗谷が、傲岸をもって知られた島田清次郎の『地上』を読んでいる、という演出面白かった。

*5嶋田は、実相寺昭雄版『屋根裏散歩者』1992と『D坂』1998とで明智小五郎を演じた。

*6:これは邦題で、『サスペリア』とは連続性がない。原題は“Profondo Rosso”(真紅である

*7:上に述べたように、「二銭銅貨」の点字暗号の扱いも新潮文庫版と角川文庫版とで共通していたのであった。あるいは同じ底本に拠ったのだろうか。

2016-03-28 知里真志保『アイヌ語入門』のこと このエントリーを含むブックマーク

 知里真志保アイヌ語入門―とくに地名研究者のために―』(北海道出版企画センター)という本がある。判型でいうと、「小B6判」というのだろうか、一般的新書よりもすこしだけ小さなサイズの本である。同じデザインでかつ同じ判型の本に、『地名アイヌ語辞典』『和人は舟を食う』(いずれも知里の著作)などもあるから、多分、シリーズのうちの一冊といった位置づけになるのだろう。

 この『アイヌ語入門』は、1956年6月初版が出ており、手許にあるのは2004年1月の「七刷」。現在も新本で入手できるようだ。小さな本ながら、アイヌ語音韻法則などについて詳述されており、たいへん勉強になるのだが、先覚たちへの批判には容赦がない。たとえば、「この人(Kという農学博士引用者)は大まじめで,こういうチャランケ*1をつけたのである」(p.11)、「K氏ていどのアイヌ文法の知識では」云々(p.13)、「永田方正氏は,そういうキマリのあることを知らないものから,誰も分る筈がないと思って,開音節だろうと閉音節だろうと気の向くままに -p をつけて,勝手アイヌ語地名でっちあげて知らん顔をしていた」(p.30)、などといった調子である。ちなみにそのK氏というのは、河野広道のことだと「あとがき」で明かされている(p.275)。

 『アイヌ語入門』は、岡茂雄「『分類アイヌ語辞典』と金田博士」(『本屋風情』)にもちょっとだけ出て来る。

 (『分類アイヌ語辞典』の―引用者)第一巻『植物篇』は、昭和二十八年の春先にできたのだが、その前、序文原稿を渡された時、その長大なのにまず驚き、内容を拝見して、更に目を見張ったのであった。そして、知里さんの満々たる自負もさることながら、学究の純粋さと仮借ない筆鋒に、思わず身の引きしまるのを覚えた。今にして思えば、知里さん晩年の名著といわれた『アイヌ語入門』の、あとがきのその末尾に「アイヌ研究を正しい軌道にのせるために」という、特にゴシック活字で、力をこめて表示されたその悲願が、この序文にも脈々として流れていたのである中公文庫版1983:119-20

 『分類アイヌ語辞典 植物篇』は、日本常民文化研究所から刊行されている。同書は朝日賞候補として推薦されたことがあるが、知里の師・金田一京助が、それに賛同しかねるという意見を表明したために、受賞の話はいったん流れてしまった。

 京助の非推薦理由は――『本屋風情』p.120から孫引きになるが――、

 開巻第一ページに、北海道大学先生やり玉にあげているのです。痛快には違いないけれども、開ける早々、そういうことを書いてあるものですから、困ってしまった。やり玉にあげられているのは、二人とも北海道大学では神様のように尊ばれている大先生たちです。そこで、私は、こういうのを朝日賞にしたばあい朝日新聞社だって困るだろうし、それにまた、この『植物篇』はなにぶん小さいし、引き続いて『動物篇』だの、『人間篇』だの、どんどん出るのだから、急ぐには及ばない(金田一京助『私の歩いて来た道』)

ということであったという。ここにいう「大先生たち」とは、宮部金吾、三宅勉の二人である

 岡は、京助のこの辯明に疑問を呈し、「(知里の批判は)あくまでも学問上の批判であり、アイヌ語の正確な解明を希求しているのであって、私たちはむしろ学徒の純粋性がうかがえて、清々しくさえ覚えるのであったが、どんなものであろうか。(金田一)先生は触れておられないが、この序文の中には、わずかではあるが、金田先生御著作中の植物名解についての批判も盛りこまれているのである」(p.121)と述べている。さらに、「なおまた「引き続いて『動物篇』だの、『人間篇』だの、どんどん出るのだから……」といっておられるが、その非推薦文をお綴りになる時には、どのようなものが続刊されるかは御存じなかったはずである」(同前)ともいう。

 結局、京助は「その時の御措置を気にされたものか、『人間篇』が翌年末刊行されると、まことに素早く激賞推賛された」(同p.122)ため、昭和三十(1955)年1月16日、知里に朝日賞が贈られることとなった。その授賞式や祝宴に京助の姿はなかった。

 岡のこの記述だけをみると、京助の方が大人げないように見えてしまうかもしれない。

 しかし、山内昌之弟子をねたむ師、師をそねむ弟子?―金田一京助知里真志保場合」(『歴史政治の間』岩波現代文庫2006)を読むと、一概にそうとも言えないことがわかる。

 山内氏は、京助が分類語辞典植物篇を推薦しなかったとき、知里が「先生は俺を嫉妬している」と周囲に漏らしたと記しているが、「むしろ金田一の方こそ、あれこれの嫉妬さらされたことは有名である」(p.267)と書き、藤本英夫『金田一京助』(新潮選書)や大友幸男『金田一京助アイヌ語』(三一書房)を参照しつつ、京助が周囲の嫉妬の念からアイヌ語学」の世界に閉じ込められて孤立していたことについて述べる*2

 そして、昭和二十八(1953)年に札幌で人類学会・民族学会連合学会が開かれた際、京助は特別講演を依頼されたのだが、「『知里君とのことがあるから』とさびしそうに辞退した」こと(p.271)や、周囲に和解を勧められた知里が上京時に京助のもとを訪ねた折、京助が「(息子の)春彦に電話で『知里君が来てくれたんだよ』と涙ながらに伝えたという話」(同前)、それから昭和三十六(1961)年に知里は急逝するのだが、「七十九歳の金田一は空路かけつけ」た(p.273)という話*3などを紹介する。なお、知里の授賞記念の祝宴に京助はもともと呼ばれていなかったという。

 おもうに、「断碑」の木村卓治*4を髣髴させるような知里の狷介は、アイヌ民族としての強烈な自意識に支えられたところも大きかったのだろう。

 さて『アイヌ語入門』の話に戻ると、同書には、山田秀三「知里博士の『アイヌ語入門』」という二つ折りの附録が挟みこまれている*5。それを見ると、知里の河野への批判については「これではもう悪口だ」と評してあるし、またこうも述べてある。

 知里君の恩師金田一京助先生は,先輩の評をするのに欠点は全く触れないで,長所だけを賞讃される。その愛弟子の知里さんは,先人の長所を挙げずに,欠点を拾って鋭く攻撃するだけだ。二つ足して二で割るとちょうどいいのだが。知里さんの兄貴分として何度それを説いたことだったか

 この附録には、他にも興味ふかいことが色々と書かれているのだが、ここでの紹介は控える。ただ山田は、知里の知られざる穏やかな一面も明らかにしているとだけ述べておこう。

 現在では、知里の説といえども修正を余儀なくされる部分もあるらしい。たとえば「川」を意味する「ペッ」「ナイ」*6の先後関係(成立順)について、知里は「ペッ」→「ナイ」という順を想定した*7が、これは逆で、「ナイ」→「ペッ」ではなかったか、という説が近年は有力であるそうだ(瀬川拓郎『アイヌ学入門』講談社現代新書2015:72-79)。

本屋風情 (1983年) (中公文庫)

本屋風情 (1983年) (中公文庫)

歴史と政治の間 (岩波現代文庫)

歴史と政治の間 (岩波現代文庫)

アイヌ学入門 (講談社現代新書)

アイヌ学入門 (講談社現代新書)

*1:「北海道方言で,「苦情をいう」「なんくせをつける」の意。もとアイヌ語の「ちャランケ」(cháranke)から來て,それは本來は動詞で「論弁する」「談判する」の意であるが,「弁論」「談判」というような名詞にもなる」(p.11脚注)。

*2山内氏は「正確な事実は知る由もない」、と留保してはいるが。

*3:知里が自身の死を報せてほしい人のリスト生前に作っており、そこに京助の名が入っていなかったにもかかわらず、である

*4森本六爾がそのモデルだという。

*5印刷の具合から見て、初刷ではなく後刷でつけられたものだろうが、どの時点から附録としてついているのかはわからない。

*6:知里によると、「『ペッ』や『ナイ』を単に『川』と訳することにすら問題があるのである。なぜなら,川というものに対する古いアイヌの考え方は,現代人たるわれわれのそれとはいちじるしく異っているからである。古い時代アイヌは,川を人間同様の生物と考えていた」(p.40)という。

*7山田秀三も同じ見解だという。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/higonosuke/20160328

2016-03-13 岩阪恵子選『木下杢太郎随筆集』 このエントリーを含むブックマーク

 そもそもわたしが、木下太郎に関心を抱くようになったのは、平澤一「古本屋列伝」(『書物航游』)によるところが大きい。以前にもその一部を紹介したことがあるが、重複をいとわず引いておこう。

 その次に訪ねた時、若林さん*1は折よく店にいた。こちらから名乗って、「これから宜しく」と挨拶すると、「杢太郎を探しておいでと、藤原さん*2から伺っています、こんなものはお持ちですか」と、数冊の雑誌と小冊子とを、とりだした。雑誌は『芸林諒癲戮梁莪豺罅木下太郎の追悼記事が五編ある)と『文芸』(太田博士追悼号)であった(木下太郎本名太田正雄である)。この二冊は、既に八木さん*3の店で手に入れていたが、小冊子の三冊は、聞いたこともないものであった。伊東市、杢太郎会の『小学校時代の回想』と、『木下太郎の横顔』と、『木下太郎建設経過・除幕式模様・会計報告』であった。こちらの方は、持っていませんと答えると、宜しければ、さしあげますということであった。

 その頃(昭和三十六年頃―引用者)、私は杢太郎の本を手にしない日はなく、古本屋に入れば、必ず彼の本はないかと書棚の本の背に眼を走らせた。また、雑誌など定期刊行物の杢太郎に関する記事をも集めていた。当時は、木下太郎は既に忘れられた人であった。(略)京都古本屋では、『食後の唄』は、とうとう、みつからなかった。『えすぱにや・ぽるつがる記』とグワルチエリの『日本遣欧使者記』は、少し高いのを我慢すれば手に入った。『芸林諒癲戞◆愨狭饌饗記』や『木下太郎選集』などは、五、六軒も店をまわれば、必ずあった。『日本吉利丹史鈔』が三百円であった。戦後出版された『葱南雑稿』(昭和二十一年九月発行)は、五十円か百円で、時には見切り本の中に入っていたりした。(中公文庫pp.283-85) 

 杢太郎の著作は、これまでに七冊購っている。

 まず単行本は、『支那傳説集』の精華書院版*4、およびその改訂版たる座右寶刊行會版*5、『藝林諒癲戞岩波書店)、『葱南雜稿』(東京出版)の四冊、それ以外は文庫本で、『南蛮寺門前 和泉屋染物店 他三篇』(岩波文庫)、日夏耿之介編『木下太郎詩集』(アテネ文庫)、前川誠郎編『新編 百花譜百選』(岩波文庫)の三冊――で、計七冊。共著の『五足の靴』(岩波文庫)もここに加えることができようか。

 いずれも、千円に満たない金額で入手できたことは幸だったといわねばなるまい(『支那傳説集』の二冊は裸本、『藝林諒癲戮肋線引有であるけれども)。現在、新本で手に入るのは、『新編 百花譜百選』『五足の靴』のみであろうが、これとても、いつ品切・絶版となってしまうかわからない。

 このうち最もわたしの気に入っているのは、戦後に出た遺著の『葱南雜稿』(太田正雄名義)である。同書の完成を目前にして杢太郎は長逝するが、あとを野田宇太郎が引き継いで、無事に刊行までこぎつけた。

 杢太郎自身の「序」によると、その内容は、大きく「佛印紀聞」、「學藝微言」、「燕石瑣屑」(杢太郎言葉を藉りると「心の小さい鏡の上にたまゆらに印象した、有るか無きかの物かげを危く捉へ得たままに札記したもの」)、「餘燼詩篇」の四部に分たれる。さらに附録として、「日本醫學史に於ける古方家」、「わらひ蕈(現代狂言)」、随筆「すかんぽ」(遺稿)を附す。

 なお「葱南」は杢太郎の雅号。号の由来は、「大正御宇の初、余南満に在り、職を醫學堂に奉じた。未だ心友を得ず、秋冬の夜は煢然として孤燈に對し、好んで西域の諸傳を讀んだ。天山葱嶺の南路は、若し能ふべくんば一度踏破して見たいと冀願した」(「序」三頁)ことにあるという。

 ちなみにいうと、生島遼一が「葱南先生のこと」という一篇を書いている。生島はその短文のなかで、かつては、

文人木下太郎には若干の偏見をいだき、この人の仕事に適切な敬意をはらっていなかった。チョコレートを楂古聿と書いたりする趣味は好きではなかった。この人が白秋らに先んじて手をつけたキリシタン文芸に関しても、その時代の反映を見るにとどまり特につよい好奇心をおぼえなかった。(略)鷗外の小型エピゴーネンと簡単に考え、随筆類も、学者随筆なら寺田寅彦のほうが文章もあっさりしていいくらいに思っていた。

(『春夏秋冬講談社文芸文庫:121)

吐露しているが、しかし、「伊豆伊東へ度々行くようになって、ここを郷里とする木下太郎太田正雄)に親しみをもつようになった」(同p.120)と述べる。やがて、「とかく衒学的と思った文体の抵抗もあまりな」くなり、「紀行文随筆のそこかしこに、じみながらよくかがやく眼光」を感じるようにさえなったという(同p.122)。

 生島は、『葱南雜稿』に限っていえば、夙くから愛読していたらしく、

古いことだが、私がまだ教師をしていたとき、この本(『葱南雜稿』のこと)の中の《フランスに於ける教育改革》の一部を、たしか教育課程の課目としてしゃべる講義に利用させてもらった恩恵もある。よく調べてあった。(同pp.120-21)

と記している。

 とまれこの『葱南雜稿』一冊だけでも、杢太郎の様々の貌を知ることが出来る。さきに引用したように、この書は、以前は「時には見切り本の中に入っていたりした」(平澤一)というほどであったが、わたしは約五年前、大阪のTにて800円で購った。これはまだ安いほうで、1500〜2000円の値がついているのを何度か見かけた。

 さて、かつて富士川英郎は、杢太郎随筆を好んで読み、お気に入り随筆を集めた文集の出現を「夢想」していた。

 私が年来、特に愛読しているものに、彼の独特な随筆がある。そしてそのうちでも、杢太郎がその晩年執筆した幾篇かの随筆に、私は特に傾倒しているが、それらは、

 小学校時の回想*6

 すかんぽ

 僻郡記

 残響

 研究室裏の空想

 本の装釘

 あかざ(藜)とひゆ(莧)(ママ。正しくは「あかざ(藜)とひゆ(莧)と」)

などの諸篇である。私はこの七篇を、右に列挙した順序で並べた一冊の随筆集の出現をしばしば夢想しているが、(略)いずれもえも言われぬ味わいの随筆となっているのである

 いま私は、私の空想するこの一冊の杢太郎随筆集の巻頭に、先ず「小学校時の回想」と「すかんぽ」という二篇を置きたいと思う。(略)右の二篇についで、その次に置かれるのは、「僻郡記」という随筆である。(略)

 ところで、この「僻郡記」は、前にも述べた通り、杢太郎東北教授だった頃に巡回診療に際しての見聞を記したものであるが、「残響」は彼が昭和十二年五月、東京大学医学部教授となったとき家族仙台に残したまま、単身赴任して、駿河台の竜名館に宿をとって、大学に通っていた期間に執筆された随筆である。(略)

 私はこの「残響」という随筆を昔から愛読しつづけているが、これはひとり杢太郎のそればかりでなく、一般昭和随筆文学中の白眉ひとつと言うことができるだろう。(略)

 「研究室裏の空想」は、「残響」の続篇のような趣きのある随筆であるが、その主人公日常生活なかに嵌めこまれ実験室での生活空想を述べた、これも杢太郎ならではの興趣深い随筆である

 最後の二篇、「本の装釘」と「あかざ(藜)とひゆ(莧)」(ママ)は、杢太郎晩年に著しく緊密になった雑草や草花とのかかわりあいのなかからまれたような随筆であるが、私はこのうちでは特に「本の装釘」を好んでいる。(略)

 以上の七篇で、私の空想する杢太郎随筆集は完結する。これは我国に稀れであった一人のポエタ・ドクトゥスの、いわば晩年生活記とでもいうべきものであるが、頁数にして凡そ百五十頁に近い小冊子となるだろう。さて、その表題は集中の一篇のそれを採って、『残響』と名づけたいと思う。(「木下太郎随筆*7読書清遊―富士川英郎随筆選』講談社文芸文庫:82-87)

 およそ本好きであればたれしも、このような「夢想」をいかにも愉しげに語ることに強く共感するであろうし、それがまた、読書の悦びのひとつであると思う。この七篇のうち、『葱南雜稿』に収められたのは、さきに触れた「すかんぽ」、そして「僻郡記」、「本の装釘」の計三篇である

 英郎の息・富士川義之氏によると、英郎は「いずれまとまった杢太郎論を執筆したい意向を持っていたようだが」、かなわなかったという(『ある文人学者肖像―評伝・富士川英郎新書館:157)。また「残響」は、やはり英郎が特に好んだ随筆であったらしい。富士川氏も英郎の随筆引用しながら、次のように述べている。

 (英郎は)「例えばその「残響」という絶妙随筆を読んだときなど、自分にもいつかこのようなものが書けたらと、身の程も弁えず思ったりしたものであった」(「木下太郎のこと」)という。とりわけ魅惑的だったのは、その散文のうちに、「学識と思索と詩心とが渾然と融合している」ことであった。この「学識と思索と詩心とが渾然と融合している」という杢太郎像は、杢太郎をめぐる短いエッセイ随筆のなかで数回引き合いに出されるが、これは富士川英郎にとって、自分のあるべき像としても強く意識されていたものではなかっただろうか。英郎の著作もまた、昭和四十年代以降、つまり年齢で言うと、五十五、六歳以後、「学識と思索と詩心とが渾然と融合している」という趣を多分に呈しているように見えるからだ。(同前pp.157-58)

 英郎が、「小学校時の回想」とともに架空随筆集の劈頭に置いた「すかんぽ」については、平澤一氏も興味深い一篇として紹介している。

 この時期(昭和十二年から太郎が亡くなる昭和二十年までの「第二次東京時代」―引用者)にも植物に関する随筆は、長短とりまぜて十三篇ばかりある。その中から興味深いものをあげてみよう。「銀杏とGinkgo」は、銀杏ラテン語学名の由来について記したもので、杢太郎の考証的随筆の中の佳篇である。杢太郎森鷗外の『フアウスト』および『フアウスト』考の装幀のほか、自分の著書と友人の著書おそらく二十冊位の表紙を描いている。その中の十冊位は植物を使っており、天下の草木、どれを見ても表紙の図案に見えぬものはないと戯れている。「本の装幀」(ママ)は、その一々の表紙についての苦心談である。「すかんぽ」は小学生の時、年上の友達にそそのかされて、こっそり塩を台所から盗んで、折れ口に塩をつけてたべた話から始まる。大学時代にも大学の構内のすかんぽをみつけて、たべてみたが、少年時代に感じた一種の酸味と新鮮なにおいを、もはや感じることはできなかった。次に奉天時代と第二次東京時代との植物採集、近頃始めた野草試食について語り、最後に今度幾十年かぶりに、またすかんぽをたべた話で、杢太郎最後随筆を結んでいる。(「木下太郎植物」『書物航游』中公文庫:58-59)

 英郎の「木下太郎随筆」や、この平澤氏の文章などに導かれ、「すかんぽ」はそれこそ幾度となく読み返した随筆であるが、その一方で、長らく「残響」が気になっていた。さりとて図書館で杢太郎全集を借り出そうとするほどの気は起らずにいた(というよりも図書館へ行った折にはすっかり失念してしまっているのが常だった)。

 しかし、昨秋に出た岩阪恵子『わたし木下太郎』(講談社)などを読むにつけ、「残響」を読みたい気持がむくむくと頭を擡げていた折も折、ついにこの三月、岩阪恵子氏の選になる『木下太郎随筆集』(講談社文芸文庫)が刊行された。杢太郎初の「文芸文庫」入り、しかも、初めての文庫随筆選集である

 その冒頭に収められたのは、「小学校時の回想」「すかんぽ」「僻郡記」で、これはちょうど、英郎が夢想した架空随筆集の並び順となっている。そしてその間にも幾篇かを挟みつつ、「残響」、「研究室裏の空想」、「本の装釘」、「あかざ(藜)とひゆ(莧)と」がこの順序で収録されるという、まったく心にくいばかりの演出である(岩阪氏は特に触れていないけれども、英郎の文章念頭に置かれたに違いない)。

 また、岩阪氏が『わたし木下太郎』で「いわば「残響」の姉妹篇ともいうべき随筆」(p.141)と評する「真昼の物のけ」も「残響」の直前に置かれているし、「不思議な長い題名の(略)含蓄のある面白いもの」(同p.145)という「古語は不完全である・然し趣が深い」(これは『藝林諒癲戮房められている)も末尾のほうに採られている。

 さらには、三島由紀夫が『文章読本』「附 質疑応答」のなかで、「私がいちばん美しい紀行文と信ずるのは、木下太郎氏の文章であります。私は文章によって見知らぬ他国にあこがれ、そこの国に行っても、木下氏文章を通じて物を見ているような感じさえしたのであります」(中公文庫改版p.211)と述べた上で例として引いた、「クウバ紀行」も収められている*8

---

 つい最近知ったことだが、約四年前に、平田芳樹氏と云う方がSWALLOW-DALEで、杢太郎の『其國其俗記』(「クウバ紀行」を収めている)について主に語りながら、「文庫本木下太郎随筆集』の編集企画準備が必要である」と愬えかけておられた。

 しかしこれでようやく、杢太郎のおもだった随筆文庫本で読めるようになったのだ。実に喜ばしいことである

 これからしばらくは、『木下太郎随筆集』が車中の供となることであろう。

書物航游 (中公文庫)

書物航游 (中公文庫)

葱南雑稿 (1946年)

葱南雑稿 (1946年)

春夏秋冬 (講談社文芸文庫)

春夏秋冬 (講談社文芸文庫)

読書清遊 富士川英郎随筆選 (講談社文芸文庫)

読書清遊 富士川英郎随筆選 (講談社文芸文庫)

ある文人学者の肖像 評伝・富士川英郎

ある文人学者の肖像 評伝・富士川英郎

わたしの木下杢太郎

わたしの木下杢太郎

文章読本 (中公文庫)

文章読本 (中公文庫)

*1若林正治。春和堂主人。

*2創造社の藤原富長。

*3八木敏夫八木書店主人。

*4:「世界少年文學名作集」というシリーズの一冊。第十八卷。カラー口絵は木村荘八挿絵木村所蔵のものクロス装で装幀は美しいが、惜しむらくは誤植が少なから散見する。

*5:表紙に梅原龍三郎の絵、紙装。

*6:これは、先の平澤氏の引用文中にみえる『小学校時代の回想』と同じものであろうか。

*7:初出は「海燕昭和五十九年三月号。のち『読書好日』(小沢書店1987)に収める。

*8三島が「クウバ紀行」の一節を引いていることは、岩阪氏も『わたし木下太郎』p.66で言及している。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/higonosuke/20160313

2016-03-10 『松本清張索引辞典』補遺 このエントリーを含むブックマーク

 昨年末、森信勝編『松本清張索引辞典』(日本図書刊行会)という労作が出た。清張ファンの私などにとってはよい手引きになるし、たいへんありがたいことである

 2015.12.22付「毎日新聞」2016.1.6付「中日新聞」2016.2.29付「読売新聞」にも記事が出ている。この辞典データ2015年6月1日までのもので、その後も、清張作品や清張関連書は陸続と刊行映像化されている。

 「補遺」などというのは口幅ったいことだが、同書に収録されていない刊行物のうち、気づいたものを以下に挙げておくこととしたい。

 まず、「松本清張著書・共著年次別刊行索引」の1996(平成8)年、

或る「小倉日記」伝/父系の指(新潮pico文庫) 1996.3.25 新潮社 

 1998(平成10)年、

のもの見方 考え方―私の人生観(人物文庫) 1998.6 学陽書房

 2011(平成23)年、

紅刷り江戸噂 新装版(講談社文庫) 2011.1.14 講談社

高台の家(PHP文芸文庫) 2011.7.16 PHP研究所

 2013(平成25)年、

古書ミステリー倶楽部*1 ミステリー文学資料館編(光文社文庫) 2013.10.20 光文社

 次に、「松本清張参考文献年次別刊行索引」の1980(昭和55)年、

戦後世代風景1964年以後 松本健一 1980.1 第三文明社

 1999(平成11)年、

人生は五十一から 小林信彦 1999.6(2001年文庫化) 文藝春秋

 2008(平成20)年、

古本屋群雄伝 (ちくま文庫青木正美 2008.12.10 筑摩書房

 2009(平成21)年、

文藝春秋SPECIAL夏号「映画人生を教えてくれた」(みうらじゅん「清張映画見て、わがフリ直せ」

(※この年は、清張の生誕100年にあたるが、雑誌等の特集のうちの一部はここに記した。)

 2010(平成22)年、

作家の食と酒と 重金敦之 2010.12.1 左右社

 2013(平成25)年、

図書館に通う―当世「公立無料貸本屋事情*2 宮田昇 2013.5.17 みすず書房

 2014(平成26)年、

ある文人学者の肖像―評伝・富士川英郎*3 富士川義之 2014.3.5 新書館(2016.3.13追加)

---

 他に気づいた点。p.374、「195 昭和史 松本清張と私(ビジネス社)」の著者名(渡部昇一)ヌケ。したがって「収録人名索引」に渡部氏の名がない。

---

 2015.6以降に刊行された作品で、「松本清張著書・共著年次別刊行索引」に新たに追加すべきもの

白と黒革命(P+D BOOKS) 2015.7.24 小学館

分離の時間 松本清張プレミアムミステリー光文社文庫) 2015.8.6 光文社

彩霧 松本清張プレミアムミステリー光文社文庫) 2015.9.9 光文社

詩城の旅びと(P+D BOOKS) 2015.10.6 小学館

梅雨西洋風呂 松本清張プレミアムミステリー光文社文庫) 2015.10.8 光文社

混声の森(上・下) 松本清張プレミアムミステリー光文社文庫) 2015.11.11 光文社

大奥婦女記 レジェンド歴史時代小説講談社文庫) 2015.11.13 講談社

喪失儀礼 改版(新潮文庫) 2016.3.5 新潮社

風の息(上)(P+D BOOKS) 2016.3.8 小学館

 「松本清張参考文献年次別刊行索引」に新たに追加すべきもの

芥川賞の謎を解く―全選評完全読破*4 (文春新書)鵜飼哲夫 2015.6.20 文藝春秋

この作家この10*5 本の雑誌編集部編 2015.8.20 本の雑誌社

本と読書の斜解学―本に関するコラムあれこれ*6 植沢淳一郎 2015.9.15 ブレーン

ケトル VOL.27 特集松本清張が大好き! 2015.10.27 太田出版

 他に追加すべきものもあると思う。とりあえず、いま手持ちの資料でわかるものを挙げておいた。思い出したり調べがついたりしたら、適宜更新してゆく予定である

---

 ところで「序にかえて」(森信勝)に、「没後23年を経た本年4月より「新・松本清張ミステリー時代劇」全12話の第1話「流人騒ぎ」が開始される」(p.2)とある

 番組タイトルの「新」は不要かと思うが、このシリーズは、「BSジャパン開局15周年」を記念して昨年の4月7日から放送された番組である。本放送に先立ち、3月31日に「松本清張ミステリー時代劇100%楽しむための公式ガイドブック」(司会:住吉美紀、出演:新井康弘眞鍋かをり金子貴俊八田亜矢子ほか、解説大石学)が放送された。

 そして、「流人騒ぎ」(4/7)、「七種粥」(4/14)、「役者絵」(5/5)、「左の腕」(5/12)、「大黒屋」(6/2)、「山椒魚」(6/9)、「逃亡」(7/7)、「大山詣で」(7/14)、「虎」(8/4)、「雨と川の音」(8/11)、「赤猫」(9/8)、「町の島帰り」(9/15)の順で12話が放送された。その後、10月から1カ月に2話ずつ(第3,4火曜日)のペースで再放送されており、今月でその再放送も完結することになる。

 BS放送といえば、昨年12月5日にはBS日テレが「オリジナルドラマ」と銘打って、「わるいやつら」(主演:船越英一郎)を放送した。年が明けて1月21日には、BSプレミアムで「松本清張ゼロの焦点』を読む」(出演:小森陽一橋本麻里、中村文則笠井潔華恵)が放送*7された。これに触発されて、『ゼロの焦点』を久しぶりでじっくり読み返したものである

 また今月12、13日(二夜連続)には、地上波テレビ朝日で「地方紙を買う女」(主演:田村正和)、「黒い樹海」(主演:北川景子)が放送されるので、楽しみにしている。

 テレビ朝日は、清張歿後20年の2012年にも、二夜連続で清張原作の「十万分の一の偶然」「熱い空気」を放送しており、前者でも田村正和が主演を務めている。また、一昨年の12月にも、やはり二夜連続で「坂道の家」(主演:尾野真千子)、「霧の旗」(主演:堀北真希)を放送している。こちらもなかなか見ごたえがあった。

松本清張索引辞典

松本清張索引辞典

*1:「二冊の同じ本」収録。

*2pp.186-98「『点と線』と書評役割」。

*3pp.211-16「松本清張の京水探索」等。

*4pp.89-91。

*5pp.342-49「松本清張10冊」(香山二三郎)。

*6pp.41-45「松本清張『或る「小倉日記」伝』(新潮文庫)」、pp.138-44「苦労人の文学時代昭和時代松本清張物語もの…」。

*7:「シリーズ・Jミステリーはここから始まった」第一回。第二回は横溝正史の『八つ墓村』で、今のところこの二回しか放送されていないようである

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/higonosuke/20160310

2016-03-06 『駿臺雜話』/冨山房百科文庫 このエントリーを含むブックマーク

 前回の記事引用した室鳩巣『駿臺雜話』は、享保十七(1732)年に成立したものであるが、この(確か)再版本を、四天王寺古本市だったかで端本で拾ったことがある。しかし廉価だったこともあって虫損がそれなりにひどく、披くたびにパリパリと音がするのでそのうち披かぬようになってしまい、いまは実家書庫に眠っている。

 それで『駿臺雜話』を参照する際には、森銑三の校訂にかかる岩波文庫本(1988第6刷。1936第1刷)を読むことにしている。

 ちなみに森の『讀書日記』(出版科學總合研究所1981)は、残念なことに、岩波文庫本『駿臺雜話』の出た昭和十一(1936)年の記述を丸ごと缺いているが、同書中には『駿臺雜話』が、少なくとも二箇所出てくる。

 まず、その昭和九年二月四日條、

 夜駿臺雜話を讀む。われらにはやはり事實を敍したる條々が面白し。「結解の何がし」「二人の乞兒」など、無名の人々の佳話嘉行を書ける、殊によし。將軍と老僧との問答、板倉重宗の「あれ周防こそ通らるれ」の條など、鳩巣の人の言を文語に寫すことの巧なる、敬服するに堪へたり。この種の文の技倆に於て、鳩巣は白石の下にあらず。(p.80)

 次に、同年同月十七日條、

 鳩巣の駿臺隨筆(ママ)五卷を讀む。鳩巣が少年時に彦根岡本半助宣就より兵學を授かりしなどいふこと珍し。(p.83)

 「『あれ周防こそ通らるれ』の條」というのは、巻四「燈臺もと暗し」のことだろう。しかし、「鳩巣が少年時に彦根岡本半助宣就より兵學を授かりしなどいふこと」がどの話をさすのか分らない。井伊掃部頭直孝は出て来る*1のだけれど…。

 『駿臺雜話』は断定調が多く、たとえば「神道を交へたる闇齋學」(森銑三「解題」)*2古文辞学派等を排撃したり(卷一「異説まちまち」、卷五「作文は讀書にあり」など)、伊勢物語源氏物語を「淫亂を導く媒(なかだち)」「冗長にて醜惡なる物」と評したり(卷四「つれづれ草」)するなど、かなりの「毒」を含んでいるが、森のいうように無名氏の佳話も多く、引用したい誘惑にかられるところもある。言葉に関しても一家言あるし、話題が詩評に及ぶ(卷五「詩文の評品」「一日の澤」)こともあって、なかなか面白い

 かつて新村出は、同書について「本来随筆というよりはむしろエッセイに近い名著として、室鳩巣の『駿台雑話』のごときは、私の愛誦措くあたわざるものである」(「随筆の名義」『語源をさぐる』旺文社文庫1981:268)、と書いていたことがある。

---

 森の『讀書日記』は、以前ここで紹介したことが有るが、その他にも興味深い記述が色々出て来る。過日拾い読みしていて気になったのが次の記述だ。

 富山房(ママ)の市村宏氏來訪、近く出でんとする百科文庫の計畫につきて聽くところあり。山海經などいふものを出して見たしといはる*3、わが意を得たり。十部に一二部は現代離れのした型破りの書物をも出して欲し。どこの叢書も極まりきつたるもののみ出すこと、甚だ以て面白からず。(昭和十二年十月二十七日、p.234)

 「冨山房百科文庫」はこの翌年の六月に創刊されるが、昭和十六年八月までに約一二〇冊が刊行される。しか戦争によって刊行が中断され、約三十年後の昭和五十二年四月に、「冨山房百科文庫新書判)」として新たに発刊されることになった。

 そして、「新生」百科文庫の発刊時に文章を寄せた文化人六人のうちの一人が、森銑三であった*4(以上、植田康夫出版冒険者たち。―活字を愛した者たちのドラマ』水曜社2016:245-46参照)。翌年には森の『おらんだ正月』がラインナップに加わることとなる。

 なお植田氏によれば、

この(戦前版の冨山房百科)文庫は、ふつう文庫本に比べて少し縦長で新書判のサイズであったが、契沖著、武田祐吉校註『萬葉代匠記』一、川田順校註『全註金槐和歌集』(略)などが発刊当初の書目である。(p.245)

ということだが、私の持っている『萬葉代匠記』一〜四巻(全五巻とか)は、全て一般的文庫本の判型であるしかし、戦前版の永井荷風改訂 下谷叢話』や中島孤島譯『新譯 西遊記』は新書判になっている。途中でサイズが変わったのだろうか。

 百科文庫は、戦前版・戦後版を含めて三十冊ほど持っている。今でもよく憶えているが、十三年前の春に、『完本 茶話(上中下)』を買ったのが最初だった。その後、目にする度に大体買っていて、大阪のTでエズラ・パウンド/沢崎順之助訳『詩学入門』を100円で釣り上げたときは狂喜したものであった。

 また、ここでは、寿岳文章/布川角左衛門編『書物とともに』について書いたことがある。

---

 森銑三といえば、最近中野三敏森銑三翁」(『師恩―忘れ得ぬ江戸文芸研究者岩波書店2016)をおもしろく読んだ。

 森銑三翁は齢の割には随分と背の高い人で、何時もステッキ代りのコーモリ傘を携えておられた。一寸カン高い御声で「ス」音を「ツ」と発音されたように思うが、これは三河弁だったものか。(p.27)*5

駿台雑話 (岩波文庫)

駿台雑話 (岩波文庫)

江戸の朱子学 (筑摩選書)

江戸の朱子学 (筑摩選書)

読書日記 (1981年)

読書日記 (1981年)

語源をさぐる (1981年) (旺文社文庫)

語源をさぐる (1981年) (旺文社文庫)

出版の冒険者たち。 活字を愛した者たちのドラマ

出版の冒険者たち。 活字を愛した者たちのドラマ

師恩――忘れ得ぬ江戸文芸研究者

師恩――忘れ得ぬ江戸文芸研究者

*1:卷四「大敵外になし」。

*2:ちなみに山崎闇齋は、神道で重視される「心は神明の舎」なる表現継承したそうだが、土田健次郎氏によれば、かかる表現江戸期の朱子学者たちには「特に神道に限ったものではないと観念されていたようであっ」たという(『江戸朱子学筑摩選書2014:186)。その例として土田氏は『駿臺雜話』(卷一「鬼神の徳」)を挙げている。

*3:いま平凡社ライブラリーで読める『山海経』は、結局、入らなかったのではないか。

*4:他の五人は、杉捷夫高橋義孝辻邦生中野好夫吉田秀和という。

*5:初出は「余語雑抄」『西日本新聞』2013.7.15〜16付。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/higonosuke/20160306