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gesubanchoの日記

2016-11-21 菊地/大谷本について

 これは今年の頭に書いたもので、最初は作者に送るつもりでいた。しかし、気が変わり、若干の手直しをして、直接自分のブログに載せる事にした。それらの本がないとわからない部分もあるが、私も本を図書館に返してしまったので、どうしようもないのである…

最近、菊地/大谷コンビの本を――今更ですが――いくつか読みました。『憂鬱と官能を教えた学校』と『アフロ・ディズニー』です。どちらもその絶妙な語り口を「流石だなあ」と思いましたし、特に、『憂鬱』に関しては、私はこの手のことが不得意なので(正直あまり関心がないというのもありますが)、とても勉強になりました。

けれど、間違っているところも多々あります。どちらの本も「倍音」がひとつの核となって議論を進めているのですが、肝心の倍音の構造がどういうものかかが明示されていないので、いまひとつ説得力がありません。というか、言いたい事を言うのに本当に「倍音」を持ち出す必要があるのかが私には疑問でした。そういうトピックを持ち出さなくてもあれは書けたと思います。その方が内容もシャープになったのではないでしょうか。

倍音」や「整数比」で表す音程について十分な理解がないと感じました。『憂鬱』に関しては、理論書の側面も幾らかはあると思うので、こういうことをきちんとしないと、論旨がぼやけ、結果としてどこか「読者を煙にまく」様な印象を残しかねません(恐らく、それも狙いなのでしょうけど)。

そういうことについて――『憂鬱』や『アフロ・ディズニー』に書かれていることのどこがおかしいかについて――、ひとつ文章を書こうと思いました。

それでは気になったところを拾っていきます(これでもかなりしぼりました)。版を重ねることで訂正されていることもあると思うので――私の読んだのはたぶん初版だったので――、直っていたらごめんなさい。また私にも、理解不足、勘違い、計算間違い、うっかりミス、不適切な説明等があるかもしれません。それについてはご指摘していただければと思います。

まず、『憂鬱』から。一番目は、p27の「僕らはピタゴラス音律による調律はもう使ってないけれど」というのが気になりました。ヴァイオリンチェロ等の弦楽器奏者は隣り合うふたつの弦のインターヴァルを純正の完全5度でとります。ふたつの弦を同時に弾き、その音程を聞きながら、うなりがなくなるように調弦すると、そうなります。これでチューニングすると、ほんのわずか――+2/100セント――ですが、平均律の完全5度よりもその音程が広くなるのです。例えばチェロの1弦はAにチューニングしますが、それを基準に他の3弦間の音程をそれぞれ純正の完全5度にすると、4弦のCは平均律のそれより6セント低くなるのです。セントは半音以下の微分音を表すのに考案された単位で、半音が100セントとなるので、例えばA+50はAとA#(Bb)の中間の音程になる(なのでA#−50でもよい)。

この調弦法はピタゴラス的です(英語ではピタゴラス音律を”Pythagorean tuning”と言います)。

p26の図版3も何がなんだかわかりません。ここに登場している単位は何でしょうか?セントでもないし、ヘルツだとしてもおかしい(4度と5度の平均律との差がそれぞれ+1.4と−1.4になっているのですが、セントだとそれぞれ−2と+2になるので、この対称性が気になる)。純正音階平均律音階の差が8度で0になるのは納得できますが、3度で0になるのがよくわからない。これは一体何なのでしょう?見当がつきません。出典が知りたいです。

そのあとの脚注ピタゴラス音律説明)がまたメチャクチャです。「12、9、8、6、のよっつの数が作る比率から、オクターブ、純正4度、純正5度、全音(9/8)、…」というところはもはや何を言っているかまるでわかりません。純正5度は3/2、純正4度は4/3なので、8以外ないじゃないですか?

例えば9は3の2乗に素因数分解でき、6は2×3に素因数分解できる。ピタゴラス音律を構成する比はすべて、素数2と3の倍数からなっているのです。別の言い方をすると、ある基音1に3/2をかけて作られるのがピタゴラス音律です(つまり、重要な数は2と3です)。3/2は完全5度ですが、何故そうなのかは、第2倍音と第3倍音との音程がそうだから、と説明するのが分かりやすいでしょう。ある基音の第2倍音はそのオクターブ上で、第3倍音はそれから完全5度上になる(基音からはオクターブと完全5度上)。オクターブは2/1という比で表しますが、これは基音1と第2倍音の音程です。

まず、なんでもよいのですが例えばCに3/2をかけるとGになります、これに3/2をかけるとDになる。でもこのDは最初のCから9/4の音程、つまりオクターブと長2度高くなっています。これに3/2をかけると27/8、つまりオクターブと長6度上のAになります。さらにこれに3/2をかけると81/16、2オクターブと長3度上のEになります。このへんでやめておきますが、3/2(純正5度)をかけて生まれた比(音程)で構成された音律ピタゴラス音律といいます。これまでに出てきたD、A、EはCと同じオクターブにないので、その比から1オクターブなり2オクターブを引かなければいけません。ある音程の比からある音程の比を引くには、前者の比を後者の比で割ればよい。例えば9/4からオクターブを引く式は、9/4÷2/1、になります(1オクターブは2/1なので)。9/4÷2/1=9/4×1/2=9/8、となるのでCとDの音程、ドとレの音程―すなわち全音――が算出されるわけです。27/8は27/16となり、これはピタゴラス音律の長6度です。81/16は2オクターブ引く(下げる)必要があるので、81/16×1/4=81/64となり、これが悪名高いピタゴラスの長3度になる。こうやっていくと、ピタゴラス音律からドレミファソラシド長音階)を構成することが可能になります。まずそれを書きます。

1 9/8 81/64 4/3 3/2 27/16 243/128 2/1

ド  レ    ミ    ファ  ソ    ラ      シ     ド

となります。Cに3/2をかけ続けていくと、C、G、D、A、E、B、となるのでCに対するファであるF以外はすぐに揃います。Fはどこにあるかというと、Cから2/3のところ――いいかえればFから3/2がCになる――、これを1オクターブ上げてやれば――足す時はかける、すなわち2/3×2/1=4/3となり――Fがファになるわけです。

C、G、D、A、E、Bをもう少し左右両方向に伸ばすと、

……Bbb、Fb、Cb、Gb、Db、Ab、Eb、Bb、F、C、G、D、A、E、B、F#、C#、G#、D#、A#、E#、B#、F##.......

となるわけで、ピタゴラス音律は螺旋状に進んで行くので、仮にオクターブを合わせたところで、同じ音程はふたつ存在しません。例えば、CとB#、FbとEは別の音になります。

脚注には<C、G、D、A、E、B、F#>から構成されたもの、すなわち<C、D、E、F#、G、A、B、C>がピタゴラス音律である、とありますが、これは間違っているとは言えないかもしれませんが、適切な説明ではありません。何故なら、下にずらして、 <F、C、G、D、A、E、B>から音階を構成してもよいからです(それが上に書いたピタゴラスドレミファソラシドになる)。<C、D、E、F#、G、A、B、C>はファソラシドレミファと読めるので、リディアン・モードになるのでしょう。ですが、違いはFがF#になっただけなので、Cを基音にF#の比を求めてみると、それは729/512となり、非常に複雑な比になります。4/3のほうがすっきりしていませんか? <F、G、A、B、C、D、E、F>からリディアン・モードを構成しても同じです。Bが729/512になる。

広義な意味での純正律は、整数比で表せる音程で構成された音階音律、旋法ということになるのですが、それを構成する音程は単純な整数比で表せるほど協和度が高いとされているので、なるべくそういうものを音程にとりいれようとしていたわけです。

ピタゴラス音律で構成された長音階を見ても、ミの81/64、ラの27/16、そしてシの243/128は複雑な比になっている。これを単純にしたものが所謂純正律長音階で、結果から言うと、ミは5/4、ラは5/3、シは15/8に入れ代わりました。

1 9/8 5/4 4/3 3/2 5/3 15/8 2/1

ド  レ   ミ   ファ  ソ   ラ    シ   ド

だいぶすっきりしました。ピタゴラス音律の音程を表す比はすべて(1をのぞいて)2と3の倍数から作られています。「リミット」というのは音程比に使われる素数の最大値なのですが、ピタゴラスのそれは3なので、3リミットの純正律です。3の次の素数は5。純正律長音階において、ミの5/4、ラの5/3、シの15/8にはすべて5とその倍数が使用されています。素数の最大値を5に引き上げたのです。なので、これは5リミットの純正律となる。

ところで、この純正律長音階(を構成する音程)が平均律のそれとどれくらい違うのかというと、レが+4セント、ミが−14セント、ファが−2セント、ソが+2セント、ラが−16セント、シが−12セント違う。

先に少し書きましたが、セントというのは細かい音程を表す単位なのですが、音程比やヘルツと違って、音程間が等間隔になることで、微分音が平均律からどれくらいずれているかがわかりやすくなるわけです。

例えばヘルツを用いると、440ヘルツオクターブ上は880ヘルツ、その上は1760ヘルツと倍々になっていきます。音程比もそうで、オクターブは2(2/1)、2オクターブは4(4/1)、3オクターブは8(8/1)になる。しかし、対数を用いてセントに変換すると、オクターブが1200、2オクターブが2400、3オクターブが3600になるわけです。

オクターブが1200セントなので半音は100になり、例えば純正律長音階のミは平均律のそれよりも14/100セント低いということがわかる。ちなみに、ピタゴラスのミ(81/64)は平均律のそれより8/100高く、ラ(27/16)は6セント高く、シ(243/128)は10セント高い。

比からセントへの変換の仕方は色々あるのですが――計算機の対数を使うやりかたもありますが――、単純な比だと頭で計算したほうが速い。一番てっとり早いのは、まず倍音列を頭に叩き込むことです。第16倍音くらいまでの音程の並びと各音程の平均律からのセント差を覚えておけば、大概の比はセント値に変換出来ます(17以上の素数が出てこなければ)。思いっきり省略しますが、Cを基音とした場合、第2倍音はそのオクターブ上のC、第3倍音はそのCから完全5度上のG+2、第4倍音はそのGから完全4度上のC(つまり基音の2オクターブ上のC)、第5倍音はそのCから長3度上のE−14です。3/2は第2倍音と第3倍音の音程差に等しいので、それをセントにすると702セントになる。平均律半音のセント値が100なので、その完全5度は700、それよりも2セント高いことがわかる。5/3はどうでしょう。これは第3倍音と第5倍音の音程差です。G+2とE−14、平均律の長6度は900セントですが、G+2とE−14間は884セントになります。基音であるCからの884セント上はA−16になります。

そういうことなので、P28の純正律長音階の「レが低くてミが高い」というのはおかしいと思うわけです。レ(9/8)が少し高くてミが低くならなければならない。しかし、これは誤植のような気がしないでもありません。

次に56ページからの差音の説明ですが、これは非常に雑で、なおかつ間違っています。

ドとミを鳴らすと2オクターブ下のドが鳴る、というのは合っています。ですが、これはドの1に対してミが5/4の場合だけです。

理屈はこうなります。振動数差を求める場合、5/4と1の差、すなわちミとドの差音は、高いほうの比から低い比を引くことで求められるので、

5/4−1

=5/4−4/4

=1/4、

となり、2オクターブ下のドになるのです(1/2は基音1のオクターブ下、1/4は2オクターブ下、1/8は3オクターブ下…)。もしミがピタゴラス音律のミ(81/64)だった場合、差音は違うものになります。

81/64−64/64=17/64

素数17が出てきてしまいましたが、結果から言うと、これは1オクターブと約長7度下の音です。Cが基音だったら、Db+5です。ドではありません。

平均律のそれについても計算してみました。

平均律の各音程は整数比で表せないのでヘルツの比を使って計算することになります。平均律の長3度の比を、c’とe’の周波数の比でみると(『音と音楽の基礎知識』大蔵康義 国書刊行会 p56の表をつかいました)、329.628/ 261.626となっています(まあ、平均律の長3度はすべて同じ比なのですが)。

ここからは――基音との差音を算出するには――、計算機でないとできません。まず、

329.628/ 261.626−261.626/ 261.626=68.002/ 261.626=0.259920、

とした後、3986.3136 * Log10 0.259920で計算できるのですが、話が煩雑になるので、ちょっとここでのその説明は省き、脚注に書きました(1)。

3986.3136 *-0.585160=-2332.6312

となったので、それは基音から約2オクターブ低いC+67、あるいは基音からオクターブと約長7度低い(-2400は2オクターブ下になるから、-2332はそれより約67セント高い音になる)Db−33(C#−33)であり、もしその音が聞こえるようなことがあれば、これまでに登場してきた整数比による長3度に比べて、基音に対してもっとも中途半端で不協和な音になるのではないでしょうか。いずれにしろ、これをドとは言えません(もちろん、ピアノでもなんでも多少はコンセプトとしての平均律チューニングからはすこしずれているでしょうから、このとおりにはなりませんが…)。

次の、「ドとソを弾くと、ソひくドの答えは、ソ、なんです」は完全に間違っています。答えはオクターブ下のドです。

3/2−2/2=1/2

だからです。もちろんこれも整数比音程の場合なのですが、平均律の完全5度と完全4度は純正律の3/2や4/3とかなり近いので、1/2に近い差音が出るのではないでしょうか(面倒くさいので計算はしません)。ヘルツだともっとわかりやすいです。200ヘルツに対する300ヘルツは3/2になり、完全5度、すなわちドとソになる。300−200は100なので、200の半分の1/2、オクターブ下のドです。仮に「ソとド」だとして、ドひくソでも差音はソにはならないです。

2/1−3/2=1/2

同じです。ドとソの組み合わせで、差音がソになるのはないのではないでしょうか?

p80の都節音階もおかしいです。キーボードの表で言えば、Bbではなく、Abです。Bbも使われますが(「都説音階」を脱臼させる箏の曲を作ったことがあり、その下準備として箏の譜面をいくつか読みました)、都節音階の主要な構成音ではありません。

p80のロバート・ジョンソンのところでの音程の説明がおかしなことになっていますが、これは恐らく誤植でしょう。ブルースについてはまた書きます。

これも誤植だと思うのですが、P123の、Abに対するAは増1度ではないでしょうか?G#に対するAは短2度ですが。平均律では同じ音ですが… Abに対する短2度はBbbですかね?まあこれは別にどうでもよいです。

p299の「ブルーズブルーノートっていうのは、この間やったように長調と捕まえられない、調律上の訛りであって…」というのは、確かにその通りだと思います。ですが、基準となる音律はあるはずです。ブルースのペンタトニックは、西洋の短音階から派生したそれとは別物と考えたほうが良いと思います。西洋短音階のそれは、

1、 6/5、4/3、3/2、9/5、2/1

なので、5リミットです。対して、ブルースのそれは、

1、 7/6、4/3、3/2、7/4、2/1

となり、7リミットと考えられなくはないでしょうか。5/4に関しては、使ったり、無視したりしたのでは。これは私だけが言っているわけではありません。少なくとも7thとされているものが、第7倍音由来であるということは何人かの人が指摘しています。ラ・モンテ・ヤングは、素数5が使われる音程比を西洋音楽の特徴として、自らはそれらの音程を使う事を禁じていますが、初期のブルースにおいて、黒人たちが似たようなストラテジーをとったと考えるのは(無意識的になのでしょうが)、ありえると思うのです。

第7倍音は鬼子です。それは基音より2オクターブと約短7度上の音なのですが、平均律のそれより、31セント低いので、素数7(およびその倍数)を使った音程比は平均律の音楽になれた耳にはとても調子が外れた音に聞こえるのではないでしょうか?ブルースは――少なくともそれが発生した時は――そういう音をあえて音律に組み込んだと考えたくなるのですよ。

しかも、第7倍音は聞こえます。初期のブルースマンが理論から自らの音楽や音律を作ったとは考えにくい。それは耳で聞いたものから組み立てられたのではないでしょうか。キーがAだった場合、ギターの5弦Aと4弦Dの倍音に(オクターブは違うこともありますが)上記の「ブルース・ペンタトニック」の音(および5/4と5/3)のすべてが含まれています。

もちろんこの音階の通りに歌い演奏しているわけではないでしょう。ですが――これは藤枝守さんもどこかで書いていたと思いますが――、この音階を意識しながら、それに様々なイントネーションが加えられたのだと思います。スライド・ギターやブルースハープのベンディングなんかは、7/6や7/4を含む、そういう微分音を出すために必要だったのではないでしょうか?長くなるので、これもこのへんで。

次はp327の「すべて説明してやろう。すべて説明できないと公理ではない」ですが、公理というのは証明不可能な基本前提です。私の電子辞書にはこう書いてあります。

数学で)その理論体系の出発点として、証明を要しないで真であると仮定した命題。

色々な理論体系がありますから、ひとつの公理は別の理論体系では真と仮定されない場合もあります。ですが、ひとつの理論体系の基礎にはある公理系があります。ある理論体系において、定理は公理から導き出される真理ですが、その公理系によって導き出されるので、それらも「公理」と言っていいかも知れませんが… しかし、「公理ではない」は、「定理ではない」でもなく、「理論ではない」なのでは?

p346の「自然倍音列の中に完全4度はない」や「自然物理上、完全4度はない」というのも少しおかしい。完全4度がないというのなら、完全5度もありません。ある基音の次の倍音(第2倍音、英語でいうと、2nd harmonicあるいは2nd partial。2nd overtone は第3倍音の意味になる)は基音の1オクターブ上なので、基音を基準に考えるなら、そこにはオクターブしかないことになる。

完全5度は第2倍音と第3倍音の音程であり、完全4度は第3倍音と第4倍音の音程です。長3度は第4倍音と第5倍音の音程で、短3度は第5倍音と第6倍音の音程というように、すべての音程は倍音列の中にあると言っていいでしょう――長6度は第3倍音と第5倍音、短6度は第5倍音と第8倍音の音程、減5度は(これは異論もあるのですが)第5倍音と第7倍音、その転回音程である増4度は第7倍音と第10倍音、長7度は第8倍音と第15倍音、短7度は第第9倍音と第8倍音(あるいは第10倍音と第9倍音、それか8倍音と第7倍音)、長2度は第8倍音と第9倍音(あるいは第9倍音と第10倍音)、短2度は第15倍音と第16倍音のそれぞれの音程になるといった具合に…

「完全4度は相対的な」というのは、ある意味分からないでもないです。オクターブから完全5度をひいたもの、転回音程は完全4度です。これは2/1÷3/2=4/3と説明できるので。しかし、だからこそ、この4/3は第3倍音と第4倍音の音程に対応しているのです。

ところで、3/2をひっくり返すと、2/3となり、これは基音より低い音程となる。もし、基音がCであれば、それより完全5度低いFがその音程になるのです。これは下方倍音列における第2(下方)倍音と第3(下方)倍音の音程に対応するのです。

――ここからは『アフロ・ディズニー』に関して気がついたことを書きます。

まず、p32から33の「下方倍音列=『無意識』」あたりのくだりですが、これはちょっと理解に苦しみます。下方倍音列(undertone)というのは、上方倍音列と対称的なものなので、下方倍音列単独で多調性/無調性を生み出すことが出来るなら、上方倍音列だけでもそれは可能になるので、それは上下ふたつの倍音列が組み合わさってのことだとしましょう。例えばドを基音として、「ファ」に近い音程は上方倍音列にはなかなか登場しません。つまり上方倍音に登場する音だけでは長音階も作れないことになってしまう。「ド」を基音とした場合、下方倍音列における第3倍音が「ファ」なのです。下方倍音列というのは現実には基音から発生しないものです。しかし、だからと言って、「ファ」を無意識の産物とすることはできないはずです。純正律(でも平均律でも)の長音階に「ファ」はあります。というか、ないと困るでしょう。これはどこから来たのでしょうか?「ファ」は4/3です(第3倍音と第4倍音の音程に対応する)。これを2オクターブ下げると1/3です。この1/3というのは3すなわち第3倍音と対称になっていて、上方倍音の3(3/1)と対称になる下方倍音は1/3になるのです。この「ファ」の長3度上の「ラ」は、4/3×5/4(純正長3度)=5/3、というやり方でも導出できます(「ラ」も倍音列には近い音がなかなか出てきません)。

オクターブを比で表すと1、2、4、8と倍々で数字が大きくなっていきます。それぞれ、基音、第2倍音、第4倍音、第8倍音に対応します。これと対称となる下方倍音は、1、1/2、1/4、1/8、で、1/2をかけるごとにオクターブが下がっていきます。下方第3倍音は何かというと、1/3です。1/3でも4/5でも、基音と設定された音の下のある音――分子が分母より小さい比――はチューニングによってだいたい実際の音にすることができます(とんでもなく低い音というのを除けば)。

簡単な例で説明します。ギターの4弦のDを基音とすると、純正にチューニングした場合(ハーモ二クスで合わす)、5弦のAは3/4になり、6弦のEは9/16になります。それぞれ高い弦の第4ハーモニックに低い弦の第3ハーモニックを合わせればよいのです(あるいはふたつの弦を同時に弾いて、ハーモ二クスが生み出すうなりを注意深く聴いて、うなりがなくなるようにする)。今度は、6弦のEを基音に設定すると、5弦のAは4/3になり、4弦Dは16/9になる。要するに、実際の音程は変わらなくても、音程比は設定された基音により変化するので、相対的なものと考えることもできるわけです。下方倍音にも同じことが言えます。もう一度4弦Dを基音にして、今度は7/4の音程を作ってみましょう。これは約短7度上のC−31になります(D±0の場合)。2弦のBを上げてそれはできます。4弦の第7ハーモニック(倍音)に2弦の第4ハーモニックを合わせるとC−31です。次に6弦Eを4/7に――短7度下のE+31――にしましょう。4弦Dの第4ハーモニックに6弦の第7ハーモニックを合わせればいいのです。こうしてDを基音に7/4と4/7が出来ました。ギターだと弦の数が少ないので、限定的な比しか作れませんが、複数のギターを使えば、色々な比がもっと作れるはずです。鍵は実際に聞こえているハーモ二クス(倍音)にあると思います。ハーモ二クスで演奏するのであれば、弦の太さをカスタマイズする必要は多々ありますが、多くの比、およびそれで構成された音律を弾く事ができます。先述の純正律長音階ブルースのペンタトニックは普通の弦で演奏可能です。

p69の「実在しない虚数体系が、実数体系内に生じている…」のあたりですが、これもまずいと思います。まず実数というのは虚数以外のすべての数で、負の数を含むすべての整数、分数、無理数を含みます。

−2、√2、円周率、1/5は実数です。虚数というのは、例えばxの二乗が−1になるような数、同じ数をかけてマイナスになる数です。私は数学専門家ではありません。これは通俗的数学解説書に書いてあることなのです。

下方倍音列を比で書けば、1/2、1/3、1/4、1/5…となるので、虚数どころか無理数でもなく、有利数(分数)です。下方倍音列のそれぞれの値をセントで表したとしても、それは負の数なので虚数ではありません。ある基音――比の場合は1、セントの場合はゼロ――を中心に右(基音より上の音)と左(基音より下の音)に(数)直線をひいていくと、すべての音程がここに含まれることになり、平均律の音程も当然ここに含まれますが、虚数の音程(って何だ?)は含まれません。音や音程における虚数体系とは何事を言おうとしているのでしょうか?レトリックとしてもおかしいと思います。

私は濱瀬さんの理論のことは知りません。それがどんな理論なのかは創造するしかないのですが、うーん、例えば、Cの上方第3倍音はGで下方第3倍音はFなので、CメジャーからGメジャーやFメジャーに転調が可能になり、さらにDメジャーやBbメジャーにも…、という具合になり、それを推し進めると、多調性、さらに最終的には無調にまで至る、ということでしょうか?

私は音程および音律というのは構成するものだと思っています。「ファ」は(上方)倍音列にはありませんが、長音階に組み込まれています。「ラ」もそうです。ですが、これらの音程は倍音由来です。聞こえている音がそれらの音程を作っているのです。下方倍音は聞こえませんが、それらの音を構成し、また実際の音として鳴らすことは可能です。先にもふれましたが、上方倍音を用いてそれが出来るのです。なんでもいいのですが、例えば、下方第11倍音(1/11)にあたる音程は、基音がCであれば、それより3オクターブと減5度(といっていいのかどうか…)低いGb+49ですが、この音程を出すには、その第11(上方)倍音が基音と一致するようにすればよいわけです。アイデアとしての下方倍音は、基音より下の音程の比の一部であるに過ぎず、「無意識」がどうのこうのとは関係なく作ることが出来る比である、というのが私の意見です。

「無調」に関してはどうでしょうか。根本的に、無調と言うのは平均律をその基礎に持っているように思います。倍音を元にした整数比で表せる音程は平均律で近似値をとるのが難しいものが多くあります。7/4がシ♭−31セントなのは上に書きましたが、これを平均律の音で代用するのには無理があります。リミットを11や13まで広げると、さらにとんでもないことになります。11/8はファ#(ソb)−49なので、ファとファ#のほぼ中間、13/8はラb+41なので、これもラb とラの中間の音程です。

『憂鬱』のほうで純正律を反近代主義自然主義に例えているところがありましたが、これはおおむね同意します。というのも、そういうことを言う人の多くは、5リミットの純正律長音階の響きの優位さを説いているからです。正直に私は、この純正律長音階の響きはそんなに調子っぱずれに聞こえません。まあ、歌えといっても歌えませんが。しかし、平均律にこれがまざると調子っぱずれに聞こえるかもしれません。60年代から70年代の歌手(特に女性)の録音で、歌唱力があるのにも関わらず「おやっ」という音程が登場することがよくありますが、これは、その歌手が純正律を意識して歌った結果であることが多いのではないかと思います。カレン・カーペンターはそうだと思いますね。

平均律との差が目立つのは素数5(およびその倍数)がある音程比、5/4、5/3、15/8で、ミとラとシです。平均律とのセント差はそれぞれ、−14、−16、−12ですから、これを平均律のその音で置き換えてもあまり問題がないような差に思えます。まあメロディーを弾く分には平均律純正律長音階もそんなに違いはないのではないでしょうか。ところが響きの面では違います。15/8は単純比とは言い難いのでそれほどでもないですが、5/4、5/3は平均律のそれらとは比べものになりません(うなりがなくなり、パワフルになる)。純正律長音階の優位を説く自然主義者はこれらの音程をなんとかしろと言うことが多いです。そういう人の書いた本を読んでいたら――その人は作曲家なのですが――、自分の曲の録音をした際に、弦楽器の人は5/4、5/3、15/8の音程が取れなくて、どうしても平均律のそれらの音になってしまう、というようなことを書いていました。やはり、多くの音楽家は平均律の音に慣れている、ということらしいです。ところで、純正律長音階にも響きの悪いところはあって、レとラは40/27なので、平均律の完全5度の響きの方が良いのではないでしょうか。ちなみに3/2(純正完全5度)と40/27の音程の違いは81/80(これはピタゴラスの長3度と純正律長音階の長3度との音程の差と一緒で、シントニック・コンマと言います)なのですが、このわずかな違いが響きの面では決定的な違いを生むのです。

なんの話をしていたのでしたっけ?えーと、とにかく、5リミットの純正律長音階ですら、それを平均律に置き換えるのは難しい。響きに関して弊害がでる。上方でも下方でも、倍音列から生みだされた理論ならば5で止まるわけにはいかないので、さらにリミットの拡大をはかるならば、7、11、13を導入し、それを相手にしなければならないが、それをやると、もう平均律では処理できなくなってしまうのです。

多調(これを純正音程でやるにはものすごい種類の音を用意しなければならない)も無調も、これらは平均律から生み出されたアイデア――あるいは平均律以降に実現可能になった――なので、倍音由来の音程比で作られた音律から成る音楽とは目指す方向が違うはずです。濱瀬さんのやっていることはまったく知らないですが、一種のジャズのようなものでしょうか?ジャズもまた平均律をその音楽の基礎においていると思います。少なくともある年代以降はそうなのではないでしょうか。

ただ、こういうことは言えるでしょう。これはヘンリー・カウエルが書いていることですが、倍音列の隣り合う音程が西洋音楽ハーモニーの発展に関係しているということです。

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11…

上の数字を倍音列として考えてみると、2/1はオクターブ、3/2は完全5度、4/3は完全4度、5/4は長3度、6/5は短3度、7/6も短3度(ただし、6/5よりせまい)、8/7、9/8、10/9はすべて長2(だが音程は狭くなっていく)、となるので、最初にオクターブ、次に完全5度、次に完全4度、長3度、短3度…、というようにだんだん狭い音程が音楽に取り入れられていったのではないか、ということをカウエルは言っています。これは、半音、3分音、4分音、さらに細かい微分音へと拡張されるので、それが西洋音楽の歴史と発展にリンクしているはずだというわけです。それはもちろんそうでしょう。しかし、彼は倍音の持つ微分音的特性にはほとんど言及していません。つまり、アイデアであって、実際に聞こえる倍音、それを元に作られた比で構成された音楽そのものに関して言っているわけではないと思います。その理由は先述したこと同じで、完全4度、完全5度までは問題ないとして、そこから先――5リミット以上の音律や音程比――はもはや平均律(が主流になりつつある音楽界)で扱うには手に余るからです。このあたりの処理の仕方はとてもドライですね。けれども、この本(”New Musical Resources”)はとても面白く、カウエルはまたアンダートーンにも言及しています(なので長いこと忘れられてきたものではないのでは?)。何年も前に読んだので、その部分はあまり覚えていません。また読んでみます。どうあれ、こういうのは(観念的)理論であって、「無意識」とは関係ないと私は思います。

p84の『平均律クラヴィーア』のところですが、もちろん知っていると思いますが、これは英語でのwell-temperedが「平均律」と訳されたことに端を発する間違いで、実際は「ヴェルクマイスター」やキルンベルガー」といった調律のことを指す、というのが常識化しています。当時すでに平均律もありましたが(理論上はもっと古くからあるのですが、実際の楽器にそれを適用することが難しかったみたいです)、バッハはそれを嫌っていたという。

産業革命以前のことだから、ピアノオーダーメイドだったはずで、チューニングに関しては統一した規格がなかったはずです。平均律が広まるのには楽器を同じ規格で出荷する必要にせまられてから以降なのではないでしょうか。

これは(悪意ある)ミスリードに感じます。(今日的な意味の)平均律でないとすると、すべての調で音律が変わり――ということはすべての調の「ドレミ」が違うことになる――、どの音を主音にしてもよい(これは今日的な意味での移調を匂わしていると思います)という論旨が覆されるからです。バッハの狙いは、調によって音律が変わり、それを楽しむ、ということにあったはずです。

もっとも理解に苦しんだのが、p100の「三段論法的に…」のくだりです。三段論法とは――色々なかたちがありますが――、ふたつの前提から結論を導く推論のひとつで、例えば、

雨が降れば、運動会は中止である。

運動会が中止であれば、学校にはいかなくてよい。

というふたつの前提(命題)から、

雨が降れば、学校にはいかなくてよい。

を導く推論がそうです。「雨が降る」をP、「運動会は中止である」をQ、「学校にはいかなくてよい」をRとして論理式を作ると、

(P⊃Q ∧ Q⊃R)⊃(P⊃R)

となります。”∧”は「かつ(and)」、「ならば(thereforeかなあ?)」といった意味の論理記号です。

これはトートロジー(この場合、P、Q、Rの命題の真偽に関わらず真な命題)なので、この推論は正しいことになります。

たぶんこういうことが言いたいのではないかと思います。思いっきりシンプルにすると、

「楽曲」が聞こえるのであれば、夢を見ている

という前提から、いきなり、

夢を見ているのであれば、「楽曲」が聞こえる

をまず推論し、そこから夢で「楽曲」が聞こえないのは何故か、を問いかけているように思います。違うかもしれませんが、まあ、そうだとしてこれは三段論法ではありません。しかも間違った推論です。「「楽曲」が聞こえる」をP、「夢を見ている」をQとします。

(P⊃Q)⊃(Q⊃P)

すなわち、P⊃QからQ⊃Pを導出するのは、後件肯定の誤謬と言い、正しい推論ではありません。上の式がトートロジーではないからです。

P⊃Qから¬Q⊃¬P(この場合、「夢を見ていないならば、楽曲は聞こえない」)を導出するのは正しい推論です。

(P⊃Q)⊃(¬Q⊃¬P)は対偶律と言う定理で((¬Q⊃¬P)は(P⊃Q)の対偶)、これももちろんトートロジーです。

他にも論理用語をつかった不適切な(あるいは理解に苦しむ)比喩がたくさんありましたが、それについてはいちいち書きません。ですが、私もソーカルさんと同じで、科学や論理の用語を使うのであれば――それが比喩であっても――、きちんと意味がわかるように使って欲しいです。

(1)第1倍音、第2倍音、第4倍音、第8倍音はそれぞれ、基音、その1オクターブ上、で2オクターブ上、3オクターブ上の音に対応している。つまり基音からnオクターブ上の比は、X = 2n で求めることができる。nに0、1、2、3を代入すれば、それぞれ1、2、4、8となり、1が0に、2が1に、4が2に、8が3に一対一対応します。1オクターブは1200セントと定義されているので、0、1、2、3は0、1200、2400、3600になる。n = log 2 XはX = 2nの逆関数になり、指数nを求める式である。具体的に書くと、2を何乗すれば、例えば8になるのか、ということ。答えは言うまでもなく3になる。なので、3×1200=3600、を8に対応させることが出来る。ところが、3/2のような分数が登場した場合、それを頭で計算することは(少なくとも私には)出来ない。log 2 3/2を求めるには計算機にたよるしかないのです。もしlog 2 Xを計算できるものであれば、問題ないのですが、多くの計算機ではlog 10 Xしか出来ない(その逆関数はX = 10nになる)。そこで、log 10 X とlog 2 Xの比を求めることで、 log 10 Xでlog 2 Xを計算できるようにして、それに1200をかけたものが3986.3136 * Log10 Xになる(*は×)。

追記:ここで"2n"となっているのは「2のn乗」がうまく反映出来なかった結果で(どうすれば良いのかわからんです)、"n"は2の指数です。

通りすがり通りすがり 2016/11/22 14:31 菊池でなく菊地ですよ

gesubanchogesubancho 2016/11/22 22:59 ありがとうございます!おっちょこちょいなもので… 直しておきます。

 2016/11/23 02:26 「+2/100セント」は+2セントあるいは+2/100半音のことでしょうか。些細な事ですが

 2016/11/23 02:26 「+2/100セント」は+2セントあるいは+2/100半音のことでしょうか。些細な事ですが

gesubanchogesubancho 2016/11/23 08:24 +2セントです。

gesubanchogesubancho 2016/11/23 08:37 ですが、それは2/100半音高いということでもありますね。

2016-11-09 豊田さんとデュオ

来週、豊田道倫さんとデュオのライブをします。

ですが、まだ何の準備もしていません。ふたりでリハをしていないばかりか、私はまだ本番でやる豊田さんの曲のデモすら聞けていません。

だいじょうぶなのか?

たぶんナントカなると思っています。

豊田さんのライブはこれまでに何度か観ていて、最初に観た時に、あー、ロックだなあ、いつか一緒にやりたいなあ、こっちが何やっても多分ゆるしてくれるんじゃないかな、なんてことを思いました。どこか余白(あるいは余裕)があるというか、そういう音楽に聞こえました。音がスカスカとかそういう意味での余白ではないです。その時のライブは轟音でしたし。じゃあ何だ、ときかれても、うまく答えることはできないのですが…

しかし私は、ロックというのは常になんらかの余白を持ちその中で遊ぶ音楽なのでは、とこの頃思います。というか、ロックをやるならそういうものがやりたい。

豊田さんとはそういうものが出来ると確信しています。

これから曲を覚えて(で来ないかもしれないけど…)、自分の関わり方を考えなければいけない。この過程がまた好きなんですよ!

そして、今の段階ではまったくどうなるかわからないので、凄まじく楽しみです!


豊田道倫、杉本拓「two cats」

11月14日(月)

19時開場 19時半開演

2500+D

大久保 ひかりのうま

http://hikarinouma.blogspot.jp/

2016-09-20

Cristian Alvear

21:55

Cristián Alvear クリスティアン・アルベール [from Santiago, Chile]


2016年10月8日(土)

Cristián Alvear(ギター)、秋山徹次(ギター)、杉本拓(ギター)

open 19:30 start 20:00 2000円

ftarri 水道橋

http://www.ftarri.com/suidobashi/ 


2016年10月10日(月・祝)

Cristián Alvear(ギター)、秋山徹次(ギター)、杉本拓(ギター)

open 19:30 start 20:00  投げ銭 &800円(バー・チャージ)+ドリンク・オーダー

下北沢 APOLLO

http://ameblo.jp/430416apollo/


きっかけはマンフレッド・ベルダー(Manfred Werder)だった。彼が言うには、チリに素晴らしいギタリストがいて、演奏できる曲を探しているので、私のメール・アドレスを教えてもかまわないか、ということだった。もちろん、断る理由はなにもない。それからしばらくしてクリスティアン・アルベールからメールが来た。あまり憶えていないが3年ほど前のことであろうか。

私はこれまでにソロ・ギターのために書かれたものを含むいくつかの譜面とCDを送っていて、クリスティアンのほうからもCDやいくつかの譜面が送られてきた。彼はヴァンデルヴァイザー(およびそれに関係の深い)の作曲家の作品を演奏しており、同じギタリストのよしみで、それらの譜面を転送してくれたわけである。

ヴァンデルヴァイザーの作曲家によるギター曲のいくつかには親しんでいて、演奏もちょくちょくしてはいたが、それを録音して発表することは――作曲のほうが面白くなっていたこともあり、それほど真剣に考えていなかったのだろう――先延ばしにしていた。反対にクリスティアンは、様々な機会にそれらの曲を演奏する一方で、いくつかはきちんとCDにもしている。そのうちの2曲、アントワン・ボイガー(Antoine Beuger)の24 petits prélude pour la guitareとMichael PisaroのMelody, Silenceはどちらも好きな曲だったので、先にやられてしまったなあ、と思ったのである。

もちろんどの演奏も素晴らしい。上の2曲もそうだが、起承転結があるわけでもなく、演奏技術がこれみよがしに披露されるわけでもない曲(多くのギタリストはそういう曲にそもそも興味を持たないのではないか?)を淡々と弾くことによって、それぞれの曲のエッセンスを炙り出している。実際に、クリスティアンが登場することによって、ヴァンデルヴァイザー周辺に数々のギター曲が登場したのではないだろうか?先述した「転送してくれた譜面」がまさに、彼のためにここ数年で作曲されたギター曲達なのであった。

私はクリスティアン・アルベール本人に会うのをずっと楽しみにしていたが、今回の来日でそれが可能となったのである。


CDs:

Antoine Beuger "24 petits prélude pour la guitare" Cristián Alvear (guitar) EDITION WANDELWEISER RECORD EWR 1302

Michael Pisaro "Melody, Silence" Cristián Alvear (guitar)POTORATCH

"Quatre Pièces Pour Guitare & Ondes Sinusoïdales" Cristián Alvear (guitar) RHIZOME.S #06

Jürg Frey "guitarist, alone" Cristián Alvear (guitar) Another Timbre At94x2

Taku Sugimoto "mada" Ryoko Akama (electronic & piano), Cristian Alvear (guitar), Cyril Bondi (harmonium & percussions), D’ incise (bowed metals & electronic) CADUC CA16


インタビューがAnother Timbreのサイトにあります。

http://www.anothertimbre.com/freyguitar.html

国内で他にもコンサートがあります。情報が入り次第載せます




 

2016-07-22

VILLAGE ON THE VILLAGE

23:12

 「どうして生まれてきたの?」 

 「一度死んだからに決まっているじゃないの?」

 ノヴァーリスだったかな、こんなやりとりがあった。過去に死んだものがいなければ、我々は誰も生きていないことになる。当たり前の話である。ではあるが、この「連続性」が如何にあるかを捉えることが宗教の本質なのではないか、と私はよく思う。

 しかし、こうも思う。我々は生きていると思っているが、本当に生きているのか、死んでいるのか、それはわかりっこないのではないかと。生きていようが、死んでいようが、とりあえずは「生きる」以外にはやることがないからそうしているだけ、というのもまた本当なのではないか?

 先日、黒川幸則監督の映画、『VILLAGE ON VILLAGE』(www.villageon.ooo)の試写を観にいった。山ちゃん(コア・オブ・ベルズの山形育弘)が脚本で、淳君(のっぽのグーニー、ju seiの田中淳一郎)が主演、というように、よく知った人達――大人の言葉で言えば、「一緒に仕事をした」間柄であるが、自分の言葉に翻訳すると、その「仕事」とは「悪ふざけ」以外の何物でもないのですけどね――が深く関わっている映画なので、これは観ないわけにいかない。とは言うものの、私は貧乏なのでどうやってその費用を捻出しようと思っていたところに、「試写会」のお知らせが届いたのであった。

 私は(映画)評論家ではないので、小難しいことは一切言わない。一言で言うと、この映画は「フォークロワ」であった。それがきどった言い回しだと思うなら、『まんが日本昔ばなし』でも『アパッチ野球軍』なんかをその例として挙げよう。諸星大二郎いましろたかし水木しげるの諸作品でもよい。そういうものに近い。しかし、その中に『機動戦士ガンダム』は含まれないし、『千と千尋の神隠し』にいたっては論外である、ということはわかっていただきたい。

 私が子供の頃、仲間内で「黒男」と呼ばれ、恐れられた人物がいた。ただの新聞配達員だったのであるが、なんとも怪しい見た目のオッサンで、その行動も尋常でないところがあった。子供はこういうことに敏感で、ついに「黒男」追跡隊が結成され、その正体を暴いてやろうということになった。今でも憶えているのは、この「黒男」は竹やぶがお気に入りだっただったらしく、配達の途中に竹やぶに入り、じっとうずくまっていることが多々あり、この光景がえもいわれぬ不気味さに満ちていたことである。その姿は魔道士かと思うほど実に様になっていたのだ。

 いつも黒い服を着ている、というのもポイントを上げる重要な要素であるが、しかしお金がなくて服が買えなかっただけかもしれないし、竹やぶにうずくまっていたのも、便意をこらえていただけかもしれない。真実は恐らくその当人も知らない。こういう人達というのは自分が果たして本当は何をやっているのか知らないものだからである。

 この「黒男」はほんの一例で、我々の子供時代にはこういう得体の知れない怪人物が近所を徘徊しており、畏怖の対象となっていた。つまり、ただいるだけで「怪」をおびき寄せてしまう人と、それをキャッチする感受性の出会いが頻繁にあったのである。だから、こういう出会いを経験し、今でもそのことを覚えている人達にとって、映画に出てくる古賀さんや近藤さんなんかはまさに「その筋の人」としか思えないのではないだろうか。また、映画の中盤で瀬木君が初めて登場するシーン、あのほんのわずかの瞬間に、何かとんでもないものを見てしまったぞ、と感じる人が少なからずいると私は思う。※

 ところで、こうした怪人物――もはや妖怪と言ってもいいかもしれないが――は絶えることがない。おのずと彼らの志を受け継ぐ者が現われてくるからである。かくいう私がそうであるし(カミングアウトするまでもないが)、気がついたら周りにもお仲間が沢山いるではないですか。あの時に畏怖の対象になったものは自分がすでに持っていたもの(あるいはこれから受け継ぐのであろう何か)と同じ種類のものであった、というようなことはなんとなくわかる。しかしそのあたりの消息をいかに語ればよいのか。これが難しい。

 いつだったか、立飲み屋で飲んでいるときに、一緒にいた友人に「死んだらどうなるんだろうね?」と何気なくきいたことがある。彼の答えは「こうやって酒を飲んでいるんではないですかね?」であった。その時はその友人の言わんとしていることにいまひとつ見当がつかなかったが、この映画を観て「ああ、そういうことか!」と了解してしまった。『VILLAGE ON VILLAGE』はその言うに言われぬ、「我々」の在りようを実に飄々と映し出しているであった。つまり、そこに写っていたのは、なんのことはない、「自分」だった、ということ。

 もっと言うと、死者たちの生息するところも、我々妖怪たちと同じく、この娑婆であり、そこで酒を飲んだり、立ち食いそばを食べたり、自動販売機の下に小銭を探したり、拾ったエロ本を神社の裏で読んだりしているのである。もうどっちがどっちなのか、妖怪なのか幽霊なのか、生きているのか死んでいるのか、そういうことを問うこともバカらしくなってくる。本当のところは誰も決して知りえないからだ。そう思うのなら、どうでもよいことに頭を悩ませることなく、自らの精神的欲望に忠実に、エピキュリアンとして娑婆での毎日を味わいつくして生きるしかないのではないか。この映画のメッセージ――というほど大げさなものではないと思うが――はこれにつきると思う。

 試写の後、私は飲み会に参加したが、これがまさに映画で展開されている風景を彷彿させるものであった。というか、どこが違うんだよと。完全にアンチ・スペクタクルなのである。もちろん日常をそのまま撮ったからといって、それは映画にはならないし――それ以前に、何であれ「ありのまま」を撮ることは不可能なのであるが――、そういう風に撮れたとしても、映画として面白くするのは至難の業である。ところが、この「何もおこらない」、日常的風景に満ちた映画は実に面白いのである。あれのどこが日常なんだ、という意見もきっとあるだろうけど、要は見方の問題で、妖怪(や幽霊/死者)の目線からだとあれはあたりまえの景色になってしまうのだ(なので人間の方には異世界への旅が楽しめると思います)。この映画は、黒川監督自らが妖怪に変化して、妖怪目線でその世界をフィールド・ワークしたところの結果として生まれたものである、と私は思うのだが、もし違っていたらごめんなさい、監督。

 

 

 ※ フランス詩人ジュール・シュペルヴィエルに「動作」という詩があり、瀬木君初登場の場面を思い出そうとすると何故かこの詩が浮かんでくるのである。それは(飯島耕一訳)このように始まる。


 うしろをふり向いたその馬は

 誰も見たことないものを見た

 それから彼はユーカリの木のこかげで

 また草を食べ続けた


 ここから先は書かない。この冒頭部分だけで、私は引き込まれたが、そういう人は他にもいるはずだ。各自調べて辿りついてもらいたい(もっとも、それは今日では容易なことであるが…)。

2016-06-29

読書備忘録 2016 上半期

04:00

ジョン・ケージ伝ー新たな挑戦の軌跡』 ケネス・シルヴァーマン 柿沼敏江 論創社 2015

『憂鬱と官能を教えた学校』 菊地成孔大谷能生 河出書房新社 2004

『「アジア人」はいかにしてクラシック音楽家になったのか』 吉原真里 アルテス 2013

『能・狂言の基礎知識』 石井倫子 角川選書 2009

『これからの小田急小田急電鉄株式会社 取締役社長 安藤楢六 日本対談文庫 日本通信社 1965

『能はこんなに面白い!』 内田樹 観世清和 小学館 2013

『ようこそ能の世界へ 観世銕之亟 能がたり」 暮しの手帖社 2000

『駄菓子屋図鑑』 奥成達(文) ながたはるみ(絵) 飛鳥新社 1995

『彼方より』 中井英夫 潮出版社 1974

『「悪魔祓い」の戦後史』 稲垣武 文芸春秋 1994

『「こねこ」とロシア映画の今』 杉浦かおり ユーラシア・ブックレット 東洋書店 2001

『文化の言語学』 唐須教光 勁草書房 1988

建築的思考のゆくえ』 内藤廣 王国社 2004

『残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法』 橘玲 幻冬舎 2010

『日本の神秘思想』 金岡秀友 講談社学術文庫 1993

マホメット井筒俊彦 講談社学術文庫 1989

ソニックメディテーション』 ポーリン・オリヴェロス 若尾裕 + 津田広志 訳 新水社 1998

『サウンド・エデュケーション』 R・マリー・シェーファー 鳥越けい子・若尾裕・今田匡彦 訳 春秋社 1992

『子守り歌の誕生』 赤坂憲雄 講談社学術文庫 2006

『本当は恐ろしい「平和」と「人権」というファシズム佐藤貴彦 夏目書房 1999

オペラをつくる』 武満徹 大江健三郎 岩波新書 1990

『科学の方法』 中谷宇吉郎 岩波新書 1958

60年代って何?』 石川好 岩波書店 2006

日本民族芸能概論』 三隅治雄 東京堂出版 1972

日本精神史研究』 和辻哲郎 岩波文庫 1992

『凡人として生きるということ』 押井守 幻冬舎新書 2008

お能の見方』 白州正子 吉越立雄 新潮社 トンボの本 1993

草木虫魚の人類学岩田慶治 講談社学術文庫 1991

『まつり 民族文化の素型』 萩原秀三郎 美術出版社 1968

イギリス新鋭作家短編集』 柴田元幸新潮社 1995

音律音階の科学』 小方厚 講談社ブルーバックス 2007 (再読)

『バカのための読書術』 小谷野敦 ちくま新書 2001

空海入門ーー弘仁のモダニスト竹内信夫 ちくま新書 1997

『能と狂言の音楽入門』 三浦裕子 音楽之友社 1998 (再読)

『日本の子どもの歌』 園部三郎 山住正巳 岩波新書 1962



今年は本をあまり読まないつもりでいた。特に日本語で書かれたものは…

読了するのに時間がかかりそうな英語の本をゆっくりと読んで、まあ、1年で6〜7冊、日本語のものを4〜5冊、というのが去年末に立てた計画で、実際に3月頭まではそういうペースであった。

しばらく本を意図的に少し遠ざけようと思ったのである。

ところが、色々な偶然(と恐らくは必然)が重なり、その計画は思い描いていたのとは違う方向に進み始めた。

まず、今年に入って読み終えた英語の本は一冊もないこと、次に、やたらと「日本」に関する本を読んでしまったことである。

読書量が意図に反して増えたことは、まあ必然と言えるかもしれない。今は詳しく書けないが、「読書」がある意味で仕事の一部になりつつあるからである。

しかし、「日本」関係の本を読むようになったきっかけは偶然である。そして私はその偶然を喜ぶべきこととして受け入れた。

とは言っても、私は読書に関しては雑食で、割とこだわりなくなんでも読む。自分の好みに合致するだろう本だけを選んで読むわけではない。しかし、実はそういう読書の仕方を少なくとも今年はやめるつもりでいたのである。血となり肉となるかもしれない(実際的な?ーーつまり自分の仕事に必要とされる)本だけを少し選んで読むつもりであった(それも英語のものをメインに)。

ところが、まるでそうはならなかった。一旦読書が中毒的習慣に戻ると、何でもかんでも興味を引くものを読みたくなってしまうのである。

今年に入って今のところ最も読み応えがあったのは、和辻哲郎の『日本精神史研究』である。特にその中の「沙門道元」。曹洞宗開祖である道元のことを書いたエッセイである。和辻の書く道元は、曹洞宗ーーあるいは禅宗ーーのとりすました、「カフェ」的な静的イメージの対極にある人物であった。

我が一族の墓は曹洞宗豪徳寺にあり、一時期はその寺の真ん前のアパートに住んでいたこともあって、随分とそのビジュアル・イメージには親しんでいるが、それと和辻の道元がまるで結びつかないのであるーーこういうことが刺激的となる。


話は変わり、美学校で講演(?)します。7月1日なので、もう明日です。

あー、毎度のことながら、つい宣伝を忘れてしまうダメな私です。

http://bigakko.jp/event/2016/sugimoto-taku


その後は、水道橋のフタリで、≪水道橋チェンバー・アンサンブル≫のコンサートがあります。

"Suidobashi Chamber Ensemble 第二回演奏会"

7/9(土)19:30/20:00 予約・当日2,000円

出演:池田陽子、池田若菜、大蔵雅彦、杉本拓、内藤彩

http://www.ftarri.com/suidobashi/