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勝手に視やがれ!!テマティック批評計画

2015-11-25 「永遠の処女」から「永遠回帰の寡婦」へ― 『秋日和』の原節子

[]秋日和』『晩春』

 

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2DKの母娘と二階建ての父娘

秋日和』の原節子司葉子が演じる母と娘との関係―寡婦の母親ひとりを残して結婚することをためらう娘を嫁がせるために、再婚するふりまで演じる母親との親子関係は、かって『晩春』で寡夫の父・笠智衆とその娘・原節子が演じた役割を、配偶者と死別した片親の性別を男親から女親へと反転させたうえで再演したものであることは、小津作品に親しんだ者のあいだでは周知のことだろう。

美貌の寡婦原節子とその娘・司葉子の双方の縁談を、原節子の亡夫の学生時代からの悪友で、かって原節子をめぐる恋敵どうしだった中年男三人組(佐分利信中村伸郎・北竜二)が勝手に画策する『秋日和』の物語が、娘を嫁に出すために笠智衆寡夫である自分の縁談をあえて受け入れたふりをする『晩春』に対する、小津自身によるパロディ的なリメイクであることは、容易に見て取れることだろう。

『晩春』と『秋日和』とのあいだには、娘を嫁に出す独り者の親の性別が男親から女親に変わっていること以外に、もうひとつ重要な変更点がある。それは、主人公親子の住居が『晩春』では鎌倉の二階建ての日本家屋であるのに対して『秋日和』では東京都内の2DKのアパートになっているということだ。

原節子が美貌の寡婦を演じることを前提に撮られた『秋日和』では、『晩春』で笠智衆が演じた男親の役柄が女親へ変わっているのは当然のことだが、その親子の住居が鎌倉の二階建ての一軒家から2DKのアパートに変わっていることは、また別な意味あいを帯びてくる。こうした住居の違いは登場人物の性別の違いに劣らず、小津作品にとってはある種の決定的な境界作用をもつからだ。

いったいなぜ『秋日和』の原節子司葉子の母娘は『晩春』の笠智衆原節子の父娘のように、二階建ての日本家屋を住居とはしないで、2DKのアパートに同居しているのだろうか?

経済的に慎ましい生活をしている寡婦の母と娘のふたり暮らしの住居には、二階建ての日本家屋の一軒家よりは、賃貸の2DKのアパートの方がふさわしいからという、脚本上の人物設定に関する答えがまず考えられるだろう。

しかし、経済的な慎ましさということを考えてみると、たとえば夫の遺産の一軒家に母娘で住み続けるという設定もまたじゅうぶんあり得るわけで、東京都内のアパートの家賃を考えるならば、そのほうがより経済的に慎ましい暮らしであるかもしれない。

だいたい、服飾学院の講師をしている原節子に、どれくらいの収入があり、またどれくらいの遺産をもっているのか(彼女はもともと本郷の薬屋のひとり娘であるらしい)、映画はまったく触れていないのだから、そうした登場人物の経済状況に関する推測は、あまり意味を成さないだろう。

要するに、脚本の設定しだいで『秋日和』の原節子司葉子母娘は『晩春』の笠智衆原節子父娘と同様に二階建ての日本家屋に住んでいてもおかしくないのであって、そのための物語的な合理化の手段はいくらでも可能であり、そうしてはならないという理由も特に見当たらない。

にもかかわらず、原節子司葉子母娘は2DKのアパートに住んでいて、その近代的なアパート建築が、中村伸郎一家、佐分利信一家、そして北竜二・三上真一郎父子家庭が住む日本家屋に対して、独自の住居空間を形成していることは明らかであり、その空間的な差異が意味するところは、決して見過ごせないものがある。

したがって『秋日和』の原節子司葉子の母娘が『晩春』の笠智衆原節子の父娘のように二階建ての日本家屋の一軒家に暮らさずに、2DKのアパートに同居しているという住居の変更理由は、作品の空間構造/住居構造という点から考えなおさなければならない。

「女の聖域」の二つの系譜

小津作品における住居の構造、とりわけ「後期の小津」における日本家屋の二階の部屋の特異性を解明した画期的な批評として、蓮實重彦『監督 小津安二郎』の「住むこと」がある*1

蓮實氏の論旨をごく簡単に要約するならば、『晩春』『麦秋』『彼岸花』『小早川家の秋』『秋刀魚の味』といった「後期の小津」に登場する日本家屋の二階の部屋に通じる階段は、特別な例外を除いて決して画面に映ることがなく、その「不在の階段」を自由に通り抜けて二階の部屋を二十五歳前後の嫁入り前の娘が「女の聖域」として排他的に独占しているのが、二階建ての日本家屋共通する構造である、ということになるだろう。

一方で蓮實氏は、二十五歳前後の娘たちの「女の聖域」である日本家屋の二階の部屋とは空間的に対極に位置する、五十五歳前後の父親たちの「男の聖域」である料理屋の座敷の存在を指摘することも忘れていない。ただし、住居構造という観点から考えると、女性専用の「不在の階段」に支えられた二階の「女の聖域」と、住所不明な料理屋の座敷の「男の聖域」とでは、作品を支える構造的な重要度の相違は明白だろう。

このように「後期の小津」に登場する二階建ての日本家屋は、男女共用の生活空間としての一階と、二十五歳前後の娘の「女の聖域」である二階という、二つの部分に分けられる構造をもっていることになる。その二つの部分を画面には姿を見せない「不在の階段」が斜めに連絡するのだが、そこを自由に通り抜けて二階へ出入りする特権と能力を有するのは二十五歳前後の娘をはじめとする女たちで、父親や兄弟ら男たちはその権利を基本的に与えられていない。

蓮實氏が解明した「後期の小津」の住居構造は、空間の性的な分割と深い相関関係にあるといえるだろう。*2

秋日和』の原節子司葉子母娘が住む2DKのアパートという空間を論じるために、ここでは蓮實氏が論及していない、戦後の小津作品におけるもうひとつの「女の聖域」というべき、寡婦が住むアパートという空間の系譜について概観しておこう。

東京物語』では、笠智衆東山千栄子夫妻は、戦死した次男の嫁・原節子のアパートを訪れて、実の子供たち以上の手厚い歓待を受ける。熱海の旅行帰りの日には、長女・杉村春子の家を締め出された東山千栄子原節子のアパートに一泊すると、布団を並べて実の親子以上の深い会話を交わす。*3

夫の戦死後、会社務めをしながら独身生活を続けている原節子のアパートは、横浜にある。その広さは、六畳一間あるかないかぐらいだろうか。義父母を歓待するために、原節子は店屋物の丼の出前を頼み、隣の部屋の住人からお酒と徳利とお猪口を借りるのだが、ふたりを泊めるのはいくらなんでも狭すぎる。

東山千栄子ひとりが原節子のアパートに寝泊りし、笠智衆が旧友の十朱久雄と東野英治郎を都内に訪ねる、熱海旅行の帰りの日の夜の場面を見てみよう。原節子東山千栄子の肩を揉みながら、布団の上で女どうし語らうこの場面において、原節子の狭苦しいアパートは『東京物語』において唯一といっていい「女の聖域」と呼ぶべき空間となっている。

しかも、同時刻に笠智衆が旧友の十朱久雄と東野英治郎と共に酔いつぶれている飲み屋が、東野英治郎が自分の死んだ妻に似ていると言い張る女将・桜むつこの関わり合いを避ける邪険な態度が示すように、一種の「男の聖域」として演出されていることも見逃せない。

泥酔した笠智衆東野英治郎は、結局はその「男の聖域」を追い出され、長女の杉村春子の理容室に深夜帰宅し、東山千栄子ひとりが、夫・笠智衆抜きで、次男の嫁・原節子と女どうしで深く交流する。

このエピソードでは、笠智衆を外に追いやり、東山千栄子ひとりを泊めることによって、寡婦原節子のアパートが「女の聖域」であることを告げている。

東京物語』より3年後の『早春』では、家出したヒロイン淡島千景が転がり込む先である、友人・中北千枝子のアパートは、やはり六畳一間ぐらいの広さだが、共同の炊事場が部屋の外にあるその造作は、ずっと近代的で1Kに近いものになっている。

中北千枝子は浮気性の夫と死別後、働きながらひとり暮らしを続ける女性であり、子供のいない専業主婦淡島千景は夫・池部良の浮気をきっかけに家出をすると*4、母・浦辺粂子が営む実家のおでん屋には帰らずに、この寡婦の友人のアパートに転がり込む。

それまでは、夫婦の家と実家のおでん屋とのあいだの往復ばかりをしていた淡島千景が、アパートの卓袱台でビールをコップに注ぎながら、仕事帰りの中北千枝子と女どうしで夫の浮気話を笑いながら語りあうのだから、ここでも『東京物語』と同様に、寡婦のアパートが「女の聖域」と化していることを容易に見て取れるだろう。

中北千枝子の「死別妻」が、淡島千景の「家出妻」とアパートの一室で夫の浮気話をビールのツマミに笑い合う、その絶妙な「成瀬組看板女優」中北千枝子の起用法から、小津安二郎がいかに成瀬巳喜男作品を研究していたかがよくうかがわれて、なかなか興味深い場面でもある。*5

東京物語』の原節子東山千栄子との語らいから『早春』のアパートでの中北千枝子淡島千景との語らいの場面に至って、戦後の小津作品において寡婦が住むアパートが、二十五歳前後の未婚の娘が暮らす日本家屋の二階の部屋とはまた違った意味で、もうひとつの「女の聖域」の系譜を形成していることが明らかになったと思う。

東京物語』『早春』と連なる寡婦のアパートの住居空間の系譜を見たうえで、『秋日和』のラストシーン近くにおける「残る娘」としての岡田茉莉子の重要な役回りをみるならば、原節子司葉子の母娘が暮らす2DKのアパートは、単なる母子家庭の母と娘の住居というよりも、寡婦原節子が娘の司葉子が結婚するまで同居し、娘の結婚後は、再びひとり暮らしを送りながら娘の友人・岡田茉莉子をそこへ頻繁に迎え入れるであろう、文字通り男子禁制の「女の聖域」となっていると、推定できるのだ。*6

建築的なデザインという点から見てみるならば、原節子司葉子が特権的に通行するアパートの廊下は、その幅の広さと天井の照明の配置において、やはり原節子司葉子が頻繁に出入りする佐分利信の会社の廊下と相似形をなしていることが指摘できる。

こうした住宅と仕事先の建築物の視覚的な統一性は、主人公が日本家屋から近代的なアパート建築に転居することによって初めて可能になったものだといえよう。

このように『東京物語』『早春』と続く、寡婦のアパートが形作る「もうひとつの女の聖域」の系譜を辿ることで、なぜ『秋日和』の母娘が『晩春』の父娘のように二階建ての日本家屋に住まずに、2DKのアパートに同居するのか? という問いに対する、とりあえずの解答は出せたと思う。

しかし、ここでは同じ問いを、あえて変形して再提出することで「後期の小津」の住居構造に潜む問題に揺さぶりをかけてみたい。

それは『晩春』の父娘が、二階建ての日本家屋を住まいとせずに『秋日和』の母娘のように2DKのアパートに同居することは、はたして可能か、という問いである。

父と娘の住み分け

たとえば『秋日和』の母娘が2DKのアパートではなく、二階建ての日本家屋に暮らしていたとしても、小津作品としての『秋日和』は、構造的に成立可能だろう。

原節子司葉子の母と娘は、何が何でも2DKのアパートに住まなければならない、という構造的必然性は『秋日和』には特に見当たらない。

寡婦の母と独身の娘のふたりがもし、二階建ての一軒家に住んで「不在の階段」を通って一階と二階を行き来したとしても、それはそれで小津作品として特に差し障りが生じることはないだろう。

しかし『晩春』の父と娘が『秋日和』の母と娘のように、2DKのアパートに同居できるかといえば、それは不可能だろう。もしそんなことをすれば、『晩春』という作品は成立不可能になってしまうからだ。

「不在の階段」によって分離された二階建ての一階と二階に父と娘が住み分けること、それが『晩春』という作品に欠かせない成立条件なのだ。この独身の父と娘が同じ階、同じ部屋で寝起きを共にするようなことになったら、小津作品としての『晩春』は、その持続を放棄しなければならなくなるだろう。

原節子笠智衆が、同じ部屋に布団を並べて横たわる、京都旅行(婚前旅行!)の最後の夜のような緊張感は、旅行先の旅館の一室だから許されるものであって、もし、それが日常的に繰り返されるようなことがあれば、小津的作品の秩序は崩壊してしまうだろう。

笠智衆原節子の独身の父と娘とは、一見、鎌倉日本家屋の同じ一軒家に同居しているように見えながら、じつは「不在の階段」によって分離/切断された一階と二階の部屋に、厳密な住み分けをおこなっているのだ。

蓮實氏が指摘した「後期の小津」を特徴づける「不在の階段」により一階から分離された「女の聖域」としての二階の部屋を「二十五歳前後の嫁入り前の娘」が排他的に占拠するという住居構造は、この『晩春』においては、まぎれもなく独身の父と娘とのインセストタブーに関わる、いわば性的な住み分け構造になっているのである。

『晩春』の笠智衆原節子から始まって、『東京暮色』の笠智衆有馬稲子、『秋刀魚の味』の笠智衆岩下志麻、それに『小早川家の秋』の中村鴈治郎司葉子の父娘も加えた「後期の小津」をあらためて見直してみると「不在の階段」は、死別に限らず妻を失って独身に戻った父親と、嫁入り前でまだ独身の娘とを、一階と二階に住み分けさせる装置として働いていることがわかる。

ここで重要なポイントは、住み分けを演じている父と娘がともに独身かどうかということだ。

たとえば『麦秋』では、娘の原節子以外にも、菅井一郎・東山千栄子の父母が二階の部屋で寝起きしているために、「不在の階段」により一階から分離された「女の聖域」としての二階の部屋を「二十五歳前後の嫁入り前の娘」が排他的に占拠するという住居構造は、不完全なかたちでしか成立していない。『麦秋』はしかし、そのことによって、小津作品として欠陥をもっているどころか、むしろ世界映画史上、空前絶後の高みに達している。*7

ここでは父親役の菅井一郎の妻・東山千栄子が健在であって、父が娘とは違い独身者ではないことが肝心だ。そのために『麦秋』では、アクの強さが売りの溝口映画の個性派常連俳優・菅井一郎が限りなく透明に近い存在と化して、娘の原節子とともに「不在の階段」「女の聖域」を阻害することなく二階に共存するという映画的奇跡が可能になっているのだ。*8

独身の父と娘との住み分けという点に注目すると、蓮實氏が『戸田家の兄妹』の冒頭の老実業家の家長・藤野秀夫の死に関して述べた<注目すべきは、ここでの実業家の妻の関係がいつでも交換可能なものだ。(……引用者中略……)それ故、『戸田家の兄妹』の冒頭に描かれるのが、還暦の年の六十歳の誕生日に起こった父親の死であってもいっこうにかまわないし、あるいは死ぬのが母親であったとしても、ほぼ同じ作品ができあがったかもしれない。>*9という記述は、明らかに不適切で修正を要するものだろう。

もしも『戸田家の兄妹』の冒頭で死ぬのが父親ではなく母親だとしたら、未婚の末娘・高峰三枝子との同居という、作品の基本構造が「ほぼ同じ」というわけにはいかなくなるからだ。母親が夫の死と同時に住む家をなくすという、『戸田家』の住居空間のあり方そのものが、まず違ってくるはずなのだから。

もし『戸田家』の冒頭で死んだのが父親ではなく母親である場合は、独身の父親と未婚の娘と二階建ての一軒家の3点セットが遺産として残される、というのが小津作品の基本的な家族・住居構成であるからだ。その二階建ての一軒家を、独身の父親と未婚の娘とが上下に住み分けるというのが『晩春』で確認された、性的分割を伴った空間分割のあり方であり、それは父母の死を入れ替えた『戸田家の兄妹』の別バージョンについても、当然適用されるべき分割パターンであるべきだからである。

こうした父と娘とのあいだの性的な空間分割構造を考えると、夫の死と同時に住む家を亡くした母親が、未婚の末娘と共に、結婚して独立した子供たちの家の二階の部屋を転々とする現バージョンと「ほぼ同じ作品ができあがったかもしれない」という記述は、蓮實氏にしては珍しく不用意で、間違ったものと言わねばならない。

小津作品において、独身の娘と二階に共存を許された男親は『麦秋』の菅井一郎ただひとりであって、その理由は、妻・東山千栄子が健在であり、二人の孫までいるからだ。*10

もし『戸田家の兄妹』別バージョンで父・藤野秀夫が生き残ったうえに、住む家まで失ったとしても、彼が未婚の末娘・高峰三枝子と二階の部屋に同居することは決して許されなかっただろう。結婚して独立した子供たちが、どれほど老父や妹を邪険に扱ったとしても、独身の男女ふたりを一階と二階とに住み分けさせるという小津的な配慮まで失うことはありえないはずだからだ。

『晩春』の父と娘をめぐる性的な空間分割構造に戻ろう。

父・笠智衆と娘・原節子が、二階建ての一軒家を「不在の階段」によって一階と二階を上下に分断し、住み分けることによって、かろうじてその日常生活を維持していることは、以上の考察でじゅうぶんわかっていただけたと思う。この父娘が『秋日和』の原節子司葉子の母娘のように、2DKのアパートに同居し、寝起きを共にするなどということは、絶対に不可能なのだ。

しかし、そんな父と娘が、同じ階の同じ部屋で布団を並べて横たわる、京都の宿での婚前旅行の最後の夜の場面を演出してしまうのが、また、小津の小津たるゆえんでもある。

父と娘の婚前旅行

『晩春』では、就寝場面はもちろんのこと、登場人物が布団に横たわる姿を見せるのが、この京都の旅館の夜のシークエンスに限られていることに注意しよう。

就寝場面の多い『東京物語』をはじめ『麦秋』『早春』『東京暮色』『秋日和』『小早川家の秋』等と比べると、『晩春』の人物の横臥率の低さは明白だ。

『晩春』の笠智衆原節子の父娘は、自宅ではいつ寝ていつ起きたのか、はっきりしない。布団を敷く場面もなければ、それを片付ける場面もない。お互いの縁談について座って語り合うだけで、性的な緊張感がみなぎるふたりの同居生活においては、たとえ一階と二階に別れていていようとも、自宅で横たわる身振りは決して許されないものなのだ。

『晩春』の笠智衆原節子の父娘は、自宅での布団への横臥が禁じられていたかわりに、京都の旅館で一室で、堂々と布団を並べて横たわる。ローポジションのカメラから捉えられた「独身の男女」が布団を並べて横たわるさまを、1955年松竹入社の吉田喜重が「父と娘がほとんど同衾するような」と「同衾」いう生々しい一語でもって、シンポジウムに同席するマノエル・デ・オリヴェイラたちに言い表したのは、ある意味当然のことだろう。*11

自宅では「不在の階段」によって垂直に分離され、決して同じ階、同じ部屋に布団を並べて寝ることのない独身の父と娘が、旅館の一室で、暗い照明のなか布団を並べて横たわる。ここでは、父・笠智衆の横たわる布団と娘・原節子の布団のあいだを遮るものは何もない。

京都の旅館のシークエンスにおいて、鎌倉の自宅ではいつもふたりを垂直に分断していた「不在の階段」が不在であるという妙な事態、父と娘の最後の婚前旅行という特殊なシチュエーションが可能にした主題論的異常事態(旅先の椿事?)がふたりのあいだに起きているのだ。

この「不在の階段」の性的な抑圧・禁止の不在、が初めて可能にした独身の父と娘がともに枕を並べて眠る姿は「新婚初夜の光景」と重なり合って「近親相姦のイメージ」を深く示唆する。

<新婚を間近に控えた娘が、たとえそれが父との最後の別離の旅であるとはいえ、ともに枕を並べて眠る姿は、おのずから娘の新婚の初夜の光景と重なり合って想像されたとしても、不思議ではなかった。(…引用者略…)もちろんこうしたおぞましい、常軌を逸した想像は許されるものではなかった。俳優に与えられた役が父と娘であるかぎり、ふたりのあいだに性的な関係を予感し、そのように夢想することは、当然のことながら近親相姦のイメージを深く示唆するものであったからである。>*12

「俳優に与えられた役が父と娘であるかぎり」という指摘は重要だ。小津作品で男女の俳優が枕を並べて眠る場合、『早春』の池部良岸恵子の「不倫カップル」のような例外を除くと、ほとんどが夫婦の役であり、男女の俳優が「父と娘」という役で同じ一室で寝るケースは『晩春』の京都の宿の場面しかないからだ。しかも『晩春』が公開された1949年当時の笠智衆45歳、原節子29歳、という主演俳優の年齢構成を見れば、旅館の一室に枕を並べて眠るふたりの男女の与えられた役柄が、夫婦ではなく「父と娘」という設定には本来微妙な違和感があるわけで、そこに性的なコノテーションを感じないほうがかえって不自然というものだろう。

「不在の階段」と「壺の映像」

京都の宿の一室で、あからさまに露呈した、笠智衆原節子の「父と娘」役がもつ性的な不自然さを、それまで抑圧・隠蔽していたのが、鎌倉の自宅の二階建て一軒家での「不在の階段」を介した、独身の父と娘との一階/二階の住み分けだったのであり、この建築構造と一体化した性的空間分割システムが、小津的な「父と娘」による家族の戯れ/秩序を維持してきたのである。

京都の旅館では、「不在の階段」が不在のため、この小津的な秩序/戯れの持続が危機に瀕している。そうした危機を回避する非常手段として導入されるのが、あの「壺の映像」なのだ。鎌倉の自宅では「不在の階段」による住み分けシステムが、父と娘を一階/二階へと垂直に分断していた代わりに、京都の旅館の一室では「壺の映像」が水平に並ぶ父と娘のあいだに割って入り、「近親相姦のイメージ」「きわめて生なましい性の露呈」を即興的に封じ込めようとしているのだ。

<おそらく小津さんは壺の映像を想定することなく、京の宿の場面を描こうとしたのだろう。(…引用者中略…)むしろ『晩春』の父と娘のような聖なる主役たちが語り合う場合、ふたりを限りなく曖昧な表情のまま繰り返しカットバックするのが、小津さんらしい表現のありようであり、なんの脈絡もない壺のたたずまいを不意にモンタージュして、劇的な意味づけをはかるような手法を小津さんは映画のまやかしとして嫌ってきたはずである。みずから定めたそうしたゲームの規則に重大な違反を重ねてまで、壺の映像を挿入せざるをえなかったのは、父と娘の表情を直接カットバックしつづけるならば、それが男と女の性的欲望へと転化し、ただならぬ近親相姦といったイメージに観客がとらわれてゆくことを、小津さん自身がまさしく恐れたからにほかならない。そして自らの戯れの果てに、思わず誘発された危うく、おぞましい欲望を鎮め、浄化するために、壺の映像が欠かせなかったのである。>*13

「壺の映像」なしに「父と娘の表情を直接カットバックしつづけるならば」云々という生々しい想定は、「不在の階段」による父と娘の一階/二階の住み分けについても適用可能なものだろう。

京都の旅館での「不在の階段」の不在が「壺の映像」の挿入を促したのだから、もしも鎌倉の自宅においても、父と娘の一階/二階の住み分けが為されなかったとしたら、『晩春』は全編において、父と娘の「近親相姦のイメージ」の危機に曝され続けることになっただろう。

それゆえに『晩春』の父娘は、二階建ての一軒家の一階/二階に住み分けしなければならないのであって、2DKのアパートに同居するなどもってのほかなのである。

秋日和』のハッピー・ウェディング

秋日和』の司葉子原節子による「婚前旅行」には、『晩春』の京都の旅館のような緊張感はない。浴衣姿の司葉子原節子とのカットバックは「壺の映像」で遮る必要もないし、そもそも2DKのアパートに同居する母娘には「不在の階段」による住み分け、などという性的分割システムに伴う葛藤とも無縁である。

この2DK暮らしの母娘の結婚喜劇が、後期小津作品中で最も幸福感に満ち溢れている理由は、出会いから交際を経て、結婚式に至るまでの娘の結婚のプロセスが、すべて祝福されるべきものとして描かれていることにあるだろう。小津が、これほど幸福な結婚を描いたのは『秋日和』だけである。

娘の結婚の物語を繰り返し取り上げた『晩春』以降の小津安二郎作品において、ごくふつうの幸福な結婚 ― 当人同士の意志に基づき、家族や周囲に祝福された結婚 ― は、ほとんど描かれることはなかった。

『晩春』『秋刀魚の味』では、画面に顔も映らない見合い相手との縁組を承諾することで花嫁姿となる娘たちからは、犠牲精神のようなものは感じられても、とても幸福感は感じられない。『彼岸花』の有馬稲子佐田啓二のような相思相愛の恋人たちの場合でさえも、結婚に不満をもつ花嫁の父・佐分利信の結婚式への欠席表明によって、なかなか幸福な結婚へとは至ろうとしない。そんな不幸な縁組が多いなか『秋日和』は、小津映画全作品中唯一、「娘の幸福な結婚」が描かれた作品といっていい。

娘・司葉子は、母・原節子の亡夫の悪友三人組(佐分利信中村伸郎・北竜二)の見合い話を断りながらも、その断った見合い相手である佐田啓二と、ふつうの恋人同士としての交際を経て、盛大な結婚式に至るのだ。

秋日和』の司葉子佐田啓二は、本人同士の意思に基づき、家族と周囲から(さらには観客から)も祝福されて結婚に至る、小津映画では唯一無二の幸福なカップルなのだ。

ふたりの交際過程が、出会いの場面から結婚式の記念撮影まで描かれているのも、小津映画では異例のものだろう。

蓮實重彦はなぜ『秋日和』には存在する結婚式場での記念撮影のシーンが『晩春』『秋刀魚の味』には存在しないのか、と問いかけ、その理由を、後者では男親が二階の娘の部屋に階段を上って挨拶した段階で、別れの儀式は済んでいるから、結婚式場をあえて映す必要はないと、もっぱら「不在の階段」と二階の娘の部屋の「女の聖域」をめぐる「住むこと」の主題と父娘の離別の儀式の相関という、主題−説話間の機能的相関という観点から答えている。

しかし、この問いにはもっと素朴に答えることが可能なのであって、『晩春』も『秋刀魚の味』も、結婚相手の顔を画面に出せないような「娘の不幸な結婚」を描いた作品なのだから、結婚式場で新郎新婦が並んで映る記念撮影のシーンを出すわけにはいかないのだ。*14*15

こうしてみると、いかに司葉子佐田啓二恋人たちが、小津映画では例外的に幸福なカップルであり、いかに『秋日和』が小津映画では例外的な祝福ムードにあふれた「娘の幸福な結婚」を描いた映画であるかがわかるだろう。*16

「永遠の処女」から「永遠回帰寡婦」へ

北竜二との再婚話を断った寡婦の母・原節子も、娘の結婚後はひとり寂しく残されているかに見える。

だが『晩春』の笠智衆の「男やもめ」には蛆がわくかもしれないが、原節子の「女やもめ」には花が咲くことひっきりなしだろう。『早春』の中北千枝子のアパートを見ればわかるように、小津映画では寡婦のアパートには必ず女友達が転がり込んでくるのである。

秋日和』の原節子司葉子母娘が住むアパートは、司の友人・岡田茉莉子が訪ねてくるだけで、そこは他作品の二階の娘部屋と同様に男子禁制の「女性の聖域」である。

しかも、そのアパートの部屋は明らかに二階以上の階にあって、そこへ出入りするためには階段を通過しなければならないはずだが、もちろん画面に階段のショットは映ることはない。

そこは団地タイプのアパートの一画にありながら、不可視の階段を通過しなければ出入りできない男子禁制の女性の聖域であるという点で、まぎれもなく他の作品に出て来る一軒家の二階の娘の部屋のヴァリエーションなのである。

原節子司葉子の母娘には二階建ての一軒家は不必要である。彼女たちは『晩春』の笠智衆原節子の父娘のように一階/二階にわざわざ住み分ける必要はないのだから、そこが男子禁制の空間ならば、2DKのアパートでじゅうぶんなのだ。

秋日和』は、本来ならば、娘を嫁に出した後は空っぽになるはずの男子禁制の女性の聖域に、寡婦である母親が暮らし続けるという、後期小津ではある意味奇形的な作品である。

『晩春』の笠智衆が娘の嫁入り後、空っぽになった二階の部屋の空白感に耐えながら一階に暮らし続けなければならないのに対して、娘とアパートの空間を共有していた原は、そこへ娘の友人・岡田茉莉子を招き入れることによって、女性の聖域をさらに活性化させることも可能になるだろう。

『晩春』の笠智衆のもとへも、娘の友人であるバツイチの「ステノグラファー」月丘夢路が慰めにくるだろうが、笠智衆は月丘を一階の応接間でもてなすことはできても、彼女ひとりを二階の娘の部屋へ上げるわけにはいかないし、ましてやふたりで二階へ一緒に上るのはもってのほかである。*17

娘の嫁入り後、男子禁制の女性の聖域で、あらためて独身のひとり暮らしを再開する原節子にふさわしい名称は「永遠の処女」ならぬ「永遠回帰寡婦」だろうか。*18

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(2013年4月14日初出)

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小津安二郎名作映画集10+10 9 東京暮色 その夜の妻 (小学館DVD BOOK)

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新潮45特別編集 原節子のすべて (SHINCHO MOOK)

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ニーチェと悪循環 (ちくま学芸文庫)

ニーチェと悪循環 (ちくま学芸文庫)

*1蓮實重彦『監督 小津安二郎』【増補決定版】、筑摩書房、2003、69−95頁

*2:「女の聖域」であるべき二階の例外として、菅井一郎・東山千栄子夫妻が娘の原節子と同じ二階に暮らす『麦秋』があるが、妻が健在で孫もいる菅井一郎は、『晩春』『秋刀魚の味』の寡夫笠智衆とは異なり、未婚の娘とともに二階に暮らす権利を有する。また『宗方姉妹』では、嫁入り前の義妹・高峰秀子を妻・田中絹代と一階に住まわせ、二階を書斎として独占する失業中の夫・山村總は、小津作品に例外的な雨に濡れたまま「不在の階段」を上ると、音を立てて倒れてそのまま変死する。『宗方姉妹』の山村總は、男女・階別の住み分け、天候・死に方の2点において、小津全作品において異常な例外、残酷な特異例となっている。

*3:より厳密を期すならば、戦地から未帰還の次男の生死は不確定のままであり、わずかな可能性を信じて夫の生還を待ち続けている原節子を「寡婦」(戦争未亡人)と呼ぶのは不適当なことなのかもしれない。ただし民法上、夫の死亡とそれに伴う再婚の自由が認められた女性は、やはり「寡婦」にカテゴライズされるべきだろう。再婚の自由放棄し、戦後も次男の嫁を演じ続ける原節子は、自分が「戦争未亡人」であることを否認する一種の戦争神経症患者ともいえるだろう。

*4淡島千景池部良は幼い子供を亡くした過去があり、それが夫婦仲に暗い影を落としている。

*5:『早春』は、中北千枝子が出演した唯一の小津作品だが、その甲斐あってか(?)、また浦辺粂子が営む実家のおでん屋のおかげもあって、小津映画のなかでは最も成瀬的な雰囲気に近づいている作品だと思う。

*6:なお小津が「トップバッター女優」岡田茉莉子に花嫁役を演じさせなかった理由は、親友・岡田時彦の「お嬢さん」に、花嫁=「画面から消え去る娘」を演じさせたくなかったから、というのは考えすぎだろうか。なお、岡田茉莉子の花嫁姿は中村登の「小津追悼?作品」『結婚式・結婚式』(1963)で見ることができる。http://d.hatena.ne.jp/jennjenn/20140816

*7:もし、小津作品からベストワンをあえて選ぶとするならば、やはり『麦秋』だろう。それは菅井一郎が原節子の父親役に入ったことで、笠智衆原節子が兄妹という無理のない関係に収まったこと、そして三宅邦子の兄嫁と原節子との関係(砂浜のクレーン撮影!)、さらには家出騒動を起こす甥っ子たちとの関係、大和のおじいさん(高堂國典)との関係をポリフォニックに描いたうえに、『東京物語』での東山千栄子の死の描写のようなメロドラマ的冗長性を「記念写真」でクールに断ち切っているからだ。なお裏のベストワンは『東京暮色』。これは小津的ホームドラマが本当はホラー映画であることを自ら露呈した問題作。夫と子供を捨てて出奔した挙句に引揚者として東京に戻って来た山田五十鈴が営む二階の麻雀屋と笠智衆の通うパチンコ屋の一階との空間的対立山村聰を雨で打ち殺した『宗方姉妹』の呑み屋の主人役に引き続き「地獄の飲食店主」(珍々軒!)としてキャスティングされた藤原釜足、『非常線の女』そっくりのセットで有馬稲子を補導する刑事・宮口精二、白いマスクから黒い喪服に着替える原節子。これらすべてが揃いも揃って、薄幸なヒロイン有馬稲子の死/消滅が、他作品での娘の嫁入り/消滅と、構造的には同型であることを残酷に立証している。

*8:それにしても『麦秋』の菅井一郎は透明で美しすぎる。この上品で控えめな老紳士が『滝の白糸』(溝口健二、1933)で、入江たか子ケダモノのように襲った、強欲で卑劣な高利貸と同一人物だとは、何度見ても信じられない。

*9:蓮實・同書、150頁

*10:老夫婦が息子夫婦、嫁入り前の娘、孫と同居する日常を描いた『麦秋』には、本来の意味での「小津的なもの」に満ちあふれている。老夫婦が上京して息子、娘たちと久々に再会するメロドラマ東京物語』と比較すると、その点はすぐに明らかになるだろう。

*11:『国際シンポジウム 小津安二郎 生誕100年記念「OZU 2003」の記録』、朝日新聞社、2004、243頁。ここで吉田監督のいう「命を賭けた戯れ」としての「父と娘のほとんど同衾」という発言は、このシンポジウムのクライマックスとなっている。

*12吉田喜重小津安二郎の反映画』岩波書店、1998、157−158頁

*13:吉田・同書、159−160頁

*14:『晩春』『秋刀魚の味』において、娘の結婚式はすなわち「娘の葬式」であり、画面に姿を見せない結婚相手はいわば「死神」である。そんな新郎=死神を画面に映さないのは、キャスティングの問題からいっても、当然のことだろう。『晩春』では画面に映らなかった原節子の結婚相手(ゲーリー・クーパー似?)は、『東京暮色』の子連れ家出妻・原節子の夫・信欣三の死神のような風貌となって回帰する。『東京暮色』のラストで原節子は夫とやり直す決意を示すが、成瀬映画のような夫婦の会話/和解の場面は一切ないし、有馬稲子の死=消失は他作品の娘の嫁入り=消失と見分けがつかない。かくも残酷な小津!

*15:小津映画の記念撮影場面がいかに不吉なものであるかについては、四方田犬彦の『長屋紳士録』の詳細な分析(「小津安二郎―不在の映像」)を参照。四方田犬彦『エッセ・シネマトグラフィック 映像の招喚』青土社、1983、65−85頁

*16:『麦秋』の原節子と二本柳寛の結婚も幸福な部類に入るかもしれないが、秋田へ赴任する子持ちの寡夫・二本柳寛との唐突な結婚を契機に、原節子の家族は秋田・奈良・鎌倉に「一家離散」することになるのだから、この結婚を心から祝福してくれるのは、二本柳寛の母親役の杉村春子だけである。「紀子さん、パン食べない? アンパン」と。

*17:『秋刀魚の味』で笠智衆が友人の北竜二を「不潔」呼ばわりするのは、北竜二が笠智衆の守った「境界線」を越えて、自分の娘と同年代の女性と再婚したためである。

*18:同年公開の東宝創立35周年記念作品『娘・妻・母』(成瀬巳喜男、1960)で原節子は、嫁ぎ先から実家に一時「出戻り」中に、夫と死別して寡婦になったにもかかわらず、仲代達矢の若い恋人とのキスシーンを楽しむのんきな奥さんを演じていて、実に色っぽい。仲代達矢インタビューによると、女優マネージャーからの接触禁止要請と監督キス強行命令との板挟みになりながら、原節子本人のOKにより直接唇を重ねたそうである。『新潮45特別編集 原節子のすべて (新潮ムック)』

2015-06-30 マキノ流ローポジション2本立て

[]『江戸の悪太郎』(1939)『ハナコサン』(1943)

https://www.youtube.com/watch?v=mwhM9cg75Zo

驚嘆すべきマキノ雅弘論『マキノ雅弘 映画という祭』(新潮選書)のなかで、山根貞男は『ハナコサン』終盤の「何とも不思議なシーン」について詳細に論じている。

<戦中につくられた家庭劇やメロドラマによくあることだが、夫に召集令状がくるところで映画は終盤を迎える。赤ん坊を乳母車に乗せて散歩していた轟夕起子が、会社帰りの灰田勝彦と会い、小学校の校庭で話す。妻は出征するあなたに何かしてあげたいと言い、「お前の好きなことをすればいい」と答える夫に、何をするかと思いきや、でんぐり返りをやってみせ、おかめの面の踊りに移る。お面は夫が模型飛行機と一緒に買ってきたもので、さきほど「お前だと思って持ってゆくよ」と説明し、二人で笑った。お面を頭の後ろに着け、前向き後ろ向きをくりかえす踊りゆえ、お面とふっくらした丸顔がくるくると入れ替わる。と、妻は模型飛行機を飛ばし、それを追ってススキの原っぱへ走りこみ、夫は赤ん坊を胸に妻の名前を呼んで探す。画面は轟夕起子のにこやかなアップ、広いススキの原に離れ離れに立つ夫と妻の姿、親子三人がススキの彼方へ歩いてゆくロングショット、とつづいて終る。>*1

山根氏はさらに<何とも不思議なシーンで、でんぐり返りといい、おかめの面の踊りといい、すっきり文脈を読み取れない。その不可解感はラストのススキの原へつづき、轟夕起子は笑みを浮かべ、灰田勝彦は赤ん坊を抱いてにこにこし、まさに若い夫婦の幸せぶりを絵に描いたような光景だが、どこか暗い。単に暗いのではなく、明るいのに暗く感じられることが、不気味なのである>と続け、この一連の場面の不思議さ、不気味さに戦争の影が見えることを示唆している*2

しかし、ここで注目したいのは、この轟夕起子のでんぐり返りが、地面すれすれのローポジション撮影によって捉えられていることである。鞍馬や吊り輪といった体操用の器具が設置してあるグラウンドを赤ん坊を連れた夫婦は散歩し、会話をする。夫・灰田勝彦は赤ん坊を地面に下ろして歩かせ、その横で轟夕起子は、出征する夫のためにと、とつぜんのでんぐり返しを始めるのだ。

その映像は鞍馬の下から覗くような構図のショットを交えることで、カメラの位置の低さを不自然なまでに強調したものになっている。とつぜんのでんぐり返りだけでも不思議だが、この低さをあえて強調したローポジション撮影によって、これらがいっそう「何とも不思議なシーン」になっていることは確かである。

轟夕起子のとつぜんのでんぐり返りは、この例外的なローポジション撮影のショットを画面に導入するための運動=イマージュとして、強引に実行されたのではないかとさえ思えてくる。しかもこのシーンの直前には、いかにも戦時らしく上空を飛び交う飛行機の編隊を捉えた仰角ショットがインサートされているのだから、このローポジション撮影による水平ショットは、いやでも上空を捉えた仰角ショットと極端な角度差=高低差のコントラストを形成して、戦時特有の(?)緊張感を帯びている。

編隊飛行の仰角ショット、というだけならば、必ずしも戦時体制と結びつける必然性はないかもしれないが、同じローポジション撮影の被写体の一員である赤ん坊が、夜間空襲の灯火管制のさなかに出産シーンを迎えていたことを考えるならば*3、このローポジション撮影による水平ショットと仰角ショットとの高低差のコントラストに、山根氏が示唆する「戦争の影」を見る必然性はじゅうぶんあるだろう。*4*5

ローポジション撮影による水平ショットと仰角ショットとの角度差=高低差のコントラストは、戦前版『江戸の悪太郎』にも見ることができる。

その高低差のコントラストは、悪徳祈祷師に長年守ってきた貞操を奪われた武士の未亡人が、投身自殺する場面の前後に現われる。

夫の失踪後、露店商を営みながら、貧乏長屋に幼い息子と暮らす武士の「未亡人」星玲子は、商売の仕入れの金を落とした幼い息子が家出状態になって日が暮れても帰らないのを探しに出かける。息子が心配な母親は、つい悪徳祈祷師に子供の行方を占ってもらうが、その屋敷での祈祷の最中に、祈祷師の術に陥って、夫の失踪後守り続けてきた貞操を奪われてしまう。祈祷を終えた彼女は放心状態のまま橋の上に立ち、そこで発作的に投身自殺をしてしまうことになるのだが、その投身自殺の舞台となる橋のセットの橋脚が、とても江戸の町内にかかった橋とは思えないほど極端に細く高い造作になっているのがまず目につく。

その細く高い橋脚のために、夜の橋の上に立つ星玲子の最後の姿を橋の下(ローポジション!)から見上げた仰角ショットには、表現主義的といっていいほどの異様な雰囲気が漂っている。

その異様な雰囲気は、翌朝、彼女の死が貧乏長屋に伝えられる場面でいっそう増幅されることになる。早朝の貧乏長屋の前の広場にはニワトリが2,3羽歩いているのだが、そのニワトリをローポジションのカメラが捉え、ニワトリを前景にして長屋全体がローポジション撮影に収められる。そこへ星玲子の投身自殺の知らせが届けられ、長屋の住人たちは騒然となる。

画面は、ローポジション撮影による貧乏長屋の水平ショットから、前の晩に星玲子が立っていた、例の細く高い橋脚の橋のセットに野次馬の群れがひしめいている様子を橋脚の下から見上げた仰角ショットにつながる。

このニワトリを前景にした長屋のローポジション撮影の水平ショットと、投身自殺現場である橋の仰角ショットとのカットバックが生み出す、圧倒的な角度差=高低差のコントラストが、画面には直接映っていない星玲子の死に至る落下運動を、雄弁かつ残酷に物語っているのだ。

異様なまでに細く高い橋脚のセットは、ここでは死に至る高低差を形成するために不可欠なものとなっている。*6

やがて戸板に載せられた遺体が長屋に運ばれ、一晩の家出から帰ってきた息子にも、寺子屋の先生・嵐寛寿郎の口から母親の死が告げられる。この寺子屋の師弟ともに辛い場面でも、ローポジション撮影の水平ショットと仰角ショットによる高低差のコントラストは、執拗に変奏される。

星玲子の遺体を運ぶ戸板の下から覗くような極端なローポジションからの水平ショットで、その母親を亡くした息子の姿が捉えられる。その幼い息子に母親の死を告げる嵐寛寿郎の沈痛な表情のアップは息子の見た目ショット(POV)によって捉えられ、ローポジションからの仰角ショットによるアップは、大人の顔を見上げる子供の視線をリアルに表象している。

この長屋シークエンス全体に見事に組み込まれた、ローポジションからの水平ショットと仰角ショットとの角度差=高低差のコントラストは、自分の過失が原因で母親の死を招いてしまった子供の運命の残酷さを強調して止まない。*7

『ハナコサン』と『江戸の悪太郎』の2作品に見られるローポジション撮影+仰角ショットという組み合わせは、その角度差=高低差のコントラストが、時代劇/現代劇を問わず、物語の内容表現にまで影響を及ぼすほどの強度を秘めているという点で、非常に独特な用法といえるだろう。

このマキノ流ローポジション撮影(+仰角ショット)は、同じローポジション撮影でも、小津安二郎のそれとも、加藤泰のそれともまったく異質な効果、強度をもつものとして、あらためて注目すべきだろう。。

なお、戦後版『江戸の悪太郎』(1959、東映)と戦前版とを比較すると、戦後版の投身自殺の舞台となる橋は普通の時代劇のセットで、画面には橋脚そのものが映っておらず、戦前版にあった細く高い橋脚の下からの不気味な仰角ショットは存在しないので、その印象は大きく異なる。

長屋に母親の遺体を運ぶ戸板下からのローポジション撮影による水平ショットは、戦後版にもいちおう存在するのだが、身投げの落下運動を連想させる仰角ショットとのカットバックもないため、高低差のコントラストを形成することはない。

幼い息子に母親の死を告げる寺子屋の先生・大友柳太郎の表情も、戦前版のような子供目線のPOVではなく、常識的なバストショットに収まっている。

戦後版『江戸の悪太郎』は、笑いと涙を誘う「金貸し婆あ」役・浪花千栄子の圧倒的な名演もあって、戦前版をおおっていた表現主義的な暗さを完全に払拭した見事な東映娯楽時代劇作品としてリメイクされている*8

(2012年10月5日初出)

マキノ雅弘―映画という祭り (新潮選書)

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丹下左膳餘話 百萬両の壺 [DVD]

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人情紙風船 [DVD]

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*1山根貞男マキノ雅弘 映画という祭』新潮選書、76ページ

*2:ススキの原で轟夕起子の姿が一瞬見えなくなる不穏な動作、共に笑顔を見せているとはいえ「広いススキの原に離れ離れに立つ夫と妻」との異様な距離感のために、このススキの原のラストシーンは、夫の出征後の「ハナコサン一家」の暗い運命を予感させずにはいられない。『ハナコサン』の5年後の1948年溝口健二『夜の女たち』とほぼ同時期に、当時の食糧事情に逆らうようにメタボ体型化した轟夕起子街娼「関東小政」を奔放に唄い演じた『肉体の門』が公開されているが、この『肉体の門』は、じつは『夜の女たち』の田中絹代と同様に、敗戦で夫と赤ん坊を亡くした「ハナコサン」轟夕起子の後日譚なのではないか、という疑念をどうしても抑えることができない。

*3:この灯火管制下の出産シーンは、天井の裸電球1つと隣室の電気スタンドのランプシェードからの薄明かりによる西川鶴三の照明設計が素晴らしい。出産シーンと書いたが、産声が響くのは翌朝になってからである。

*4:おかめのお面を後頭部につけて轟夕起子がくるくる回る(表返る!)シーンの不思議さ、不気味さは、それが表と裏、正面と背面とを同時に映すことはできないという映画の制度的な限界を、高速マキノターンとお面の主題の結合という安直な手法(?)によって侵犯しているところから来ていると思う。ここでは高速マキノターン+後頭部のおかめのお面によって、表と裏、正面と背面との階層的な差異が失われ、すべてが「表返っただけ」の状態に還元されてしまうのだ。ここではもう、表の轟夕起子の顔と裏のおかめの顔とを区別することは無意味になっている。戦時中、こんな映画的冒険を易々とやってのけるマキノはやはり怖ろしい。

*5:「戦争プロパガンダ映画」としての『ハナコサン』の両義性については、紙屋牧子氏の論文を参照。http://ci.nii.ac.jp/els/110009480110.pdf?id=ART0009947559&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1425777273&cp=

*6:この細く高い橋脚のセットがマキノ本人の特注によるものなのかどうか、ぜひ知りたいものだ。

*7:『江戸の悪太郎』の「貧乏長屋」と「子供の家出」の描写には、マキノの盟友・山中貞雄の影を見ずにはいられない。

*8:高低差のコントラストといえば、戦前版『江戸の悪太郎』で、三吉として男装していた轟夕起子が女性であることを瞬時に露呈させるのは、名人会での場つなぎに伊奈節を唄う場面で披露する、宝塚仕込みの歌唱力によるアルトからソプラノへの1オクターブ飛ばしの高音へのジャンプアップだったが、この戦前の宝塚トップスターならではの「桁はずれに偉い」高低差のコントラストも、戦後版の三吉役の大川恵子が伊奈節を唄う場面(たぶん吹き替え)では、やはり失われてしまっている。もし戦後版が美空ひばり主演でリメイクされていたならば、事情は大きく違っていただろうが…。

2015-01-05 2014年映画「ベストテン」あるいは「Yの喜劇」

[]2014年映画「ベストテン」×3+α

 

5日遅れになったが、2014年映画「ベストテン」は以下の3通り。

〇日本映画ベストテン

寄生獣』(山崎貴

『銀の匙 Silver Spoon』(吉田恵輔

Seventh Code』(黒沢清

『ニシノユキヒコの恋と冒険』(井口奈己

『小さいおうち』(山田洋次

『青天の霹靂』(劇団ひとり

『ほとりの朔子』(深田晃司)

『イヌミチ』(万田邦敏

『坂本君は見た目だけが真面目』(大工原正樹)

超高速!参勤交代』(本木克英

  

アメリカ映画ベストテン

キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー』(アンソニー・ルッソ、ジョー・ルッソ)

ジャージー・ボーイズ』(クリント・イーストウッド

『セインツ 約束の果て』(デヴィッド・ロウリー)

ラッシュ/プライドと友情』(ロン・ハワード

グランド・ブダペスト・ホテル』(ウェス・アンダーソン

エヴァの告白』(ジェームズ・グレイ

『エクスペンダブルズ3 ワールドミッション』(パトリック・ヒューズ)

とらわれて夏』(ジェイソン・ライトマン

ダラス・バイヤーズクラブ』(ジャン=マルク・ヴァレ

ゴーン・ガール』(デヴィッド・フィンチャー

 

〇東西洋画ベストテン(+5)

ドラッグ・ウォー 毒戦』(ジョニー・トー

『罪の手ざわり』(ジャ・ジャンクー

ソウルガールズ』(ウェイン・ブレア

『やさしい人』(ギヨーム・ブラック)

『祝宴!シェフ』(チェン・ユーシュン)

『天才スピヴェット』(ジャン=ピエール・ジュネ

『イーダ』(パヴェウ・パヴリコフスキ)

『トム・アット・ザ・ファーム』(グザヴィエ・ドラン)

『ソニはご機嫌ななめ』(ホン・サンス

収容病棟』(ワン・ビン

『めぐり逢わせのお弁当』(リテーシュ・バトラ)

西遊記〜はじまりのはじまり〜』(チャウ・シンチー

『エレニの帰郷』(テオ・アンゲロプロス

『ストックホルムでワルツを』(ペール・フリー)

『NO』(パブロ・ラライン)

 

日本映画ベストテンでは、山崎貴山田洋次が上位に入るという異常態が起きてしまった。

寄生獣』の詳細はすでに書いたので*1、ここでは監督デビュー53年目にして成瀬巳喜男の風雨とトリュフォーエクリチュールとを融合させた『小さいおうち』に関して、多少の難点には目をつぶってでも評価したいと思ったことを明記しておく。それにしても、中堅&大ベテランの両Y監督の前作品との信じがたい落差は、旧来の「作家主義政策」の失効を告げるものだろうか。

次点の『銀の匙 Silver Spoon』は、なめショットでの縦構図で人畜入り混じったモブシーンをさばいた演出・撮影のコンビネーションが際立った見事な「ビスタサイズ映画」であり、こちらのY監督もまた前作を大きく上回っている。

時代劇枠として『超高速!参勤交代』をチョイス。往年の市川雷蔵森一生コンビの「殿さま道中もの」を連想させるこの作風は悪くない。

 

アメリカ(合衆国)映画のベストは『ウインター・ソルジャー』。ひたすら降下し続けるエレベータをはじめ、落下・降下・沈下とガラスの破砕にこだわったアクションと70年代政治サスペンス映画オマージュロバート・レッドフォード!)が噛み合った類い稀なる成功例。上位三作は文句なしの「アメリカ映画」ということで選出した。

アメリカ(合衆国)映画以外の東西洋画ベストテン(+5本)は『ドラッグ・ウォー 毒戦』がベスト。本作と『ウインター・ソルジャー』とを並べてみると、現代のアクション映画の成否は、どれだけ道路封鎖して撮影できるかにかかっているかに思えてくる。

2014年は「ミュージシャン実録もの」の当たり年でもあった。オーストラリアアボリジニ女性がベトナム戦争に「黒人ソウルグループ」として米軍の慰問をした実話『ソウルガールズ』は『ジャージー・ボーイズ』に次ぐ傑作。スウェーデンのジャズ歌手モニカ・ゼタールンドを描いた『ストックホルムでワルツを』もよかった。どちらも「非アフリカ系」の女性歌手が「ソウルミュージック」「ジャズ」といった「アフリカ系音楽」の分野で活躍するというシニカルな共通点がある。

以上、各ベストテンは2014年劇場一般公開作品から選出したが、スクリーン初上映ということでは『有名になる方法教えます』(ジョージ・キューカー、1953)が文句なしのベストワンになる。

『スタア誕生』のような、ハリウッドを舞台にしたテクニカラー・シネマスコープサイズの「固有名の残酷劇」を演出する一方で、NYロケによるモノクロ・ビスタサイズの「固有名の狂騒劇」を同時期に撮ってしまうキューカーは、ある意味ジョン・フォード以上に恐るべき存在である。

また2014年に見た新作映画で最も先端的だったのは、東京フィルメックスで上映された篠崎誠『SHARING』。早い一般公開が望まれる。

一般公開された際には、「右枕」で入眠・覚醒を繰り返すヒロイン・山田キヌヲ体験する東北大震災にまつわる幻覚/予知夢の音響的性格と、右耳だけを露わにし髪の毛で左耳を隠した彼女の耳の左右非対称性との不思議な相関性に、ぜひ注意してほしい。

D

 

2014年「勝手に映画賞」は以下の通り。

 

女優賞松たか子(『小さいおうち』『アナと雪の女王』)、深津絵里(『寄生獣』)

男優賞;染谷将太(『寄生獣』『ドライブイン蒲生』)、伊藤英明(『WOOD JOB! 〜神去なあなあ日常〜』)

新人賞;上白石萌音(『舞妓はレディ』)、工藤阿須賀(『百瀬、こっちを向いて』)

照明賞;渡邉孝一(『小さいおうち』)

美術賞;杉本亮(『青天の霹靂』)

衣装賞;宮本まさ江(『百円の恋』)

編集賞;穗垣順之助(『寄生獣』『チーム・バチスタFINAL ケルベロスの肖像』)

VFX賞;山崎貴渋谷紀世子(『寄生獣』)

脚本賞;古沢良太・山崎貴(『寄生獣』)

録音賞;百々保之(『SHARING』)

撮影賞;志田貴之(『銀の匙 Silver Spoon』)

監督賞吉田恵輔(『銀の匙 Silver Spoon』)

出版賞;『トリュフォー最後のインタビュー』(蓮實重彦山田宏一平凡社

 

以上、部門別に「勝手に映画賞」を選出しましたが、これはあくまでも当方の勝手な判断によるものですので、受賞された方もされなかった方も、どうかいっさい気になさらないで下さい。

ただし『トリュフォー最後のインタビュー』の出版賞にかぎっては、英語版の出版を促したいがための30年遅れの非常処置です。

これは絶対スピルバーグに読んでほしい。

 

2015年はよい年でありますように。

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「ボヴァリー夫人」論 (単行本)

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2014-12-17 染谷将太の右側に気をつけろ

[]寄生獣』(山崎貴

http://kiseiju.com/

D

山崎貴監督『寄生獣』は、山田洋次監督『小さいおうち』とともに、2014年の日本映画で最も喜ばしい「誤算」といえよう。2014年の日本映画は、Yというイニシャルによる嬉しい誤算で始まり、さらにもうひとりのYによる嬉しい誤算で年越しを迎えることになったわけだ。*1

長年の念願だったという『寄生獣』の映画化にあたって、山崎貴にとっての幸運は、染谷将太という唯一無二の主演俳優を得たことだ。本作における演出特撮、日常と非日常の絶妙なバランスは、ミギー相手の特撮演技を完璧にこなした上で、自身も人間ならざる者へと変容していくプロセスを生身で演じきった染谷将太がいたからこそ達成できたものだろう。*2

染谷とミギー阿部サダヲ)の会話場面の視線と声のマッチングは、演出特撮・撮影・演技・照明・美術・編集等、すべてのバランスがとれていなければ、あれほどうまくはいかなかったと思う。

CG全開であるはずのミギーとの会話場面が、他の人物との日常会話場面と同等の日常性を得たことによって、深津絵里東出昌大ら、他の「パラサイト」たちとの議論劇の場面が、声のトーンが少し無機質に変わっただけで、異生物間対話の異様な緊張感を獲得できていることも見逃せない。

深津絵里の素晴らしい「パラサイト」演技、とりわけ無機質で深く響く声は、観念的、抽象的になりがちな、異生物と人類との共存をめぐる議論に、独特の肉声的リアリティを与えているのだが、それもまた全体的な声のアンサンブルあってのものであることに注意しなければならない。

本来は不自然で非日常的なはずである染谷・ミギー会話場面の視線・声のやり取りの自然さ、日常的な既視感がベースにあるからこそ、深津絵里が加わった「三者鼎談」、さらには東出昌大池内万作らが加わった「ネットワーク会議」が、無機質な声の絡み合いによって、シリアスなSF的議論劇として成立しているのだ。

深津絵里ひとりの声が素晴らしい、というだけではそれは成立困難なのであって、あくまでも染谷、阿部、深津、東出らによる声のアンサンブルが、SF的議論劇に必要なポリフォニックな肉声的リアリティを与えることにはじめて成功しているのだ。

所詮は絵空事であるSF的議論劇にとって必要不可欠な映画的リアリティとは、セリフの意味内容のリアリティ真実味)よりもまず、それを論じあう複数の声のポリフォニックな肉声的リアリティ(迫真性)であることを忘れてはならない。こうした声のバランスを間違えると、議論場面は観念性、抽象性に陥って、映画的な活力を往々にして失うことになる。*3

 

(以下、ネタバレあり)

 

本作で最も評価すべきポイントは「右手」にまつわる主題系の一貫性だろう。

人間の脳に寄生し、頭部を自在に凶器に変形させて攻撃してくるパラサイトに対して、ミギーの右手だけが勝手に変形し、その変形右手と通常の左手のコンビネーションによって勝機を得るミギー・染谷コンビにおいては、まず左右の独立性、非中心的な不均衡性が際立っている。

パラサイトによる「顔割れスプラッター」は一見異常な動きであるが、あくまでも一つの意志(脳)によって統御された中枢的な動きであるのに対し、ミギー・染谷コンビは意志、視線、声、動作形態的において右往左往しながら共闘することで、画面を変則的に活気づけているのだ。

クライマックスのひとつである、東出昌大による美術室での暴走スプラッター事件では、廊下に転がる血まみれの死体の群を前にして過呼吸に陥りへたり込む染谷将太を、ミギー阿部サダヲ)が「君の心臓はこんなことでは壊れない」と励ます場面は、そうした左右の「両頭性」が現れていて不思議な感動を与える。

染谷の心臓はすでにミギー細胞によって修復されたものであるのだから、ここでの「心臓」の一語に融合の主題を見出すことも可能だろう。だがミギー阿部サダヲの励ましによって、声を引き攣らせながらも眼はしっかりと坐ったまま廊下の奥へ進んでいく染谷将太の表情は、どんなパラサイトの「顔割れ」CGよりも不気味で恐ろしく、そこには単なる異生物との融合を越えた「人間ならざる者」への変容と進化を体感させられるほど、ここでの染谷将太の異貌ぶりには鬼気迫るものがある。

そして窓から橋本愛を抱きかかえての空中への大ジャンプ、さらには別棟の屋上に上ってからのとどめの一撃までのシークエンスは、かって染谷将太が「屋上が似合う傷だらけの不死身の異能少年」を演じた『嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん』(瀬田なつき、2012)を改めて演じなおしているかのような、不思議な映画的感動を与えてくれるのだ。

原作ではミギー独力による投石だった「とどめの一撃」は、左手と右の手の対等な共同作業として、弓矢という左右均衡のフォルムに改変されているが、それもまた右手に伴い左手も進化した「屋上が似合う傷だらけの不死身の異能少年」染谷将太の新たに達したステージを表すものなのだろう。*4

右手(左右)の主題系はまた「母性の神秘」という問題ともつながっていく。

主人公の母・余貴美子の右腕には火傷の跡があり、それは幼い息子を守ろうとして出来たものだと、その火傷の由来は染谷とミギーの会話の中で明かされる。「大事なのは自分の命だけだ」と主張するミギーは、そうした母親の犠牲的行為に理解不能な神秘性を見出す。

寄生主の父母との面会時に母親にだけその正体を直観的に見抜かれた深津絵里は、自ら人間の子を妊娠して「理論を越えた母性の神秘」を実験的に追求しようとする。

他のパラサイトの反対を押し切ってまで、ミギー・染谷コンビを異生物と人類の共生に不可欠なモデルと主張する深津絵里が「顔割れスプラッター」で両親殺害後に、元通りに戻ったはずの自分の顔を一瞬確認する鏡のショットでは、鏡の中で左右反転した自分の顔を注視する無機質な視線から母性を介して異生物と人間とのあいだで揺らぐ彼女の特異性が読み取れる。

母・余貴美子に寄生したAとの河川敷での最終対決直前、ミギーは睡魔に襲われ、右手に剣の形状だけを残し、入眠・活動停止してしまう。染谷将太は母・余貴美子の脳に寄生するパラサイトAと独力で戦わなければならない。すでにミギー細胞との融合が進み、超人的な身体能力でパラサイトと互角に戦う染谷だが、パラサイトの策略によるものかマザコン少年ゆえの怯みからか、戦闘中に母・余貴美子の息子に懇願する声と顔を幻視して一瞬攻撃の手を止めてしまう。その瞬間を狙って、かって染谷の心臓を破壊した槍状の凶器がパラサイトの顔から伸びてきて、再び染谷にとどめの一撃を刺そうするのだが、余貴美子の右手が勝手に動いてその方向を逸らす。母親の右手によって間一髪で刃先をかわした染谷将太は、余貴美子パラサイトAを倒し、母親のボディ(死体)を取り戻す。

協力者の力でAを倒す原作からのこの映画版の改変は、右手の主題系の一貫性という観点からみて賞賛に値するものだ。

染谷の窮地を救う余貴美子の右手の動きは、決して感傷的な母性愛の表現などではない。それはまずミギーの入眠によって入れ替わりに覚醒した「もうひとつの右手」として『寄生獣』における右手の主題系の一環を担っていることに注意しなければばらない。それは個人的な意志や感情を越えた、システマティックな主題論的運動なのである。*5

頭部からの攻撃を勝手に逸らした右手の動きには、余貴美子(の頭部)も茫然としていたが、それはまさに人間や異生物の意志を越えた、非人称的な主題系メカニズムの一貫性に対する驚きの現れなのだ。

過去から現在まで主人公が「右手に守られ続けてきた存在」であること。これこそが映画『寄生獣』で山崎貴・古沢良太コンビが仕掛けた主題論的一貫性である。それはまた、なぜ主人公が右手だけを異生物に寄生され、それが「ミギー」と名乗るようになったかということに対する、映画からの主題論的回答でもある。

その主題系に理論を越えた「母性の神秘」や「利他性」という問題系(プロブレマティック)がどう関わり発展していくかは、完結編でのお楽しみということになる。*6

なお、これだけの内容を109分にまとめた編集は、最近の日米映画の中では「GOOD JOB!」。完璧に近いキャスティングを実現したプロデューサーの努力も賞賛に値する。

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*1:作品の批評的価値はともかく、山崎貴は『永遠の0』『STAND BY ME ドラえもん』の二作で興業成績でベストワン監督になったことも、さすがというしかない。両Y監督作品の生み出す興行的価値は、曖昧な批評的価値よりもはるかに強力で貴重なものだ。

*2ミギーとの会話場面では『ただいま、ジャクリーン』(大九明子、2013)の腹話術人形遣い役の経験が生かされたのではないかと思う。また染谷将太が「屋上の似合う傷だらけの不死身の異能少年」を演じた『嘘つきみー君と壊れたまーちゃん』(瀬田なつき、2012)と本作は主人公をめぐる流血と蘇生、屋上からの跳躍といった主題系を深く共有している。映画的間テクスト性の実例として興味深い。http://d.hatena.ne.jp/jennjenn/20110124/p1

*3:その点で『寄生獣』の人類と異生物の共存をめぐる議論の「映画的リアリティ」は、たとえば『X−メン』シリーズを上回っていると思う。また声のトーンやリズムはまったく異なるが、『日本の夜と霧』(1964)をはじめとする大島渚議論劇も、そうしたポリフォニックな肉声的リアリティによって、いまだに新鮮さを保っている。

*4染谷将太には監督としてもぜひ、新たなステージに進んでほしい。なお染谷将太東出昌大共演のドラマ『ホリック xxxHOLiC』では東出昌大が弓道部員役だった。http://d.hatena.ne.jp/jennjenn/20110130https://www.youtube.com/watch?v=EbhLOooTlJshttp://www.mgoon.com/ch/amishinny/v/5379768

*5:「テマティックとはシステマティックであると同時にサイバネティックである」(ジャン=ピエール・リシャール)。

*6:テマティスム批評が真に狙うものは、主題系・説話系・問題系の相関構造の解明である。主題系それ自体の分析や主題系相互の相関関係の分析は、とりあえずの入り口にすぎない。むろん、その入り口を抜けるのが一番厄介なのだが。なお2015年4月公開の完結編では、原作にはなかった「3・11」以降にまつわるプロブレマティック(問題系)が、おそらく展開されることになるだろう。

2014-11-22 星条旗と救世軍とスウィートホーム

[]『善人サム』(レオ・マッケリー、1948)

http://www.kinenote.com/main/public/cinema/detail.aspx?cinema_id=5232

善人サム [DVD]

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度を越した博愛趣味・慈善癖・隣人愛による過剰融資のため、夫婦2人に子ども2人に居候の義弟と一家5人で借家住まいを続けるお人好しのデパートの支配人と、アーリー・アメリカン調のマイホーム購入を夢見る妻とのギクシャクした関係を描いた、レオ・マッケリーならではのほろ苦いホームコメディの傑作。

ゲーリー・クーパーは得意の「お人好しではた迷惑な理想主義者」を演じて申し分ないし、アン・シェリダンも「専業主婦」の役ながら、シースルーのネグリジェ、ジプシー占い師の仮装とセクシーなコスプレを人前で演じながら下品ないやらしさを感じさせず、とりわけ大声で笑い、大声で泣き伏す感情表現の豊かさが、無表情なゲーリー・クーパーの演技と絶妙な均衡を形づくっている。

古くからよく言われる喜劇の鉄則の1つに、役者を笑わさず観客を笑わせろ、というのがあるが、ゲーリー・クーパーに抱きかかえられながら、大声でゲラゲラ笑い続けるアン・シェリダンを見ていると、レオ・マッケリーにとって、そうした古臭い鉄則が何の意味ももっていないことが非常によくわかる。

また、一方で、念願のマイホーム購入直前に、クーパーが購入資金の大半を、妊娠中の妻を抱えて困窮していた隣人のガソリンスタンド購入に融資していたことが発覚したとき、マイホームの夢破れて大声で泣き伏すアン・シェリダンと、赤ん坊のためだったんだと、言葉少なに取り繕うゲーリー・クーパーとの、なんとも「日本的な夫婦喧嘩の場面」の素晴らしさを見ると、いかに小津安二郎成瀬巳喜男らがアメリカ映画、特にホームコメディを徹底して模倣・学習し、それを巧みに日本的風土・家屋に移植してきたかが実感できる。

同じシチュエーションを、たとえばもし、成瀬巳喜男上原謙高峰三枝子のトリオで演じさせたとしていたならば、カット割りは違っても、ほぼ同様な水準の場面の演出がなされたのではないだろうか。

すったもんだの末に、ガソリンスタンドへの融資は利子付きで完済され、アン・シェリダンの念願だったアーリーアメリカン調の家具付きの新居への入居も決まり、これでめでたいクリスマスとなるところで、最後にひと悶着起こす手腕はマッケリーならではのものだ。

クリスマス・イヴの日に、銀行に行く途中、ゲーリー・クーパーは女性の強盗に頭を殴られ、金を奪われてしまう。親友の銀行の融資係りに事情を説明して住宅資金融資を申し込むが、クーパーへの融資リスクが大きすぎると断られてしまう。

銀行からの帰りに自宅へよると、家具付きの新居への即日入居が決まり、アン・シェリダンは嬉しそうに古い家具一式をすべて救世軍に寄付し、うろたえるクーパーに新居でクリスマス・ディナーを作って待っていると告げる。

ホワイト・クリスマスとなり、クリスマス・ディナーを用意して家族が待ち受ける新居に帰るに帰れないクーパーは、馴染みのバーで泥酔してしまい、入店してきた救世軍ボランティアの若い女性の寄付集めの皿を蹴っ飛ばす始末。

新居では帰りの遅いクーパーを心配するシェリダンに、現行の融資係が訪ねてきて、クーパーへの住宅購入資金融資があらためて承諾されたことを、昼間の事情説明とともに伝える。

一方、泥酔したクーパーを持て余したバーの店主が、救世軍ボランティアの若い女性に、新居の自宅まで送り届けるよう頼み、嫌がるクーパーに対して、救世軍マーチング・バンドの伴奏で「HOME, SWEET HOME」(埴生の宿)を歌って送り返そうとするが、酔ったクーパーは、その店主の口を塞いで歌をやめさせようとする。

結局、救世軍マーチング・バンドは行進を始め、クーパーボランティアの女性に肩を抱えられながら、神様はサムを救った、と替歌を歌って歩き出す。

新居では、ガソリン・スタンドの店主が訪れ、妻に男の子が生まれ、名前は「サム」にしたことを報告にくるが、帰りの遅い夫「サム」を心配するアン・シェリダンは、暗い表情のまま塞ぎこんでいる。

すると、マーチング・バンドの太鼓とラッパの響きが遠くから微かに響いてくるのだが、そこからの展開が実に心憎い。

アン・シェリダンは、そのオフスペースからの太鼓とラッパの響きに反応して、椅子から立ち上がり玄関のドアを開くのだが、ここでの音響設計が『モロッコ』(ジョセフ・フォン・スタンバーグ、1930)で、ゲーリー・クーパーの安否を気遣うマレーネ・ディートリッヒが、砂漠の果てから聞こえてくる外人部隊の軍楽隊の太鼓の響きに反応して、アドルフ・マンジューとの結婚披露パーティーから飛び出す場面を、なんとも感動的に反復・変奏していることを見逃してはならないだろう。

ともにゲーリー・クーパーの安否を気遣う女性が、一方は北アフリカの砂漠を舞台にした恋愛メロドラマ、他方は雪のクリスマスのアメリカ合衆国を舞台にしたホームコメディでありながら、ともに屋外(オフスペース)から聞こえる音に対して、同じリアクションを示す。これこそジャンルを超えた、映画的な活劇のあり方というべきだろう。

玄関のドアを開けると、向こうの通りから星条旗を掲げた救世軍マーチングバンドが雪景色の中をやってくる。

その一行に、浮浪者と衣服を交換してすっかりみすぼらしい恰好になって、ボランティアの若い女性の肩に支えられて千鳥足で歩くゲーリー・クーパーも混じっている。

それを見たアン・シェリダンは、大声でゲラゲラ笑い出すとクーパーに近づき、泥酔して、家庭も仕事も捨てて救世軍入りする、というクーパーに、住宅融資を受けられた件と副社長に昇進・就任したことを伝える。

地獄から天国へ引き上げられたクーパーは、早速、救世軍入りを延期すると、救世軍バンドの演奏で、アン・シェリダンに捧げる愛のバラードを、調子はずれの声で歌い、声をあげて笑うシェリダンを抱きしめるショットで映画は終わる。

最後のクリスマスの場面、救世軍マーチング・バンドが出てくるが、このバンドの先頭に星条旗が掲げられているのは、アメリカン・イデオロギーの映画的表象として、要注目だ。

星条旗イデオロギー表象については、対外侵略的か否か、好戦的か反戦的かはともかくとして、もっぱら戦争およびナショナリズムに関連付けて論じられてきた。

しかしながら、アメリカ合衆国の「非公式国歌」ともいうべき「GOD BLESS AMERICA」の歌詞の終わりが「MY HOME, SWEET HOME」となっていることからもわかるように、星条旗が担うアメリカン・イデオロギーの特異性を見るには、対外侵略的な部分を見るだけでは十分ではないだろう。*1

それはむしろ「GOD」と「MY HOME SWEET HOME」とを媒介する、民衆的、宗教的ユニバーサル・デザインでなければならないのであって、救世軍のような国際的キリスト教慈善団体の一行が先頭に掲げても違和感がないような演出レオ・マッケリーはおこなっているのだ。

救世軍マーチング・バンドが最初に登場するのは、泥酔したゲーリー・クーパーを家に送り返そうと画策するバーの店主が、ボランティアの女性に家まで送り届けるよう頼む場面である。

そこでは先頭に星条旗を立てた救世軍のバンドがバーの店の前の通りに並んでいるのだが、家に帰りたがらないクーパーに、店主はバンドの演奏で「HOME, SWEET HOME」(埴生の宿)を歌って聞かせるのだが、救世軍という、本来は国際的キリスト教慈善団体のバンドの演奏を介して、星条旗のイメージと「HOME, SWEET HOME」という、イギリスの愛唱歌の歌詞が結びつき、その一行がゲーリー・クーパーを愛妻アン・シェリダンが待つ「アーリー・アメリカン調」の「SWEET HOME」(シェリダンはそこを「パラダイス」とも呼んでいた)に送り届けるという設定は、まさに星条旗に関するアメリカン「国=家イデオロギー」の表象の洗練形態としては、究極のものだろう(ただし「HOME, SWEET HOME」(埴生の宿)を歌う店主の口を無理やりふさごうとするゲーリー・クーパーの身振りには、レオ・マッケリー自身の、こうしたイデオロギー表象に対する違和感を見て取ることも可能かもしれない)。

ちなみに救世軍は「万国本営」をロンドンに置く国際的キリスト教慈善団体であり、とくに、クリスマスには世界各地で社会鍋による募金活動をおこなっている。

したがって、そのマーチング・バンドの先頭に星条旗を掲げる必然性はないはずなのだが、映像的にはしっくり収まっているのはなんともいえないところだ。たとえば日本映画で、クリスマスに日章旗を掲げて活動する救世軍を描こうとすれば、相当な違和感あるいは異化効果が生じるだろう。

こうしたところに「神国ニッポン」と「GOD BLESS AMERICA」とのあいだの「国=家イデオロギー」の視覚的表象の洗練度の格差を容易に認めることができるだろう。*2

*1http://klipd.com/watch/the-deer-hunter/god-bless-america-sceneディア・ハンター』(マイケル・チミノ、1978)でも『ゴッド・ブレス・アメリカ』は印象的に使われている。もちろん『君の瞳に恋してる Take My Eyes Off You』も。http://vimeo.com/33836721

*2:日本映画で救世軍が登場する作品としては、加藤泰の傑作『骨までしゃぶる』(1966)が、明治初期の救世軍の廃娼運動に乗じて、遊郭から脱出するヒロイン・桜町弘子の苦闘を描いている。救世軍の力を借りて遊郭からの脱出に成功した桜町弘子・夏八木勲のカップルが言われる「君たちは救世軍を利用してロハで身請けしたというわけだ」というセリフは印象的だ。