lessorの日記 このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2016-03-21

支援における「ズルさ」 00:29 支援における「ズルさ」を含むブックマーク 支援における「ズルさ」のブックマークコメント

・外出の支援というのは、(1)屋外での行動に支援が必要である場合と(2)屋外での単独行動に本人が不安を抱えている場合とに大きく分類できると思っていたが、もうひとつあった。(3)外出支援を使わないと出不精で家にこもってしまう場合だ。

・その(1)(2)(3)を順にこなした三日間。(2)はほぼ見守りであり、(3)は家を出た時点で、もうヘルパーとしてほとんど役割を終えている。そこから長時間になると、なかなか忍耐がいる。

・いろいろ創意工夫ができるのはやはり通所系の支援だと思える。場があるのは大きい。大人の余暇を広げていくにも、通所を拠点に考えたほうがイメージしやすいのではないか。しかし、自分の立場では無いものねだりにしかならない。

ダブルチーズバーガーのセットって、牛丼特盛と同じくらいのカロリーなのか…。罪深い商品だなあ。

・知的障害+自閉症の彼。自分で決めてもらえば、外食はどこでもマクドナルド一択になる。はじめっから頭にはマクドナルドの特定のメニューしかない。同じような人は他にもたくさんいる。「マクドナルドはダメ」と言えば「従う」人もいるだろうが、なぜダメなのか。正当な理由はない。「外食の幅を広げたい」は目標になりうるだろう。でも、一方的に選択肢を制限するような方法を正当化はしない。

・ここで都合よく集団を活用したくなる。みんなでここで食事をとるのだと。だから、今回はこの中から選んでくださいと。すると、なんとなく「折り合いをつけねばならないのは世の常」と納得できてしまう。納得するのは誰か。本人か。支援者か。

生活に変化を生じさせるのに、誰かが背中を押さねばならないタイプの人がいる。自分自身もそんなタイプなので、自発にまかせていては行動がなかなか変わらないのもわかる。それでも、同じ生活者の関係性の中で違う行動を促されて変わるのと、支援者から特定の行動に制約をかけられるのは、意味が違う。

・支援者は支援者である限り、暴力性を自覚せざるをえないのかもしれない。作為的でない人対人の関係性の中であれば、誰も罪悪感を感じることなく、自然に変容を求められるのだろう。ただ、それは暴力性に無自覚なだけであるとも思う。まして、作為的に支援者がそれを活用するのは「ズルい」。

・支援において「ズルい」のは許容されるべきか否か、という問題。

・たとえ答えが出せたところで、そんなズルい方法さえもヘルパーと2人だと使えない。支援者が、支援者としての役割から一時的に離れてみせるのはありうる。たとえばヘルパーが「自分はマクドナルドで食べたくない」というわけだ。しかし、これは「介助者手足論」的に見れば、もってのほかである。関係性のあり方に議論の焦点は移る。

・足の重さがものすごいので、寝よう。ただ、考えているうちに眠気はすっかりなくなってしまった。

skywalkerskywalker 2016/03/23 20:57 知的障がいのヘルパーに限っていえば、ヘルパーの意図を全く出さずに手足になるのはあり得ないと思っています。そこが難しいところで面白いところだとも感じますが。支援者としては、本人の意思決定において、何らかの干渉をせざるを得ず、そのことは暴力性を常に内在しているということには、自覚的であるべきとは思います。

2016-03-03

静養中 17:58 静養中を含むブックマーク 静養中のブックマークコメント

 インフルエンザB型

 理事会と大事な面接を終えた後でよかった(それらの時点ですでに発症していたと思われるけれど)。

 短期的には食事の確保と請求事務が気がかり。

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2016-02-28

眠れない 04:04 眠れないを含むブックマーク 眠れないのブックマークコメント

来週が大変な日々になりそうと恐れてしたら、今夜さらに状況は複雑になった。もう全く気持ちが休まらない。

布団で横になったまま2時間。考えないことの難しさ。

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2016-02-02

「つながり原理主義」の帰結 01:16 「つながり原理主義」の帰結を含むブックマーク 「つながり原理主義」の帰結のブックマークコメント

 子どもたちの居場所が必要だ、と言われる。それを否定する人はあまりいない。

 学校があって家庭があるだけではまだ足りないから、求められる。求めているのが子ども自身なのかどうかは、よくわからない。「僕に居場所を」と訴える子どもはあまりいないからだ。必要性を言うのは大人である。もちろん根拠がないはずはなく、少しばかり見聞きした成功体験も背景にあるのだろう。

 居場所を作りたい、という大人たちの希望にどんな風が吹いているかと言えば、ずっと追い風だと思う。学校教育でも生涯学習でも地域福祉でも子どもの貧困支援でも「居場所」やそれに類するものがバックアップされるような施策がある。既存の社会資源やネットワークの中で解決されていない問題があるとき、新たな「居場所」は魔法の箱として期待を集めていく。トップダウンかつ縦割り行政の中でそれぞれ中途半端につけられた「居場所」関連予算は、何ら新奇性を示せることなく、既存事業を当てはめるように消化されて終わることも多い。

 自治体で行政計画を策定しようとワークショップを開けば、居場所が必要だという結論めいたものが出て、計画に盛り込まれる。都市計画とか福祉計画とか分野別にいろいろあるが、どこでも「つながり」が大事だとされる。そして、地域の中で人と人との結びつきが弱まってしまったという言説が「居場所」の必要性を支える。そもそもまちづくりの計画に参画しようとする人はそういう思いをもつ人たちであろう。地域の人間関係とかわずらわしい、という人はあまり加わってこない。

 ボトムアップの居場所づくりとトップダウンの居場所づくりが合流すれば、実現するしかないように思える。しかし、うまくいっていない。まちづくりに熱心な大人たちのたまり場になるか、退職教員が子どもたちに体験を積ませようとする場になるか。子どもの貧困対策ではじめたところでさえ、子どもが集まってこないという事例を聞く。子どもは正直である。自ら行きたいと思えない場所には、行かない。

 子どもたちのために役立ちたいという大人の思いは、役に立てるはずだという信念に変わり、大人が加わる居場所こそが子どもの閉じられた生活を地域社会へと開いていくものだという主張へとつながっていく。人と人とのつながり。共生。インクルーシブな地域社会。多様性。「私の望む社会の形」が、あるべき子どもの居場所へと投影される。

 学校や部活での関係性をリセットできる場を必要とする子どもがいる。子どもよりも大人と接するほうがラクに過ごせる子どもがいる。日ごろの学校での関係性に傷つき、他者への信頼をゼロから築き直す足場が必要な子どももいる。「居場所」に求められるものは、複雑だ。その言葉のやさしさに反して、丁寧に検討された理念とそれを具体化するためのスキルがいる。漠然とした「つながり原理主義」は、無限の可能性を持っているようで、結果的に何も生み出せない。

 子どもの貧困とか不登校とかに足をつっこむようになって、8か月ぐらいが経った。ずっと支援してきた「障害児」と比べたとき、子どもが「学校でも家庭でもない場」に望むものはとてもわかりにくいと痛感している。子ども自身にもわかっていないのかもしれない。もちろん親にもわからないのだろう。きっと障害児についても「わかった気」になっているだけだったのではないかと疑う。子どもが親によって「預けられる」という関係性は、支援者を勘違いさせるのに十分である。子どもが主体的に選び取れるような条件が整えば、障害児の居場所づくりとはどれほどの多様性を達成しなければならないだろうか。

 明日が地元の子ども・子育て会議なので。頭の整理をするために、書いた。

hatabohatabo 2016/02/06 11:09 毎日ご苦労様です。「居場所」とか「つながり」って子供たちを「彼ららしく」(いい言葉が思い浮かばない)生活できるようにするための手段であって、「居場所」づくりや「つながり」づくりが目的ではないのでしょうが、それだけでは子供は集まらないと思う。 仮に今まで子供が持っていた多様な選択肢が変化し、選択肢の獲得のしやすさに格差が生まれることによりつながりがなくなる、居場所がなくなる
と思っている子供が増えてきたとすれば、「このよう選択肢を希望していいんだよ」「あなたの思う価値感でもいいのだよ」などといった教育的支援も必要になってくる。  会議に出席した人にも聞きたいけど、「最近子供の声かけをした中で行動に対する肯定と否定どちらが多いですか?」と聞いてみたい。

2016-01-24

認知を変える方へ 00:13 認知を変える方へを含むブックマーク 認知を変える方へのブックマークコメント

 相変わらず、とにかく生きづらく。

 攻撃にさらされると大変もろく、他のことが何も考えられなくなり、仕事に負の影響が及ぶ。

 この問答を読んで、少し救われた思いを抱き、

ミャンマーで尼になりました

ミャンマーで尼になりました

 回答者の著作を読んで「瞑想」というのがとても認知行動療法っぽいと思うようになり(もっと「神秘的」なものと誤解していた)、

 こんなものを読むに至る。やはり宗教的なものに寄りすぎるとついていけない感がある。認知に関するところだけでよい。

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2016-01-22

一切皆苦 03:34 一切皆苦を含むブックマーク 一切皆苦のブックマークコメント

皆に読んでもらえるものを書きたい。けれども、自分に可能な限りの努力をしながら、なおも責められ叱られ、心身の余力がない。

日々の仕事へのモチベーションさえ減退していく。誰もやりたがらないことだけ自分の仕事。地域でも、組織でも。にも関わらず、叩かれる。すべきことができていない、偉そうに福祉を語るなと。

眠いのに、眠れない。罵倒と詰問のメール文面がずっと脳裏に焼き付いて離れない。床のなかでブログ更新して気を紛らわす。

限界まで眠くなれば、必ず眠れるときは来る、はず。

ダメだ。眠れない。きつい。 03:56 ダメだ。眠れない。きつい。を含むブックマーク ダメだ。眠れない。きつい。のブックマークコメント

たまたまたまたま 2016/01/22 14:01 たまたま、本日こちらのブログにたどりつきました。
まだ全然読んでないので、これからじっくり読ませていただくこととして。
何もわからないまま、書き込ませてもらいます。

管理人様。
ご自身にできることはあなたの手のひらの大きさまでです。
それ以上のものはあなた一人ではもてません。
どんな人でも、手は最大で2本しかありません。
できないものは、できないのです。
それ以上に、自分を追いつめてはいけません。

私が自分の限界を感じた時は、自分の手のひらを見つめて気持ちを落ち着かせることにしています。

取り急ぎ。

lessorlessor 2016/01/23 22:02 ありがとうございます…。

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2016-01-05

ヒザが痛い 00:57 ヒザが痛いを含むブックマーク ヒザが痛いのブックマークコメント

 これまでは何ともなかったのに、2時間ぐらい歩くと痛み始める。

 寒さと膝下O脚のせいなのだろうなあ。だましだましやっていくしかない。

 ガイドヘルパーの職業病みたいなものだ。

2015-12-15

ボーダー児」と親の孤独を描いたマンガを読んで 00:04 「ボーダー児」と親の孤独を描いたマンガを読んでを含むブックマーク 「ボーダー児」と親の孤独を描いたマンガを読んでのブックマークコメント

 偶然に書店で見つけた沖田×華の新作。ノンフィクションコミックエッセイ。原作者である君影草さんが、本作に登場する子どもの母親である。ちなみに、原作は『はざまのセイカツ』というタイトルで、ウェブ上に公開されているマンガ。メジャーマンガ家が描き直す「ワンパンマン方式」とでも言おうか。

 障害児の子育てについて親の目線で描いたマンガはこれまでにもいくつかあったと思うが、いわゆる「ボーダー」の子ども(と親)の苦難を描いたものは読んだことがなかった。医学的な診断としては「障害」とみなされないが、学校生活や社会生活上でうまくやっていけない人はたくさんいて、その人たちは境界線上にいるという意味でしばしば「ボーダー」などと呼ばれる。

 障害に限らず「どっちつかずである」という状態は、社会制度の隙間に落ちやすい。あらゆる支援の受給要件なんて「必要かどうか」で決めればよいはずなのに、標準化しようとして支援の必要度とは別の基準を設けた結果、「ひどく困っているとみんなわかっているのに、何も対応されない」という事態が生じる。制度的なネグレクトと呼んでもよいだろう。本作では、このネグレクト状態に母親がひとりで立ち向かっていく様子が描かれている。

 最も多くのページが割かれているのは中学への就学問題だった。普通学級での学習が難しいのに、IQが高いために療育手帳(東京都は「愛の手帳」)が取得できず、特別支援教育の対象として認めてもらえない。小学校からは手帳をとってくるように急かされるが、検査を受けても手帳は出ない(広汎性発達障害の診断は受けられている)。担任や管理職から転校を勧められたり、行ける中学校がないからと専修学校やフリースクールを探したりする。このプロセスにほとんど「支援者」と呼べる者は出てこない。一方で、この種のストーリーにはおなじみの「クラス運営にとって邪魔な子どもを積極的に排除したがる、すがすがしいくらいのクズ教員」は出てくる。

 おそらく就学の仕組みや運用地域差はあるのだろう。このマンガに描かれている状況は、かなり異様である。そもそも「手帳を持たなければ、特別支援学級や特別支援学校に行けない」なんてことはない。療育手帳に「知的障害」の有無を決めるような効力はなく(そもそも子どもに手帳をとらせたくないと考える保護者もたくさんいる)、知的な発達の遅れや偏りから普通学級での学習に困難があれば、特別支援教育は受けられる。が、少なくとも、原作者が経験したのは「手帳がなければ、中学では普通学級にいるしかなく、サポートも受けられない」というよくわからないルール運用だったようだ。こうしたローカルルールのようなものは本当におそろしく、保護者や教員個人が抗うのは難しい。

 中学校への特別支援学級進学にあたっては、中学校に「嘆願書」を出すことを教育委員会が保護者に助言している(そして、この嘆願は成功する)。これは「それぞれの学校が子どもの就学について教育委員会よりも権限をもっている」ということを意味する。そんなバカな話があろうか。各中学校が支援学級での受け入れ(や普通学級でのサポート)を拒否したら、実質的にどこにも通えず、教育委員会も親といっしょに残念がって終わりなのだろうか。教育行政としての存在価値を自ら放棄している。

 障害者差別解消法も施行されていくし、ここで描かれているような事態はおそらく解消されやすくなると信じたいのだが、自分の立場から気になるのは「これほど苦しんでいるプロセスを併走する支援者が誰も出てこない」ことだ。地域の学校で必要な支援を受けながら学んでいくことが当たり前である、という価値観が教育制度に組み込まれていっても、それを実現するために学校が動こうとしないときに、親はたったひとりで強大な学校組織、教育委員会に立ち向かっていかねばならない。

 相手が「障害福祉サービス」であれば、ひどい事業所があれば、契約解除してもよいし、相談支援事業所や福祉行政にタレこんでもいいし、都道府県社協にある運営適正化委員会に苦情を入れてもよい。社会資源の少ない中だと支援者の優位性は揺らがないかもしれないが、苦境から抜け出すための選択肢はいくつかあると言える。

 しかし、子どもを通わせている学校とのあいだで親が行き詰ったときの仕組みは何もない。この深刻さに教育制度(福祉制度でもよいけど)がどう取り組んでいくのか、が問われている(「障害」「ボーダー」に限らず、「不登校」「いじめ」などについても同様の指摘はできるだろう)。「スクールソーシャルワーカー」に期待したい気もするが、今の配置状況や身分を考えると、まだまだ現状は厳しい。学校の中に所属しながら、どこまでの動きができるか、という課題も残る。

 「ボーダー」の子どもは成長とともに、また違った問題が生じてくるだろう。ここで描かれたのは中学校までだ。あとがきによれば「今回のマンガの続きはこの本が売れたらまた沖田さんが描いてくれるとのこと」らしい。「ボーダー」で悩む人たちや学校との関係で苦しむ人たちの共感を呼び、続編が出版されることにも期待したい。

2015-12-14

この国の発達のアセスメントはどこに向かうのだろう 00:11 この国の発達のアセスメントはどこに向かうのだろうを含むブックマーク この国の発達のアセスメントはどこに向かうのだろうのブックマークコメント

 放課後等デイサービスのガイドラインで(「たとえば」と)推奨されているアセスメントツール「Vineland-2*1」を取り寄せてみる。これまで心理士に求められて購入してきた検査キットと比べれば、ずいぶん安い。保護者への半構造化面接によるので、マニュアルと用紙だけのもの。

 それでもマニュアルにはやっぱり「大学院で心理学を学んだ者が使うべき」という文言(「ソーシャルワークの大学院」も書かれていたが、心理色の薄い日本福祉系大学院がこれに相当するとは言えないだろう)。もう見飽きた感がある。

 保護者からの面接で行うアセスメントすらも制限されるのか…。もちろんこれは翻訳なので、日本語版の内容について何を言っても仕方がない。素人による取り扱いが危険なのもわかる。ただ、日本の児童発達心理業界の皆さんにお聞きしたいのは、この国の障害児支援業界の現状を見て、いったいどのようにアセスメントの能力を底上げしていきたいと考えているのか、ということである。4年制大学の福祉系学部を出ても発達についての学習ほとんどゼロの福祉職ばかりで、続々と異業種からの参入や転職も増えていく業界で。

 高いスキルが求められるのは理解できるけれど、それならば現場の支援者がもっと力を高めていけるように研修機会を増やすとか、やるべきことがあるだろうに、ほとんどない。障害者福祉業界との接点を深めていこうという動きも見えない。「検査は心理士でなければ無理」と言って、今さら大学院に行けるはずもない多くの支援者を心理士に従えさせたいのだろうか。臨床心理士は累計でも3万人程度。障害児の放課後等デイは6000か所以上まで増加。どう考えたって、院卒の心理士がこれから現場にあふれていくとは思えない(給料も安いし)。

 公認心理師法の今後にも左右されるとはいえ、心理士はこれまで国家資格でなかったこともあり、福祉事業の中では明確な位置づけがなかった。児童発達支援事業であれ、放課後等デイサービスであれ、人員配置の要件などからすれば、心理士よりも社会福祉士や介護福祉士のほうがずっと扱いは上である。障害福祉分野での従業歴をもたない人も多いので、管理責任者などのポストにつかせるまでにも長い時間を要することになり、その点でも雇いにくい(特に小さな事業所では)。

 日米で専門職の養成状況も福祉事業の制度化も大きく異なるのに、「検査」は担い手まで含めてがっつり標準化志向であるというのは無理がありすぎるのではないだろうか。もっと簡易な評価ツールでも活用していく習慣を現場に広めないと、障害児支援業界は発達を見る目が養えないと思う。検査に親しむというのは、子どもの育ちを分析的に見られるようになることでもあるわけで。フォーマルな評価を現場にとって縁のないものにしてしまうと、国が望んでいるような質の向上は期待できないのではないか。

 「発達」の自習に、いいかげんうんざり。

*1:本当はローマ数字

2015-12-11

分かち合える「親の会」の新鮮さ 00:19 分かち合える「親の会」の新鮮さを含むブックマーク 分かち合える「親の会」の新鮮さのブックマークコメント

 不登校の子どもたちの親の会をはじめた。まだまだ緩いメンバーシップなので、元不登校とか不登校予備軍とかいろいろ混ざっているが、とにかくはじめた。

 障害児の親の会とは各地で20年ほど関わってきたが、それらはみんな「事業」とともにあった。子どもたちの活動を作り、どこかから資金を引っ張ってくるために組織を作る必要があり、そうしてできた親の会は次第に「支えあい」「分かち合い」から逸れていく。親にしかできないことを絶えずアップデートして事業化できればよいのだろう。しかし「先輩から引き継がれたもの」を更新していくのは、普通の親になかなかできることじゃない。それは「伝統行事」みたいなものだ。受け継がれてきた伝統には逆らえない。

 不登校の子どもたちの親の会は、今のところ完全に分かち合いの場としてある。子が学校に通えなくなるまでの経緯、子どもの行動の変化、学校に対する親の思いなど、静かに熱く語られていく。皆が相互に耳を傾け、尊重しあえる空間が心地よい。話を聞くトレーニングをある程度積んできた参加者がいることも効いている。

 親どうしの話は、そのうちに「支援」論にも近づいていく。学校に行けたことを親が大喜びすれば、行けなくなったときに子は期待を裏切ったと落胆するだろう。「できる」ことに価値を置きつつ、「できる」ことを単純に褒めればよいというのでもない。心のままに直感のままに行う子育ての限界。子の思いへの想像力を深めていくことの大切さ。少しずつ家から出ていくためのステップアップ。皆がこのような壁にぶつかって超える経験を積めれば、親の中には良い支援者が育ちそうな気がする。もちろんそんなふうに育つ必要もないのだけれど。

 子どもとの関わりを省みるのは障害児の親だって同じかもしれない。しかし、障害とはある種の文化や行動様式の違いとして捉えなければ、意味がわからないことがある(知的障害や発達障害においては)。不登校の場合、子どもへの共感的な理解によらなければ安定した親子関係を築けないし、学校に行けていないだけに今の状態の責任は容易に家庭の中へと押し込められて、うまくいかなかった責任が親にすべて降りかかってきてしまう。きっかけは学校に置けたとしても、時間が経つにつれて他の誰のせいとも言えなくなっていく、という怖さ。

 そして、子どもが学校に通えなくなった親は、社会観や学校観の大転換を経験することになる。多数派として適応できていたときは「泣き言」のように聞こえていたことが、不登校になるとどうしようもないことであると理解される。集団をひとつにしようと熱意あふれる教員が、はみ出し者には冷淡であることに気づく。職員室は子にとってだけでなく親にとっても近寄りがたい場に変わる。

 「障害」より「不登校」は突然に訪れやすく、既存の社会や学校のありようをうまく問い直せなければ、結果として子どもに寄り添うことも難しい。そして、見方を変えられればそれだけで生きやすくなるわけでもなく、子どもを肯定的に見やすくなる反面で世間の多数派の親たちのと隔たりは大きくなり、孤独感を強めることにもなる。障害児の親でもやはり同じようなことは言えるけれど、子が「学校に通えていない」というのは「障害」以上に「解決」がありうる課題とされるので、親としてのもどかしさや自責の念も強まりやすい。分かち合う場の重みをいっそう感じる。

 不登校はずっと続くかもしれないし、続かないかもしれない。これから親たちの集まりがどんなふうに移ろっていくのか。学ばされることがとても多そう。

yokkieyokkie 2015/12/13 19:44 親の会ではなく、大人の引きこもり向けの事業の一つですが、うちの市では「家族セミナー」をやっています。参加者は市内に限定していないので、結構広い範囲からお見えになり、世代も状況もさまざまですが、同じ悩みを抱える家族が集まると、びっくりする位本音の話がでます。
こうした場を経て、本人の支援に繋げていくという狙いがもちろんありますし、効果も出てきていますが、それ以前にこの場自体が親を少し緩めてくれていると感じます。

なかのひと