原田治ノート このページをアンテナに追加 RSSフィード

2005 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2006 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2007 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2008 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2009 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2010 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2011 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2012 | 01 | 02 |

2012-02-08 また冬のハワイへ このエントリーを含むブックマーク

osamuharada2012-02-08

気温26度のオアフ島に到着。時々スコールのように降ってはすぐにやんだ。晴天続きの、今日はひさびさの雨だそうだ。2月といえどもハワイは常夏なんだな。雨宿りの小鳥たちと、雨あがりの虹が、またハワイに来たことを実感させてくれる。迎えの友人がくれたレイの花が、部屋いっぱいに香る南の島。

今回は、沖縄にしばらくいたので、那覇からグアム経由の便でやって来た。よく考えたら米軍基地巡りをしているみたいだ。同じベース・キャンプがある島でも、かつては悲壮な日米の激戦地区だった沖縄は、今なお問題だらけだ。グアムは島全体がほとんど基地だが、ハワイはアメリカの一地方として、軍が人々の生活の中にある意味では共存しているともいえる。観光地と基地がうまく棲み分けて、沖縄のように密着していないせいもあるだろう。

去年、3.11の大津波は、後日ハワイ島のコナの海岸にも押し寄せて、リゾートホテルを廃業に追い込んだという。ストロンチウムプルトニウムもハワイに飛んできている。アメリカは福島をはじめ東日本産の食品を輸入停止にした。アメリカだけではない、中国、ロシア、EU、など世界中が輸入停止か、厳しい検査なくしては輸入をさせていないのが現状だ。ハワイでは地産地消のオーガニックが、静かなブームになっている。日系人は、沖縄からの移民が一番多くて、山口県からが二番目。アメリカ産のPAMPKINとは区別をして、KABOCHAと表記するような日本原産の野菜類をつくっているのは日系人たちだ。TPPで関税がゼロになったら、ハワイ産のカボチャが日本に逆輸入されるかもしれないな。

沖縄の友人が先頃描いた絵本は、戦争中に食料の豚が沖縄で絶滅しそうになったのを聞いて、戦後すぐにハワイの沖縄出身日系人たちが、種豚を一船に積んで沖縄に運び、絶滅から救ったという話だった。それらがいまある沖縄の豚となった。今晩は、みんなで行ったオーガニックのレストランで、ハワイ産豚のローストを食べてみた。柔らかくてジューシーな沖縄産豚とそっくりな味がしたのには驚いた。

2012-01-27 日本のヒノキ このエントリーを含むブックマーク

osamuharada2012-01-27

またトシヨリの無駄ばなし。風呂で欠かせない道具が、このヒノキの風呂桶と腰掛け。いつも古くなって黒ずんでくると、新しいのに買い替えてきた。島にある唯一の日用品雑貨店に行けば必ず置いてある。新調のヒノキは、せまい浴室いっぱいに木の香をただよわせてくれる。これだけは何モノにも代えがたい。ヒノキの香りの効能を一言でいうなら「気分爽快」。浴槽までが総ヒノキというhigh endな贅沢はできないけれど、せめてこの桶と腰掛けで、安上がりに大満足はできちゃう。プラスチック製やなんかは御免こうむりやしょう。

太古の昔から存在していたヒノキ【檜】というものは、日本と台湾にしかない貴重な木なんだそうですよ。どおりで大昔から、伊勢神宮も、法隆寺も、東大寺大仏殿も、総檜造りというわけだ。伊勢神宮は、20年ごとの遷宮で、常に新調を繰り返してきている。四世紀からいまだに続く、最も「古くて新しい」建造物といえる。昔はどこにでもあった、家々で祭る神棚だって総檜造りだよね。

一枚板の、無垢のヒノキのFreshnessは、新鮮さを信条とする日本料理なら最高級のまな板としても使われている。それに例えば銀座の小料理店【はち巻岡田】のカウンターやテーブルもそう。使いこんでいながら、いつでも新鮮なヒノキのぬくもりをたたえていて、手に当たるだけでもホッとした気分にさせてくれる。猪口や小皿を置くときの柔らかな感触もたまらない。清潔に毎日磨きあげているヒノキの白い肌は、料理だけでなく、日本の陶磁器やガラスの器を、より美しく見せてくれる。江戸料理の伝統を守り続ける【はち巻岡田】のヒノキには、《粋》という言葉がピッタリするな。と、まあ今日はたかが風呂桶と腰掛けから、壮大な日本のヒノキの宣伝までをしてしまいました。 ぼくの風呂カンケイの記載はこっち→id:osamuharada:20090710

2012-01-23 歯医者さん このエントリーを含むブックマーク

osamuharada2012-01-23

無駄ばなし。 トシとると、まず歯がダメになるもんですね。ついに去年は奥歯を一本抜いた。抜けたあとはブリッジかインプラントにするしかないらしいが。歯医者の友人は、どちらもあまりすすめない。ま、抜いてから考えようぜ、ということになった。

その後、同い年の友達と話していたら、オレも抜いてブリッジの入れ歯にしたが、酔っぱらって帰ってきて、起きたら無くなっていたよという。飲み込んだかなと不安にかられたが、どうやらどこかで落っことしたらしい。それ以来は歯抜けのままだが、いまでは土手で何でも喰えるようになったぞと自慢をしていた。それを聞いてヤツガレも歯抜け歴一年近くたったが、なんとかこれでやってゆけるような気がしてきた。ゆっくり噛めばなんとかなるのだ。あごの骨にチタンのボルトを埋め込むインプラントなぞ冗談じゃない。と強がりをいってみたものの、歯を一本失っただけでも、つくづくと我が身の老いを感じるものなのですな。

写真はその歯医者の看板。高校時代からの友人で、むかしぼくが似顔のキャラクターを描いてあげた。彼はもともと若白髪で「白熊さん」というあだ名だったのです。子供の患者を怖がらせないようにという配慮でしたが、いまではヤツガレがこれを見て歯医者が怖くなくなってきた。

2012-01-13 悲しき日本経済 このエントリーを含むブックマーク

osamuharada2012-01-13

去年のはじめに、こんなこと《お笑い日本経済》→id:osamuharada:20110108などと書いては、あきれはてていたが、今年はとても笑う気分じゃなさそうだ。

新版の『業界地図』によれば、パチンコホールの「貸玉料」は、さすがに天災と人災(節電)のあおりでちょいと減ってはしまったが、それでも2011年度の合計が、【21兆円】は下っていなかった。

それがどれくらいスゴい売上高かというと、あの[東京電力]の売上が【5兆円】ほどで、電力会社・全十社を合計しても、たったの【16兆円】にしかならないのだ。なーんだ電力会社なんて、パチンコ屋の貸玉料の足もとにも及ばないじゃないか、なさけない。たかがこれっぱかりのカネ欲しさに、日本を放射能汚染しまくり、子供たちの未来を奪おうとしている電力会社とは、いったい何モノなのだ。いくら金儲けの亡者どもといえど、これは正気の沙汰ではない。

TPP]で大騒ぎをしている最中だけれど、日本の対米貿易額は、輸出が【10兆円】で、輸入がたったの【6兆円】くらいだそうだ。どっちにしたって【貸玉料・21兆円】には完全に負けちゃっている。アメリカと官僚に使われるノダは、いったい何の見返りを期待しているノダろうか。しかも、今年は消費税と電気代の値上げを断行するという。センゴクは原発再稼働をさっそく唱え始めた。

ところで、パチンコホール業界第一位の『マルハン』は、たった一社でなんと【2兆円】を稼ぎだしている。ちなみに去年の「出版業界」は、ぜーんぶ合わせても2兆円には達しなかったそうだ。本や雑誌(半分はマンガ)はたった一軒のパチンコ屋にも負けてしまったわけよね。これが日本の文化水準なんだね。

それにしても、日本経済のことを考えれば、アホらしくなってくるだけだが、国を揺るがす大災害のさなかでも、パチンコ玉を黙々と打ち続ける人々がこれほどいる国、というのも珍しいではないか。パチンコは世界広しといえど、この日本列島だけにしか存在していない。これもまた「地産地消」とでもいうべきか。江戸端唄でいくなら《 わしが國さで見せたいものは 昔しゃゲンパツ 今パチンコ屋 》

上の写真は、2012年『業界地図』のページ部分だけれど、下に日本生産性本部とある。(なぜ2009年になってるのかはわかりません)この「公益財団法人 日本生産性本部」のホームページ、財団概要の評議員一覧には、あの東京電力・会長カツマタの名あり。

最新業界地図 2012年版

最新業界地図 2012年版

2012-01-08 マイヨールと地質学 このエントリーを含むブックマーク

osamuharada2012-01-08

再び熊本に。この広々とした冬枯れの芝生が気持ちよいので、ゴロンと横になって日向ぼっこをした。この熊本城二の丸に面して、県立美術館のカフェがあるのですが、来てみたら春先まで工事中で休みとは残念。このカフェのテラスは熊本で一番気にいった場所なのにな。テラスに座り楠の大樹の下から、視界180度の広大な広場を眺めるのが楽しい。全体が高台にあり、石垣が巡らされた城趾の広場で、遥か遠くに熊本城の天守閣を望む。車が入ってこないから静かで、小鳥のさえずりがのどかに聞こえる最高のローケーション。初夏に来た時には、涼しくて半日過ごしても飽きなかった。美術館ロビーに、マイヨールの彫刻『フローラ』を置いてあるのがことのほか嬉しい。美術館:http://www.museum.pref.kumamoto.jp/index.php

このまたさらに奥へ進むと、熊本県立博物館がある。前回来た時には、ここの地質学コーナーの展示を観ているうちに、倭人伝(しつこいようですが)の【奴國】と次の【不弥國】の位置を確認(自説)できてちょっと興奮しましたよ。ヒントは2千年前の有明海にあり。考古学より地質学で判っちゃったところがミソです。「耶馬台国九州説」で、権威ある森センセイ、古田、安本の両先生、肝心なところを見落としていますよ。といっても誰も相手にしてくれないけどね。ともあれ、近くの好きな美術館カフェで、この戦果を味わいながら飲むコーヒーは、格別に旨かった。博物館:http://webkoukai-server.kumamoto-kmm.ed.jp/web/index.shtml

2012-01-03 年賀状 このエントリーを含むブックマーク

osamuharada2012-01-03

旅の途次、初めての土地では、あまり正月という実感がわかないのですが、新年おめでとうございます。今年も引き続き、あいも変わらぬヒマツブシの駄文でヨロシクです。

《 まず一夜明ければ元朝の、門に松竹、しめ飾り、床に橙、鏡餅 》というような正月気分は、生まれ育った土地に帰ってこそ、ほんとは味わい深いものなのでしょうね。もっとも年賀状を書いていたのも二十代くらいまで、というひどい筆無精ですから、まともな正月気分に浸るということもないわけですが。こんな無愛想にもかかわらず、なかには年賀状をくださる方もいるので、毎年正月はバツが悪い、申しわけのない気分になるのです。

年賀状で思い出したこと。(写真) むかし拙著『ぼくの美術帖』を上梓したとき、憧れの鈴木信太郎画伯に本とご挨拶の手紙を送ったところ、新作展の案内状をいただいたことがあります。そこにはご自筆での署名と、さらにぼくが本に書いて、子供の頃の絵にサインを真似たことから、わざわざ【 す、】とまでオマケに書いてくださったのでした。ファン心理というもので、これはとっても嬉しかった。そしてその明くる年から、お亡くなりになる前年まで、忘れずに年賀状をくださったのです。若造のぼくが年賀状書かない主義を、偏屈にも押しとおしていたにもかかわらずですよ。それでこのときばかりは、あまりに筆無精の、われとわが身をさいなんだものでした。無礼にもほどがあるよね、といまさら後悔しても始まらない。とゆうような、いまだに無礼者のままで旅する正月です。

2011-12-28 兼高かおる世界の旅 このエントリーを含むブックマーク

osamuharada2011-12-28

個人的に今年を振り返れば、アチコチよくまァ歩いたもんだな、という感じかな。東京にいてはなんとも落ち着かないので、自由きままな旅をすることにした。地震とゲンパツのせいで大番狂わせにさせられた年でもありました。

今年はずっと専門チャンネルを録画しておいた、1960年代の『 兼高かおる 世界の旅 』再放送を観ていた。気分はすっかり十代の頃にさかのぼり、旅に憧れた昔を思い出した。まだ海外情報のほとんど入らない時代、このテレビ番組で海外への夢を大いにかき立てられていたことが懐かしい。こんなせまくるしい東京なんかにジッとしちゃいられないや、というような焦燥感を感じた年頃なのでした。半世紀も過ぎて、不思議に今また同じ気持ちになってきた。(写真はその頃の愛読書)

そしてあの‘60年代は、いつも前向きな堂々たる態度で、どこへでも平気で行けちゃう兼高かおるさんに、強い憧れを抱いていた。屈託がなくて自由な人柄で、ジョン・F・ケネディーやサルバドール・ダリにだって臆することなく会いに出かけた。明朗な発声のナレーションは、いまや聴くことがほとんどなくなった明治から続く「山の手言葉」に他ならない。貴重な言語学的遺産としてアーカイブに残しておいて欲しいものだな。何度聴いても、こちらの気分まで晴れわたってくるような美しい言葉づかい。

この番組のテーマ曲『 八十日間世界一周 』(Around The World・ビクター・ヤング作曲)は、さらにさかのぼって小学生の頃から好きな曲。もとは同名の映画主題歌だったのです。子供の頃に観たこの映画(1956年・マイケル・トッド製作)が、最初に世界旅行への憧れをぼくにもたらしてくれたのでした。『 兼高かおる 世界の旅 』では、さらにこの曲が重なるわけだから、もう条件反射的に、とにかくどこか旅に出たくなった。村上春樹のいう『遠い太鼓』の音が聞こえてくるあの感じね。毎週日曜日の午前中、この番組を見つづけて二十三歳になったとき、1969年、ついにぼくは意を決して、初めて世界一周の旅に出たのでした。 そして、このトシになっても、旅は、何か明るい「兼高かおる的効果」を自分にもたらしてくれて、いまも変わることがないのです。

2011-12-22 ウチナー産・牛と豚 このエントリーを含むブックマーク

osamuharada2011-12-22

【牛】は、関西や東北が本場だと思っていたが、沖縄産のブランド牛は、それに少しも引けを取らないほど旨い。「石垣牛」「本部牛」「山城牛」など、素晴らしい高級牛に恵まれている。近頃、牛肉だけは外の料理店などで食べるより、買ってきたのを、自己流に簡単なステーキで食べる方が好きになってきた。沖縄でもそれを実践。料理よりも素材の味を楽しむにはこれが一番だと思うな。ヒレ肉を150g、ミディアムレア、ニンニクと醤油、付け合わせにクレソン。それにパンよりご飯のほうがベストです。といってもトシのせいで、もうそんなに量は食べないから、せめて食べるときぐらいは贅沢に、と旨い肉を選んでいます。これからも、オージービーフやアメリカ産の輸入牛などを食べる気にはならないだろうな。(写真は石垣牛専門店)

【豚】は、ウチナー(沖縄)料理に欠かせない。昔から沖縄は豚が名産のようですね。しかしこちらの味付けでは、どうもヤツガレには甘辛すぎるのだ。公設市場では豚の「顔」や「足」まで売っていて、さすがに実物を見ちゃうと食欲は失せる。牛はいいけれど豚の売り場だけは避けていた。どこかで旨い豚を食わせる所はないかなとブラついていた時、市場通りの裏に、豚料理が旨い本格のビストロを見つけて、気にいったので通っています。築地場外市場にあるような横丁で、その名も『 petit rue 』です。この店で特に力を入れているのが沖縄産豚の「パテ」で、いつもまずコレだけは真っ先にいただく。夏休みのパリですっかり「パテ・ド・カンパーニュ」にハマっていたから、まさか沖縄に、これほど旨い豚のパテをつくる人がいたのかと感激してしまったわけですよ。特に力を入れているパテは《 沖縄産豚肩ロースと のど肉の 田舎風パテ 》。軽い赤ワインがぴったりです。沖縄の場外市場というのを忘れ、ここはパリのマルシェかと舌が錯覚におちいるな。本場フランス・シャンパーニュで修行を積まれた、若き大阪出身のシェフと奥さん。二人だけの小さいお店なので、以前から予約無しでは入れなかったけれど、最近どこかの雑誌で紹介された(余計なことするよね)とかで、年内はもういっぱいです。

2011-12-19 倭人とポインセチア このエントリーを含むブックマーク

osamuharada2011-12-19

冬休み。避寒と倭人伝フィールドワークをかねて、また沖縄に来ています。本土では雪が降るところがあるというのに、こちらではコートを着る必要もない。昨日は汗ばむくらいの晴天だったので、南部の「干潟」を見て歩き、倭人伝のライフスタイルを想像しながら考察した。目の前の穏やかな干潟や、珊瑚礁の海で収穫する豊富な魚貝類が、倭人の食糧源であり、真珠も特産品であったのは、倭人伝に書いてあるとおり。稲作農耕の弥生人の暮らしぶりとは別のものだった。「邪馬台国群の倭人」とは、言うなれば「海洋系縄文人」である、と自説に確信を持つことができた。歩いて見てみるもんですね。

この季節、陸側のほうに目をやると、あちこちの家々の庭先で、異様に赤い花の咲く木がある。ウチナーンチュの友人に聞くまでは、あれがクリスマスのポインセチアと同じものだとは気がつかなかった。都会で見る鉢植えと違って、沖縄では、人の背丈より高い木に成長している。赤い花びらは、花ではなく苞という、紫陽花の萼片のようなものらしい。メキシコや中南米が原産の低木で、戦後アメリカから始まってクリスマス用に流行りだした。冬になると色づく赤色の星形と、緑色の葉というところが、クリスマスに利用されているだけのことらしい。そもそもキリストの誕生日には、ぜんぜん関係がないんだな。

沖縄では、巨大なるポインセチア(実はこれがほんとの姿)が、どこにでもフツーにあるかと思えば、盆栽展覧会のようなところでは、ミニチュアの「ブーゲンビリア盆栽」があるのにも驚いた。こっちは、異様に縮小したピンクの花が木に満開だ。熱帯ジャングルのガジュマル盆栽だってちゃんとある。大樹の風格ありと賞賛されていたが、なんだか現代倭人の園芸趣味のほうは、ちょっとヘンである。

2011-12-12 まぼろしの安全神話 このエントリーを含むブックマーク

osamuharada2011-12-12

去年の暮れ、このブログで「今そこにある危機」と書きました。 その時点のアマゾンで、広瀬さんの本に対するクリック数は、たったの十数回だったと記憶しています。いま見てみたら二千回を超えています。→id:osamuharada:20101220   当然といえば当然ながら、いかに捏造された「安全神話」が、真実の声をふさいでいたかが判ります。そしてついに、本に示唆されていた《暗黒の時代》は、静かに始まっているのかもしれません。

チェルノブイリ大惨事の時には、日本にも放射性物質が三日後だったかに到達するというNEWSに驚いて、子供を戸外に出さないようにさせました。実際に気流で運ばれて飛来したのです。それからは、輸入食料品の産地などにも注意をはらっていました。しかし、いつしか情報も入らなくなり、世間では旧ソ連時代のチェルノブイリのことなど、すっかり忘れたかのようでした。放射能の「目に見えない恐怖」は、やがてUFOか幽霊のごとくに扱われ、その事を口にすれば、ただの臆病者めと嫌がられるのがオチでした。その後、国を挙げての「安全神話」づくりがスタートすると、臆病者は口をつぐむほかありませんでした。反原発も、もの言えば唇寒し秋の風、というわけ。それも3.11以前の話になりましたね。史上最悪の人災、原発事故が起きてしまいました。

しかし、いまだに危機は去らない。内部被曝という「目に見えない恐怖」は、国策の新たなる「安全神話」によって封じ込められようとしている。いわく国が決めた暫定基準値以下なら不検出ということで、安心安全だ。それでも不安は去らないと考えているのは、臆病者のヤツガレだからでしょうか? そんなことはない、多くの人々がもうとっくに気がついていると思います。覆水は盆に返らず。多大のリスクを背負わされ、これからはサバイバルに生きてゆくしかないと決心した人も沢山いる。または、再び怪しげな御用学者があやつる「新・安全神話」というものにすがりつき、信者として従う人だっている。いずれにしても、だれもがほんとは疑心暗鬼を抱いている、まさに暗黒の時代ですね。 こんな時代に、国民を第一義とは考えない国策などに縛られることなく、自己判断の自由意思で生きるには「勇気」がいることでしょう。ヤツガレもこれからは、臆病者と誰かによばれたら、勇気ある臆病者だと返すつもりです。

2011-12-08 大混戦ルイ・ド・フュネス このエントリーを含むブックマーク

osamuharada2011-12-08

フランスの「ドタバタ喜劇」映画を観なくなって久しいが、60年代半ばから70年代までは、ルイ・ド・フュネス【 Louis de Funes(1914〜1983)】が、ぼくのお笑いアイドル・スターだった。フュネスをよく観たのは、子供の頃から好きだったハリウッド映画のジェリー・ルイスが引退した次の時代にあたる。そして70年代半ばから、ぼくの好みが初期(ドタバタ時代)のウッディ・アレンに移るまでの間が、ルイ・ド・フュネスだったわけ。好きなコメディアンが、三人ともユダヤ人だった。

ルイ・ド・フュネスものは、邦題の『大混戦』シリーズの警官役や、『ファントマ』シリーズでの警部役が、当たり役としては可笑しかった。しかしどんな役を演じても、やかましくて、ズルくて、がめついオヤジなのに、なんか可愛いなァと思わせるところは変わらない。ワンパターンといえばそれまでだが、他に類をみない芸風だった。写真は’68年『グランド・バカンス』。こんな顔したオヤジです。

日本でDVDになった、フュネスが準主役の’65年『大追跡』というロード・ムービーでは、撮影が、大好きなアンリ・ドカエで、しかもパリから南仏、イタリアへと巡る観光映画の趣向だから(ぼくには)たまらない。カメラのアンリ・ドカエといえば、ルイ・マル監督『死刑台のエレベーター』『恋人たち』や、トリュフォー監督『大人は判ってくれない』、ルネ・クレマン太陽がいっぱい』などを撮影した、凄いカメラマンなのですよ。それが、こんなくだらない喜劇映画も撮っていたわけよね。風光明媚な画面とドタバタの組み合わせが変テコで、しかも監督は三流。名匠アンリ・ドカエもヤル気がしなかったでしょう。フュネスも脇役で本領を発揮していない。まだノンビリとして美しかった1965年のフランスとイタリアの風俗と風景、それに当時の自動車だけは一見の価値あり。

ルイ・ド・フュネスが、ガミガミ親爺というキャラクターで一世を風靡したのは、フランス国内だけの話で、ドタバタ喜劇を軽蔑していた日本の映画マニアには馴染まなかったようです。なのでルイ・ド・フュネスのことを人に話そうと思っても、ほとんど誰も知らない。で、しかたなくココに書いているだけのことです。代表作の『大混戦』シリーズは、DVDにもなっていない(ビデオは持っているけど画面が汚い)。こないだパリで売っているのを横目で見たのだが、クヤしいことにフランス製のDVDはリージョンが違って日本じゃ観られないそうだ。 数年前にパリでTVを見ていたら、フュネスが亡くなって何周忌だったかの特別番組を、一週間通しで毎日やっていた。俳優になっていたフュネスの息子が出演して、TVで我が父を語るところが微笑ましくて印象的だった。あの芸風のままのオヤジだとしたら、家族は大変だったろうが、ほんとは優しい父親だったらしい。

’79年『サントロペ大混戦』のタイトルとファーストシーン。

D

D

’70年『ルイ・ド・フュネスの窓際一発大逆転』

D

2011-11-30 利平栗のマロンパイ このエントリーを含むブックマーク

osamuharada2011-11-30

秋深くなると、いつも新橋小川軒カフェで食べていたモンブランを思い出す。昨年で閉店したのが、ちょっと淋しいな。季節限定の、利平栗だけを使ったモンブラン。前に書いた小川軒のモンブランid:osamuharada:20090926は、熊本産の利平栗を最上級とすると聞きました。中国の甘栗と和栗を交配して作った利平栗は、フランスのマロンの味に近似していて、しかもそれより旨いかなと思うのだけれど。

先週、所用で熊本市へ行ったおりに、コーヒーを飲むならココと知人が教えてくれた「岡田珈琲」へ寄ってみました。メニューを見ていたら、熊本産の利平栗を使用したマロンパイがあった。「新物」とうたってある。つい嬉しくなって珈琲にパイをたのんでみた。やはり利平栗は、和菓子に使うよりも西洋菓子にこそピッタリ合うものだなと実感しましたよ。利平栗は和栗に比べて収穫量が少ない種だそうで、作り手も高齢化しているため、いまや希少価値になったようです。生産性が低いので大量生産の商売にはならないのでしょう。それにしても、こんなに旨い栗をもったいない。世界のパティシエにどんどん使ってもらいたい。 日持ちがするというので、買って持ち帰り、熊本産の釜炒り茶でも試してみた。爽やかな甘味なので煎茶にもよく合い、秋の味覚を感じることができました。

2011-11-26 倭人伝ノート このエントリーを含むブックマーク

osamuharada2011-11-26

倭人伝フィールドワークで歩きまわる時に携行する道具類は、まず軽いことがベストだと気がついたので、いつも愛用の筆記用具ペリカンモンブランは持ち歩かないのです。トシヨリは少しでも荷を軽くしておかないと思うように歩けなくなる。こうゆう時には、フランスの定番BICの4色ボールペンが軽くていい。最近発売された、インクの色が美しい新4色ボールペン(黄緑の柄のほう)も気に入っています。二本合わせて8色もある。定番の黒、緑、群青、赤。新色のピンク、紫、空色、若草色。あれこれ色分けをして書き込むのにとても便利です。特に白地図に書き込むのに最適。インクの彩度が高いせいなのか、なぜか謎だった事柄も明快に解釈ができたような気がしてきて、スッキリと考えがまとまる。

このBIC色分けのおかげ?で、九州佐賀県の【末盧國】の位置がわかった。定説化されている「唐津」ではない。「伊万里」の近隣「松浦」である、とヤツガレは確信したのでありマス。この場所だというポイントは、松浦近くの「腰岳」(標高488m)が、縄文時代には、黒曜石を産出する山だったこと。九州で使われていた新石器(黒曜石)の、三大産地のうちの一つがなんとこの「腰岳」だったのですよ!

今でもヒゲが剃れるくらい鋭利な黒曜石の細石器は、一万年以上前から、新石器革命とでも呼べるくらいの最先端の道具なのでした。なにしろ縄文人はこの細石器ナイフを器用に使いこなし、ウナギですらちゃんと三枚におろして食べていたのですよ。フグだって食べていた。黒曜石を産出する箇所は限られており、たとえば関東一円で使われていた黒曜石は、すべてが海の向こう伊豆七島の神津島から産出した物のみだったのです。

数少ない黒曜石の産出地「腰岳」は、縄文すなわち新石器時代には大いに繁栄して、九州から沖縄に到るまでの新石器最重要地点だったのです。「腰岳」を後ろに控えた【末盧國】は、伊万里湾が水路となり、縄文時代から物流も発達していたでしょう。三世紀においても海洋系縄文人である倭人たちにとっては、古馴染みで、昔から重要な場所だったはずです。

倭人は、石器を金属器に持ち替えた弥生人とは別の人々だったと考えられます。倭人伝には、【一大國】の次に、《 また一海を渡る千余里、末盧國に至る。四千余戸あり。山海にそうて居る。草木茂盛し、行くに前人を見ず。好んで魚鰒を捕らうるに、水、深浅となく皆沈没してこれを取る。東南陸行五百里にて伊都國に到る。》とあります。

【末盧國】の前身は、黒曜石の流通のために、海路も陸路にも、すでに一万年前から通じていた集団。従って陳寿のいう【東南陸行五百余里】は正確な情報で、どこにも誤字なんてあるはずがない。【伊都國】は方角の違う「糸島」ではない。倭人伝を素直に読めば、邪馬台国群の「倭人」は、海岸に寄り添って生活する海洋系の縄文人で、弥生土器を持つ農耕系の弥生人ではないのです。伊万里湾には、生きた化石といわれるカブトガニが今も生息しています。干潟で米作りなど無理ですよね。

海底に没した【耶馬壹國】と交流のあった【末盧國】の末裔は、後に「倭冦」と呼ばれる海賊の倭人になったのではないか。さらに時代が下って、勇名を馳せた「松浦水軍」となり、近海から瀬戸内海までを支配した海洋系の人々ではないだろうか。まず縄文の地図と弥生の地図、その後の歴史地図とを、色分けして、重ね合わせてみれば一目瞭然となることが多いのです。

とゆうような重大発見が、一瞬のうち脳裡にひらめく時には、外にいても直ちにメモらなくてはならない。ちょっとアセってしまう。早くこのアイデアを書いておかないとすぐ忘れそうだ。この登山用品店で買った手帳は、外で雨に濡れてもすべてウォータープルーフの紙でできているから安心だ。しかも軽ーい。せっかく外歩きでひらめいても、文字や図が濡れて消えちゃうと困る。フィールドワークに欠かせない磁石も、同じく登山用品店で買ったアメリカ製。無くさないように、いつもバッグにとりつけてある。

2011-11-17 ジャン・エッフェル このエントリーを含むブックマーク

osamuharada2011-11-17

パリの古本屋で、懐かしい『ジャン・エッフェル』の大判作品集を見つけた。戦後のフランスで人気のあった漫画家・JEAN EFFEL(1908-1982)。大ヒットした天地創造【 La Creation du monde 】のシリーズは、旧約聖書創世記が舞台。万物の創造主である神さまが主人公のカリカチュール(風刺漫画)です。「神」の創造を、お手伝いする可愛い「天使」たち。神が創造した動物や、かたき役の「悪魔」。そして最初の人間「アダムとイブ」。これらが無から始まる天地に、初めて登場するキャラクターなのです。 一コマ漫画という、日本ではあまり見かけなくなったジャンルの風刺漫画ですね。太古の世界にありながら、神もアダム&イブも、すっかり現代人のメンタリティを持っているので、そこにユーモアと風刺が生まれます。日本でウケなかった理由は、日本人が『聖書』(世界一のベストセラー)には親しみを持たないから、というだけのことだったのでしょう。

一例をあげれば、禁断の果実を食べたために裸が恥ずかしくなり、イチジクの葉で前を隠すようになったアダムとイブ。ある時、イブが川面を鏡がわりにして、とっかえひっかえ葉っぱを試着?している一つの絵がある。アダムは後方のリンゴの木の下にしゃがんで、退屈そうに待っている。絵の下に書かれた台詞は、イブのひとりごと、「このハアザミの葉っぱじゃ、ドレスアップしすぎかな、キャベツの葉っぱのほうが似合うかしら、コレなら同伴者としてイケてるかも・・・」。イチジクの葉はかたわらに脱ぎ捨ててある。まるで都会のブティックで買い物をしているような平凡な場面。ショッピングに付きあわされて迷惑そうなアダムの表情が実におかしい。これって旧約聖書を読んでないと、ユーモアが通じないよね。禁断の果実であるリンゴをかじったために、堕落して人間となったアダムとイブMac(アップル社)のシンボルマークも、コレから来てるのが欧米人なら誰でもわかってるでしょ。

ヤツガレのイラスト稼業かけだしの頃でしたが、'70年代に出版されたジャン・エッフェルの『天地創造』には、かなり影響されちゃいましたよ。絵のスタイルや線描法のみならず、その大らかで明朗な表現、活き活きとした人や動物、微妙な表情や仕草の描き分けには、およばずながらも啓蒙されました。ただ、カートゥーンとイラストの違いは、アイデアを自らつくり出す風刺漫画と、他人の書いたテキストの図解を専門にするイラスト、という差があるのです。むしろイラストには、社会風刺や揶揄は必要とされないのね、なにしろ恐いスポンサー様が裏にひかえているから。

(写真の)『ジャン・エッフェル』作品集には、社会や政治を辛辣に風刺する、ポスターやビラの作品も多く載っていて幅が広い。いまさらながらエッフェルの、時代を見る眼の確かさにビックリする。進歩主義者であり、平和主義の活動家で、ド・ゴールや周恩来カストロに対峙していた。常に、弱者の側につく Humaniste だった。時事風刺の漫画家としても一本筋が通っていたのがよくわかる。どこか男らしくて、カッコいいじゃないか。

2011-11-10 映画「トゥルー・グリット」 このエントリーを含むブックマーク

osamuharada2011-11-10

去年のマイ・ベスト映画は、スウェーデンの【ミレニアム】三部作でした。さて今年の映画は、何と言ってもコーエン兄弟監督【トゥルー・グリット】ということになりそうです。現代のハリウッドで、ぼくの一番好きな男優がジェフ・ブリッジス。すでにコーエン兄弟の【ビッグ・リボウスキ】での当たり役「デュード」は、アメリカでは彼の代名詞になっている。(前に書きましたね→id:osamuharada:20060121) 去年は、【クレイジー・ハート】の飲んだくれカントリー歌手役で、アカデミー賞主演男優賞を獲得したばかり。その次の主演作で、しかも好きな西部劇とくれば、これはもうすぐに観なくては、とロードショー初日に駆けつけた。

この映画が大傑作だというのは、始まって5分ですぐにわかった。のっけに現れるフォート・スミスの町並みは、1878年の西部へと一気にタイムスリップをおこさせてくれる。完璧な映像美。これぞ映画!これぞ西部劇!という感じだね。ロジャー・ディーキンスのカメラが実に素晴らしい。衣装、美術、時代考証も、ハリウッド映画の厚みを感じさせるプロの仕事ぶり。つくづく映画とは、視覚的な総合芸術なのだなと思いました。

感動的なストーリーと役者の演技は、観てのお楽しみだから、物語をしゃべっちゃうような愚はおかしません。ただ特筆すべきは、西部劇の醍醐味である決闘のシークエンスです。西部劇でこれをハズしたら、画竜点睛を欠くようなものですが、ご心配なく。コーエン兄弟は、斬新な手法でこれを展開しちゃう。見事というほかはない。ディーキンスのカメラにまた感動する。美術が好きなかたは、できたら是非ブルーレイの大画面で観ましょうね。

昔の西部劇ファンには、特にガン・シーンが好きな人(ヤツガレもそのくち)がいたけれど、この映画ではそうゆうヤカラも脱帽することでしょう。扱われる銃は、1873年製のコルト銃や、レミントンM1875。西部劇になくてはならないライフルの、おなじみウィンチェスター‘73。テキサスレンジャー役のマット・デイモンが持つシャープス・カービン銃。映画ではよく見えなかった銃器も、DVDの特典映像で、銃専門スタッフのオタクな解説が面白い。上の写真は、敵討ちを決心するヒロインが持つ、父親の形見となったピストル。他の銃より古いところが泣かせる、1847年製コルト・ドラグーン。銃だけ見ていても、登場人物を思い出させてくれるな。いい映画というものは、すみずみのデティールにわたって、またいいもんですね。

2011-11-03 子供用トートバッグ このエントリーを含むブックマーク

osamuharada2011-11-03

このトシになっても、外出時にトートバッグを持ち歩くのは、長年の習慣だからしかたないのです。風呂敷がわりというわけ。外国でもどこでもヤツガレには必需品だったが、パリではさすがに持って歩く人を見かけなかった。長いフランスパンなどは、買ったらトートに入れて運べば便利だと思うのだが、かの地の人々はパンなどそのまま小脇に抱えて歩くのだ。それも時々ちぎって喰いながら歩いている。パリでたまさかトートバッグを持っている人を見かけると、たいがい日本人の若い女性観光客ばかりだった。トートを見ると日本が懐かしくさえ感じた。

自分では気づかなかったけれど、男が都会でこれを持っていると、なんだか田舎臭くて、さらに貧乏臭いもんですね。ジジイが持っていると、ただのホームレスにしか見えない。なのでこまめに洗濯して、せめても清潔感だけは保ってみてはいるのですが。昔このブログで、「トートバッグ」について書いた頃は、まだあまり街では見かけなかった頃でした。→id:osamuharada:20050509id:osamuharada:20050712

それが今や、日本では女性雑誌のオマケで大活躍?ではありませんか。紐をかけられた「雑誌」のほうが、トートバッグの「付録」に見えちゃう。本屋でトートバッグを買う時代なのですね。この分だと日本中の全女性がトートバッグを持つことになりそうだけれど、普段使いの買い物カゴのかわりになったのでしょう。八百屋や魚屋で晩ゴハンのおかずを買ったりして、トートに入れて歩くことになる。これなら正しいトートバッグの使い方だね。

子供用トートバッグをデザインしました。MADE IN USA の ENVIRO TOTE 社製、がっしりした帆布です。(ハワイでのみ販売)★この写真は、左右が25cmほどの小さな新作トート。パリと違って、ハワイではトートバッグはすでに日常品ですね。一年中 Tシャツに短パン、ビーサンでOKな常夏の地こそが、トートバッグの似合う場所ではないかなと思います。小さい子供ならオヤツに飲み物、おもちゃにヌイグルミなど。お出かけには、自分のものは自分で持つ習慣がつくでしょう。一人歩きができるようになってきたぼくの孫にも、そろそろ持たせるつもりです。

このハワイのスーパーマーケットについては、「コナ・コーヒー」のところに書いてあります。→id:osamuharada:20110704

2011-10-25 懐かしのズーク このエントリーを含むブックマーク

osamuharada2011-10-25

夏のPARIS土産に【ZOUK】のCDいくつかを買ってきた。以前ココに書いてから、早いもので六年もたっている。→id:osamuharada:20050716

最近のズークは、黒人特有のラップが混じったものがほとんどで、それもクレオール語(フランス語の混血)だから、なんだかだらしないラップに聞こえる。特に今の男性シンガーは、最早どこにもズークらしさがなくなっているような気がする。カリブ海の島の風土が失われて、スラム化している感じかな。女性歌手の場合は【ZOUK LOVE】の伝統を保持したスタイルがまだ多いようで、新曲といっても、ぼくにはすでに懐メロを聴いているような感じがしてきちゃう。ズーク全盛期は、四半世紀も昔のことだったのか、とあらためて思い至った。

今年のヒット曲集のようなアルバム(古いね)をいくつかと、昔のヒット曲コンピレーションを10枚ほど買ってきたので聴いているけれど、やはり昔のモノのほうには明るい輝きがあってズークらしい。ユッタリと南の風に吹かれて、リズムに揺れる感覚が心地よい。'80年代後半にパリで流行ったダンス音楽だから、当時流行のアレンジがいまやとても野暮ったい。しかしそこも懐メロっぽくて逆に面白いともいえるかな。

パリのレコード屋(古いね)というか、CD屋はネット時代になって風前のトモシビ状態だったから、いずれそのうち無くなってしまうのだろう。やがてはカフェ付き古本屋に似た、趣味の古CD屋にでもなるのかな。【ズーク】自体も、いまや古めかしくてダサい歌謡曲になったことだし丁度いいね。そしていつか、近未来パリのアンティック屋あたりで、物好き相手に珍品として売られるようになるのでしょう。

しかし今聴いても、JOELLE URSULLの歌う SANTIMAN KASE や、MAL、MIYEL、AMAZONなどという曲が好きだな。八代亜紀ばりのハスキーヴォイス。忘れかけていた遠い夏の日をちょっとだけ思い出す。

D

D

2011-10-20 続・倭人伝モンダイ このエントリーを含むブックマーク

osamuharada2011-10-20

また、【古代史好きのかたに】

くだんの週刊誌連載「倭人伝を歩く」シリーズの最終回が出たので、つい買ってヒマにまかせて読んでしまった。邪馬台国の位置が、最終的には【九州説】に落ち着くのか、それとも11年ほど前に発見された奈良の「箸墓古墳」(卑弥呼の墓だという)で、俄然強気になってきた【畿内説】になるのか、やっぱり気になるじゃないの。どうせ【沖縄説】だけは完全無視だろうけどね。

で、このシリーズのノンフィクション作家さんが参考にしていたのは、昨年出版された森浩一著『倭人伝を読みなおす』(ちくま新書)だった。テレビにもよく出ている森浩一センセイは、京都・同志社大学の名誉教授。司馬遼太郎の『街道をゆく』取材に同行したくらいの、超有名な人気考古学者ですね。しかし結論から言えば、あいも変わらぬ邪馬台国【九州説】にすぎない。それも筑後の山門郡(現・福岡県みやま市)を比定。考古学者なのに、ヤマタイ=ヤマト(山門)の語呂あわせで決めるとは。

そもそも倭人伝には、最初は「耶馬壱(または壹・一)国」と書いてあったらしく、どうも「耶馬臺国」ではないんだよね。読みも「壱・壹・一」がイチかイであって、「臺」(台の旧字)タイではなかったようです。それを後でまた原典のほうが誤記だということにしてしまったみたいだ(岩波文庫の注釈を参照してみてね)。皆で寄ってたかって大和・山門「ヤマト」に発音が似ているから、耶馬・臺「ヤマ・タイ」としたみたいだ。今ではだれもが「邪馬台国」が正式名だと思っている。ちゃんと倭人伝を「読みなおす」気なら、まず原典のモンダイを解決してからにしてくれないかな。

森浩一説は、方角も距離も読み方まで、自分に都合のよい解釈ですませて、土の下から発掘した3世紀の遺物だけで邪馬台国を強引に比定してしまうという、考古学教授センセイの権威をひけらかしての、相当デタラメな学説。まさに我田引水(また言っちゃったよ)で、これでは「読みなおす」もなにもないだろう。

唯一おもしろかったのが、実際に「倭人伝を歩く・ノンフィクション作家」さんが、週刊誌のための取材で現地を歩き聞いてみると、森センセイ独自の【九州説】であるべきはずの現地、「みやま市教育委員会生涯学習課文化財担当者」の人は、笑いながら「私は、邪馬台国はここではなく奈良の纏向遺跡と思いますが」とにべもないお答えだった。箸墓古墳のある纏向遺跡のほうをオススメしちゃうバリバリの【畿内説】派なのです。地元にしては無欲なところがいいけど、これじゃアンマリだよね。それで、ノンフィクション作家さんの頭の中は、九州説VS畿内説がぐるぐる渦巻いて、何もまとまらなくなってしまったようだ。とどのつまりは、これぞ「歴史ロマン」(嫌な言葉)という月並みなレトリックで、お茶を濁して終わらせたつもりでいるらしい。こういうのって消化不良を起こさせるよね。

シロウトでも、中国人でも、倭人伝を素直に読めば沖縄に行き着くはずだが、あいにく沖縄には弥生時代らしい考古学的遺跡がなく、縄文時代のままが12世紀まで続く。これは3世紀の中国人から「倭人」と呼ばれていた人たちが、海洋系の縄文人だったからでしょう。北九州から上陸して、西日本で、米作りをはじめて弥生土器を使う農耕奴隷と、青銅や鉄製の武器を持つ支配階級の武人が「弥生時代人」なら、同じ頃の「倭人」は南日本に残る縄文土器を使い続ける人々だった、と別に考えればモンダイはないのです。

気象学では、弥生時代の紀元前4世紀から紀元後の3世紀までの間は、短い小氷河期だったそうで、日本列島全体も寒冷化していたために、かえって南の沖縄は今より涼しく快適な気候の時代だった。《倭の地は温暖、冬夏生菜を食す》と倭人伝にある。そして「縄文海進」に対して「弥生海退」といい、海面は今より低くて、陸地がひろがっていた。

九州でも、日本一の干潟といわれる諫早有明海のあたりは、当時かなり陸地の部分が多かったのではないだろうか。つまり【伊都国】から続く【奴国】と【不弥国】はその陸地の水際に存在していたと考えられる。倭人伝には《今倭の水人、好んで沈没して魚蛤を捕らえ、文身しまた以て大魚・水禽を厭う》という特長もある。海産物が豊富な地で暮らしていたのです。後の沖縄でいう「海人・ウミンチュ」や、九州の「白水郎」は倭人の名残りではないかな。

気候変動にともなって、大津波や地盤沈下で消えていった「倭人」の地。ほとんど遺跡が残らないのは致し方ない。考古学者さんにはつまらない地だろうね。しかしこれは、「倭人伝」以後、中国人が日本人について記載していない空白の百年間の理由であるとすれば納得できる。ミッシングリンクには気候の大変化という歴史的事情があったのだと。

沖縄は1771年(江戸時代)に、ギネスブックにも載る、記録史上世界最大の大津波(85.4m)があったところとしても知られている。それより1500年前にも大津波があったとしたって不思議ではない。沖縄には「津波」(ツワと読む)さんという名字や、地名がある。友人宅の近所に「津波モーターズ」という自動車修理工場があって、初めて見た時に、沖縄には津波対策の自動車でもあるのかとビックリした。天災の記憶をなくさないために、「想定内」としてこの名が残っているのでしょう。これも倭人の知恵でしょうか。

上の【写真】は、『地図で読む日本史』(日本文芸社刊)に載っている《邪馬台国の推定地》。右下に《倭人伝の記述があいまいなため投馬国推定地が多数ある》と、またここでも原作者の陳寿さんはいい加減な奴だということになっている。あいまいなのは日本人センセイたちのほうでしょうが。投馬国だけじゃない、邪馬台国はこのページだけでも4個ある。

2011-10-10 倭人伝モンダイ このエントリーを含むブックマーク

osamuharada2011-10-10

【古代史好きのかたに】(興味ないかたは飛ばしてね)

先日『週刊朝日』を本屋で立ち読みしていたら、「ノンフィクション劇場・倭人伝を歩く」という連載があり、ちょっと引っかかったところがある。これを書いている作家が、福岡県の糸島市にある「伊都国歴史博物館」を訪れたというくだり。しかも糸島市教育委員会文化課博物館係という肩書きの人が案内をしている。とゆうことはですよ、【魏志倭人伝】に出てくる【伊都国】は、すでに糸島市にあったということに、いつの間にか確定されていたことになる。コレには驚いた。立派な伊都国の博物館までできているのだ。

すぐに「伊都国歴史博物館」のホームページを見てみたら、現在は企画展をやっていて、いわく「『邪馬台国』を支えた国々−今使譯所通三十国」というタイトル。知らないうちにどんどん歴史は解明されていたのかと、一瞬アセっちゃうよね。しかしまだ、肝心カナメの【邪馬台国】の位置だけは、あい変わらずわからない。そのかわりこう書いてある《「魏志倭人伝」に記された30国のうち、対馬国、一支国、末盧国、伊都国、奴国は、その比定地が定まっており、他国を凌駕するほどの勢力を誇っていたことがわかっています。》ほんとかよ!

ヤツガレはむかしから縄文時代が好きな考古学ファンではあるけれど、弥生時代というものが大嫌いな古代史ファンだったので、この紀元200年代の邪馬台国には、あまり興味を持てなかった。それが木村政昭先生の、沖縄海底遺跡・邪馬台国説にハマって、通称【魏志倭人伝】を再読しているうちに、中国の正史『三国志』、魏・呉・蜀の時代について書かれたこの文献(倭人伝はそのなかの魏志に書かれている)は、正確無比なものではないかと考えるようになり、たちまちこの時代が面白くなってきたワケ。

それで倭人伝の行路について調べてみると、どう考えても、【伊都国】が福岡県糸島市であるというのは腑に落ちない。博物館が言っている【対馬国】=対馬説と、【末盧国】=松浦(唐津あたり)説だけは首肯できる。しかし【一大国】が【一支国】の誤記で、一支(イキ)=壱岐である説はいただけない。【奴国】説は論外。そしてモンダイなのがこの【伊都国】説ですよ。

まず方角の問題❶ 倭人伝には、末盧国から伊都国へ行くには《 東南陸行五百里にして伊都国に到る 》とある。「東南」方向だ。しかし松浦=末盧国からみて、糸島=伊都国はやや北寄りの「東」の方角に位置する。残念ながら「東南」ではないのだ。また「東南」では内陸に入るので「陸行」でOKだが、松浦(唐津)〜糸島までなら海岸線に沿って「東」へ船(水行)で行くはず。 それで困った日本人の学者センセイがたは、中国正史『三国志』の作者である歴史家・陳寿の書いた方角は「誤記」だということにしてしまった。ヘンでしょ。本場中国人の陳寿さんよりも、なぜか日本人のセンセイのほうが漢字を正しく書けるとはね。

そして距離の問題❷ 松浦(唐津)からだと、そこから糸島まで五百里(50km)も離れてはいない。せいぜい25〜30kmくらいしかない。しかしこれまた陳寿さんの間違いである、とセンセイがたは決めつけた。【 東南陸行五百里到伊都國 】のところは方角も距離もすべて誤記だというんだから、ひどいじゃないか。陳寿さんはただのバカなのか。それなら最初から倭人伝こと『三国志魏志東夷伝倭人の条』の存在そのものを疑えよ。 注・古代史では常識になっているこの時代の「短里」に従えば、1里=約100mです。

さらに方角の問題❸ 邪馬台国の場所は、むかしから【北九州説(福岡周辺)】と【畿内説(大和中心)】に意見が分かれている。いずれにしても両者が口を揃えて、伊都国は糸島だというなら、女王のいる邪馬台国糸島からみて「東」の方角になければならない。ところがですよ、倭人伝の後ろの方にはこう書かれている。《 女王国より以北には、特に一大率を置き諸国を検察せしむ。諸国これを畏憚す。常に伊都国に治す 》ということは、邪馬台国からみて「以北」の伊都国に一大率(中くらいの軍隊)を置いていたことになる。つまり邪馬台国は伊都国からみると「南」になくてはおかしい。伊都国の「東」方向じゃないことだけは確かだよね。【 女王國以北特置一大率檢察諸国畏憚之常治伊都國 】

伊都国が糸島ではないとすると、じゃドコよとなるが、ワタシの推理ではこうなる。末盧国=松浦(松浦市ではない)から、正確に《 東南陸行五百里 》の50km東南方向をたどると、同じ佐賀県内で有明海に面した太良町の「糸岐」という地名にゆきつくことができる。これなら陳寿さん記述どおりの【伊都国】でOKではないでしょうか。「弥生海退」という地質学も念頭に入れてください。

しかし自分に都合の悪いところはすべて誤記ということにして済ましちゃうとは、センセイがたの説は「我田引水」もはなはだしいよ。特にどうしてもヤマタイ国=ヤマトにしたい畿内説学者たちは、大和朝廷の天皇様が、畿内の大和や奈良あたりに紀元前の最初ッから居たことにしておきたい。日本正史『日本書紀』に書いてあるとおりにね。国立大学で給料や研究費にありつく教授センセイ、いかにも体制への事大主義者らしいよね。原発推進の御用学者にもあい似たり。

北九州説の他に、全九州説もあるけれど、これも破綻している。【伊都国】から東南(10km)の【奴国】、そこから東(10km)の【不弥国】までは、近所だからまあよいとしても、そこから「南」の【投馬国】(これは薩摩・鹿児島でしょうね)までは、船で20日間かかる。不弥国から《 南、投馬国に至る水行二十日。》注・この不弥国は海に面している場所でないとダメ。 そして次の投馬国からいよいよ卑弥呼のいる邪馬台国までは、《 南、邪馬台国に至る、女王の都する所、水行十日陸行一月。》 鹿児島からさらにそれだけ南へ行ったら、もう九州ではなくなる。 それなら海を越えて島づたいにゆく、沖縄本島北谷沖に沈んだ邪馬台国説のほうが、正確に記されていたと考えられる。ね、このほうが素直でスッキリするでしょ。

これが我田引水ではない証拠をもひとつ。倭人伝にはこうも書いてある。《 郡より女王国に至る万二千余里。》朝鮮いまのソウルのあたりに置いた魏国の【帯方郡】から、女王卑弥呼の【邪馬台国】までは、1万2000余里(約1200km)とある。世界地図帳を開いて計ってみてください、ソウルから沖縄本島まで、直線距離はピッタリ1200kmなのですよ。

上の写真は、フィールドワークしてきた、世界遺産の沖縄本島[今帰人城]。ナキジン・グスクと読みます。ここが女王国以北から、《これ女王の境界の尽くる所なり》の間に書かれた21国の最後、《次に奴国あり》のナの国、ナキジンではないかな、などと楽しき空想をしています。

ヤツガレの邪馬台国論→❶ id:osamuharada:20110425id:osamuharada:20110505id:osamuharada:20110618

2011-10-04 パリの秘密結社 このエントリーを含むブックマーク

osamuharada2011-10-04

日本ではむかし「大東社」と呼んでいた、フランス最大のフリーメーソン【 GRAND ORIENT DE FRANCE 】 。パリの下町、9区のCadet通りに本部がある。一階は「フリーメーソン博物館」で、堂々と一般公開をしている。ここは実に面白い。展示を見ていると、フランス革命(1789〜1799年)では、実際にはこの大東社・グラントリアンが暗躍していたことがよくわかる。ナポレオンもジャコバン党もメーソンだった。

江戸時代の末期に、徳川幕府が西洋式の陸軍をつくるときに招来したのが、このフランスのメーソンたちだった。彼らは軍隊だけでなく、函館の五稜郭(ヨーロッパ式城郭)も建設した。新撰組の土方歳三が最後まで官軍と戦って戦死(明治2年)したあの城ですね。明治新政府のほうを手伝っていたのは、英国のメーソン「ロンドン・グランドロッジ」だったので、大東社と日本の縁は切れたようです。またヨーロッパでは、ちょうど大東社とロンドン・グランドロッジが決別した頃でもあるそうです。オカルトや陰謀論などと笑いモノにしないで、マジメに調べてみると真実の歴史がたち現れてきますよ。アメリカ建国、ドイツ帝国の成立、ロシア革命、教科書にはわざと載せない歴史の謎解きは小説などよりずっと面白い。

余談ですが、古来より江戸時代までの日本人は、歩いたり走ったりする時に、腕を交互に振ってはいなかった。江戸幕府のフランス式陸軍の教練で、初めてオイッチニ・サンシと手を振って歩くのを、日本人は学んだそうなのです。明治以降は小学校からしっかり教えこまれた。われら現代日本人の歩き方は、フランスのメーソン軍人から教わっていたことになる。時代劇などでサムライが手を振って歩くのは、時代考証としては間違いなのですよ。歌舞伎ではやらないもんね。サムライなら両手を腰のあたりに置いて走るとか、たもとに両腕を入れて歩いていたのね。むやみに手は振らない。ちなみに片手だけをたもとに入れ、ちょっと肩を突き上げて歩くのを「ヤゾウ(弥蔵)」といっていた。職人やヤクザのスタイル。三遊亭円生の『首提灯』を見れば、かっこいいヤゾウの歩き方がわかる。

話がそれちゃったけれど、このパリの大東社の真ん前に、小さいけれど高級な本屋がある。中に入ると、メーソンの儀式で使用する、豪華な刺繍のエプロンや、剣、オベリスクの置物、その他ワケのわからんグッズを売っている。本もすべてメーソン関係ばかり。ショーケースに飾ってあった本は、モーツアルトのオペラ『魔笛』が、メーソンのRITUAL(秘儀)にのっとって書かれたものだという研究書だった。一説には、メーソン正式会員だったモーツアルトは、秘密の儀式内容を『魔笛』で公開してしまったために暗殺されたともいわれている。現在でも世界最大の秘密結社フリーメーソンの儀式は完全に秘められている。映画のように、サリエリモーツアルトの才能に嫉妬して毒殺したというのよりはまともな暗殺説だよね。

ところで、この本屋の看板を見ると驚きますよ。【 La Librairie de ▲ 】となっている。最後が文字ではなく三角形のピラミッド。知ってる人ならすぐわかっちゃうシンボルマーク。表のウィンドウには、やはりメーソンだった「進化論ダーウィン」の一書あり。調子に乗って、本屋の中で書棚の写真を撮っていたら、いままで静かにしていた店主がそばに来て、それはいかんなあ、と首を振った。柔和そうなオジサンだったが、眼光だけが鋭いのはさすがだなと思った。やっぱりメーソンはなんだか怖いよね。

2011-09-23 携帯とパソコン このエントリーを含むブックマーク

osamuharada2011-09-23

ヤツガレは、トシとともに雲水不住の身となり、やたらと移動が多くなった。携帯とパソコンは必携になった。携帯電話は電話だけの使用で、あれでメールを打ち込むのはメンドクサイ。もとより筆無精だけれど、連絡だけは必要なので、メールはキーボードのあるノートパソコンのみを使用している。移動中にこのブログを書く、というヒマつぶしにも重宝している。

それでパソコンのほうは、使い勝手よりもとにかく小さくて軽いものが、選ぶ基準だった。最初はビクターのノートパソコン。弁当箱くらいの当時最小サイズ。名前は思い出せないが、誰からも知らないなと笑われた幻のパソコン。もう製造していないでしょうね。これは1台目、2台目ともにすぐ壊れた。

お次は、世界最軽量が売りのソニーのバイオが出たので買った。これも軽いのはいいが、使い勝手は悪かった。Vaioというミミズが這うようなロゴが気持ち悪いので、ステッカーを貼って隠しておいた。コレは海外で通信費がバカ高くなるのが気に入らない。それでまた次は、マックブック・エアに替えてみた。サイズは小さいが、いままでの中では一番重たい。使い勝手はちょっとだけ良くなった気がする。デザインは人がいうほど良いとは思わない。齧ったリンゴマークが光るのは邪魔っけだ。

いずれにしてもパソコンは、メールとたまにこのブログを書くだけのものだったのだけれど、それが3.11以後は一変した。最新情報収集の道具として大活躍するに至ったのです。これで大マスコミの大本営発表を鵜呑みにしないですんだ。昔からテレビや新聞に対しては、常に裏読みを得意としていたから、人よりは騙されにくいほうだ。ネットは、情報の渦の中でも、同じ考えの人を見つけることがたやすくて、ココロ強い。

ツイッターなるものは、舌ったらずの感情論ばかりが横行しているようで、どうにも読むにたえない。安居酒屋のごとく、知らぬ同士が不毛の口論をしている様は、ただ見苦しいだけだ。インターネット社会も分断統治されていることに気がつかないのだろうか。しかしこれは見なければそれですむことでしたね。情報収集の役にも立たないしね。

携帯電話のありがたみも、3.11以後によくわかった。家族友人との緊急連絡には必携だということ。むかしの携帯は、ツーカーとかいうのが簡単で軽いからと使っていたが、KDDIに買収されて使えなくなり、auに移行させられた。代替え無料の携帯(売れ残り)は、Tokujin とかいうデザイナーモノで、使い勝手は悪かったが、あまり使わないから我慢できた。それもまた来年には何とかが変わるから、いまのうちに機種変更せよといわれたので、しかたなくまた無料の携帯(同じデザイナーの新作)にとり替える。auの店に行ったら好きなウルトラマリン色(透明)が出ていて気に入ったので、迷わず交換した。タダだしね。

最近になってネットで知ったのは、このauという会社の取締役に、あの人災・東京電力の会長カツマタというのもいたこと。テレビで一見した爬虫類のような顔を思い出してゾッとした。今度は、auが、iPhoneと提携をするというニュース。脱原発利権に目を付けていたソフトバンクのソンを追い落とそうという魂胆か。カネ儲けの醜悪な争いごとは、どっかよその爬虫類世界でやってほしいよな。3.11以後も、相変わらずカネをめぐっての抗争がひたすら続くだけの日本。人災は百年たっても収束つかないだろう。人命より、たかがカネ儲けとは、あまりにも愚かな国ではないか。

写真は島のアトリエのホームBAR。わが師・川端実先生の絵があり、もっとも落ち着ける場所。幸い?この山中には、携帯の電波もWiFiも届かない。たまに小鳥たちがツイートしてくれるだけ。

追記・この人もマックブック・エア使用→http://xbrand.yahoo.co.jp/category/lifestyle/7400/3.html、カッコイイぜ。

2011-09-18 祝・菊六真打ち昇進 このエントリーを含むブックマーク

osamuharada2011-09-18

近頃嬉しいニュースあり。現在「二つ目」の古今亭菊六に、来年の秋「真打ち」昇進が決定。しかもなんと二十八人抜きの大抜てきだそうです。会長になった柳家小三治師匠の慧眼にかなうとは、古典落語ファンとしても二重に嬉しい限りであります。陰ながら応援してきた甲斐がありました。

3.11以降、今年の築地パレットクラブスクール開講を延期にしたため、「パレットクラブ寄席・菊六落語会」の方も今年はお休みさせていただいておりますが、来春からはあらためましての開催を予定しております。来秋の真打ち昇進にかけて、皆様とご一緒に応援いたす所存であります。またご贔屓お引き立てのほど、おん願い申しあげたてまつります。 

はなむけに、久保佐四郎人形の、小さな達磨さんたちです。席亭より

古今亭菊六ブログ 日刊スポーツのニュース 前回の菊六落語会(id:osamuharada:20101228)

     東 京 の 戀 し く な り し 桔 梗 か な   万太郎

2011-09-16 食べものノート このエントリーを含むブックマーク

osamuharada2011-09-16

東京に帰って真っ先に行ったのは、銀座の【はち巻岡田】でした。刺身、岡田茶碗、実そば、あいがも、粟麩田楽など東京の味覚。それに久保田万太郎の季節の句が壁に掛かっていたので、東京へ戻った気がした。時差ボケがなおらない次の日は、銀座松屋【茶の葉】で鹿児島県大隅半島の煎茶「有明」を喫す。銀座【天一】で琵琶湖の鮎の天ぷらなど、シメに小柱と海老のかき揚げ丼を食す。外に出れば、夜の節電銀座のうす暗さには、どうにも馴染むことができない。人通りは少なく、二十年前のバブル崩壊直後の銀座を思い出した。

パリにいて、これは日本じゃなかなか味わえないな、と感心したのが意外にもパンでした。あちこち新進気鋭のパン職人がつくるBoulangerieにて、焼きたてのバゲットやバタールを買っては食べくらべてみた。どこの店にも伝統と個性があり、それぞれがいちいち感動的にうまいのには驚いた。市場で売っていたバターがまた実にうまい。これに惣菜屋のパテ・ド・カンパーニュと、BIOの八百屋のチコリ、そして白ワインがあればゆうことなし。基本のパンさえうまければ、すべてはC’est bon!なのだ。日本の「ご飯」と同じことですね。安上りでしかも大満足できちゃう。

フランスの牛肉は、赤身のみで、日本のような霜降り肉は無い。赤身といっても、人形町【日山】の絶品ヒレ肉のようなわけにはいかない。素材そのものでは勝負できないから、料理が発達したのはよくわかる。鴨料理が好きだけれど、残念ながら夏なのでパスした。

フランスでは牛より豚が旨いと思った。豚料理で評判の【 Le Comptoir 】へ行ってみた。ビストロらしく単純な料理で、豚の旨味がよく引き出されていた。牛と同じで脂身が少ないから、日本のトンカツには向かないな。ワインにピッタリ合うところは、さすがフランスの豚。写真は店のワイングラスです。

フランス菓子の砂糖甘いのには閉口した。だいいちデカすぎるね。本格的ショコラもちょっとヘビーだし、レストランのデザートは苦しくてもう入らない。酒飲みではないからクセのあるチーズもいらない。牛乳は特にうまいとは思わなかったけれど、ヨーグルトは種類も豊富で食後にもイケた。果物はしっかりと味が濃い。総じてフランスこそは食の大国だと改めて思ったが、もはやこのトシではついてゆけない。グルメは四十代の頃に充分楽しんだから、もういいか。

おとつい、南仏で核施設が爆発したという。サルコジは、放射能漏れがあったとしても、平気で隠蔽しそうな顔ツキをしているな。これからは世界中どこへ行っても、食の放射能汚染からは逃げられないのだろう。

2011-09-10 3.11以後 このエントリーを含むブックマーク

osamuharada2011-09-10

パリの人文系書店のウィンドウに、新刊の原発本が飾られていた。福島とチェルノブイリを、すでに同じカタストロフィー(破滅)として論じ、次なる危険地点を考察している。胸を突かれる思いに、足が止まった。あの日からまだ半年が過ぎたばかりだというのに。

天災の復興もままならぬまま、福島の人災は収まらず、放射能汚染は拡散し続けている。空気や水、食料にまで及ぶ被害。しかし、3.11以後の日本が大きく変化したのを知りながらも、従前どおりの社会生活に復帰をしたい願望で、政府が流す「新・安全神話」に心のよりどころを求める人たちがいる。怒ることよりも諦めることを選んだのだろうか。あるいは、経済(お金)が回らなければ生きる価値なし、と結局は現体制に隷属する事大主義の大人たちもいる。いずれにしても目に見えぬ恐怖が今の子供たちに具現化するのは、チェルノブイリの如く五年十年先の話だ、と責任を取るつもりのない現政府を容認している。日本国内と外国とでは、福島をめぐって乖離があるようだ。

世界一の発行部数を誇る「読売新聞」が三日前、ついにその「社説」で本音をはいた。これはチェルノブイリと同列には語れない日本のゲンパツ事情といえる。その末尾にいわく《 日本は原子力の平和利用を通じて核拡散防止条約(NPT)体制の強化に努め、核兵器の材料になり得るプルトニウムの利用が認められている。こうした現状が、外交的には、潜在的な核抑止力として機能していることも事実だ。》全文はコチラ

日本はいつの間にか、対外的には核保有国として、立派な軍事大国になっていた。好戦的な東京都知事までが、徴兵制を叫ぶのもムリはない。時代の趨勢は、平和憲法を変えて、戦地へと若者たちを送りこむつもりなのだ。お前たちの他に誰が日本を守るのか!と洗脳をして。しかしその真意は、軍需景気で経済復活を期待する、軍産複合体の野望なのではないだろうか。経済大国の夢よもう一度。富国強兵、(カネのためなら)撃ちてし止まむ。東京へ帰るのが、なんだか不快な気分になってきた。

2011-09-04 パリの群青色 このエントリーを含むブックマーク

osamuharada2011-09-04

どこの街にも固有の色感があると思う。パリの街ではウルトラマリン(群青色)が、ぼくには気になる色です。道路標識や公衆電話に、郵便局や銀行や店舗に、駅や地下鉄に、どこかで必ずウルトラマリンの青が効いている。本の題字やグラフィックデザインにもよく使われる。ドアや窓枠を塗るペンキにも用いられる。薬屋やクリーニング屋の看板(この写真)では、ウルトラマリンが清潔感をあらわしている。かつて、フランスの現代美術家イヴ・クラインが、有名な「インターナショナル・クラインブルー」をあみ出したのも、画材店でウルトラマリンの粉末顔料を発見したからだという。

ぼくがヒマツブシで描く抽象画では、昔からウルトラマリンの絵の具を多く使ってきた。パリの古い画材店や絵具屋でもハシゴをして、いつもウルトラマリンの絵の具を買って帰っては、アトリエで塗りくらべてみた。水彩も油絵具も、アクリルでもガッシュでも、なんでもいい。製造元によって、同じ群青色でも、紫がかっていたり、コバルトに近かったり、紺色くらいに濃いものもある。どれもがほんの少しだけ違っている。それが面白くて、見たことのない絵の具メーカーのものがあると、ついまた買ってしまう。同じ青でもコバルトやプルシアンブルーは、めったに買わない。

というくらいウルトラマリンが好きなので、パリの街を歩けばこの色が気になってしょうがない。ある街角に立って、周囲を見まわしてみると、嬉しいことに、たいがいどこかにウルトラマリンの配色がある。たまに無いなあと思っていると、ウルトラマリンの車かバスがさっと横切ってくれる。求めよ! さすれば与えられん、というわけですね。

たまたま植物園の近所が拠点だったので、自分の庭のつもりかなんかで、何度も足を運んだ。広大な花壇には、いつも満開の花々が植えられ、配色と配置が素晴らしい。プロの園芸家の、熟練した仕事ぶりというものでしょう。何種かの様々な花が、赤やピンク、オレンジでまとめられていたり、またあるところは黄色の花々で一区画だったり、白い花々でもひとまとめ、などと花壇ごとに見事なバランスなのです。ある花壇は水色や青の花を中心に、薄紫や濃紫の花などでまとめられていた。その中に完璧なウルトラマリンの花を見つけたときには、とても驚いた。

本物のラピスラズリでさえ負けてしまいそうな、ひとかたまりの群青色の花。紫外線を浴びて、遠く宇宙空間で発光しているかのように輝く。吸いこまれそうに深く、しかも前面で楽しく踊っているみたいなウルトラマリン・ブルー。思わずデジカメのシャッターを押してしまったが、色の再現はまったく不可能だと知る。電気的な発光とは全く違うからで、すべて削除してしまった。それでそこに書かれていた花の名前も消えてしまった。

やがて、その青い花も八月後半には終わってしまい、花壇には秋らしい気配のする草花や、大輪のダリアが植え替えられていた。脳裏に焼きついた、あのウルトラマリンの花の色は、いまでも忘れがたい。

イヴ・クライン→id:osamuharada:20081031→アーカイブスには、青いオベリスクあり。怪しいぞ。

2011-09-02 夜明けの海辺 このエントリーを含むブックマーク

osamuharada2011-09-02

いっこうに夏らしくない今年のパリで、避暑地のように過ごしやすいのは助かった。しかし何かモノたりなさを感じたのは、夏だというのにまだ一度も海を見ていないことだった。もはや泳いだり潜ったりはしないが、それでも夏の海が好きで見たくなる。八月のドーヴィルと隣のトゥルーヴィルの海岸へ行ってきた。

サン・ラザール駅から特急で約2時間。パリ市内を出るとすぐに田園風景がはじまる。畑とともに、牛、羊、馬などが緑の牧場に点在する。日本の風土と違って、起伏に富んだ山が無く、低い丘があるだけで、どこまでも平べったい大地が延々と続いている。パリに来てすぐに電車でシャルトルへ行った時にも、まったく同じ平らな風景が続いていた。農業と酪農の国だというのが一目でわかる。食料自給率が高いはずだな。

ドーヴィルもトゥルーヴィルも、バカンスの季節だったので、湘南なみに混んでいた。海辺に面したトゥルーヴィルのホテルに泊まったが、昼はまるで遊園地のようで、子供の嬌声が絶え間ない。おまけにサヴィニャックのポスターが街中にあるから、どこまでもお子様向けの陽気な海岸だ。ドーヴィルのほうの長い海岸は、際まで車が入れるためか若者と家族連れで、ごったがえしていた。気温が上がらないから、海に入るひとはすくない。もっとも浅すぎて泳ぐための海岸ではないのだろう。カフェもレストランもいっぱいで、ちょっとゲンナリしたが、食欲だけはあるので、海に来たからには、と青いオマール海老に、シーズンのムール貝を食べた。

朝が明けてみると、やっと海岸にひとけのない時間がやってきて、静かな自然の海を見ることができた。遠浅の海は、ベージュ色の砂浜を透過して、くすんだブルーだ。むしろ鏡のように空の色を反映するから、空色といったほうが正解かな。ヨットの帆がよく似合う渋い青の色だった。カラフルな縞模様のパラソルが、閉じてキャンディのように並んで立ててあるのは、百年も前からこの地の名物で、いかにもフランス特有の女性的な可愛らしさがある。

ドーヴィルの海岸で、犬と人が散歩するシルエットを眺めていたら、当然ながら映画『男と女』の海のシークエンスを思い出す。あれは冬のドーヴィルだったから、大人の絵になったのですね。監督クロード・ルルーシュの、手持ちカメラワークや編集が抜群だったことを、実景を見て再認識した。撮り方ひとつで、同じ風景でもあんなに違って見えるわけだ。またあの活き活きとして美しい映像を観たくなった。

トシをとると、海の印象も、ずいぶんと変わってくるものですね。どの海を見ても、過ぎた日の、数々の海辺の記憶がよみがえる。回想というものは、老後の楽しみなのでしょう。

2011-08-28 オベリスクの秘密 このエントリーを含むブックマーク

osamuharada2011-08-28

一昨日、アメリカの首都ワシントンDCで大きな地震があり、その時にあの「オベリスク」(ワシントン記念塔)にひび割れがあったというニュース。石を積み重ねた造りでは、世界で一番高い塔。1884年(明治17年)に完成している。やはり、地震なんて絶対に起こらないはずだから想定外とでも言いわけするのかな。先端のピラミッドのところからいく筋かの亀裂が入ってしまったとは、なんだか不吉だね。それにしても、何であんなカタチの塔があるのか不思議には思いませんか。

「オベリスク」といえば、むかし調べたことを思い出した。パリの「凱旋門」は、ナポレオン皇帝が戦勝記念に建てはじめ、完成前に死んじゃったというドジな門ですが、そこから「コンコルド広場」までを、おなじみの「シャンゼリゼ大通り」と呼んでいる。そのコンコルド広場の真ん中に立ててあるのが「オベリスク」。

フランス革命で、ルイ16世やマリー・アントワネットの首が落とされた跡のコンコルド広場に、英国の植民地エジプトから盗んできた「オベリスク」を立てたのは何故だろうか。なんだか怪しい感じがするでしょ。梅原猛(新興宗教がスポンサー)なら《怨霊鎮魂》のためとかすぐにいいそうだよね。

実は、一年に一度、「夏至」の日に、このオベリスク地点から見ていると、夏至の太陽が「凱旋門」の真ん中に沈み込む。太陽がこの日、真西から23.4度くらい北に傾いて沈むわけ。つまりそういう角度で、「シャンゼリゼ大通り」がつくられているのですよ。上はジュドポーム美術館の帰りに撮っておいた写真。オベリスクの左下に凱旋門が遠く小さく写っていますが、あそこまでが、シャンゼリゼ大通り。この写真の背後には、ルーブル博物館の入り口があり、現在ガラスのピラミッドになっていますね。

一九世紀半ば、甥っ子のほうのナポレオン三世と、その子分オスマン県知事が共謀して、パリの大改造を行った。ローマ帝国を真似て、オジサンも甥も「ナポレオン皇帝」と称したくらいだから、大の古代ローマ好きだ。なのにエジプトの「オベリスク」を置くとはコレいかに?ですが、これまた実は、夏至の日の太陽だけを崇拝していたわけじゃなく、この日に太陽と同じ位置から出て沈む、「恒星シリウス」のほうを主に崇拝しているのね。つまり古代のエジプトの女神「イシス」信仰をとりいれている。エジプト起源のイシス信仰は、古代ローマで大流行していたのですね(日本は邪馬台国の卑弥呼の時代ね)。それでわざわざエジプトの「オベリスク」があそこに出てくるわけよ。すっかりローマ帝国にかぶれちゃってるよね。それがパリ大改造の理由だったとはね。

ところで、ワシントンDCも全く同じことで、こっちは東の「国会議事堂」から見て、西側の大統領官邸「ホワイトハウス」の屋根に、夏至の日の太陽とシリウスが沈みこむ。そして一昨日ひび割れた「オベリスク」のほうは。三角定規でいうと直角に当たる位置に建っています。パリと同じく、ワシントンも古代ローマ帝国をモノ真似した古典主義建築群でいっぱいだ。南寄りの冬至線上には、ギリシャ神殿のようなリンカーン記念堂まである。ちなみにこの夏至線三角形の内側は「フェデラル・トライアングル地帯」と呼んで、官庁街になっている。計画したのはジョージ・ワシントン初代大統領。自分ちの荘園に首都をつくらせたから、それで地名もワシントン。都市設計にあたったのは、フランスの建築家ピエール・シャルル・ランファン。 ここもパリと同じように、古代エジプトのイシス信仰がモチベーションで、区画整理されていたのがよくわかる。

「オベリスク」は、ニューヨークやロンドンにもあり、世界中の大都市にいくらでも見つけることができる。アルゼンチンの首都ブエノスアイレスにだって巨大なのがある。欧米の墓地には、墓石としてもよくあるし、インテリア・グッズとして小さいのが室内に飾ってあったり、置物としてもよく見る。一体どういうことなのか? これ以上いうと、トンデモ陰謀論者とバカにされるだけだから、もう言いませんが、オベリスクってのは何だか変テコリンなものだとは思いませんか?

ついでながら閑人のヤツガレが独自に発見した「夏至線」のほうの話題をひとつ。古来より日本の神社などには夏至線が多々あるけれど、それにしてもおかしいのが、東京駅の中央口から皇居に向かって真っすぐの大通り。千代田区の地図を調べればすぐわかるけれど、この道路の角度が夏至線になっているのですよ。東京駅全体が、23,4度西から北へ傾いている。大正時代に駅が建てられた頃は、この広い道路は【凱旋通り】と名付けられていて、第一次世界大戦に日本が勝ったという意味の「凱旋」だったのでしょう。この大通りはお堀にすぐぶつかって、橋の手前でおしまいになる、何故か太くて短い大通りなのです。しかしこの通りの角度である夏至線を、ズーっとたどってゆけば「皇居」と「吹上御所」の中間を通り抜け、まっつぐ堀の向こうの「英国大使館」にドーンと突き当たる寸法。やっぱり、「ほんとは植民地日本」の近代史は、そうとう怪しいところがあるな。

2011-08-23 シスレーのいた村 このエントリーを含むブックマーク

osamuharada2011-08-23

ヴェルサイユに住んでいるSさんが、画家シスレー好きのぼくを、モレ・シュル・ロワンに連れて行ってくれた。車は緑豊かなフォンテーヌブローの森を抜け、外光派、印象派の拠点となったバルビゾンを後にし、アルフレッド・シスレーが六十歳で没するまでの十年間住んでいた、小さな小さな村にたどり着いた。

小さな城門をくぐると、百年の昔に帰るような、古風な家並みが続くモレ・シュル・ロワン。車が入ってこなければ、まだシスレーがノートルダム・ド・モレ教会を前にして、通りにイーゼルを立て、絵を描いていてもまったく不思議ではない光景だ。この教会をシスレーは十二回も描いている。こないだプティ・パレで見たのも、そのなかの一点で、同じ場所から実景を前にすると、シスレーの気持ちがよくわかった。

ロマネスクと後のゴシック様式が混ざったような教会の石造建築は、表面の起伏が複雑なので、季節や天候、時間によって様々に抽象的な色合いを見せる。決して信心深くて、何度も教会を描いたわけじゃない。絵を描かない人には、光と陰、絵の具のバルールなど、この抽象の面白さがわかりにくいかも知れないな。

この教会から歩いてわずか一分ほどの通りに、シスレーの住んでいた家がある。朋友モネの大邸宅に比べたら、売れない画家だったシスレーの家はいたって質素だ。何故、売れなかったかというのは簡単な話だ。つまり好んで風景画しか描かなかったからだと思う。印象派は外光で風景を描くことからスタートしたけれど、それではあまり売れないので人間を主体に描くようになる。モネは人々の風俗やリッチな暮らしを描き、ルノアールは太めのヌードか少女を描く。ドガは、当時は春も売らなければならなかったバレーダンサーを専門に描く。シスレーの仲間たちは、一般にわかりやすい「風俗画」の画題で人目を引くイラストレーターのようになっていったのだろう。職業画家というものは、いつの時代でも変わらない。印象派のようにサロンというパトロン付きの体制派を否定したら、人気あるテーマを自ら選んで描かなきゃ食えないものね。モネ晩年の、庭の蓮池は、抽象を目指したものだけれど時すでに遅し、壁紙デザインのような絵になっている。とぼくは自分勝手に思っている。

シスレーの家から出て坂下の城壁の外は、すぐにロワン運河(上の写真)になる。しばらくゆけば広いセーヌ川とゆったり合流する。空と水の画家が、この地を離れなかった理由は、この水辺の景観を歩いてみれば一目でわかる。四季折々、夢のように美しい風景がそこにあれば、ある画家には、稼いだり、名声を得たりすることなど無意味なものとなる。都会を離れ、日常の些末さから解放され、絵を描く日々が喜びに満たされる。外光で描く画家にとって、風景の中がすべて自分のアトリエになる。きっとシスレーは風景しか描きたくなかったのだろう。キャンバスと、目の前の自然が一つになる時、画家は恍惚とし、また超然としたに違いない。

次の日に、オルセー美術館シスレーを見に行った。一部工事中のためか、一時的にだろうけれど狭い通路に追いやられ、シスレーは11点のみ。モネピサロも、ルノアールやドガでさえ、同じく照明の悪い通路に並んでいる。後期印象派のゴッホやゴーギャンは、ゆとりを持っていく部屋かを占有していた。世界中からやってくる観光客しかいない美術館は、芸術を鑑賞するような場所ではもはやないのかもしれないな。シスレーの絵は、いまや高額になり過ぎて、シスレーのいた小さな小さな村には一点も残っていない。

2011-08-21 食の安全神話 このエントリーを含むブックマーク

osamuharada2011-08-21

イギリスに住んでいるKさんからのメールでは、秋に一時帰国するけれど、東京の食べ物はほんとに大丈夫かしら、と不安な様子。なんでも東京のお友達に聞いたところ、「もう普段通り」「いいデパートの食品なら大丈夫よ」或いは「気にしたってしょうがない」とのこと。そうならいいのになという願望の現れなのか、もう東京では安全ムードがただよっているらしい。【原発の安全神話】が、ガラガラっと音を立てて崩れ去った、と思っていたら、お次は替わって【食の安全神話】が勃興してきそうだ。

あえて福島産の食材を食べて「応援」する、という感情論にすぎないものまで登場してきた。築地場外市場には、福島県産だけの食材店ができて大繁盛をしているよし。自然食品の専門店までが、ガンバレ東日本と応援?をしているそうです。いつの間にか、天災と人災が混濁してしまっている。

自然食品店は、国が認可する農薬などの基準を拒絶して、有機や無農薬で「エコ」を売りにしてきたはずだ。それが放射能汚染になると、国が決めた暫定基準値なら安全だというのでは矛盾する。「自然食品」の看板が泣くだろう。セシウム137は、核分裂でしかできない人工放射性同位体で、つまり「自然」に存在する毒ではないでしょう。

日本の食品の、セシウム137の暫定基準値は【500ベクレル】までなら安全なのだとゆるくした。ドイツは、まず医者たちが反対をして原発廃止運動をおこした国だけあって、大人は【8ベクレル】、子供は【4ベクレル】までが基準だという(ドイツ放射線防護協会)。日本の子供はドイツの子供の125倍までセシウムを体内に取り入れても安全というわけだね。 これじゃいくらなんでも差がありすぎて、親なら誰だって不安になると思っていたが、予測に反してまさか半年もたたずに【食の安全神話】が生まれてるとは驚きだな。

しかし、何を食べようが結局その人の好き嫌いもあるし、安全だの、危険だのと声を荒らげて、あえて他人に言うことはないでしょう。余計なお世話と言われたりするだけ。例の「ただちに影響はない」説を信じるのも、「癌になる」説を心配するのも、個人の自由というものです。なかには「放射能物質なんぞ、いくら飲み込んだって、全部外に出るからヘッチャラなのだ」という剛の者もいるから、基準値なんて無駄でしょう。覆水盆に返らずで、すでに大量の放射能は降り注いだ。せめて産地をごまかさずに表記し、正確な放射線量の数値を明記してさえくれれば、それですむこと。あとは個人の自由な選択にまかせておけばいいよね。

パリの古い市場へ行ったら、自然食品のBIOの八百屋と、農薬使用のフツーの八百屋が軒を並べて、仲良く商売をしていた。ビオは、オーガニックと同じ意味。現代フランス人の約半数がBIOの食品を買っているそうだ。両方に買い物客がついていて、棲み分けをしている。最近は市内のどこにもBIOの食料品店があり、カフェでもBIOの素材を使用とメニューに書くところもある。BIOのワインも安く簡単に手に入る、しかもうまい。でも残念ながら「原発安全神話」国のフランスでは、食の放射能汚染に関しては、3.11以前の日本のごとく、誰も心配していないようだ。

市場の通路を、向うから猫がゆっくりと歩いてきた。堂々とフツーのほうの八百屋の棚に飛びのって、野菜の箱を検分しながら、トマトが半分売れた箱を見つけると、中でクルリと廻りながら居場所を探して座り込んでしまった。フツーの八百屋のオバサンは、知らん顔をしている。飼い猫なのかな。BIOの店だったら叱られちゃうところだろう。市場の中のレストランで友人と昼食をとって、帰りがけにさっきの猫を見にいってみたら、今度はぐっすりトマトと一緒に眠っていた。フツーの八百屋にも、BIOの八百屋にも、まだ客足はおとろえていなかった。

2011-08-18 パリの本屋さん このエントリーを含むブックマーク

osamuharada2011-08-18

あてもなく涼しいパリ市内を散策していると、どこにでもたいがい本屋があるから、飽きることがない。人のゆきかう大通りには、大衆的な大型書店があり、横丁にはさまざまな専門書店がいたる所にあります。本を探すというより、本屋そのものを冷やかしながら見て歩くのが楽しい。本のデザインや、店のたたずまいも眺めているだけで時を忘れる。つくづくパリには、あらゆる種類の本があって、本好きの人たちが多いなあと感嘆させられる。

今日たまたま見つけた小さな本屋さん(写真)は、世界の植民地や、フランス領のクレオール文化と歴史などを主に取り扱っているらしく、ウィンドウには、Exclusif と店名の前に書いてある。専門書店とあって、やや排他的なところが、かえって見てみたくなる。恐るおそる入ってみたら、店主は物静かなアラブ系のオジサンだった。仏語が読めたら、読みたい本が沢山ありそうで困った。

なんでも揃う大型書店では、サン・ミッシェル大通りの学生街にある老舗【 Gibert Joseph 】が面白い。新刊本と、その古本が並んで売られている。値段は違うけれど、同じ本なのですよ。新刊でも古本にしても他よりは安いらしい。いずれにしても、学生さんが、ふところ具合で本を選べばいいことだから良心的といえる。本の仕入れを、新刊も古本も本屋が独自に選んで買い切るからできることなのですね。

この店の特徴は、横の入口に、本の買い取り窓口があることで、読み終わった本を売りに来る人が列をなしていました。ちゃんとそこそこの値段で買い取ってくれるらしいのです。そして古本となった本は、再び店頭に並び、また誰か求める人が買ってゆく。古くから「ジベール」と学生さんたちに愛され続けてきた本屋さんだというのが納得できちゃうな。

ふと我に帰れば、日本のように、本はすべて定価で売らなければならないようでは、やがて本屋が嫌われてもしょうがないと思う。再販制度の弊害というもので、本屋は売れなきゃ返本できるから、独自性を持たなくなってしまった。それでどこも同じような、つまらんベストセラー本ばかりを積上げておくことにあいなる。日本の現状は、いま一番売れてる本屋が「ブックオフ」だというから情けないな。新刊本でも古本屋でもない、ただのリサイクルショップでしょうが。もっとも売られている本やマンガが、やっぱりソレに見合っているから、これはコレでいいのかもしれないね。

今年アメリカでは、全米第二位の大型書店【 BORDERS 】が倒産してしまった。チェーン店の、ハワイの「ボーダーズ」も、つい先ごろ閉店したらしい。去年オアフへ行って、すっかり気に入った大きな本屋さんだったのになァ。横についていたカフェも居心地が良かったのにね、ガッカリです。いよいよアメリカ経済も、クラッシュする気配が濃厚になってきたようで、これから一体どんな時代が来るのやら。

日本の出版界も、かなりヤバイ状況のようです。3.11以後、さらに悪化しているらしい。新刊バブルがはじければ、本のカバーに描くイラストレーターも職を失う。雑誌の挿絵もなくなる。ぼくは出版界の仕事を引退しているけれど、イラストの学校をやっている以上、無関係ではないので、これは若い人にとっての深刻な問題になりました。そういうこともあって、パリの良い本屋さんを眺めながら、大量生産の金儲け主義の出版ではなく、ほんとうに人々が求めている良書とは何だろうとつい考えてしまいます。本屋はどうしてもフランスに一日の長あり、と認めざるをえませんからね。

去年書いた日本の新刊バブル→id:osamuharada:20100823

2011-08-13 シャンゼリゼと終戦記念日 このエントリーを含むブックマーク

osamuharada2011-08-13

シャンゼリゼ大通り」の真ん中あたりには、つい考えこんでしまう通りの名があります。【F・D・ルーズベルト通り】。つまりアメリカ大統領の名前なのだ。地下鉄の駅名 Franklin-D-Rooseveltにもなっているから、よく知られた名前のはずだが、誰も不思議に思わないところがフシギな気がする。

凱旋門のあるところは、以前は「エトワール広場」と呼んでいたが、いまは【シャルル・ドゴール広場】と呼ぶ。こっちはフランスの大統領だから、まあいいとして、ブランド好きがゆくシャンゼリゼの【ジョルジュ・サンク通り】は、イギリス国王・ジョージ五世の名を冠している。これもなんだか変でしょ。

あの「グラン・パレ」と「プティ・パレ」の間は、イギリスの首相【ウィンストン・チャーチル通り】があり、銅像まで建っている。何故、パリで最も有名なシャンゼリゼ大通りを横切るように並んで、米英の大統領&首相の名をつけたのだろうか? などとルーズベルト大統領の名がつくAvenueのはずれのカフェで、日本の8月15日、また終戦記念日が近づいてきたことをボンヤリと考えていた。

ルーズベルトという名のアメリカ大統領は二人(親戚)いたが、フランクリン・D・ルーズベルト(1882〜1945)のほうは、第二次世界大戦で原爆をつくらせ、マンハッタン計画を指示した大統領。広島、長崎に原爆を落とす直前に病死したので、トルーマンが後を引き継いだ。アメリカの大恐慌時代を、戦争の特需景気で救ってくれたということで、アメリカ国内だけルーズベルトの評判はいい。らしい。

実際は、白人至上主義者というか、有色人種をすべて絶滅させるつもりだったというのだから、ひどい男だ。在米の日本人を強制収容所に送り込んだところは、敵のナチスそっくりといえる。英国のチャーチル(1874〜1965)とは、戦争中に何度も会合を持ち、敗戦国の分配や、ヤルタ会談、国際連合設立への画策をしていたお二人。ナチスに占領されていたフランス解放をついでに手伝ったので、そのお礼に名前を通りに冠してもらった、といったことが表向きの理由なのでしょう。

ところで、フランクリン・D・ルーズベルトの「D」ってミドルネームの略は、母方のDelano、「デラノ家」の名を継いだものなのです。このデラノのほうの祖父ワレン・デラノはユダヤ系で、中国人を麻薬でダメにして植民地化をする「アヘン貿易」によって、莫大な財産を築いちゃった、トンデモない人なのでした。人種差別も代々のお家芸だったわけだな。さらにボロ儲けしたカネで鉄道なんかも乗っ取りをしたという、かなりえげつないアメリカ財閥の家系なのです。

長くなるけど、日本史好きのかたには、まだお付きあい(興味無い方はここまでで)願いたいのですが、この祖父のデラノって人、江戸時代幕末の「ジョン万次郎」と関係があるのね。若い万次郎君の漂流中を、アメリカの捕鯨船が拾ってくれて、デラノ家がスポンサーになり、ボストン近くのニューヘブンという町で学校まであげてくれた。おっ母さんに会いたいなら、もう日本に帰ってもいいよとまで親切に言ってくれた。日本に帰った万次郎は、外国情報に詳しいバイリンガルとして江戸幕府に徴用され、出世コースを歩いてメデタシだったとさ。

というようなバカげた日本史というものを、ワタシは始めっから信じていないのね。中国人をアヘン中毒にさせて植民地にするような手ごわい連中が、同じ黄色人種の日本少年を、白人並みに無償で養育するワケがない。最初から万次郎を欧米列強のスパイに仕立てて日本に送り返したというほうが真実らしくある。情報網こそが、植民地政策では最重要となる鍵なのですよ。フジタも同じようなもんでしたね。

万次郎が帰国した一年後に、日本にやってくる黒船ペリーのクライアントも同じくデラノ家なのです。そしてペリーも、デラノの孫のフランクリン・D・ルーズベルトも、Holland Lodge No.8 New York Cityという、由緒ある?ニューヨークのフリーメーソン・メンバーでした。

終戦記念日とシャンゼリゼの、ぼくのヒマつぶし話はまだ続く。戦後に、日本占領のためにやって来た、あのマッカーサー元帥は、祖父がイギリス貴族で、ルーズベルトとチャーチルの二人とも、なんと遠戚関係にあったのですよ! ね、皆つながっちゃっているのです。

マッカーサーといえば、ハワイのところで書いた「黒船ペリーの旗」も思い出してやって下さいね。→id:osamuharada:20100311そして今日も、中国人観光客と、めっきり減った日本人が、シャンゼリゼ大通りをノンキに歩いている。今でも、植民地あつかいされている日中とも知らずにね。