原田治ノート

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2016-07-21 Google Earth で見る

osamuharada2016-07-21

ネットの発達で、むかしは考えられなかったものが簡単に見られる。Google Earth に島のアトリエの住所を入れてみたら、空中から眺めた景色が写っていた(この写真)。近寄ると、中庭に椰子の木がある白い小箱のようなものがアトリエなのです。周囲はどこまでも一面の樹木に覆われ、道路はすでに隠れて緑のトンネル状態です。これより北側は、山へとゆるい緑の傾斜が続き人はどこにも住んでいない。三十年も前から何も変わらぬ景色のはずだけれど、あらためて上から見せられると、我ながらもの凄い僻地にアトリエを建てたもんだなあと呆れてしまうね。これじゃ「偏屈」「厭世家」と呼ばれても返す言葉がない。島の人たちからも、よくあんな所にね、とビックリされる。ヤツガレは大自然に囲まれた「楽園」のように思っているのだが、フツーの人はそう考えてはくれないわけよね。H.D.ソローみたいに思われてるのなら、それはそれで嬉しいのだが。

三階の窓からの眺め。夏になってからはカラスザンショウの木の上部が黄色い花畑のようになり、日中はいろいろな蝶々がやってくる。優雅なクロアゲハ、黒に翡翠色が美しいアオスジアゲハ、紋付羽織のようなモンキアゲハ、黄色い虎模様のキアゲハ。各グループが交代で四六時中、木の花の蜜を吸いにやってくる。ウグイスは近くでよく鳴いているのだが「ホー・ホケキョ」ではなく、何故か「ホー・ホケホイッ!」と島の方言?で鳴くコが居付いている。昼風呂や昼寝のBGMにウグイスの美声は長閑でいいものです。リスも蝉も遠くで鳴いている。海に囲まれた島の朝晩は涼しく、昼は窓に簾をさげるだけでいい。クーラー嫌いのトシヨリですが、なんとか熱中症にならずに生き長らえています。島全体が見えるまでグーグル・アースを引き上げると、すぐにアトリエは緑の森の中に消えてしまった。

2016-07-13 小村雪岱の本

osamuharada2016-07-13

このBlogの右肩に、拙著の写真を二冊かかげていますが、二つは別のカテゴリーの本なので、初めてのかたにちょっとだけご説明。『 OSAMU GOODS STYLE 』は、ぼくの稼業であるイラストとデザインの本。かたや『 ぼくの美術帖 』のほうは、仕事ではなく個人的な趣味の本なのです。イラストレーターは「職業」で、古今東西の美術や美術史について書いたものはヤツガレの「趣味」というわけです。

さて、その遊びゴコロの「趣味」のほうでは、以前ぼくもお手伝いをしたことがある『 芸術新潮小村雪岱 特集 』が、新たに加筆され一冊のヴィジュアル本として刊行されました。芸新編集のときは、雪岱装丁本の驚異的なコレクター平田さんと、当時の名編集者 三好さん、それにぼくのほぼ三人でつくった特集号でした。楽しみつつ趣味の世界を大いに満喫させてもらっちゃいました。ぼくは雪岱の〈新聞小説の挿絵〉と〈舞台美術〉についての解説文を(わりとマジメに)書いています。若いイラストレーター(挿絵画家)にも読んでいただきたい。その芸新特集号の頃→ id:osamuharada:20100127id:osamuharada:20091227

思えばむかし拙著『 ぼくの美術帖 』に小村雪岱について書いた頃(30代半ば)は、戦前に亡くなった挿絵画家 雪岱のことなど、世間ではすっかり忘れ去られていた時代なのでした。いまこうして一般向けに廉価版でムック本が出版されるとは、その当時は想像もつきませんでした。 ぼくの持ってる雪岱作品のごく一部をTumblr に載せてみました。すべて精緻な木版刷りです。→ http://osamuharada.tumblr.com/

意匠の天才 小村雪岱 (とんぼの本)

意匠の天才 小村雪岱 (とんぼの本)

2016-07-04 ウェスタン文字

osamuharada2016-07-04

弥生美術館では「オサムグッズ」以外にも、絵本や雑誌、レコードジャケットなどもオマケ展示しています。このTシャツも、実は孫が通っていた幼稚園に頼まれて描いたものなのです。園児だけでなく先生や親兄弟用にいたるまで、サイズもカラーも豊富につくってあります。いまでもご愛用いただけているそうで嬉しいのです。祖父のヤツガレも(家でのみ)着用しております。

このデザインもまた、趣味のロゴタイプを全面的に押し出してつくっちゃいました。キャラクターのほうの絵のアイデアは5分で思いつきました。そして幼稚園の名前の英文ロゴには、元気のいい子供たちに合わせて、アメリカのウェスタン文字を選んで配してみました。これは十代の頃から好きだった西部劇のタイトルや、劇中のポスターなどでよく見覚えていた英文字なのです(WANTED DEAD OR ALIVE 指名手配のポスターですね)。ウェスタン文字には歴史的に様々なヴァリエーションがあるけれど、どれも太陽の下で、元気がいっぱい溢れ出てくる Optimistic な書体群なのです。シンプルなものからデコラティブなものまで、いずれも西部劇!という感じ。それにブルーグラスカントリーミュージックのレコードジャケットにも多用されている、いかにも MADE IN USA な書体。たぶん園児の親御さんたち世代でも御存知ないでしょう。つまりこれは超個人的なノスタルジー趣味で手描きしてしまったわけですよ。

オサムグッズでも、ウェスタン・スタイルの図柄を沢山つくりました。カウボーイやテンガロンハット、サボテン、投げ縄に馬蹄、ピストルや保安官バッジなど。どの図柄にもウェスタン文字が堂々と使えて、ロゴタイプ好きとしては大満足でした。バンダナにキャラクターを配するデザインなども我ながらちょっと悦に入ったウェスタンものでした。しかしこれは個人的な趣味に走り過ぎたかなと今になって思います。営業からはまたこの道楽モノめが、と(陰で)文句は大いにあったはずです。お客さんにデザインを説明するのも難しかっただろうしな。この他に和物柄(西洋人から見た日本風)や、シノワズリ(中国柄)、パリ風やハワイアンものなど、個人的趣味でシチュエーションをまず決めておいて、仕上げはそれぞれの雰囲気を持ったロゴタイプでもって締めくくるのがぼくの得意ワザなのでした。写真は孫の幼稚園Tシャツ(小学生になっても着ている)です。→ http://osamuharada.tumblr.com/

2016-06-25 紙袋のデザイン

osamuharada2016-06-25

展覧会準備のため、アトリエの物置小屋で資料の探しものをしていたら、ヨレヨレになった古い紙袋が一枚でてきました。とても(個人的に)懐かしい。これは Osamu Goods のデザイン版下を入れるために特注していた紙袋です。当時は各グッズの製造メイカーに原寸大で版下(印刷用)を手渡すため、大きな紙袋が必要なのでした。つまりデザイナーとメイカーの間だけで運ばれる専用の紙袋。すべてデジタル信号で電送される現代では、無用になった紙袋ですね。

「ダスティー・ミラー」とあるのは、オサムグッズを販売するための子会社で、製造元の「コージー本舗」が親会社にあたります。この名前 DUSTY MILLER とは、ぼくがアメリカの植物図鑑から引用した、小さく白い綿毛のような花が咲く地味な草花の固有名詞なのでした。粉引き小屋という、言葉そのものも可愛いなと思ったのでした。ただの思い付きの会社名でしたが、ひとり気に入っていました。

そして、どうせ市販の紙袋を買うくらいならぼくがオリジナルのデザインをするよ、とまったくの趣味でスタッフ用に作ってあげたこの紙袋。筋目ハトロン紙という紙は薄いのでマットコートを施して強化してあります。よく安い業務用の封筒なんかに使われる筋目の入ったハトロン紙で、この色と風合いがもともと好きなのでした。当時のぼくのイラスト専用の紙袋も、この筋目ハトロン紙を使って自分用にデザインしていました。

ロゴのデザインも、新たにこの紙袋用に起こしたのですが、内輪でしか使わないからか誰もデザインに文句を言わないのをいいことに、まったくの好き勝手で趣味的だったなあ、とあらためて思います。いわばロゴ・オタクだったわけよね。文字の刷り色は、この写真の濃緑色と、他に朱色の2種。印刷インクの下を紙の筋目が透過するところがミソです。大中小のサイズがありました。デザインに興味ない方には、どうでもいい余計な話でしたね。拡大写真→ http://osamuharada.tumblr.com/

2016-06-16 新茶とフロランタン

osamuharada2016-06-16

今年も飽かず、また新茶を喫しています。四月、南の屋久島産から始まって九州、四国、山陰地方と北上してきました。それも製造法にこだわりがある茶園のものをアレコレ飲み比べるのが楽しみなのです。

茶葉もその年々の気候によって、微妙に変化しています。その年の新茶に合わせて、茶請けの甘い物もいろいろ変えてみます。この季節のレパートリーの中では、新橋小川軒「フロランタン」が気に入っています。アーモンドにクルミ、ピスタチオをキャラメルでかためたお菓子で、日本なら「おこし」ですね。梅雨どきの、ちょっと肌寒い朝などによく合います。

この写真、フロランタンをのせてみた小皿はフランス製で、クリニャンクールで買った安物ですが、英国の清涼飲料水会社 Schweppes の宣伝用の景品皿なのでした。皿のデザインは19世紀に流行った通称 WILLOW 柄。むかしぼくの仕事場のホームバーで、この皿をパイプの灰皿代わりに使っていたら、安西水丸先輩がすっかり惚れ込んでしまったので、別に持っていたオリーブグリーンの同じ皿をあげちゃいました。その後、水丸さんは皿に描かれたウィロー柄の物語のほうにもハマってしまい、本格的に「ブルー・ウィロー」をコレクションし始めたのでした。

ウィロー柄とは、柳に中国風の桜蘭と橋、男女の純愛物語が描かれています。二人は駆け落ちしてオレンジの島で暮らすようになる。やがて男は有名な作家になるが殺され、後を追って女も死に二人は鳩になって昇天。というロマンチックな物語が秘められている(らしい)のです。そこが水丸さん好みだったのでしょうね。小皿の写真→http://osamuharada.tumblr.com/

このコップ型茶碗のほうは、舩木伸児さんの作。イッチンのペイズリー風の柄。こちらは煎茶専用で使い込むほどに味わいが出てきました。むかしぼくの持っている舩木さん作の八角皿を見て、これまた水丸さんが気に入ってしまい、何かの取材旅行だったか、舩木さんのいる島根県布志窯を訪ねてみたよ、と嬉しそうに報告してくれたこともありました。ただ同じ皿は手に入らなかったよし。あんなこともこんなこともあったな、とトシふるごとに思い出も積み重なってゆくものですね。煎茶を喫する時間が長くなってきたのもそのせいかな。

舩木さんのスリップウェア→id:osamuharada:20090317 (写真右上の八角皿:水丸さんが見そめたもの)

2016-06-07 オサムグッズの原田治 展

osamuharada2016-06-07

[展覧会のお知らせ]

はじめて OSAMU GOODS 商品を発売したのは、いまから四十年も昔のことでした。二十年前までは、キャラクターを描くだけでなくデザインまでも自分でやっていました(その後は版権のみ)。ぼくの30歳代から40歳代の働き盛りの頃でして、張り切りすぎて、いったいどのくらいの数を作ったのかは、あんまり多すぎて実はよくわかりません。それでコレクターの土井章史さんにお願いして、お手持ちのオサムグッズ 1,000点くらいを中心に展示させていただくことになりました。ぼく自身が見ても、ああこんなものも作っていたのかと懐かしく、今から楽しみにしている展覧会です。ちなみに今年でヤツガレも70歳の古稀とあいなりましたよ(笑)。

弥生美術館は、大正時代の「 竹久夢二 」コレクションなど、ノスタルジックな女性向けの絵やグッズの宝庫です。「 オサムグッズ 」もいよいよ昭和レトロの仲間入りというわけですね。7月 8月 9月まで 約三ヶ月間の開催。おヒマがあるときに、ごゆるりとお出かけくださいまし。場所は文京区の弥生(ココで出土した土器をもとに弥生土器:弥生時代などと命名されちゃったのですね)。ちょうど東大の真裏のあたりで、煉瓦づくりのクラシックで小さな美術館です。スーブニール用の商品もちょっとだけ販売するそうです。

【 オサムグッズの原田治 展 】 The 40th Anniversary : OSAMU GOODS ®

2016年 7月1日(金)〜9月25日(日)[ 弥生美術館 ]東京都文京区弥生2-4-3

★YAYOI MUSEUM:http://www.yayoi-yumeji-museum.jp  

★OSAMU GOODS ® : http://www.osamugoods.com/

2016-05-30 書斎日誌

osamuharada2016-05-30

爽やかな新緑の季節ですね。島では今年の新茶を喫したり、読書三昧をやっています。

相変らず大政翼賛のTVニュースは気分を害するだけなので、見ずになんとかやり過ごしています。しかし、たまたま中国美術史の本を読んでいたら、その見たくもないアベシンゾーとそっくり同じ顔を発見! それは中国「明」の時代を叩き潰して「清」時代〔1616〜1912〕をつくった、最初の皇帝「ヌルハチ」の肖像画です(画像検索ヌルハチですぐ出ます)。コレけっこう笑えますよ。

「ヌルハチ」と名前が変テコなのは、この人が漢民族ではなく、ツングース系の「女真族」だからなのです。かつて秦の始皇帝が万里の長城を造って防御した、北東シベリアの騎馬民族の末裔ですね。「満州族」(中国では満族)とも呼ばれています。なにしろ清の時代になると、公用語をすべて中国語から満州語に変えさせたほどの圧政です。漢民族(中国人)を奴隷のように扱ってきた満州族。清朝末期の支配者は、あの悪名たかき「西太后」。この女帝の顔までアベ似です。人相の共通項:目がやや中心に寄っている、しかもタレ目で、鼻が無駄に長い。唇うすく おちょぼ口。耳タブは垂れ下がってふくれている。ちなみにスケートの浅田真央ちゃんの人相も(気の毒だけど)よく見ると似ているな。日本人ではちょっと珍しい顔つき。

ところで満州族といえば、アベの爺さん 岸信介 は、満州国大日本帝国傀儡政権)で暗躍していましたよね。ネットで調べてみると、この岸(ほんとはガン)の祖先は江戸時代に朝鮮経由でやってきて、長州で代官をしていた女真族、と書いている人がいました。おぬしもワルよのう、の悪代官だったもよう。これでやっと「田布施の謎」も解けそうですね。もしそれがホントなら、アベと「ヌルハチ」の顔が似ているのは至極当然。古代はツングースの靺鞨(まっかつ)= 後の女真族 = 満州族 へと続く同じ遺伝子ということになります。こんなアホらしい事を考えていたらデジャブ感があったのでBlog内検索したら、3年前の「書斎日誌」にも(悪口雑言を)書いていたっけ。→ id:osamuharada:20130525  ←前の書斎写真は曇り日だったようで、好天の一昨日に撮りなおしました(上の写真)。目にしみいるような新緑に囲まれています。せっかくの爽快な季節、他にはもっと楽しい本を読んでいますよ。

追記:いろいろある日本人の顔について→ id:osamuharada:20100605

2016-05-25 パリの猫

osamuharada2016-05-25

Blog を個人的な〈 備忘録 〉として残しておくと、あとで楽しめる(あくまで個人的な)こともあるものですね。近頃の「猫ブーム」にのってか、あるテレビ局では「パリの猫」番組の再放送をやっていました。パリも猫も両方好きなので録画しておいたのですが、見ていたらよく知っている顔の猫が映っていたのです。5年前にパリのリュクサンブール公園で出会った猫ちゃん。→ id:osamuharada:20110721 このとき Blog に写真ものせていたので覚えていました。そしてゆくりなく猫の名前と素性を知ることができたというわけです。写真はテレビ画面に映ったその猫。

番組取材によると、このコはリュクサンブール公園東側の、通りを隔てて向かいにある Café de Rostand の飼い猫なのでした。カフェの籐椅子の上で丸くなって寝てるところでした。そして、この老舗のカフェから公園へ散歩に行くのが、このコの日課なのだそうです。どおりで、公園で会ったときも、このベンチは私のフランチャイズであるという顔をしていたな。やたらと車の多い通りだけれど、ちゃんと横断歩道を歩いて渡っているのかな。

メス猫なのだそうだが、その名前を聞いてビックリ。有名な戯曲『 シラノ・ド・ベルジュラック 』からとって「 シラノ Cyrano 」だという。それじゃ男名前じゃないか。カフェの名前は、この芝居の劇作家エドモン・ロスタン Edmond Rostand からとってある。それで主役の「シラノ」というのはわかるけれど、女のコならヒロインの「ロクサーヌ」にしてあげたらいいのにね。ぼくはこの芝居を、かつて新国劇島田正吾で観ていて好きだったので、なんだか懐かしい名前だった。ただし翻案なので邦題は『 白野弁十郎 』なのでした。侍だから白野(シラノ)が苗字になっちゃって、よけいに男らしい名前だな。などなどヒマつぶしに、あれこれ思い出せるところが 備忘録 Blog の面白い所以なのであります。

2016-05-21 ぼくのロゴデザイン

osamuharada2016-05-21

オサムグッズ商品のデザインを自分でやっていた頃、代官山のパイロットショップ「 Osamu Goods Soda Fountain 」のロゴタイプも自分でデザインをしました。店自体がぼくの好き勝手にすべてデザインさせてもらったので、肝心のロゴをデザインするにあたっても、こんなに楽しい仕事はめったにありませんでした。

ソーダファウンテンとは、アメリカのドラッグストアや雑貨店の中などにあって、清涼飲料水を提供するスペースのことです。薬屋さんが炭酸水を薬として提供していたのが始まりでしょうか。オサムグッズの店でも本格的に Drink Dispenser を置いて、三種類のソーダをつくりました。ぼくが考えついたメニューは、①チョコレート・ソーダ(Hersheyのチョコレートシロップ炭酸水割)②グレナディン・ソーダ(明治屋の柘榴のシロップ)③ミント・ソーダでした。ついでにむかし風の 「蝋引きストロー」までオリジナルデザインをしてしまいました。ソーダの色に合わせて、①は焦げ茶色、②は赤、③には緑色のストローです。写真→http://osamuharada.tumblr.com これをやはりロゴ入りのソーダグラスに入れて、バーカウンターにて出しました。チョコレート・ソーダは、銀座八丁目にあった「千疋屋」でのぼくの好物でした。

というようなわけで、ロゴデザインは「 炭酸水の泡 」をイメージしています。英文書体 Futura Medium の「o」文字は、まん丸なので、それがそのまま泡につながっている。我ながらなかなか可愛いアイデアじゃないか、といまごろ思いました。アメリカのソーダファウンテンで働く人の制服は、ドラッグストアらしく白衣が多かったようで、ロゴも白地にトリコロールカラーにして、清潔感を表現したつもりです。

このロゴができあがると、ショッピングバッグや紙袋の大中小、ショップカード、包装用リボン、ステッカー、店の看板やネオンサインまでつくってしまいました。店内インテリアは壁も天井も白塗り、床だけは全体にレモンイエローのリノリュームを敷きました。それに家具調度、バーカウンターの椅子にいたるまで、ぜーんぶを自分の思うがままにデザインできたことは、じつに痛快であって楽しい思い出です。そこにオサムグッズの新商品を並べるのですから、これはもう仕事を通り越して、オタクな趣味の世界とでもいうべきか。しかしこんな我がままな調子でいたせいか、ほとんど商売にはならず、親会社コージー本舗の営業さんからは、ぼくはただの「道楽者」としての烙印を押されたようです。それでも何でもいうことを聞き入れてくださったのは、先代社長の人徳と、このパイロットショップを提案してくださった石井さん(オサムグッズ生みの親)のおかげなのでありました。今から二十数年前のことでした。

2016-05-10 色鉛筆の柄について

osamuharada2016-05-10

【とりとめもない話】 ゴールデンウィークを孫とたっぷり(へとへとになるまで)過ごした。小学一年生になったばかりで、文房具などを新調してやらなければならない。それで娘が自分で持っていた鉛筆類や消しゴムなどを家で探してみたところ、懐かしいオサムグッズの色鉛筆が出てきたよという。未使用だったけれど、もったいないから孫にはやらず、今夏の「オサムグッズ展」にでも出展しようかと相談しているところです。この写真の色鉛筆ぼくがデザインしました。→ http://osamuharada.tumblr.com

色鉛筆はすべてチェッカー柄です。それぞれの色名もスタッフと共に考えました。缶ケースにもチェッカーをあしらってあります。あの頃はチェッカーに何となくハマっていたのを思い出しました。いま見てもなかなか可愛いな。

というだけの話なのですが、こないだの東京五輪エンブレの新デザインをついでに思い出した。同じく「チェッカー」柄であるのに、ニュースではやたらとエンブレムは「市松模様」とだけ日本語で言わせていたのです。街頭で若者インタヴューしたときも、「日本的な市松模様がいいんじゃないスか。」などと(ヤラセくさく)話を引き出していた。アナウンサーも最初から市松模様で押しまくっていた。チェッカーとは誰も言わない。江戸時代の歌舞伎役者の名前が由来の「市松」って言葉、中学生でも誰でも知ってたんだ。たしかにあの新エンブレム、ロゴも含めて藍一色だから、藍染めの浴衣か手拭いの柄に見えなくはない。デザイナーは「組市松紋」とかっこつけて呼ぶ。それなら祭り半纏にピッタリだ。そこまで言うなら、いっそ三波春夫の「東京五輪音頭」を揃いの浴衣で全員踊ってもらおうじゃないか。《 それ、トトント、トトント晴れ姿 》

さらに想像をたくましくすると、あの市松ことチェッカー柄は、欧米人にとってはお馴染みであるはずの、フリーメーソンのシンボルでもあるのね。英国のお巡りさん(ほとんど低階級メーソン)の帽子にもチェッカーが帯状にデザインされているでしょ。メーソンが Initiation(秘密儀礼)を行う部屋の、床は必ずチェッカー柄になっていなければならない決まりがある。チェッカーは秘密結社のシンボルのひとつなのです。ちなみに聖火ランナーが持ち運ぶ松明(たいまつ)、英語で TORCHもメーソンの大事なシンボルマークだそうです。またトンデモ陰謀とかいわれちゃうが、嘘だと思うならグーグルで Freemason Checker や Freemason Torch などと英語で入れて、画像の検索をして見てくださいね。いったいオリンピックを牛耳っているのは誰なのか? 何がほんとの目的なのか? 関係ないけど日本語はイチマツとタイマツで韻を踏んでる。また、どふでもよゐ話でした。

2016-05-03 ペーター佐藤:人と仕事

osamuharada2016-05-03

ペーター佐藤は、あまりにも早く逝ってしまった。(1945〜1994)イラストレーターとしては、四十歳代の絶頂期を迎えていた頃だった。(右の写真は息子のタケちゃんが撮影)

ペーターは好きで仕事をしていたのだが、かたわらで見ていて過労が気になり、仕事のしすぎを心配してぼくは何度も注意をしていた。しかし仕事を断ることができないのは性分だった。若い頃、仕事のスケジュール表を見せてもらったことがある。数えたら月に平均25本以上の広告や出版社からの注文が殺到していた。しかも手のかかるエアーブラッシュ描法は、一枚描くのにも二日はかかる。寝食を忘れての徹夜仕事が年間を通じて続いていた。

AIRBRUSH WORKとは、紙に絵筆で色を塗るのではなく、コンプレッサーで色インクを吹き付けて絵を描く作業です。まず指定の部分に噴霧された色がはみ出ないようにマスキングを施す。細かくカッターでマスキングペーパーやトレペを切り抜く根気がいる仕事。「毛抜き合わせ」といった緻密な技術が必要とされる。さらに色を吹き付ける工程は一発勝負です。思い切りのよさと細心の手技で一瞬のうちに描く。作業が逡巡することは許されない。霧になった有毒な色インクを吸入する危険もともなっている。

ペーターのイラストは、手の込んだ複雑なテクニックでありながら、見た目にはそれを感じさせず、むしろ軽やかな清涼感にあふれている。現代はパソコンという道具を使って、どんな表現でも機械的にできる時代になったから、今の若い人には、ペーターの絵がコンピューターを駆使して描いたものだと思われるかもしれない。しかし描かれた人物の「眼」をよく見ていただきたい。けして機械的な無機質さに陥らず、生き生きとして遠くを見通す眼がそこに描かれている。透明で涼やかで、やや憂いを含んでいる「眼」には、誰もが魅了されるはずだ。

コンピューターグラフィックスが発達しはじめた80年代になると、ペーターは逆にアナログ的な手法のパステル画を選んだ。この技法でも、緻密さと清々しさはそのまま変わることがなかった。パステルでの細密な描写は、原画を拡大(実際の印刷サイズより大きく)して描くことで可能になり、また大画面に描けば、手のストロークを活かして、よりスピーディーで大胆な筆勢が生まれる。ペーターは大きな紙をイーゼルに置いて、自身は立ったままで描いていた。イーゼルをやや前傾させていたのは、パステルの余分な粉末が画面に付着しないよう下に落とすための工夫だった。この立ち通しの作業にも徹夜が続いた。「一気に描かないと、途中で気が抜けちゃうからね。」と言って、食事もとらない日々もあった。ペーターの集中力には脱帽したけれど、ぼくは会えば必ず仕事のしすぎを注意してばかりいた。何故もっと強引にでも仕事場から引き離せなかったのか、いまだに後悔をする。

ペーターは鏑木清方が好きだった。晩年の清方を撮った写真にペーターが似ていたので、きっとトシ取ったらペーターもあんな風な老人になれるよ、とぼくはよくからかったことがある。ちょっと嬉しそうにペーターが微笑んでいたのも、はるか遠い思い出となってしまった。

ペーター佐藤 & 森本美由紀 『 FASHION ILLUSTRATION 展 』 part 2

5月5日(木)〜5月22日(日) PALETTE CLUB http://www.pale.tv/

  ※ 森本美由紀さんについて→ id:osamuharada:20150724

2016-04-22 古本フリーマーケット

osamuharada2016-04-22

4月30日(土)、古本のフリマにて、ぼくも一日店主を務めます。自分で本を売るというのは初めてなので楽しみです。値切っていただければ、多分どんどんおマケして、タダになってしまうかもしれません。売るという行為が恥ずかしくて、どうも苦手なのですが頑張ります。

さて売ってもいい本を倉庫で探してみたのですが、美術芸術関係の本はどうしても手放せません。稼業のイラスト関連の本はひとつもありません。雑誌はすぐに捨ててしまいます。何度もよく読んだ本のほとんどは、表紙をとりのぞき、背にはテープを貼ってマジックで題名など手書きにしています。本文は書き込みやら付箋だらけで、もはや本としての原型をとどめていないのです。それも古本で買ったものが多いのです。いったい何を売ったらよいのやら…。

探しあぐねたところで、ダンボール箱いっぱいの、歴史と Conspiracy 本が出てきました。これらの本はあまりに危険で、すぐ「焚書坑儒」になるだろうと思いつ、同じものを余分に買って隠しおいたものなのでした。これを売っちゃおう。昔のことですが、著作者たち(一例として鹿島昇)が自費出版に近いかたちで上梓しています。いま読んでもその反骨精神は古びていない。というわけで、これらをフリマに出すことにしました。解説もいたします。おヒマで、危ないけれど興味深い話題についていけるかたにお分けいたします。

他の出店者(全12名)は、パレットクラブの講師や卒業生の温厚なかたばかりで、危険な本はありません。新刊本や美しいヴィジュアル本も多く出るのでは、とぼくも買い手として期待しております。

詳細は、PALETTE CLUB:BOOK & COFFEE → http://www.pale.tv

追記: フリマ無事終了。英国人夫妻(コンスピラシー通)との知遇を得ました。ぼくの売った翻訳本、英国ではその原本を置いたある専門書店が放火され余儀なく閉店させられたよし。まさに焚書坑儒なるべし!

2016-04-14 ペーター佐藤 1979年

osamuharada2016-04-14

仕事机の引き出しの隅から、〈 1979年 〉製の 懐かしい二つのポストカードが出てきた。ひとつはペーター佐藤、最初の個展【 VENUS 】のもの。ぼくがデザインを頼まれたので、先にこんな文字組レイアウトと特色指定のうえで、ペーターに線画を描いてもらった。これはポスターと共通のデザイン。サブタイトルは「佐藤憲吉リトグラフ展」とあって、ニューヨークへ渡る直前まではこの名前を使っていたのがわかる。南青山の「グリーンコレクション」というギャラリーにて1979年4月16日から28日まで。

もうひとつデザインしたカードは、パレットクラブ最初の展覧会【 NUDE 】(みなヌードを描いた)。こちらも1979年の 5月25日から31日まで。場所は原宿の「ギャラリー伊藤」。写真は仲良しの小暮徹さん。ペーターの仕事場に集まり、思いつきでヌード型の曲線定規をなぞってペーターが描いたものを撮ってもらった。パイプはその日たまたまぼくが持っていたもの。→ http://osamuharada.tumblr.com

ペーターが亡くなった次の年(1995) に、安西水丸さん、新谷雅弘さん、とぼくで監修した「ペーター佐藤作品集」【 PATER 】(PARCO出版)。そのなかで水丸さんはこんなことを書いている。《 一番印象に残っているのは1980年前後だ。とりわけパレットくらぶが発足した1979年頃のことはいろいろな思い出になって残っている。 パレットくらぶのネーミングもペーターの口から出たものだし、当時は彼の神宮前のオフィスで明け方まで話し込んだりしたものだ。パレットくらぶのみんなで京都旅行をしたのも1979年だったと記憶している。暑い日の京都で、でもぺーターはいつも一番元気だった。南禅寺の山門に上がった時、彼が欄干に手を置いたら、組み木の部分がぽろりとはずれてしまって、「あっ、ペーター、国宝を壊しちゃったぞ」ってぼくが言ったら彼はとても困った顔をした。彼にはそんなすごく真面目なところがあった。と同時に大胆なところもあった。 ぼくが犬恐怖症なのを知っていて動物好きの原田治といっしょにいつも歩きながら犬に気を配ってくれたりもしてくれた。笑われるかもしれないが、これはぼくにとっての大問題だ。 いずれにしてもペーターはぼくらのなかでもいつも若々しく元気だった。そして絵を描くことをこよなく愛しており、そこに唯一自由を見出しているような人だった。》

この年の夏からペーターはニューヨークへ仕事場を移した。ペーターはニューヨークへ行った理由をこう語っている。《 ‘77年以来の過激な仕事量がたたって疲れが出てしまったこと、またある意味で行き詰まりを感じ始め、息苦しくなっていたこと、ニューヨークという都市に新しいムーブメントを予感し、自分もその場にいなくてはいけないという思い込みが激しくなって来ていたこと、等々の要因が重なって行動に移したのだった。》とあります。水丸さんのいうペーターには「大胆なところもあった」のひとつでしょう。

さらにペーターは、《 ニューヨークに着いてみると、大きな書店のウィンドウには自分の作品が表紙を飾っている『 エアパワード 』が並び、ペーパームーン・グラフィックス社のグリーティング・カードがブームで、自分のカードもその中に並べられていたのだ。まるでニューヨークがタイミングを合わせて、ウェルカム!と両手を広げて待ち構えていてくれたような錯覚に陥るのだった。到着した晩に聞いたトーキング・ヘッズのLP「フィア・オブ・ミュージック」の曲は、音楽がすべての文化をリードしているという確信を、突然抱かせてくれた。そこで、この1年間の目標を音楽を聴くこと、できるだけたくさんの人の集まる場所に居ることと決めた。トーキング・ヘッズのデヴィッド・バーングレース・ジョーンズ、デボラ・ハリー等々、この1年間くらい人に会ったことはなかった。》と回顧していました。1979年、ペーター佐藤 三十四歳。

2016-04-06 ファッションと音楽

osamuharada2016-04-06

ペーター佐藤の Fashion Illustration は、1979 年に仕事場をニューヨークへ移した頃に完成したと思います。この年のファッションは最新の音楽シーンとも深く関連していました。ロンドンの PUNK がニューヨークへ渡り NEW WAVE が始まった頃のことで、ペーターは作品集のなかでこう書いています。《 ファッションは、ひとくちにいって、ベリー・シックスティーズである。たとえば Aライン、サックス・ドレス、ミニスカート、そして肩幅の広いジャンプスーツが主流になりそうな気配。ベッツイ・ジョンソンは早くもニューウェイブ・ファッションをものにして、みごとに変身をとげている。パトリシア・フィールド、マリー・レムリーなどが目下のところ気にいっている。》写真は「よくモデルになってもらっているアンと。」ペーターです。

1979 年は、渡米前のペーターの命名により Palette Club のできた年でもありました。その十月には安西水丸新谷雅弘先輩らと一緒にニューヨークのペーターを訪ねてゆきました。SOHO の広大なロフトの仕事場には、Talking Heads の最新曲が流れていました。七十年代音楽のダサさを引きずったままの東京から来てみると、まったく新しい音楽やファッションがニューヨークで生まれていたのです。ペーターは《 ブラックアンドホワイトのオプティカル・パターン、プラスチック・ペーパーや蛍光色のビニールクロスなど、新しい素材を駆使して、シックスティーズのフィーリングで仕立て上げたドレスが、ニューウェイブ・ファッションの典型的なスタイルのようである。ヘアは断然ショートヘアでなければならない。》と書いています。

そういえばペーターの短髪は、クライアントのヘアデザイナーによって、一時は青く染められていました。おチカさん(奥さん)まで緑色に染められた。それに人からの貰い物という服に身をかためて、ペーターもすっかりパンクっぽいファッションになっていた。しかしながらペーターの優しすぎる人柄が災いするためか、ちっともパンクには見えなかった。どちらかといえば中国人の苦力(クーリー)みたいだよ、とぼくがケナしたら爆笑した。ぼくが何を言っても決して怒ったことがない。いつも修行僧のようだねとからかっていたのに、ペーター兄貴はぼくの毒舌が好きなのでした(のはずです)。

1979年のヒット曲、ペーターにすすめられて聴いたトーキングヘッズや The B-52’s、DEVO など、これがニューウェイブだよと言われても、よくわからなかった。何だかみんな神経症にかかっているみたいだな、といったらまた優しくペーターは笑っていた。ぼくがジャスト’79年のヒット曲で好きになったニューウェイブは、Blondie のデボラ・ハリー。あとは英国の Dire Straits マーク・ノップラー(特にそのギタープレイ)などでした。しかしパンクも、ニューウェイブの後のニューロマンティクスも、ぼくには無縁のままでした。日本のテクノも苦手。つまり時代の波に乗ることができず、とうとうファッションイラストだけは描けずじまいでした。

ぼくが唯一好きなほうの、パンクでニューウェイブは Blondie。この動画の冒頭に、当時ニューヨークの音楽シーンの拠点となった BOTTOM LINE や STUDIO 54 の看板がでてきます。デボラ・ハリーはペーターと同い年。

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これも欧米ではニューウェイブと呼ばれたそうですが、日本じゃ無視された Dire Straits。確かにマーク・ノップラーはファッションとはほど遠い。

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2016-03-25 FASHION ILLUSTRATION 展

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わが親友ペーター佐藤が逝ってから二十一年が過ぎました。80年代のニューヨークでは、ファッションイラストを描いて時代の先端を歩いていた。日本ではバブル経済でファッション界も大盛況といった頃、ペーター描く美人画は一世を風靡した感がありました。

いつだったか若い頃、二人で京都の丸太町通りにあった古本屋をヒヤかしていたら、50年代のヴォーグ誌が山積みに置いてあったので、ペーターは静かながらも興奮しつつ、抱えきれないほど買って帰ったことがありました。ぼくも運ぶのを手伝った。そのときの幸運な収穫を、嬉しそうに後々までも語りあったことが懐かしい。 ペーターからは欧米のファッションイラスト史について教えてもらった。ペーターはフランスのルネ・グリョーが好きだった。ぼくからは江戸期の浮世絵版画がファッションイラストの役目を負っていたことを教えて、一緒に研究をした。ペーターは春信や英泉が好きになり、鏑木清方に傾倒した。美術館と博物館めぐりもよくした。アメリカのピンナップイラストの歴史も共に考察したことがある。ペーターは特にジョージ・ペティの美人画に強く影響を受けて自身のスタイルを築いていった。

故・森本美由紀さんもルネ・グリョーに憧れて、ノスタルジックに60年代ファッションの世界を見事に再現していた。早くからペーターは森本さんの才能を認め、ペーターズギャラリーでの個展を企画しては売り込んであげていた。いつも森本さんのことをホントにうまい人だよねと誉めていた。ペーター亡きあと、パレットクラブスクールでは森本さんがクロッキーやデッサンを教えることになり、専属のモデルさんをたて本格的なファッションイラストの基礎を自らが楽しみながら教えていました。

どのような時代であれ「ファッション」が無くなるということはなかったでしょう。歴史上お洒落を楽しむ人々が絶えることはなかった。その風俗を描く画工たちの「ファッションイラスト」もまた連綿と続いています。 パレットクラブでは、故人となったペーター佐藤・森本美由紀と、現在もファッション分野で活躍中のイラストレーターたちとの【 FASHION ILLUSTRATION 展 】を開催いたします。

part 1(4月1日〜17日) : 網中いづる・飯田 淳・上田三根子・河村ふうこ・平澤まりこ・前田ひさえ・吉岡ゆうこ

part 2 (5月5日〜22日) : ペーター佐藤・森本美由紀

レセプション、トークショー、ワークショップなど詳細は、Palette Club News にて。→ http://www.pale.tv 

2016-03-19 肉食系です。

osamuharada2016-03-19

いまだに肉が好きで、これはトシをとっても変わらないのです。量はだいぶ少なくなってきましたが、そのぶんもっと旨い肉を食べたくなる。食の好みは人それぞれだけれど、オヤジも最晩年まで肉好きだったから遺伝なのかもしれないな。肉食の家系です。おもに牛と豚のどれも好きですが、こう書き出してみると、どうも動物愛護の精神からは、残酷で申し訳なくなる。しかし人類史を遡れば、人間は雑食を続けてきたからこそ生き延びてきたのだ。と自分をごまかすしかない。祖先はナウマン象だって旧石器で倒して食べていたのだと。

沖縄は、意外にも肉が旨いところです。この写真は、先週も食べた那覇の「BACAR」自家製県産生ハム三種盛り。左から本部(もとぶ)牛、県産豚、伊江島産合鴨。どれも絶品としかほかにいいようがない。いつもマルゲリータの前にこれを注文する。 ビストロ「PETITE RUE」では、お馴染みパテ・ド・カンパーニュとやんばる島豚のカツレツが気に入っています。 焼肉では、本部牛カルビ&ロースが旨い久茂地の「もとぶ牧場」が最高。 台湾では、好きになった自然食材の店「東雅小厨」、当店自慢の肉団子スープと豚肉キムチ炒め。これはもう食べるほどに元気が出てくると保証しちゃう。 このごろ東京の外食では、赤坂「東洋軒」松阪牛のビーフシチューにハマっています。ヤツガレの内食は、良い肉を選びステーキにして醤油、それにご飯です。家ではこれが一番簡単でうまいなと思います。 「BACAR」id:osamuharada:20150305 「PETITE RUE」id:osamuharada:20141123 「東雅小厨」id:osamuharada:20140315

2016-03-10 推理小説ファン

osamuharada2016-03-10

北欧ミステリー【 ミレニアム4:蜘蛛の巣を払う女 】を、あっという間に読み終わって、つくづく推理小説はまだまだ面白いなと思った。このミレニアム・シリーズは、最初に映画で見て気に入り、ただちに1、2、3と原作本を読んですっかり愛読者になった。こんどの4は、すでに亡くなっている原作者のあとを、別の作家が引き継いだものだが、もとの原作者が書いたと思えるほど見事に継承されている。読者の期待をまったく裏切らない。また次が楽しみだ。

ぼくの場合は、映画「ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女」を見たのが先だったので、ヒロインの「リスベット・サランデル」役を演じた(好きな女優)ノオミ・ラパスが頭に入っちゃっているから、読みはじめるとすぐ彼女が目に浮かんだ。リスベットが NSA ( アメリカ国家安全保障局 )をハッカー攻撃するときの、相手に送る言葉《 国民を監視する者は、やがて国民によって監視されるようになる。民主主義の基本原理がここにある。》が、かっこいい。スノーデンや、ウィキリークスのアサンジが下敷きになっているのだろう。

雑誌ミレニアムの記者「ミカエル・ブルムクヴィスト」は、もとの原作者がモデルにし、映画でも実際に演じた俳優ミカエル・ニクヴィストしか思い浮かばない。リベラルなジャーナリスト役。リメイクのハリウッド版で同じ役を演じた(007の)ダニエル・クレイグはミスキャストだったと思うな。ストックホルムの街の景観も、すでに映画でインプットされてお馴染みだ。読むというより映像体験をしているようだった。書評はどれも評判がよいので何も言う必要はないけれどオススメしたい一冊です。ミレニアム1、2、3については→id:osamuharada:20100923に書いていました。

【 どふでもよゐ話 】ところで、ヤツガレがミステリー好きになった事始めはいつごろだっただろうか? とついさっき考えてみたら、小学生の頃のことだった。毎週土曜の夜に見ていたテレビドラマ【 日真名氏飛び出す 】で目覚めたのを思い出しました。調べたら、かの双葉十三郎さんが原案を書いていたと分かった。どおりで各タイトルからして翻訳ミステリー調だ。「バレリーナと拳銃」「スターへの脅迫状」「列車で逢った女」「幕をおろせ」「人を呪わば」「追いつめられて」「一枚の特急券」「アンブレラ作戦」「湖畔の銃声」「誰かが殺られる」「犯罪遠近法」などなど。洒落ていた。

当時は江戸川乱歩の少年探偵団が大嫌いで、名探偵・明智小五郎も気に入らない少年でしたが、テレビの名探偵・日真名(ひまな)進介氏は好きになりました。銀座の三共ドラッグストアが事務所がわりで、せっかちなカメラマン助手の泡手大作(あわて だいさく)がコメディ・リリーフ。ドラッグストアに勤めているお姉さんたちも美人ぞろい。蝶ネクタイの日真名氏は、いつもヒマそうにパイプをふかして登場していたが、事件が起ると俄然として冴えわたる。演じた俳優・久松保夫の低音の口跡がまたよかった。同じ頃に西部劇「ララミー牧場」のジェス役の声優としても人気が上がった。

中高生時代からの推理小説ファン歴は、早川書房の「ポケミス」と雑誌「ヒッチコックマガジン」から始まったということになる。短編ミステリーの名手ヘンリー・スレッサーが大好きだった。刑事モノではエド・マクベインの「87分署」シリーズにハマった。リーガルミステリーは E・S ガードナーの「弁護士ペリー・メイスン」シリーズを好んだ。ハードボイルドの私立探偵モノでは、通俗的な「マイク・ハマー」がまあ好きで、チャンドラーの「フィリップ・マーロウ」はちょっとキザな感じがしすぎた。客観性のない一人称モノはなんとなく退屈だった。ハマーは「俺」でマーロウは「私」の翻訳だったかな。むかしから推理小説を単なるヒマツブシとして読んできたのは、ヒマな日真名氏のせいだったのか、といまにして思いいたった。

2016-03-02 台湾の博物館

osamuharada2016-03-02

それからまた【国立台湾博物館】にも行ってきましたよ。去年に引き続き、台湾原住民族の「文身」(TATTOO:刺青)の展覧会が開催中。いまなお健在なパイワン族の女性を、新たに取材したビデオで構成されている。女性の手の甲に施されたタトゥー。その最後の、存命中の女性たちの肉声を記録した調査報告なのです。手の甲のタトゥーは、沖縄の織物をする女性たちのタトゥーとも共通していた。ほとんど同じ風習。沖縄=邪馬台国説で考察すれば、台湾原住民は魏志倭人伝にいう「倭種」にあたると思います。同じ黒潮海流のベルト上にある遠い親戚でしょうか。民族衣装と相まってタトゥーも違和感なく美しい。女性たちの顔貌は日本人にもよく似ている。いずれもどこかで出会ったような感じがするし、懐かしくもある。博物館内写真は→http://osamuharada.tumblr.com/

【TATTOO】にご興味あるかたは以前書いたこちらを。 去年の台湾博物館→id:osamuharada:20150217  ハワイの博物館→id:osamuharada:20120229 倭人伝とTATTOO→Id:osamuharada:20141204 聖徳太子とTATTOO→id:osamuharada:20150112 TATTOOの国→id:osamuharada:20150128

【博物館の建築】台湾原住民とはかけ離れた、この疑似ローマ帝国風建築が気になりませんか? 1908年(明治41)に建設されている。どうも怪しいなと調べてみたら、大日本帝国が台湾を植民地にしていたときの総督府・児玉源太郎と民政長官・後藤新平、このたった二人だけの名を冠した「記念館」として建てられたのだそうだ。しかし何故だかすぐ翌年には「台湾総督府博物館」と改称されている。ちょうど児玉源太郎と同じ長州の伊藤博文が暗殺された年だ。それにしても大日本帝国と豪語していた一国の建築物が、まったく西洋の模倣建築にすぎないとは笑止。明治の薩長政権が、実は欧米の傀儡政権であるとの証左を示している。とつい思っちゃう。長州には児玉神社まであるけれど、児玉源太郎といえばレオナール・フジタ藤田嗣治)→id:osamuharada:20110804 いまも続く薩長政権とは→id:osamuharada:20121208  台湾を植民地支配していた頃の日本もどこかの植民地か?→id:osamuharada:20110725

2016-02-24 台湾の犬

osamuharada2016-02-24

台北の夜、食後に裏通りをブラついていたら、屋台の焼鳥屋のあたりを徘徊している雑種犬を見つけた。ヤツガレはどこを歩いても犬猫を見つけるとつい一言話しかけるクセがある。このコは屋台の周囲に落ちている客の食べカスをあさっていた。「ここで何してるの?」と聞いてみたのだが、突然まずいところを見つかっちゃったなという困った顔をした。すぐにプイッと屋台の向こう排水路側へいってしまい、また黙々と汚水まみれの食べカスをあさっている。人間嫌いなところがありそうだ。しかしちゃんと派手な柄の首輪をしているから飼い犬だろう。屋台のオヤジさんもオバさんも知らん顔はしているが、ああここんちのコなのかと安心もした。と思っていたら、犬は踵を返して隣りのオープンカフェの人混みを抜け、駐輪しているバイクの列をくぐりぬけ、通りの反対側へ脇目も振らずにいってしまった。向こうはビル工事中の塀があるだけで、そのさきは中山北路に出る。夜でも猛スピードで車が行き交う6車線の大通りだ。大丈夫かな?と心配になって後を追ってみた。大通りに出て左右の歩道を見渡したのだが、もうどこにも犬の姿はなかった。

そこから2ブロック先の南京西路との交差点はまだ人通りも多く混雑している。犬のことは忘れて、夜十時までやっている三越のデパ地下へいくつもりで信号を渡ろうとしたら、向こう側の歩道にさしかかる手前で、くだんの食べカス犬がすぐ横を急ぎ足で通りこした。きちんと信号を守って走行しているところは偉いなと感心した。歩道に着いたら四角い広告塔のようなものに片足あげてオシッコをかけてゆく。こちらが声をかける間もなく、雑踏のなかをスイスイと抜けて三越のほうへ左折した。同じ方角を先導してくれているのかなと一瞬思えたほどの慣れた足取り。

この繁華街のど真ん中、大通りの歩道に沿って植え込みが連なっている。犬は途中でその植え込みの中にまた小便をした。自分のテリトリーに匂い付けをしているのだろう。次はその2mほど先の植え込みにて、優々と大便のほうにとりかかった。顔を車道側に向けて唯我独尊、とても気持ち良さそうだ。こちらも嬉しくなって眺めていたのだが、排便がすんだ途端、ひとの前を横切ってすぐ手前の店舗の中に走って入ってしまった。エーッ、こんどはこんな清潔で明るい化粧品店に用があるのかよと意表をつかれた。屋台との落差が大きすぎる。中を覗いてみると、犬は店員さんに話しかけられて尻尾を振っている。そのうち出てきた店のオジさんに飛びついたので、このコの飼い主だとひと目で分かった。まだ外から様子を見ていたら、オジさんがそばにやってきて犬を奥から呼び寄せてくれた。こちらが犬好きだと気がついてくれたらしい。急に忠犬らしくなってオジさんが中国語で命じたら、店先でお座りしたままジッとしてくれた。さっきまで焼鳥の汚い食べカスを喰ってたことなど無かったようにすましている。オジさんは知るや知らずや、実はB級グルメ犬であることは内緒にしておこう。写真は取らせてくれるが、他人には知らん顔。よくみると困ったような顔は生まれつきなのだった。Hanna-Barbera の漫画に出てくる、気の弱いハイエナ「ハーディー・ハーハー」を思い出した。オジさんにこのコの名前を聞き忘れたのだけが心残りとなった。

そのドキュメンタリー写真→http://osamuharada.tumblr.com/ (後の2を押してください)

おかげで日本の忠犬ハチ公の謎も解けた→id:osamuharada:20150319

2016-02-22 台湾にて

osamuharada2016-02-22

今年も故宮博物院で、文人画家「董其昌」展を観ました。富岡鉄斎が座右の銘とした《 万巻の書を読み 万里の路をゆく 》の董其昌です。二日間通い、じっくり勉強させていただきましたよ。唐から始まって五代、宋、元、明の山水画の系譜を集大成して、文人画の芸術論を確立した人。過去の名画を臨模した作品も多く、絵画史を自ら描くことによって体得した人だと分かる。そして水墨のあらゆる技法を自家薬籠中のものとした。しかし絵画は模倣のままで終えてはならず、一旦すべてを忘れ去り、自由気ままに描かなければいけないと戒める。

日本では江戸時代に董其昌は知られて、幕末の文人画に多大の影響を与えた。鉄斎もまた私淑したその一人といえる。一昨年に故宮でみた明初の「沈周」が文人画のルネッサンスだとしたら、明末の董其昌は印象派の開祖のような存在かな。のちに清初の「石濤」「八大山人」にも影響を与えている。マティスはこの石濤に傾倒して独自の線描スタイルをつくったから、文人画の系譜に入れてあげてもいいのでは。といろいろ空想するだけでも楽しい。ぼくは董其昌にアブストレを発見して、文人画の目指す桃源郷に至ることができた。やはり絵画は実物を見るにしかず、ですね。

故宮では、いつ来ても書画の展示室はガラガラでこれだけは嬉しかった。ただ途中でお茶していた三希堂が閉鎖(大衆食堂化か?)されたのが残念。ゆっくり余韻を味わうような場所はどこにもなくなった。中国人団体さんで館内は埋めつくされ、昼間はいつもラッシュアワー。押すな押すなで美術鑑賞にはいくらなんでも酷すぎる。有名な彫刻「白菜」は、すでにゆるキャラとなってミュージアムショップ(土産店)で売られていた。猫ブームはまだ中国では起っていないらしく、所蔵品で南宋の画家「李迪」の神品といわれている仔猫図(原寸の印刷物)を500円で売っているというのに誰も買わない。「董其昌」展の重厚なカタログ(上の写真)は素晴らしく、しかも安い。でも誰も買わない。

長いこと董其昌を〈とうきしょう〉と読んで馴れ親しんできたが、本国では Dong Qichang と発音する。これじゃドン・キホーテみたいで、リューベン(日本人)としてはちょいと残念な気もした。 去年の故宮id:osamuharada:20150210 一昨年の故宮id:osamuharada:20140301

2016-02-13 映画「オデッセイ」

osamuharada2016-02-13

俳優マット・デイモンを好きになったのは、アクションもの「ボーン」シリーズが始まってからで、それまでの文芸映画では生真面目な感じがしすぎて、ぼくにはちょっと物足りなかった。こんどの『オデッセイ』は、リドリー・スコット監督で3DのSF映画だという。ゴールデングローブ賞ではコメディ&ミュージカル部門で作品賞をとっていたから、一体どんな映画なのかワケがわからない。邦題だと壮大な宇宙モノにもみえる。ともかく前知識はなくとも、好きな俳優と監督で観ることにしました。期待はしていなかったけれど、これが実に面白い! 大人のエンターテインメントになっていた。(注意:以下はネタバレです。)

音楽の使い方が洒落のめしていて、なるほどコメディとしてもイケてる。なかでもデヴィッド・ボウイの曲が出てきたところで笑えた。アルバム『 ZIGGY STARDUST 』からの一曲【 STARMAN 】だったから。《 There’s a Starman waiting in the sky  He’d like to come and meet us 》これなら1972年に出た頃よく聴いていた。そして偶然にも、つい先日デビッド・ボウイは亡くなったばかりだったので、思い出したら急に切なくなってきた。昔このデヴィッド・ボウイのLPレコードを買ったのは、ボブ・ディランに影響されたイギリスの新人という日本での評があったからでした。聴いたらぜんぜん違っていたけれど、この「スターマン」という一曲はバカバカしいところが大好きなのでした。このあとからのデヴィッド・ボウイは、グラムロックで化粧も濃くなり、あまり好きになれなかったな。

この映画は〈サバイバル〉が主題になっているわけで、期待にたがわず ‘78年 Gloria Gaynor の大ヒット曲、かの【 I will Survival 】を用いてくれたところでも笑った。邦題は「恋のサバイバル」《 とんでもないわ! 私は死なない。私がほんとの恋を知っている限り、私は生き続けるのよ。》火星で聴く音楽(CD)が、あいにくダサい七十年代ポップスしかなかった、と主役マット・デイモンに言わせておきながら、ストーリ展開とぴったりの様々な歌曲がかぶさってコメディとなる。リドリー・スコット監督の男っぽいユーモアが効いている。見終わったら、俄然前向きになり愉快な気分になってしまう映画。これは近ごろ珍しい。

2016-02-07 北園克衛の短編小説

osamuharada2016-02-07

北園克衛の短編小説集『 黒い招待券 』は、1964年に上梓されている。そのINTRODUCTIONには、《 ある秋の日の、ひさしぶりに空の美しい日であった。閑散とした山の手のとある坂道をくだりながら、ふと、私がこれまで折りにふれて書きつづけてきた短い物語を集めて小さな本をつくることを思いたった。》とあります。北園克衛62才のときの出版。これは、ぼくの若い頃の愛読書だった。一時期はいつも上着のポケットに入れていたのです。

その小さな本『 黒い招待券 』では取り上げられなかったが、戦前に、いくつかの雑誌に寄稿していた小説の拾遺集のような本が、最近になってできあがった。よくこれだけ探し出してきたものだと思う。『 北園克衛モダン小説集・白昼のスカイスクレエパア 』(幻戯書房刊)。詩人の菊地肇さんがぼくに贈ってくださった。

北園克衛三十代、すべて戦前の作品群。1930年から1941年(太平洋戦争勃発)までの間に書かれた35編。軍国主義が台頭してきた時代だ。にもかかわらず北園克衛の小説には、不穏な時代の陰りというものが微塵もない。モダニズムの短編小説を書き、あえてあの時代からは超然としていたのかもしれない。開戦前夜こんなに明るい書き出しもある。

《 街にはまた花咲く春が訪れて来た。そして街の少女たちはシイルやアストラカンの外套の重さに堪えかねて、チュウリップの水々しい茎のように溌剌とした四肢を、晴々しい春の微風のなかに投げいれた。》「緑のネクタイ」

また詩の一節でもあるような言葉が並んでいる。

《 ある五月の静穏な夜。街はインキ瓶の中に沈んでいるのです。》「白の思想」

《 ま水のような朝の風が樅の木の梢を吹いていた。》「煉瓦の家」

《 海は太陽の下で縮れている青いゼラチン紙なのです。》「初夏の記録」

《 三月の空気が新しいプリズムの様に冷たく澄んでいる。》「黒水仙」

《 夜のプラタナスが夏を吹き上げている ― 青いビイルのように。》「背中の街」

《 シプレの香りが彼女の気紛れな性質に冷やかなデザインをする。》「夜の挨拶」

《 初夏のテレヴィジョンのような雨が銀座の街を静かに濡らしていた。舗道を行くアンブレラのカアブが鈍く鉛のように光り、街は漸くネオンがつく頃あいであった。》「山百合」 

これは1939年に書かれていますが、すでに「テレヴィジョン」を知っていた。ここではブラウン管の走査線を雨に見立てたのでしょう。テレビ放送は戦後の1953年(昭和28年)からスタートしている。この小説の実に14年後ですね。

《 アクアマリンの空に、白いカンガルウの雲が出ている。自動車は麦のダンダン畑を登って行く。ボンネットの先端の天馬が、突然に雲の中に踊りこむ。彼はマドリガルを口笛で歌っている。》「春の日に」

《 冬の日の鋭い空気の中で街路樹の柳が水晶の鞭のように鳴っている午後、私は外套の襟を高く立てて銀座の凍った舗道を歩いていた。飾り窓の硝子がスケイト・リンクのように冷たく光っている。私はふとその硝子の上に MON AMI と金色に浮き出した文字を見ると、ドアを押して這入っていった。》「蘭の花」

《 彼女はテエブルの上のシャボテンの鉢を見るでしょう。それは一インチの立体的完成のなかに砂漠の純潔を持っているのです。》「初夏の記録」 

《 彼らはトオストにバタを塗って、角のところから平和に食べ始める。》「ムッシェルシャアレ珈琲店」

書き写していると楽しくてとまらなくなりそうです。

白昼のスカイスクレエパア

白昼のスカイスクレエパア

2016-01-30 邪馬台国日乗

osamuharada2016-01-30

また沖縄県立博物館へ。沖縄本島北谷(ちゃたん)の沖で発見された海底遺跡は邪馬台国である、という木村政昭先生の有力仮説を再確認。こんなに魅力的で、しかも論理的に首肯できる世紀の大発見を、完全に無視している博物館というのも珍しい。陸側の北谷周辺で発見された多数の線刻石版は「沖縄の謎」という投げやりなコーナーに展示されたままだ。海底遺跡はいまだに「遺跡」なのかどうか独自調査さえしていない。やる気ゼロの博物館。いつもガラガラで観光客ゼロなのは嬉しいけれど。今回もユックリ眺めていたら面白いことに気がつきましたよ。

① 線刻石版(右の写真)には、大型の帆船が上部にあり、いちばん下には高床式の建物が描かれている。長い柵状のものが中間に横断しているのは結界かな。よく見れば、絵柄の配置からして高床式建物は海底に沈んでいると思える。遠近法も知らないし、普通の景観であるならこういう布置では描かない。

この線刻石版は、陸側の「グスク」の祭儀場跡から発掘された。四世紀頃に地盤沈下した邪馬台国を、後々まで祭っていたものと思われる。祭儀を司るのは、いまも存続している沖縄の「ノロ」(女性神官)たちだ。【卑弥呼】=「アマミキヨ」の末裔ともいえる人々。

②縄文時代晩期から、沖縄本島で後世まで使われていた黒曜石(新石器)は、すべて九州佐賀県の腰岳で産出されたもの。展示パネルには、その腰岳黒曜石の流通ルートが示されている。それはヤツガレが考察した倭人伝の邪馬台国への道程とピタリ同じものだった。太古より慣れ親しんだ古いルートを、弥生時代にも踏襲していた。

すなわち、腰岳を背にした松浦(現在の伊万里)【末盧国】から東南陸行五百里で、佐賀県糸岐【伊都国】に出る。さらに東南百里の諫早湾内の一地点(弥生海退で広大な干潟だった)【奴国】に進む。次に東へ百里で有明海の出口付近(同じく弥生海退で干潟)【不弥国】に出る。そこから南へ水行二十日の船旅で薩摩【投馬国】に到着。そして、さらに南へ船出して水行十日と島伝いの陸行で、沖縄本島に到着。本島中部(金武湾も干潟だった)に、隣接していた邪馬台国群21ヶ国を合わせて陸行一月で巡り、いよいよ北谷の前にひろがる干潟に着く。満潮のときはエメラルドグリーンの海上にある邪馬台国が見えてきた。潮が引けば琉球石灰岩で白く輝く城塞【女王国・邪馬台国】まで歩いて渡れる。ここがいまは海面20m下にある海底遺跡(長径900m×幅200m)というわけです。「倭の地を参門するに、海中洲島の上に絶在し、或いは絶え、或いは連なる。」と倭人伝に書かれています。というわけで、邪馬台国へは腰岳黒曜石の流通経路そのままで行けちゃうのです。もともと海洋系縄文人が頻繁に行き交っていたルートだと考えられる。彼ら倭人が水先案内人として、魏の中国人を女王国まで連れて行ってくれたのです。腰岳黒曜石→id:osamuharada:20111126

③博物館の前庭には、線刻石版とそっくりな高床式の倉庫が建っていました。礎石は琉球石灰岩、これなら干潟でも木の柱を建てられる。2000年以上前から、ついこの間まで高床式建物は使われていたでしょう。

参考写真:http://osamuharada.tumblr.com/

帰りに那覇の大型書店で、木村先生の名著『邪馬台国は沖縄だった』がまだあるかなと探したら、本格的な古代史を揃える書棚にはなく、沖縄の人文地理学(マンガ本も含む)のせまい書棚の最下段に二冊だけありました。沖縄の本屋まで、やる気ゼロなんだ。その二冊をまた買って、晩ご飯を食べに行ったビストロ「プチット・リュ」のシェフに一冊さしあげた。しかしこの本の装幀デザイン、もうちょっと、どうにかならなかったのかしら。

邪馬台国は沖縄だった!―卑弥呼と海底遺跡の謎を解く

邪馬台国は沖縄だった!―卑弥呼と海底遺跡の謎を解く

ぼくの黒曜石ルート=倭人伝ルート説は、木村先生の考えられるルートとはちょっと違ってしまいました。九州の上陸地点【末盧国】=唐津という通説を木村先生は受けいれられている。これでは畿内説&九州説と同じ間違いをおかす。しかし薩摩(鹿児島)から邪馬台国(沖縄本島)までは先生と一緒です。  

2016-01-24 ブログ&タンブラー

osamuharada2016-01-24

この【 ブログ 】を書きはじめて、はや十二年目。

最初の2005年は、『 OSAMU GOODS STYLE 』を上梓する予定だったので、その出版のお知らせをかねて何か書いてみようかなと、ほんのデキごころ。当時はブログが流行り出したころでもあり、好奇心がつのって、やりだしてみたら面白くてクセになっちゃったわけね。好き勝手なことを書いて、それで嫌われようがそんなことはお構いなし。この自由度の高さが気に入っています。今までに書いた回数が、今日で793回目。塵も積もれば山となりました。

いまはパソコンよりスマホの時代だそうですね。しかしあれだと小さすぎてブログを書くのは大変そう。もっぱらタブレットを愛用しているのですが、これもメールを書くぶんにはいいけれど、長々しいブログは書きづらい。それに横組で文を書くのも苦手なので、ブログ用にはもっぱらノートパソコンのワードを使い、明朝体の縱組で書いています(それをブログ編集ページにコピペするだけ)。トシヨリにはこれがいちばん楽ちんなのです。

Twitter や Facebook といったインタラクティブなものは面倒なので、まだまだ一方的にブログだけ書かせていただく所存であります。ときどきヒマつぶしに覗いてみてくださいね。さて今年は、夏にオサムグッズの回顧展が予定されています。二冊のヴィジュアル本も出版依頼されていますので、おりおりに途中経過なども報告いたします。

自分用の写真アルバムとして(無料の)【 タンブラー 】も気に入っています。http://osamuharada.tumblr.com/ ブログより写真がきれいでしょ。

今日の写真は、久保佐四郎作、郷土人形の「写し」です。左が熊本玉名の「木の葉猿」→id:osamuharada:20101027 右が長崎古賀人形「馬乗猿」→id:osamuharada:20101005 (←こちらは古賀人形の実物です。)

2016-01-17 雑誌とトレンチコート

osamuharada2016-01-17

いまや雑誌は買わずに立ち読みですましていますが、70年代イラスト稼業についたころは、出版社が一度でも仕事をすれば毎月その雑誌を送ってくれるようになったので、買わずに定期購読者になっていました。大昔はイラストレーターといえども大切に扱われていたわけです(マガジンハウスは毎年お歳暮までくれましたよ)。そんなわけで、ちゃんと自分で、月刊誌を定期的に買って読んでいたのは、後にも先にもミステリーの専門誌「ヒッチコック・マガジン」くらいでした。ヤツガレ中学から高校にかけて四年間愛読していた雑誌。

この写真は、その【 ヒッチコック・マガジン 】1962年6月号の表紙。当時ぼくは十六歳の購読者。表紙にはいつもどこかにヒッチコックが(映画のように)登場していた。この号では、ひと目でこの店が銀座並木通りにあった【 チロル 】という輸入衣料品店のウィンドウで撮影したとわかりました。子供の頃から銀ブラをしていたので、当時のお洒落な大人がいく店だと心得ていた。スイスやオーストリア製の、登山やスキー用品に、セーターや靴などカッコいいものが勢揃い。高校生では指をくわえてウィンドウショッピングするしかありません。いつか自分で稼げたらココで何か買ってやるぞと考えていました。

ハタチの頃にはバイト代で、チロル・オリジナルのスェードの短靴を買いました。ゴム底が減るとチロルで張り替えてくれるので長年愛用できた。靴のお次は、オーストリア HOFER社製 のチロリアン・ジャケットにハマりました。グレーの霜降り、オリーブグリーン、紺色、チャコールグレーの四着。 そして三十代になり、やっとこの写真右側にあるトレンチコートを誂えることができたのです。チロルのオリジナル・デザインで、スイス製の生地は色もこの写真と同じ。コートの裏には、大きめの織りネームが張ってあり、番傘の一つ目小僧が一本スキーですべっている図柄なのでした。その絵の上にTIROLの文字。それまでが気に入りました。トレンチコートは、ヒッチコック・マガジンで見初めて以来、四半世紀過ぎてやっと注文できたわけです。

【 チロル 】へは、銀座店がなくなると、自由が丘店(店長さんがいい人だった)にも通いましたが、そこもいまはもうない。トレンチコートも、チロリアン・ジャケットも還暦までは着ていました。【 ヒッチコック・マガジン 】は編集長が小林信彦さん(雑誌のペンネームは中原弓彦)で、イラストは弟の小林泰彦さん。この雑誌がなければ、ぼくはイラストレーターにはなっていなかったと思います。表紙写真と同じ号の、小林さんのイラストも Tumblr にアップしました。ベン・シャーンの影響がまだ残っていたころですね。ミステリーの挿絵として、いま見ても惚れ惚れするな。トレンチコートの男も描かれていました。→http://osamuharada.tumblr.com/

2016-01-13 二〇一六年

osamuharada2016-01-13

週刊誌は買わないけれど、週刊文春の小林信彦さんのコラムだけは、いつも立ち読みさせていただく。しかし、以前は辛口の社会批評をたびたび目にしたが、このごろは映画とテレビドラマの話題ばかりになってしまった。古い映画の話などは、本にまとまってからユックリと読ませていただきたい。週刊誌では、たったいま社会で起きている事について、小林さんがどう思われているかを知りたいのだが…。

ネットの普及とともに、既存のマスメディアの果たしてきた役割が後退しているようにも思える。広告で賄われているマスコミは、広告主にタテ突いたら表現の自由もなくなる。売れなくなると、新聞・雑誌、テレビ・ラジオ、いずこもカネに困ってスポンサーの言いなりだ。貧すれば鈍する。つまらなくなって余計に売れなくなる。

そういえば、「週刊文春」の広告ページは、いつも新興宗教と饅頭屋がレギュラー・スポンサーのようだ。地方の街でテレビを眺めていると、「報道ステーション」では地元のパチンコ屋の広告がやたら目につく。

一昨日のニュースでは、沖縄米軍への「思いやり予算」が20兆円(通算)と騒いでいたが、パチンコの貸し玉料は、毎年20兆円 (以前は30兆)というのに、一度もマスコミで話題になったことがない。またNHKが主催するアイス・スケート競技の生中継をボンヤリ眺めていたら、スケートリンクの壁面に展示されたスポンサーには、パチンコ屋「MARUHAN」のロゴが堂々と並んでいた。業界一のマルハンは、一社で年間2兆数千億円の売上だそうだ。東京五輪にもカネを出すつもりだろうか? いつもヤツガレは「兆」を超える金額のメルクマールとして、このパチンコ貸し玉料(国民がバクチですったカネ)を用いているのであります。ちなみに、新聞社や、出版社の総売上は、それぞれ年間1兆数千億円にまで落ち込んでいて、マルハンたった一社にも負けちゃう。一億総活躍社会の実態は、上層は金融(バクチ)、下層はパチンコ(バクチ)で、みな活躍しているワケね。

古今亭志ん生の落語に、語源を知ったかぶりする年寄りが「バクチ(博打)ってぇのはな、その場で朽ちるってことだ」と若者にデタラメを教える小噺があったが、あながち間違いではないように思える。「その場」は金融の「相場」ともよめる。

2016-01-07 スター・ウォーズ

osamuharada2016-01-07

孫にせがまれて正月映画『スター・ウォーズ / フォースの覚醒』を観にいきました。他には「妖怪ウォッチ」か「仮面ライダー」という苦しい選択肢しかないので仕方がない。3Dで日本語吹き替え版。お子チャマ映画などみたくはないが、これも付き合いというもので仕方がない。ヤツガレが幼稚園の時、生まれて初めて観た映画はジョン・フォード監督『駅馬車』だった。音楽も好きになった(主題歌は「俺を寂しい草原に埋めないでくれ」)。やたらと白人がインディアンを殺す映画だが、子供ゴコロに「西部劇」は楽しかった記憶があるので、孫にはスター・ウォーズだってかまわないだろうと安直に考えてしまった。

付き添いながら、さすがトシヨリには退屈で何度も居眠りした。名作『駅馬車』には遠く及ばない。立体映像も特撮やCGでこさえた画面では、もはや面白くも何ともない。かてて加えて物語が安っぽい。広大無辺の宇宙空間においても、なお戦争にばかり明け暮れている人間どもの愚かしさ。という観点があるわけでもなく、ただ不毛な戦意高揚ストーリーが延々と続く。人類の進化はその辺りまでが限界とでも言いたいのか。それに同じ親族間での確執や復讐が何世代も続くので、いい加減うんざりしてくる。宇宙を相手に矮小な個人主義では、あまりに世界観が狭すぎるだろ。どおりで、どこかの戦争好きな世襲総理大臣も、大晦日に喜び勇んでスター・ウォーズを観に行ったわけだ。今年もまた嫌な予感。

孫にはストーリーがまだ解らず、映像のみにハマって宇宙船団の絵ばかり描いている。「ライトセーバー」を作ってやったのだが、夜になるとチャンバラに付き合わされるハメになるのも仕方がない。 付き添いの方向きに、ライトセーバー (上の写真) の 超低予算つくり方伝授します : まず百均で買ってきた懐中電灯の先へ、筒状に模造紙を巻きつければできあがり。ジェダイの騎士用には、紙の裏側をマッキーで適当に青とグリーンに塗り、ダークサイド用は、ピンクにオレンジ色を塗る。子供に夜更かしさせないよう気をつけましょう!

2015-12-31 ゆく年くる年:半世紀前

osamuharada2015-12-31

50年昔といえば、ヤツガレも美大のデザイン科(いまやパクリで有名校)の頃です。アメリカンポップスで育ったような十代でしたが、《1965年》は、ビートルズブームの到来で、ヒットチャートも英国調に様変わり、こちらが聴く曲も変化しつつある頃でした。ビーチ・ボーイズの【 CALIFORNIA GIRLS 】のような米国青春モノもまだ流行ってはいたけれど、この年、ビートルズの【 HELP 】や【 YESTERDAY 】【 TICKET TO RIDE 】【 I’M DOWN 】 【 DAY TRIPPER 】【 WE CAN’T WORK IT OUT 】などが次々とヒットして、英国からの新しい波がやってきていた。ローリング・ストーンズなら【 (I can’t get no) SATISFACTION 】ですね。どことなく戦後イギリスの「怒れる若者たち」世代の雰囲気を帯びたロックが主流になりました。アメリカ側でも、ボブ・ディランがアコースティックからエレクトリックギターに持ちかえて、かの【 LIKE A ROLLING STONE 】や【 POSITIVELY 4TH STREET 】で反骨精神を謳いあげ、バーズはディランの【 MR.TANBOURINE MAN 】をカバーしてヒットさせた。ママス&パパスの【 CALIFORNIA DREAMIN’ 】も懐かしく、ライチュアス・ブラザーズが【 UNCHAINED MELODY 】をヒットさせていた年。この前年にはケネディ大統領暗殺があり、かつてのアメリカンドリームは消え失せ、ベトナム戦争は北爆開始で混迷が深まっていった。スプリームスの【 STOP! IN THE NAME OF LOVE 】が好きだった。キング牧師公民権運動、盛んなりし頃でもあった。

明けて《1966年》は、ヒッピ―時代の始まる頃だったかな。ビートルズは 【 YELLOW SUBMARINE 】【 PAPERBACK WRITER 】【 ELEANOR RIGBY 】などが大ヒット。ぼくがハマっていたボブ・ディランは【 JUST LIKE A WOMAN 】【 I WANT YOU 】 など、アルバム『 ブロンド・オン・ブロンド 』からのヒット曲が続出したが、日本じゃ一向に流行らなかった。というより誰も知らなかった。サイモン&ガーファンクルが【 THE SOUND OF SILENCE 】を静かに歌い、スプリームスの【 YOU KEEP ME HANGING ON 】、英国ダスティ・スプリングフィールドの【 YOU DON’T HAVE TO SAY YOU LOVE ME 】が胸に迫った。ヤツガレはやっとハタチになり、とにもかくにも退屈な日本脱出を夢想していた頃でした。さて、大晦日の紅白は今日が最後の森進一(歌手生活50周年)だけ聴けたらよし。あとは半世紀前の洋楽懐メロをYouTubeで勝手に聴くことにいたします。良いお年を!

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2015-12-27 ゆく年くる年

osamuharada2015-12-27

去年にくらべて今年、世の中は笑劇のごときアベ独裁政権のおかげで、さらに終末感が深まったような気がしています。去年はコレでしたが→id:osamuharada:20141226

特にひどくなったなと実感するのが、マスコミの大政翼賛ぶり。新聞が売れなくなったので、新聞社は減税してもらうかわりに、喜んでアホ政権の宣伝をしちゃう。読者である国民の増税にはお構いなし。反体制的な発言をしたら即クビ、というのが常套手段になっている。「ジャーナリスト」もカネ次第、サノケン並みの「広告屋」に成り下がるとは情けなや…。気分転換に、時代を超えて先人の言説に耳を傾けてみよう、と古本を読みあさっている年の瀬です。

1955年、詩人・北園克衛のエッセイ。今の状況と同じようだなと思われることが書かれていたので、驚愕いたしました。なんとこれが六十年前の記述なのです。《 現代の日本のジャーナリズムの欠点は、真の知性というものを欠いているところにある。これは新聞や雑誌は言うに及ばず、ラジオに於いて、またテレビに於いても同様である。これはいったいジャーナリストが悪いのか、それとも大衆が悪いのか、それを簡単に決めることはできないが、おそらく、両方に罪はあるのであろう。》とあり、あの頃はテレビ放送が始まったばかりの時代でしたが、すでに《 テレビも同様であって大衆が自らの権利にめざめ、主張をしない限り、この音と光の暴力は際限もなく続くものと覚悟するより他はないであろう。》と明言していました。はたして六十年前の悪い予感は的中している。かつて社会評論家・大宅壮一が唱えた「一億総白痴化」は、1957年のこと。テレビ(新聞社が親会社)を受動的に視聴していると、自らの創造力や思考能力を失ってしまうことを危惧していました。今年からは、その言葉「一億」がクリティックではなく、むしろ政略のほうに反転して「一億総活躍」とあいなった。国民はもっと労働して納税をせよ! これがさらにゆき着く先は富国強兵となり、やがて「一億玉砕」が終着点でしょうか。北園克衛は、さらに《 NHKの愚劣さには、官僚と軍閥の凶暴な余韻が根強くのこっているのを感じないわけにはいかない。》とも書いていたのです。

さもあらばあれ、シネ漫画のある旨い自然派ワインを飲みつつ、過ぎゆくアホらしき時代をこれからも傍観していよう。個人的にはこのシネの絵に近い楽天的な一年を過ごすことができました。風刺漫画家 Siné→id:osamuharada:20150701

2015-12-20 お笑いデザインノート

osamuharada2015-12-20

今年は最後まで、東京五輪デザイン騒動で楽しませていただいた。

新国立競技場デザイン 】では、撤回されたザハさん(イラク出身)の「生ガキ」原案のかわりに、こんどは純国産にこだわり「和テイスト」に変更されたよし。A案は「法隆寺」をイメージし、B案はなんと「縄文文化」からヒントを得たのだそうだ。ヤツガレには両方とも興味が尽きない美術史上の主題だったので、それがただの大人の運動会に結びつくとは一瞬 意表を突かれたな。しかしあとでそのデザインを拝見したら爆笑したな。イメージの貧困もここまできたかと。そもそもそんな馬鹿げたことやっていないで、単なる運動会場なんだから、機能的デザインさえしっかりできてりゃ、それでいいんじゃないの。

【 東京五輪エンブレムデザイン 】では、昨日の記事でまた大いに笑えた。いわく《「密室」の審査に隠されていた不正が暴かれた。》として、《 佐野研二郎氏ら一部のデザイナーを優遇する“裏工作”が行われていたことが明らかになった。》のだそうだ。どう明らかになったかとゆうと、一部始終がDVDに録画されていたからなのだ。《 何かをささやく姿 》とミステリー調の小見出しあり、そしてついに事件はこうして暴かれたのであった。《 104点のエンブレム案が机上に並ぶ。審査委員に与えられた20票のチップのうち、10票を投じただけで椅子に座り、談笑していた永井一正審査委員代表に、組織委のマーケティング局長の槙英俊氏とクリエイティブ・ディレクターの高崎卓馬氏が近づき、何かをささやく。その後、高崎氏が1票しか獲得していない2点の作品を指さすと、永井氏はそこに自らのチップを置いた。こうした状況は1次審査を記録したDVD映像に残されており、不正を見破る“ 動かぬ証拠 ”となった。》(産経新聞) ちょっと「火曜サスペンス劇場」風でいい記事だよね。真犯人はぼくが推理(日の丸デザインへのこだわりが動機)していたとおり、やっぱり談笑していた「あの人」だったでしょ。「火サス」だと真犯人は必ず海岸の崖っぷちまで追いつめられて逮捕のはずだけど、この事件はそこまでカッコよくはいかないな。ともあれこのDVD拝見したいです。予想では三流のお笑いコントくらいにはなっていると思います。

さすがNETGEEKさんはここまで書く→http://netgeek.biz/archives/61814

追記:A案の競技場デザイン審査にも出来レース疑惑が。→http://lite-ra.com/i/2015/12/post-1814-entry.html ちなみにスガ官房長官の息子は大成建設、これも笑える。

2015-12-17 ジャーマン ベーカリー

osamuharada2015-12-17

デジタルリマスタリングされた小津安二郎監督作品を、大型テレビにて再見。 すでに何度も観て、見慣れた映像であっても、改めて見ると美術の細部までくっきり映し出されているから、小道具類もぼくには新鮮で見飽きることがなかった。

‘60年『秋日和』で、司葉子が 買って帰った洋菓子の包装紙が【ユーハイム】なのは前から分かっていましたが、昨日NHKで放映された ‘59年『お早よう』を観ていたら、おみやげに久我美子の買ってきた菓子折りは、【ジャーマン ベーカリー】の包装紙だったとついに判明できたのであります。家は大田区蒲田の多摩川沿いあたりと想定しているようなので、久我美子はお勤め帰りに有楽町か田園調布の駅前にあったジャーマン ベーカリーへ寄ったことにでもしたのでしょう。「GB」のロゴマークも確認。あの頃の東京では、確かにこのヨーロッパスタイルの二店舗はアカ抜けていたのです。さすが美術考証には徹底的にこだわる小津映画。

十代の頃の学校帰り、渋谷の東急文化会館にあったこの両店にはポン友たちとよくいきました。特に2階にあった【ジャーマン ベーカリー】のチーズバーガー(付け合わせのコールスローも旨かった)と、レモンパイ(上にメレンゲが乗っかっている)が好きでした。そして買ったパンを入れる紙袋(白地に黄色と紫のチェック柄とロゴ)や、菓子折り用の包装紙(映画で使われていた)のデザインが大好きで、スクラップして持っていました。また店で使われていたカップ&ソーサーは、円周に青いチェッカー模様の帯があり、「GB」のロゴが横についたものでした。のちにオサムグッズで陶器にデザインしたチェッカー模様は、ぼくなりのオマージュでした。

我々が高校生のとき、【ジャーマン ベーカリー】に本物のドイツ人のウェイトレスさんが入ってきました。このひとがいつも無愛想で、いかついオバサン(実は若かったのかも)だったから、すかさず「ナチス」とあだ名をつけては、みんなで恐れていたこともありました。つまりデザインといい店員さんといい、雰囲気にちょっとした外国風情があったわけね。

イラスト稼業についた70年代は、やはり古くからあった銀座4丁目の【ジャーマンベーカリー】のほうへ足繁く通いました。銀ブラの途中でも、仕事の打ち合わせでも、何かというとジャーマンでした。店はドイツというより五十年代アメリカ風で、ちょっとノスタルジックでしたがぼくには落ち着ける場所なのでした。そのうち新しいビルに建て替えられてしまい、がらっとセンスが変わったので足が遠のきました。有楽町店もあったけれどそちらはもとより気に入らず、横浜元町店には、デートでたまに横浜へ行けば必ず寄りました。いまはなき【ジャーマンベーカリ―】は、ヤツガレの十代二十代頃のフランチャイズなのでした。

オマケ:映画『お早よう』で新たに見つけたもの。よく見ないと分かりづらいけれど、佐田啓二沢村貞子の姉弟が住んでいるアパートの場面に、チラっと内藤ルネさんデザインの「座布団」が敷かれていたのを確認しましたよ。柄は白地に女の子と車や犬が藍一色で描かれている。多分、市販されていた浴衣用の布地だと思います。ちょっと年齢的にはありえないけれど、画面上の色彩的バランスとしては見事に調和していました。小津映画はどこをとっても完璧なコンポジション!