日本文学概論 第十一回 転換期の文学(2) 西欧文学との葛藤

十一、転換期の文学(2) 西欧文学との葛藤
一、文学における近代とは何か
 これまでのまとめ
?和歌の伝統が強靱である。
?和歌では師承が非常に重視されていた。
?散文では師弟関係がない
?韻文と散文が複雑に絡み合っている文学者がいる。
?コンパクトな形で文学のエッセンスを人々に提供する文学者が出現する。
アンソロジーとしては「和漢朗詠集」「小倉百人一首」、「徒然草」も?
近代文学の生成
正岡子規「歌詠みに与ふる書」万葉集や金塊和歌集を尊重する姿勢を
打ち出した。 
散文は、「小説」が中心となった。
韻文と散文の双方に通達する文学者 鴎外と漱石他に室生犀星佐藤春夫
上田敏 外国詩の翻訳詩集「海潮音
西欧文化流入と日本文学の翻訳
 レオンド・・ロニー(仏) 「詩歌撰葉」 万葉集百人一首、雑歌70編
 チェンバレン(英) 「日本口語文典」、アストン「日本文学史」、
 フローレンツ 日本文学史、ルヴォン「日本文学撰」など。
二、鴎外・漱石をどう捉えるか
森鴎外 1862〜1922 翻訳家、美術評論、批評家としての活動も多い。
啓蒙家の奥に冷徹な知力と高い詩的情熱をもつ文学者。医者でもある。
医師としてドイツに留学しドイツ文学の翻訳も多い。
和歌を愛し観潮桜歌会を主催。
 周辺には 与謝野鉄幹与謝野晶子斉藤茂吉、木下杢太郎
 小説「青年」、乃木希典の殉死を契機に「興津弥五郎右衛門の遺書」

漱石 1867 〜1916  小説の他に文学論や文学評論も残す。
   俳句を愛し、子規の親友でもあった。イギリス留学。
議論対談によって人生観・芸術観を深めるスタイル。
「和、漢、洋」の三層構造
弟子 芥川龍之介内田百輭など
小説「三四郎」 、乃木希典の殉死を契機に「こころ」を書く。
三上田敏をどう捉えるか
  上田敏 1874〜1916 翻訳詩集「海潮音
 イタリア、イギリス、ドイツ、フランスの二十九人の詩人の詩、五十七編を収録
 西欧詩人を日本に紹介した功績は大きい。翻訳は古典文学の語彙を使った。
 影響を受けた詩人は 北原白秋三木露風薄田泣菫(すすぎだきゅうきん)、
 日夏耿之介など。
以上

日本文化概論 第十一回 転換期の文学(2) 西欧文学との葛藤

十一、転換期の文学(2) 西欧文学との葛藤
一、文学における近代とは何か
 これまでのまとめ
?和歌の伝統が強靱である。
?和歌では師承が非常に重視されていた。
?散文では師弟関係がない
?韻文と散文が複雑に絡み合っている文学者がいる。
?コンパクトな形で文学のエッセンスを人々に提供する文学者が出現する。
アンソロジーとしては「和漢朗詠集」「小倉百人一首」、「徒然草」も?
近代文学の生成
正岡子規「歌詠みに与ふる書」万葉集や金塊和歌集を尊重する姿勢を
打ち出した。 
散文は、「小説」が中心となった。
韻文と散文の双方に通達する文学者 鴎外と漱石他に室生犀星佐藤春夫
上田敏 外国詩の翻訳詩集「海潮音
西欧文化流入と日本文学の翻訳
 レオンド・・ロニー(仏) 「詩歌撰葉」 万葉集百人一首、雑歌70編
 チェンバレン(英) 「日本口語文典」、アストン「日本文学史」、
 フローレンツ 日本文学史、ルヴォン「日本文学撰」など。
二、鴎外・漱石をどう捉えるか
森鴎外 1862〜1922 翻訳家、美術評論、批評家としての活動も多い。
啓蒙家の奥に冷徹な知力と高い詩的情熱をもつ文学者。医者でもある。
医師としてドイツに留学しドイツ文学の翻訳も多い。
和歌を愛し観潮桜歌会を主催。
 周辺には 与謝野鉄幹与謝野晶子斉藤茂吉、木下杢太郎
 小説「青年」、乃木希典の殉死を契機に「興津弥五郎右衛門の遺書」

漱石 1867 〜1916  小説の他に文学論や文学評論も残す。
   俳句を愛し、子規の親友でもあった。イギリス留学。
議論対談によって人生観・芸術観を深めるスタイル。
「和、漢、洋」の三層構造
弟子 芥川龍之介内田百輭など
小説「三四郎」 、乃木希典の殉死を契機に「こころ」を書く。
三上田敏をどう捉えるか
  上田敏 1874〜1916 翻訳詩集「海潮音
 イタリア、イギリス、ドイツ、フランスの二十九人の詩人の詩、五十七編を収録
 西欧詩人を日本に紹介した功績は大きい。翻訳は古典文学の語彙を使った。
 影響を受けた詩人は 北原白秋三木露風薄田泣菫(すすぎだきゅうきん)、
 日夏耿之介など。
以上

日本文学概論 第十回 香川景樹と橘守部  和歌から短歌へ

十、香川景樹と橘守部  和歌から短歌へ
一、江戸時代の後期に変ったこと。
 定家権威も批判されてくる。
 二、香川景樹の世界
   香川景樹 1768〜1843 歌人、歌学者
    著書「新学異見」 本居宣長「新学」への反論書 古今和歌集を評価
万葉語を意識的に使うこと自体が自然な歌の流儀と異なり、人為的な操作
に他ならない。と真淵の万葉集源実朝への賞賛を批判した。
近代短歌の子規などの和歌観と新学は近い関係である。
現代短歌のようにアララギを超えようとする動きと香川景樹の短歌論は
近似関係にある。
著書「土佐日記創建」 土佐日記の注釈書
自選歌集 「桂園一枝」 
 三、橘守部の世界
   橘守部 1781〜1849 独学で国学を修めた。 国学研究者
    歌学書「心の種」和歌の入門書
    注釈書「土佐日記舟の直路」 
       注釈のスタイルが、原文の< >の中に補う形で著わされている。
   橘守部の子孫は、歌人の家柄を形成し、全国の歌人の投稿を集めて
全国的な短歌会を組織した。

以上

日本文学概論 第九回 上田秋成と大田南畝

九、上田秋成大田南畝
 一、二人の交友
上田秋成 1734〜1809 大阪在住 
太田南畝 1749〜1823  江戸在住 幕臣
 大田南畝の出張の折に、大阪や京都で3回会う。
二人の共通点
 ?韻文と散文の双方に通じていた。
 ?書籍の発行に熱心であった。
 ?幅広い分野の人々と交流した。 
    秋成 煎茶道「清風瑱言」。南畝「浮世絵考証」
二、和文の規範と変遷
伴高谿(ばんこうけい)  国学者 「国文世々の跡」
和文の研究書。 「大井川行幸歌」「春は曙・・」「藤川の記」などの
序文を取り上げている。
平安時代の中古体が良いという文章感を著わしている。
思ったことをぎっしりと詰め込まないで表現するのが良い。
三、上田秋成の文学世界
 怪異小説の原点「雨月物語」。 
 歌文集「藤蔓冊子」 (つづらぶみ)
その第四巻 「十雨言」 四季の雨
春雨物語」 歴史物語、歌論、激動の小説など。 空言で真実を知らせる
という文学館が現れている。
四、太田南畝の文学
 狂歌、洒落本 別名 蜀山人、四方赤良、寝惚先生。
 「四方のあか」古典の典拠を次々に取り出しながらスピード感ある文章。
「鎌倉の海より出でし初鰹 皆武蔵野のはらにこそ入れ」
狂歌百人一首
   秋の田のかりほの庵の歌がるたとりぞこなつて雪は降りつつ
        【本歌】秋の田のかりほの盧の苫をあらみ我が衣手は露にぬれつつ
                               天智天皇
        【解説】天智天皇と15光孝天皇の取り札を間違えたのです。この二首、            下句は「わかころもてはつゆにぬれつつ」「わかころもてに
            ゆきはふりつつ」と良く似ていて、競技者泣かせ。
他にこのリンクを参照。 http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/100i/kyouka100i.htm

以上

日本文学概論 第八回 松尾芭蕉  生き方としての文学

八、松尾芭蕉  生き方としての文学
一、文学と人生
勅撰和歌集の終焉 「新続古今和歌集」1439
連歌について
 連歌の形式 -- 付合、五七五 上の句 、別の人が 七七 下の句 --
室町時代 最初の連歌集「菟玖波集」1356 二条良基、救済 準勅撰となる
      「新撰菟玖波集」1495  宗祇と猪苗代兼載が編纂
複数の人間による付合という形式だが内容は和歌的で連続性がある。
俳諧の誕生
 初期の俳諧 滑稽とか卑俗性があったが、これを乗り越えたのが芭蕉

芭蕉の人生と文学
  定住と漂白の交代人生。
辞世の句   "旅にやんで夢は枯野を駆け巡る"
   西行との対比
季節    テーマ 形式
西行  花の盛り   花と月     歌詠み
芭蕉  冬の枯野  人生と文学   詩と散文
芭蕉は、宗匠で散文家で教師
詩と散文の並立、圧縮、新概念の提示をはたした文学者
笈の小文」での開眼
西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、
利休が茶における、その貫道するものは一なり。
文学活動が生活中心であり、文学活動が生活を支えるという存在は
日本の中に文学者を許容する文化的な成熟があった。
過去の文学の系譜を強く意識している。
紀氏、長明、阿仏の尼。。
二、芭蕉七部集の世界
1684 「冬の日」 尾張俳人 歌仙五巻
1688 「春の日」 尾張俳人 歌仙三巻 発句 五八句 
1689 「曠野」 歌仙十巻 発句 七三五句
1690 「ひさご」 近江の俳人 歌仙五巻
1692 「猿蓑」  歌仙四巻 発句 三八二句
1994 「炭俵」  歌仙七巻 発句 二五八句
     1698 「続猿蓑」  歌仙五巻 発句五一九句  
三、芭蕉のおける詩と散文
      韻文と散文の関係
和歌は散文で説明できるし、散文は和歌に詠み替えて歌うことも可能
生き方としての「おくのほそ道」
作品の中に自らの人生の真実を解き放つ文学者であった。
 方丈記鴨長明芭蕉もそうであった。
 「おくのほそ道」冒頭
"月日は百代の過客にして、行き交う年ももまた旅人なり。
船の上に生涯を浮かべ、馬の口捕らへて老いを迎ふる者は
 日々旅にして、旅を住処とす。 "

日本文学概論 第七回 転換期の文学(1) その継承と変容

七、転換期の文学(1) その継承と変容 一、文学の継承
今川了俊 1326〜1414 武将であり歌人
冷泉為秀に和歌を学ぶ
「了俊弁要抄」 歌道教訓書
「了俊歌学書」、「落書露顕」  兼好の晩年の事が書いてある
正徹 1381〜1459 歌人
歌論書「正徹物語」 定家に心酔していた。
 弟子は 心敬と東常縁 1401 〜1484
この心敬から連歌、常縁から和歌を学んだのが宗祇
古今伝授の系譜
       定家--為家--為世--頓阿--経賢--堯尋--堯孝--東常縁---宗祇---
       -----三条西実隆--三条西公条----実枝---細川幽斎----松永貞徳----北村季吟
|---宮智仁親王
宗祇 1421〜1502
一条兼良から伊勢や源氏などの古典や有職故実を学ぶ
 「雨夜談笑」 源氏物語注釈書
三条西実隆 1455〜1537
歌集 「雪玉集」、「細流抄」源氏物語注釈書
三条西公条 1487〜1563 「明星抄」源氏物語注釈書
三条実枝  1511〜1579 「山下水」源氏物語注釈書

二、文学者たちの変容
茶道、華道、香道、能などの芸能にも文学が取り入れられた。
琳派の美術にも王朝物語の一部を取り込んだ

細川幽斎 1534〜1610 武家歌人  
家集「衆妙集」、紀行文「九州道の記」、
伊勢物語闋疑集」伊勢物語注釈書
中院通勝
「眠江入楚」 源氏物語 注釈書
三、中世から近世へ
松永貞徳 1571〜1653
仕官せず古典文学を庶民に広げる役割を果たした。
 「戴恩録」 
北村季吟 1624〜1705  66歳になって江戸に出て幕府に仕官をした。
         老中の柳沢吉保と親密な関係となり六義園を造営させ、和歌の
         理想を実現した。政治と文学を繋げた役割をはたす。
       「源氏物語湖月抄」
「増山井」 俳諧の季題解説書 有職故実にも通じていた。
文学が大きく変る時 
文学の担い手が貴族階級から武士や町人まで広がった。
以上

日本文学概論 第六回 兼好と頓阿 散文と和歌の再構築

六、兼好と頓阿 散文と和歌の再構築
 一、文学再構築
定家 文学のシステムを作った 本歌取り小倉百人一首
頓阿 このシステムを補強・修正しながら「誰でも詠める和歌の詠み方」を創案   した。
兼好 「誰でも書ける散文の書き方」を創出した。

二、兼好の散文
徒然草の画期性 
? さまざまな話題や内容を転換しながら短いサイクルで書き連ねる文学形態を確  立した。
? 書かれている内容に応じて文体も漢文調,和文など多様である.。
? 真摯なもの、ユーモラスなもの、哀感に満ちたものなど表現の幅が大きい。
 後世の人は簡潔でわかりやすい文章を書く方法を手に入れた。
例 佐藤直方 江戸時代前期
「しののめ」 徒然草の抜き書き。 
  人間の心を問題として章を中心に抜粋
脇蘭室 江戸時代後期
「歳蘭漫語」の「見し世の人の記」 

三、歌人・歌学者としての頓阿
 頓阿 俗名 二階堂貞宗  武士の出身
  二条為世を師匠として和歌を学ぶ。
  二条派が断絶したあと、頓阿の子孫が古今の伝統を受け継ぐ。
   頓阿----経賢-----堯尋------堯行 家系は和歌の家柄となる。
  頓阿の歌学
   歌論書 「井蛙抄」、「愚問賢注」
   和歌集 「草庵集」「続草庵集」
    山里は訪はれし庭も跡絶えて 散り敷く花に春風ぞ吹く
    秋の夜は誰待ち恋ひて 大伴の御津の泊りに衣擣つらん
朽ち残る蘆間の小舟いつまでか 障るに託つ契りなりなん
今は世に亡しとも聞かば思い知れ これを限りに恨みけりとは
思へただ常なき風に誘われし 嘆きの下は言の葉も無し

草庵集の影響力
本居宣長 「草庵集玉箒」注釈書
「草庵和歌集類題」 類型性が必要だった。
近代和歌の自分の心情を詠むという流れでは忘れられた存在と
なっていった。

兼好と頓阿は、相互補完的存在として位置づけられる。
そして散文と和歌の普遍化が近世になって浸透して日本文学を
豊かで開かれたものにした。
以上

日本文学概論 第五回 藤原定家 本歌取り文化圏の成立

五、藤原定家 本歌取り文化圏の成立 文学史上最高の批評家
一、業績
 歌人 「新古今和歌集」の選者、「新勅撰和歌集」の単独選者
自選集「拾遺愚草」
歌学者 「近代秀歌」、「詠歌之大概」、「毎月抄」 有心体
物語作者 「松浦宮物語」 万葉集の風情があると「無名草子」に批評される
    「無名草子」を詠むこと。
日本文学を窯変させた。
 源氏物語の本文校訂 「青表紙本」
 小倉百人一首 
二、本歌取り文化圏の成立
過去の歌の世界を何層も重ねる。
 例
 "大空は梅の匂ひに霞みつつ 曇りも果てぬ春の夜の月
  ?大江千里の歌
  「照りもせず曇りも果てぬ春の夜の 朧月夜に如くものぞなき」
 ?漢詩「明らかならず暗からず朧たる月」
?源氏物語 花宴巻 朧月夜の君が千里の歌を口ずさむ
        四層の文学空間を構成している。 
本歌取りという新システムが広く普及できて和歌の存在感を増した。
 夢の浮橋の歌 新古今和歌集 にも入る。
 "春の夜の夢の浮橋途絶えして 峰に別るる横雲の空" 定家
三、小倉百人一首の文化的意義
 暗唱に適し、初心者たちの手本となる歌を一人一首百首集めたところ。
  定家の後継者
   正徹 「正徹物語」 三島由紀夫短編「世々に残さん」
 

日本文学概論 第三回 三、藤原公任 傑出したアンソロジスト

三、藤原公任 傑出したアンソロジスト
  一、公任の略歴と著作
 父は藤原頼道、四条大納言、道長全盛で官位滞った
一条天皇に仕えた。
  著書 「和漢朗詠集」  上下二巻からなる選集
  上巻 四季順に漢詩と和歌を並べて配置した。
   漢詩白居易が六割、
   文学を志す人は「和漢朗詠集」の名句、名歌を暗記した。
  影響 「感詠一貫」 佐藤元長 著 
森鴎外が漢学を学んだ
二、公任の歌論書
新撰髄脳」 
 和歌の構造と形式、すぐれた和歌は「心と姿」
 簡潔・明晰で論理性のある文章。
 少しの字余は許容されること、「心深く姿清げに」が歌の理想。

三、有職故実の書として「北山抄」を纏めている。
                         以上