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Close to the Wall

2020-01-01

2016-11-12

[]『後藤明生コレクション』(国書刊行会)刊行記念、いとうせいこう × 奥泉光 × 島田雅彦 × 渡部直己トークイベント

いとうせいこう × 奥泉光 × 島田雅彦 × 渡部直己トークイベント | 青山ブックセンター

もう先週になってしまうけれど、表題の後藤明生トークショーに行ってきた。コレクション編集委員が集まる貴重な機会ということで、それはもう即座に予約した。二代目後藤明生襲名したいとうせいこう、『挾み撃ち』を扱った文芸漫談コンビの相方奥泉光と、後藤が入れなかった外語大の露文出身の島田雅彦、既にいくつも後藤論を書いている渡部直己のこの四氏は後藤が学長を務めた近畿大学文芸学部のつながりでもある。

90分にわたるトークショーの内容は非常に興味深いものだった。蓮實重彦の後藤論がやはり大きな影響を持っており、しかし後藤本人は最初は何が書いてあるのかわからなかったと平岡篤頼に言っていたということを島田氏がばらしてみたり、カフカを最も理解していた日本の小説家安部公房でも倉橋由美子でもなく、後藤明生だ、という渡部氏の持論は、以前後藤論でも書いていた。

散文と情緒

トークショーでの後藤観で核心にあったのは、後藤明生隠喩的ではなく、換喩的な散文性をもち、小説から詩を放逐した、というものだ。後藤は散文にこだわり、普通は走った方が楽で早いのに、競歩のように(これは誰の比喩だったか)抑制を効かせてポエジー、情緒、叙情に流れない。しかし、ここぞというところでエレジーを歌っているところがある、とその印象についても語っている。『挾み撃ち』では敗戦時の朝鮮レコードを歌いながら割るところとか。

そして、この後藤観において、中期の回想と私小説性の強い時期を『思い川』問題として批判的に取り上げる構図があったことが興味深い。渡部氏にその時期への論及が少ないのはそういうことかと得心した。後藤論を書きつつある身としては言いたいことも多く、特に後藤の引揚げをめぐる原稿を書いている私としては、『思い川』、『夢かたり』等の引揚げ三部作といった中期を軽視する訳にはいかないので、ここら辺鋭く対立する感じになるようだ。

別の対立点としては、後藤のポエジー排除、というのは実は後藤自身結構ウェットだからではないかと私は思うところだ。若い頃詩を書いていたことや、『挾み撃ち』等に顕著な先行文学者への敬意と憧れ、その情緒性を自ら転倒させるところに後藤の屈折、つまり方法があるのではないかと思っている。大杉重男が後藤はロマンチストだといい、種村季弘が後藤はロマン派文学者に逆接している、と指摘したように。

非常に言いたいことは多かったし、ここではやはり挙手すべきだと迷った末に手を挙げて、最後に、私小説的な中期の後藤は父=朝鮮の問題をずっと書いていて、それがこの時期の重要なテーマで、そしてそれは『壁の中』までつづく問題だというようなことをどう考えられるかと質問したけれども、父と子の問題というベタなテーマに回収してしまうのはダメじゃないか、との返答を頂き、それはその通りだと思います。あ、でもその問題は今気づきました、と答えてくれたのはいとうさんか奥泉さんどちらでしたっけ?

じっさい後藤の70年代はほぼ父のことを語っていたわけで、そのテーマをどう描いているかの分析は必要だと思う。それは「未来」の連載で、学生時代のデビュー作「赤と黒の記憶」自体が、後年の記述を見るに、父の死と相即的に書かれている、と指摘したように、以後もこの線で続ける予定なので、結局私の原稿を読んでくれ、というところに落ち着くけれど。宣伝です。朝鮮に対する屈折した態度は私の後藤論の中核部分でもあるので。

『夢かたり』とか感動的な場面も多く、その情緒性はさくっと切り上げられるけど、その切り方がなんか、良いわけです。「鞍馬天狗」なんか普通の意味で感動的な作品ですよ。『挾み撃ち』のレコードの場面は後藤作品でもっとも切実な調子があり、だからこその代表作でもあるわけで。その情感の由来はどこか、といえばやはり朝鮮=敗戦=引揚げ体験という屈折にある。まあたぶん私は「小説」よりも「後藤明生」を読もうとしている、感はある。

今回編集するさい初めて読んだ作品も多かった、と発言があったのは、なるほどと。私はまあだいたい(小説の単著ならすべて一度は)読んだことがあるので、作家の全体像について結構な食い違いがある。聞いていて事実誤認や注釈を入れたいと何度も思ったこともあり、この点、出発点がオタク的な私と編集委員の四氏とではそうとう見方が違うとは思った。

気がついたのは、渡部氏は表現しながらもずらした、ということに重点を置くけど、私は、ずらしながらも書かなければならなかった、という風に重点を置く読み方をしていることだ。後藤はこれまでずっと方法的に読まれてきたけれど、もっと愚鈍に具体的に何が書かれているか、を読むことも必要だと思った。

事実関係について

トークの内容についていくつか事実関係の指摘をしておきたい。初期は一人称ばかり、と発言があったけれど、コレクション第二巻は「男」という三人称の作品がいくつも収録予定になっている。これについては後藤自身、『疑問符で終る話』後書きで「私」と「男」の使い分けをしていることを記しているので、おろそかにできない。二巻編集担当の島田さんが来る前の発言だったけれど、いたら訂正されたのではと思う。単行本『書かれない報告』収録作はすべて「男」だ。

また確か、首塚、しんとくあたりで部屋から出歩くようになる、的な発言があったけれど、最も外に出た韓国紀行小説『使者連作』が見落とされている。というか、部屋から出ないような団地ものも確かにあるけれど、後藤の小説って多くが旅行したり人を訪ねたり出歩いたりしたことを書いていて、歩くことは重要なのに、忘れられたのは何故だろうか。『挾み撃ち』は歩く小説だ。

あと、中期を批判的に語る流れでその頃にはロシア文学のろの字もない、とあったけれど『夢かたり』の表題作及び連作の一篇「片恋」は、ともにツルゲーネフ二葉亭四迷訳から来ていることは作中にも書いてある。猫小説『めぐり逢い』のタイトルも、おそらく四迷訳ツルゲーネフ「奇遇」の別題「めぐりあひ」からだろう。で、『思い川』のタイトルが笑い混じりにいかにも私小説的、と言われたけれど、これは宇野浩二が由来だと後藤自身が書いていて、さらにその引用元和歌にあることを以下の論文が指摘している(このPDFは数ページ脱落していることに注意)。まあ引用の引用だとしてタイトルが和風情緒なのはその通りで、だからこその『思い川』は後生には小説ではなく随筆のジャンルに入れて欲しい、と後藤自身が語った訳だけれど(「現点」のインタビュー)。

近畿大学学術情報リポジトリ

あひゞき/片恋/奇遇 (岩波文庫 緑 7-3)

あひゞき/片恋/奇遇 (岩波文庫 緑 7-3)

なにぶんオタクだから、こういう些細な事実の指摘にこだわる。

打ち上げで

倉数茂さんに連れられて、渡部直己さんに一言挨拶し、拙稿の載った「未来」をお渡ししたのだけれど、果たして読んでもらえるかは不明だ。さっき質問した人で、とは紹介されたけれど、まあ明らかに渡部さん的には無視か批判されそうな論だとは思っている。

また打ち上げにも参加させてもらいまして、偶然にも後藤明生夫人暁子さんの隣に座ったので、いろいろと貴重な話を伺いました。もう片方が中沢忠之さんで、いろいろ話が出来てよかったです。正面に石川義正さんがいて、私のブログを読んでいたと言われ、何故、と。連載すると聞いてびっくりした、というので、それ以前から読んでくれていたことになるけれど、電書あわせで後藤明生再読記事を書いていたからだろうか。またしばしば岡和田さんの話で盛り上がる。倉数さんと知り合ったのは岡和田さんの『北の想像力』以来なので。編集委員の方たちは編集会議ということで別席だったので話す機会はなかった。

いくつか隠し球を持って行っていたのだけれど、その一つが暁子さんが明生の癖について語った、四十年くらい前のエッセイ。これは暁子さんにごらんいただき、なんでこんなものを!という反応をいただけました。もう一つは「犀」に載ってたおそらく単行本未収録エッセイで、これらはわりと満足してもらえたと思います。あと、倉数さんや同じく編集協力している江南亜美子さんを驚かせたヤツがあったけれどこれは秘密で。

そうして話しながら、私のサイトの創作年譜の話題になった。あの年譜は、論考を書くにあたって後藤の小説を全部時系列順にリストアップし、時間的先後を確認しながら順々に読んでいくために作ったもので、これは鶴田知也についても作っており、作家論を書くときにまずはじめに着手する作業なんだけれど、周囲の人たちは誰一人そうしてる人はいない、と言われてちょっと驚いた。好きな作家がいたら、まず全部読もうとする、という行動、これオタクだからか、と納得した。まあ全部読まないにしても、全体を見てこういう作品がある、ということはとりあえずチェックするので。

いや、何にしてもものすごく楽しかったですね、はい。もっとも後藤明生で盛り上がっていた場だったと思うし、そこに自分も参加できたというのが嬉しかったですね。今なら後藤についてはいくらか詳しいので、話にがんがん突っ込んでいけるわけで。

後藤明生コレクション解説等へのコメントを連投したので以下のツイートをクリックしてください。

[]笙野頼子 - 人喰いの国

文芸 2016年 11 月号 [雑誌]

文芸 2016年 11 月号 [雑誌]

文藝2016年冬号に掲載された笙野頼子による「ひょうすべ」連作第五作。「ひょうすべの嫁」「ひょうすべの菓子」「ひょうすべの約束」「おばあちゃんのシラバス」と続いた四年越しの連作はこれで完結し、今月末には単行本が予定されている。

笙野頼子 - ひょうすべ連作とトン子 - Close to the Wall
笙野頼子「ひょうすべの約束」「おばあちゃんのシラバス」その他 - Close to the Wall

↓こちらでは強烈な作者コメントその他の情報をまとめてあるのでご参照。

笙野頼子資料室blog: 「文藝」2016年冬号に中編「人喰いの国」

女性や弱者を虐殺する権力の構造をえぐる基本軸は変わらないけれども、食べ物に混ぜられた粉がひょうすべの子を産む、という描写をもつ最初の二篇ほどは原発事故以後の日本に重点が置かれていたのが、四年を経てTPPという「約束」が大きな問題として現われている。TPP批准(まさに今現在のこと)後の医療農業が崩壊したあとの日本を、だいにっほんシリーズや『水晶内制度』のウラミズモとも関係させ、グロテスクな世界像を描き出す笙野未来史とでもいうべき作品群を構成するようになっている。

連作の概要としては以前の記事を参照してもらいたい。下との約束は破ってもいいとか、「新たな価値判断」で公約反故にするとか、先行き不安で年寄りは金を使えず、若者は正社員になれず、マスコミは世界企業の奴隷となり「ひょうすべ」を撃つことはできなくなり、世代対立を煽るばかりで、妊婦は狙われ、子供は生まれなくなった、という日本の現状への批判とともに、投資家という人喰いのために国家が組み換えられた状況を描いていく。

そのなかで生きていく埴輪詩歌の生涯がこの連作の中心になっており、今作では祖母が死に、父は少女遊郭に入り浸った挙げ句そこで殺されたようだけれど「失踪」扱いとなっており、母親も「ひょうすべ以前なら生きられたガンで」死ぬ。その彼女が出会ったのが「火星人落語」という火星人地球で受けた酷い扱いを批評性を抑えて淡々と語る、という芸能のトップの埴輪木綿造だった。

詩歌には人工授精でできた男児木綿助がおり、そして木綿造との間にはいぶきが生まれた。みたこ教団に入れ込む木綿助の存在、そして一家の「だいにっほんシリーズの通り」のその後など、だいにっほんシリーズへのあいだをつなぐものとなっている。

終盤のウラミズモ首相候補からの手紙にある、ストーカーによって従姉妹を殺されたことによって、「予防国家」構想を語る下りが興味深い。リゾーム国体を構成し、ヘイトスピーチを戦争煽動として扱い国家反逆予防罪により殲滅し、さまざまな犯罪を予防、そしてウラミズモの「男性保護法」は「男性犯罪予防法」でもあると語るこの国家構想、予防拘禁の原理を政策の中心に置いたきわめて不穏なものだ。ディストピア性とユートピア性がないまぜになったウラミズモらしい方針でもある。

しかし、詩歌の元に届いた手紙の意味やウラミズモの占領、について、これがどういう意味を持つのか、今ひとつわからないのはだいにっほんシリーズを忘れているからか、それとも単行本で続きが描かれるからか。『水晶内制度』やだいにっほんシリーズと、ひょうすべ連作のつながりがどうなっているのかいまいち理解し切れていない。単行本でまとめて読んでからか。しかし、シリーズ全部関係してくるとなると、そこまで含めた再読できる時間はないなあ。

単行本の目次を見ると、第一章と第五章が書き下ろしなのか、見たことのない章題となっている。第五章は「埴輪家の遺産」と題されており、今作の続きになっているようだ。

個人的な余談

で、このウラミズモという国家は男性を拘禁し保護の名の下に管理しているという設定があり、ウラミズモの産業のひとつは、少女の身体データの輸出だったはずだ。読んでいて思うのは、ある種の美少女フィクションとウラミズモがきわめて相似形になっていることだ。近年の漫画アニメでは説明もなしにまったく男性が出てこない作品があり、アイドルものにしろバトルものにしろ、女性が女性同士で交流したり競争したり戦闘したりするものが多々ある。女性がさまざまな趣味、仕事で活動するさまを描く作品も相当増えた。これがある種、少女の消費として批判される傾向を持つことは否定しないけれども、同時に男社会の解体でもあることも否定できないと思う。たとえば去年「ヴァルキリードライブ・マーメイド」というアニメがあったけれども、これは露わなレズビアニズムがポルノ表象とともに描かれた作品で、同じプロデューサーの以前の作品では男性が中心にあったゲーム的人物配置が消えて、もっぱら女性だけの社会が描かれていた*1。ウラミズモという国家の存在は、原発を中心に置き、ポルノを輸出しつつ女権国家を維持するというものだったけれど、たとえば美少女アニメが作中では男性を排除しつつ女性同士が主体的に行動し、交流する関係を描き、作品外ではそれを性的に見る目線で受容される、という構図によって成立しているのとそっくりに見えるわけだ。作中で原発が「フィクション」とされていることは、この点きわめて示唆的。

そして、自称萌えオタクとしては、萌え文化が非常に一方的に男性による女性への暴力として戯画化されているのは気になる。美少女を描く、というときに持ち込まれるセクシズム的コード、表象、展開にまみれているというのは否定できないとして、と同時にもちろんそれだけではないのはこのブログでも書いてきたと思う。女性作家によるセーラームーン等の戦う女性表象をはじめジェンダーロールの攪乱をさまざまに描いてきたのも、そうした作品ではなかったかと思うからだ。そもそも漫画アニメ的美少女表象は、結構な割合で少女漫画文脈に影響されていると思うし、エロ漫画エロゲー等のポルノそのもののジャンルにおいても女性作家はかなりの割合で存在するのはよく知られている。それは名誉男性として排除して良いとは思わない。昔知り合いの女性が百合BLエロゲー等々まで嗜んでいたので、安易な男女二元論で考えられるとも思わない。百合BLともども女性によって担われてきたジャンルだったわけだし、女性をエロティックに描く女性とそれを受容する女性の存在を無視して良いとは思わない。作品と受容には一見不可解な関係性がある。男性中心のハーレムものと、少女だけが登場するものとで、たとえば男性視聴者読者の受容は違うのか、同じなのか、それすら簡単には言えない。さまざまな欲望にあふれたキッチュポップカルチャーだからこそ、面白いというところがある。

たとえば「リョナ」が今作では女性を虐待する直接的暴力とイコールで使われているけれど、じっさいの愛好者の受容はかなり複雑なものを含んでいるというのは以下の発言からもよくわかる。暴力表現を読む時、時折これは作者の被虐願望ではないか、と思うときは時々ある。

yaya2さんのツイート: "あと、性虐待表現についてずっと思っていたこと、長くなるので別ツリーで。"

今作のような描写に一端の正しさを認めつつ、萌え文化愛好者の一端としてのこうしたアンビバレントな違和感も同時に持ちながら読んでいくことになる、というのはタコグルメの感想の時にも書いたような気はする。翌日追記――しかし、死体人形愛好者たちの「幻視建国」を描いた『硝子生命論』があるように、あるいはホラー漫画を愛好していたことをエッセイで書いていたはずでもあり、作者がマイノリティ趣味に無理解だというわけでもないことは書いておく。

しかし笙野頼子は以前からネットスラングをよくよく多用する作家だけれど、最近は2ch用語より、ツイッターぽいスラングが多いような。というか、取材している言説がわりとツイッターぽくて、ツイッターROM民感がある。「リョナ」はちょっと違うけど、「バブみ」や「ケチみと攻撃み、嫌みとすけべみ」という「み」用法はツイッター由来だろうし、美少女兵が政治家を守らされている状況で「提督」という言葉が出てくるのはまあ艦これで、ただ政治家ではなく美少女兵が「提督」と呼ばれているのはなぜかよくわからなかった。提督はプレイヤーを指した言葉のはずだけれども。と思うと、「馬鹿なの? 死ぬの?」ってこれは割合古いネットスラングだったり。

文藝」は笙野頼子さんにご恵贈いただきました。ありがとうございます。

事実誤認の箇所を削除し、一部追記した。

*1:その社会が閉鎖された島で実験施設だったとか、男装の女性が中心にいたとかいろいろ設定はあるけれども

2016-10-08

[]「放課後のプレアデス Blu-ray BOX発売記念&ファン感謝ナイト」のメモ

私が見た時は50秒、ツイッターによれば30秒でチケットが完売したイベント(私は数十分後のキャンセル分狙いで取れた)、放課後のプレアデスファン感謝ナイトに行ってきた。ロフトプラスワンは十年くらい前に一度来たことがあるくらいで、完全に場所も忘れていた。

機材トラブルで開場が遅れたとのことで、入れたのは六時半過ぎていたと思う。

始まってみると七時スタートで十時四十分くらいで終了とかなりのもりだくさんな内容だったし、10人を超える登壇者もまだまだ喋れそうで、他にも何人にも参加の声をかけていたという、どれだけの長時間イベントにするつもりだというほどのアツいイベントだった。

放課後のプレアデス / SUBARU x GAINAX Animation Project:Blu-ray BOX発売記念&ファン感謝ナイト

安室氏は当日来られず、このリストとは幾つか異同がある。最終的に登壇してたのは12人とかだったはず。

プレアデスイベント内容起こし - micromillion's log

全体の流れはこちらの記事を見て頂ければ。それ以外の気づいた点や個人の感想などを以下。


司会はつかやんことワーナーの宣伝担当塚本氏が担当し、登壇者はそれぞれ企画立ち上げにかかわった各企業の宣伝、企画、プロデュースの面々と、監督脚本声優といった制作スタッフ、そして最後に天文学の監修をした人たちにわけられる。アニメ制作にまつわるさまざまなレイヤーの人たちが一堂に会する非常に珍しいイベントだと思う。

普通アニメイベントと言えば、声優をメインに据えたショーのようなものか、あるいは制作スタッフをまじえたトークショーといったものだと思っていたので、登壇者の発表ではかなり驚いた。プレアデス以外のアニメイベントに参加したことはないので、どれほど珍しいかはわからないとしても、あまり聞かない陣容で、企画の裏側といった業界話に近いトークも多かったのは、ロフトプラスワンという場所柄もあってのことだろうか。

プレアデスの企画の発端はそもそもネットの記事でも知られているように、アイサイトの販促だった。キャラクターを使ったネット、SNSを介したプロモーションだったようだけれど、それがいつのまにかアニメになり、クオリティ重視の流れがはじまり、youtube版「放課後のプレアデス」へと繋がっていく流れが多くのスタッフの裏話からたどることができ、非常に面白い。

プレゼンや企画会議に提出した資料そのものが紹介されたり(たぶんここらへんがネットに出せないやつ。ガイナックスを選んだときの本音トークとか)、資料にあったアイサイトキャラクタのセリフは、お前がそれ言っちゃダメだろみたいなネタまみれのもので、かなり笑った。

佐伯監督が最初に出してきた案で、富士重工の前身中島飛行機のエンジン名をキャラ名にしようとして出してきたリストが表示されたりしていた。栄(さかえ)とか光(ひかり)とかあって、ひかる、はここから来てるのかな。

タイトル決めについては、ガイナックススバルのプロジェクトだから、ガイナックス以外の人の意見もいれたいというものだったかと。このタイトルを決めた矢崎さんはいまはコピーライターなどをしているらしく、自分のその仕事の第一号だ、といっていた。

youtube版から次の展開を仕込んでいるところで震災に遭い、停滞してしまったという話もあった。ここ、劇場版にする展開について触れられていたけれど、確かネットの記事で劇場版を作ることが一端告知されていたはず。年表にはなかったけれど。

音響制作さんが台本を持ってきていて、普通は現場では赤線程度の修正なのに、別紙を貼り付けるほどの修正があったということを言っていた。確か最終話の最後のすばるの語り部分だったかな。壇上でバリッと剥がしてみたりしてた。エンジン音を音録りするとき、相当の雨でこれ、雨音拾ってしまう、というエピソードも。

脚本作業では、佐伯監督が詩人で、浦畑さんが学者で、森さんが舵取りになっていたという話が面白かった。やはり佐伯監督は詩情の人だな、と。四話「ソの夢」では、あの子供が親の仕事に勝手に書き加えてしまう、というのは新聞か何かにあった画家のエピソードを元にしている、という。

最後に三十億年前に行って、という展開は劇場版を想定したプロット段階で予定されていたことで、ラストはここに落とし込むことがTV版でも決まっていたという話。

最後の国立天文台の人とかも交えた話、Febriでインタビューでの話といくらか被るけれども、新しい映像や話もあった。探査機カッシーニ2017年土星に突入して運用を終わらせるから、そのときに面白いデータがとれるかも知れない、という話など。

BDが売れれば、続篇もありうる、という話を企画の人たちが言っていて、単巻の倍売れれば、といっていたけど、ボックスってそこまで売れるものなんだろうか。難しそうだ。なので、帰ってからまだ予約していなかったボックス、2万程度で買えるらしかったので予約しておいた。単巻控えていた人も買おうね。

イベント、BD発売に合わせたものをすでにロフトプラスワンで場所を取っているらしく、次回また会いましょう、と締められた。12月は忙しいのでさすがにこの時間終わりだと厳しそうだなあ。行けるかな、あるいは取れるかな。

まだ仕込んでいることもあるそう。そういえば監督が書くという小説は、かなり前のニコ生時点でかなりの長さになっている、という話があったから、BD特典の外伝小説だけで終わるとは思わないのだけれど、どうなっているのだろうか。

企画担当の人の話が多くて、裏方の実情を垣間見ることができ、なんか学生の人とかに見てもらえたらよかったような内容でもあった。

さいご、高森奈津美さんに(客席中の)写真を撮られる、という得がたい経験をした。あと、たぶん臨時に用意されたイスだったからか、三時間以上座れるイスではなかった。すげえ尻が痛くなった。

2016-09-30

季刊「未来」の後藤明生第一回「〈異邦人〉の帰還」についての補記

「未来」2016年秋号(No. 585) - |未來社

未来連載第一回が始まりました。今回は全体のイントロダクションと、「赤と黒の記憶」、「歩兵中尉の息子」を扱っています。時系列からすると変ですけれど、本文で書いたとおりこれはこの二作が表裏一体だからです。

全体的な注記として、今回の連載は元々四章構成で書いたものを、紙幅の事情で六分割したものですので、ちょっと区切りが妙なところもあるかと思います。「〈異邦人〉の帰還」という章なのに、後藤の「異邦人」に触れるのが次回なのは、そういった事情からです。

それもあり紙面に収めるために結構削っているので、出典注ともとは注釈で触れていたところなどいくつかここで補足しておきたいと思います。元はほぼすべての引用に注釈を入れてページ数等を指示してあったのですけれど、さすがに煩瑣なので原稿ではわかるところは削っています。

引用出典

まず、エピグラフサイードの引用は、エドワード・W・サイード『故国喪失についての省察1』みすず書房、二〇〇六年、一八五頁。

28頁、五木寛之二つ目の引用は、文春文庫『深夜の自画像』41頁。

29頁の引用は、乾口達司「後藤明生と「敗戦体験」」、「近畿大学日本語・日本文学」二号、二〇〇〇年三月、六二頁。

「赤と黒の記憶」の「それが、戦争中を不自由と感ずる」以下の一文は『関係』、皆美社、一九七一年、一一九頁。

三つ目のインタビューは、「現点」一九八七年春七号の一三頁からです。これは後藤明生のロングインタビューが載っている後藤明生特集号。

30頁の「歩兵中尉の息子」からの引用は、『私的生活』新潮社、一九七二年、五三頁から。

ネットで読める文献があります。以下は拙稿のベースになっているものでもありますので、是非参照ください。

乾口達司「後藤明生と「敗戦体験」

「立命館言語文化研究」二四巻四号

補足

五木寛之の文章は新聞初出から引用している論文がいくつかあったと思うのですけれど、拙稿では文庫本から持ってきています。初出と単行本以降ではかなり改稿されているからです。初出の毎日新聞(六九年一月二十一日、二十二日ともに夕刊掲載「長い旅の始まり――外地引揚派の発想(上・下)」)でのものとの異同は、「外地引揚派」が「外地引揚者」と改題され、〈原体験〉というキーワードがすべて「その体験」などと置き換えられたことです。また、本文で引用したうち〈異邦人〉以下の一文は、初出にはありません。二つ目に引用した、「つまり、引揚げを素材とした作品をなにひとつ書かぬとしても」という一文も新聞初出にはない文章です。

この、「外地引揚派」から「外地引揚者」という改題はなかなか興味深いです。なぜ変わったかの傍証として、同じく引揚者の日野啓三との対談で五木は後藤明生が引揚派として括られることに反対したと話をしています(「異邦人感覚と文学」「文學界」一九七五年四月号、一九〇頁)。六九年の新聞での発表から七四年の単行本収録にあたり、「引揚派」を「引揚者」とした改稿を行った理由はここにある可能性があります。

なお、「赤と黒の記憶」で言及されている、東京の焼け跡に自由を感じた、という文章は野間宏のものらしいのですけれど出典はわからず。

また、「赤と黒の記憶」について、選考会で川端康成が高く評価しています。川端はなぜ候補のなかで一等の評価をしたかは詳しくは明らかにしていません。物心つく前に両親を亡くし、少年期に親族の葬儀に何度も参列した経験からでしょうか。ただ、共感だけで高評するとも思えないので、まあ邪推でしかありませんけれど。

末尾で挙げた在日朝鮮人文学者のなかで金鶴泳だけに「きんかくえい」と日本語のルビを振っているのは、金自身がエッセイ(河出書房新社の新鋭作家叢書『金鶴泳集』所収「一匹の羊」より)でそう書いているので、ここでは著者自身の意思に従っています。

また、〈初期後藤明生〉という言葉をいきなり使っていますけれど、これは私が勝手に区分したものです。今回の連載で扱う、デビューから『挾み撃ち』までを概ね〈初期〉と見ています。

2016-09-13

[]未來社のPR誌 季刊「未来」で後藤明生論を連載します

月刊PR誌「未来」|未來社

表題の通り、季刊「未来」にて、「『挾み撃ち』の夢――後藤明生の引揚げ(エグザイル)」の連載をスタートすることになりました。九月末に出る季刊「未来」2016年秋号にて、第一回「〈異邦人〉の帰還」が掲載されます。全六回、一年半にわたる連載になる予定です。

タイトル通り、後藤の朝鮮からの引揚げ体験に着目しつつ、デビュー作「赤と黒の記憶」から、『挾み撃ち』に至る作品を論じていくものとなっています。入稿を期に改めて全体の見直しをしていますけれど、初稿はすでに全篇書き終わっていまして、連載分全体ではおおよそ原稿用紙百枚程度となります。

一般に後藤作品はその方法意識や、団地という新しい生活空間を描いたものとして論じられてきました。けれども、朝鮮で生まれた植民地二世の後藤にとって、敗戦と引揚は故国に帰ることで故郷を失った故郷喪失体験だったわけで、七〇年頃の作品はその多くがこの朝鮮と引揚げ体験になにかしら関係しているにもかかわらず、そこに着目されることは多くはありませんでした。近年、西成彦朴裕河による朝鮮主題にした論考で『挾み撃ち』や『夢かたり』などが論じられるようになりましたけれども、まだまだ研究が薄い状況です。

そもそも後藤明生を総体的に論じたものが未だ存在していません。もっとも長い後藤論は芳川泰久『書くことの戦場』の前半ですけれども、これは70年前後の初期作品を集中的に論じたものです。単発の作品論はアカデミズムにおいても多々あるのですけれど、ある程度のスパンで作家的変遷を追っていくものはありません。

というわけで、今現在の私の作業というのは、とりあえずポストコロニアル的なお題目を立てて、後藤明生のクロノロジカルな概説を試みる、というものです。まあ連載は表題通り『挾み撃ち』論で終わるのですけれど、これは全体構想のうちの第一部にあたる部分で、第二部は永興ものの短篇、『思い川』、『夢かたり』をはじめとする引揚げ三部作から『吉野大夫』までを対象にしていて、朝鮮・引揚げという点からはむしろ第二部が核心になります。こちらはまだ発表の予定はないのですけれど、みなさんの応援次第というところもありますのでよろしくお願いします。

現在後藤明生をめぐる状況は大きく動き始めています。アーリーバードブックスによる電子書籍化は順調につづき、主要作品の多くはすでに安価で読めるようになりました。そして国書刊行会から選集の刊行が予告されており、紙媒体での再刊もはじまります。他にも、直接教えを受けた乾口達司さんらが企画している後藤明生論集の計画も具体化にむけて進んでいるようです。

後藤明生: 乾口達司の球面体日記

拙稿はそれらの動きとは特に関係なく進められたものですけれど、この思いがけない後藤明生ルネッサンスにおいて、なにがしかの貢献ができればと思っております。