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Close to the Wall

2020-01-01

2016-09-13

[]未來社のPR誌 季刊「未来」で後藤明生論を連載します

月刊PR誌「未来」|未來社

表題の通り、季刊「未来」にて、「『挾み撃ち』の夢――後藤明生の引揚げ(エグザイル)」の連載をスタートすることになりました。九月末に出る季刊「未来」2016年秋号にて、第一回「〈異邦人〉の帰還」が掲載されます。全六回、一年半にわたる連載になる予定です。

タイトル通り、後藤の朝鮮からの引揚げ体験に着目しつつ、デビュー作「赤と黒の記憶」から、『挾み撃ち』に至る作品を論じていくものとなっています。入稿を期に改めて全体の見直しをしていますけれど、初稿はすでに全篇書き終わっていまして、連載分全体ではおおよそ原稿用紙百枚程度となります。

一般に後藤作品はその方法意識や、団地という新しい生活空間を描いたものとして論じられてきました。けれども、朝鮮で生まれた植民地二世の後藤にとって、敗戦と引揚は故国に帰ることで故郷を失った故郷喪失体験だったわけで、七〇年頃の作品はその多くがこの朝鮮と引揚げ体験になにかしら関係しているにもかかわらず、そこに着目されることは多くはありませんでした。近年、西成彦朴裕河による朝鮮主題にした論考で『挾み撃ち』や『夢かたり』などが論じられるようになりましたけれども、まだまだ研究が薄い状況です。

そもそも後藤明生を総体的に論じたものが未だ存在していません。もっとも長い後藤論は芳川泰久『書くことの戦場』の前半ですけれども、これは70年前後の初期作品を集中的に論じたものです。単発の作品論はアカデミズムにおいても多々あるのですけれど、ある程度のスパンで作家的変遷を追っていくものはありません。

というわけで、今現在の私の作業というのは、とりあえずポストコロニアル的なお題目を立てて、後藤明生のクロノロジカルな概説を試みる、というものです。まあ連載は表題通り『挾み撃ち』論で終わるのですけれど、これは全体構想のうちの第一部にあたる部分で、第二部は永興ものの短篇、『思い川』、『夢かたり』をはじめとする引揚げ三部作から『吉野大夫』までを対象にしていて、朝鮮・引揚げという点からはむしろ第二部が核心になります。こちらはまだ発表の予定はないのですけれど、みなさんの応援次第というところもありますのでよろしくお願いします。

現在後藤明生をめぐる状況は大きく動き始めています。アーリーバードブックスによる電子書籍化は順調につづき、主要作品の多くはすでに安価で読めるようになりました。そして国書刊行会から選集の刊行が予告されており、紙媒体での再刊もはじまります。他にも、直接教えを受けた乾口達司さんらが企画している後藤明生論集の計画も具体化にむけて進んでいるようです。

後藤明生: 乾口達司の球面体日記

拙稿はそれらの動きとは特に関係なく進められたものですけれど、この思いがけない後藤明生ルネッサンスにおいて、なにがしかの貢献ができればと思っております。

2016-09-09

[]石川博品 - トラフィックキングダム

いずれも石川博品ウェブで公開していた中篇作品を三つ集めた作品集。ただし、『Fallout3』の二次創作となる「がんばれドッグミート」だけはkindle版からは削除されており、作者ブログからDLすることになる。

自己宣伝というかウェブでの露出を増やしていく戦略の一環だろうと思われる、小説家になろう、やカクヨムといったサイトでそれぞれ公開されていた作品だけれども、いずれも面白いし、手法においてもバラエティに富んでいて非常に読み応えのある作品集だ。

先生とそのお布団

先生とそのお布団(石川博品) - カクヨム

冒頭に置かれた「先生とそのお布団」は、タイトル通り田山花袋蒲団」の書き出しをパラフレーズしながら、「蒲団パロディゆえの信仰「告白」にして、自らを滑稽化して描くユーモアに満ちたライトノベル私小説というか、「私ラノベ」。売れないライトノベル作家「石川布団」の日々――創作過程、創作論、通らない企画を抱えた出版社まわり――を描きながら、小説への信頼、小説を書くということへの意思を強く示し、自らにもそして読む人へも励ましを送ろうとする誠実さに貫かれた一作だ。

今作最大の仕掛けとなっているのは「先生」と呼ばれる猫の存在だ。一人暮らしをはじめるタイミングで作家の先輩から譲り受けた猫は、人語を喋る読書家の猫だった。主人公は、ライトノベル業界の事情にも詳しいその猫から「オフトン」と呼ばれ、アドバイスや苦言をもらい、対話とともに一緒に小説を作り上げていく。そのままでは鬱屈に満ちた日常になりそうなものを救うこの存在は、『アクマノツマ』の悪魔妻とも共通する設定で、この二人のやりとりの妙がこの作品のユーモアを担う。

「書いても書いても発表まで行きつけなくて……僕は小説の神様に見はなされてしまったような気がするんです」

志賀のことなら気にするな。あいつはもう死んだ」

この手の文豪ジョークが結構笑ってしまう。オフトンが作中作、『両国学園乙女場所』という女性だけの相撲ラノベ*1の書き出しに悩んでいるときに、『吾輩は猫である』や『夜明け前』をパロったオフトンの案に、「タイトルを『中入り前』に変更しろ」と返すところとかが楽しい。

作中でのオフトンの創作過程、創作論はどれも興味深いけれど、百合物のラノベを書こうとして、編集者にラノベは男子中高生がターゲットだから男性主人公でないとダメだ、と言われる場面がある。意気消沈した主人公が『To LOVEる』をモデルにしたっぽいラブコメ漫画(ウェブ版は「A LOVEる ブラックネス」、紙版は「DO LIVEる」と変わっている)の主人公にヒントを得る場面がいい。

「そうだ……この毎回毎回女の子の裸に動揺する主人公のミトさん……彼がいなければこの作品の魅力は半減してしまう。女の子が裸になるだけなら、それはただのちょいエロ漫画にすぎない。だがここに、裸を見てしまった永遠のピュアボーイ・ミトさんが加わることにより、エロスは倍増する。彼の真ん丸になった目――これが僕の企画に足りなかったものだ。あの白い丸になってしまった目は、読者が物語世界をのぞく窓だ。あの白い丸を埋めるのは読者の瞳だ。エロスがただ存在するだけでは読者にとって遠いものでしかない。男性主人公はエロスと読者をつなぐ回路だ。それが必要だったんだ。よし、僕は書く。男性主人公を書く。たとえ設定が根底からくつがえったとしても僕は書かねばならぬのだ」57P

後宮楽園球場』に迷い込む女装主人公、そして『四人制姉妹百合物帳』で、話を聞くことになる男子の存在を思わせる。

あとやはり良いのは観察と描写の細かさだ。高校生でデビューした売れっ子女子大生作家が、元飼い主の代わりに先生の様子を見にオフトンの家を訪れるときの、「蒲団」らしくそこにエロスの混じった絶妙に細かい描写

 体があたたまって血のめぐりがよくなったせいか、先生の毛が障ったか、彼女はしきりに太腿を掻いた。白い肌に赤い痕が線となって走る。触れると熱そうに見えた。先生が彼の視線に気づいたか、寝返りを打って彼女の太腿を隠し、愉快そうにニャーンと鳴いた。P49

エロい男だなー、というこの視線、印象に残る。イラストでもこの女性作家の妖しいところが出ていて、カクヨムで公開していた時とかなり違った印象がある。オフトンのイラストもかなり意外だったけど、なるほど、と思った。

細かいと言えば猫の仕草や行動への観察も細かい。作者自身も飼ったことがないけど、欲しいものを絵に描くと画力が上がったという鳥山明にならって、猫を書くことにしたという。

個人的にも身につまされるのが、私とも同世代のこの主人公の境遇や家族関係の描写だ。さすがに本をいくらも出している作家と並べるのはアレだけれど、不安定な仕事をしながら売れない文章ばかり書いている身としてはいろいろ通じるものがあって、こう、複雑な気分になる。天パで眼鏡だし、ここに書かれてあるオフトンは私だ、とか言いたいところだけれど私はこんなに真面目じゃねーな、って。家族関係も微妙、ではないな。わりと生々しく書かれているこの書き手の背景事情、我がこととして感じてしまう人は多いだろうなと思う。

作品では、父がまったくオフトンの本を読まないけど、オフトンは父の本棚で育ったということを述懐する場面が印象的で、もう一つは母の料理がくそまずい、というところでの家族とのズレ、が主人公の独り立ちを必然的なものとしている。子供の頃はオタクグッズを禁止されていた、とか、幼少期、家族関係にはちょっとした距離感がある。

 つらい実生活から逃れたいと願う読者のためにライトノベルやその他の娯楽はあるのだ。彼自身がかつてそうした逃走にあこがれた若者だったし、いまでも家族やバイト先の雰囲気に居心地の悪さを感じている。

 実生活とうまく折りあいをつけられる者、居心地のいい空間を作りあげることのできる者はいい。だが多くの若い人にそんな力はないし、年を取っても彼のようにうまく行かない者がいる。彼らが世間に押しつぶされたままでいいのかと彼は思う。彼がペンを執るのは一種の抵抗であった。P61

ここで書かれている姿勢は、石川作品を読んでいてよく伝わってくるもので、やはり、と思うところがある。ただし同時に、帰ることの苦みをも書くのが石川博品だというのも、作品を読んでいればわかる。

最後にひとつ、印象的だったのは書き出しを工夫する場面だ。女性同士の相撲を描くにあたって先生の意見をいれながら三段階に直していくんだけれど、これが鮮烈。

 ――土俵の中央で裸の胸と胸がぶつかりあい、汗が弾けた。

 ――裸の乳房がぶつかりあうと、汗が弾けた。

 ――ぶつかりあう裸の乳房は、大きい方に分があった。68-69Pから

この三つ目、この文章で「石川博品」になった、と感じる。

作風故に、さまざまに引用したい場所、言及したくなる箇所が多い作品で、既に長くなってしまったけれどこんなところで。

フェイク私小説、ということでラノベ業界話的なものと創作論とを人語を話す猫という道具立てでユーモラスな作風に仕立てた作品で、読みやすいのでウェブで読める石川博品作品はどれか、というならとりあえずこれを読んでみるのもいいのではないかと思う。もちろん、ちょっとイレギュラーな位置づけだというのは確認した上で。

「がんばれドッグミート Dogmeat Can't Fail」

石川博品のおしゃべりブログ: 「がんばれドッグミート」まとめ

ゲーム『Fallout3』の二次創作で、作中の描写はゲームに負っているようだけれど、私はまったく知らないのでそこはわからない。ゲームに出てくる主人公に付き従うドッグミートという犬の視点、犬の語りで「ご主人様」の行動を語った作品。

このドッグミートの語りというのが、無邪気で、ちょっとバカで「ご主人様」大好き、というバランスでできていて、「ご主人様」を賞賛する節々でその「ご主人様」のダサいところ、間抜けところを語ってしまっているという愛嬌あるものになっている。この犬の視点による語りによって、荒廃したポストアポカリプス世界での荒事が、ポップでユーモラスなものに変えられている。荒廃した世界でさまざまなミッションをこなしていく様をスピーディに語り、ドッグミートの「ご主人様」への思いとともに、「ご主人様」もまたドッグミートに惜しげもなく貴重な水や回復アイテムを使ってしまう、この二人の信頼と愛情がアツい快作だ。

前作の猫に続き、今作も犬、というペット言うよりは大切な相棒、という体で書かれている。イラスト、擬人化されたドッグミートがちょっとかわいすぎるほど。

トラフィックキングダム

トラフィック・キングダム

夜に出歩き喧嘩もするタフでワイルドな女子中学生を語り手にし、その独特の語り口調によって書かれた、表題作となる百合SF中篇。

「道路が車の群れに占拠されてしまった近未来。人々はパケットと呼ばれる乗り物で移動することを余儀なくされていた」という紹介がされており、書き出しが鮮やか。

 行くんだったら私、ベルフローラの方がいい。

 グランドエイトとか、明香は行きたがってるけど、この時間は男子とか西中の奴らとかいて、カラオケとかボーリングとかあるけど私お金ないし、結局、明香が昨日金髪にしたからそれを見せびらかしたいだけだろって思った。185P

年代は明らかにされていないけれど、ある程度未来、自動操縦で自律行動の自動車が挙げ句に本当に自動で動く車となって、道路を占拠し人を排除し始めた。人は仕方なく、道路の上空にリンクと呼ばれるパイプラインのようなものを整備し、そこにパケットと呼ばれる一人乗りの乗り物を走らせていた。そういう舞台設定だ。

ここにあるのは強い抑圧的な雰囲気で、人は防音壁に囲まれ道路から排除されており、少女達は他校の少女達とも諍いをおこし、堀河多華美は家に閉じ込められている。パケットが走る空は、すぐ下に人の死体ごと呑み込む道路が走っており、死がつねにそこにある。家事、家族の手伝いで虐待されながらも家に閉じ込められている多華美は、すぐに「仕方ない」と口にするけれど、語り手桐原奈琉は、その諦めに同意しない。

子供達が閉塞した世界にぎりぎりと締め付けられている状況というのは、石川博品がずっと書き続けてきたものだ。『アクマノツマ』や『菊と力』はわかりやすいけれど、ネルリなど多くの作品にある家族関係の軋轢はそのもっとも具体的で身近な実例としてあった。このどうしようもない「仕方ない」街で、二人が出会うことで、この仕方なさに流されることを拒否しようとする姿を描いているのが今作だ。進む先にも希望があるようにはまったくみえない話なんだけれど、二人の信頼関係と夜の描写の叙情性、これからどこへ行くのかというラストシーンは、夜の高速道路にいるような感覚を思い出させていわく言いがたい情感に満ちている。

いじられがちな多華美におびえる小動物の面影を見て、放っておけなくる語り手桐原奈琉の乱暴だけれどもじつは直情的な人情家でもある性格が良い。多華美もまた、おびえた小動物というばかりではない強さも持っていて、奈琉が大柄な多華美に体を預ける描写があるのが印象的。

閉塞的な夜の街で、囚われのお姫様を助け出す女騎士のお話。表紙にもなっているイラストが、レトロなSFっぽさをよく表していて、とてもよい雰囲気だ。

フェイク私小説、ゲーム二次創作百合SFと、語り口や設定でバラエティに富む中篇集だけれど、信頼関係で結ばれた二人が、ともに荒々しい世界を前へ進んでいく、という点で一本筋が通っているのが秀逸。


ここ一月、溜まっていたタスクをなんとか片付けたけど、これからまたちょっとこういうレビュー記事は数ヶ月くらいないかも。

*1:『後宮楽園球場』がモデルだろう

2016-09-05

[]樺山三英 - ドン・キホーテの消息

ドン・キホーテの消息

ドン・キホーテの消息

ドン・キホーテが還ってきたのさ 誰もが彼を探していたんだ」

樺山三英 - 『ドン・キホーテ』再入門に行ってきました。 - Close to the Wall

七月に樺山さんによるイベント参加レポートを書いたけれど、ようやく本体を読めた。

近代小説の起源としての『ドン・キホーテ』、そこから現代に至る四百年のメディア史とその行く末を駆け抜ける黙示録的な長篇で、『ドン・キホーテ』がもつメタフィクション性を狂気とメディアの問題として展開しながら、探偵小説SF小説技法によって、近代史と小説史を踏まえながら描く、現代的な問題意識に貫かれた傑作だ。

こう書くと訳わからないかもしれない。けれども、まあそういう小説で、まだ私は全然この小説の射程を捉え切れていないと思うけれども、今年読んだ小説でもトップクラスの一作だ。

本書は「探偵」の章と「騎士」の章とで交互に進んでいく構成を採っていて、探偵はある女性から叔父を探してほしいと依頼を受ける。その叔父とは不動産土地開発事業としながら、途方もない事業拡大を続け、与党にまで食い込んだ戦後社会の裏のボスのような老人で、女性はその姪だった。老人は病が進行し、日常生活も困難になったため、山奥の施設に収容されたのだけれど、そこから数ヵ月前、忽然と姿を消したという。探偵は、老人の部屋から「ドン・キホーテ第四の遍歴」と記された演劇のチケットを見つける。

騎士の章では、寝間着姿で山道を降りてきた老人が、ドン・キホーテアロンソ・キハーノとして死んだことを覚えている自分とは何者かと悩んでいるとき、サンチョを名乗る人物と出会い、自分がドン・キホーテその人だと言われ、「ドン・キホーテ第四の遍歴」に出発する。

この相互に重なるように見える展開において、面白いのは、一見現実的に見える探偵の章では、『ドン・キホーテ』は無名の作品で風車のエピソードで途絶した作品になっていることだ。そして、ある人物が二十世紀に当時の資料を捜索し、散逸した資料を集めたうえで、決定版として第三の遍歴(つまり『ドン・キホーテ』続篇or後篇の内容)を含んだ『ドン・キホーテ』を刊行したという。その人物は、ピエール・メナール。つまり、ボルヘスの短篇をもじった歴史改変ネタが探偵の章の設定となっている。

対照的に、自身がドン・キホーテだと称する人物がメインとなる騎士の章では、ドン・キホーテが自分をドン・キホーテだといっても、他の騎士(!)はそれを信じない。なぜなら、「ドン・キホーテにまつわる事実は、ひろく世に知られている」からだ。つまり、こちらの章の方が私たちの現実世界に近い設定になっている。

この歴史改変された次元とされない次元との相互干渉が、ドン・キホーテという虚構の人物、虚構の物語によってなされるわけで、この作品のひとつの軸は、そうした虚構と現実との境界というところにある。探偵の章ではある演劇集団がドン・キホーテ第四の遍歴を演じるところに訪れた探偵が、演者たちに舞台の上に引き立てられることになる。演者は言う。

「劇場はいまや、演劇を閉じ込める牢獄と化した。われわれはこの牢を破って、劇を解き放ってやりたい。劇場の外に広がる市街へと。それこそが、わたしたちの望みです。そこには当然、観客席はない。つまり誰もが舞台の上にいる」102P

これはその後現実に行動に移され、洗脳された劇団員らによる市街における演劇行為が頻発し、それがネットの動画サイトで共有されることで暴動にまで加速していく。メディアを利用した虚構の現実化が進行していくわけだ。

そもそもが、『ドン・キホーテ』の物語自体がこうした虚構と現実の問題をメディア環境を通じて問う小説だった。ある老人は騎士道物語の虚構を現実に適用し、風車を巨人と「見なし」て戦うわけで、『ドン・キホーテ』前篇はこの「現実の虚構化」ということを喜劇の方法としていた。後篇は『ドン・キホーテ』前篇が人気となり、贋作すらもが出回るという出版メディア状況を前提に、ドン・キホーテが実際に騎士として遇されたりサンチョがほんとうに島の領主になったりと「虚構の現実化」が喜劇の方法となる。

探偵の章である学者が、十七世紀のメディア状況を、

「当時、書物というのは最新のメディア機器だったんだ。これのおかげで、それまで一部の特権階級に限られていた情報が、広く大衆に流布するようになった。読み書きさえできれば、誰もが情報の受け手となり、さらに発信者となることだってできる。今日のグローバルネットワークの原型と言っていい。そういう情報網が、ヨーロッパ全土に構築されつつあった。ドン・キホーテが旅しているのは、つまりそうした空間なんだ。彼は自己の評判によって生き、その大衆性によって実在を養われている」135-136

そして、「ひとつの虚構が、別の虚構に置き換えられる。そしてそれが現実をも書き換えていく」「人が書物を書き換えるんじゃない。書物が人を書き換えるんだ」と学者が言っているのは、このメカニズムを指している。

虚構と現実という境界は、そのまま正気と狂気とも置き換え可能で、私はここで統合失調症を思い出さずにはいられない。統合失調症は現実のすべてが妄想=虚構の根拠となってしまう、「虚構の現実化」を生きてしまう現象でもあるわけだけれど、最近、統合失調症を患っていると思しき集団ストーカーを訴えネットに動画を上げている人の家に、実際にネットの人々が嫌がらせを行なうことで、その「集団ストーカー」という妄想が現実化してしまう事件が起こっている。メディア環境が虚構と現実=正気と狂気の境を侵してしまうメカニズムの本作と酷似した状況がすでにある。

そしてメディア炎上という問題意識は、『ドン・キホーテ』のもう一つの側面、人々との議論と出版文化によるメディア環境の成立が、近代民主主義の誕生を描いてもいる、ということに繋がっていく。騎士の章では不穏なサンチョ・パンサがこう言う。

「旦那さまがみんなになれば、みんなだって旦那さまになる。そうしたら、みんなの意思がひとつになりますが」218P

そして、今の世では誰が敵で誰が味方かが区別できない、結局のところ、味方が正義で敵が悪だとするしかない、とサンチョは言い、

「旦那さまのような方に区別をつけてもらいたいんですが。世に正義を知らしめるために」

「このわしに、味方と敵の区別をつけよと?」

「そう、いまがその役割を果たすときです。味方については、いまさら申すまでもないでしょう。この場所にいるみんながそうです。だから旦那さまには、みんなの敵を示してほしいんですが」219P

ここにあるのは、敵、悪というのが事後的なものでしかなく、それは私たちではないもの、というロジックによって作り出されていくという事態だ。「みんな」という等質性が重要となり、この等質性を阻害する者が敵となる排除の論理が循環していく。民主主義と「みんな」の問題意識は去年のアニメ「ガッチャマン クラウズ インサイト」とほぼ一緒だったりするので、どちらかに興味があればもう一方をご参照。

で、この「みんな」に対する「わたし」(最終章の章題)というのが問題としてせり上がってくるけれど、ここらへんで踏まえられているのがカルヴィーノ『不在の騎士』だと思う。『ドン・キホーテパロディの一つの『不在の騎士』は、もう読んだのが十数年前だけれど、身体が不在の騎士と自己の不在な男というコンビが出てくるわけで、この自己の不在というのが「首領」含めた今作のもう一つの軸になっている。「ガッチャマン クラウズ インサイト」を例示したように、これはそのまま民主主義のテーマでもあって、これはフエンテスの『ドン・キホーテ』読解にヒントを得たものだということは前述のイベントを聞いているとわかる。

つまり、『ドン・キホーテ』を題材にすることで、虚構と現実の問題がメディア環境の問題へと繋がり、それが民主主義の問題へと繋がる、この連繋によってフィクションの問題と現実の問題を繋げているわけだ。

ハードボイルドの枠組みを用いて、演劇の街路への広がりやメタフィクション、歴史改変と別次元の相互作用といった、現代文学SF探偵小説といったさまざまな技法によって『ドン・キホーテ』を現代において読む意味を綯い合わせていく本作は、『ドン・キホーテ』以来の近代四百年の時間を意識しながら、その先の不吉な未来=「ドン・キホーテの消息」を予言する。

前述のイベントに参加していたから、出てくる諸要素は概ね知っていたりしたんだけれど、その題材がこう使われていたのか、と意外な展開の連続で非常に面白かった。『ドン・キホーテ』をめぐる議論の歴史の復習が、こういう形で小説になりうるのか、というのも凄く面白い。以上の文章はちょっと外形的すぎるんだけれど、まあこんな感じで。

『ドン・キホーテの消息』の樺山三英さんインタビュー : 幻戯書房NEWS

こちらの版元ブログでのインタビューも参考。ここから行けるFacebookのページをいま初めて見たら、私のブログがトップ固定記事になっていて驚いた。私、「批評家」だったのか……

この写真、私がちょっとだけ写っている。右側、机に岩波文庫の『ドン・キホーテ』を積み上げているところに座っているのが私。髪と手だけが見える。

イベントのレジュメもあった。

あと、上で書いたことの一部はすでに著者自身が詳細にまとめておられた。

ぼく自身のための広告 シミルボン

2016-09-03

[]ツイッター

そういえば、ツイッターを始めていました。