Hatena::ブログ(Diary)

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2020-01-01

2016-08-25

[][]ナーダシュ・ペーテル - ある一族の物語の終わり

松籟社東欧想像力叢書第十三弾は現代ハンガリーを代表する作家、ナーダシュ・ペーテルの初期代表作、1977年作。解説に挙げられている現代ハンガリー文学の代表格のうち、ノーベル賞のケルテース・イムレは今年三月に亡くなり、エステルハージ・ペーテルも先月66歳で亡くなっており、ナーダシュとクラスナホルカイ・ラースローが残った。解説執筆時点ではまだ二人とも存命だったかも知れない。さて、以前からノーベル賞格として名のみ聞こえて作品を読んだことはなかった作家の、はじめて長篇が翻訳刊行されたけれど、これは結構の難物。

1950年頃のハンガリーを舞台にしながら、幼い少年の視点からすべてが書かれているため、何が起こっているのか、ということの把握は難しく、時系列や現実と想像の境界も不分明な語りで一貫する本作は、序盤かなり読むのに難儀する。どう読めばいいんだ、と思ったら作品の概要を簡潔に記した解説部分を先に読んでからのほうが良いかもしれない。

私もわからなかった部分が多いけど、とりあえず書けるだけ書いておく。

ここで語られているのは、少年の家族が生きている密告と粛清が渦巻く独裁体制下のハンガリーと、少年に対して数千年の一族の来歴を語り継ぐ祖父の物語だ。ハンガリーの状況は、少年の語りによるためはっきりとはわからないものの、隣家の子の母親たちが「すっぽんぽんで部屋を突っ切っていった」という光景がなんども言及されたり、隣家の父親がどこにいるのかが不自然だったり、毒を盛られた、でっちあげで縛り首、だとか不穏な言動がしきりに現れる。他のある子供は、 自分の父はスパイで、少年の父とつながりがあると言い、隣家の父親達もスパイだ、外国の車がよく止まっていると言うのは、なにも子供らしいでたらめではなく、街で偶然会った少年の父がひどく不審な様子を見せていたことなどがそれを裏付けてしまう。

この状況で祖父は少年に自分たちの一族、イエスの時代にシモンと呼ばれた自分たちの一族の来歴を、延々と少年に語り続けていく。主人公の少年もシモン・ペーテルという名だ。祖父はそして、以下のような奇妙な主張を前提にしながら、シモンの一族の物語を語る。

生き延びんがために死なん! そのためにわしは生まれてきた、呪いの成就と、完全な滅亡の成就のために。だからわしはキリスト教徒の女に自分の種子をまき、血をわけた。だが、おまえの父親ユダヤ教徒の女をめとり、わしが得たものをおまえの中で無駄にした、それでおまえの血はまたしてもその大半がユダヤの血なのだ。だが、おまえもキリスト教徒の血をもらえば、やがてユダヤの血は消え失せる! これをまっとうするため、そのためにこそわしは生まれてきた! 抹殺するのは生き残るためだ。なぜなら、血そのものが消えることはないからだ。94〜95P

エルサレム以来の一族の物語は、迫害と放浪の遍歴として祖父の口から語られながら、同時になぜか魚の解体と調理の光景が挾まれる。作中にもあるとおり、魚はキリスト教象徴でもあり、その死と解体には一族の物語と重ねられた意味がある。

キリストを信じられなかったシモンの末裔のユダヤ人として、上記の信念を持つ祖父は、しかし、祖父の教えにも背いた少年の父が、祖父の死を理由に実家に帰ったと嘘をついたことをラジオで知ることになる。父は帰ってくることなどなかったからだ。自分が間違っていた、と悔いながら死んでいく祖父が描かれ、そして父はその嘘がかかわっているのか、政治犯として粛清されたらしいことが、少年が施設に入れられたことからわかる。

あえていえばキリストに対する裏切り者としてのシモンに由来する一族は、裏切り者によって終わりを迎える、ということにもなるだろうか。少年はそうした政治犯の子供達が収容された施設で、仲良くなった子供が校長への反逆行為を密告したゆえに反逆者よりも重く制裁され、施設から消えるのを目の当たりにする。

祖父はあるとき、自分の友人「フリジェシュおじさん」の息子が逮捕されたことを知る。息子にそれを伝えると、

「だからどうしろって言うんだ、おやじ?」

「何だと? お前の友だちじゃないか!」

中略

「若気の至りだよ! 逮捕されたんなら、それなりの理由があってのことだ。」131P

ここに続く場面で祖父はこう言ってもいる。

「神がこの世をお創りになって以来、たしかに人間には二つの党がある。カインの側とアベルの側だ!」132P

キリスト教ユダヤ教、政治的党派、そのあいだを揺らぐ信仰、スパイ、裏切り者。政治的緊張状態のなかで家族は崩壊していき、祖父によるユーモラスな語り口はその死によってとだえ、子供の視点による繊細な描写の数々は孤独となった少年の寂しさへと転化していく。放浪、迫害のユダヤの一族=家族の物語がこうして終わっていく。

枕投げをしている騒ぎのなか、「外は見えない。だめだ。」と語る少年の最後、解説ではあるいはこの瞬間に回想されたのがこの作品全体だという説を紹介しているけれど、そうすると、序盤52Pの「僕たちはまくら投げをした」という唐突な一文はそういうことだろうか。今作は、祖父と祖母の死が序盤に置かれ、中盤では延々と祖父の語りが記述されており、時系列が前後する以上、最初と最後が同時なのもおかしくはないということだろう。

少年による語りは政治性をぼやかすための技法で、また物語自体が政治による家族=一族の崩壊をも描いており、東欧の政治状況に否応なく巻きこまれざるを得ない東欧文学らしい一作となっている。子供らしい語りの視点は魅力とわかりづらさの表裏一体でもあったり、祖父の存在は結構ユーモラスで楽しいけれど、じっさいわかりづらくもあり十全に楽しめた感じはないけれど、かといって退屈なわけではない。子供の視点の背後に何が起こっているのかをつねに推測しつつ読む必要があり、それは政治的緊張状態での人々の生き方でもあっただろう。

宗教的ニュアンスがちょっと私にはわからないところがあった。魚と同様、繰り返し出てくる蛇の想像も宗教的な含意があるはず。

ノーベル賞オッズにもしばしば顔を出すナーダシュは他の作品もずいぶん破格のものが多いようで、大著だらけのそれらが果たして翻訳されるかは怪しい。今作は短めながら手応えのある高密度の作品となっており、ナーダシュを知るにはちょうど良いように思う。

ちょっと話はずれるけどAmazon見ていたらキシュの『砂時計』、装幀が変わっていた。

砂時計 (東欧の想像力 1)

砂時計 (東欧の想像力 1)

初期五作あたり、新カバーに変えていくとかなのかな。

2016-08-20

[]石川博品 - メロディ・リリック・アイドル・マジック

久しぶりに出てすぐの石川博品の新作を読めた(なお一月遅れ)のでざっと書いておきたい。アイドル、というのは意外な方向から来たな、と思ったけれども、読んで見るとまさしく石川博品としか言いようのない、しかしこれまで以上にポップな作品になっていて、既に言われているようにとても入りやすい、そして石川作品としても相当上位という出来になっている。

パンクな抵抗精神と、さまざまなネタを突っ込むコミカルかつ繊細な文体、女性キャラが総じて攻めのセリフを吐きまくるヒロインの魅力などとともに、懸隔のある二人を描くラブコメ手法、親との関係など、これまでの石川作品にもあった要素がそれぞれバランス良く取り込まれた、非常にスマートな傑作だろう。

誰かがライトノベルの定義は、中高生の暴力衝動、性衝動を満たすキャラクター小説、だとか戯言を述べていたけれど、中高生を読者対象にしているために主人公もまた中高生に設定されることが多く、それゆえ思春期の悩みを描いた青春小説要素が強いというほうがまだましではないか。自分とは何か、何がしたい何になりたいという自意識、鬱屈や暴力、恋愛と性も、そうした青春の悩みにほかならない。おそらく作者はライトノベルをそう受けとめた上で、まっすぐな直球を投げてくる。

この作品のなかで、主人公吉貞摩真(以下ナズマ)の幼なじみにして一つ上の津守国速(以下クニハヤ)は、こう宣告する。

「沖津区ってのはアイドルかギャングになるしか出世のチャンスがない街だから」23P

そのアイドルというのは女子高生たちがどこにも所属せず、自分たちで曲を作り、自分たちでCDを売というすべて自家製のもので、商業主義とは無縁な存在としてある。作中で国民的アイドルとして知られる大所帯グループLEDは、クニハヤにこう批判されている。

「何が最低ってさ、ああいうのみんな、おっさんたちの会議で決まってるわけ。だからあいつらアイドル名乗ってるけど自主性と個性と知性をうしなった哀しきシャンソン人形なわけ」23P

難関春日高校に合格し、寮に住むことになったナズマを待っていたのはそんな場所で、その寮もまた沖津区のトップアイドルグループが住む女子寮だった。そこに唯一いた男子が、ナズマの幼なじみでいまや沖津区のアイドル好きとなっていたクニハヤだったわけだ。

この女子寮での番犬兼下僕として住むことになった二人と、管理人の姪の尾張下火(以下アコ)、ヒンドスタン共和国のハーフだという飽浦グンダリアーシャ明奈(以下アーシャ)という二人の女子が、今作のメインキャラクターだ。特にアコ視点は面白く、言葉少ななキャラなんだけれども内心は饒舌で、憧れのアイドルに呼ばれたときの「(フゥゥゥゥッ! なちゅりが私の名前をッ!)あ、どうも」という内心と発言のギャップなんかが面白いし、187ページの作中に描写のないイラストがすごい楽しい。真面目な顔でくだらないことを考えている石川作品特有のキャラだ。

そのうち、ナズマとアコはこの二人を語り手に交互に進んでいくので、その双方が主人公でもあるわけだけれど、じつはどちらもなにかから逃げてここに来た人物でもある。そしてお互いに、相手の目を「思いがけなく好みのタイプどストライクな人に出会ってしまった」と表現するように、対句的な対比をなされている。

ナズマは音楽が聞こえると目の前に奇妙な幻覚が見えてしまい、それゆえに問題児として学校生活を送り、音楽とも無縁な生活をしていた。そんな彼がアイドル女子寮に来てしまったわけだけれど、彼がアコとアーシャがアーシャの妹のためにライブをするというときにマネージャーを買って出たのは、裏方ならば歌を聴かないで済むからだった。

しかし、彼は二人のライブでアコの歌声にうつくしい幻想を見いだすことで、その認識を変える。けれどもその感動は誰にも共有することができない。

ナズマの見た光は誰にも見えないし、そのうつくしさを誰にも説明できない。142P

この共約不可能な感動の体験の唯一性によって、「選ばれた」と感じたナズマはマネージャーを本気でやるようになる。この二人の語り手の視点から、アイドルになること、アイドルを好きになることの両面を描いていく。

同時にアコもまた、ある面で選ばれながらそれを拒絶してきた。そしてある意味逃避としてアーシャとのアイドルを始める。彼女は、終盤に至るもアイドル根拠、歌うことの根拠、ステージに立つことの根拠を問い続ける。野良アイドルとしての彼女が、道を走る自転車の鼻唄と何が違うのか、アイドルとは何か、ということを問い続ける。ナズマはあるときこう考える。

魔法だなんて、何の根拠もない。ナズマがそう思っているだけのことだった。アイドルも同じだ。下火とアーシャが集まって、アイドルを名乗り、それでアイドルだということになった。誰かより優れているからアイドルだということでもない。根拠もなくアイドルだった。231P

本作ではナズマも、アコも選ばれるということをしきりに気にしている。選ばれたからこそここにいると思うなり、選ばれたことを誇らしく思うなり、選ばれるということは今作のキーワードだろう。しかしアコはあるとき、そんなことは問題ではないことに気づく。

下火はずっとアイドルを夢みていた。(中略)選ばれることがアイドル必要条件ではない。やってはじめてアイドルなのだし、やってこそのアイドルだ。(中略)誰かに価値を定められることなどまっぴらだった。/ アイドルは選ばれることも根拠もなしに懸命だ。それだけがアイドルの価値だ。273-274P

誰かに選ばれる者としてのアイドルを否定・反転し、「私をアイドルにできるのは私だけなんだ」と宣告すること。ナズマもまた、「問題は何をやるかだ。何を選びとるかだ」と受験によって選ばれたという認識を覆す。選ばれることから選びとることへの転換にこそ今作は賭けられている。

ファンがいるからアイドルだということではなく、アイドルとはまさしく選びとる主体・私そのものがアイドルなんだ、と切り返す。私とは私が選ぶものだ、という力強い意思をこそ祝福する。それは都合の良い管理を強要する親への反抗としての青春のテーマでもあり、沖津区のアイドルが高校卒業で終わるとされていることの意味でもあるだろう。

ナズマはあるときこう伝える。

「おまえが悪いんだとしても、俺は構わない。おまえなら悪くてもいい。」216P(原文傍点)

私が私だというのは、誰かと比べて優れているからではない。私が私だということにはただ、そうあること以外に根拠がない。その無根拠さに向き合い自分自身を引き受けること、そして自分を信じる相手を信じること、私は私で、あなたはあなただ、ということ、アイドルという私を選びとること。アイドルと「私」とをそうしてダブらせることで、アイドルものをパンクでポップな青春小説として成立させる。

「みんなともだち みんなアイドル!」というプリパラのキャッチフレーズもここから見ると同じことを指しているように見える。限られたものだけがアイドルとなる独裁貴族制に対する抵抗として、誰もがアイドルだという民主共和制の革命を描いた2ndシーズンのプリパラと、オーディション制のLEDに対する野良アイドルの抵抗を描く本作にはきわめて近い姿勢がある。

アイカツスターズでは「輝きたい衝動に素直でいよう」と歌われ、それが「スタートライン」と続くことで、これが始まりだということを示している。今作もまだスタートラインに立ったばかりだ。

と思うんだけど続き出るんですか? アーシャのフラグとか確実に次のネタだろうし、敵役LEDについても続きがあれば掘り下げられるはずだけれど。もちろんこれでも傑作だけれど、二巻三巻と続けることで、より面白くできるだろうし、それだけの伏線を仕込んでいるだろうし、ネルリシリーズが傑作なのは、やはり三巻という長さあってのものだと思うからだ。後宮楽園球場、の三巻は出るんでしょうか?

本作が青春小説のポップでキラキラした面を描いているとすれば、「アイドルかギャングになるしか」ない、そのギャングになった場合の暗い側面を描いたのが『菊と力』だろう。ティーンエイジャーたちの鬱屈と情念の歪みが暴力へとなだれ込み、帯刀が許された世界における殺し合いとして展開されるバイオレンスアクション長篇の『菊と力』は、『メロディ・リリック・アイドル・マジック』と表裏一体のものとして捉えることができるはずだ。『菊と力』のバージョン3は『ノースサウス』として公開されており(私はまだ未読)、これが沖津区という舞台を共有していることもそれが意識されているのではないか。

と、とりあえずライトノベル青春小説、という偏った視点からまとめてしまった気がするけれども、アイドルとマネージャーという関係とか、アイドルものとしての観点とかで誰かに書いてもらいたいところ。親との関係と劇中劇的な演出としてやはりネルリ二巻を想起させるところが多いし、主人公ヒロインの双方向視点での語り口はヴァンパイアサマータイムを、アイドル女子寮の設定に百合物帳とも通じるものが感じられるなど、過去作品との技法、内容的関連も強く、やはり今までの石川博品の諸要素をポップにまとめ上げたという印象がある。それだけに、これまでの読者にはうれしく、また入門者にも石川らしさをざっと理解できる一作として、とても勧めやすいものになっている。せめて続きが出せるくらいには売れてほしい。

2016-08-16

アイヌ民族否定論に抗する』特設サイト公開

http://www.geocities.jp/gensisha/ainu/index.html

アイヌ民族否定論に抗する』の目次や、関連イベントの記録、紙媒体等での書評、言及、およびネットの反応などをまとめたサイトを作成しました。適宜参照されると幸いです。

[]笙野頼子「ひょうすべの約束」「おばあちゃんのシラバス」その他

ちょっと時間がとれたので、溜まっているものを記事にしていく。

「ひょうすべの約束」

文芸 2016年 05 月号 [雑誌]

文芸 2016年 05 月号 [雑誌]

文藝」で展開されてきた「ひょうすべ」シリーズの新作。以前のものはこちらで紹介した。小説の新作としては『未闘病記』以来になるだろうか。語り手埴輪詩歌のウラミズモ亡命を断念するまで、を描く短篇になっている。ひょうすべとはこのシリーズにおいては一般に知られる妖怪のそれとは別物で、少女を食い殺す存在としてのこの妖怪正式名称が出てくるところがなかなかぶっ飛んでいる。

その正式名称とは「NPOひょうげんがすべて」。

このひょうすべ、本人たちは表現の自由をすべて守るといっていますが、守るのはただひとごろし(ヘイトスピーチ)の自由とちかんごうかん(少女虐待女性差別)の自由だけでした。292-293P

「ひょうすべ」をそうデコードするのか、となかなか面白いけれど、これは明らかにネットでの表現規制問題を見たうえでの記述だろう。ヘイトスピーチもそうだけれど、笙野頼子自身が署名もした伊勢志摩の海女イラスト問題についても含んでいるだろう。そうした界隈で観察される自由の名の下での自分以外の者への人権侵害を許容する論陣への批判がここには込められている。そして、

お役所の悪口原発への文句、戦争がいやだとか私たちは何も言えなくなってひさしかったですから。293P

というのはまさに予言的で、その後今年七月には自民党教育現場における「偏向」の密告を求めたウェブサイトを公開し、そこには「子供たちを戦場に送るな」と主張し中立性を逸脱した教育を行う先生」のような存在を報告せよという文言があった。

学校教育における政治的中立性についての実態調査 | 参加しよう | 自由民主党

そして詩歌の祖母は膠原病で、薬で生きられるけれど、その薬はIMFを背後に持つTPPのISD条項(ISDS?)によって、薬や医療の保護が自由競争の名の下に撤廃され、「一粒一万円」という価格になってしまったせいで死んでいった。

これは笙野自身が膠原病を知ることで、薬や医療のことがまさに生々しい現実として、政治と生命が直結する状況があることを知ったからこその記述でもあるだろう。TPP批判は今作の頻出テーマでもあり、「選挙の約束を破った当時の政府」による愚劣な判断によって結ばれた「約束」がTPPだということだ。

笙野における批判の主要な点の一つは「少女虐待」で、その一例として美少女文化的なものがよく批判されるけれど、おそらく笙野作品を単なるオタク批判として見るのも単純だろう。もちろんこれは美少女文化、オタク文化の享受者たる私ゆえのバイアスともいえるけれど、笙野はオタク文化そのものよりは、それが現実との境目をなくしていく状況をこそ批判しているだろうからだ。

「損失責任者の娘さんは生きた身体を「二次元化」され、「人喰い」の来る遊郭に「保護」されたそうです。その後「三次元リョナナイト」が遊郭であって、……。」296P

「人喰い共はまさに、二次元専一のおとなしい少年達の性器をも蹴って行く。秘めて生きるのみのやむなき欲望を踏みにじって」301P

現実存在の二次元化という事態こそが、ここでの問題となっている。これは平面化を批判していた「だいにっほん」シリーズとも連続する意識だ。しかし「リョナ」という表現を文芸誌で見るとは。これ、オタクでも知らない人いるし、知らない人には何にも通じないよね。元々は「猟奇オナニー」の略で、格闘ゲームのやられ音声やらの女性(に限らないけど)が痛めつけられている状況に興奮する、ということの隠語。それを三次元でやる、というのがすさまじいけれど、それこそが批判の眼目だろう。

リョナとは (リョナとは) [単語記事] - ニコニコ大百科

こうした社会状況のなかで埴輪詩歌はウラミズモへの公募移民の過程で、ウラミズモ婚の相手、緑河白馬という男性美の持ち主、「男子娘」との付き合いを進めていく。そこで出てくるのが「ボストンマリッジ」で、「ウラミズモ婚はボストンマリッジと十八世紀に言われていたのと似た、良い感情に基づく、女性二人の共同生活だ」というように、同性愛が問題化される以前にあった女性同士の生活を下敷きにしている。

しかし、そうした女性同士の理想的な国家はその基部に「男性保護牧場」という人権を男に認めないシステムを持っている。それゆえ、「自由兵役」で夫になるはずだった人物が死んだ後、保管していた精子の料金が上がってしまうために引き上げてきたその精子でできた子供が男子だったことで、詩歌は移民を断念――「地獄に残った」――する。

そこで出来た子供が埴輪木綿助で、その妹が、埴輪いぶきという「だいにっほん、ろんちくおげれつ記」の語り手だった。

こうした形で今シリーズでは現在とだいにっほんシリーズを繋げる前史ともいえる作品になっている。現在の社会状況への炸裂的な怒りをぶつけながら、未来史への前史を綴ることで、現在のグロテスクな寓意化と、予見的ですらある描写が語られていく。しかし、「ひょうすべ」という寓意の説明自体が作中に書き込まれており、作中存在を自らネタばらししている形になるのは、普通は奇妙なことだろう。現在社会の批判描写というただの説明になりかねないところを救っているのは、グロテスクなイメージとともに、そうしたすべてを露呈する叙述のスタイルにもあるだろう。

しかし、今作でひょうすべがやってきたのは、2016年6月となっているのは発表月以外で、何を指しているのか。これが今現在だ、ということか。

笙野頼子資料室blog: 文藝2016年夏号に「ひょうすべの約束」

「おばあちゃんのシラバス

文芸 2016年 08 月号 [雑誌]

文芸 2016年 08 月号 [雑誌]

すぐに発表された「ひょうすべ」シリーズの短篇は、前作で触れられていた膠原病のおばあちゃん、を主題にしたもの。詩歌の回想として、祖母埴輪豊子、雅号台与(とよ)とのかかわりが悲しげに語られていく。祖母は台与、母はひるめ(アマテラスの美称)、という古代史的名称になっているのが気になる。詩歌の本名は「あゆむ」で、娘は「いぶき」。どういう意味があるのかはわからない。

おおむね前作の別視点から作品の厚みを増す感じのもので、祖母豊子の生前の教えから、その死、そして死体が持ち去られてしまうまでを描き、その原因が「TPP批准」にある、と書きつけるものになっている。TPPによるダメージのその一例という感じで、細部にいろいろと情報はあるけれど、これ自体でどうこうという感じはしない。

やはりところどころ面白いところがあって、娘を「遊郭」にはやらないと言われたことで「少女の自由な性と抵抗をばばあが家父長制的抑圧で弾圧しやがった」などと喋る父親は「バクシーシ山下を好きな父親」と書かれているのが笑ってしまう。バクシーシ山下についてはいろいろあるけれど、実録レイプものAVが本物の強姦ではないかと言われている問題が有名か。で、その父親が妙な口調で頭をぽんぽん叩いている少女が「場部美ちゃん」とか呼ばれているのがさらにアレ。これ、「ばぶみ」って読むやつで元ネタは「年下女性に感じる母性」を指す「バブみ」というネットスラングだろう。ガンダムシャアが代表的なアレで知られているけれど、個人的にこれで思い出すのは「アイドルマスター シンデレラガールズ」17話の、美嘉がみりあに抱きしめられるシーンですね。

バブみ (ばぶみ)とは【ピクシブ百科事典】

まあそういうのはいいとして、ひょうすべシリーズはこれで一区切りなのか、単行本刊行が予告されている。シリーズはまだ短篇四作だったと思うけれども、他の短篇も収めるのだろうか。

笙野頼子資料室blog: 文藝2016年秋号に短編「おばあちゃんのシラバス」

「すべての隙間にあり、隙間そのものであり、境界をも晦ます、千の内在」

ドゥルーズ

ドゥルーズ

河出書房新社ドゥルーズ本に寄せられたエッセイ。本書は笙野さんから恵贈いただいたもの。いかにドゥルーズを読んだかということを、現実問題についての笙野自身の考察として、その実践込みで語るかたちのエッセイになっている。ここでも「碧志摩メグ」問題を軸に、「性的侮辱の「記号」」を生きた身体に、ただ特定の職業であるが故に強要された人は? 何よりもそれが公的機関の強要であったならば?」という問いを出しながら、身体と心の接続を断ち切る言説を批判する。

心神も因果も切断し物事をリセットし、勝ちを永遠に自分の側に留め置こうとする力、これを笙野頼子は今のところおんたこと呼んでいる。95P

当事者を引き受けず、自らを被害者の地位に置く存在を「捕獲装置」とも呼ぶ。

碧志摩メグ問題は公的機関による代理表象にして、それが海女自身からも拒否の声があったことが重要だったと思うけれど、それはつまり、自分自身を奪われるということへの抵抗でもあり、笙野がひょうすべシリーズでも書いているのは、そうした身体(医療)や内面への植民地的侵略のありさまでもあった。

ドゥルーズをかなり自由に、自己流に読んでいることを自ら述べつつ、笙野独特の文体によって語っているエッセイで、私は『千のプラトー』は文庫上巻の文字はすべて目を通した、という以上のことはいえないので、どう読んだかの独自性はわからないけれども、笙野のドゥルーズの使い方、は伝わってくる文章になっている。

しかし、笙野頼子が『千のプラトー』をゲラで読んだり、わからないことを聞いたというドゥルーズ師匠って誰なんだろう。訳者の一人だったりするのだろうか。

この本の巻頭にある対談を読んでいたら小泉義之がこんなことをいっていた。

ネトウヨについては、他人の痛いところやトラウマ的な核をとらえて嫌なことを言うには一定の知識技法が必要ですから、ネトウヨは知的であるとしか思えません。おそらく、ネトウヨの中核は大学関係者や高学歴企業関係者、それこそプチ・ブルですよ。だから、ネトウヨには魅力がない。12P

まあ、そうだよな、と思う。

笙野頼子資料室blog: 『ドゥルーズ 没後20年 新たなる転回』に笙野頼子エッセイ

小山田浩子『穴』とその解説

穴 (新潮文庫)

穴 (新潮文庫)

新潮社から郵便があって何かと思ったら「笙野頼子氏代送」で本書が送られてきて、解説を担当していることを知る。単行本を買ったまま読んでいなかった本作を早速読んだ。表題作の「穴」は読ませるけれど地味な描写が続く様子と、そこかしこにほんの少し妙だと思わせる記述があって、いつ誰が悪意をもって襲いかかってくるのか、みたいな不穏さをかき立てていて、どうなるのかとずっと不安に感じさせるどっちつかずの加減が面白い。夫の実家が持っているその隣の空き家が空いたことで、そこに引っ越して、長く続けた非正規の仕事をやめ、羨望される「専業主婦」になってから、を描いていて、そこで黒い獣を見たり、穴にはまったり、世羅という不思議な女性に出会ったり、一人息子のはずの夫の兄を名乗る男が出現したり、という奇妙な状況に陥っていく。この奇妙な幻想が日常に溶け合っていく淡々とした不安感が増していく。

なかでも不穏なのが義理の母と祖父で、義理の母は親切ないい人、のはずなんだけれど、二万円足りない入金を主人公に頼んだりしたところは妙だし、義祖父は一日中水をまいていて、ぼけているのではないかと思わせる。

笙野頼子は解説で、「村社会の「公用」奴隷呼びかよ「お嫁さん」は?」と指摘し、「そうしてコンビニで働きはじめる彼女は、自然にお嫁キャラを継承していたし時給ニッポンの兼業嫁として転生するのだった」と書いている。

著者もまた下記リンク先でも引用されているインタビューで、「"嫁"というものが不思議だなと思っていました。最近では結婚して"妻"になる感覚はあっても"嫁"になる感覚は持たない人が多い気がします。」と語っており、これを見ると、やはり地方の地縁血縁の枷を書いているようにも感じる。義祖父の死と専業主婦をやめ、コンビニで働き始めることでその幻想が消えてしまうわけだから。「嫁」と呼ばれる不思議さを描き、笙野頼子「二百回忌」を好きだと言っていたという線から考えるとそうなるな、と。嫁でも非正規でも、女性がどこにいてもその身分、「出自」に縛られるという嫌な話。

「いたちなく」「ゆきの宿」も地方生活を舞台にしているけれど、三作読んでみるとそのどれもに出てくるのが生殖あるいはその中断、なのが興味深い。「穴」でも義兄の話のなかに、こう語る箇所がある。

ねえ、家族って妙な制度だと思いませんか。一つがいの男女、雌雄ね。それがつがう、何のために、子孫を残すために。でもさ、じゃあ誰も彼もが子孫を残すべきなんだろうか?(中略)そんな価値があるんだかないんだかわからない僕を育てるために、親父は身を粉にして働いて、おふくろは血も繋がらない、しかも気の合わないバアさんと同居してまあ若死にはしたけど看取って、死ぬのだって簡単じゃなかったんだよ。(中略)そんなまでして、親父やおふくろがやろうとしていることは、ただ一つ、僕という子孫をどうにかして次の世代に生きて残そうとしてるわけです。それが僕は気味が悪いんです。悪かったんです。わかりますか? わかるわけないか。はは、わかっちゃ困る、ね、謀反を起こすのは一族に一人で充分だ。ね、僕はそれにいたたまらなくなって、逃げた…… 103P

生殖と家制度の問題が絡み合い、それが地方の隣人関係とも絡んでくる構図が、とりあえずは指摘できる作品集となっている。

笙野頼子資料室blog: 小山田浩子『穴』文庫版に笙野頼子の解説

もうひつと、笙野さんからは「文芸家協会ニュース」も送って頂きました。

笙野頼子資料室blog: 文藝家協会ニュースに笙野頼子エッセイ

こちらでも紹介されているエッセイの掲載された号です。沖縄の抗議運動で目取真俊が逮捕された件についての抗議。沖縄選挙での意思に対しても強行を崩さない政府との対立はつとに知られているけれど、それを沖縄出身の目取真研究の院生との関係から書いた文章。沖縄には全国から警察機動隊防衛局員等治安部隊が集結し、抗議行動への弾圧を続け、日本全国対沖縄住民という奇妙な構図ができあがり、まさしく植民地と化している。これが今という時代の出来事なわけだ。「本土沖縄街が出てくる作品で私は芥川賞を受けた」と「タイムスリップ・コンビナート」に言及している。

基本的に敬称を略しましたけれど、笙野さんにはいくつも掲載書籍を送って頂きありがとうございました。

2016-07-08

[]樺山三英 - 『ドン・キホーテ』再入門に行ってきました。

ちょっと遅くなりましたけれど、過日開催された樺山三英によるイベントというか講演に行ってきたことについて簡単にメモしておきます。

7/2(土)17:30?『ドン・キホーテ』再入門/ゲスト:樺山三英氏『ドン・キホーテの消息』出版記念 | Peatix

ドン・キホーテの消息

ドン・キホーテの消息

赤坂に新店舗を移した双子のライオン堂で樺山さんが講演をすると聞いて、しかも題材が『ドン・キホーテ』だったのでこれはと参加することにしました。

講演は新作『ドン・キホーテの消息』を刊行した樺山さんによるドン・キホーテの解説というかたちになっており、『ドン・キホーテ』の内容紹介から、これまでの受容の歴史を追い、そして現代において『ドン・キホーテ』をどう読むかということについて語ったもの、と言って良いかと思います。

ドン・キホーテ〈前篇1〉 (岩波文庫)

ドン・キホーテ〈前篇1〉 (岩波文庫)

ドン・キホーテ』といえばその破天荒なメタフィクション性が古典と思うと意表を突かれる作品でもあるわけですけれど、樺山さんは、それは当時フィクションの概念が曖昧だったからこそそう思えるわけでその点を強調しすぎるのはどうか、と言っていたのがなるほどと思いました。私は『ドン・キホーテ』が小説の起源と言われるのは、そのメタフィクション的な自己言及性、再帰性にあるのかと漠然と思っていたのでした。しかしそういえば、19世紀的な近代的小説こそが小説としては異例だという話もあるわけで。ただ、19世紀的といわれる小説も結構フィクションのルールと思われるものをはみ出すものがあるので、虚構を虚構ときっちり現実と区分けする概念そのものがむしろ理念的なものでしかない可能性は考えておきたいところです。ここら辺、小説のなかで架空の名前で出てくる人物がいるのに、そのモデルとなった人物が実名で出てくることがあるような小島信夫美濃』とか読むと一発でぶっ壊れる概念でもあります。

樺山さんは当時の世界史的背景とともに、その後の『ドン・キホーテ』受容の整理も行って、フローベールドストエフスキーツルゲーネフハイネ議論や、スペインでのウナムーノ、オルテガによる再評価ボルヘスの短篇や、フーコーの『言葉と物』の議論も参照します。樺山さんはツルゲーネフの講演『ハムレットドン・キホーテ』を持ってきていましたけれど、『ハムレットシンドローム』が既にあるように、ツルゲーネフが指摘した二つの性格類型の基となる二作両方を下敷きにした作品を書いてもいるわけですね。

特に面白いのは近代的人間観に触れたあたりで、これは有名なクンデラ『小説の精神』(最近岩波で新訳が出た)での、

かつて神は高い地位から宇宙とその価値の秩序を統べ、善と悪とを区別し、ものにはそれぞれひとつの意味を与えていましたが、この地位からいまや神は徐々に立ち去ってゆこうとしていました。ドン・キホーテが自分の家を後にしたのはこのときでしたが、彼にはもう世界を識別することはできませんでした。至高の「審判者」の不在のなかで、世界は突然おそるべき両義性のなかに姿を現しました。神の唯一の「真理」はおびただしい数の相対的真理に解体され、人々はこれらの相対的真理を共有することになりました。こうして近代世界が誕生し、と同時に、近代世界の像(イマージュ)でもあればモデルでもある小説が誕生したのでした。(ミラン・クンデラ『小説の精神』七頁)

小説の精神 (叢書・ウニベルシタス)

小説の精神 (叢書・ウニベルシタス)

という文章を読み上げ、相対的世界における『ドン・キホーテ』を読み取るのと、もう一つはカルロス・フエンテスの『セルバンテスまたは読みの批判』と『テラ・ノストラ』に触れたところが面白かったですね。

セルバンテスまたは読みの批判』での議論では、印刷技術の普及と『ドン・キホーテ』で描かれた周囲の人物と繰り返し議論を重ねる様を、近代民主主義の誕生と絡めて論じる部分があったらしく、私も十年ほど前に読んだはずなのにまったく覚えておらず、非常に新鮮に感じました。

テラ・ノストラ (フィクションの楽しみ)/カルロス・フエンテス/本田 誠二 - 小説:honto本の通販ストア

そのフエンテスの、ちょっと前に出たばかりの大作『テラ・ノストラ』を樺山さんが読んできたということで、セルバンテスが絡んでくるあたりを朗読していました。『テラ・ノストラ』ってセルバンテスが関係する作品だったか、と。フエンテスの二著は相補的な関係でしょうか。

最後は近代から現代へ、現代の言語のネットワークとしてのインターネットが話題となりました。まえはネットに民主主義の未来を見る議論などもあったけれど、ネットは多様な言論のユートピアというより、祝祭的な炎上ヘイトスピーチを生み出してもいて、これをどう考えるかというのが一つの難問でもある、と。こういう言い方だったかはちょっと忘れてしまいましたけれども。個人的にはネットの速報性ってここらへんマイナスに働いているところもあって、ツイッターなんかで皆速報を求め、急速に情報が発信される、という情報の高速循環は、デマをばらまいた者勝ちになってしまうところがあるとはしばしば思います。

まあそれはいいとして、ネット社会の現代において『ドン・キホーテ』をどう読むか、というのは『ドン・キホーテの消息』のひとつのテーマでもあるようですので、それは作品を読んでの、ということでしょう。

だいたい90分くらいの講演だったのですけど、十人に満たないくらいの参加者だけで聞いておわるのではもったいなさ過ぎる興味深い内容で、学会発表の基調講演レベルという意見もあったくらいでした。これまでの議論を概説する部分がすでに結構な労作で、私も十年ほど前に、『ドン・キホーテ』論をいくつか読んだことがあったので懐かしい名前がいろいろありました。講演で言及されなかったものとしては『ナボコフドン・キホーテ講義』は当時買っただけで読んでなかったりしますけれど、日本だと牛島信明の『反=ドン・キホーテ論』が結構面白いものだった覚えがありますね。

反・ドン・キホーテ論―セルバンテスの方法を求めて

反・ドン・キホーテ論―セルバンテスの方法を求めて

録音はされているようなので、どこかで文字起しするなり、講演原稿を活字化するなりしてもらいたいですね。樺山さんが持っていたのは参加者に配られたレジュメよりは詳しいくらいのメモだったので、元原稿があるわけではないみたいですけれど。

近年に出た関係書籍として、樺山さんは以下の本を薦めていました。

ラジオ講座みたいなものですけれど、こういうのは図や写真が多かったりして案外良かったりするんですけれど、これもそうなのかな。