ヤマト王権(雄略期)の支配領域について、東国〜九州とのことでしたが、このとき、東北には蝦夷がいたのだろうと思います。平安では戦闘になっているのに、この時代はそうはならなかったのですか?

以前の回答でも少し書きましたが、東北では古墳前期から、太平洋岸地域に前方後円墳が確認でき、縄文時代以来の西方との社会的相違のなかで、しかし首長制社会へと移行する集団があったことが窺われます。しかし、飛鳥時代以降の蝦夷の活動をみると、そこには、平準化された共同体よりなる狩猟採集社会が広汎に存在したようです。東北は、日本海側と太平洋側の相違もあるでしょうが、そうした質的に異なる集団が混在し、場合によっては軋轢を抱え込んでいる状態だったのでしょう。首長制社会を選んだ人びとは、ヤマト王権との繋がりを軸に、共同体社会を支配下に置こうとしていたと考えられます。ヤマト王権はそうした陥穽に入り込み、飛鳥時代以降、制圧戦争によって版図を拡大してゆくのです。

古墳時代に築造された多くの古墳は、被葬者の支配していた土地や権力と関わりがあったのでしょうか。近畿など、近いところに古墳が乱立しているようにみえます。

基本的には被葬者の、あるいはそれを受け継ぐ首長の支配領域に構築されたと考えられています。ヤマト王権の大夫層=群臣層の説明のところでも説明しましたが、奈良盆地のなかでさえ、あれだけ強大な複数の豪族たちが存在するのです。彼らもそれぞれ前方後円墳を構築していたクラスの集団ですから、大和グループ/河内グループのところでも解説したように、非常に大規模かつ高密度の政治集団が構築されているわけです。

『梁職貢図』は、なぜ実際に来てもいない倭国使を描いたのでしょうか。

南朝勢力は、北方の胡族王朝に対して、自分たちこそが正統な漢民族の王朝、中華王朝の後継者であるという意識を強固に持っていました。倭は劉宋時代に朝貢していた冊封国ですから、現在は国交が樹立されていなくても、理念上は宋→斉を継承した梁の配下であるという位置づけだったのでしょう。とくに、北朝に対してそうした姿勢を表明していたものと考えられます。

銘文の彫られた鉄剣をみると、為政者が自らの正当性・正統性を記録した文献があってもおかしくないように思われる。なぜ『古事記』や『日本書紀』以前に存在しなかったのだろうか?

古事記』『日本書紀』の前には、推古朝の『天皇記』『国記』、そしてそれらの素材になった、「帝紀」「旧辞」といった文献の名称が、実体は不明なものの記録に残っています。「帝紀」は大王の系譜、「旧辞」は宮室・朝廷・有力氏族の伝承で、『古事記』や『書紀』も、それらを継承していると考えられています。7世紀までは、紙の生産はまだ充分ではなく、文字は主に木簡に記録されていたと想定されます。中国でも、漢代以前の文献は竹簡による巻物の形で出土します。しかし、日本列島ではそうした出土が確認されないので、少なくとも大化の改新によって中央集権体制が構築されてゆく以前は、歴史や神話は主に口頭伝承として、語部などの特殊技術を持った人びとにより管理・解消されていたのでしょう。民族社会では、現在でも、口頭の形式で70代前までの王の歴史を再現できる人びとも存在します。それがだんだんと、渡来人たちの力を借り、文字による記録へと移行していったのでしょう。

神社の起源は玄界灘の沖ノ島での自然祭祀であったが、そもそもは中国から伝わったと考えることは可能か? なぜなら、「神社」は音読みであるので。

まず、ぼくの話し方が悪かったのだと思いますが、沖ノ島がすべての神社の起源になるわけではありませんので、間違いのないように。4世紀、日本各地で類似の自然祭祀が始まるということです。これらは、当初は専用の社殿などを設けず、露天で行われていたことが分かっています。のちに、仏教の影響などもあり、神の住処、あるいは祭祀の場としての社殿が建設されてゆきます。古墳時代から神仙思想の影響があるので、このような自然神の形象にも、中国文化の影響が少なからずあります。飛鳥時代以降に明確になる祭祀の祝詞などにも、漢籍からの影響が読み取れるのです(例えば「大祓祝詞」には、仏教経典『本願薬師経』の文言が援用されています)。しかし、神社はカミノヤシロと訓読みできますので、ジンジャが即中国文化に繋がるわけではありません。

神社や寺院は、奉祀する神格など勝手に決めていいのでしょうか?

6世紀初頭になると、ヤマト王権内部に祭祀を管理する部署ができたらしく、各地の祭祀遺跡で神祭りの道具が、滑石製模造品による刀剣・玉・有孔円板(鏡)のセットに統一されてゆきます。以降、これからお話をしてゆく神統譜の作成、国家が幣帛を頒布する対象としての官社への位置づけなど、次第に王権の側による各地の祭祀への介入が強くなってゆきます。しかし、基本は氏族の氏神、地域の産土神などですから、それぞれの奉祀地域、奉祀氏族で個性ある神祇が祀られていたわけです。

継体は北陸のグループであったとのことですが、実力があったと判断できるのはなぜでしょうか?

それ以前の実力重視の王権において、大和でも河内でもない、これまで大王を輩出していない地域から選ばれて即位したからです。万世一系を建前とする『日本書紀』が、武烈からの断絶を語り、「応神天皇五世孫」として掲げてくるわけですので、実際はそれまでの王統とはほとんど無関係の人物だったのではないかと考えられます。飛鳥王朝は、古墳時代実力主義の名残として、群臣層の承認を推戴を受けなければ即位を認められません。継体には、大和の豪族たちを納得させる力があったということでしょう。

天皇のなかでも、大友皇子や草壁皇子のように、即位をしていなくても○○天皇として位置づけられる例がありますが、誰がどのように判断しているのですか?

大友皇子弘文天皇と諡を献じられたのは、明治になってからのことです。近代における天皇家の神聖化のなかで、政治的に配慮された結果です。また草壁皇子は、天平宝字2年(758)8月、淳仁天皇によって「岡宮御宇天皇」として追諡されます。当時、奈良王朝の皇位継承の共通理解であった、「天武と持統の子である草壁の子孫が皇位を継ぐ」原則が崩れ、孝謙上皇の後見のもと草壁の弟である舎人親王の子、大炊王淳仁が即位していました。淳仁と、その参謀ともいうべき岳父の藤原仲麻呂恵美押勝)は、その出自の不安定さを糊塗するために、あえて草壁を天皇として神聖化し、血統では齟齬があるものの理念上は子孫であるとの喧伝を行ったのでしょう。

王位継承をめぐる対立があり、実際に誰かが王になったとしても、税を納める農民など一般の人びとは、どの人が王になったと知らされていたのでしょうか。もしそうでなければ、何のために王位に拘るのでしょうか。

王の代替わりは、ヤマト王権に服属していた豪族たちには、間違いなく知らされていたと考えられます。前回お話しした奉事の関係もあり、大王と自らとの臣属関係を更新する必要があったからです。例えば出雲国造は、その代替わりごとに中央へ登り、天皇への服属儀礼として神賀詞を奏上することが義務づけられていました。その規模の大小や形式の相違はあれ、同じようなことが各氏族と王権の間で執り行われたのでしょう。ワカタケル大王の名前を刻んだ稲荷山古墳の鉄剣銘や江田船山古墳の鉄刀銘は、その形象化であるともいえるでしょう。ただし、それ以下の一般庶民へどれだけ周知されたかは、残念ながら分かりません。王権の直轄地のような畿内と、東国や九州とでは、地域によって差違も大きくあったものと考えられます。なお、天皇は即位した時点で今上となり、固有名詞を失います。これは天皇という地位が、まさに王権の一機関であって、個性によって成り立つ地位ではないことを明示しています。誤解を恐れずにいえば、即位とはある固有の人物が王になるということではなく、普遍的な存在である王がある個人の心身を借りて顕現するということなのです(あくまで理念的には、ですが)。

飛鳥時代、書物によって、いつ何が起きたのかが安定していないのはなぜなのか。また、間違った年を書いてどうしたかったのかが分からない。

史料によって、ある出来事の年数や内容が食い違うことは、別段不思議なことではありません。そのなかのどれかが間違っているか、あるいはあえて異なる記述をしているか、ということです。継体/欽明の崩御・即位を巡っては、『日本書紀』が編纂された時点で複数の所伝があり、『日本書紀』は本文としてある年号を選びながらも、その異伝についても付載をしたわけです。これは『書紀』の編纂方針でもあり、神話を記録した神代巻でも、本文のほか、幾つもの異伝を「一書」として付載しています。また、「なぜ異伝があるのか」という問いについては、講義で扱ったとおり内乱の可能性が指摘されており、継体→欽明の王統ラインと、これに対抗して即位した安閑・宣化の王統ラインがあり、それぞれの集団で伝えている年号に相違があった、という見解が提出されています(ただし、果たしてそこまで断言できるかどうか、現在は批判のほうが大きく、単なる錯簡として考える向きもあります)。

飛鳥のような狭小な地域で、どのように首都機能を果たしえたのでしょうか。

飛鳥自体は、三方を丘陵・山地に囲まれた狭小な地域ですが、西を葛城を超えて河内へ出る横大路、東を長谷から伊賀、伊勢へと繋がってゆく山田道、北を奈良山を越えて山背・近江、東方・北方へと連結する下ツ道、中ツ道といった交通路へ通じている。さらに天然の要害に守られていて、万が一のさいには南の吉野から東国、熊野、紀伊方面のいずれへも逃れられる。王朝の拠点としては、実は絶妙なロケーションなのです。

『日本書紀』はもともと『日本紀』が書名だったとする考えがありますが、その違いは何ですか?

六国史における奈良時代史書続日本紀』は、『日本書紀』の成立を語る最古の史料ですが、そこでは書名を『日本紀』としています。以降の六国史もみな『○○紀』という表記であり、『日本紀』が本来の書名だろうという見解が強くあります。しかし一方で、古写本がそのタイトルをみな『日本書紀』としており、先蹤となる中国正史にも『漢書』『後漢書』『魏書』…などとあることから、『書』の紀伝体叙述部分ということで、『日本書・紀』なのではないかとも考えられているのです。しかし、同書の直接的な素材となった「帝紀」「旧辞」の存在、前者がヤマト王権朝貢した六朝の歴史書東晋・袁宏『後漢紀』、干宝『晋紀』、訒粲『晋紀』、とくに『日本書紀』と同じく天地開闢から筆を起こしている、魏・荀悦『漢紀』、西晋・皇甫謐『帝王世紀』に基づいていることを考慮すれば、やはり『日本紀』が原書名なのだろうと、個人的には考えています。

ローマでは、支配者が持つべき徳というものがありましたが、飛鳥時代にそうしたものはあったのでしょうか?

これ以降、天皇も中国の皇帝に倣い、儒教的な徳を身に付けてゆくことになります。持統天皇の孫、珂瑠皇子=文武天皇を教育するために編纂された、『善言』という書物の断片が、『日本書紀』のなかに含まれていることが確認されています。これは偉人や英雄の言動を集めたもので、中国でも『古今善言』など類似の書物があり、珂瑠皇子の帝王学の教科書であったと考えられています。中国皇帝と同じく、日本の天皇も、歴史や神話、儒教や仏教に学びながら、帝王としての徳を涵養していったものと推測されます。

聖徳太子の話のように、嘘だと分かっていることが、どうして教科書で教えられているのでしょうか?

さて、どうしてでしょうか。全学共通日本史という授業で、何度も発し答えてきた問いです。まず、日本の小中高の教科書は、文科省の検定制度のもとに動いています。この制度は、GHQの占領期、国家が皇民を教育するために国定教科書を用いてきた仕組みを改め、教科書作成を民間に開放したことと連動して、簡単な内容の誤りなどをチェックするために始まりました。その後、解放後の逆コースのなかで国家主義的な介入が強まり、また家永三郎らの教科書裁判を受けて透明化が進んでいたものを、現政権に至って再び国家主義化酷くなりました。現状では、学界で議論がある事項については、学界の意見より、政府の解釈に従う取り決めになっています。突き詰めていえば、学界で正しいと考えられていることが教科書に反映されず、国家の正しいということがストレートに反映される仕組みになっているのです。現実に、アイヌの共同体を解体した旧土人保護法の記述などに、この種の弊害が出始めています。聖徳太子をめぐる記述には、未だこうした介入はありませんが、例えば教科書を用いた指導の詳細を決める指導要領の改訂に際し、信仰上の名称である「聖徳太子」を改め「厩戸王」に変更しようとしたところ(厳密には、人物を中心に教える小学校では「聖徳太子」、史実を教える中学では「厩戸王聖徳太子)」にしようとした)、批判が多く寄せられ、結果、「聖徳太子」表記を統一的に復活する事態などもありました。近代以降の「刷り込み」が、強固に作用しているものと思われます。教科書の記述は、学界の見解(通説)のみならず、国家の目論見や一般社会の通念などとも無関係ではなく、それゆえに刷新されるのが困難なのです。

「血縁原理の導入」とあるが、もともとは中国や朝鮮のものだったということでしょうか?

実力主義で推移していたと考えられるヤマト王権の継承原理に、中国王朝で使用されていた父系直系継承をはじめ、王朝を血縁によって運営してゆく仕組みが導入されてくるということです。弥生時代の段階からお話ししているように、邪馬台国からヤマト王権においては、前代の政治的成果を次代に安全に引き継がせ、そのことによって王権を永続的に維持する仕組みが模索されてきました。倭の五王をみると、幾つかの血縁グループが親子・兄弟間で大王位を継承していることが分かりますが、そのグループの勢力が衰えてしまうと、競合する他のグループへ大王位が移行する。その折に、場合によっては政治的な危機が訪れることになる。中華王朝などは、それを回避するために後宮を置き、現王帝の子息を複数生産する仕組みを確立して、そのなかで父から子へ王位・帝位を継承し続けるシステムを作り上げたわけです。ヤマト王権もそれに学び、安定的な継承のシステムとして血縁原理に注目していった、その結果が天皇制なのだということです。

大兄制に関して、王位継承をめぐる争いのなかで、厳密に大兄が付いているかいないか、ということで何らかの意味はあったのでしょうか?

結局、『日本書紀』に記載されている大兄が、当時存在したすべての大兄であったのかどうかが分からないので、この質問に回答することは困難です。例えばまさに聖徳太子厩戸王は、用明大王と穴穂部間人王女の間に生まれた王子(来目皇子殖栗皇子茨田皇子)の長子であり、斑鳩宮という王子宮を営んでいました。しかし、大兄という称号では呼ばれていません。ただし、講義でお話ししたとおり、一世代に複数の大兄が存在したり推戴する豪族の意向もあって、必ずしも大兄が即位するには至らないのが現実であった、またその継承の順序も遵守されるには至らなかったとはいえそうです。

合議制に参加した有力豪族たちをみると、大王がいなくても支配が可能であったように思うのだが、どうして彼らは、大王や大兄を必要としたのだろうか。

授業でもお話ししたとおり、大王が利害の調整を体現しており、豪族たちは、その機能・権限を分有し王権を運営しているに過ぎません。もちろん、例えば蘇我氏が大王位に就いていたとすれば、大和グループの王/臣下の関係も流動的で、飛鳥時代においても大王家という血統は確立されていないことになります。しかし誰かが盟主となって各政治グループの調整に当たらなければ、相互に衝突して戦乱となるか、あるいは牽制しあって統一的な動きがしにくくなり、ひとつの国家として中国や半島諸国と交渉することが難しくなる。東アジアの政治的緊張のなかで、中央集権化が必要となり、その中心として大王家が屹立してくるわけです。

現在、蘇我や大伴、阿倍、中臣といった苗字の人が存在しますが、安直に飛鳥時代の豪族の子孫だと考えてよいのでしょうか?

列島に生きる人びとの苗字は、その後変転を繰り返します。古代においても、Aという氏姓を名乗っていた集団が突如Bという氏姓を名乗り始める混乱があり、そのつど朝廷がこれを正す系譜や帳簿などを作成しています。実は、序文に従うなら『古事記』もその一種で、壬申の乱に伴う中央豪族の没落、地方豪族の台頭のなかで、さまざまに生じた氏族・系譜の混乱を正すことを一目的としていたのです。同じようなことは、中世にも、近世にも、そして一般庶民が苗字を許された近代にもありました。そのそれぞれにおいて、系譜や伝承は多様に捏造されています。よって、王族や公家の系譜でもない限り、古代にまで遡れる素性の人は少ないと思われます。

蘇我大臣や物部大連の「臣」「連」には、どういう意味、違いがあるのでしょうか?

事典を調べれば分かることですが、「臣」は「大オホ」+「身ミ」で勢力のある一族の意味、「連」は「群ムレ」+「主ヌシ」で集団の首長の意味と考えられています。前者は多く地名を氏の名に持ち、その地域の豪族で大王家に臣属したものとみられます。一方後者は職掌を氏の名としており、伴造―部民制において、特定の役割を果たす集団として王権内に位置づけられた氏族であったと考えられます。

飛鳥の王朝にみられる、合理的な政治のあり方と、非合理的な神話や祭祀のあり方が共存しているところに、日本の奇妙な魔術性の根源があるように思われた。人びとが信じる神々が、彼らが無自覚な外部において政治へと収斂されてゆく統治の機構こそ、現代に至るその魔術性の基礎になっているのではないか。

深いですねえ。まさに、その仕組みが現在も機能している点が怖ろしいところです。明治の廃仏毀釈は、近世以前の神仏習合の伝統を破壊し、渾然一体となった寺社の信仰対象を分離して、神社の祭神を『古事記』『書紀』に出てくるような古典的なものへ改めてゆきました。祭祀が体現する物語りも、漢籍や仏教の影響を受けたものから、記紀神話に依拠するものへ変更されていったのです。例えば東北の某神社では、形式的には明らかな棚機の祭りを、スサノヲによる大蛇退治だという解釈で斎行しています。このような歪曲が各地で維持されていることで、帝国日本の歴史が清算されずに残存してしまっているのです。

日本で文字が使用されるのはいつからなのでしょうか?

弥生時代の農具に、文字らしき「卜」という記号が書かれているものが出土しています。しかし、幾つかを連結して文章的なものが表されない限り、それを文字とは呼びにくい。そうなると明確なのは、ワカタケル=雄略に関係する金石文が初出、ということになるでしょう。ただし、邪馬台国段階の外交においても、渡来人を活用して、文書によるやりとりが発生している可能性はあります。魏からもたらされた勅や檄文は、魏の使者によって告諭(説明)されていますので、漢字の一般使用がなかったことは確かでしょうが、一方で中国王朝からは文書がもたらされているので、それらをもとに消化が進んでいった可能性は大きいでしょう。

中国や朝鮮は、何度も王朝が交替しているにもかかわらず、過去の史料が残っているのはなぜなのでしょう。偶然残ったのでしょうか?

中国王朝においては、先行する王朝の歴史を客観的に叙述し、後世に伝えてゆくことがひとつの使命とされていました。編纂に当たる史官の立場からすると、その仕事が後世の学者たちに批判的に読み込まれることになりますので、天を基準にバランスを保ち、現王朝のベクトルと一体化せず客観的に叙述することが理想とされたのです。もちろん、それでも恣意性に堕してしまうこともあったのですが、正史としての二十五史全般にわたり、すべてを自分の利益になるよう歪曲して書く、ということは行われませんでした。こうした編纂事業との関係もあり、中国では前王朝の記録の保存が図られたのです。なお、朝鮮は三国の対立のなかで貴重な史料が潰えてしまい、古代のありさまは、中世に編纂された『三国史記』『三国遺事』を批判的に活用してゆくしかありません。ただし、近年の発掘によって、杵気分や竹簡などの出土文字史料が多く見出されており、半島の古代を考える重要な手掛かりとなっています。

「万世一系」とは、どこまでを指すのでしょうか。王朝ではなく王統の交替であれば、ある程度統一感はあるのではないでしょうか。

神武以来、現在に至るまでです。継体より前の系図では、雄略以外に実在を確定できる人物がおらず、その系図上の登場人物も、捏造し水増ししたことが明らかな大王たちも多数存在します。河内グループと大和グループとでは、血縁関係があったかどうかも不明なので、ヤマト王権の代表は輩出していながら、一系統の大王家とはみなさないのが現在の理解です。

中学・高校時代に、5世紀の飯豊青皇女を扱いましたが、先生の授業でとりあげなかったのはなぜですか?

飯豊青皇女だけではなく、雄略を除いて、継体より前の大王(天皇)については扱っていません。少なくとも現時点で実在が確認されておらず、『日本書紀』や『古事記』の語る虚構に過ぎないからです。むしろ、高校や中学で飯豊青皇女を扱ったということが驚きです。どのように教えられたのでしょうか?

古代日本にはヒメヒコ制と呼ばれる二重天皇制があったそうですが、大兄制と同じものですか?

ヒメヒコ制については、卑弥呼に関する質問でもすでに回答しましたが、男性=ヒコが世俗的政治を担当し、女性=ヒメが宗教的祭祀を担当し、両者で祭政一致の王権を担う仕組みです。大兄制は、大王位継承の世代内における順序の基準をなすものですので、まったく別のものです。

この時期ですら、ひとつの豪族に権力が集中することを抑制する仕組みができていたのに、なぜ平安時代には藤原氏の独占へと進んでしまうのだろうか。

結局、天皇制が維持された列島社会の場合、政権に関与する豪族・氏族のなかから一部の勢力が突出してゆくとき、契機になるのは大王家=天皇家との姻戚関係です。葛城氏しかり、蘇我氏しかり、そして藤原氏しかり。藤原氏の突出は、天武・持統の子である草壁皇子の子孫を皇位に即かせるという合意事項のもと、草壁の側近であった藤原不比等が、その子文武、孫の聖武へ至る継承を補佐し、併せてその後宮を後妻である県犬養宿禰三千代に管理させ、娘の宮子、光明子らを入内させてゆくシステムを構築したことに由来します。藤原氏の独占は、同氏が天皇皇位継承を、その氏族の内部へ抱え込んでしまうことによって生じるのです。