Bass 町田龍哉 Drums 内田裕士 Vocal&Guitar 柿澤秀吉
総合型アンケート集計・分析ソフト SSRI 社の製品。
NHK大河ドラマ第35作。平成8年(1996年)放送。
参考文献『NHK大河ドラマストーリー 秀吉(前編・後編)』NHK出版 ほかには、大河ドラマを扱っている諸サイト(『秀吉』『キャスト』でググって見つけたところ)。
目次 豊臣兄弟がクライマックスに近づいてきて、著者的にはそろそろかという思いです。 豊臣の弟である秀長についてまとめていきたいと思います。 全2回で、今回は生い立ちや秀吉と歩んだ部将としての道のりについて語っていきます。 🎵 BGMを再生する 概要 豊臣秀長(1540年~1591年)は、戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した武将・大名で、天下人・豊臣秀吉の弟として知られます。秀吉の「天下統一」において、軍事・政治両面で欠かせない存在だった人物です。 出自と生い立ち 秀長は天文9年(1540年)、尾張国中々村(現・名古屋市中村区)に生まれました。従来は秀吉と異父弟とされることが多かったですが、…
目次 秀吉晩年に起こした朝鮮への侵略。この戦いが豊臣政権の安定性を毀損する理由にもつながりました。 そんな朝鮮侵略について調べていきます。 2回に分けて、今回は勃発した経緯や大局的な推移について説明します。 🎵 BGMを再生する 発生した原因 秀吉による朝鮮侵略(文禄・慶長の役、朝鮮側では壬辰倭乱)の原因は、単一の動機ではなく、秀吉個人の野望、豊臣政権の国内事情、そして東アジアの国際秩序に対する認識の違いなど、複数の要因が重なった結果と考えられています。以下、主な原因を整理します。 1. 明征服構想(唐入り)が根本目的 秀吉の最大の目的は、朝鮮そのものを征服することではなく、明(中国大陸)を征…
目次 先日、本ブログで秀吉の天下統一後の施策について話ました。 うち話したのが天下統一後の反動でしたが、今回は都市整備や文化政策の面で深堀していこうと思います。 🎵 BGMを再生する 政策概要 豊臣秀吉が行った都市整備と文化政策は、天下統一を果たした天下人としての権力を可視化し、新しい時代の秩序を作り上げることを目的とした、極めて計画的で大規模なものでした。以下にそれぞれまとめます。 1. 都市整備政策 1. 聚楽第(じゅらくてい)の造営 天正14年(1586年)、秀吉は関白に就任した翌年から、平安京の大内裏跡地(現在の京都市上京区)に聚楽第の建設に着手しました。これは堀と石垣で囲まれた城郭様…
目次 1590年に秀吉は北条征伐を行いました。 北条が降伏した段階で、奥州の大名は秀吉の帰順しており、実質秀吉に抵抗する勢力はなくなりました。 小田原征伐の後に秀吉は統治体制の安定化のために施策を行いました。 本日テーマ: 小田原征伐後に秀吉が行った施策とはどのようなものだったかについて説明してみる 🎵 BGMを再生する 概要 小田原征伐(1590年)は、豊臣秀吉による天下統一の最終段階にあたる大規模な軍事行動でした。この戦いで北条氏を滅ぼしたあと、秀吉は以下のようなことを行っています。 少し駆け足で実際の主だつ施策について列挙してみます。 1. 関東・奥羽の大名配置と支配体制の確立 徳川家康…
前田利家 柴田勝家と前田利家の一騎打ち史実 ① 史実の市の「信長の葬儀」 豊臣**と史実 豊臣** 史実 勝家と利家が一騎打ち 一騎打ちをした記録はない 利家が勝家と直接斬り合う 利家は柴田軍の一員として戦った 利家が勝家を裏切ることを決断 戦場から撤退し、秀吉に降伏 勝家と利家の個人的な関係を強く描く 実際にも勝家と利家は非常に近い主従関係だった 利家の離脱が勝家の敗北につながる これは史実でも重要 史実で一番重要なのは、利家が勝家と戦って勝ったのではなく、戦場から兵を引いたことです。 賤ヶ岳の戦いでは、前田利家は柴田軍の一翼を担っていました。しかし戦局が秀吉側に傾くと、利家は軍を撤退させ、…
天気晴朗なれども波高し ――「省略の美」を考える―― 三笠艦上の東郷平八郎司令長官(中央)、秋山真之参謀(右)と加藤友三郎参謀長(左) 原画は東城 鉦太郎による。写真はPublic Domain ブログ激励のため、上のバナーをクリックして下さい ネルソン提督の「England expects every man to do his duty」という言葉を聞くとすぐ思い出すのは、1905年の日本海海戦の開戦時に東郷平八郎司令長官が全軍に送った言葉です。 それは、「天気晴朗なれども波高し・興国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」です。ネルソン提督の言葉の日本語版です。 私の頭の中では、ここ…
1570年11月から12月にかけて、信長と反信長で結集した各勢力との間で、一時的な休戦協定が結ばれた。だが前記事で触れたように、願証寺を中心とした伊勢一向一揆がこの時に信長と休戦したかどうかは定かではない。互いに兵を引いて、単に戦闘が行われていない状態だったのかもしれない。 ちなみに北近江で対峙が続く信長・浅井間においては、戦いがすぐに再開されている。翌71年2月には、佐和山城に籠っていた浅井家重臣・磯野員昌が長引く包囲に耐え切れず、信長に降伏開城してしまう。 浅井勢はこのままではジリ貧だ。5月6日、形勢を逆転させんと浅井勢が小谷城から出撃、5000の兵で鎌刃城を攻めるのである。これは思い切っ…
織田信忠の「たられば」 ※注意 現実には起こらなかったことを語る「たられば」です。 私見であり、そもそもありえない事を勝手に想像しました。 織田信忠が本能寺の変で生き残っていた場合、秀吉の天下取りは相当に難しくなったと考えます。 ただし「豊臣秀吉が絶対に天下を取れなかった」とまでは言えません。 まず最大の違い 史実では、 信長死亡 + 信忠死亡 だったため、 織田家の正統な後継者が突然いなくなった ことが最大の問題でした。 そのため、 信雄・信孝・三法師 などをめぐって後継者争いが起こり、秀吉がそこに介入できました。 ところが信忠が生きていれば、 「次の織田家当主は信忠」 でほぼ決まります。 …
目次 秀吉が柴田勝家との闘いを制し、信長が築いた織田家の勢力を実質的に継承することとなりました。 この流れに対して織田次男の織田信雄が敵対行動をとるようになります。 単独で秀吉と対応することは難しく、立地的に近隣であった徳川と同盟を結び、秀吉VS徳川・信雄の戦いが勃発しました。 🎵 BGMを再生する 概要 小牧長久手の戦いは、1584年(天正12年)に、織田信長の死後に台頭した羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)と、信長の次男・織田信雄(のぶかつ)および徳川家康が中心となって戦った、いわゆる「天正十二年の内乱」と呼ばれる大規模な合戦です。 1. 戦いの背景 本能寺の変(1582年)で織田信長が死去した後…
史書(史料) 「山崎の戦い」の真実・定説が変わる ■従来の通説 ・本能寺の変(1582年6月2日)・豊臣秀吉が「中国大返し」で急行・山崎の戦い(6月13日)で秀吉が明智光秀を破る という流れが一般的でした。 ■新しく注目されている説 近年見つかった池田恒興(いけだ つねおき)の書状などから、 ・羽柴秀吉本隊は山崎に到着するのが遅れた。・戦闘の主力となったのは池田恒興・中川清秀・高山右近らの軍勢。・明智軍を最初に崩したのも池田軍だった。 という可能性が指摘されています。 つまり、実際に戦場で勝敗を決めたのは池田恒興だったという見方です。現在の研究では「その可能性は高い」と考える歴史学者が増えてい…