(増補版)106C3/3:気になった事柄を集めた年表(1615年〜1618年)

題:(増補版)106C3/3:気になった事柄を集めた年表(1615年〜1618年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1616年4月、徳川家康が、没した(1543年〜1616年、73歳)
  徳川家康が没し、家康が殉死を嫌ったため、殉死者は
 出なかった。
  1月(旧暦)に鷹狩先で倒れ、4月(旧暦)午前10時頃
 駿府城で亡くなった。
  死因は、鯛の天ぷらによる食中毒説があったが、胃癌
 説が主流となっている。
  それは、「徳川実記」の病状の記述が、その論拠とな
 っている。
  松平家菩提寺大樹寺に、位牌があるが、故人の身
 長と同じ大きさに作られているという。
  それによると、身長は159センチメートルとなる。
  当時としては、平均身長に相当する。
1616年4月、家康の遺言
  尾張という流通の盛んな土地で成長した信長や秀吉は、
 商人の原理と機略を持っていたが、
  家康は、そういう所が少しもなく、
  あくまでも、山村の庄屋さんの原理で、その生涯を終
 始した。
  「三河の頃の制度を変えるな」と遺言もした。
  家康の武将としての理想像は、武田信玄であり、政治
 家としての理想は源頼朝であった。
  豊臣政権の直轄領は、わずか二百数十万石に過ぎなか
 った。
  秀吉は、農村を収奪して、米穀をもって財政の基盤に
 するよりも、海外貿易による儲けの方に、より魅力を感
 ずる政治家であった。
  その点、徳川家は、「武士は商人のまねをするな。む
 しろ百姓のまねをせよ」という事が、徳川家の譜代大名
 のいくつかの家の家訓にあり、
  例えそういう家訓のない家でも、倫理として、それが
 厳然として存在していた。
  その為、商人のまねは、武士は一切禁じられていた。
  止むを得ざる場合は、職人としての内職は黙認された。
  傘張り、楊枝(ようじ)削り、扇子の骨作りといった
 下職としての内職である。
  大内氏は、対明・対韓貿易をやって、大いに国富を得
 た。
  単に百姓大名なら、室町期にあって、あれほどの文化
 圏を誇ることは出来なかったであろう。(参考:街道を
 ゆく1)
1616年6月、本田正信(ほんだまさのぶ)が没する(1538年
 〜1616年)、徳川家康重臣で、老中。
  家康の信任厚く、初期幕政を牛耳じり、大老的になっ
 た。
  家康は、正信を参謀の如くに重用した。
  秀忠の時は、秀忠付の年寄(老中)になった。
  正信は、石田三成の嫡男・重家をどうするかの問題の
 時、死罪を免じる事を家康に進言した。
  家康が、その理由を尋ねると、
  「治部(三成)は、西国大名を糾合して、関ケ原とい
 う無用の戦を起こし、そのおかげで日ノ本60余州は、す
 べて徳川家に服すことになったのです」と答えた。
  家康は、正信の言う事に一理あると答えて、重家を赦
 免にしたという。
1616年7月、家康の6男・松平忠輝が処罰された。
  松平忠輝(越後高田)が、大坂夏の陣に参加すべく、
 越後から上京の途中、
  近江守山で、将軍の旗本3人が、忠輝の行列の前を、馬
 で横切ろうとしたので、忠輝は、家臣にこれを切り殺さ
 せた。
  将軍の弟に対して無礼だという訳であるが、
  これを聞いた家康は、忠輝が一大名として、将軍の旗
 本を殺したのは、公儀の尊厳性を犯すものだとして、忠
 輝を上州藤岡に居させた。
  さらに、将軍・秀忠は、家康の死後ほどない1616年7月
 に、忠輝の領地を没収し、伊勢朝万熊(あさま)に配流
 した。
1616年10月、令・煙草栽培を禁止
  煙草の栽培を禁止する令を出した。
1616年、令・人身売買を禁止した。
1616年、令・欧船の来航を制限した。
  欧船の来航を平戸・長崎に制限した。
  南蛮貿易(スペイン・ポルトガル)を縮小させた。
1616年、家康が太政大臣に任じられた。
1616年、500石から1万石を対象に、大坂夏の陣と同じ内容
 を持つ軍役規定を明文化した。
1616年江戸城の外堀が完成
  この頃、駿河台に神田川の流路が開通し、外堀が完成
 した。
1616年、江戸市街の建設を監督
  本田正信は譜代の重臣ではない。
  しかし、家康の側近として絶大な信任を得た。
  また、正信には戦場の武功は無かったが、領国経営に
 は大いに手腕を発揮し、関東の総奉行として代官の領民
 統治を指揮し、江戸市街の建設を監督した。
1616年、出版
  林羅山が、「丙辰紀行」を著わした。
1616年徳川幕府が、外国人の国内自由通行を禁じた。
1616年、後金が建国された。
  清朝1616年〜1912年。12世紀に金を建てた女真族
 末裔はヌルハチに指導され後金を建国し、
  その後継者のホンタイジは、1636年に、国号を清と改
 めた。
  李自成の乱によって、明朝は滅亡し、降伏した明の将
 軍・呉三桂の軍に導かれた清軍は、北京を占領し、ここ
 を都とした。
  清朝は、明の政治制度を受け継ぎ、官僚には満州人と
 漢人を併用し、対外的にも支配領域を広げた。
  康煕、擁正、乾隆の3代の世は黄金期であった。
  しかし、強大な中央集権が続いたために、近代化が遅
 れ、帝国主義諸国により半植民地化され、辛亥革命によ
 って滅んだ。
1616年ガリレオが、地動説を唱えて、キリスト教の迫害
 に会った。
  この年に、キリスト教の異端審問所で審査され、場合
 によっては、当時よくある焚刑で、焼かれる危険のある
 ガリレオだった。
  ローマ法王庁から、以後、地動説は唱えてはならない
 というお達しで決着した。
  「それでも地球は回っている」と言うガリレオの言葉
 は有名。
  キリスト教の権力の傲慢な押し付けの社会だった。
  焚刑を多くして、好き勝手な事をしている。
  だから故に、キリスト教へのごますり学者たちも大勢
 いた。それだけ、キリスト教が怖かった。
  この頃のヨーロッパ中世のキリスト教に影響された学
 者(ごますり学者)たちは、
  「投げられた石が空を飛ぶのは、石に意思があるから
 だ」とか、
  「煙が低い方に漂(ただよ)うのは大地に恋情(れん
 じょう)を抱くからだ」とキリスト教が好む事を言った。
  キリスト教聖職者たちもこの類で、五十歩百歩だった。
  科学の正常な発展の足を引っ張るキリスト教だった。
1618年、三十年戦争が勃発(〜1648年)
  この頃、ヨーロッパでは、キリスト教が原因となる宗
 教戦争が頻発し、激化している。
  この期間は、『三十年戦争』が戦われている。
  キリスト教カトリックと、プロテスタントの争いで、
 この戦争は、誠に悲惨な長い戦争であった。
  ヨーロッパ人の3分の1の人が死んだという。
  この熾烈(しれつ)で、非人道的な酷(むご)い戦い
 は、ドイツを中心に深い傷跡を残した。
  終わることを知らない戦争で、戦いは長く続いた。
  天然資源に恵まれていないヨーロッパの地の戦争で、
 また、痩せた地のヨーロッパで、宗教を原因とし問題と
 した戦争だった。
  領主と農民の奪い合いの修羅の戦いであった。
  キリスト教カトリックプロテスタントは、そのど
 ちらもが「自分は神の正義だ」というキリスト教の教義
 を掲げて戦った。戦いは止む訳がなかった。
  そこに、被害者の農村の方々が居た。
  これは、略奪を目的とした戦いであった。
  この戦いの兵士たちは、妻や子供や馭者(ぎょしゃ)
 や召使や売春婦(従軍慰安婦)などの一団を引き連れ、
  さらに酒保(しゅほ)商人をも巻き込んだイナゴの群
 れのような大軍団となって、各地を襲った。
  進軍するにつれて、軍隊はまるで集団移住といった姿
 を呈するほどであった。
  ローラーで踏みつぶすように、後には何一つ残らない
 ほど奪い取り、荒廃した地をあとに残した。
  そこには、祖国愛など無く、
  欲望だけの略奪の望みのみが兵士たちを動かしていた。
  倫理観はまったくゼロ。軽蔑の世界だった。
  キリスト教の聖書が教える姿、「イスラエルの地で、
 困ると隣国の富を奪い取りに行く姿」とまったく同じだ
 った。
  キリスト教は、この行為を「(キリスト教の)神の義」
 があれば、行っても良いと教える。
  正義だと教える。
  キリスト教の歴史には、この様な戦争の歴史が、連綿
 と史実に残されている。
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(増補版)105C3/3:気になった事柄を集めた年表(1614年〜1615年)

題:(増補版)105C3/3:気になった事柄を集めた年表(1614年〜1615年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1515年5月、かぶき者を取り締まる
  「かぶき者」の風俗が、この年に、幕府の取締り令の
 対象になった。
  その風俗は、髪は大びたい、大なでつけ(総髪)、大
 すりさげ。
  口から下にひげを生やし、刀は長太刀・長脇差を差し、
 朱ざや、大つば、大角つばを帯していた。
  また、ある者は、冬は紺縮緬の大綿を入れて、丈は三
 里つまり膝の下ほどに短く、そこに鉛を入れて、裾がは
 ね返るようにしていた。
  そして、当時、流行の煙草を、長きせるで吸う。
1615年5月、大阪との講和が決裂し、ふたたび戦端が開かれ
 る状況となる。
1615年、大坂の役にあたり、徳川秀忠は軍役規定を定め、
 諸大名に動員令を下した。
1615年、大阪夏の陣
  冬の陣から4か月後に始まる夏の陣の結果は、既に、戦
 う前から分かっていた。
  城を出て戦う術(すべ)しか大阪方には無かった。
  真田幸村は、家康の本陣深く切り込み、家康の旗を崩
 して、家康を蒼くさせたが、遂に、幸村のほか、後藤基
 次、木村重成(しげなり)らの勇士は、多勢の徳川方に
 圧倒されて難波の露と消えた。
  徳川15万5000は、豊臣5万5000の兵を突き崩し、人口20
 万人と言われていた近世都市・大坂の城下町に突入して
 来る。
  淀殿は、千姫を徳川方に送り届けて、最後の助命を願
 ったが、既に、そんな願いは、功名を争い怒涛の如く押
 し寄せる大名連合軍の歓声に消された。
  わずかに、梨子地緋縅(なしじひおどし)の具足に身
 を包み、太平楽(たいへいらく)という黒駒を引き立て
 て、本丸南の桜門まで出たが、城中に寝返りの不穏な空
 気があるとのことで、すぐ引き返した。
  秀頼は、千畳敷御殿に戻ると、夕方、天守に登り、自
 刃を決意したが、側近が押しとどめた。
  淀殿と秀頼の二人は、二の丸の庭を山里に模して造っ
 てある山里輪の蔵に籠った。
  既に、城内は、相手に内応した放火で火の手が上がり、
 一面の火の海であった。
  キリスト教イエズス会の「日本年報」には、「逃げよ
 うとすると敵の刃に出会い、多くの人々が城壁から飛び
 降りて、地面の石にくだかれた」と記されている。
  慶長20年(1615年)5月7日、淀殿は蒸し暑い蔵で、ま
 んじりともせぬ一夜を明かした。
  太閤秀吉の権威をもって、秀頼を守り、何処までも徳
 川の風下に位置する事を嫌って、誇り高く生きた淀殿
 った。
1615年5月7日、関ケ原の恨み
  大阪城が最後を迎えている戦いの中にあったが、この
 日に、大阪城以外の場所である河内八尾(かわちやお、
 八尾市)で、一つの戦いがあった。
  大坂方の土佐勢が、東軍の藤堂勢と戦いを起こしてい
 た。
  「関ケ原の恨みぞ」と、死に物狂いで突進して行って
 散々に打ち破っていた。(参考:竜馬がゆく・1)
1615年5月8日、淀殿、秀頼・・自害
  翌8日、城内はすでに徳川方に押さえられ、城内検視の
 井伊直孝(いいなおたか)らの一隊が、隠れ家の蔵に鉄
 砲を撃ちかけて来た。
  千姫に託した助命の望みを砕く砲声と淀殿に聞こえた。
  速水甲斐守(はやみかいのかみ)が介錯に立つ。
  秀頼は、臆すること無く刃を腹に突き立てて、23歳の
 命を絶った。淀殿も秀頼に続いた(1567年〜1615年)。
  火が放たれ、大野治長ら二人に最後まで従っていた男
 女30人も、それぞれに白刃を突き交わして、淀殿と秀頼
 に殉じた。
  「日本年報」は、
  「大阪城の巨大な天守は、火事が火薬庫に接すると空
 中に飛び上り、大きな爆音とともに破裂してしまった」
 と記した。
  燃え上がる大阪城の炎は、40キロ離れた京都からも望
 め、京都御所では公卿(くぎょう)らが清涼殿から色々
 な思いをはせて見ていた。
1615年5月9日、おねの嘆き
  翌9日、戦闘を逃れた人々が、京中に押し寄せた。
  京都東山の麓、高台寺(こうだいじ)に居たおねは、
 大阪の空に向かって静かに祈っていたという。
  大阪・夏の陣から京都に帰還した伊達政宗に宛てた「
 おねの手紙」は、
  「大阪の御事は、なにとも申し候はんずることの葉も
 御入候はぬ事にて候」とある。
  大阪の今日の出来事は何と言ってよいのか、申し上げ
 る言葉もございませぬ・・と、政宗に痛い心の内を告げ
 ている。
  夫・秀吉と築き上げて来た色々な事々も思っていただ
 ろう。
  おねは、この後、9年の年月の後、寛永1年(1624年)、
 高台寺に77歳の人生を閉じた。
1615年7月、禁中並公家諸法度武家諸法度寺院諸法度
  幕府は、豊臣氏が滅亡した後、「禁中並公家諸法度
 を発布した(17条ある)。
  朝廷の権威増大を警戒し、抑制する目的があった。
  幕府は、天皇の政治上の行為の制限と、栄誉付与の権
 限も抑制し、幕府の承認を得て初めて有効と規定した。
  そしてまた、幕府は武家諸法度13条、および、順次、
 寺院諸法度も発布した。
1615年8月7日、一国一城令
  幕府は、一国一城令を制定した。
  立案者は、大御所の徳川家康だった。
  内容は、一国(大名の領国、後の藩)に大名が居住あ
 るいは政庁とする一つの城郭を残して、その他の城は、
 すべて廃城とする。
  ただ、大藩もあり、施行は弾力的だった。
  ただ、安土桃山時代に3000近くあった城郭が、約170
 まで激減した。
  そして、家臣団や領民の城下町への集住が進んだ。
  徳川氏の大名統制と支配が強化された。
  法令の目的から、西国の外様大名の地域に徹底された。
1615年9月、[ 貿易 ]、日本は鎖国ではない。
  日本は、金銀が豊富に産出した。
  その金銀で、日本は外国との取引を活発にした。
  大阪での戦いまでは、日本に大きな危機感が存在し、
 輸入品は主に武器などの軍需品であった。
  新興の武家が買い求めた。
  後に、豪商などの絹・毛織物・革製品が主要輸入品と
 なっていく。
  国内の戦争の危機が薄れて、輸入品も豊かな品々へと
 変わって行ったが、金銀産出量の減少も見えて来て、輸
 入品の品も見直されて行った。
1615年、豊臣氏のその後
  大阪城を逃れた人々、
  秀吉の血のつながりは絶えたのか?
  秀頼と千姫との間には子供は無かったが、側室に、国
 松という男の子と、もう一人の女の子が居た。
  7歳の女の子は、千姫の養女となった。
  しかし、8歳の男の子は捕らえられて刑に倒れた。
  その二人の母・松の丸殿は、国松の遺体を引き取り、
 誓願寺に葬った。
1515年、情報伝達手段として、三度飛脚による江戸〜大阪
 の通信と、町飛脚が開始された。
1515年魔女狩りで、ストラスブルグで5000人が焼かれた
 (1615年〜1655年)、その他、ヨーロッパにはあちこち
 にある。
1615年、日本の鉄の優秀さ
  イギリスの東インド会社の日本商品に関する期末報告
 書に、日本製の鉄の優秀さが記されている。
  他の国の鉄は、まったく相手にされないと・・、
  日本製の優秀さを知った買い手は、日本製を求めたの
 で、外国製の鉄を買わないので、イギリスの東インド
 社の成績が落ちたという。
  それほど、日本の鉄が最良のものだという事を示して
 いた。
  日本は、基幹の大切な銅や鉄の重要な原料生産国だっ
 た。
  日本は、その様な基幹の原料だけではない。
  この頃のキリスト教宣教師の記した報告に、日本の紙
 の種類の多さは驚くべき数だと言っている。
  このイエズス会の宣教師は、日本の紙の種類は、ヨー
 ロッパの10倍はあると言っている。
  鼻をかむティッシュの様な柔らかい紙まであると言っ
 て驚いている。
  当時、蛮なヨーロッパ人は、鼻をかむのに、服の袖で
 拭(ぬぐ)っていた。
  アメリカ人が、ティッシュを発明したと悦に入ってい
 るが、日本人は、すでに、300年以上も前に、ティッシュ
 を日常使っていたのだ。
  中国のマカオで、1637年に、別のイギリス人が、日本
 人がティッシュの様な紙を使っていることに驚いている、
 感心している。
  このイギリス人は、日本人が懐(ふところ)から小さ
 くたたんだ紙でスマートに鼻をかむ姿を見て、そして、
 その紙を「使い捨て」で処分した姿を見て、日本の文化
 の高さに感心して、おどろいている。
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