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中谷礼仁『国学・明治・建築家』2007 WEB公開 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2008-04-30 最近中古市場価格が下がってきている

[]webで内容を公開した成果なのか、

中古市場価格が下がってきている。このweb版では著作権のために掲載した写真を大幅に割愛しているため、書籍版も必要であればご入手ください。(当方がもうかるあるわけではありませんが)

2008-03-26 初めてこのページを訪れた方へ

[]この日記の読み方、使い方

このブログは、プロフィールにも書いてあるように、このブログの主宰者である中谷礼仁(なかたに のりひと)による著書『国学・明治建築家』1993の内容をWEBにて公開しているものです。はてなダイアリー形式と書き込みの順序にのっとっているため、記載順序は書物の逆になっています。書物の順序ごとに読むためには、

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はてなダイアリー形式で公開したのはその優れたリンク性と、断片的にでも関連資料にネット検索者がアクセスしやすいことを狙いとしたためです。

中谷礼仁

2007-12-08 『国学・明治・建築家』関連年表

[]『国学・明治建築家』関連年表

一七三〇享保十五 三重県松阪本町で本居宣長生まれる。本名小津富之助。

一七五六宝暦六  本居処女作『排蘆小船』成る。彼の「日本的なるもの」追及の端緒。

一七七一明和八  本居『直毘霊』成る。作為性の回避としての「道」概念の発明。

一七七六安政五  平田篤胤秋田久保田城下に、秋田藩士大和田家に生まれる。

一七九三寛政五  本居『玉勝間』執筆。「漢意」「自然」概念のまとまった規定。

一七九五寛政七  篤胤、郷里を出奔して江戸にでる。

一八〇一享和元  本居没。

一八〇三享和三  篤胤、本居の著書に接し、没頭する。処女作『阿妄書』成る。

一八〇四享和四  大工清水喜助、神田鍛冶町の絵草紙屋の裏店で開業。後の清水建設の創始。

一八一一文化八  篤胤、『古道大意』『玉だすき』などの稿本成る。翌年『霊能真柱』成る。天と黄泉の間の現実世界、さらに外国を統括する皇国(日本)という現実世界の構造の明確化。

一八一四文化一一 滝沢馬琴南総里見八犬伝』刊行開始。

一八一五文化一二 杉田玄白『蘭学事始』成る。

一八二〇文政三  篤胤一〇月に仙吉にであう。二年後に『仙境異聞』『古今妖怪考』成る。幽冥世界の追及。

一八二四文政七  シーボルト長崎郊外鳴滝に塾を開く。(伊東忠太の祖父は後年シーボルトの下で学んだ。)

一八三〇天保一  翌年にかけておかげ踊りが流行。阿波畿内、関東でおかげ参りが流行。

一八三八天保九  中山みき天理教を開く。

一八四〇天保一一 英国、清国間に阿片戦争勃発。

一八四三天保一四 篤胤没。

一八四四弘化元  オランダ軍艦、長崎に来航し、開国勧告の国書を渡す。

一八五三嘉永六  アメリカ東インド艦隊指令館長ペリー軍艦4隻をひきいて浦賀に入港。「黒船来航」

一八六二文久二  生麦事件。同年幕府派遣留学生オランダに向かう。翌年長州藩伊藤博文英国留学へ出発。

一八六四元治元  禁門の変。四国連合艦隊下関砲撃。第一次長州征伐。

一八六七慶応三  水戸藩主徳川昭武ら、パリ万国博覧会参加。慶喜大政奉還王政復古の号令を発する。幕府解体、翌年明治政府なる。伊東忠太、生まれる。二代目清水喜助、初の擬洋風ホテル建築築地ホテル」建設に協力、自ら経営する。

一八七〇明治三  開化派の伊藤博文を長として工部省発足。翌年工学寮設置。

一八七二明治五  「美術」という言葉、ウィーン万国博覧会のための出品差し出し勧請書に初登場。

一八七七明治一〇 第一回内国勧業博覧会上野で開催。工部大学校設立、イギリス人建築家コンドル来日、造家術を指導、二年後初の卒業生を送りだした、卒業生に辰野金吾ら四名。

一八八二明治一五 フェノロサ『美術真説』成る、日本における「美術」概念の構造に大きな影響を与えた。

一八八六明治一九 日本造家学会設立、翌年より雑誌『建築雑誌』発行。

一八八七明治二〇 建築雑誌掲載論文の「家屋改良論」に「用vs美の二元論」の構造がすでに明確化。

一八八九明治二二 木子清敬、工部大学校で日本初の「日本建築」の授業を開講。

一八九一明治二四 濃尾地方に大地震「濃尾地震」。翌年、政府勅令によって震災予防調査会発足。

一八九三明治二六 帝大大学院生伊東忠太法隆寺建築論』を発表。六年後(明治三二)に最終版。

一九〇三明治三六 最後の内国勧業博覧会(第五回)が大阪で開催される。前年阿部今太郎「螺旋塔」プロジェクト発表。

一九〇六明治三九 構造学者佐野利器サンフランシスコ震災調査。鉄骨、コンクリートによる耐震構造を予見。

一九〇八明治四一 ウィーン建築家アドルフ・ロース、論「装飾と罪悪」を発表、過去装飾を排撃。

一九〇九明治四二 伊東忠太論文建築進化の原則より見たる我が邦建築の前途」を発表。議院建築における様式論議さかん。

一九一一明治四四 佐野利器論文建築家の覚悟」を発表。明治建築の終結宣言。

一九一六大正五  定例の日本建築学会の講演会に、佐野の提唱で合同スタイルが採用。この時期より建築家社会的責任が強く意識されるとともに、住宅問題、都市問題という広い課題領域が現れる。 佐野利器「家屋耐震構造論」を発表。「震度」概念によって耐震学を統一。

一九一九大正八  日本初の本格的な建築法制度「市街地建築物法」公布。佐野の耐震理論が法的根拠の一つとなった。佐野利器論文「規格統一」。建築家後藤慶二急逝。東京帝国大学建築学科の学生坂東義三論文「創造の根源」発表、国家と自己との分離かつ融合。北一輝日本改造法案大綱』。

一九二〇大正九  佐野の理念にもとづいて「生活改善同盟」発足、現都市住宅の原型。後藤の理解者山崎清太郎、論文「其の文言について」発表、改善運動に意義申し立て、学会から姿を消す。帝題の学生有志により分離派建築協会結成、同年第一回展覧会開催。以後一九二八年まで七回の展覧会活動を行う。辰野金吾没。

一九二一大正一〇 佐野を委員とする度量衡調査会にもとづき、政府メートル法専用度量法を公布。ひきつづき、工業規格統一調査会設置。

一九二三大正一二 関東大震災佐野利器帝都復興院の建築局長となる。建築運動団体の創宇社、銀座十字屋で第1回展覧会、同人に山口文象ら。このころよりマルクス主義芸術運動の一環としての建築運動流行りはじめる。

一九二五大正十四 治安維持法公布

一九二八昭和三  帝国大学建築学科の学生谷口吉郎、『建築新潮』誌上で分離派批判、デビュー。翌四年小林秀雄、懸賞論文「様々なる意匠」で二等入選、デビュー。建築家前川国男、パリのコルビジェのオフィスへ入所。建築家の国際的連絡機関CIAM結成、スイスで第一回会議開催。

一九三〇昭和五  新興建築家連盟結成および解散。日本の近代建築運動急速に衰退。

一九三一昭和六  満州事変勃発。

一九三三昭和八  ドイツ建築家ブルーノ・タウト来日。日本建築の伝統美を近代性とむすびつける、『日本文化私観』。

一九三五昭和一〇 保田与重郎亀井勝一郎らと「日本浪漫派」創刊。翌年、詩人萩原朔太郎同人参加。

一九三六昭和一一 二二六事件

一九三七昭和一二 立原道造東京帝国大学建築学科を卒業。卒業論文『方法論』。萩原「いのち―日本への回帰」発表。

一九三八昭和一三 国家総動員法公布。谷口吉郎外務省嘱託としてベルリンへ出張する、日本大使館建設工事のため。

一九三九昭和一四 立原道造没。立原の一年後輩の学生丹下健三コルビジェ論「ミケランジェロ頌」発表。哲学者三木清、「協同主義の哲学的基礎」発表。

一九四一昭和一六 「大東亜戦争」勃発。

一九四二昭和一七 雑誌『文学界』誌上で、座談会「文化総合会議シンポジウム―近代の超克」が掲載される。出席者は河上徹太郎小林秀雄三好達治林房雄中村光男、西谷啓治下村寅太郎など、計一三名。丹下健三、「大東亜記念造営計画」コンペで一等入選。小林秀雄当麻」。三木清「技術哲学」。

一九四三昭和一八 坂口安吾日本文化私観』発表。

一九四五昭和二〇 「大東亜戦争」終結、日本は無条件降伏。三木清獄死

一九四六昭和二一 住文化協会、日本建築文化連盟、関西建築文化連盟、日本民主建築会結成。翌年新日本建築家集団NAU結成。このころマルクス主義建築運動活発化。

一九五三昭和二八 西山夘三「住宅における民族的伝統と国民的課題」、伝統論争はじまる。

一九五四昭和二九 丹下健三設計、広島平和記念会館竣工伊東忠太没。

一九五五昭和三〇 雑誌『新建築』、特集「新しい前進のために」戦後一〇年の回顧。

一九五六昭和三一 雑誌『建築文化』、特集「建築設計家として民衆をどう把握するか」池辺陽西山夘三丹下健三など、民衆論争。

一九五七昭和三二 丹下健三設計、東京都庁竣工。翌年香川県庁舎竣工、コアシステム。

一九六〇昭和三五 六〇年安保大規模な反対運動おこる、六月二三日批准。川添登建築の滅亡』、吉本隆明「擬性の終焉」、大島渚「日本の夜と霧」。ソニー、世界初のトランジスタ・テレビ発表。川添登菊竹清訓ら、未来デザイン集団メタボリズム結成、プロジェクト「海上都市」など。

一九六一昭和三六 丹下健三研究室「東京計画1960」発表。建築家磯崎新、丹下研究室を修了。

2007-12-06 刊行に際して

[]

本稿は早稲田大学理工学部建築史研究室の修了論文である。今でも思い出すのは、この原稿が、隣の古ぼけたアパートが壊されていたときに書かれたものであったということだ。ちょうどバブルの激しかった時期で、その余波が、僕の住んでいた下町界隈にも及んできていたのだった。別に家のまわりの風景に拘泥していたつもりはないのだが、さまざまなウラミツラミまでをも含んだこの風景が、ブルドーザーの一振りで消え去ってしまうことを実感したとき、僕をつちかってきた記憶のはかなさに狼狽せざるをえなかった。そのあとは一日中コタツに入りながらやみくもにキーをたたいていた。

三年間勤めていた建設会社を退職して、研究室に戻ってきたときに、夢本のことを知って応募した。押入れのなかにしまったまま、それでいいという気にならなかったからである。今回の校正作業にあたって、なるべく原文を尊重したが、最近考えたことを多少つけくわえてもいる。具体的には技術と「実用技術」についての考察の部分である。技術は中立ではない、このことに気づかせてくれたのは、会社での現場研修の際に、まるで大蛇のようにのたうっていたコンクリート打設機と、技術史家中岡哲郎の一連の著作を読んでからである。

月並だが、この論に目をつけてくれた審査員ならびに編集部の方々とともに、不肖な生徒を、今でも在籍させてくれている研究室の中川武教授にまずお礼を述べたい。おそらく中川の史観に触れることがなかったら、僕は本当に落ちこぼれていただろう。それから一緒に研究をした友達、特に六反田千恵、志柿敦啓の批判も本稿を鍛え直すのに一役かってくれている。言いたいことだけいって心もとない論文だが、これまでの先行研究者たちが積み上げてきた成果によらなければ、この論は生まれるてだてさえ持たなかっただろう。ぜひ諸先輩の叱咤をいただければと思う。

一九九三年九月

中谷礼仁

2007-12-04 あとがき〜地図にない言葉をさがしに

[]地図にない言葉をさがしに

(このあとがきはそれほどよい出来ではないと思うのだけれど、書き直すための記憶が脱落してしまっている。当時の24歳の頃の自分の人格を尊重しておきます。)

明治以前から1960年代まで一貫した視点を保持するために持ちだした、「論理を還元する者」と「論理を立てる者」という二分法は、吉本隆明の「日本のナショナリズムについて」という小論にヒントを得ている。この分類にしたがって近代「日本国建築を検証していったときに現れたのは、可視的な「日本的なるもの」よりも、一見モダンなふるまいの中にこそ、批判されるべき問題が生き続けてきたという逆説であった。だからこそ、近代「日本国建築の系譜は現在的問題につながり、加えて60年代以降の「近代」の反省以降の根幹にあるニヒリズムをも浮かび上がらせているように思える。

まず、僕たちは表現者として豊かであるべきならば、自らの構想力をあちらがわに明け渡してはならない。

ここで跳びましょう、テリトリーをなんとか広げていきましょう、としか僕には言いようがない。建築家原広司がいささかの躊躇もなく、21世紀には、建築をはじめとする芸術は、哲学にとってかわるというとき、僕たちはそれを信じて協調する以外にないのではないか。原の発言は天才バカボン的だが、近代「日本国建築の系譜からふりかえるとき、そんな天才バカボンのたくましさこそが待ち望まれていたといってもいい。

幸運なことに60年以降の思想的営為は、僕たちの「日本的なるもの」を発見しつつある。例えば中沢新一は、「自然の模倣」という二重のニヒリズムに呪縛された、近代日本がつくりあげた「庭」を、軽がると越える。

日本の作庭家すべての先祖である石立て僧や山水河原者が、その造園の仕事の本質を「石を立てる」と表現したことの意味がこうしてはっきり見えてくる。彼らによって立てられた石は、これからそこに現れてくる庭園の全てを決定する点なのである。カオスをけりたててそこに一つの空間が立ち上がる、その純粋な空間の、それは「顔貌」だ。というよりも、宇宙的なエネルギーが空間としてその「顔」をこの世界に突き出させる、その先端に現れるのが「庭」なのである。ここは浄土と呼ばれる楽園である。それは土と水と植物と、ときおりそこを訪れる小鳥や水鳥やそのほかの動物と、大気の動きともろもろの気象の変化からなる、一つのフィジカルな場所にほかならないけれど、そこに立ったことで人々は大地の風景の中から、様々な菩薩や天人が虚空に向かって飛び立とうとしているような、不思議な運動を感じるのである。     『虹の理論』

中沢が言うように、僕たちはそんな作庭家の精神の系譜を生き続けねばならない。

論理はそれ自身で「自律」的に表現されながら、かつ新しく関係するためにいったん閉じられた、表現されうるものの片割れでもある。だから常に言葉が「立てられる」とき、同時に発見的でありえる。そんな「日本建築史」は明るいはずだ。これが第一の結論。

しかしこの世のなかの表現された物たちは、「建築論」との関係を必ずしも必要としていない。僕たちが「建築論」的に見ようとするときだけにそれは必要となるだけだ。ある表現物が表れるためには、それ自体にすでに合目的な観念(として表現されたもの)と、手段(として表現されたもの)とが存在している。そしてそのまわりに批評的な関係がさらにつきまとっている。その関係を通してはじめてある表現物に特定の「意味」「価値」が生じる。だから異なる関係においては、その表現物は異なる「意味」「価値」を持たされるはめにもなりえる。言葉で構築する僕たちの仕事は以上のような関係を作りだす場を出られないはずである。しかしそれは可能的な関係でもある。

それらの関係は単に恣意的なだけではなく、ある意思によって、それらは蜜月にもなりうる。ここに僕たちは「建築論」としての表現の希望をも見いだすだろう。たとえば「美術vs実用技術」というある抽象平面における対立図式が、それぞれによって指し示されている表現物に一定の意味を与えている。これからの史的記述は、こんな時代オクレの関係を改変してゆく表現装置でもある。建築は建てるしか術がない代物だとしたら、だったらその術を書くことでさがしてもいいはずなのだ。

不幸なことに「本居的なもの」以外のさまざまな建築的な試みが、「観念」と「手法」との乖離に悩み続けるうちに、忘れ去られてゆく。そのような状況は「現在」という地図の裏に流れる、過去からの観念的な連続体が、地下で右往左往しているといった構図を生みだしもしている。それらがあらぬ所で噴き出す前に、僕は僕の目にかなった連続体を、主体的に表すことはできるはずである。だから第二の結論は、今からはじまる。

1900年の幕開けとともに始まった第5回内国勧業博覧会という「柔らかな場」を思い出してほしい。あのとき、阿部今太郎という無名の大工によってあらわにされたパノラマ建築の持つ明るさをつかまえてみたい。パノラマ建築の系譜は、大正期、制度的に固定化しつつあった建築的状況にあって、消滅してゆく運命を辿ったが、それは言葉の中で生き続けていた。たとえば江戸川乱歩パノラマ建築のモチーフをうちに秘めながら、実現されなかった建築世界を『パノラマ奇談』として僕たちの前に実現させた。それはちょうど、篤胤が「妖怪」という、言葉とカオスとの境界線上の物語に、自らの構想力を閉じつつ開いていったことと似ている。それはもはやフィクションではないフィクション―表現されうる存在―なのである。阿部の螺旋塔も、同じように表現されうる存在として僕たちの前にある。今から僕と螺旋塔の新しい関係を見つけるために、またワープロにむかおう。 1989年2月

2007-12-03 刊行前に丹下健三事務所に原稿を送った

[]今回の掲載時点では著作権のある写真、図版(特に4章)は割愛しております。

それらについては今後、ヒマな時にでも当方が撮影した図版等で補っていきたいと思っています。

ただどうしても補えない写真というものがあるものです。

4章で一番使いたかった写真は、丹下健三氏自身が撮影した写真でした。

藤森照信著『丹下健三』にも掲載されていますから、ご存知の方もおられると思います。

もと墓地であった広島平和記念会館、まだ墓石や塔婆が乱立する間から、コンクリートの型枠がとれた直後、ピロティによって持ち上げられた記念館が屹立しているという極めて印象的な写真です。

丹下氏の建築の原風景でしょうか。とにかく使いたくてしょうがなかったのでした。

編集者の方に相談すると、そりゃ当然著作者に許可もらわないとといけないことになり、丹下健三氏自身に許可をいただくことになってしまいました。

編集者を通してお願いをすると、とりあえず読まれるとのこと。。。

若気の至りの本ですから、読んでいただいた方はお分かりになると思いますが、こんな内容の原稿を丹下氏自身に送る時の気持ちを考えてみて下さい。本当に恐怖の時間でした。

1週間経って、許可がとれたとの報告を編集者の方からいただきました。当方は丹下さんが当方による彼への批判的オマージュを読んでくれた、それもしっかりと読んでくれたと、今でも信じています。でなければあの写真は決して貸さないと思います。

2007-12-02 東京計画1960まで

[]東京計画1960

あの灰色の雲のようなもの。巨大な煙幕は急速にかたちを整えつつあった。紛れもなく何かが生まれつつあった。『メイコン・ハインツ』だ。*1

1960年6月23日、新安保条約が批准された。まれにみる動員力を誇った反対運動は新たな局面を迎えていた。9月には早々に福田恒存江藤淳らから反対運動に対する批判的な総括が提出されている。また運動の内部からも先の吉本のように積極的な乗り越えを標榜する指向も生まれ、〈戦後〉知識人の思想的な破産は目に見えていた。その惨落の様子は例えば建築思想においては『建築の滅亡』に端的に表れていたことは指摘した。

ただ丹下は以上のような状況からは遠いところにいた。なぜなら彼の「天才」論はそれら全てを当初からよせつけはしなかったから。

東京計画1960

翌年の1961年1月、「東京計画1960」プロジェクトが東大丹下健三研究室*2から発表され、同年2月その全貌を雑誌『新建築*3に現した。彼らは先の状況を生んだ母胎、東京そのものの改革を迫ったのである。発表主体は丹下健三研究室とされ、連名で丹下健三以下、神谷宏治、磯崎新、渡辺定夫、黒川紀章、康炳基らがクレジットされている。そのプロジェクト・ノートは学生達の綿密な研究をもとに、丹下健三研という密室の中で長期にわたってつみかさねられた、周到なシナリオによって構成されていた。

彼らの主張は現実の東京、混乱した都市への新しい認識を要請するところからはじまる。東京の混乱はその都市構造に源を発している。それは中世以来の東京の都市構造が現状の1000万人の人口を擁しえる器ではなくなっているからだ、という。

…そうして1000万に達した都市は、それが必要とする流動的活動と、この硬化した都市構造とのあいだに、決定的な矛盾を示しはじめた。この古い肉体は、新しい生命の活動には耐ええなくなったのである。閉ざされた中世都市社会の反映であった求心型都市構造は、20世紀、1000万都市の開いた組織とその流動性に対応しきれなくなったのである。

東京を混乱に導きいれた矛盾の根元はその求心型都市構造にある、と彼らは言う。東京を救う道は、東京が「本質的」「歴史的」に必要としている新しい都市の構造をつくりだすことである。彼らは次の3点を提案する。

1.求心型放射状システムから線形平行謝状システムへの改革

2.都市・交通・建築の有機的統一を可能にするシステム

3.現代文明社会の、その開かれた組織、その流動活動に対応する都市の空間体系の探究

そしてその3点に対し、具体的な建築的方策を提出することによってノートは完結する。ここで注目したいのは彼らが「線型平行謝状システム」と表現する建築的方策である。彼らはそのシステムとして東京湾上を東京から木更津へ直結する、「都市軸」とよばれるスーパースケールのハイウエイを提案する。このハイウェイこそが「東京計画1960」の骨格を構造的、視覚的にも決定している。彼らはそのハイウエイについて、脊椎動物の背骨の成長過程をひきあいに出しながら、こう説明する。

私たちは、都心という概念を否定して、都市軸という新しい概念を導入する。これは求心的パターンの「閉じた系」そのものを否定することである。そうして線型発展を可能にする「開いた系」の軸を設定することである。そうして私たちは東京の構造を求心型放射状から線型平行射状に変革してゆくことを提案する。

この言葉は丹下らの試みを端的に表している。それは東京改革の姿をかりながら、丹下が捨て去れなかった、「個別性の建築」という求心性を融解させて、対立した「外部―都市」の中に自らを開いていったことをも語っているのだから。

丹下健三研究室

前に述べたように以前から丹下は「天才」が「個別性」に回収されざるをえない限界を察知していた。60年代より彼は急速に「丹下」にとっての外部である「都市」のデザインに傾倒していった。その軌跡には丹下が「丹下」そのものを解体してゆこうとする意志さえ感じさせる。その到達点として「東京計画」を見るとき、未だ彼の構想力の鮮やかさが失われていないことに気づく。

その強度を支えた第一の要因として、彼の創造論そのものが日本的『自然』に決してうちとけない性質のものであったことがまず挙げられなければならないだろう。そのとき本居的『自然』のカラッポな世界から「胸はしり、火に心燃え、骨髄より火いでるばかり」*4の意志をもって逃走した篤胤の、痩せさらばえた姿に丹下の姿が重なって僕には見える。

そして丹下の後ろには丹下研究室があった。彼は終戦直後1946年より東大建築学科の助教授の職にもあった。「東京計画」のクレジットを繰り返すまでもなく、その研究室にはポスト丹下を作りだしてゆくことになるエリートたちがひしめいていた。「丹下」そのものを解体させる意志の裏に、ネクスト・ジェネレーションの営為があったことを僕は想像している。

■近代「日本国建築の系譜のはてで

当時「丹下」を通してその果てにまでのぼりつめた近代「日本国建築の系譜は、一つの大きな課題を内に宿していた。

それは「個別性vs都市」という対立であった。それは「天才」が「個別性」に回収されざるをえず、その途端に現れる圧倒的な外部としての「都市」をどう捉えるかという問題に還元できる。60年代を通じて、丹下健三あるいはメタボリストたちは「都市」を予測不能なもの―ありのまま―いわば新しい『自然』として捉えた。混乱の支配する東京こそが彼らのイメージする『都市-自然』そのものであったはずである。

以上のような推移はまた、本居的なモダニズムに対立する意図で把握された「自己」、その最終過程において獲得された「天才」という強固な二元性の片割れにおいて全世界を把握しようとする存在のもつ不可避的な論的変遷であった。

彼らは「東京」という象徴を、その課題を乗り越えるための標的にしていたように見える。一つは中世以来の東京の「求心性」という言葉で語られる「個別性」についての認識論として。もうひとつはハイウエイという具体的な装置によって語られる、「外部」としての『都市-自然』にいかにコネクトするかという実践的なテーマとして。そしてそれらこそが「丹下」の次に来る者達の課題だった。ハイウエイは対立するもの達への架橋であった。

1961年3月、齢30で磯崎新は丹下研究室を修了した。

ただ30年経った現在、あのハイウエイは存在していない。そして混乱に満ちた東京もその姿を保っている。彼らは「都市」を予測不能なもの-『自然』として扱ったが、その構えじたいが僕にとっては話をややこしくしているように思える。何故ならハイウエイが架橋であるかぎり二つの対立は残存したままだから。都市を『自然』と二重映しにする見方、「カオス」を前提とした都市論、建築論は批判され続けねばならないだろう。

『世界を表現されたものとして見る』、この前提に僕たちは再びたちかえらなければならない。僕たちは別のやり方を見つけなければならないから。

*1フィリップ・K・ディック「地図にない町」(原題"The Commuter"1953)から引用、仁賀克雄編訳『地図にない町 ディック幻想短編集』昭和51年早川書房、p.262、263

*21946年以来、丹下健三東京大学助教授でもあった。

*31961年3月号、p.100

*4:『玉だすき』を参照のこと。

2007-11-29 川添登とメタボリズム

[]川添登メタボリズム

メタボリズム60年代を象徴する建築運動として知られている。しかしその史的定義は未だ確実にはなされていない。建築史家布野修司*1によれば、メタボリズムは、評論家川添登が中心となり1960年東京において開催された「世界デザイン会議」を契機として組織されたプレゼンテーション・グループである。

メタボリズム』とは、来るべき社会の姿を、具体的に提案するグループの名称である。

機関誌『メタボリズム』第1号

その中心メンバーには川添の他、建築家菊竹清訓、槙文彦、黒川紀章、大高正人、グラフィックデザイナー粟津潔等がいた。メタボリズム=新陳代謝の名の通り、彼らの活動は流動的であり、各自の方法論も多様である。一つの視点だけでメタボリズム・グループを総括することは、その可能性をもついばみとってしまうだろう。僕はここで特に川添の言説だけに焦点を絞って、その一側面をスケッチしてみることにしたい。

思えば日本における「1960年」の意味は、様々な次元で転回点的な意味を持っていそうである。しかしここでの興味は、日本の「民衆」運動に大きな挫折をもたらした「60年安保闘争」の、各表現分野における激しいまでの影響に集中する。大島渚はウェディング・テーマと偽って、安保闘争の挫折を描いた『日本の夜と霧』を公開、後4日で上映打ち切りにあったし、吉本隆明はその総括である「擬性の終焉」を書いて「民衆」マルクス主義者たちに訣別した*2

5月19日、自民党強行採決で、新安保条約通過。翌日、全学連主流派、首相官邸に乱入。

5月26日、安保阻止国民会議、第16次統一行動、17万人のデモ隊が国会を包囲。

6月08日、最高裁判所衆議院の解散の審査は司法の権限外と判決

6月15日安保改訂阻止第2次実力行使、580万人参加。

同日、ラジオ関東アナウンサー、警官隊に暴行されながらデモを報道

同日、右翼、デモ隊に殴り込み、60人負傷。

同日、全学連主流派、国会突入をはかり警官隊と衝突、東大生樺美智子死亡。学生約4000人、国会構内で抗議集会、警官隊、暴行のすえ未明までに182人逮捕、負傷者1000人以上。

6月23日、新安保条約批准書交換、発行、岸首相退陣の意志発表。

思想家吉本隆明は、6月15日のデモに於て、人々の表現しえぬほどのたかまりの中で国会に突入を図った直前、あるマルクス主義の一派がゆくてを阻んだことに、その「民衆」像のからくりの脆さを痛感した。そしてその吉本の心情だけは川添にも共有されていた。

同年4月、ソニーは世界初のトランジスタ・テレビを発表。

■『建築の滅亡』にみられる危機意識

人類文明はいま大きく回転しようとしている。《小鳥のように自由》な労働者の支配する社会に、《建築》がありえるだろうか。少なくとも《永遠性》を特長としたような、これまでの建築が必要であろうか。

…将来の住宅は、部品化され、《都市構造体》にとりつけられるが、工業生産化された部品は、規格体系とジョイントによって、無限な組合せが可能になるであろう。人々は、自らの趣向に応じて、形と色と材質を適当に選び、必要な規模の自由な大きさに組み立てることができるようになる。家族の発展と変化、あるいは気候や気分の移り変わりに際して、取り外しては、また組み立てるに違いない。                    『建築の滅亡』1960年

歴史的といえる川添の著『建築の滅亡』*3の中で、そのトーンの基調をなすものが、「建築=シンボルの滅亡」以前に「民衆像の滅亡」であることは、ぞんがい認識されていない。その以前、熱烈に「民衆建築家」の理想像を追いもとめていた彼は、ここで6月15日のデモを引き合いにだして、その追求の挫折を味わっている。

学生たちは、門を壊し、塀を倒して、その構内(註:国会議事堂内)で抗議集会を開くこと。それがテレビの電波に乗り、映画館のニュースで上映されたとき、全国民は、議会は国民のものだったということに気づくであろう事を信じていたのであろう。

しかしそうなることは、すなわち議会が、国民総意のシンボルになること、これは岸政府にとっては許せなかった。彼らにとって、そのシンボルは、あくまでも塀で囲まれた、国民と縁の切れた姿をした議事堂でなければならなかった。そこで警棒はうなりを生じて、若き議会主義者たちの頭上に振り下されたのである。…国会議事堂は、大日本帝国のシンボルであり、民主主義の墓場であった。

例えば布野はその著書*4の中で、『建築の滅亡』に対して、それなりの説得力を持ったものとして、しかし次のように曖昧な評価をくだしている。

彼は、70年代の半ばに至って過去を顧みながら、自らの50年代の伝統論もまた建築が解体しつつあるという危機感の現れとして、それに対するはかない抵抗として述壊するのだが、確かに彼の感性は、繁栄の60年代の出発時において、とりわけ鋭く際立っていたのである。メタボリズムは、その透徹した感性が建築の解体を先取りすることにおいて孕み落されたのであった。すなわち、メタボリズムは、〈近代建築〉の解体のみならず、《建築》そのものの解体をラディカルに(?)志向することによって成立したといってもいいのである。

しかしもはや僕たちは、以上のような解体志向が本居的なニヒリズムにうらうちされたものであることを知っているし、彼のメタボリズム追求の底流に流れる危機、挫折意識を批評しなければ、メタボリズムの営為はくずれてしまうだろう。僕は川添の解体志向に、ちょうど戦前のマルクス主義運動の挫折の落し子である、日本浪漫派と同一の匂いを感じとってしまう。もしそのカンが妥当なら、彼の規定したメタボリズムになんらかの「回帰」意識があると仮定してみるとおもしろい。吉本は「擬性の終焉」を書いた後、「日本」から解き放たれんがための作業を自らに課した。一方で川添の場合、アイロニカルではあるが、「日本」的現状への全肯定という「日本回帰」の常套パターンをたどった形跡が散逸しているのである。

■川添による「民衆建築家」のイメージ

川添は、「60年」以前、雑誌『新建築』の編集部に在籍しながら評論活動を続けていた。そのころの彼の評論にあらわれた特徴は、その論理を組み立てる要としてのマルクス主義-民衆への信奉-民族主義という回路である。

一般に川添の編集者としての業績とされる「伝統論争」において、彼自身の建築に対する評価は「いかに日本の民族を表現するものとして妥当であるか」の一点に絞られている。

特に日本浪漫派に対しての心情的な面でのシンパシーは、丹下の大東亜記念造営計画案のモニュメンタリティーを通して、「民族の造形」の必要性を強く主張するにいたる*5。川添にとって「民族」は「神」であり、「民族」を批評停止の領域におしあげ、その結果「民族」にまつわる安易な論理展開を許容している。そのような「民族」指向は、「日本」的マルクス主義における「民衆」像と通底し、川添において、マルクス主義ナショナリズムの統一行動は、心情的に最高の高ぶりを見せている。川添は機能主義を近代的フォルムを日本の現実に押しつけようとした*6と断罪し、進むべき建築家像を、当時設計における共同作業や現実的な生産様式からの建築構想の方法を検討していたミド同人*7に見いだし次のように言う。

土の中から養分を吸い上げて生え出る樹木のように、日本の生産方式や労働形態、国土に産する素材、民衆の生活感情の内部から出発し、しかもそれらの正しい発展を促進させる方向を指し示すものとして、現実の中から逞しく成長する建築を求めたのである。・・・彼らの意味した〈技術〉とは、全国民的な規模の広がりに根を張り、そこに潜在された種々のエネルギーを発掘するものであり、一方では、その上に生い立つ建築の造型を探るものであり、従って民族の生命力の延長と考えられるのである。「国民建築の創造―転換期の導火線」*8

このような「民衆」に拘泥しようとする姿勢は、ちょうど当時の「民衆論争」における西山のような―「民衆」に呼びかけてみても「民衆が建築家の努力に対してほとんど反応しない」*9―ジレンマを生みだしてしまう。

■挫折のすえに

60年以降、つまり『建築の滅亡』で著された「挫折」以降、彼の評論の激烈さはあきらかにトーン・ダウンしている。1962年1月の『思想』誌上で、与えられた「国民文化の形成」*10というテーマに対し、川添は次のように述べる。

…私は、国民文化の問題を考える出発点は、自分自身の感情を偽ることなく、むしろそれを深く掘り下げてみることから始めるべきだと思うのである。*11

なぜなら、川添たちの建築の仲間が、東京の現状を批判し、理想的な都市像を描いてみせるのに、たいていの人たちは納得してくれないばかりか、ひどいときはつるし上げをくらったから、と川添は言う。

人びとは、東京が近代都市の形態をなしていないことを百も承知している。そして朝夕の通勤ラッシュや、自動車の混乱に、ほんとうに困らされ、つらい思いをしている。しかし、東京に住む人々は、東京の悪口を言いながらも、心の奥底ではその欠点を含めてそれが好きなのだ。…そして考えてみれば、私自身も全く同じような感情を持っていることに気づかざるをえなかった。(前掲に同じ)*12

一見当然そうな「論理」だが、このような「なにも言ってない」反論理が、論理構築の基底をなすような倒錯した方法論の陥穽を僕たちはいままで、何度も目のあたりにしてきたはずである。またより注目したいのは、メタボリズム華やかなりしころ、川添がこのような論理放棄ともとれる発言をしていることだ。もちろん川添がメタボリズムに反旗を翻したとするなら事態はより容易だが、もしその「反論理」がメタボリズムの思想的根幹とふかく連動しているならば、そこに倒錯を見ないわけにはいかないだろう。メタボリズムが方法論上の運動である以上、そこに介在する論理はいわばいのちであるにも関わらず、なお「論理」自体を相対化するような発言が許容される、とすれば、メタボリズムの論理的特殊性ははからずも「日本」的なのではなかったか。

両親はプライバシーのないところに本当の個性が生まれないことを知っており、子ども部屋の造れない中で、たとえ部屋が狭くなろうとも、勉強机を置いて、その幼い個性を尊重しようとする。従ってそれは個性のシンボルであり、抵抗のシルシであるから、畳の部屋に不調和であることが当然であり、それゆえに存在価値を持つ。(前掲に同じ)*13

以上のような「論理」を僕たちは認めることはできない。それは近代日本における近代性への絶望の果てに、その照り返しとして無批判に論理を解体しようとする思考メカニズムであり、いわゆる日本回帰の典型である。

私たちは現在の住生活が混乱し、無秩序であることに、むしろ将来への希望を見いだす。都市の混乱も同じであり、その喧騒の中に、国民のたくましいエネルギーを感じなければならない。(前掲に同じ)*14

『自然』概念との連関によって獲得されたこのような「無秩序の美学」、その現在にまで近代「日本国建築の局所的な主流を占めている美学に対し、僕たちは自らをさえ振り返ってみなければならない。そして「無秩序の美学」が、『自然』としての現実に対処しようとするときに表れた、「新陳代謝し、無限に成長してゆく都市に対処してゆこうとする」建築方法論の必然性を鼓舞するとき、ニヒリズムメタボリズム思想の根幹に抵触したはずである。

メタボリズム

…都市はもはや堅固とした形態を持っていないのである。この点に関する限り、磯崎新氏が現代都市を幻影の都市と呼んでいるのは正しい。たとえ高速道路や高層建築が、その巨大な造形を誇ろうとも、それらは巨視的にみれば、一瞬のうちに消え去るテレビの映像のように、うたかたの幻影に過ぎぬともいえるのである。

私たちはこうした観点を数年前にもち、たえまない新陳代謝(メタボリズム)こそ現代都市のあり方であると考え、都市の全体像を否定し、これからの都市計画にマスター・プランはありえぬとし、必要なのはマスター・プログラムであると主張してきた。そして1960年の世界デザイン会議東京大会を前にして結成したのが、グループ・メタボリズムであった。

しかし私達は磯崎氏のように、「都市を幻影とし、建築家にとって、最小限度に必要なのは彼の内部に胚胎する〈観念〉」とはしない。現代の都市は、あくまでも物質的な存在であり、その巨大な物質的なメカニズムに人間生活を適応させ、また、進んで人間生活にその物質的なメカニズムを適応させようと考えるのが、メタボリズムの方法論である。「文明の変身」*15

*1:『戦後建築論ノート』、昭和56年、相模書房

*2:『吉本隆明著作集』13政治思想評論集、勁草書房昭和44年、p.47

*3現代思潮社1960年

*4:『戦後建築論ノート』、昭和56年、相模書房、p.32

*5川添登『現代建築を創るもの』昭和33年彰国社に所収された「民族主義の革命―原爆時代の抵抗」p.63~84を参照のこと。この本は「60年安保」以前の彼の言説を中心に加筆、編纂されている。以後GTと略記する。

*6:GT、p.164

*7:《ミド同人労働組合前川国男建築設計事務所と横山不学構造事務所らが中心となって結成された建築計画組織。

*8:GT、p.165

*9西山夘三建築を国民に結びつけよう」。『建築文化』119号、昭和31年8月、特集「建築設計家として民衆をどう把握するか」に所収。

*10論文掲載雑誌名および発表時期は、彼の「60年安保」以降の代表的な言説をおさめた『建築と伝統』昭和46年彰国社に添付されたデータによっている(p.260および本文)。以後KDと略記する。

*11:KD、p.211

*12:KD、p.211、212

*13:KD、p.219

*14:KD、p.219

*15:『展望』1962年7月号、川添登『現代のデザイン』1966年三一書房に所収,p.223、224

2007-11-28 ノリのような建築

[]ノリのような建築

1960年のある講演会で丹下は次のように言っている。

…別の角度の問題として、次のような点をまた考慮してみたいと思います。私達の時代のマスコミュニケーションやマスプロダクションが、私たちの生活にもたらしてきている影響でありまして、私たち現代の人間は物資とともにますます普遍的なものに、また匿名的なものになりつつあります。例えば1950年の電気掃除機と1960年の電気掃除機は、非常にちがっておりますけれども、1960年の電気掃除機と同じ年のタイプライターは非常に似ております。またこれが病院であるのか、あるいは教会であるのかわからないような建築が非常にたくさん出てまいりました。…しかし、自分自身の固有性を示そうとする欲求は、人間にとって本質的なものであります。「技術と人間」1960年*1

匿名性の建築」、「空気のように完結しない」、「ノリのような建築」を前に、その対応に苦慮している丹下の姿を想像してほしい。丹下はその匿名性に対処しのりこえてゆくための、自己変革宣言とでもいうべき決意めいた言葉をそこで述べている。

建築家、あるいはデザイナーという人たちは、テクノロジーとヒューマニティのあいだに依存している唯一の人間であります。…建築家、あるいはデザイナーはますます創造的になっていかなければならないということであります。こういうふうに技術が急速に進歩し、文明形態を大きく変貌させつつある現在、20世紀前半に考えられたデザインのいろいろな考え方や建築のイメージが、現在ますます大きくなりつつある矛盾を解決するにあたって、不十分であり、役にたたなくなってきておりますし、また不適当になってきております。そうして私は現在こそ、建築、あるいはデザインがその内部から変革されていかなければならない時期にきているというふうに考えております。(前掲に同じ)*2

丹下は同講演会で、現代都市の特質が「モビリティ=流動性」にあるといい、その問題を「時間」という軸の中で考えてゆくと、二つの傾向がある、という。

一つは、商業主義の下に、毎年そのライフ・サイクルを急速に短くしつつある、「生活用品」「自動車」というような「私達の生活そのもの」、あるいはそれを容れるための「住居」であり、「住居」でさえ、本当の役に立つのは5年あるいは10年にすぎない(!)とする。そしてもう一つは、「ダム」「ハイウェイ」などの、資本の蓄積にもとづくオペレーション・スケールでつくられた、「非常に大きな構造体」であり、このような「構造」は、長期のサイクルに耐え、時代のシステムを決定しつつある、という。

この二つの傾向は、…ちょうど生命、あるいは有機体が、変わってゆくものと変わらないものとによって構成されてゆくように、あるいは常に細胞新陳代謝しながら、その全体は一つの安定した形をもっているように、私達の都市について考えてみましても、流行現象のような変わってゆく要素と、時代を性格づけるような変わらない要素との矛盾の統一というふうなことについて、私達は考慮していかなければならない時代になってきたと思っております。(前掲に同じ)*3

いささかハギレのわるい説明だが、一見して、この時期に特徴的な思考方法の基調にあるものが、「変わるもの」と「変わらないもの」の二元論だとわかる。

「住宅」をも「変わるもの」として流行現象と同一視する姿勢は、先の「弥生vs縄文」という近代的誤謬を含んだカテゴライズによって獲得された概念ともとれる。そして同時に、「外部―都市」的要素を「変わらないもの」と認識する二分法によって、自らがよって立つところであったはずの「内部―個別性としての建築」が、自動的に「変わるもの」として対象化されてしまったことを見のがすべきではないだろう。つまりコア・システムにおいてその萌芽がみられた、「統一」から「並存」への構想力の後退が、さらに進んで「個別性としての建築」に対する「外部―都市」を発見させた、ということができるから。そしてその「外部」に対応しようとしたとき、表れた方法についてさらに検証せねばならないだろう。

■「自然―進化」観の流入…「構想力」の相対化

丹下は現代に対する現実認識として、第一に「ダイナミックな流動性」を挙げたうえ、建築家が行うべき方向づけを次のように表現する。

ではどういう方向に成長してゆくでしょうか。第二の側面として、次のような文明史的状況を私は心に描いております。それは、社会組織と、国土や都市の空間組織は、より高度に有機体化してゆきつつある、ということであります。…さらに植物・動物・人類といった自然進化の過程にたとえるならば、現代は、有機体内部に神経系統を整え、頭脳を生みだしつつある段階、つまり人類誕生の段階にたとえてみることができます。「日本列島の将来像」1966年*4

オオブロシキは適切な広さにたたみ直すべきである。注目したいのは、丹下が現代の認識を「自然進化」と表現していることである。伊東忠太の「建築進化の原則より見たる我邦建築の前途」*5に表れた、美術派の惨落の様相を思いだしてほしい。あのとき伊東は建築表現の「作為性」から脱却するために援用した「自然―ありのまま」概念によって、みずから表現しえる世界への探訪を閉ざしてしまった。そのとき「様式」は彼の手を離れ、『自然』という判断中止の領域に封じ込められてしまったのである。おそらく丹下のいう「自然進化」の持つ「言葉」としてのはたらきも、忠太同様であったはずである。

例えば、丹下が日本の現状を「あるいは日本開闢神話の創世の状態にも比べられるほどの、大きな流動状態」*6と形容するとき、伊東が先の論で建築領域における現実認識を「暗黒時代」と称したことと、同一の認識放棄の意味あいがある。つまり当時の丹下のメイン・テーマでもあった「開かれた都市」というモチーフには、積極的な意味あい以外のものが、含まれていたように感じられるのだ。

それは丹下においては、「世界を表現されたものとして見る」意味を有していた「機能主義」を相対的に位置低下させた。開かれた社会組織である大都市地域に対する秩序づけの探求、つまり60年代より丹下が提唱し始める「構造主義」というテーマに関して、丹下は次のようにその作業を位置づける。

…この探求は既に、機能主義の限界をこえた領域のことがらである。ここでは一つの機能単位と他の機能単位との間にはなんら機能関係が存在してないのである。…そこにあるのは動態的な構造的関係なのである。こうした構造関係を明らかにし、さらにその新しい構造関連をつくりだしてゆくことこそ、私達の主要な課題となってきたのである。「現代の一般的状況」1961年*7

丹下は機能主義のテーゼである、特定の「目的―手段」についての関数関係、いってみれば彼の立脚する「個別性」を保証する基本的認識を、限界として感じはじめている。それは「外部―都市」を自らの内にひきこめられなかったときに表れた。そのとき「都市」もまた、『自然』的な貌をもってたち現れてきたのではなかったか。

例えばこの時期、丹下は、ルイ・カーンのフィラデルフィア中心地改造計画における、自動車交通と建築の結び目として規定された、「港」と呼ばれるコミュニケーションネットワークを評価しつつ、それを「人工自然」と形容している*8。しかし以前の、「天才」を基底におき、構想の端緒をあくまでそれ以外に求めなかった彼の方法論に、「自然」という言葉は本来的に不要であったはずだ。以上のような状況を、丹下における本居的な『自然』概念の導入期とまとめてしまってかまわないのだろうか?

もう1回くりかえそう。論の推移はあくまで可視的である。1960年当時、以前の「内部―自己―個別性」のサイクルの中で完結していた彼だけの「日本」に、不断なく乱入してくるノイズ―機能主義の限界を越えた領域―の存在に彼は対処しきれなくなっていた。「天才」の「構想力」だけでは世界はもはや語りつくせなくなってきたのである。そのとき彼は、「天才にとっての外部」を「都市」と命名した。そこに対処しようとしたときに、しかしなお彼が「天才」を創作方法論の根底に据えようとするかぎり、「外部としての都市」は「制御できない何物か」として認識せざるをえない。つまり「都市」は『ありのまま―自然』的な領域として定位させざるをえないのである。丹下はその「天才」の外部をとらえ続けようとした。しかし「天才」が彼の中にいすわり続けるかぎり、「都市」は本来的に彼に対立してしまう。そして60年代以降に繁出する彼らの合い言葉『新陳代謝―有機体―自然進化』でさえ、以上のような強固な二元論の幻想に産み落されたものなのではなかったか。

ただ一方で「もののあわれ」に対する徹底的な批判を繰り広げてきた丹下にとって、『自然としての都市』には屈服しようのない心情があったはずである。彼は当時注目され始めた「メタボリズム(新陳代謝)・グループ」という建築運動に対し、次のような忠告ともとれる見解を述べている。

しかし都市には、その間断ない持続的な、メタボリズムの過程をたどりながら大きなメタモルフォーゼの行われる時期、あるいは局所があるといえよう。「機能主義から構造主義へ」1961年*9

ここで丹下は、樹木の成長システムについて述べたアルドという学者の説を引用しながら、第一に、樹木が「年々その葉を更新させながら成長してゆく過程」―持続的成長―と、第二に、樹木に実った種が「新しい土壌から樹木に成長してゆく過程」―断絶的変化―とを区別する必要がある、という。

…第一の過程だけで都市を理解することは、都市の自然発展をそのまま肯定するような宿命論的立場におちてゆくものである。と同時に第一のメタボリックな過程を内在的にもつシステムを考えないならば、システムの変身という第二の過程もその発展する生命力を失うことになるだろう。*10

明言することは避けているが、「第一の過程だけで都市を理解する」人々とは、メタボリストたちを指しており、いつか花開く「断続的変身」に可能性をかけているのは、ほかならず丹下自身である。そしてまた彼の鋭いカンは、「メタボリズム(=新陳代謝)」という言葉から連想される、近代性をのりこえるものとしての生物的なイメージ、あるいは有機的な閉じた生態系のイメージとは対極のどうしようもない現状肯定の残滓を、メタボリストたちの方法の裏に嗅ぎとっていたのではないだろうか。

*1:NK、p.209

*2:NK、p.206

*3:NK、p.208、209

*4:KT、p.66、67

*5:『建築雑誌』265号、明治42年

*6:「東海道メガロポリスの形成」1965年、KT、p.68

*7:KT、p.44

*8:「機能主義から構造主義へ」1961年、KT、p.50

*9:KT、p.51

*10:KT、p.51

2007-11-27 ”ノリのような建築” 東京計画1960以降

[]"ノリのような建築" 東京計画1960以降

従来からすぐれた視点を提出している評論家松山巌は、丹下健三についていくつかのコメントを残している。彼もまた、丹下に憑かれた一人である。1987年に執筆された小論「ノリのような建築*1は、きわめて興味ぶかい視点を提供している。

松山は、「ポスト・モダニズムに出口はあるか」と銘うたれた座談会*2中に、丹下の発した次の一節にいたく興味をひかれている。

私が情報化社会を意識し始めたころ、1960年ごろ、すでに実感として感じたのは、いままでさらっとしていた空間が、大変ねばっこくて、ノリのような感じに見えてきたんですよ。やや比喩的な言い方ですけれども、で、いままでは空間というのは物を引き裂くものだと思っていたら、空間というのはノリのようにひっつけるものだという実感が強くなってきましてね。

松山は、それ以降の丹下自身が何かその対象をとらえきれていないもどかしさを感じつつ「ノリのような建築とは、丹下が新しい表現をまだそこに見い出せぬように、というよりも表現のない建築ではあるまいか。目に見えぬ政治や資本力によって決定されてしまう建築ではあるまいか」と結論づける。

その見解に書き添えなければならないことがあるとすれば、「ノリのような建築」が丹下によってつくりだされたものなのではなく、丹下が現実認識の過程で発見した、本居的モダニズムの本質にほかならないことだ。

「ノリのような建築」とは、つまり構造派の獲得した「完結しない」「無限にのばすことのできる」ラーメン軸組剛節構造であり、以前から丹下自身はそれを最大の敵とみなしていた。もし丹下に「転向」があったとすれば、それは、そのモヤモヤとした、すっきりしない空間体系に宣戦布告し、果敢に表現を求め続けたあげくの、方法論的敗北の地平に待ちかまえていたはずである。

「ふりかえってみると、私の考え方やその対象とするところは、大きく1960年前後を境にして変わってきているように思える。」と丹下は、論文を年代的にまとめた著作の序文で回想している *3。それは大局的にみれば、彼がいわゆる「アーバン・デザイン」に傾倒しはじめた時期でもあった。

*1:『建築作家の時代』リブロ・ポート発行、p.204

*2:『新建築』1983年9月号に所収

*3:KT、p.3

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