「僵尸(キョンシー)は実際に存在しているのか?」--僵尸の事実

怖いです −−− 可怕 (カオパ)


●僵尸とは

中国の伝説では数多くいたといわれる動き回る死体。
魂が死に、魄がまだ残っている状態。
顔つき・体つきは生きた人間と変わる点が無く、
20年以上前に死んだ者が生きていた頃そのままの姿で現れることもあったという。
その活動は夜間のみで、昼は棺の中にミイラのような姿となり収まっている。
昼間棺の中にいるキョンシーに火を点けると、奇声を発しつつ燃えるとされる。
映画などに出てくるキョンシー
道師によって使役されることもあり、その場合額に「勅令随身保命」と書かれた札を
貼られている。札が取れると凶暴化し人間の生き血を求めて彷徨うようになってしまう。
また、ピョンピョンと跳ねて移動するのは死後硬直のためである。


●僵尸の由来

キョンシーは漢字で書くと僵尸と書きます。僵はたおれる(たふる)。体が
こわばって伸びてしまう。尸は死体のことですから、死後硬直した死体を示し
ています。
また、僵尸という言葉は妖怪の名でなく、倒れた死体という意味もあって
『僵尸千里、流血頃畝=僵尸千里、血を頃畝に流す』という記述を史記
見る事ができます。
どうして死体がキョンシーになるかというと、地面に埋められた死体が
腐らずに(死蝋のようなものか?)に千年あまりが過ぎることを伏尸と
いいます。それが大地の気を吸って動くようになり人に害を与えるように
なるといいます。それがキョンシーこと僵尸なのです。
その人間の死体がキョンシー化するのを利用するのが「跳屍送尸術」です。
中國では生まれた瞬間からその土地の土地神に管理され、死もその管理下に
あります。だから他の土地で死んだものは死んでも行く当てがないのです。
そこで死体を故郷に運ばなくてはなりません。そこでこの死体を操り歩かせる
術ができたのです。操っているといっても仮初の生を与えているのですが、
時には暴走することもあったようです。

編者の話し

屍体を操る職業が実際に存在する。
昔、交通あまりにも不便で、故郷を出て、他省で働く人が病気や事故で亡くなったら、
屍体を故郷へ運ぶことができません。
中国では、人が亡くなったら、自分が生まれた故郷で入葬しなければならないなので、
それで、死んだ人を操って、道を示して、屍体を故郷まで運ぶ職業がありました。
この職業は誰でもやってはならない。
面接と試験が必要とする。
基本条件は身長170cm以上、方向感強い、顔が醜い人。
跳屍送尸術を学んで、それで死んだ人を操れる。
符を屍体の顔に貼り付けて、咒を唱って、屍体が立ち上がる。
そして、糸で一人ずつ縛って、牽引しながら、歩き出す。
屍体の関節や、筋などが固くなっているので、ピョンピョンと跳ねて移動することしかできない。
運ぶ途中、ミスが犯した場合、符が取れたら、屍体が操れずに僵尸になってしまう。

中国歴史名人ーー三国演義ーー天才軍師諸葛亮

健康をおいのりしていますーーー祝身体健康(ジューシェンティージェンカン)



諸葛亮(しょかつ りょう、ピンイン:Zhūge Li ng、181年 - 234年 )

●出身

中国後漢末期から三国時代蜀漢の政治家・軍略家。字は孔明(こうめい)。

琅邪郡陽都(現在の山東省臨沂市沂南県)が本貫だが出生地は不明。

身長は8尺(後漢の頃の1尺は23cmで8尺は184cm、魏・晋の頃の1尺は24.1cmで8尺は192.8cmになる)。

その祖先は前漢元帝の時の司隷校尉(首都圏長官)の諸葛豊で、父は諸葛珪。

泰山郡の丞(郡の副長官)を勤めた人だが、諸葛亮が幼い時に死去している。

生母の章氏も同様に幼い時に死去していたが、父は後に後妻の宋氏を娶っている。

年の離れた兄には呉に仕えた諸葛瑾、弟には同じく蜀漢に仕えた諸葛均がいる。

他に妹がいる。『呉志』諸葛瑾伝の注に「諸葛氏は元は葛氏であったが、陽都に移り住んだ際に現地に既に葛氏がいたために諸県の葛氏ということで諸葛氏と呼ばれるようになった」という話を載せている。

まだ幼い頃、徐州から弟の諸葛均と共に従父の諸葛玄に連れられ南方へ移住する。この時期に起こった曹操による徐州での大虐殺が原因かとも考えられる。

後に呉の重臣となる兄の諸葛瑾と継母の宋氏はこの頃に別れたと思われる。

この時の行き先について『三国志』本伝では、従父・諸葛玄は袁術の命令を受けて豫章太守に任命されるが、後漢の朝廷から朱皓(朱儁の子)が豫章太守として送られて来て、その後劉表の元に身を寄せたとなっている。

これに対して裴松之注に引く『献帝春秋』では、朝廷が任命した豫章太守の周術が病死したので劉表が代わりに諸葛玄を任命したが、

朝廷からは朱皓が送り込まれ、朱皓は劉繇の力を借りて諸葛玄を追い出し、諸葛玄は逃れたが途中で民衆の反乱に逢い、首にされて劉繇に送られたとなっている。

この時期に地元の名士・黄承彦の娘を娶ったようである。これは裴松之注に引く『襄陽記』に見える話で、

黄承彦は「私の娘は色が黒くて醜いが、才能は君に娶わせるに足る」と言い諸葛亮はこれを受け入れた。

周囲ではこれを笑って「孔明の嫁選びを真似てはいけない」と囃し立てたという。これ以降、

不器量の娘を進んで選ぶことを孔明の嫁選びと呼ぶようになり、日本では毛利元就の次男の吉川元春などが嫁選びの際にこう言われたという話もある

三顧の礼

諸葛亮晴耕雨読の生活を過ごしていたが、徐庶劉備の元に出入りしており諸葛亮の事を劉備に話した。

人材を求める劉備徐庶孔明を連れてきてくれるように頼んだが、徐庶は「諸葛亮は私が呼んだくらいで来るような人物ではない」と言い、

劉備は3度諸葛亮の家をたずねて、やっと会うことができた。これが有名な「三顧の礼」である。

●歴史の戦争の名場面

赤壁の戦い
夷陵の戦い
▲  北伐

諸葛亮の評価

▲先祖についての逸話

先祖である諸葛豊は、厳格で剛直な性格で知られ、司隷校尉になると誰であるかに関係なく弾劾していた。
そこで、都では「ずいぶん長いこと会わなかったのは、諸葛に会っていたからだ」という言葉が流行した程であったらしい(。

三国志の撰者である陳寿による評

「どのように小さい善でも賞せざるはなく、どのように小さい悪でも罰せざるはなかった。
みなこれを畏れつつも愛し、刑罰は明らかで公平であった。その政治の才能は管仲・蕭何に匹敵する」
北宋の文学者蘇軾

「強大な曹操に対して、自らの内の忠信の心のみをもって対抗した」

南宋の思想家朱熹

孟子以降の人物としては張良諸葛亮がいるのみである」

中国歴史名人ーー戦闘の皇帝!チンギス・ハーン

お邪魔しますーーー打撹一下(ダイオイシャ)
お邪魔しましたーー打撹了(ダイオラ)

チンギス・ハーン(1162年頃? - 1227年8月18日)ーーーー成吉思汗(チアンジスハン)
モンゴル帝国の初代大ハーン
在位1206年 - 1227年。

一代で大小さまざまな集団に分かれてお互いに抗争していたモンゴルの遊牧民諸部族を統一し、
中国北部、中央アジア、イランなどを次々に征服してモンゴル帝国を築き上げた。

その帝国がチンギスの死後百数十年を経て解体した後も、その影響は中央ユーラシアにおいて生き続け、
遊牧民の偉大な英雄としてチンギス・ハーンは賞賛された。

とくに故国モンゴルにおいて、チンギス・ハーンは神となり、現在のモンゴル国においては国家創建の英雄として称えられている。

●名前

チンギス・ハーンの同時代のモンゴル語による表記は Čingγis Qan で、チンギス・カンと発音した。

漢字では、「成吉思汗」と書かれるが、これは「チンギス・カン」という発音を漢字に写したものである。

後裔である元朝によってつけられた中国風の廟号は太祖、諡は法天啓運聖武皇帝といい、元の初代皇帝として扱われる。

●生涯

チンギス・ハーンの先祖と生い立ち

チンギス・ハーンの生まれたモンゴル部は遊牧ウイグル帝国の解体後、バイカル湖の方面から南下してきてモンゴル高原の北東部に広がり、
11世紀にはハンを頂く有力な集団に成長した遊牧民であった。

チンギス・ハーンの生涯を描いたモンゴルの伝説的な歴史書元朝秘史』によれば、
その遠祖は天の命令を受けてバイカル湖のほとりに降り立ったボルテ・チノ(「灰色斑模様の狼」の意)とその妻なるコアイ・マラル(「白い鹿」の意)であるとされる。
ボルテ・チノの11代後の子孫ドブン・メルゲンは早くに亡くなるが、その未亡人アラン・ゴアは天から使わされた神人の光を受けて、
夫をもたないまま3人の息子をもうけた。チンギス・ハーンの所属するボルジギン氏の祖となるボドンチャルはその末子である。

●帝国の建設
1205年、テムジンは高原内に残った最後の大勢力である西方のナイマンと北方のメルキトを破り、宿敵ジャムカをついにとらえて処刑した。
やがて南方のオングトもテムジンの権威を認めて服属し、高原の全遊牧民はテムジン率いるモンゴル部の支配下に入った。

翌1206年2月、テムジンはフフ・ノールに近いオノン川上流の河源地において功臣や諸部族の指導者たちを集めてクリルタイを開き、
諸部族全体の統治者たる大ハーンに即位してモンゴル帝国を開いた。

チンギス・ハーンという名はこのとき、イェスゲイ一族の家老モンリク・エチゲという人物の息子で、モンゴルに仕えるココチュ・テプテングリというシャーマン(巫者)がテムジンに奉った尊称である。

「チンギス」という語彙の由来については確実なことはわかっていないが、もともとモンゴル語ではなくテュルク語からきた外来語であったとみられ、
「海」を意味するテンギズを語源に比定する説や、「烈しい」を意味したとする説、「世界を支配する者」を意味したとするなど、さまざまに言われている。

チンギス・ハーンは、腹心の僚友(ノコル)に征服した遊牧民を領民として分け与え、
これとオングトやコンギラトのようにチンギスと同盟して服属した諸部族の指導者を加えた領主階層を貴族(ノヤン)と呼ばれる階層に編成した。

最上級のノヤン88人は千人隊長(千戸長)という官職に任命され、その配下の遊牧民は95の千人隊(千戸)と呼ばれる集団に編成された。
また、千人隊の下には百人隊(百戸)、十人隊(十戸)が十進法に従って置かれ、それぞれの長にもノヤンたちが任命された。

戦時においては、千人隊は1000人、百人隊は100人、十人隊は10人の兵士を動員することのできる軍事単位として扱われ、
その隊長たちは戦時にはモンゴル帝国軍の将軍となるよう定められた。
各隊の兵士は遠征においても家族と馬とを伴なって移動し、一人の乗り手に対して3、4頭の馬がいるために常に消耗していない馬を移動の手段として利用できる体勢になっていた。

そのため、大陸における機動力は当時の世界最大級となり、爆発的な行動力をモンゴル軍に与えていたとみられる。

千人隊は高原の中央に遊牧するチンギス・ハーン直営の領民集団を中央として左右両翼の大集団に分けられ、
左翼と右翼には高原統一の功臣ムカリとボオルチュがそれぞれの万人隊長に任命されて、統括の任を委ねられた。

このような左右両翼構造のさらに東西では、東部の大興安嶺方面にチンギスの3人の弟ジョチ・カサル、カチウン、テムゲ・オッチギンを、
西部のアルタイ山脈方面にはチンギスの3人の息子ジョチ、チャガタイ、オゴデイにそれぞれの遊牧領民集団(ウルス)を分与し、
高原の東西に広がる広大な領土を分封した。

チンギスの築き上げたモンゴル帝国の左右対称の軍政一致構造は、モンゴルに恒常的に征服戦争を続けることを可能とし、その後のモンゴル帝国の拡大路線を決定付けた。

クリルタイが開かれたときには既に、チンギスは彼の最初の征服戦である西夏との戦争を起こしていた。

堅固に護られた西夏の都市の攻略に苦戦し、また1209年に西夏との講和が成立したが、
その時点までには既に西夏の支配力を減退させ、西夏の皇帝にモンゴルの宗主権を認めさせていた。

更に同年には天山ウイグル王国を服属させ、経済感覚に優れたウイグル人の協力を得ることに成功する。

●最後の遠征
西征から帰ったチンギスは広大になった領地を分割し、ジョチには南西シベリアから南ロシアの地まで将来征服しうる全ての土地を、
次男チャガタイには中央アジアの西遼の故地を、三男オゴデイには西モンゴルおよびジュンガリアの支配権を与えた。

末子トルイにはその時点では何も与えられないが、チンギスの死後に末子相続により本拠地モンゴル高原が与えられる事になっていた。
しかし、ハーン位の後継者には温厚な三男のオゴデイを指名していたとされる。

これより前、以前に臣下となっていた西夏の皇帝は、ホラズム遠征に対する援軍を拒否していたが、その上チンギスがイランにいる間に、
金との間にモンゴルに反抗する同盟を結んでいた。

遠征から帰ってきたチンギスはこれを知り、ほとんど休む間もなく西夏に対する懲罰遠征を決意した。
1年の休息と軍隊の再編成の後、チンギスは再び戦いにとりかかった。

1226年初め、モンゴル軍は西夏に侵攻し、西夏の諸城を次々に攻略、
冬には凍結した黄河を越えて首都興慶(現在の銀川)より南の都市霊州までも包囲した。

西夏は霊州救援のため軍を送り、黄河の岸辺でモンゴル軍を迎え撃ったが、
西夏軍は三十万以上を擁していたにもかかわらず敗れ、ここに西夏は事実上壊滅した。

翌1227年、チンギスは興慶攻略に全軍の一部を残し、オゴデイを東に黄河を渡らせて陝西、
河南の金領を侵させた。自らは残る部隊とともに諸都市を攻略した後、興慶を離れて南東の方向に進んだ。

『集史』によれば、南宋との国境、すなわち四川方面に向かったという。
同年夏、チンギスは夏期の避暑のため六盤山に本営を留め、ここで彼は西夏の降伏を受け入れたが、金から申しこまれた和平は拒否した。

ところがこのとき、チンギスは陣中で危篤に陥った。
このためモンゴル軍の本隊はモンゴルへの帰途に就いたが、西暦1227年8月18日、チンギス・ハーンは陣中で死去した。

彼は、死の床で西夏皇帝を捕らえて殺すよう命じ、また末子のトルイに金を完全に滅ぼす計画を言い残したという。
チンギス・ハーンは一代で膨張を続ける広大な帝国をつくり、その死後には世界最大の領土をもつ帝国に成長する基礎が残された。

中国歴史名人ーーー三国演義奸雄ーー曹操

すみません、バス乗り場はどこですかーーーー請問、公共汽車站在哪里(チンウェン ゴンゴンチーチューザン ザイ ナーリー)

曹操(そう そう、Cáo Cāo、155年 - 220年1月23日)
中国後漢末の武将、政治家、詩人。字は孟徳、幼名は阿瞞また吉利。

沛(はい)国譙(しょう)県(現在の安徽省亳州市)の人。

後漢の丞相・魏王で、三国時代の魏の基礎を作った。

廟号は太祖、謚号は武皇帝。後世では魏武帝、魏武とも呼ばれる。

父は曹嵩。曹嵩はもともと夏侯氏であったが、中常侍・大長秋曹騰の養子となり曹氏を継いだ(高位の宦官は養子をとって家名を存続することが可能だった)。

曹氏の先祖は前漢の平陽侯曹参とされるが疑わしい。

また、曹嵩の実家である夏侯氏の先祖は前漢の汝陰侯夏侯嬰とされている。魏将、夏侯惇夏侯淵とは従兄弟にあたる。

●人物

三国志』に登場する人物は、背が高い、見目麗しい、髭が立派、など、立派な外見をしていると書かれている者が多い。

そんな中で曹操はあまり風采が上がらなかった。

それに加えて、曹家は名臣曹参の裔を称していたものの、祖父の曹騰が宦官である事から、常に士大夫層からその事を馬鹿にされていた。

たとえば、袁紹の謀臣であった陳琳は曹操との戦いに向けた檄文の中で曹操を「贅閹の遺醜」(宦官という薄汚い存在の臭い倅、といったような意味)と罵倒している。

しかし、そのような逆境が曹操に「家柄などによらず、人が個々の才能に応じて正当に評価される世を作りたい…」という思いを

強めさせたのだと思われる(前述の陳琳も後にその文才を曹操自身によって認められ、取り立てられている)。

月旦評で有名な後漢の人物批評家許劭(許子将)は、曹操のことを「治世の能臣、乱世の奸雄」

(「子治世之能臣亂世之姦雄」『魏志武帝紀』)、もしくは「治世の奸臣、乱世の英雄」(「君清平之姦賊亂世之英雄」『後漢書許劭伝』)と評した。

演義では「爪黄飛電」、「絶影(影もとどめぬという意味。絶影については正史の注である魏書にも記述がある)」を愛馬とし、対をなす「倚天の剣」、「青詇の剣」という宝剣を作らせる。

●事績

他の群雄達が兵糧確保の為に農民から略奪するだけの強盗まがいの事をしていた当時に、

曹操は韓浩に提言された屯田と呼ばれる農政を行っていた。屯田とは戦乱のために耕すものがいなくなった農地を官の兵士が農民を護衛して耕させる制度である。

この政策により曹操軍は食料に事欠かないようになり、各地の食い詰めた民衆達を大量に集める事が出来たのである。この屯田曹操が勝ち残った理由のひとつである。

曹操は文章家でもあり、兵書『孫子』を現在残る十三篇に編纂したのは曹操である(演義では、

孫子』に倣って十三篇に編纂した自著の兵法書である『孟徳新書』を張松に笑われた事で怒り焼き捨てているが、

これが恐らく『孫子』の注釈書の事ではないかと言われている。勿論焼き捨てられてはいない)。

漢詩にも卓越しており、赤壁の戦いの際に歌った「短歌行」は『文選』に収録されている。

彼の作品で現存するものは多くないが、それらの詩文からは、民衆や兵士の困苦を憐れむ気持ちや、

乱世平定への気概が感じられる。文武両面に非凡な才能を見せた曹操陳寿は「非常の人、超世の傑」

(非常な才能の持ち主であり、時代を超えた英雄である)と評しているが、徐州における虐殺については酷評している。

現在の日本の酒造業界において尚行われている「段掛け方式」という醸造法は、曹操が発明した「九蒕春酒法」のことである。

曹操後漢献帝に上奏した九蒕春酒法の上奏文は、今日も現存している。

屯田以外の曹操の政治上の業績は、強制婚姻による兵雇制度の改革、権限の一元化によって朝廷内の意思を統一するため

三公を廃止して丞相と御史太夫を設立、有能な人物であれば過去を問わず採用する求賢令、

禁酒法軍閥の抑制を目的とした地方分権型から中央集権型軍隊への移行、州の区分けを見直す合併独立による再編などである。

中国カンフー--太極拳

太極拳ーーーー太極(タイジ)
カンフーーーーー功夫(ゴンフ)

「中国カンフー」とは、中華民族の古代から現代に到るまでの武術や武芸、その修練、そしてさまざまな健康法の総称をいい、また中国の拳法は、著名なものだけでも100種を超えるといわれる。


●カンフー(功夫)・太極拳は、一般のスポーツとは異なった特殊性を持っている。

一般のスポーツの場合、たとえば陸上・球技・重量挙げ・ボクシングなどの選手は、30歳を過ぎると体力の維持が難しくなるため、現役から引退しなければならない。
しかし、カンフー・太極拳の場合はそういうことはない。カンフーは外功と内功とに分けられる。
「外は筋骨皮を練り、内は精気神を練る」。これらは、強靭な体格と敏捷な動きを訓練するだけでなく、体の中から鍛練することによって、心身を整え、五臓六腑を強くし、気脈の流れをスムーズにするものである。
その結果、動から静へ、剛から柔へと、年を重ねるほどにカンフー・太極拳の力が増していき、健康の維と長寿に大きな効果をあげることができるのであると、
 しかし最も重要なことは、何事もそうだが、やり始めたら堅持する事が肝要であると・・・

●起源:

武術史研究家唐豪以来の通説は、河南省温県陳家溝という村の陳一族に家伝として伝えられていた武術が起源であるとする。
その創始者については諸説あり、明代末・清代初に当時武人として活躍した陳王廷がつくったとも言われる。
しかし、陳家溝に残る史料からは他にさまざまな武術が流入していた可能性がうかがえ、むしろそうした研鑽の蓄積としてできあがったと考えるのが妥当であろう。
陳氏の武術は一族を守る武術として発展し、それ故に門外不出とされていたが、清代末に河北省永年県広府鎮の楊露禅がこの拳法を会得して、北平(北京)に出向き広めた。
拳理(武術理論)として王宗岳の『太極拳論』が重視されたため、そこから「太極拳」という名称が用いられるようになったとの説がある。

●種類

武術として継承されてきた伝統的な太極拳は、後述の制定拳に対して「伝統拳」と呼ばれる。
伝統拳はその伝承系統や各伝人によって内容にさまざまな違いがあるが、「伝統五派」という五つの系統に分類するのが普通である。
伝統五派は、それぞれ創始者あるいは代表的な継承者の姓をとって、陳、楊、呉、武、孫の名を冠する。
かつては「陳氏太極拳」「楊家太極拳」のような名称が多く用いられていたが、
第2次世界大戦後は中国をはじめとして「陳式太極拳」のように「〜式」と呼称するのが一般的である(中華民国では現在も「〜氏」と呼称するのが一般的である)。
近年、従来は陳式の一派(趙堡架式)とされていたものが、和式太極拳として認定された。
各流派に分かれているが、共通の基本功として「十三勢」があり、基本功が習得された後、「套路」、「推手」、「散手」と進むのが一般的である。
また、十三勢の中に流派ごとにさらに細かい「太極拳の技法」がある。

また、伝統拳はそれぞれの門派において剣、刀、杆、槍などの器械(武器)を用いた套路を伝承しており、門派毎に伝承内容は異なる。
中国武術において器械は手の延長と見なされ、徒手の応用であると同時に、一種の練功法として行われている。
太極拳においても、太極剣、太極刀など(器械套路)と太極拳徒手套路)は同一原理に基づくものであり、器械を練習することによって太極拳の理解がより深まり、武功の成長が促されると考えられている。
例えば、剣尖まで勁を伝えるように剣を練習をすることで、全身を協調させて運勁し、発勁するための有効な練習となる。
また、剣には刃がついているため、徒手より動作に意識が集中しやすく、気功的あるいは武術的鍛錬として高い効果が期待できる。

▲陳式太極拳
全ての太極拳の源流であり、(このことは中国民間に広く否定され、批判されている。)河南省陳家溝の陳一族を中心に伝承されてきた。
動作は剛柔相済、快慢兼備を特徴とし、太極拳に特徴的な柔軟さや緩やかな動きだけではなく、震脚(強く脚を踏みならす動作)を行い、
発勁方法は明勁(素早く激しい発勁の仕方)を重視し、纏絲勁によって全身の勁を統一的に運用する。
一般的な太極拳のイメージからすると、特に二路(砲捶)は非常に剛的な印象をもたれ易い風格であるが、高齢の達人の拳風は内勁重視のため、
むしろ楊式や和式を連想させる緩やかなものである。
また陳氏の太極拳には大別すると平円重視の大架式と立円重視の小架式の2つのスタイルがあり、大架式からは新架式が派生し、
小架式からは趙堡架式が派生した。20世紀に入り、陳発科が北平(北京)で大架系統を教授してから一般に広まったといわれる。

楊式太極拳
陳家溝で太極拳を学んだ楊露禅が北平(北京)に出向き伝えた。露禅は実戦高手として楊無敵と讃えられ、その評判故に請われて多くの者に教授した。
その拳は非常に柔らかな動きで、「綿拳」「化拳」と称されたと伝えられる。その後も露禅の子、孫と三代にわたって楊式は改変され、
現在普及しているのは露禅の孫楊澄甫が伝えた大架式の套路である。
楊式にも動作に緩急を伴う小架式及び二路砲捶が存在するが、最も普及した大架式の動作はのびのびとして柔らかく、
発勁法は緩やかな暗勁(激しい打撃動作を行わない発勁の仕方)であるため、最も広く行われている。
楊式太極拳の理論書としては、楊班侯伝の「太極拳九訣」や楊澄甫伝の「太極拳老譜三十二解」がある。
後述の制定拳は楊式をベースにして構成されている。

呉式太極拳
楊露禅の子楊班侯に師事した呉全佑(満州族出身)とその子呉鑑泉によって確立した。
呉鑑泉が上海精武体育会で教授したため、香港を中心として中国国内はもとより、とりわけ華僑の間に普及した。動作は緊密でまとまっており(小架式)、楊式初期の風格を残していると言われる。
満州族のシュアイジャオ(投げ技を中心とする武術)に由来するといわれる前傾姿勢が特徴的である。伝承系統によって歩距や架式の高さに比較的違いが大きい。

武式太極拳
楊露禅の支援者武禹襄が露禅に学んだ後、河南趙堡鎮の陳清萍に学び、さらに工夫を加えて成立した。武禹襄は太極拳の理論化に貢献した。
近代の「太極拳」の名は、武禹襄の兄秋瀛が再発見した王宗岳の「太極拳譜」に由来するといわれる。武式は太極拳の精華と評され、厳密な身体の運用と実戦的側面を伝える門派である。
しかし、武禹襄が親族にしか伝拳せず、その後も近年まで保守的であったため、伝承者はきわめて少ない。著名な伝人郝為真の姓をとって「郝式」と呼ばれることもある。

孫式太極拳
高名な武術家孫禄堂が、郭雲深に学んだ形意拳の歩法、程廷華に学んだ八卦掌の身法、郝為真(武式)に学んだ太極拳の手法を統合して完成させた、孫家拳を代表する套路である。
開合によって動作を連関し、快速な活歩によって転換するため、一名「開合活歩太極拳」と称される。

● 分派

和式太極拳
従来陳氏の一派(趙堡架式)と見なされてきたが、近年、代表的伝統太極拳として認定された。
初代和兆元は陳清萍(陳式)に学んだが、発勁は暗勁が主で、独自の風格を備える。二路套路を持たない点も陳式と異なる。

他にも、主に陳清萍に学んだ李景炎が創始した忽雷架式は、綿密な段階的教授法と独特の発勁技術が、他派にない特徴として注目されている。

鄭子太極拳

楊式太極拳の第三代伝人の楊澄甫の弟子である鄭曼青が楊式太極拳を整理し三十七式にまとめたもの。
楊式からこの三十七式が認められなかったこと、さらに楊式よりもさらに柔らかくこじんまりとした動きであることなどから別式とされている。
套路(型)は37式、武器は剣(楊式太極剣)、推手、さらに台湾系の系譜ではこれに内功(気功)が加わるだけの最小主義の太極拳で簡易太極拳と言われることもある。
鄭曼青は五絶老人とも呼ばれ「詩、書、画、医、武」に優れ文人、医者としても名高く台湾に移住後、さらにニューヨークに移り、漢方医として活躍する傍らで太極拳を教えた。
中国人、欧米人の区別なく太極拳を伝授したため結果として欧米に最初に太極拳を広めることになり他の太極拳が欧米で教えられるようになるまでは欧米で太極拳といえば鄭曼青の三十七式であった。
鄭子太極拳とは「鄭先生の太極拳」といった意味だが、これは鄭自身が一派をなしたとは考えなかったことと、五絶老人に対する敬意としてこのように呼称される。


太極拳の健康効果は以前より知られていたが、必ずしも万人が習得することのできる平易なものではなかった。
中国政府は第2次世界大戦後、伝統拳の健康増進効果はそのままに、誰にでも学ぶことのできる新しい太極拳を意図し、国家体育運動委員会が著名な武術家に命じて套路を編纂、普及に努めた。
これを伝統拳に対して「制定拳」と呼ぶ。制定拳は楊式太極拳大架式をベースにして重複動作を避け、難度の高い動作を簡略化しつつ、太極拳のエッセンスをまとめたものである。
套路毎に動作の数が違うため、各套路は「二十四式」のように動作の数で呼ばれることが多い。

簡化太極拳(二十四式太極拳

簡化太極拳は最初の制定拳として1956年に発表された。
楊式太極拳の主要な二十四の動作から構成されており、そのため「二十四式太極拳」とも呼ばれる。
中国の学校では日本のラジオ体操と同じように生徒全員に教えられる。動作の覚えやすさと教えやすさに重点が置かれ、
健康面でも武術面でも本質を伝えにくいなど伝統的な太極拳家の間では不評であるが、外国でもジムなどでヨーガなどと一緒に教えられることが多く、
全世界で練習され、健康運動としての太極拳の普及に大きく貢献している。
日本の太極拳教室で健康のために教えているものはほとんどの場合、この簡化太極拳である。楊式を基礎としているので本格的な楊式の入門用の套路として教えられることもある。
普及に伴って集体(グループ)表演や競技会が盛んに催されるようになり、簡化太極拳は結果的に、表演武術としての側面を太極拳に持たせることになった。
太極拳とは健康運動、ひいては武術にあらずとの認識を広める一因としての批判が伝統拳の間に多い。

八十八式太極拳
二十四式太極拳に続いて、1957年に発表された。二十四式に適用した原理に基づいて楊式太極拳の動作を改めたもので、二十四式と同質性があり、二十四式の既習者には学びやすい套路である。
拳式の順序は伝統的な楊式太極拳大架式に準じているが、動作原理が違うことや、李玉琳伝の楊式太極拳に基づいていることにより、一般に行われている楊式太極拳と動作に少なからず差異がある。

四十八式太極拳
二十四式太極拳の上級套路として、1979年に発表された。二十四式、八十八式とは異なって、楊式太極拳をベースにしながらも、陳式、呉式、孫式の動作を取り入れた、初めての総合太極拳である。
二十四式より難度は高く、八十八式より表演時間は短く、動作が左右対称に整えられた総合套路であったため、一般に普及しただけでなく、競技会においても頻繁に行われる套路となった。

総合太極拳(四十二式太極拳
80年代後半、太極拳の国際大会が催されるようになると、競技会用の套路が要望されるようになった。
競技者自らが構成した「自選套路」では、優劣を判定することが難しいことが生じるからである。そこで陳氏、楊式、呉式、孫式の競賽套路、総合套路、遅れて武式の競賽套路が発表された。
日本では「競賽」という語に馴染みがないため、競賽套路は「規定套路」あるいは「競技套路」などと呼ばれるのが普通である。
こうして発表された総合套路が「総合太極拳」であり、動作の数から「四十二式太極拳」とも言われる。

総合太極拳は、四十八式と同様に楊式太極拳をベースにして、陳氏、呉式、孫式の動作を組み合わせて創られた套路である。
四十八式よりも各門派の特徴的動作を明確に演ずることが出来、内外の競技会種目として採用されている。見栄えのする套路なので、中国では一般にも人気が高い。
その一方で、競技性を念頭に置いて伝統拳の動作をつなぎ合わせたので、「連続性が悪くぎごちないところがある」「健康効果に比して身体への負担が大きい」などの批判もある。 

▲太極剣(三十二式太極剣、総合太極剣)
制定拳を行う者が器械入門として行えるよう、楊式太極剣をもとに編纂された套路が「三十二式太極剣」である。
さらに競技用套路として、陳式、楊式、呉式の動作を組み合わせた「四十二式太極剣」(総合太極剣)があり、総合太極拳と並んで競技会で盛んに行われている。

風水

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●風水とは?

風水とは、天地のエネルギーである“気”の流れのことです。
自然界には、この“気”が宇宙空間、地球、大地に降り注いでいます。
人々は良好な自然の中で暮らし、町や寺院、墓、家などをどのように造るべきかを“気”の流れによって追求してきました。
その結果として、環境を整えることによって幸運を招く、『風水術』が誕生したのです。
『風水術』は古代中国で生まれ、早くから日本に伝わり歴史上、都市造りや建築に広く応用されました。


▲“気”とは?

『風水術』に限らず、古代中国の学問において“気”という概念は大変重要です。“気”には次のような意味があります。

空気、大気、天地間の自然現象
力、勢い、心持ち、飲用
身体の根源となる活動力、元気
万物生成の根源力
宇宙の蛮勇を生成する質量

さまざまな意味はありますが、これらは単独ではなく、全体でひとつの意味を表しています。


◎森羅万象の“気”

森羅万象は、それぞれ“気”を持っています。
『天』『地』『人』についてはそれぞれ次のような意味があります。
天から降り注ぐ“気”を天気と呼びます。これは空模様の天気とは別の意味です。
大地の“気”は『地気』と呼び、大地の精気という意味があります。
人が発する“気”は人気と呼び、“気”が強い人は世間から注目されます。
また、気功というのは、“気”をはたらかせる、あるいは“気”で動かすという意味です。