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粟津征二郎の紀行エッセイ

2017-03-06 第133回 維新前夜の幕府本陣、京都黒谷さんは京の隠れ散策路

会津の運命を変えた松平容保京都守護職就任〜

  大政奉還から150年の春、久しぶりに黒谷界隈を歩いた。桜にはまだ早いが、室町時代から花の名所に数えられた地である。京都の人はくろだにさんと、親しみを込めて呼 んでいる。かつては観光客の姿をみかけない散策路として学生たちの人気を集めた。NHK大河ドラマの舞台になり、真如堂から黒谷に足を伸ばす観光客が増え た。黒谷の名がつくが、一帯は丘である。いわれは比叡山黒谷で修行の法然が山をおりてこのあたりに庵を結び、新黒谷の通称が生まれ、浄土宗の広まるにつれ て黒谷の名称が定着した。

  吉田山の南に位置し、歴史の散策路としては、私は最高の評価を惜しまない。界隈の中心が金戒(こんかい)光明寺であるが、町名も黒谷町になっている。法然没後、浄土宗4世恵尋の代で仏殿、御影堂を建立、紫雲山光明寺と称した。

  現在は知恩院清浄華院百万遍知恩寺とともに四カ本山の一角を構成する。岡崎平安神宮の西北、京都御所から2キロの位置にあり、小高い丘からは京都が一望できる。

  文久2年10月24日午前9時、京都三条大橋に威風堂々会津藩士一行が到着した。藩主松平容保京都守護職正四位下)に任じられ、この日、入洛した。行 列は三条から黒谷光明寺へ向かった。沿道には京町衆の人垣ができ、会津藩を歓迎した。幕府桜田門の変後、京都の治安悪化や反幕府運動の拠点化しつつある 京都所司代や奉行に代わる京都守護職を新設した。

  京都御所の守りは彦根藩の役目で、井伊の赤ぞろえの武勇の藩がにらみをきかしていた。大老井伊直弼暗殺は、幕府の弱体化を一気に進め、京都は暗闘の都と化し た。京都守護の提案は薩摩藩主島津久光である。長州とは一線を画す公武合体論者である久光は朝廷から推されて守護職就任し、中央政治を牛耳る野望を持って いた。幕府薩摩意向に反対、会津に守護役が回ってきた。東北の藩から京、藩士の移動はもとより、藩主在京になれば、藩の負担はあまりにも大きい。家老 西郷頼母が火中にまき蒔を背負って火消しにおもむくがごとく、会津は火に包まれると強硬に反対した。最後は容保の決断で受諾し、波乱の会津幕末が幕を開 けた。

  三条から黒谷への道は東海道を後戻りして岡崎から向かうが、疎水べり桜はつぼみ固い。しかし、風は春の気配である。散策の道すがら考えたのは150年前の直 弼暗殺後の幕府の混乱。水戸家も幕府衰退の引き金になるとは予想もしなかっただろう。事態は想定した以上のダメージを与えていた。直弼に代わる人材はその 後の経過からも明らかのように、いないに等しく、期待の徳川慶喜にいたって幕閣を仕切る器でなかった。

  延々と続く行列が目に浮かぶ。王烈行列の籠の中の容保は直弼死後の激変に戸惑いつつ、「京を死場所にするしかない」と決意を固めていた。共する藩士たちの思いも同じだった。 会津藩苦難の道が待っていた。

  聖護院門跡から北東へ進むと、壮大な三門にであう。金戒光明寺。門を額縁にしてのぞむ石段から御影堂の威容は京都の寺にない風景である。家康が城をイメージして建立しただけに、寺と城をあわせた伽藍配置と建築は確かに知恩院とともに異質だ。

  伽藍はなんども火災にあい、江戸時代復興するも昭和9年に焼失、再建されている。文化財指定は少ないが、御影堂屋根の線の流れは流麗でありながら、迫力が ある。桁行7間、梁間7間、入母屋造り・一重・本瓦の建築。再建の堂宇が焼失前通りでないにしても往時のおもかげをたただよわる構えにみとれる。

  容保が光明寺を仮宿舎に選んだ理由は城構えのほかに御所までの距離、千人の兵が常駐できる52の宿坊があったからだ。その配置も桝形同様に迷路になっていて攻め込むのが容易でなかった。

 石段をのぼり、御影堂前をあおぐ広場の空間は、のびのびしていながら塔頭への道は迷路で歩くものを戸惑わせる。散歩道の条件を備えている。哲学の道はこちら ではないかと、思うほどだ。昔話になるが、入社して京都へ住み着いた新米記者が酒の肴にした京の見どころに黒谷を決まってはいっていた。同志社出身なら若 王子山とともに会津ゆかりの地でもあるため、なじみがあるが、よそものにとっては初めての風景になるだろう。目をひく空間は禅寺で感じる堅苦しさがなく、 自由にあふれていると、語り合ったことを覚えている。

  容保の入洛から半年後、江戸を出発した240人浪士がいた。いずれも郷士でありながら武士よりも武士らしく生きる道を重んじた彼らは京都入りするや容保を訪 ね、京都守護預りの身分で新選組を結成した。容保の側近、手代木直右衛門が治安維持の指揮を執り、新選組を動かした。新選組近藤勇以下の隊士池田屋事 件で功をあげ、京に新選組ありの名を広めるきっかけをつくった。

  会津藩の士道忠義に共鳴した彼らもまた黒谷に出入り、命を受けて御所警備、京の治安強化の一翼を担った。若干26歳の容保は公家や幕閣にない果断さを持ち合 わせ、東北人の素朴さで朝廷を味方につけた。都から長州追放し、孝明天皇の信頼は篤く、相談相手の中川宮を通じて公武合体の道をめざしていく。

  容保の京都駐在は5年余になる。足並みのそろわない幕府にあってまさに孤軍奮闘の容保であった。転機は孝明天皇の死。公武合体から倒幕に流れを変えた。ところが将軍徳川慶喜の優柔不断さが拍車をかけ、容保の立場は苦しくなる。

  慶喜を擁護する研究者もいるが、京都における言動は、諸大名を離散させ、兵の数では圧倒した鳥羽・伏見の戦いの敗因になった。病弱の容保は黒谷で寝込むこと が多く、そこでの思案は激しさを増す尊攘勢力との闘いで公武合体をいかに軟着陸させるかであっただろう。容保が江戸城幕閣の注目を集めたきっかけは直弼暗 殺の主力になった水戸家に対する処分に反対したことがあげられる。26歳の若者の言動は、皮肉にも直弼後の京をまかされる会津悲劇の始まりになった。

  『京都守護職始末』は慶喜について「この人ははじめ勇にして後に怯なる性質」と、痛烈に批判している。最初は威勢よく、形勢不利となれば退くのはよく(ある)話であるが、慶喜の場合、重大場面でこの性質をさらけだし、薩長の付け入る隙をつくっている。この言葉は家臣の書いたものでなく容保自身の慶喜評だった。容保は慶喜に見切りをつけ、守護辞任して会津へ帰るチャンスはあった。ただ孝明天皇の説得でいったん、辞めた守護職に復帰している。慶喜は病気を理由に鳥羽伏見 の戦いの先頭に立って指揮をとることなく大阪から江戸へ脱出した。

  慶喜とたもとを分かっていれば、幕府崩壊しても、会津攻撃は避けられたかもしれない。

  禁門の変鳥羽・伏見の戦いでは会津藩の戦いぶりはめざましく、逃げ腰の幕府軍の主力になった。

  黒谷には戦死した352人の会津藩士が眠っている。会津墓地は光明寺三重塔の石段をのぼっていくと、途中に会津墓地の案内がある。ここの石段からは京都市内が広がり、桜咲く頃には境内の花見も楽しめ、休憩しながら大政奉還から150年の歴史をひもとく格好の場所だ。会津墓地は奥まった一角にあり、西雲院が菩提寺になっている。毎年6月、松平家当主が参列して法要が営まれるが、新島襄の妻八重も生前、欠かさず参列した。八重の弟、山本三郎鳥羽伏見で戦死、黒谷墓地に葬られた。

  八重は鳥羽伏見後の会津籠城のさい、三郎の形見の装束で入城、死を覚悟していた。昭和3年11月の福島新報は西雲院法要の模様と写真を掲載している。この写真に84歳の八重の姿が写っていた。

  西雲院庫裡前にひとりの墓がある。会津の小鉄。京都の人なら耳にした侠客の墓。小鉄は大阪生まれ、会津藩中間部屋住みになり、会津藩の入洛とともに京入り、 表向きは口入れ屋、裏家業は密偵で会津藩に協力した。鳥羽・伏見の戦いで戦死した藩士の遺体を収容、墓地を守ったという。小鉄こと本名上坂仙吉は会津小鉄会を結成し、京の侠客として明治以降の京の親分だった。現在の指定暴力団会津小鉄会は小鉄から6代目になる。

  黒谷は会津士道、それに心酔した新選組、裏方に徹して容保を盛り立て手足になった侠客という身分の違いをこえたつながりで結ばれていた。容保は国元に送った 親書で「士民貴賤上下なく藩祖以来の徳を受けた面々は力を合わせ、心をひとつに兵を起こさば武威天下に輝く」と、書いている。しかし、容保は藩士たちに知らせず、大阪から慶喜とともに逃げた。死して武士道を守る藩論に反していた。江戸にもどった容保は生涯、過去を語ることはなかった。あの会津籠城の混乱の なかで登城した家老西郷頼母が「容保以下重臣は自刃して責任をとれ」と迫った言葉は容保の胸を射抜いたにちがいない。頼母は守護職に反対して解任されるも 会津戦争には参加、会津戦争では妻子9人が自決している。明治期、東照宮宮司になった容保のそばを最後まで離れず、行動をともにした。

  会津攻撃は官軍の中でも慎重論があった。強硬論を張ったのは木戸孝允桂小五郎)である。寺田屋事件新選組の急襲から逃れた孝允は会津攻撃にこだわった。 江戸城があっけなく開城し、旗本は抵抗なく官軍を受け入れた江戸に比べて、京は戦火をまみえ、会津たるや一族自決など総力戦のすえ、恐山近くに藩ごと配流の苦難に耐えなければならなかった。容保が沈黙を続けたのは、自らの誤りと、身を挺して守ったはずの徳川への怒りもあったに違いない。黒谷に桜吹雪の季節がやってきた。

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