破壊と実現 ───ギー・ドゥボールと平岡正明、そしてフランツ・ファノン  by 平井玄 (『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』第2巻解説)

 1、1969年のシュルレアリスム
 「この手の文学主義者は何の役にも立たないな」───と、その連中を見ながら私は思った。彼らの黒いヘルメットには、”コントル・アタック”と赤ペンキで鮮やかにレタリングされていたからである。1970年の夏、場所は都内の某大学構内。K派の襲撃とそれに伴って予想される機動隊導入に備えて直ちに支援に駆けつけ、防衛のための部隊編成を急いでいた時のことだった。たぶん彼らはこの大学の仏文系の人たちであり、「コントル・アタック(反撃)」とは1935年にアンドレ・ブルトンポール・エリュアールらのシュルらリストたちが、ジョルジュ・バタイユ、ミシェル・レリスら後の「社会学研究会」グループと共に結成した「革命的知識人闘争同盟」という反ファシズム・グループの機関紙名であった。
 「気持ちは分かるけどね───」というのが、正直なところだったと思う。何故ならば既に私は、この前年1969年の9月か10月ごろの新宿の「ピット・イン」という行きつけのジャズ喫茶の大きな壁の一隅に、当時としては実にていねいな2色のサイケデリックな文字で”超現実主義革命”などと書かれた落書きがあるのを発見していたからである。美大系の学生の手によるものだったのだろう。確かそのすぐ隣にはまた別の手で、”政治の季節への移行を嫌って/69年秋、京大全共闘”といった生々しい言葉も書き殴られていたと思う。「それにしても、30年以上前の外国のスローガンを翻訳語そのままに引き写してしまう、この何とも言えない空虚さ」と、自分自身相当なアヴァンギャルド・フリークだった18歳は生意気にも感じ取っていたようである。幾人かのシュルレアリスト詩人たちの転向と戦中の空白をはさんで50年代末に再開されたこの国におけるシュルレアリスムの紹介と研究は、60年代には活況を呈していたと言っていいだろう。そしてそれが60年代後半には、時代の推移と共にようやく政治的な側面へも及んでくるようになっていたのである。
 トロツキズムが、学生運動という形で初めて大規模な大衆運動として登場した時代だった。ファシズムに向かった未来派にではなく、フロイト精神分析に衝き動かされてダダの瞬発性から抜け出し、1920年代にフランス共産党を批判してトロツキーに接近したインターナショナルな芸術運動としてのシュルレアリスムに関心が集まるのは当然だったと言える。1960年代とは、ある意味で「黄金の20年代」の世界的な規模での再演、あるいは幕間の休憩(第2次世界大戦)を挟んで再開された物語の後編だったのである。(この国での前編はごく短いエピソードに過ぎなかったが)。ただし前編と後編では肝心のステージが、その舞台装置が違っていたというべきだろう。ベトナム戦争を背景にした高度経済成長がピークにまで昇りつめようとしていたこの頃、私たちの目の前に出現しようとしていた消費社会は、戦争直後の「必要としての消費」を超えて、より繊細で含蓄に富んだ「消費の美学」「美学の消費」を支える思潮を求めていたと言える。私たちの消費感性を戦後一貫してリードしてきたアメリカニズムは、今まさにベトナムのジャングルと泥沼の中に黄昏ようとしていた。アメリカの裏文化としてのニューヨークやサンフランシスコのサブ・カルチュアの歴史はまだ浅く、正統的なヨーロッパ文化がかつて世界中に向けて振るっていた絢爛たる指導力は、ダダによる「死亡宣言」を待たずとも、シュテフォン・ツヴァイクの言葉を借りれば既に1910年代には「昨日の世界」としてその本質的な役割を終えていたとされる。ヨーロッパの裏文化の包括的なインデックスの趣を持つシュルレアリスムの全振幅がここに呼び戻されただろう。たしかに嫌悪と自発性だけを原理にしたようなダダイズムに比べて、夢、狂気、偶然、黒いユーモア、隠秘学などをめぐって意識下に広がる想像力の体系的探求を目指したシュルレアリストたちの運動は、「ヨーロッパ文化の内なる<他所>の発見を促す、一種の文化革命さえ内包していた」(巌谷 国士)と見なされていたのである。実際に20年代のパリに滞在しバタイユらと接触していたヴァルター・ベンヤミンは、そのような可能性を敏感に掴み取っていただろう(「シュルレアリスム」1929年)。そして60年代の大混沌の中から脱け出して70年代の整理と成熟へ向かおうとしていた「消費社会の資本主義」にとってもまた、余暇と消費の領域をめぐる一種の「文化革命」が待望されていたのである。
 60年代から70年代にかけてのシュルレアリスムの世界的な流行は、このような舞台=戦場の上で展開されていたと言える。あらゆる支流、除名者、世界各地の共鳴者たちに関する実にたくさんのテクストや資料が翻訳され、出版マーケットに溢れていった。そして、一言で言い切ろう。”狂気”とペイントされた黒ヘルメットの脱ぎ捨てられた後の70年代初頭の東京の街頭には、会田佐和子デザインによる”シュール”なパルコのポスターが大量に現れていたのである。
 もちろん、1969年の私がそこまで見通していたわけではない。ただ、この種のアバンギャルドかぶれの活動家たちが操る論理の分析力や行動における戦闘力には少々情けない思いをさせられてきたからである。具体的なこの国で、この街で、私たちが生きて血を流しているこの空間で、「超現実主義革命」とは何ものも意味していなかった。こうして「コントル・アタック」誌に展開された論陣とその短い活動の帰趨を紹介した先駆的な雑誌『パイディア』(竹内書店刊)などもまた、70年代に入ってからは、バタイユ特集に続いてフーリエ派から転向したカバラ主義者エリファス・レヴィのようなユーロ神秘主義潮流へとその編集の重心を移していくことになる。実はエルンスト・ブロッホが20年代に指摘していたように、古代から中世にかけて隠秘学的知そのものが極めて重要な思考と身体の戦場だったと言えるのだが、1972年以降つまり連合赤軍による一連の闘争以降の決定的な敗北過程で、オカルティズムへの志向が多くの人々に帰るべき、そしてそこに没入して眠り込むべき「内部世界」への道標を提供していったことは否めない事実であった。従ってこの時以来、トロツキーブルトンのメキシコでの邂逅というエピソードを超えて、シュルレアリスムの主張が20年代から70年代にかけてのグローバルな政治社会空間や表象空間の変動する網の目の中で生じさせた意味作用、畢竟シュルレアリスムに孕まれていた全体革命としての可能性不可能性のその枢要部について語られることは、ほとんどなかったと言うことができるだろう。

 2、ジャズの中へ、ジャズとして
 だが、平岡正明がいた。あるいは相倉久人平岡正明を双頭の龍のようなイデオローグとするジャズ運動があったと言うべきである。
 「今世紀の最も重要な芸術運動の2つ、しかも同時並行現象たる超現実主義とジャズの間に───双方の華々しいピークが、スペイン人民戦争前とバップというぐあいにずれているために、ジャズをシュールレアリスムより後に来たものと理解しがちだが、両者とも同時代に別々に深化していったのである───何らかの関連を見出そうとする試みは、じつは2人が出会った時から相倉久人と俺にはあった」(「裏返された手袋」より、『ジャズより他に神はなし三一書房、1971年7月刊に所収)。
 「シュールレアリスムはジャズの予感である」これが、この論考初出時につけられたサブタイトルであった。掲載されたのは、1969年3月発行の『ジャス批評』誌5号。著者によれば脱稿は1月20日。つまり全共闘の活動家たちによって東大安田講堂に築かれていたバリケードが8千人の警察機動隊の攻撃によって落城した、その翌日とされている。
 職業的な音楽評論家であった相倉久人と特異な政治イデオローグといえる平岡正明が、「ジャズ」そのものとしての思想形成を目指して強力なコンビネーションを組む以前にも、もちろんジャズ評論の類いは存在していた。しかし大半は、印象スケッチのようなレコード・ガイドや業界情報、そして文芸批評の遅れた亜流にすぎなかったと言える。これにシニカルなポストモダン評論の類いを加えれば、その情景は現在も何ら変わりはない。これ以前、既に10代の初めから「教室の音楽」としてのクラシックではなく「路上の音楽」としてのロック・ミュージックの洗礼を受けて育ってきた私のような者にとって、ようやく1961年ソニー・ロリンズの2度目の来日の頃から本格的に聴き始めたジャズには、まだまだ「ナイトクラブ・ミュージック」としてのショー・ビジネスの臭いが強すぎたのだと思う。そして14歳の中学生が、当時都内でも数少なかった前衛ジャズのかかる地下の薄暗いアジトのようなスポットに出入りするのは、やはり少々はばかられたのである。1966年の私はサン・ラーも、アーチー・シェップも、もちろんマルコムXも知らなかった。
 むしろ、こう凝縮して表現すべきだろう。何よりも、1967年春に現れた平岡正明「ジャズ宣言」(『ジャズ批評』誌1号所載)の中にぶちまけられていた砕け散るような言語のビート感こそが、私たちの世代全体に、「ナイトクラブ」ではなく「路上の音楽」そのものとしての黒人ジャズの姿を最初に、そして震えるように鮮烈に意識させてくれたのだ、と。現実に私が黒人前衛ジャズに没頭するようになるのは、このマニフェストに接した直後であった。そしてこの場合の「路上」とは、ロンドンのカーナビー・ストリートでもニューヨークのイースト・ヴィレッヂでもなかった。それはマンハッタン・ハーレム地区の、シカゴ西地区の、そしてデトロイトやワッツやニューアークの黒人ゲットーで激しく展開されていた「暴動する街角」のことであった。既にこの時、アメリカ黒人社会を揺さぶっていた地殻変動の行方を決定的に左右するものは、黒い中産階級の交渉団体によるいかなる折衝でもなくゲットーに展開する「路上の力学だったと言える。ジャズは確かに、ブルースのように直接黒人コミュニティの街路で演奏されて育ってきた音楽ではない。しかし、テクニックや形式の上で最高度の蒸留過程を経て成立し、しかも白人社会とのコマーシャルな接点でギリギリの緊張の中で葛藤してきた音楽だからこそ逆に、この躍動する『路上の力学』の頂点で生じた危機をより熾烈に、より先行的に、そして思いもかけぬ予言的な深さをもって「音楽の力学」として提出しようとしていたのである。このダイナミックな逆説の過程をマイクロスコピック(顕微鏡的)に、そして世界史的展望の下に初めて分析してみせたのが、相倉久人であり、平井正明であったと言える(相倉久人については拙著『破壊的音楽』所収の「相倉久人の1970年代」を参照されたい)。
 『ジャズ宣言』は言うだろう。
 「ロリンズの奇跡的な力業を除外すれば、ジャズの歴史に後退戦というものはなかった。後退すればジャズの尾についてくるコマーシャリズムにからめとられる。前衛ジャズの方向にしか突破口はなく、したがって最良のエネルギーはそこに集中され、最高の燃焼はそこでおこなわれるだろうことは認める。しかしそれはブルースの力に直結したものだろうか? いままさに、ブルースに革命をおこすべきではないか!」
 「ブルースは奇跡的なことだが、ひとつの、あるいは最後の共同体だった」「われわれの眼前で進行しているやや錯乱した前衛ジャズのフレーズが伝えてよこすものは、この共同体の崩壊ではないか。この展望はひどく絶望的である。絶望的な眺望をブルースは喰えるか。それともブルースが喰われるか」
 「にもかかわらず………根底的な意識の転覆を招来する力はジャズから上の「芸術」にはない。前衛演劇は商品である。アブストラクト絵画はアカデミーの囚だ。最良の革命、的精神はジャズの中に後継者を見出すだろう。………ジャズこそ、ひとつの永久革命にほかならない」(『ジャズ宣言』1968年、現代企画室より1990年復刊)。
 この25年前の文体に今もそれほど錆が生じていないことに、まず私たちは驚嘆すべきであろう。「ブルース」と「ジャズ」を他の任意の音楽ジャンルに置き換えてみれば、この論旨はこの4分の1世紀に非西欧世界の音楽に生じたすべての事態に当てはまる。何よりも、現在ただ今眼前で起こっている出来事へのこの強烈な疑い。ほとんどアドルノ的とも言える頑迷さ。彼は深い愛情を込めて、しかし遂に前衛ジャズを信じていないのである。(平岡の耳の快楽としての駿馬が走り回るその中原は、チャーリー・パーカーからアート・ブレーキーに至るバップの沃野にある。これについては後述)。そして初期マルクスの紹介と研究が進んだ60年代に特有の疎外論的なあるいは共同体論的な発想からの、飛び抜けててクールな距離の取り方。さらに、そのノマディックな言語の俊足と強力な分解力と結晶性。こうした文体つまり「反乱の文体」を伴った批判的思考の特徴は、初期シチュアシオニストことにアスガー・ヨルンギー・ドゥボールのポレミックな論考とも同時代的な共鳴を引き起こしていたと言うことが出来るだろう。(平岡の最初のジャズ論が発表されたのはおそらく1961年である)。確かにスペクタクル批判はやや疎外論的であるとはいえ、シチュアシオニストによる「熱狂性」への意識的な脱臼を除けば、芸術の破棄と現実の切り立った境目での思考、戦後前衛アートの政治的不能への前衛的嘲笑、都市的な街路の立場への執拗な執着、そして犯罪への傾斜といった論理の構えの上でのいくつかの重要な共通点も見出せるのである。そしてここには、パリと東京のアヴァンギャルドたちを覆うシュルレアリスム運動の巨大な影が、そして、それに飽き足らない者たちによるシュルレアリスム批判をめぐる2つの鋭角的な方向が示されていたのである。

 「おれは超現実主義を蒙古馬にまたがって駆けぬけていた」(出てきた馬がまっくろけのけ」より『ジャズより他に神はなし』所収。)

 平岡正明は「ジャズ思想家」であるとともに、というよりそれに先行して、第1次ブントの中から生み出された奇妙な小分派「犯罪者同盟」のイデオローグとして極めて異例な東方のシュルレアリストだったのである。『ジャズ宣言』以前に出された初期著作、『韃靼人宣言』『犯罪あるいは革命に関する諸章』等に残されたオートマティックな檄文の数々を振り返ってみればそれは明らかであろう。彼のこうした「方法としてのシュルレアリスム」は現在に至るまで貫かれる。さらに犯罪者同盟だけでなく、高松次郎赤瀬川原平中西夏之による「ハイレッド・センター」や同じくブント分派「セクトNO.6]といった、60年安保後の政治と芸術の境界線上に輩出したいくつもの秘密結社的小グループの行動と発想は、レトリストやコブラや初期シチュアシオニストのそれに酷似していたと言わなければならない。その共通する“いかがわしさ”においてもまた充分に。

 3、屍体処理法について
 「シュルレアリスムの屍体をどう処理するのか」───。
 これが、1966年にアンドレ・ブルトンが実際に屍体になってしまうずっと以前に、戦間期の革命的シュルレアリスムに1度は強く魅了された事のある者たちが肌で感じ取っていた共通のテーマだった筈である。パリであろうと東京であろうとニューヨークであろうと。モーリス・ブランショは早くも1945年にこう述べている。「シュルレアリスムは消滅したのだろうか。それはつまりここやあそこに在るのではなく、至る所にあるということだ。それは亡霊であり、光り眩い強迫となったのだ」(『シュルレアリスムについての考察』)。
 「屍体処理」の方法は大別して2種類あったと言える。いささか比喩めいて語ろう。1つは、屍を直ちにパリからニューヨークに空輸し、さらにアメリカ中西部の広大な砂漠の強烈な陽光の下に運んでカラカラに乾燥させ、粉々に打ち砕き、取って返してヨーロッパ諸都市の地理の中に砂のように散布してしまう方法。フロイト精神分析装置としての理論モデルからブルトンが着想した「下意識」(フロイト自身は決してそうした実体化を容認しなかったが)の意味の深みは、一瞬にして涸びる。こうしてマンハッタンに到着したダリは摩天楼都市のスカイスクレーパーに自らの絵画的幻視力を震撼され、亡命したシュルレアリストたちと接触してドリッピングの手法をマックス・エルンストからインスパイアされたジャクソン・ポロックは、内面へ遡行するシュルレアリスムの「弱さ」をアメリカの巨大空間に晒すことによって超えようとするだろう(宮川淳引用の織物』や宇佐美圭司絵画の方法』等の考察を参照されたい)。ブルトンが夢想した想像力のフィエスタは、既にアメリカ型消費社会のなかで「死んだ表象」つまりエクゾティックな商品のダンスとして実現されていたのである。オートマティズムの方法による詩の革新に似た言葉の細片は、サブリミナルなコピーライティングやDJの即興的な語りとして街中に溢れていた。この生煮えの「表象」に、より徹底した「死」を突き付けること。それも強度と崇高と巨大さを売り物にしたニューヨークのアヴァンギャルドたちとは全く別の仕方で(おそらくここに80年代のアメリカでシチュアシオニストが蘇った理由がある)。すなわち、表象としての芸術の破壊がそのまま表象を越える何ものかの生成でもあるような、その切り立った稜線を商品社会の真っ只中で全力で縦走すること。第二次世界大戦後、駐留米軍やマーシャル・プランという形でヨーロッパに侵入したアメリカナイゼイションがとりわけそのような戦略を要求したといえる。言わばヨーロッパの地でヨーロッパの表象をアメリカの地でアメリカの表象を叩き潰すこと。───これが、ドゥボールたちシチュアシオニストが選び取った屍体処理法だったのである。シュルレアリスム批判はシチュアシオニストの出発点であり、その発想の根幹を形作った最も重要な契機だった。やや思弁的な『スペクタクルの社会』よりも、綱領的文書と言える『状況の構築とシチュアシオニスト・インターナショナル潮流の組織・行動条件に関する報告』を見られたい。ここには明らかに、ヨーロッパの「密教」として表象の源泉と化していったシュルレアリスムに対する、レトリストの創始者イジドール・イズーらを通して再導入されたトリスタン・ツァラのダダ的破壊力が強力に作用していただろう。(ツァラについては塚原史言葉のアバンギャルド』、イズーについては、同じ著者の『プレイバック・ダダ』を、ダダ的哄笑による爆破力についてはドミニク・ノゲーズ『レーニン・ダダ』を参照)。
 もう一つの処理法───それは南に進路を取ることであった。まず屍体を油紙で包み、マルセイユ辺りから出航する新大陸行きの船の甲板に乗せる。地中海を西へ、ジブラルタル海峡を通り西アフリカ沖を南下、カリブの島々を伝って赤道圏へと向かう。この海域特有の嵐と熱風に晒されて、傷んだ屍は確実に腐乱していくだろう。その耐え難いまでの腐臭。だがシュルレアリストたちの地下世界にあっては、「腐った屍体」こそ至高の強度を帯びた聖なる隠喩そのものだった筈である。シュルレアリスムとは、言わば腐った羊皮紙の断片に辛うじて書き遺された地下の文学史だったのである。地中海、マグレブ海域から、アフリカ西岸、カリブ海、そしてラテン・アメリカへと続く航路上には、腐肉の滴りが点々と残されていく。「第三世界」から現れたシュルレアリストたちとして。エジプトのジョルジュ・エナン、モロッコのロベール・ベナユーン、セネガルのレオポルド・サンゴール、マルティニークのエーメ・セゼール、キューバのウィフレード・ラム、メキシコのオクタビオ・パス、ペルーのセーサル・モロ、チリのマッタ……。とりわけフランス領マルティニーク島から現れた黒人詩人エーメ・セゼールがいた。


 聴いてみたまえ白人の世界を
 莫大な努力にすっかり疲れはて
 その手に負えぬ関節が厳しい星の下で軋んでいるのを
 青い鋼の硬直が神秘の肉を貫いているのを
 聴け、奴らの裏切りの勝利が敗北を告げるのを
 聴け、壮大なアリバイに奴らが惨めによろけるのを

───『帰国ノート』1939年より

 あたかも全ヨーロッパを代表するかのようにして、ジャン=ポール・サルトルがこれに応えるだろう。「セゼールにおいて、シュルレアリスムの偉大な伝統は完成され、決定的な意味を持ち、同時に破壊される。ヨーロッパの誌の運動であるシュルレアリスムが、1人の黒人によってヨーロッパ人から盗み取られ、ヨーロッパ人自身に向けられた」(『黒いオルフェ』より)───と。確かに、優雅な屍体と化した最後のヨーロッパ思想としてのシュルレアリスムに対する、植民地世界から現れたもう1つの処理法がここにあったと言えるだろう。
 この流れに平岡正明たちが介入する。
 まさに1969年、相倉や平岡に加えて、アルジェリア独立革命を扱ったジッロ・ポンテコルボ監督の『アルジェリアの闘い』を先鋭に論じた映画批評家松田政男、後にパレスチナ・アラブでの運動に投じた映像作家・足立正生、そしてシナリオ作家佐々木守ら、70年代に入って「批評戦線」と名づけられた思想=運動グループを形成してゆく一群の知識人たちを中心にして議論されていたのが、自分たちの眼前に現れたセクシャリティの映像やジャズの噴出そして初歩的な左翼暴力を彼方で戦われていた「第三世界」の武装した革命運動へと繋いでゆく「ミッシング・リンク」(失われた輪)の問題であった(この時代のラディカリズムの一端が、全世界的に映画や音楽を媒介にして出現したことに注目しよう)。最も非政治的な位置にいたと思われる相倉久人は、その隠された「環」についてこう語っている。「ジャズを強度な意識の緊張をもってする下意識のホットなオートマティズム(自己噴出)と規定することによって、シュールレアリスムを後にジャズにとって代わられる思想の出現を予感したものであったという風に位置づけ、フランツ・ファノンの暴力論を媒介に、ジャズと暴力を通底する……」(1969年1月20日付『日本読書新聞』紙上での発言より)。
 60年代の資本主義諸国に現れたラディカルなアートと植民地の革命運動とを地下で繋ぐ第三世界シュルレアリスム。こうして遂にフランツ・ファノンが登場する。事実若きファノンは、同じマルティニーク島出身のエーメ・セゼールによって刻み込まれた詩的ビートに深くインスパイアされたいただろう。その痕跡は引用といった明示的な影響関係を超えて、何よりもファノン自身の叙事詩的、黙示録的文体の肉質そのものに深く刻印されていたと言える。その意味で、セゼールやファノン本人に「黒いシュルレアリスト」という自己認識はおそらくなかったとはいえ、ブルトン───ファノンという不可視の連続線もしくは断裂線は確実に存在したのである。そして1940年代から60年代にかけてのフランス文化圏で、セゼールからファノンへと向かう黒い思想革命の抽出過程と、アンリ・ルフェーブルからギー・ドゥボールへと向かう日常生活批判からシチュアシオニストへの思想展開は全く同時代の出来事だったのである。初期シチュアシオニスト文書に度々その署名が現れる2人のアルジェリア生まれのアラブ人メンバー、ムハンマド・ダフとアブドゥル・ハティブが59年、60年と相次いで脱退したあと、時あたかもフランス本国での武装闘争を開始していたFLN(アルジェリア民族解放戦線)に身を投じたのかどうか全く詳らかにしないが、構造主義と並ぶ「最後のヨーロッパ思想」としてのシュルレアリスムへの2つの方向からの批判と超出の試みが、ほとんど交差するようにして遂行されていった同時並行現象だったことは間違いないだろう。この2つのラインの交点に「68年5月」が爆発したと言っていい。にもかかわらず、当時私たちはこのことを全く知ることができなかったのである。むしろ5月革命はシュルレアリストたちの主張の実現であるかのように理解された(この点で津村喬のルフェーブル導入だけが際立っていただろう)。これは、この国におけるフランス思想研究者たちの思想の質の問題であると共に、日仏帝国主義による植民地政策のあり方とその戦後処理の方向性の違いに起因する。政治的軍事的に植民地を維持したフランスと、それらを放棄したアメリカの後方で経済収奪に専念した日本として。植民地学の派生物は人類学だけではなかったのである。ヨーロッパ総てのアバンギャルド・アートは近代初期における「未開」の衝撃と共に生じたと言える。シュルレアリスムのヨーロッパ性に対する批判は、日本においては全く不十分であった。

 4、黒い実現・白い破壊?
 実にこうした思考空間の微妙なズレの中から、平岡正明の「フランツ・ファノンのビーバップ革命理解」が著される(初出1975年、決定稿は『歌の情勢はすばらしい』1978年に収録)。これこそまさに、平岡ジャズ思想の最高峰にしてかつ最後の達成だったと言うことができるだろう。以降彼によって書かれることになる饒舌な音楽論の総ては、基本的にここで描かれた認識の構図に沿って語られることになる。そしてこの達成においてこそ、平岡正明の極めて独異な音楽思想の帰趨を制することになるその可能性と不可能性の中枢部が露呈されようとしていたのである。
 平岡正明は言う。長いが、若い読者のために引用しておこう。

 「(『地に呪われたる者』第4章「民族文化について」に付された<民族文化と解放闘争との相互基盤>の中で)ファノンはこういっている。───バップ革命は黒人革命に先行した、と。バップは革命である、と。(中略)仏領マルチニック島に生まれ、アルジェリアに赴任し、祖国フランスを脱走してアルジェリア革命に投じたこの黒人革命家が、バップ革命を、第三世界革命に先行する黒人の世界観の一大変化の証拠としてみていたということだ。バップ革命は“かならずしも全面的に植民地の現実に関わるものではないゆえに”、先進国アメリカ内部の黒人における世界観の大変化であるがゆえに、かえって重要だ、と認知していたことだ。この発想はマルクス主義に特徴的なものである。すなわち、今日イギリスで起こっていることが、明日ドイツで起こり、明後日世界中で起こるがゆえに、イギリスで『資本論』を描いたマルクスの発想を継承し、かつ植民地解放闘争の現状においてバップを見つめたファノンの発想が、植民地インドではなく大英博物館で資本主義の分析を行ったマルクスを超越していると言おう。……アフリカ人の実存とアメリカ黒人の実存とに架橋する努力を、ビーバップ革命の中に、1つのモデルとして見出したという点でファノンは驚異的である。……第2に、明日得会をゆるがす植民地革命の予感を昨日のバップ革命に見るファノンは、バップ革命を、ニューヨーク52番街の出来事に限定せず、合衆国南部の敗北の一つの結果としてみていることだ。すなわち、ブルース地帯の、近代奴隷制生産社会の敗北の1つの結果として。このことによって、ファノンは、バップ革命を音楽上の孤立した現象とみなさず、合衆国黒人の歴史全体の上に据えなおしているのである。……そして第3に、ファノンは、5杯のウィスキーにイカれた老いたるニグロの繰り言を擁護するのは50年後の白人たちかも知れぬという態度を、それから15年後の、日本におけるブルース・ブームの顔面に叩きつけていることにわれわれはドキッとしていいはずだ。かれは、一言に要約して、ブルースの擁護者は白人になるだろう、という痛烈な逆説を提示した。……ファノンは、植民地世界の、古い、伝統的な芸術様式が、植民地人民の覚醒によって変化しはじめたとき、いちばん早くそれに気づき非難の声をあげるのは帝国主義本国の専門家、民俗学者であるとも述べている。(中略)しかし、ファノンは言う。黒人が、世界と、世界における自分の意味(あるいは位置)をみつけた時から、彼のトランペットはよく透り、その声が澄んでくる、と。じつにそのことがバップ革命の本質である。」

 これは、フランツ・ファノン自身が身をもって体現していった植民地知識人の転回をめぐる屈曲した弁証法を、現実の黒人音楽と黒人運動の進行の中にダイナミックに掴み切った見事な把握というべきだろう。ここでバップ革命及びチャーリー・パーカーとは、平岡によってファノンの思想とその行動そのものに重ね合わされている。ファノン───パーカーというラインは、ファノンのテクスト自体の分析を通してダイレクトに連結されたと言える。当時広汎に読まれた『地に呪われたる者』だが、そこに補足されたこの小さな付章を、このような形でクローズ・アップさせた者は他には決して現れなかったのである。おそらくインターナショナルなレベルでもそう言えたと思う。確かに、独立したアルジェリアは国境を超えたアフリカ革命へとは向かわず、ソ連への依存の後再びヨーロッパ資本主義の従属下に置かれ、その社会革命は遂に失敗に帰しただろう。そこからイスラム復興運動(それを原理主義と呼ぶべきではない)も台頭した。しかし、その現在の「出口なし」の状況は、同じ支持基盤から現れた筈のライ・ミュージックを無惨にもムスリムの戦闘分子が自らの手で扼殺しつつあることに表されているとi言える。ヨーロッパのネオ・ファシストさながらに。スーパースター・シェブ・ハレドは不断の脅迫にさらされ、第2の人気歌手だったシェブ・ハスニの暗殺の後、ライ・ミュージシャンたちのほとんどはフランスへ脱出したと言われる。おそらく巨視的には、イスラムそのものの徹底した自己改革が要求されるであろう。ライの敵は、欧米のオリエンタリストたちや音楽産業だけではなかったのである(アルジェリア独立革命の全体像については、アリステア・ホーンの労作『サハラの砂、オーレスの石』を参照されたい)。
 一方でしかし、サーブリーンたちがいたと言える。次のように敢えて意味を移動させてパラフレーズしておこう。『明日世界を揺るがす移民革命の予感を今日のアラビック・ブルースに見る我々は、サーブリーンを、東エルサレム・サラーフ・アッディーン街の出来事に限定せず、パレスチナの敗北の1つの結果として見るだろう。すなわち、アラブ世界の、周辺資本主義社会の敗北の1つの結果として。このことによって我々は、アラビック・ブルースを音楽上の孤立した現象とみなさず、中東アラブ人の歴史全体の上に据え直しているのである。そしてパレスチナ人が、ノマドと化した世界と、その世界における境界線上の可能性としての自分の位置と意味を見つけた時から、カーヌーンやウードはよく透り、カミリア・ジュブラーンの声も蒼く澄んでくる、と。そのことがアラビック・ブルースの本質である───」
 このような20年後の1990年代前半の文脈においても、ファノン───平岡的な音楽の弁証法はその重い規定力を失っていないと断言しておこう。ミシェル・クレイフィやサーブリーンを含む若きパレスチナ知識人たちの今や牽引車とも言うべき位置にあるエドワード・サイードが、先行者としての深い敬意を込めて度々ファノンの言葉を引くのは十分に理由のあることだったのである。パレスチナ───アラブ世界におけるムスリム政治勢力台頭のさらに向こう側に、ラテン・アメリカにおけるサパティスタやサンディニスタの戦いへの注視と同等の意義と熱量をもって、パレスチナ自律左派(と、とりあえず呼んでおく)への注目が喫緊とされる理由はここにある。
 しかし、と私たちは言おう。平岡正明自身が言うように問題はまさにここに生じる。
 平岡はファノンの論旨を敷衍しつつ次のように言うだろう。「ファノンは、一見哀れなニグロが発するしわがれたブルースを排し、よく透るバップのサウンドを肯定しているかのように見える。そしてこの見解は、一見、奴隷時代のいまわしい記憶のつきまとうブルースを嫌悪し、さらに、どうやら性的卑語に語源をもつらしいジャズという音楽形式を嫌悪して、あたしの演奏する曲はジャズではなく音楽といってほしい、と語る一群のガクタイ屋、たとえばチック・コリア、キース・ジャレット、アンソニー・ブラクストーン、新シカゴ派(シカゴ前衛派とも言う)などを承認するように見える。しかし、一見、だ。ファノンの言わなかったことを俺が言ってやろう。───白人化した黒人は白人よりもしまつに悪い」
 複数の層をもつファノンの思惟の豊かな可能性は、1975年の時点で果たしてこのような言葉を呼び寄せたといえるだろうか?
 やはり、そうではなかったと言うべきだろう。問題は次のように立てられるべきだったのである。私にとってここに掲げられているような幾人かの黒人ミュージシャンたちが辿っていった軌跡が問題なのは、彼らが余りにも西欧化された音楽観の下に演奏を行っていたからではなく、むしろ全く逆に、より仮借ない徹底した「西欧化」の不足、つまり、追い詰められたヨーロッパ音楽が立ち尽くしたその「畔」(デリダ)のギリギリの突端から音が発せられなかったからだ、と。70年代初頭のフリー・ジャズに訪れた危機の只中で、スピリチュアルで民族的な共同性をベースにした「ジャズ」からメタ民族的で普遍的な「ミュージック」へと向かったチック・コリアたちのようにではもちろんなく、さらにシカゴAACM(黒人ミュージシャンたちの自主組織)系の人たちのように統合された「ブラック・ミュージック」でもなく、この時まさにそうした諸音楽の尽きる所に、表象としての「黒人音楽」の破壊として実現される以外にない黒人音楽もしくは黒人非音楽こそがもとめられていたのではなかったか。いくつかの例を掲げよう。エリック・ドルフィーが死の直前に録音し、しかしその非ジャズ的な内容故に最期の日まで公表を禁じていた『アザー・アスペクツ』は、1960年代初頭の時点ですでにジャズの中枢が、シチュアシオニストたちが「解体」派と呼んで攻撃したシュトックハウゼンら現代音楽の尖端に直接触れていたことを証言している。あるいは60年代の最後の日々にアルバート・アイラーが遺した先駆的な黒人アヴァン・ポップとも言うべき作品群には、粉々に打ち砕かれた黒人音楽の諸要素の破片が瓦礫の山のように積み上げられていた。黒人たち自身が黒人音楽を信じることができなくなっていたのである。ゲットーのスピリチュアルな共同性は国家暴力と情報費本主義とコカインによって存分によう蚕食され、その黒い「下意識」は干上がろうとしていたと言える。「ブラック・イズ・ビューティフル」はスペクタクル化された多民族社会にとって格好のカラフルな記号となった。やがて、死の世界からの使者としてエイズ・ウィルスもまたゲットーの扉を叩くことだろう。こうした情動環境の変化の中から多くの試みが現れる。例えばオーネット・コールマンによるハーモロディックス的方法も、アーチー・シェップやビーバー・ハリスによる連結と横断への最後の努力も、そしてロスコー・ミッチェルやリーオ・スミスを始めとするポスト・ジャズ的な様々な試行も、さらにスティーヴ・コールマンたちのマルチ‐ベイス・ミュージックもまた、黒人社会の歴史的な変動との関連の中で今こそ再審に附されるべきであろう。しかし、この25年間でアメリカ黒人社会における「西欧化」「白人化」「資本主義化」は最悪の形で、しかも私たちの予想をはるかに超えて急激に進行したと言わなければならないだろう。そこではサン・ラーの秘教的ジャズでさえスペクタキュラーな景物となっていたのである。したがって私たちにとって「ファノンが語らなかったこと」とは、次のようなことだったと言うべきである。
 すなわち「中途半端に白人化した黒人と黄人は、白人よりも始末に悪い」と。加えて「中途半端に黒人化した白人と黄人は、白人よりもさらに始末に悪い」と。表象としての限界を超えて「白人化」の極限にまで突き進み、「白」と「黒」の分割を成立させている地平そのものを踏み破ってしまうこと。
 ここから、以下の2つのテーゼが1つのものとして一挙に実現されるべきだったと言える。
 もう1人のフランツ・ファノンは言うだろう。「白人は彼の白さの中に閉じ込められている。黒人は彼の黒さの中に。この二重のナルシズムから出てくる様々な傾向と、それが指し示している動機とを明らかにすべく努めよう」(『黒い皮膚・白い仮面』序論より)
 ギー・ドゥボールは言うだろう。『芸術は諸感覚に関する関係であることをやめて。(状況の構築という)より高次の感覚の直接的組織化となることができる。」(『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト第1号』所収「文化革命に関するテーゼ」
 これらのテーゼが交差する所に生まれるだろう達成の可能性は、反スペクタクル暴動としてのロス暴動の後で(本書第1巻解説の小倉論文を参照)、そして「商品の拒否」への欲望を人種の拒否」という下劣な欲動へとすり替えるヨーロッパのネオナチ台頭の後で、今なお、いや今こそますます巨大なものとして待たれている。プリンやラップやブラック・ロックの出現はその微かな予兆にすぎなかった。アメリカ大陸に黒いシチュアシオニストたちが現れてくるとしたら、その運動としての美的転覆力が問われるのはこれからなのである。その際彼らはかつてのファノンのように、しかしファノンとは異なってスペクタクル化された「暴力」の問題を避けて通れまい。

 5.裂けた、黒い声
 しかし、平岡正明もまた続けている。
 「艶歌、ジャズ、サンバ、フォルクローレのいずれにも共通することが混血音楽ということである。───これらの声は透き通っている。混血、売血、出血の方向でインターナショナルなものへ向き直しはじめており、「方法悪としての西欧近代」と対決することで、パワーアップされているのだ。――不可避の西欧近代的方法との対決、これが必要悪ということの内容である。───1度根こそぎにされた人々が民族文化を形成するにあたっては、西欧近代との対決は不可避であり、新たに運動的に形成されるそれらの文化の中軸は、多かれ少なかれ暴力的なものである。」
 意味のやや曖昧な「対決」という言葉の多用がこの時代を感じさせるが、確かに問題は「方法」にあったと言うことが出来る。「方法悪」とは、音が「音楽」として編成され聴取される際の、現在の段階では避けられない必要悪としての西欧的方法思考を指す。そして平岡正明にとっての方法こそ、最後のヨーロッパ思想としての「シュルレアリスム」だったのである。分水嶺はここにあった。
 平岡は明快に語る。「人類が人類全体として解放されるということはユートピアであり、プロレタリアートが自らを解放する闘いの中に、あるいはそれにひき続くその後に人類の解放がある。この理論によってマルクス主義プロレタリアート独裁を承認するのであり、これがマルクス主義の最もリアルで、最も頑強な党派性の根拠である。このテーゼは実践的な課題である。俺などにはほとんど生理的感覚にまでなっているこの理解はただちに、ジャズを飛びこしてミュージックと言いたがるジャズマンの上昇志向を、ジャズから飛び降りて逃げだすことだと直観させるのだ。それはジャズから空虚への逃亡だ。───いま透ることは明日白人音楽に叩頭することである。───しかし、ポインター・シスターズが現れた。」
 1975年の時点で、つまりAACMが結成十年を迎え、オリヴァー・レイクの『へヴィ・スピリッツ』が現われ、アーチー・シェップが『ア・シー・オブ・フェイシズ』を発表したこの時点で、あらゆる解体的でメタ・ジャズ的で状況的なアンダーグラウンド・ジャズではなく、30年代風コスチュームでゴスペル・ジャズを歌う見るからに「黒人的」なポインター・シスターズ。もちろん彼女たちはステキなグループだったが、この選択に平岡正明の「方法としてのシュルレアリスム」(フロイトマルクス主義と言ってもいい)が強力に作用していたことは間違いない。再び巌谷國士のコンパクトな評言を引こう。「すなわちヨーロッパ文化のうちなる<他所>の発見であろうとしたシュルレアリスムが、これら<他所>(いわゆる第三世界)においては、むしろ自己の発見を促す契機を提供したということでもあろう。」
 表象としての芸術の「破壊」ではなく、むしろその発見から「実現」へ。確かにシュルレアリストたちが「芸術の破棄」を提言したことは一度としてなかっただろう。ジョン・ケージではなくチャーリー・パーカーゴダールの黒画面ではなく『アントニオ・ダス・モルテス』。オリヴァー・レイクではなくポインター・シスターズ平岡正明をしてこの時点で「ジャズ」と「黒人性」と言う民族的表象にあくまでも固執させた理由が、こうした方法的自覚にあったことは確かである。だがバックもフリーもジャズの新たな実現である以前に、何よりもまずその徹底した破壊ではなかったか。じつはネグりチュード運動の創始者エーメ・セゼールもまた次のような予言的な詞華を残しているのである。

 黒とは黒くない黒のこと
 またの名によって黒い場所
 数々の烙印の場所
 記憶されたものとしての肉の火

――詩集『太陽、はねられた首』所収の「沈黙の十字軍」より

「方法」の転換が必要だったのである。シュルレアリスムこそまさに「方法悪」であった。
 「フロイト革命の意義は、円の中で話すことから楕円の中で考えることへの移行という観点から最もよく理解される」と、かつてジャック・ラカンは示唆していただろう。「下意識主義」とも言うべきシュルレアリスム的解釈とは異なるもう1人のフロイトがそこにいた。「黒い皮膚」「黒い下意識」という内円と、「白い皮膚」「白い意識」という外円とを分割しつつ構成される同心円状の理解から、複数の中心をもつ複数の”線が描く”分割できない領域の中をランダムに揺れ動く楕円状の理解へ。この「楕円の第三世界」の中からエドワード・サイードもホミ・バーバもガヤトリ・スピヴァックも現れる。二分法の暴力から横断する暴力へと向かうファノン以降の亡命知識人たちの思想動向がここに生まれてくる。これを手軽に「クレオール主義」と言ってはならない。
 一切の「分割」を横断する思考の力こそが求められていたと言えるだろう。白と黒、白人世界と黒人世界、意識と無意識、政治経済とリビドー経済、暴力のエコノミーと性的エコノミー、政治運動と芸術表現、美の実現とその破壊――。「政治経済とリビドー経済の分割と、しかる後の二重性の融和と結合というフロイトマルクス主義ではなく、ただ一つのリビドー経済しかないということ」と、70年代半ばにジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリは述べていたと思う(『政治と精神分析』より)。革命家トロツキーと芸術家ブルトンのメキシコにおける邂逅ではなく、唯一人のそして無数のファノン/ドゥボールが地中海と大西洋を暴力的に横断していくことの巨大な可能性。こうした未完の展望が今想起されることの背景には、植民地主義から新植民地主義へ、つまり政治軍事支配から経済支配へ、そしてさらに情報支配へという60年代から90年代に至る社会空間と表象空間の広大な変貌があったと言えよう。やはりパレスチナを例にとろう。60年代から70年代にかけて戦われたパレスチナ人たちの「第三世界」型のゲリラ戦争。これを根絶するために82年に遂行されたスペクタクル戦争としてのイスラエル軍レバノン侵攻。さらにこれに対抗して87年に始まった明らかにメディアを意識した反スペクタクル暴動としての占領地のインティファーダ。そして90年代の湾岸戦争こそ、インティファーダのメディア効果を消失させるためにオペレイトされた史上最初の電子スペクタクル戦争だったのである。私たちの方法思考と表象戦略が転換を遂げるのは当然だったと言える。現在の「惨憺たる和平」としての部分自治とは、先の3つの段階、つまり入植地の拡大や軍事支配と並行する、ヨルダンとパレスチナイスラエルを結ぶ広域経済の民族的階層化の進行、そして新たな電子ハイウェイ支配への模索とが混然とした未曾有の混乱の姿だったのである。このカオスから宗教原理主義や旧来の国民国家へ向かうのではないとしたら、何よりもまずそこには、21世紀へ向けた「新しい欲望」「新しい情報環境」の構築が求められていると言うべきなのである。ここにパレスチナ人たちの、とりわけエドワード・サイードやサーブリーンたちの苦闘がある。
 「無意識を生産すること。───無意識というのは創り出し、設置し、流動させるべき実体であり、戦いとらねばならない社会的政治的空間なのです」とジル・ドゥルーズは語っていた。異議はない。しかし今あらゆる領域で求められているのは、まず第一に新しい「破壊的要素」の出現である。例えば最新の研究成果に拠れば、1947年のブルトンによるセゼール「発見」以前に、そもそもシュルレアリスムではなくダダの起源にこそ「黒」の衝撃が埋め込まれていたという(塚原史『言葉のアバンギャルド』より)。1914年ごろまだブカレスト大学の学生だったトリスタン・ツァラことサミュエル・ローゼンストックは、ウィーンで出されているある人類学誌に掲載されたアフリカや南太平洋の住民たちによって歌われている精霊を呼びよせる歌の詩を熱心にノートし、その音の響きからあのダダ誌の爆発力を引き出していったとされる。ヨーロッパの断崖から遡行的で超歴史的な「下意識」への沈潜へ向かうのではなく、「黒」の一撃から西欧の詩的言語が保ってきた意味連関の爆破へ。シチュアシオニストたちの「拒否」の力は実はこの辺りに淵源している。こうしたもう1つの破壊の系譜学に向けて、複数のセゼール、複数のフランツ・ファノンとともに、複数のチャーリー・パーカーが呼び戻されるべきであろう。
 Jazz Pasemgersという黒人とプエルトリカンとユダヤ系の混成グループがニューヨークに現れている。もちろん「メッセンジャーズ」としてのジャズへの回帰でもなければ逃亡でもない。ジャズをパッサージュする者たち。ジャズを1つの街路として通り過ぎ、やり過ごし、うろつき回り、乗船し、航行し、そしてパスつまり拒絶する者たちとして。その音には確かに微妙な配分で、ジャズの実現としての破壊、破壊としての実現が聞き取れる。この引き裂かれた声の誘う不思議なファッシネーション。この配合に絶対的な賭けがある。
 1956年も終わりに近づいたある日、ブリダ=ジョアンヴィル精神病院医長フランツ・ファノンは1人のフランス人の友へ向けて手紙を書く。ちょうどドゥボールたちがシチュアシオニスト・インターナショナル結成へ向けた文書を用意していたその同じ日に。
 「ぼくは荒々しい声がほしい。美しい声はいらぬ、澄んだ声はいらぬ、声域の広い声もいらぬ。――ぼくは端から端まで裂けた声が欲しい」――。