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日 用 帳

20120208 冬休み関西遊覧日記その2/宝塚文藝図書館と宝塚ホテルと古川ロッパ

2011年12月29日午後。梅田から十三までの阪急電車の3つの路線が並走するひとときに興奮しすぎて疲れてしまい、淀川を渡って十三を過ぎるとウトウトしてしまうのが阪急電車のいつものパターンで、今回の宝塚線でも十三を過ぎるとぼんやり。途中、「あ、飛行機」という車内の少年の声が耳に入って、つられて空を見上げるも見逃してしまった。ああ、そうか、このあたりは伊丹空港の近くなのだなと漠然と思ったところで、電車は蛍池を出た。と、ここで、急に山なみが眼前に迫ってきた感じがして、おっと目が覚めた。



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阪神急行電鉄株式会社発行《御沿線案内》。戦前の沿線案内の表紙に描かれている宝塚大劇場のあった場所に向かって、梅田駅12時50分発の宝塚線の急行電車は終点の宝塚をめざす。



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上掲の沿線案内より、石橋・宝塚間を拡大。箕面線と宝塚線が分岐する石橋駅付近で、山が迫っているサマを実感したのだったけれども、戦前の沿線案内でもそれはヴィヴィッドに表現されている。宝塚大劇場といえば、武庫川沿いにそびえたっているというのが、かねてよりも第一印象だった。ああ、そうか、宝塚線は武庫川を一度も渡ることはなく、武庫川を迂回するようにして、梅田から武庫川沿いの宝塚の地へと到っているのだなということに気づく。と、ただそれだけのことが、土地不案内の者にとっては、なるほどなあと面白いのだった。



そうこうしているうちに、電車はあっという間に終点の宝塚駅に到着。わーいわーいと下車すると、ホームの駅名看板の「宝塚」の文字の下に「(宝塚大劇場前)」とある。言われなくてもわかっている。次の上演は元日が初日の花組公演、トルストイ原作『復活』……ということを、梅田駅、阪急電車の車内およびホームのあちこちにこれでもかと貼ってあるポスターが告知していた。よって、宝塚大劇場は現在、新年にそなえて休演中であるので、駅の周辺はいたって静か。駅の周囲には高層住宅が林立、典型的な郊外住宅地の様相を呈している。遊歩道をしばらく歩いてゆくと、正面右手に大劇場の建物が見える。旧大劇場は戸板康二の亡くなる前月の1992年12月の公演を最後に建て替えられたので、古い建物だったら感興たっぷりだったに違いないけれども、大劇場は新しい建物だし、宝塚ファミリーランドはすでになくなっているしで、宝塚観劇のない宝塚駅下車の第一印象は、これといった感興はわいてこないというのが正直なところであった。



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しばらく遊歩道を歩いていった先にあるこの土地にかつて宝塚ファミリーランドがあった。こんなところに遊園地があったなんて、なんだか夢のよう。南海難波駅前の大阪球場跡地、西宮北口の駅前の西宮球場跡地とともに、記憶にとどめておきたい夢の跡。阪神間在住の親戚に連れられて、東京郊外育ちのわたしも子供時分に一度だけ宝塚ファミリーランドに行ったことがある。小学1年生のときだったかな、夏休みの絵日記にキリンの絵を描いたことだけ覚えているけれども、そのほかはほとんど記憶に残っていない。ただ、宝塚の公演に行きたいと同行の母が言いだし、俄然その気になったら、その日は休演日で母と二人でたいへんがっかりしたことだけ鮮やかに覚えている。あのとき、宝塚を見ておきたかったと今でもたいへんがっかりである。それにしても、阪急電車の線路沿いに遊園地が広がる空間はいったいどんなだったのだろう。



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と、これといった感興は湧いてこないなか、適当に周囲を見回していたら、いかにも古びた蔦の絡まる近代建築が残っているを発見して、ワオ! と急に興奮。この近辺で唯一の古びた建物。現在は中華料理店となっている。ハテこの建物はなんだろうと思っていたら、その夜にお会いした神戸在住のご夫妻に「宝塚図書館」の建物だと教えられて、さらに興奮だった。劇場も音楽学校も遊園地も様変わりしてしまったなかで、図書館の建物が残っているというのはとても嬉しい。このお店で閑雅な昼食をとりつつ、建築見物をするという手もあったかも。



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《宝塚図書館》、『阪神急行電鉄二十五年史』(昭和7年10月)より。《主として文藝に関する書籍の蒐集に努め閲覧室の他に展覧会場、講演会場等を包含す。昭和七年一月一日開館》とある。昭和7年、阪急25周年という記念の年に開館した図書館の建物がいまも残っているということがかさねがさね嬉しい。しかも、よりによって残っているのが図書館の建物というのが嬉しい。



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《阪急創立廿五周年記念 宝塚婦人こども博覧会々場全景図》、『日本鉄道旅行歴史地図帳 10号 関西私鉄』(新潮社、2011年2月)に掲載。《昭和7年の宝塚。阪急線路の両側に大浴場、大劇場、動植物園が広がる夢の国だった。(池田文庫所蔵)》との解説が付されている。その「夢の国」には図書館もあった! 前掲の『阪神急行電鉄二十五年史』の刊行といい、阪急の創立25周年の昭和7年は素敵な印刷物が目白押し。



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『近代建築画譜』(昭和11年9月刊)に掲載の宝塚航空写真。白亜の大劇場の少し上に「宝塚図書館」の白い建物を見ることができる。『近代建築画譜』に、大劇場の《本建築は昭和10年1月旧建築の半焼したるを復興せるものにして、旧建築は設計施工共、竹中工務店の手に依り工費800,000円を以て大正11年10月工を起し同13年7月竣工す、スケールは現建物と同様なり、又附属せる新温泉場は鉄筋コンクリート造2階及び平屋建、延坪1,100坪にして、工費450,000円を以て旧建物と同時に竣工す。》との解説が付されている。阪急創立25年の昭和7年のあと、昭和10年1月、大劇場は火事で半焼していたのだった。



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上掲の戦前の阪急電車の沿線案内より、宝塚を拡大。宝塚大劇場の北側に「宝塚図書館」がしっかり描きこまれていた。図書館の東寄りには「宝塚植物園」。『阪神急行電鉄二十五年史』によると、東洋一の規模を誇っていたという。この阪急電車の沿線案内の裏面に記載の観光案内の筆頭はもちろん、「宝塚少女歌劇・宝塚新温泉」。

タカラヅカ

綺麗で無邪気で上品で家族打揃つて面白く遊べる日本一の娯楽の都。歌と踊りと音楽に演劇文化の薫りたかき風光明媚な歌劇の都。

健全な娯楽文化の粋を集めた大劇場、温泉、ルナパーク、動物園、植物園、文藝図書館、運動場、児童遊園と堂々数萬坪の輪奐を誇る明朗清新な四季清遊の都です。

午前中は動物園、植物園、ルナパーク、文藝図書館等に面白く時間を過し場内の和洋支那食堂にて御昼食後温泉にひたつて爽やかな気分になり、さて四千人大劇場にて歌劇見物、華やかな舞台の幕間には室内遊戯場、撞球場、ピンポン室、或ひは上品な喫茶室、武庫川沿いの納涼台等を御利用になり、歌劇終演は五時頃、暮れかゝる情緒豊かな湯の街を御散策といふ風に御遊びになれば誠に申し分ない一日の御慰安となります。或ひは場内にて御夕食後宝塚キネマ館に映画を御楽しみになるのも一興でございます。……

戦前の都市生活者の遊覧の祝祭感といったようなものを、沿線案内の簡略化された図版を見るだけでも鮮やかに体感できる気がする。





宝塚の地にたぶん唯一残っている1930年代の建物が、かつての宝塚図書館の建物であることをその日の夜に神戸在住のご夫妻から教えられ、とにかく興奮だった。古い宝塚大劇場の建物も遊園地もなくなってしまったなかで、昭和7年1月に開館した「宝塚文藝図書館」が残っているということは、しかもよりによって残っているのが、図書館の建物ということがかさねがさね嬉しかった。年が明けて、さらに感激だったのは、宝塚文藝図書館から「宝塚文藝図書館月報」なる素敵な小冊子が長らく発行されていたことを知ったこと!



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『宝塚文藝図書館月報』第2号(昭和11年8月10日発行)の扉を飾る図書館のスケッチを描いたのは小松榮。B5サイズの20ページほどの小冊子で、新着資料の紹介が主な内容だけれども、毎号掲載されるエッセイが実によい雰囲気で、香気たっぷり。丸善の『学鐙』とムードがどことなく似ている気がする。編集兼発行人は戸澤信義。その編集後記は、彼がホクホクとこの冊子の編集をしているサマが伺えてとっても微笑ましい。

元来雑誌の編集は好きな方である。趣味の為に雑誌を拵へ、いつか雑誌の為に趣味を忘れる程熱中した事もある。今度熱中すれば仕事を忘れるんぢゃないかと自らを危ぶんでおる。併しそれが為に月報が良くなり、従而図書館に良い結果を齎らすならそれ程結構な事はない。由来阪急と言ふ会社は何れの部課係でも日本一を目指して敢えて、自ら高しとすると共に他もそれと推す様にせよと云ふ……

と、彼は言う。創刊直後だからこんなにハリきっているというわけではなくて、月報は号を重ねるごとに充実しているのだった。以後、戸澤信義による図書館論的エッセイを柱に、演劇読み物や地誌エッセイが登場したりする。



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『宝塚文藝図書館月報』第24号(昭和13年6月10日発行)。この号には、戸澤信義による「東京図書館見学記」が掲載。早稲田大学坪内博士危険演劇博物館附属図書館、帝国図書館、帝国大学図書館、大橋図書館、東洋文庫をめぐる。戦前昭和東京の図書館に思いを馳せてたいへん興味深い。たとえば、《九段軍人会館と相対して厳然と聳えておる》大橋図書館の《四階には休憩室一寸した食堂と売店が設置されておる、多くの図書館にては此の種の設備は小暗い地下に中訳的に設けられているのに対して斯かる見晴らしの好い室を当てがつた経営者の理解ある態度は嬉しい、そこから屋上遊園に出られて、小石川後楽園の翠滴る森陰が打ちならぶ瓦の中に思ひも掛けず近々と眺められた。》という。編集兼発行人の戸澤信義による「図書館人」ならではの文章はほかにもたくさん登場しており、『宝塚文藝図書館月報』の文章を一冊にまとめたら絶好の図書館文献になるような気がする。



第2号(昭和11年8月10日発行)の巻頭に掲載の、堤誠二「宝塚文藝図書館」によると、宝塚文藝図書館は昭和7年1月1日に開館後、当初は温泉入場客にのみの開放していたのが、昭和11年5月20日に場外の一般来場者にも開放することとなった。そして、同年7月10日に『宝塚文藝図書館月報』が創刊した次第だったという。平日午前9時から午後6時まで開館、日曜祭日は午前8時半から午後6時まで開館。一般閲覧室と新聞閲覧室、雑誌閲覧室とに分けられ、入館者は無料で、新聞と雑誌は閲覧票を起票せずに自由に閲覧ができた。さらに、《歌劇記事、劇壇記事、劇評記事、東宝記事、映画記事、阪急記事、図書館記事、美術記事、文学記事等》は切り抜きを貼付したスクラップブックが用意されている。これらの記事は月報でリストが紹介されていて、今見ても、こんな記事があったのかと知ることができて結構重宝。戸板康二の各誌への寄稿もしっかりとスクラップされていて、戸板ファンも大いによろこんだ。



『宝塚文藝図書館月報』第12号(昭和12年6月10日発行)の巻頭言のタイトルは「一年の省る」。前年5月20日より誰でも自由に利用できるようになった宝塚文藝図書館は、

その発展過程が一私立会社の娯楽設備の中から起つたものである事とこの会社即ち阪神急行電鉄株式会社の年来の主張である利益三分主義、即ち公共事業なる当会社の利益は資本主である株主と従業員である社員と顧客である沿線居住者との間に均霑せねばならぬ、即ち三社の共存共栄の精神を以て経営せられておると云ふ事は最も特異な存在であると言わねばならぬ。

とあるように、小林一三の阪急王国の施設のひとつだった。昭和7年1月に開館し、昭和11年5月より一般開放した宝塚図書館。昭和13年6月10日発行の第24号の巻頭言では、「過日発行せられた図書館総覧」で宝塚文藝図書館が「一般図書館」に分類されていたことへの失望が率直に語られている。その名のとおり、「文藝図書館」の矜持と香気が毎月刊行されていた『宝塚文芸図書館月報』がみなぎっているのを見るにつけても、その失望にはとっても共感。『宝塚文芸図書館月報』は戦時下でも順調に刊行されていて、昭和18年10月10日発行の号には、図書館員の辰井隆による「京阪神急行沿線伝説集(京阪線の巻)」なる記事があって、その冒頭は《京阪阪急合併記念として、この小篇を錦の秋におくる》。時局もなんのその、なんだか呑気で微笑ましいのだった。


宝塚文藝図書館の後身はもちろん、現在の池田文庫(http://www.ikedabunko.or.jp/top.html)。前々から池田文庫の館報が好きでちょくちょく仕入れていたものだったけれど、池田文庫の館報は『宝塚文藝図書館月報』の後身ともいえるわけで、かねてより無意識のうちに「宝塚文藝図書館」にわたしもささやかながらも触れていたのだなあと思った。



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ごく初期の時期の『宝塚文藝図書館月報』の最後のページには、当月の宝塚大劇場、有楽座、東京宝塚大劇場の宣伝用のマッチラヴェルが貼付されている愉しいつくり。昭和12年9月の有楽座のロッパは「ガラマサどん」。向かいの東京宝塚劇場は月組公演「グランドレヴュウ アラビアの王子」、宝塚大劇場は星組公演「グラントレヴュウ 歌へモンパルナス」と「喜歌劇 将門の首」と「歌劇 桶の村」。



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こちらは昭和12年11月号の巻末。有楽座の古川ロッパ一座は「軍国喜劇 ロッパ若し戦はゞ」。東京宝塚劇場は「オペレッタレヴュウ 歌へモンパルナス」、宝塚大劇場は月組公演、「白井鉄造新帰朝第一回公演 グランドレヴュウ たからじぇんぬ」と合わせて、「軍国バレー 砲煙」と「舞踊 龍刀」。昭和12年7月7日の事変を機に、興行も軍国主義色を強めていった一方で、それまでフランスを手本にしていた宝塚少女歌劇がジャズの流行にのって、アメリカへ演出家と作曲家を派遣、レビュウの視察を終えて帰国した彼らは次々とスウィンギーな演目を上演、昭和12年から翌年にかけて宝塚少女歌劇はスウィング時代の最盛期を迎えていた……ということが、毛利眞人著『ニッポン・スウィングタイム』(講談社、2010年11月)の「第九話 乙女たちは非常時にスヰングする」に明晰かつワクワクするような筆致で論じられている。その例に挙がっているのが、翌昭和13年7月に宝塚大劇場で上演の「ビック・アップル」。これらのマッチラヴェルの同時期の宝塚はスウィング時代の全盛期!





旧宝塚図書館の建物と宝塚大劇場を背に、手塚治記念館の前を右折し、武庫川に架かる橋を渡ってゆく。阪急宝塚線を下車して、大劇場、遊園地跡の前を歩いていたときと打って変わって、武庫川の橋に立ったときの胸の高まりといったらなかった。宝塚駅を下車してから、まだ一度も武庫川を見ていなかった。初めて武庫川を見た瞬間の感激は自分でも予想外だった。武庫川沿いのこの感覚は戦前からずっと変わらないに違いない。この悠久の感覚というか、なんというか。スーっと気持ちが落ち着いてくるような川沿いの風と、橋からの大劇場の眺め、正面の山の連なりがすばらしい。ああ、本当になんてすばらしいのだろう!



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橋の上に立って、向こう側の阪急今津線の鉄橋を眺めていると、ほどなくして電車がやってきて、歓喜! 終点の宝塚駅に入る直前の電車がガタンゴトンと心なしかのんびりしている。



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あの鉄橋の下に行ってみたい! と武庫川の河原へと下りて、阪急電車の走るサマを高架の下から見上げる。高架線の独特の造形美がいつも大好き。



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武庫川を渡って、しばし河原を歩く。正面には山の連なり、右手には川のせせらぎ。なんて、いい気分だろうと、いつまでも上機嫌。川沿いから見た宝塚大劇場の眺めにすっかり気持ちが和む。



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武庫川沿いから見た宝塚大劇場、『近代建築画譜』(昭和11年9月刊)に掲載の写真。武庫川と宝塚大劇場は切っても切り離せない。宝塚音楽学校の校歌には「希望は清し 武庫の川 流れはつきじ 永遠に」という歌詞がある。





昭和13年5月5日、古川ロッパ一座は梅田駅前の北野劇場で初日をむかえた。その一週間後、ロッパは約1年ぶりに宝塚を訪れ、「川万」という旅館に投宿し、翌朝の5月13日の日記に、

久しぶりの川万、河を見ながら、のんびり――兵庫県宝塚と書いて、ノンビリケンユメノクニとルビをつけた。昨日から考へてゐることがあって、八の字をよせっ放しだが、此の空気が八の字をやはらかくする。

というふうに書いている(『古川ロッパ昭和日記 戦前篇』)。ロッパの気分が鮮やかに伝わってくるようだ。宝塚の武庫川の眺めは昔も今も人びとの心を和ませる。


ロッパにとって、宝塚はひときわ感慨深い土地だったはず。三十になろうとするロッパが初めて舞台人となったのは、昭和7年1月の宝塚中劇場だったのだから。菊池寛に「モダン曾我廼家をやれ、喜劇役者になれ」と励まされたロッパは小林一三を訪れ、さらなる激励を受け、昭和7年1月に初舞台を踏んだものの、この舞台は失敗に終わる。翌昭和8年4月、浅草常盤座で「笑の王国」が旗揚げされ、浅草の地で舞台人としてのロッパの活躍がはじまり、昭和10年7月、ふたたび小林一三のもとに入り、有楽町・丸の内を本拠とする東宝で最盛期を迎える。東宝入社後の昭和10年11月、宝塚中劇場で公演をしているものの、『古川ロッパ昭和日記 戦前篇』(晶文社刊)では昭和10年の日記は欠落しているので、読むことができないのがとっても残念。昭和7年1月の初舞台以来の宝塚中劇場、ロッパは感慨ひとしおだったに違いない。


『古川ロッパ昭和日記 戦前篇』に初めて宝塚の地名が登場するのは、昭和11年6月27日。宝塚の担当者から10月に宝塚でやってくれと依頼を受け、ロッパ座長は「松茸狩を条件に行かう」と応じる。そして、昭和11年10月31日、宝塚中劇場初日。11月2日には約束どおりに松茸狩に興じるロッパ。宝塚終点から行けるところまで自動車で行き、そのあとテクテク山登り。松茸の収穫はたっぷりで、かしわのすきやきを食べてロッパはご満悦である。公演前日の10月30日の日記に「昔懐かしき松楽館」に投宿したことが記録されているから、もしかしたら、昭和7年1月や昭和10年11月の公演の際に滞在した宿なのかも。その一週間後の11月7日、ロッパは麻雀に誘われて「川万」という宿を訪れる。そして、5日後の12日にの日記に「今日から川万へ移ったので橋を渡って帰る」とある。



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絵葉書《宝塚 川万楼客室より新温泉ヲ望ム》。ロッパ一座は続いて、昭和12年6月に宝塚中劇場で公演をしていて、その際には最初から「川万」に滞在しているから、ロッパはよほどこの宿が気に入ったのだろう。昭和12年6月5日の日記には「川万の川添の部屋の朝は悪くない」とご満悦である。この絵葉書の写真よろしく、武庫川と大劇場の眺めを楽しんでいたのは確実。



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絵葉書《宝塚 川万楼》その2。川沿いの川万、この絵葉書の向かって右の離れの二階がロッパの部屋だったようだ。昭和14年6月28日に宝塚を訪れたときは「なじみのハナレはふさがってゝ。その二階」に投宿している。



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絵葉書《宝塚 川万楼》その3。昭和11年11月以来、宝塚を訪れるたびにロッパが泊ったのは「川万」。昭和12年12月9日に北野劇場が開場し、昭和13年からロッパ一座の関西興行は北野劇場が本拠になった。北野劇場で初めて公演したのは昭和13年5月で、この公演の際に、宝塚に遊んだ際に川万に一泊している。その際の日記が、前述の《久しぶりの川万、河を見ながら、のんびり――兵庫県宝塚と書いて、ノンビリケンユメノクニとルビをつけた。》。昭和12年6月の公演以来の「川万」だったわけだが、町中の北野劇場で公演のまっ最中だったロッパにとって、宝塚ののんびりした空気がひときわ身にしみたのだと思う。



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絵葉書《宝塚 川万楼》その4、「客室の一部」と「応接室」。川万は川の眺めは絶景だったけれど、その分、夏は蚊に苦しめられた。昭和14年7月20日の滞在時は、《蚊がワンワンと出て、たまらず蚊帳の中で食事》という有り様だった。また、昭和12年6月の滞在時には《雨の宝塚川に合羽着て魚を釣る人の姿が見える。》と日記(6月7日)に書いていたロッパは、昭和14年7月21日の日記には《川万楼の暁、ドーンパチパチといふ音、兵隊さんが前の河原で演習しているのだ。これが六時頃――それから又寝た。》と書くこととなった。事変のあとさき。



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絵葉書《宝塚 川万楼》その5、「大宴会室」と「舞台」。昭和13年11月の北野劇場公演時、11月12日に「ロッパ・ガールズのすきやき会」が「川万の三階大広間」で開催! この絵葉書の大宴会室のことかな? しかし、この日のロッパの昼食は《あまり寒いからすき焼を食はうと、厚い外套を着て、守田へ行く。本みやけよりうまいといふが、土台関西のすきやきってもの、否定したい味である。》という次第だったから、「ロッパ・ガールズのすきやき会」では《昼間うっかりしてすきやき食ったのでもう食べる気なし。川万のもと泊った部屋で寝る。》という有り様だった。





モダン都市時代の古川ロッパの日記には本拠地の東京のそれとおなじように、関西の風物もたっぷり登場して、とりわけ宝塚中劇場、京都宝塚劇場、北野劇場公演時の日記では、モダン関西に思いを馳せる歓びも格別なものがある。関西のロッパ一座公演の折の日記のおなじみの人物、「ピス健」こと嘉納健治が初めて登場するのは、宝塚中劇場の千秋楽の昭和11年11月23日。「怖いようなありがたいような」と後に書くロッパと嘉納親分との交流もこのときにはじまる。こんなところもモダン関西のトピックとして大変興味深いのだった。



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《ダンスホール 宝塚会館》(設計:古塚建築事務所、施工:竹中工務店、竣工:昭和6年5月)、同じく『近代建築画譜』より。昭和11年11月と昭和12年6月の宝塚中劇場公演時に、ここ宝塚会館で「古川緑波一座交驩の夕」が開催されている。しかし《ダンスホールなるもの相変らず苦手で、たゞバーでのんでふらつく》とロッパは不興げ(昭和11年11月7日)。



昭和12年12月9日の北野劇場開業以降は、宝塚中劇場で公演することはなくなったけれども、関西滞在時のロッパはちょくちょく宝塚を訪れていた。その際の定宿は「川万」だった。が、蚊がワンワンと出たり、兵隊さんが河原で早朝演習をしたりしていた昭和14年7月以降は「川万」の文字を見なくなる。昭和15年10月の北野劇場公演時に宝塚を訪れた際には「昔なつかしき松楽館」に泊ったが、赤痢発生で大混乱、あわてて大阪の宿(竹川)に移ったあとで、《芸能生活に入って九年目、初めての大患》におそわれ、途中で公演を打ちきっている(翌年無事に復帰)。



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『東宝十年史』(株式会社東京宝塚劇場、昭和18年12月5日発行)より、昭和12年12月9日に開場した北野劇場(並びの梅田映画劇場は同年12月29日会場)、こけらおとしは宝塚少女歌劇。阪急25周年の年であった昭和7年の8月12日に株式会社東京宝塚劇場の創立総会が中央電気倶楽部で挙行、昭和18年12月20日に株式会社東京宝塚劇場と東宝映画株式会社の合併が正式に成立、東宝株式会社が発足した。この『東宝十年史』は昭和7年を起点にした東宝の社史であるけれども、東宝株式会社の発足直前の発行で、版元は株式会社東京宝塚劇場となっている。



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昭和13年3月、古川緑波一座初の北野劇場公演の写真、展示図録『古川ロッパとレヴュー時代―モダン都市の歌・ダンス・笑いー』(早稲田大学演劇博物館、2007年5月18日発行)より。昭和12年11月に有楽座で上演されたロッパの軍事劇の最初のヒット作、『ロッパ若し戦はゞ』が上演中。次第に戦時色が強くなっていくなか、ロッパ一座の北野劇場での公演も続いていたけれども、昭和19年2月25日、政府から「高級享楽停止に関する具体的要綱」、3月1日に「興行刷新実施要綱」が発表され、その結果、東宝株式会社は東京宝塚劇場、日劇、有楽座、帝劇、北野劇場、梅田映画劇場の閉鎖を命ぜられ、東京宝塚劇場と日劇が陸軍経理部に貸与され風船爆弾工場となり、帝劇は都防衛局の庁舎になった。昭和19年7月21日、「海軍会館」なるところでロッパは公演をしている。「海軍会館」と名を変えた北野劇場における最後の公演だった。



ロッパは滞在場所は和風旅館を好むものの、外食はほとんど西洋料理。《大阪では洋食を食ってゐては損。日本食がいゝ、つまり関西料理》と書いているロッパだけれど(『古川ロッパ昭和日記 戦前篇』所収「食べる人生(又ハ食欲自叙伝)」)、有楽町で公演中は帝国ホテルのグリルやマツダビルヂングのニューグランドに足を運ぶのとおなじような感じに、関西滞在中、ロッパはしょっちゅう宝塚ホテルのグリルへと足を運んでいる。宝塚会館の「古川緑波一座交驩の夕」の一週間後の11月15日には、ロッパは昼の部のあとに徳山蓀とグリルで食事、徳さんの恐妻家(愛妻家)トークに辟易したロッパは、夜の部の劇場に向かう途中、《夕やみ迫れる動物園を歩く、カンガルーに追はれて寝ぐらへ帰る有様が徳山だった》と一人思う。そこに《大阪の鸚鵡は「お早やうサン」と喋る。》と書き添えているのが、なんだか微笑ましい。昭和17年5月には愛息と宝塚動物園に遊ぶロッパだった。



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《東宝古川緑波一座 昭和十八年五月公演 脚本解説集》。昭和18年5月の北野劇場公演の上演プログラム。表紙に描かれている『ロッパの捕物帳』のほかに、夢声特別出演の『南方だより――徳川夢声の現地報告』と菊田一夫作の『父と大学生』。ロッパと夢声は5月13日、竹久千恵子とともに池田の小林一三邸を訪問している。



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上掲の北野劇場公演時に宝塚に出かけた際の写真が、展示図録『古川ロッパとレヴュー時代―モダン都市の歌・ダンス・笑いー』(早稲田大学演劇博物館、2007年5月18日発行)に掲載されている。昭和18年5月17日の宝塚のロッパ。この日の日記には、宝塚で女座員と「兵隊さんに送るブロマイド」を撮影したことが書かれている。この日もロッパは宝塚ホテルのグリルで食事をしている。この日が、『古川ロッパ昭和日記』の「戦前篇」と「戦中篇」における最後の宝塚行き。





武庫川の河原でしばしくつろいで、1930年代から40年代前半にかけての古川ロッパに思いを馳せて、ずいぶん寄り道をしてしまったけれども、そろそろ、本日の最大の目的地のひとつである宝塚ホテルに参りましょう! と武庫川沿いを背後に阪急南口駅へ向かって、テクテク。


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宝塚南口駅に迫るようにして建っている感すらただよう宝塚ホテルは、想像よりもずっと小ぢんまりしている。向かって右に旧館の建物が残り、左が新館。旧館の建物、特に三角屋根がとってもチャーミング!



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《宝塚ホテル》(設計:古塚建築事務所、施工:大林組、竣工:大正15年1月)、『近代建築画譜』より。昔の宝塚ホテルは現在の旧館だけだったから、周囲はもっと広々としている。



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新館の建物であるホテルの正面入口を入り、左折してほどなくすると旧館の建物となる。シャンデリアの下、赤絨毯の廊下を歩く。贅沢な空間だけど、全体の印象はとってもシックでつつましい。



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旧館の建物をあちらこちら歩いてゆくと、あるところではこんなかわいらしい照明が。



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中庭をのぞむ窓も実に素敵。



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そろそろ午後の喫茶の時間を過ごしたくなったところ、このアーチ型の廊下と照明の調和が素敵な空間の左側が喫茶のロビーとなっている。



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まさに夢心地で、ソファにこしかけて、休憩。コーヒーを飲んで、パイ生地の上に焼き林檎をスライスしたものが美しく飾られているお菓子を食べる。2年前の六甲山ホテルのアップルパイの午後を思い出して、さらによい気分になる。



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戦前に印行の宝塚ホテルの宣伝冊子。外国人向けの英語冊子。『近代建築画譜』に掲載の写真とおなじように、現在旧館として残る建物の正面がエントランスの庭園となっている。



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裏面には、ホテルへの交通案内が掲載。宝塚ホテル、大劇場、宝塚旧温泉から自動車で有馬温泉に向かい、六甲北口を通過して六甲山ホテルへ。阪神間の山間部に展開される観光名所。



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そして、中を開くと、武庫川沿いの大劇場と宝塚ホテルの鳥瞰写真。現在は宝塚南口駅のまん前に位置し、周囲は住宅地なので、だいぶ印象が異なるけれども、かつては六甲山ホテルとおなじように、ちょっとしたリゾートホテルだった。人びとはここに静養に訪れる。



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昭和12年4月24日の宝塚ホテルのメニュウは絵葉書が付されていて、《家族的で上品な宝塚ホテル》という惹句の横に、武庫川越しの宝塚ホテルの眺めを楽しみながら、カクテルを飲むモダンガール。ちなみに、この日のメニュウは、じゃがいものスープ、鱒のバタ焼、牛肉の煮物、季節のサラダ、ヴァニラのアイスクリーム、果物、、コーヒー。食事をたのしむロッパの姿が彷彿としてくるようだ。



宝塚ホテルの喫茶のひとときは、気持ちだけ、この絵の女性の気分そのまんまで、昔の宝塚ホテルの姿を眺めながら、くつろぐひととき。それにしても、なんて素晴らしいのだろう。と、心ゆくまで満喫したひととき。宝塚ホテルは、わたしのような観光客が殺到ということはまったくなく適度に人びとが憩っていて、とてもいい感じ。梅田駅周辺の喧騒とはまったくの別世界で、その上品な空間に埋没して、この一年のいろいろなことがスーッと浄化していくかのような時間だった。この一年、いろいろなことがあった。と、一年の終りの休日に、わたしもちょっとしたリゾート気分で、宝塚ホテルのクラシカルな空間で思う存分くつろいで、しみじみ至福だった。




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『近代建築画譜』(昭和11年9月刊)に掲載の、宝塚ホテルの内部の写真。



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喫茶コーナーがあまりに居心地がよくて、ずいぶん長居をしてしまった。まだまだ名残惜しいので、旧館をあともう一周めぐることにする。近代建築の内部は、いつも柱と階段の観察がとてもたのしくて、いつも「おっ」と立ちどまっている。



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そして、思いがけず嬉しかったのが、かつて宝塚大劇場の使われていた緞帳が壁の一部として使用されている一角があったこと。さらに、緞帳の原画は小磯良平というので、歓びはひとしおだった。画題は《騎士の門出》。鐘紡株式会社の寄贈。



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昭和51年1月から昭和56年5月まで、宝塚大劇場でこの緞帳が使われていた。



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『近代建築画譜』(昭和11年9月刊)に掲載の、宝塚大劇場の舞台の写真。当時は「クラブ白粉」提供の緞帳が使われていた。昭和50年代の数年間、この舞台に小磯良平の緞帳が使われていたさまを想像して、うっとりしてしまう。



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おなじく『近代建築画譜』に掲載の、宝塚大劇場の廊下の写真。この廊下の形状や照明の感じが、宝塚ホテルの旧館の様子によく似ている。宝塚ホテルは宝塚大劇場のかつての雰囲気を体感する空間でもあるのかも。



旧館には宝塚歌劇のトップスターのパネルを飾った一角があり、その正面の宴会室はディナーショーの会場にもなっているようだった。宝塚観劇のたのしみのある人生はなんという愉悦であることかと、心の底から羨ましくなってくる。そして、その宴会室の入口の近くには、「白雪」の酒樽が積み上げられていて、灘の酒蔵文化を思うと、いつも胸が熱くなる! 阪急と白雪の密接な関係は昔も今も変わらないようだ。





宝塚ホテルを心ゆくまで満喫して、気持ちが浄化したかのよう。いい気分で、宝塚南口駅から阪急今津線に乗り込む、その前に、ホテルの建物を外側から見物。



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旧館の裏手にまわってみると、いかにも古びた文様が残っていて、嬉しい。窓の形状ににっこり。



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『近代建築画譜』に掲載の写真で、裏手の装飾が古くからあったものと知る。



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宝塚南口駅の改札に入り、これから阪急今津線で阪神国道方面へと向かうのだけれど、ぜひとも阪急電車で武庫川の鉄橋を渡りたいという誘惑に勝てず、宝塚駅行きのホームで電車を待っている間に高架のホームから、宝塚ホテルを見納める。いつかまた別の機会で訪れる日が来ることを、心より願う。



宝塚南口から宝塚行きの今津線に乗って、武庫川の風景を満喫し、その電車が折り返して、西宮北口行きとなり、阪急電車はふたたび武庫川を渡って、ふたたび武庫川の風景を満喫。すばらしき武庫川! と余韻にひたりながら、電車は西宮へと向かう。



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絵葉書《阪神地方水害(上)西宮東口附近線路上に氾濫する濁水、(下)宝塚迎賓橋の流失》、宝塚から西宮に向かう阪急電車に乗ったとき、思い出した絵葉書。昭和13年7月3日から5日にかけての「阪神大水害」の、宝塚と西宮の惨状を記録している。大劇場界隈と宝塚ホテルの場所をつなぐ武庫川に架かる「迎賓橋」もこんな惨状! ロッパは翌月の8月に北野劇場で公演をしている。8月8日、ピス健の嘉納親分の案内で住吉まで行ったあと、住吉から省線で座に戻った際のことを《窓から見る芦屋辺の泥害水害、見なくちゃ分からぬ》とロッパは日記に書いた。8月19日、座員と宝塚見学に出かけた際も、水害の影響で急行は運休したままだった。8月23日、省線で神戸にゆくロッパ夫妻、《道々の水害の跡を窓外に見ながら――全くひどい》。この絵葉書にある西宮は、西宮のどの線路なのかな。

20120201 冬休み関西遊覧日記その1/1930年代の阪急梅田駅。淀川の鉄橋

2011年12月29日。今年はなんやかやで、ここ数年来のおたのしみ、年に何度かの関西遊覧に行かれずじまいだった。という次第で、年末になってやっと、ちょうど1年ぶりとなる関西行きが実現して、こんなに嬉しいことはない。午前9時00分東京駅発の新幹線は、定刻どおり午前11時36分に新大阪に到着。



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新大阪でイソイソと在来線に乗り換えて、大阪駅へ向かう。小津安二郎の『彼岸花』のラストの鉄橋を胸に、先頭車両に乗り込むのがいつものお決まり。この淀川を渡る瞬間はいつだって「大阪に来たなア!」と全身で歓喜。大阪遊覧がいよいよ幕を開ける瞬間はいつだって全身で歓喜。




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小津安二郎『彼岸花』(昭和33年9月7日封切・松竹大船)の終盤のショットより。蒲郡の竹島の桟橋、京都祇園の旅館「佐々木」の裏口、広島に向かう車内で佐分利信が電報を依頼するボーイ・須賀不二男、ラストの淀川の鉄橋。蒲郡で中学のクラス会のあとに、「ついでに大阪まで来たもんだから」と京都祇園の浪花千栄子山本富士子親子を訪れた佐分利信が、結婚と同時に広島に越した娘の有馬稲子とその夫佐田啓二を訪ねるべく、急行「かもめ」に乗り、大阪に入る直前にボーイに打電を依頼する(広島14時18分着)。京都から大阪に入る直前の電車が淀川を渡ったところで、完。蓮實重彦厚田雄春『小津安二郎物語』(筑摩書房、1989年6月)所収「お召列車に敬礼」によると、電車のボーイ役は当初田浦正巳が予定されていたものの、チョイ役なので断られて、須賀不二男に話を持っていこうとしていたけれども遠慮していて、ほぼ厚田雄春が引き受けることに決まりかかったところで、一応須賀にきいてみたら、「ぜひ出させてください」と喜んで出演したという。この挿話が昔から大好き。



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大阪駅に到着直前。ちょうど1年ぶりとなる大阪駅。去年はあちらこちら普請中だった大阪駅は1年前とすっかり様変わりしていた。




■ 昭和9年の梅田駅に思いを馳せながら、阪急電車の改札口へ向かう。


正午前、大阪駅の外に出る。2年前の関西遊覧の折に初めて間近に立って、その直線美に見とれるばかりだった大阪中央郵便局のもう使われていない建物が健在で嬉しい。あらためてじっくり建物を眺めたあとで、堂島の定宿に荷物を預けて、身軽になってほっと一安心。ドージマ地下街(寺島珠雄!)でうどんを食べて腹ごしらえを済ませて、さらにほっとひと安心。さあ、これから宝塚へと出かけるといたしましょう! と大いにハリきって、阪急梅田駅へ向かって、人混みをぬってズンズンと歩いてゆく。



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《最新大大阪市外地図》(和楽路屋、昭和13年7月発行)より、大阪駅周辺を拡大。省電大阪駅前に沿った大通りに、阪神前・大阪駅前・阪急前というふうに、大阪を起点とする3つの路線の改札の最寄りとなる市電の停車場がある。ドージマ地下街から阪急前の停車場に向かって歩くときはいつも、阪急電車に乗って堂島の大阪毎日新聞に通勤していた北尾鐐之助のことを思い出す。その著書、『近代大阪』近畿景観第三編(創元社、昭和7年2月)での、梅田新道の太平ビル1階のブラジレイロでコーヒーを飲んでいる場面を思い浮かべてみると、さらにこの地図に感興がわいてくる。



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大阪市電気局発行の《電車 乗合自動車 案内》。大阪駅構内の「市内交通案内所」で配布されていた印刷物。


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その《大阪市電 市営自動車 路線図》の裏面は「阪急電車」の広告。《花よりも美しい新緑のみのお公園》と《日本の名所宝塚》、箕面の滝と武庫川沿いの屹立する宝塚大劇場の建物のイラスト。まさにこれから行く宝塚線沿線の風景が印刷されているのが嬉しい。


北尾鐐之助がちょくちょくコーヒーを喫していた、1階がブラジレイロの太平ビルがあった梅田新道の交差点の市電一駅に「阪急前」の停留所がある。阪急電車の広告として発行されていたと思しき、この大阪市電の路線図の裏面に「市電阪急前下車阪急電車ヲ利用シ得る名勝地左ニ」としてまっさきに挙げられているのは、もちろん「阪急百貨店」。《阪急前停留所下車スグ大阪駅にならんだ宏壮なビルデングで毎日午前九時より午後九時まで営業し、七、八階は食堂、神戸、宝塚、みのお行き、阪急電車は此処から出る》というふうに紹介されている。



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というふうに、2011年は一度も関西遊覧に出かけられなかった分、古書肆から戦前の印刷物をいろいろと仕入れて、悦に入っていた。紙上の関西遊覧。こちらは、「阪神急行電鉄株式会社直営阪急百貨店」の包装紙。威風堂々、阪急百貨店の建物が全面に描かれ、その下に沿線図が配置。いったい何が包まれていたのかな、足袋とか手袋とか半襟とかネクタイとか、そんなところかな。シールの痕が残っているのが嬉しい。



さて、いままで特に気をとめたことがなかったのだけれど、昭和42年に移設工事は始まるまで、阪急梅田駅の改札は国鉄の線路の南側に位置していたのだった。北尾鐐之助の『近代大阪』にまさるとも劣らぬほど関西遊覧のたびに重宝している、高山禮蔵『大阪・京都・神戸 私鉄駅物語 写真・資料でたどるターミナル駅の変遷』JTBキャンブックス(JTBフォトパプリッシング、2005年10月)の79ページに、明治43年の開業時から昭和42年に現在の地に移設されるまでが、「阪急梅田駅 駅ビルと構内配線 変遷」として図になっていて、これがたいへんありがたい。モダン関西トピックとして興味津々なのが、

  • 大正15年、大阪市内高架線化により梅田駅も高架化。梅田〜十三間複々線化 昭和4年に阪急ビルが竣工し四代目駅に
  • 昭和9年、国鉄大阪駅高架化による上下切替えで地上駅に戻り。阪急ビル順次増築

の2つの時期。昭和9年6月の省電の高架化および阪急の地上化先立つ、昭和7年2月に刊行された『近代大阪』のなかで、北尾鐐之助は《東海道線が、いよいよ高架になる。阪急電車が下に下りて、縦についていた跨線橋が今度は横につく。阪急百貨店のちょうど二階位の高さに、汽車が煙りを吐いて走る光景を想像することは愉快である。》と書いている(「高架線の中津」)。



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《阪急線が国鉄線を乗り越し高架の梅田駅に入っていた時代の航空写真。国鉄大阪駅付近では高架化の工事が進行中》、高山禮蔵『大阪・京都・神戸 私鉄駅物語』の77ページに掲載の写真(写真提供/阪急電鉄)。周囲に高層の建物が見当たらないなかを阪急百貨店の建物が威風堂々とそびえたっているさまが鮮やかに写し出されている。『日本鉄道旅行歴史地図帳 10号 関西私鉄』(新潮社、2011年2月)所収の原武史「阪急梅田クロス問題」では、

1934年までは高架駅で、宝塚線と神戸線の複々線線路が、梅田駅ターミナルを出るや東海道本線をオーバークロスしていた。梅田〜十三が複々線化されたのは1926年だが、東海道線線路の上を阪急の線路をまたぐという光景自体は、1910(明治43)年に阪急が前身の箕面有馬電気軌道が開業した当初からあった。創業者の小林一三は、この光景を「往来ふ汽車を下に見て 北野に渡る跨線橋」という歌詞に詠んでいる。

というふうに、この時期の梅田駅が語られている。『逸翁日記』等の小林一三文献を鋭意チェックしたくなってくる。



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国鉄線の高架の下を阪急の線路が梅田駅のターミナルへといたるところを写した素敵な写真、《L-220 阪神急行電鉄 神戸線 951+921 梅田駅 昭和10/1935-36頃》、『西尾克三郎 ライカ鉄道写真全集1』(プレス・アイゼンバーン、1992年6月)より。西尾氏は昭和9年6月の阪急梅田駅の地上化のときを、《省線の高架線を潜るかたちで完成した阪急電鉄梅田新ターミナルも神戸線と宝塚線の複々線にひっきりなしに出入りする電車たちが大いにライカの写欲をそそった。》というふうに回想している。新しい都市風景が誕生した瞬間。



原武史「阪急梅田クロス問題」によると、昭和9年6月に阪急梅田駅が地上駅となったのは、昭和6年6月に鉄道省大阪鉄道局が《国有鉄道の電化と高架化が決定したから、交差している阪急の高架線を、新たに敷設する東海道本線および城東線(現・大阪環状線)の高架線の下にし、地上線にせよという通達を、突然一方的に送りつけた》ことがきっかけだった。高山禮蔵『大阪・京都・神戸 私鉄駅物語』によると、昭和9年6月1日に一晩で省線と阪急の上下入れ替え工事がやり遂げられたというから、なんともドラマチック。大正15年に「大阪市内高架線化」により梅田駅も高架となったあとで、ふたたび地上駅に戻った昭和9年という年は、小林一三にとっては、東京宝塚劇場が開場した年であり、おのずと、1930年代東京の「丸の内・有楽町」へと思いが及ぶ。同時期の古川ロッパの活躍がありように胸躍らせているうちに、高架線の風景はモダン都市の都市風景のシンボルでもあるのだなあと、昭和10年に失踪した藤牧義夫がさかんに描いた高架線が心に浮かんだりもする。……というようなことにふらふらと思いを馳せつつ、今回の関西遊覧でも、有形無形のモダン都市風景めぐりをしたいのだった。




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《阪急ビルディング》、『近代建築画譜』(近代建築画譜刊行会、昭和11年9月15日)に掲載の写真、『復刻版 近代建築画譜〈近畿篇〉』(不二出版、2007年6月25日)より。建主:阪神急行電鉄株式会社、位置:大阪市北区角田町、設計・施工:竹中工務店、起工:第1期昭和2年12月・第2期同5年6月・第3期同6年12月・第4期同9年11月、竣工:第1期昭和4年3月・第2期同6年11月・第3期同7年12月・第4期同11年3月というふうに記載されている。長らく親しまれていた阪急百貨店の建物は昭和2年から10年間に渡って少しずつ増築がなされ、この『近代建築画譜』に掲載されている写真の姿となった。



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『近代建築画譜』の阪急百貨店の建物の隣りのページにに掲載されている《阪急ビル1階ホール》の写真。左に「改札口」の文字が見える。なんてモダーンなアーチ形の天井! と感嘆するしかない。この伊東忠太設計のコンコース跡は近年まで残っていたのだけれども、わたしは見たことがなく残念至極。高山禮蔵『大阪・京都・神戸 私鉄駅物語』によると、《コンコース北側のアーチ型開口部に改札口が並び左右に出札口が設けられ、乗降場へとむかう。乗車客と降車客で一日中混雑するが、小林一三はこういった人の流れがターミナル駅の賑わいを醸し出すのだと割り切っていた。》、《この時期の新京阪の天神橋、京阪の天満橋、阪和の天王寺が、乗車と降車のホームや通路を画然と分離していたのと対照的である》とのこと。モダン関西のそれぞれのターミナル駅考察の上でたいへん興味深い。



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そして、『近代建築画譜』のアーチ天井のコンコースと同じページに掲載の《乗降場》の写真。コンコースの左、すなわち北側にはこんなに素敵な改札口! これもまた、なんてモダーンな流線型の鉄筋! と感嘆するしかない。改札口から電車の先頭部分、線路の部分まで直線距離が結構あって広々としている。当時の車両は2両か3両編成だったから、ホームは短かったという。




そんな小林一三の時代から長らくこの地のシンボル的存在だった建物の取り壊され、阪急百貨店界隈はいまだ普請中。梅田駅のホームに向かう中、改装中のため天井のコンクリートが露わになっている箇所がある。古い建物の残骸なのかなと上を見上げて、ちょっと嬉しい。



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《梅田阪急前》、『西日本現代風景』(「大阪毎日新聞」昭和6年9月5日発行附録)より。《大阪の交通地獄は、年とともに益々烈しくなつて、平均一日二三十件の交通事故を惹き起してゐる、写真は阪急前の「ゴー・ストツプ」で名物の田中巡査が、けふも勇ましく街頭の勇士として列日に躍つてゐる》。右に阪急百貨店の建物の角が写っている。昔も今も、梅田阪急界隈はたくさんの人でひしめきあっている。



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大阪駅前に停車する市電の停車場に立つ徳山たまき【王+連】、『映画朝日』昭和15年1月1日発行(第17巻第1号)所載「三都の盛り場を行く三銃士」より。金語楼が京都を歩き、大辻司郎が神戸を廻るなか、大阪をめぐる徳山たまきは、《市電の車体、及び郊外電車は、東京には絶対にない位、豪華なものであることをほめてをく》と言っていて、微笑。その遺稿集『徳山たまき随筆集』(輝文館、昭和17年8月)でも、徳さんの鉄道好きがそこはかとなく推察できるのだった。



徳山たまきと小林千代子の歌う「大大阪地下鉄行進曲」を口ずさみながら地下鉄に乗りたくなってくるけれども、今日は阪急電車に乗らねばならぬ。徳山たまきの歩いていた頃の阪急電車の乗降場は省電の線路の南側に位置していたけれど、今は線路の向こう側なので、堂島から歩いてくると結構距離があるなあと、テクテクと人混みをぬって歩き続けて、ようやく改札口手前の階段の前にたどりついた。




■ 阪急電車にのって宝塚へ。モダン大阪の象徴としての淀川鉄橋と高架駅の中津。


昭和42年に国鉄の線路の北側への移設が開始され、昭和48年に現在の姿となった阪急梅田駅のあの素晴らしき広大なホームにはいつも大興奮、のみならず、阪急電車に乗りこんだ直後の神戸線・宝塚線・京都線の3本の電車が並行して淀川をわたって、十三で三つ又に分岐するという流れにしょうこりもなくいつも大興奮。あの一連の時間をひさしぶりに体験できると思うと、それだけで嬉しくてたまらない。改札口に到る階段の前に到着したん、さあ、あの上は阪急電車のホームだ! と思わず小走りに、というか全速力でズンズンと駆け上がる。



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宝塚線・神戸線・京都線がそれぞれ3本ずつ計9本の線路が、宮脇俊三の言葉だと「巨大な櫛」のように並ぶ。このなんという素晴らしく広大なこと! と、何度来てもそのたびにしょうこりもなく大興奮。阪急梅田駅の広大なターミナルの素晴らしさは十分承知しているのに、それなのに来るたびに、そのあまりの素晴らしさにびっくりしてしまう。マルーン色の車体はいつもピッカピカ、そして、いつだってピッカピカに磨かれて黒く輝いている床のなんと美しいことだろう。誇り高き関西私鉄の威容が今もここに見事に体現されている。



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『杵屋栄二写真集 汽車電車 1934/38』(プレス・アイゼンバーン、1977年10月10日発行)より、《阪急電車宝塚行普通と急行/梅田》と《宝塚線ホーム 新聞売場》の写真。

大工事だった省線の高架化と阪急の地上への切替え工事が終り、阪急の大ターミナルが完成して間もない頃、私鉄でこれだけのターミナルステーションは、類を見ない規模であった。ガラス張りのドームはヨーロッパのターミナルを思わせ、関東の鉄道ファン羨望の的であり、大阪のファンには御自慢の種となった。

という解説が写真の横に付されている。これらの写真をホクホクと撮影していたに違いない杵屋栄二。杵屋栄二が昭和9年6月1日の切替え工事のあとのモダーンな大ターミナルに魅了されてやまなかったのとまったくおんなじように、2011年12月のわたくしは、現在の梅田駅のホームに魅了されっぱなし! ずっとここに立っていても飽きなさそうな感じがする。



しかし、時間に追われる観光客であるので、名残惜しいけれども、そろそろ電車に乗らねばならぬと、ソワソワと宝塚線のホームに停車中の12時50分発の宝塚行きの急行電車(停車駅は豊中から終点宝塚駅の各駅)の先頭車両に乗りこむ。宝塚線に乗るのはずいぶんひさしぶり。宝塚線というとまっさきに思いだすのは、2005年7月に出かけた池田の逸翁美術館のこと。実にすばらしい空間だったなあと追憶にひたりつつ、小林一三は偉大なり、としみじみ思う。その後、池田文庫と逸翁美術館は合併し、池田文庫の土地に新しい逸翁美術館が誕生し、かつての逸翁美術館は小林一三記念館になってしまったのだけれど、いつかまた池田の地を訪れたいものである。



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阪神急行電鉄株式会社発行《御沿線案内》。裏面に押印の「五月廿日以降上筒井支線廃止」のスタンプから判断すると、昭和15年5月20日以前の印行。これから向かう宝塚大劇場の建物が表紙に描かれているこの沿線案内を参照しながら、本日の午後は、1930年代モダン都市探検、有形無形のモダン都市とその周辺めぐりをいたす所存。



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戦前の阪急電車の《御沿線案内》の梅田駅附近を拡大。沿線案内でも威風堂堂の阪急百貨店。その右に北野劇場と梅田映画劇場が描かれている。阪急直営の北野劇場は『古川ロッパ昭和日記』(晶文社刊)でおなじみ。昭和13年8月18日の日記では、

北野劇場の地理的条件の悪さが、段々分って来た。この一角を丸の内の興行界と思ったら大まちがひ、丸の内は銀座を抱えてゐるし、邦楽座、日劇の歴史も古い、漸くお盆の客がよべるやうになったところだ。北野はさうなる迄に何年かゝるか、又、さうならないかもしれない。

というふうにロッパは書いている。小林一三の阪急を軸に1930年代モダン都市の東西のありようを思ううえでたいへん興味深い。北野劇場で公演のたびに、いつもロッパは京阪神のあちらこちらへ出かけて、東京にいるときとおんなじように、外食、買い物、映画芝居見物をしていて、その文字を追っていると、東西のモダン都市が彷彿としてくる。たとえば、昭和15年3月のロッパ一座の公演時には(「ロッパと兵隊」等)、公演の合間に大阪と神戸でさかんに買い物や外食、3月15日には阪急百貨店で藤山一郎への結婚祝いにボストンバックを購入後、梅田映画劇場で夢声主演の千葉泰樹『彦六なぐらる』(南旺映画)を封切初日に見て、「中々いゝ、夢声の進境大いに認む」と日記に書き残している。



現在の京都線は戦前は阪急ではなく新京阪だったので、当時、十三まで並走する阪急電車は神戸線と宝塚線の二路線だった。この図の十三から淡路へつながる細い線が新京阪。阪急の経営下となったあと、昭和34年2月、戦前は新京阪だった京都線が梅田まで延びた。『日本鉄道旅行地図帳 関西2』によると《梅田〜十三間は宝塚線の複々線扱いで、京都本線の正式な起点は十三。》とのことで、なるほどと思う。梅田から北野まで伸びる線は、大正15年7月から運行されていた梅田・中津間の路面電車の北野線(昭和24年1月1日休止)、『日本鉄道旅行地図帳 関西2』によると《1959.2.18 に免許を宝塚線の複々線化(実態は京都線)の一部として利用。》とあって、再度なるほどと思う。現在の阪急京都線の背後には、しっかりと戦前の新京阪と北野線の痕跡が残っているともいえるわけで、京都線とともに戦前の阪急電鉄に思いを馳せてたのしい。



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絵葉書《梅田付近の高架線》、『鉄道ピクトリアル』1998年12月増刊号《特集 阪急電鉄》所収、「絵葉書に見る阪急電鉄の昔」(所蔵と解説:白土貞夫)より。《1926(大正15)年7月に完成した梅田―十三間の高架複々線区間の風景。3両編成は宝塚線梅田行きの51系+300系+51系。昭和10年代の撮影であろう。道路上にセンターポールの建つ道路はかつて本線であった北野線。》という、痒いところに手が届く懇切な解説が付されている。昭和15年以来休線していた北野線の用地が京都線が梅田に乗り入れる際に活用されたことは、同書所収の青木栄一「阪急電鉄の歩み〔戦後編〕」で語られている。



さて、阪急宝塚線の急行電車は12時50分、梅田駅を発車し、中津を通過して、いよいよ淀川を渡る。今回は運よく、京都線・神戸線ともに梅田駅を発車し、3本の電車が並んで淀川の鉄橋を渡るという絶景を味わうことができて、歓喜にむせぶ。感動のあまり、もうすっかり涙目だ。



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と言いつつ、観光客は写真撮影も忘れない。向かって右には京都線(神戸線・宝塚線の二路線より線路の位置がやや高い)、左が神戸線、その向こうに見えるアーチ型の鉄橋は十三大橋! と涙目になって、歓喜にむせぶ。淀川の鉄橋は、神戸線と宝塚線は三角の鉄鋼が幾何学的美しさを醸し出す「鉄鋼ワーレントラス構造」だけれど、京都線だけは戦後に架橋の一段高い線路となっている。阪急電車が淀川を渡っている時間は、そんな神戸線・宝塚線と京都線の違いをしみじみと味わう時間ともいえる。



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『阪神急行電鉄二十五年史』(昭和7年10月)より、《宝塚・神戸両線の分離運転/宝塚、神戸両線の新淀川新橋鉄橋 上は側面より、下は正面より見たるもの》。「関西最初の高架複々線市内乗入れの計画」がはじまったことで、神戸・宝塚線の分離運転がはじまり、かつて併用軌道だった神戸線と宝塚線は専用軌道となることで格段に輸送能力が向上してゆく。大正11年11月1日、新淀川鉄橋の架橋工事が着手され、同13年2月6日に完成後に直ちに旧鉄橋工事の工事が開始され、高架複々線の建設準備が着々と進められていった。その高架複々線の建設とともに開業したのが、梅田・十三間の中津駅。



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同じく『阪神急行電鉄二十五年史』より、《高架線、中津停車場の改札口》。中津駅は大正14年7月、まずは宝塚線の駅として開業した。同年11月に梅田駅の場所が移動したあとで、大正15年7月、それまで十三が発着駅だった神戸線が晴れて梅田駅に延びた。先ほど梅田駅の歴史に思いを馳せたときに垣間見た《大正15年、大阪市内高架線化により梅田駅も高架化。梅田〜十三間複々線化》がまさにこのとき。大阪の都市風景のうち、かねてより愛着たっぷりだった高架線の中津、北尾鐐之助の『近代大阪』でも大きく取り上げられている高架線の中津は、「梅田〜十三複々線化」の産物だったわけだ。



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『西尾克三郎 ライカ鉄道写真全集1』より、《L-222 阪神急行電鉄 宝塚線 328+331+320形 大阪梅田行急行電車 昭和10/1935-36頃》。



いつも大興奮していた阪急電車の淀川の鉄橋、神戸線と宝塚線のワーレントラスの橋は、「大大阪」成立の年である大正15年の7月に高架の梅田駅の完成、すなわち梅田・十三間の複々線化の象徴する存在である。昭和4年3月に竣工した阪急百貨店の建物は建て替えられてしまったけれども、淀川の鉄橋および高架線の中津駅の建物は今も健在。今は消えてしまったものと今も残るものの組み合わせとしてのモダン都市遊覧にもう夢中。なくなってしまった建築を惜しむのは当然にしても、いたずらに惜しむだけではつまらない。昔の写真や紙ものを参照しながらの、モダン都市の建築めぐりは無形有形ともに、とてもたのしい。