2010-02-05 アート/芸術を評価できる鑑識眼が必要かもしれない『iPad』

予想された通り、1月27日のアップルのiPad*1の発表以来、まさに百家争鳴状態で、各所から非常に多くの意見、感想、分析、憶測等々が飛び交っている。今回特に興味深いのは、事前の期待が非常に大きかった反動もあるためか、iPad に物足りなさ、失望等を感じた人が多いと見られることだ。例えば、こんな感じだ。
「マルチタスクができない」
「これでは画面の大きなiPod Touchにすぎない」
「画面が大きすぎて携帯できない」
「日本の出版社の交渉が難しそうで、日本の書籍が読めないから売れない」
「Flash未対応は論外だ」
FlashもUSBもないiPad――Apple製品じゃなかったら売れない (1/2) - ITmedia アンカーデスク
・・・・・
■いつの間にか売れてしまうアップル製品
一々もっともなご意見ではあるし、私も正直なところ、初めから爆発的に売れることはあまり考えにくい気がする。だが最近の日本市場でのアップル製品は、発売当初商品と市場の不整合があっても、ユーザーの認識の変化のための仕掛け、ユーザーの気づいていない商品価値のアピール、価格のコントロール、アプリやソフト追加による商品価値の変化(追加)等により時間の経過と共に様々に調整されていき、ふと気づくといつのまにか大きく普及が進んでいるというパターンが少なくない。同じような経過をiPodでもiPod Touchでも、iPhoneでも私達は繰り返し見せられて来た。その間、基本商品スペックはあまり大きく変えず、支出は最小限に留める。マーケターの小川浩氏によればこれもアップルの作戦の一つということになる。『段階的発展』と呼ぶ人もいる。私もiPadについても、何となくこのシナリオが一番ありそうという気がする。では、どうしてそう感じてしまうのだろうか。
■芸術家としてのスティーブ・ジョブズ氏
少なくとも私(および私と同様に感じている周辺の関係者)の鑑識眼は、スティーブ・ジョブズ氏の、特にアップル社への復帰以降の輝かしい成功の履歴が醸し出す、『オーラのようなもの』に多かれ少なかれ影響を受けているのだと思う。だが、実際には、スティーブ・ジョブズ氏は、その履歴を過去に遡れば、成功と失敗が相半ばする。毀誉褒貶とはこの人のためにある言葉と言っていいほどだ。だから、合理的に考えれば、ここ数年の彼の大成功は、次の成功を保証しない。そんなことはわかっている。だが、短期的なビジネスの浮沈を超えて、訴えてかけてくる何かを感じさせてくれる。それは、『ビジネスマン』『経営者』というよりは、『芸術家』として評価するのが妥当な『何か』なのかもしれない。
■スティーブ・ジョブズ氏と運慶
ブログ、『アンカテ』の最近のエントリー(2010年2月1日)を読むとessaさんが私とかなり近い見解の持ち主であることがわかる。
iPadとiPhoneのテイストの中にある絶対性 - アンカテ
essaさんはスティーブ・ジョブズ氏を鎌倉時代に活躍した仏師/彫刻家である運慶に喩えてみせる。
夏目漱石の夢十夜で、運慶が切り出していた仁王のようなものではないかと思う。
「よくああ無造作に鑿を使って、思うような眉や鼻ができるものだな」と自分はあんまり感心したから独言のように言った。するとさっきの若い男が、
「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋っているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ。まるで土の中から石を掘り出すようなものだからけっして間違うはずはない」と云った。
まさに言い得て妙とはこのことだ。私が漠然と感じていたことがずばり表現されている。
スティーブ・ジョブズ氏が運慶*2のような存在であるとすれば、iPadも、『東大寺金剛力士像』を評価するような軸が必要になる、ということだ。それはサイエンスとしてのマーケット分析がほとんど通用しない領域である。(サイエンスの塊とも言えるiPadにサイエンスが通用しないというのも、何とも皮肉な話ではある。)運慶は、平安時代の女性的/貴族的な定朝様(じょうちょうよう)が支配的だった時に、台頭する坂東武士の荒々しいまでに男性的な気質を存分に吸い込み、圧倒的な作品を世に次々に送り出した。まさに新しい世界の開拓者であった。作品のテーストは違うが、このアナロジーは実に面白い。では、iPad はどんな世界を切り開いてくれるのか。
■コンピューターの新しい未来
次の記事で展開されるビジョンはその有力な回答の一つに思える。
『iPad』はUIをどう変えるか:アラン・ケイが夢見たビジョン | WIRED VISION
タブレット機に否定的な人たちは、フォームファクター、人間工学、ユーザー・インターフェースなどを理由に、iPadは失敗すると予想している。しかし、もっと重大だった問題がいまは消えている。これまでは、あえてタブレット向けにコンテンツを開発する人がいなかったのだ(ウェブアプリ、ネイティブアプリを問わず)。
Steve Jobs氏が率いるApple社は、市場を生み出す会社だ。コンピューティングの世界を新しい方向へ強引に突き動かすタブレットがあるとすれば、それはiPadしかないだろう。
アップルは市場に適応するのではなく、市場を生み出す。世界を新しい方向に強引に突き動かす。(まさに運慶のように) では、それはより具体的にはどんな世界なのか。
コンピューティングというものを考えるとき、子供や高齢者のことは見落とされがちなのだが、iPadは、こうした「社会的格差」を解消する初めての製品になる可能性がある。『iPad』は、幼児がゲームで遊び、学習もできるコンピューターになるだろう。そして、おばあちゃんは電子メールを送り、ウェブを閲覧し、写真を編集するだろう。iPadは、現在市場にあるパソコンを駆逐するわけではないが、重要な新しいカテゴリーを生み出すマシンになると見られる。こういったマシンが社会に与える影響のことを考えると、「単なる大きな『iPod touch』にすぎない」と評されがちなiPadが持つ、より大きな意味が見えてくる。それは、「みんなのためのコンピューター」だ。米Apple社が長年取り組んできた理想でもある。
そして、それはまさにアラン・ケイ氏*3が夢想したアイデアでもあるのだという。
テクノロジーの歴史を知っている人にとって、子供が使いやすい超軽量コンピューターというアイディアは、先駆者Alan Kay氏が米Xerox社で40年ほど前に唱えた『Dynabook』のコンセプト(以下の画像はそのスケッチ)を思い起こさせるものだ。
時代を超えて、アップルによって理想のマシンがいよいよ実現して、コンピューターの新しい未来が開かれて行くのではないか、というわけだ。
■草の根の感想
次のブログ記事も、同様の感じ方をもっと率直に語っているように読めるのだが、どうだろうか。
fladdict » オトンと妹にiPadのプロモビデオを見せてみた
今日、オトンと妹にiPadのプロモビデオを見せて意見を聞いてみた。結果は超絶賛。即座に我が家にiPadが3台導入されることが決定した。オトンはまったくのPC音痴。妹はYoutubeとインターネットを嗜む程度。別にプログラムもしなけりゃ、フォトショップも使わない二人にとっては正に夢のようなマシンっぽい。「iPadが微妙」といっているクラスターは、おそらくPCで仕事をしていて、「iPadがラップトップの代替機になるかどうか?」という軸で評価をしている層だと思う。でもおそらくiPadはコンピューターのプロフェッショナルの為のデバイスではない。 PCというインターフェースの出来が悪すぎるせいで、今までインターネットを使うことができなかった層への入門機に近い位置づけではないか?
■サイエンス偏重からの脱却
経営学者のヘンリー・ミンツバーグ氏によれば、マネジメントの成功は、アートとクラフトとサイエンスがそろったときに生まれるという。(アートは構想力、クラフトは職人的スキル、サイエンスは分析力のシンボル)おそらく、これからの商品企画やマーケティングもそうだ。サイエンス偏重の従来の方式では、レベルの高い経験価値提供で勝負が決まる市場の声なき声を拾うことはできなくなってきている。この機会に、自分の価値尺度を棚卸ししてみてはどうか。
2010-01-24 twitter×AR(拡張現実)×GIS×ゲーム/iPhoneの楽しみな複合価値

■一番旬な話題『twitter』
しばらくブログを更新していなかった、アップルに非常に造詣の深い、ジャーナリストの林信行氏の今年初めてのエントリーが1月22日付けでアップされている。
nobilog2: 未来をデザインするアップル:次はメディア・ハブ?
第一声は当然、アップルの何か、と思いきや、それは『twitter』だ。
今日、私がおもしろいコンテンツ(雑誌やラジオ番組、テレビ番組やiPhoneアプリ)をどこで見つけているかというと、そのほとんどはTwitterになりつつあります。
Twitterで友人の「今、NHK総合でやっているドキュメンタリーがおもしろい」というツブヤキを見れば、テレビをつけて、選曲が何チャンネルになっているか、何が放映されているか確認もしないうちに、リモコンの「1」のボタン(東京でのNHK総合のチャンネル番号)を押しています。
Twitterで土曜日の夕方「今日のAVANTIのゲストは◯◯さん」と言って気になる人の名前が呟かれていたら、すぐにラジオを付けて東京FMを聞くでしょう。
「このニュースおもしろい」とリンクが書かれていれば、そのWebページを見るし、「本がおもしろい」と書かれていれば、その本を買う。
最近、新聞社のホームページのトップページも、好きなブログのトップページも、ほとんど見ず、おもしろい情報はTwitterで発見して、入り口をすっ飛ばして、直接、そのコンテンツの中身にダイレクトに飛んでいます。
これは昨年秋以降、modiphiの小川浩氏が講演などでも言っていたことだが、今ではTwitterから誘導される「人々のコンテンツ消費」力が、旧来のメディアにも広がりつつ、しかも、その数的なパワーも相当なものになってきたことは、Twitterを紹介した「週刊ダイヤモンド」新年号が大売れしていることによっても証明されているのかも知れない。
全く同感だ。自分でも、この1〜2ヶ月くらいの間に、twitterへの関わり方のレベルがすごく上がった気がする。
2010 年が始まって、IT系ジャーナリストや業界に詳しい人の話題は、何らかの形でtwitterに言及しているものが非常に多い。twitterについてどのような事を発見したのか、どのような関わり方をしているのか等、情報感度が高い人達は競ってtwitterについて語る。
■高感度集団
ただ、リサーチ会社のヤフーバリューインサイトが2010年1月12日に発表した調査結果によると、ツイッター(Twitter)などの「つぶやき系ミニブログ」の認知度は6割に達したものの、実際の利用経験は1割強にとどまるという。これは、実際に私のようにtwitterにとっぷりハマっている者にとっては、少々違和感がある。だが、冷静に見れば、確かにそんなものかもしれない。ただ、この1割強のメンバーの情報感度は相当に高く、 twitterが、というよりは、今twitterに集うこの高感度集団こそ、瞠目してみる必要がある。彼ら(彼女ら)が発信するつぶやきも、その影響力も時代を変える原動力になるのは間違いないからだ。ツイッターなど「つぶやき系ミニブログ」利用経験は1割 : J-CASTニュース
では、取り合えず、この集団の端くれに入っている(と自分では思っている)私は、どのようにtwitterに関わり、今後の展開をどのように見ているのか。
実を言えば、個人的にはtwitterの動向と同等、ないしそれ以上に、アップルのiPhoneアプリに大変興味を持って注目している。twitterもiPhoneアプリとの関係において注目していると言ってもいい。
アップルは、1月5日、iPhoneおよびiPod touch向けアプリのダウンロード回数が累計で30億を突破したと発表した。現在77カ国で利用でき、登録アプリは2009年11月時点で10万本もあるという。しかもそのペースは実感として日々上がっており、かなり注意して動向をウオッチしているつもりだが、非常に面白くて示唆的なアプリを見逃しては後で知ることがどんどん増えている。ゲームのプラットフォームとしても、任天堂DS等と同様、スタンダード入りしたと言っていいだろう。実用系アプリの充実度も半端ではない。これは素晴らしいというアプリがあっても、すぐにその欠点を補い、凌駕するアプリが現れる。実際、iPhoneを買って使い始めた頃と今とでは、ガジェットとしての意味が完全に変わってしまったと感じるほどだ。自分自身のライフスタイルも大いに影響を受けて変化したことを実感する。しかも、その速度と進化の幅は幾何級数的といっていい。日本では既存のケータイの人気は根強く、如何にアップルとはいえ、そのスマートフォンである iPhoneが簡単に既存のケータイのシェアを切り崩して行くことは難しいだろうという予測をかつてはしていたが、今では正直なところ、同じ土俵で評価することには興味を失ってしまった。
このiPhoneがtwitterと非常に相性がいい事は、識者が揃って指摘するところでもある。そもそもtwitterはtwitter.com のホーム画面だけ見ていても本当の面白さはわからない。特にフォロー人数が増えてくると様々な切り口で読み解く事でtwitterの魅力は格段に上がる。だから、専用クライアントソフト利用は必須だし、実際本当に沢山の種類の専用クライアントが出て来ている。例えば、私は、その中の一つとして、 HootSuite*1を頻繁に使っているが、これはiPhoneのネイティブ・アプリとしても出ているため、パソコン画面で見るのとほぼ同様にiPhone でもパソコンで設定した内容を確認したり、投稿することができる。しかも、iPhoneなら自分の居場所を把握できるGPS(Global Positioning System。ここでは広義にGISと言ったほうがいいかもしれない/Geographic Information System、地理情報システム)が搭載されているから、自分の周辺にいる人のつぶやきを簡単に確認できたり、写真をその場で撮影して投稿したりすることができる。そういう意味では、iPhoneのtwitterアプリはパソコンの専用クライアントソフト以上にtwitterとの相性が良いとも言える。そもそも、twitterの即時性は、肌身離さず携帯している iPhoneのようなガジェットでこそ活かされる。
■さらに高まる複合価値
だが、最近はこれに、セカイカメラのようなAR(Augmented Reality、仮想現実)等が比較的簡単に実装されるようになって、複合価値がさらに高まりつつある。
・写真/音声(動画): リアルの切取り、表現力向上/美意識の刺激、
エモーショナルな価値の提供
・AR(仮想現実): リアルとバーチャルの接合、創造力の喚起、
独自の世界観の提示
・モーションセンサー: リアルとバーチャルの接合、ゲーム性のアップ
・twitter: 情報の素早く広い受発信、コミュニティー化
・メール: 情報の素早い受発信
・ゲーム: コミュニティー化の促進、ストーリーの提供、
独自の世界観の提示、興味/楽しさの提供
・GIS(地理情報システム): 実世界との接合(情報の接合)、
人の移動や物理的活動促進
・カレンダー: 時間との接合、時間的世界観の拡張
これだけの要素が、リアルもバーチャルも含めて、iPhoneアプリとして創造できる価値の範囲を広げていることがわかる。「フリー」に振り回されてマネタイズに苦しむネット業界と、デフレの中コモディティ化(低価格化)に苦しむリアルビジネス業界の双方を補いあう新しいビジネスのヒントが凝集されている。混沌としてはいるが、これほど創造性とチャンスに溢れたフィールドが他にあるだろうか。だから、私はこの『複合価値の中でのtwitterのポテンシャル』にこそ興味がある。
最近、この意味で私の琴線に触れたアプリが一つある。『iButterfly』 *2 という『モバイル表現研究所』が発表したiPhoneアプリだ。セカイカメラと同様カメラ画面に、AR(拡張現実)で架空の様々な種類のチョウチョウが飛ぶ。(場所によって出現する種類が違うという。)これをiPhoneをタモに見立てて振ることで捕獲できる。このチョウチョは、おみくじになっていたり、一言情報が書いてあったり、中にはクーポンもあるという。(私まだクーポンのチョウチョウは捕獲していないが・・) 捕獲したチョウチョウはtwitterで自動的に情報発信したり、標本として並んだチョウチョウを交換することもできる。もちろん、捕獲のランキングも場所や日単位で出てくる。まさに、私が前述したような要素をかなり広く取り入れているアプリだ。しかも、今後の様々な発展の方向があり得る。
例えば、
・チョウチョウ以外の昆虫や動物が出てくることもあるかもしれない。
・ある場所にしかいないチョウチョウを設定して
ゲーム性を高めることもできそうだ。
・当然、クーポンはそのお店の近く(イベント会場でもいい)が
捕獲しやすいという設定も出来るだろう。
・ポケモンではないが、全種類そろえる収集マニアも
出てくるかもしれない。賞品を出してもいい。
・特別な『タモ』でなければ捕獲できない昆虫をつくって、
その『タモ』に課金することも可能だろう。
・チョウチョウ同士を交配すると新しい種類になるという工夫もできる。
・その年、一匹しかいないチョウチョウの捕獲ゲームに
参加してもらう有料サービスもできそうだ。
・企業名の入った美しいチョウチョウがあってもいい。
沢山集めるとその会社の景品がもらえるのはどうだろう。
このあたりにしておくが、いくらでもアイデアが湧いてくる。もちろん、このアプリだけでなく、同種のアイデアで別のアプリ、別のサービスもこれからいくらでも出て来そうだから、本当に楽しみだ。このフィールドは今年はもっと大きく花開くことが期待できる。停滞した世の中の雰囲気を払拭するような活性化を期待したものだ。
2010-01-19 日本という『巨大な不幸増幅装置』をどうすれば解体できるのか

■勝間和代 vs 香山リカ
昨年秋のAERAでの対談記事以来、テレビの特番、そして本としてまとめられることになり、大変話題になったのが、勝間和代氏と香山リカ氏の対談だ。私は、この対談本は読んでいないし、どのような帰結になったのか実は余り詳しくは知らない。ブログ記事等から間接的になんとなく経緯を知っているだけだ。ただ、リーマンショックから民主党への政権交代へ世が流れていく中で、この構図、すなわち、勝間和代氏に、『小泉竹中改革』『新自由主義』『悪徳ファンドマネジャー』等、今回の不況の原因となったと巷間言われる『行き過ぎた資本主義』の悪役イメージを被せ、それに対して物申すという構図は、読者や視聴者の強い関心を引きつけたことは想像に難くない。なにせ、この背後にあるのは戦後初の選挙による政権交代という劇的な結果を生んだ日本人の大きな不満のエネルギーだ。
しかも、この両者を並べることで喚起される問題は、広範囲かつ奥深い。様々な対立軸を(実際の二人の考えや思惑を超えて)深読みすることができる。
「リバタリアリズム vs リベラリズム(またはコミュニズム)」「自民党 vs 民主党」「新自由主義 vs 福祉国家」「コンクリート vs 人」「現代女性の生き方」等々・・ (あまり書き連ねると少々悪のりの感がないでもない。)
ただ、この対談の結果は、『物申すはずの香山リカ氏の追求が不徹底/迫力不足』『結論が出ない議論』等、消化不良とする人(感想)が多いようだ。そもそも両者は共存関係で、そこそこに議論が盛り上がることが一番良く、どちらかが決定的に傷つくようなことな結論に持って行くはずもないという大人の見解もある。
■消化不良感
この『消化不良感』は、今民主党に国民の多くが感じ始めた感情/感想、すなわち今日本全体を厚く覆いつつある感情と同種のものだろう。実際、この両者を通じて読者や視聴者が見てしまうであろう、対立軸や問題点のほとんどは、結局のところ何一つ解決されてはいない。どちらが『生きやすい』生き方なのか、という本来の争点に絞っても同じことだ。所詮は個人の選択の問題として、自分たち自身に投げ返されてしまっている。
以前、香山リカ氏の著書である、『しがみつかない生き方』*1を読んだ時にも(内容が面白くないわけではないのだが)やはり消化不良感が残ったことを思い出す。この本で展開される考え方は、精神分析医の知見を超えて、仏教や老荘思想にさえ淵源を持つ、かなり深遠で、かつ史上繰り返し多くの人が取り組んできた考え方ではある。医学者として蓄積的データから仮説として成り立つ範囲を超えた発言は控える(あくまで科学者としての一線を越えない)という抑止力が働くのかもしれないが、実はその先こそ聞きたいところなのだ。
■巨大な不幸増幅装置
その点、同じ精神科医の、加賀乙彦氏の『不幸な国の幸福論』*2のほうが、より読者を深い問題の核心へいざない、根本的な解決への糸口を提示しているように思う。医学者としての経験から体得した宗教的とも言える思想、あるいは自身がキリスト教徒であることを隠すそぶりもない。そういう潔さも好感が持てる。その加賀氏の現代日本の評価は、非常に手厳しい。かなり痛んできているとは言え、日本はGDPでは世界第二の経済大国であり、世界一の長寿国(女性。男性は4位)でもある。他国と比較しても街は清潔で、犯罪も少ない。それなのに、加賀氏は、今の日本を「巨大な不幸増幅装置」と呼ぶ。
■実質自殺世界一?の日本
日本に自殺者が多いことは、私も過去に取り上げたことがあるし、最近は不況もあってまた遡上に上がることが増えてきた。加賀氏が本書で取り上げているように、警察庁発表資料によれば、1999年から2008年までの自殺者は、357,854人に上る(年間3万人超)。しかも、自殺未遂者はその 10倍は存在すると推定されているという。さらには、年間3万人どころか、実際には10万人が自殺しているという説もあるそうだ。というのも、病院以外の場所で医師に看取られず不慮の死を迎えると、すべて変死扱いになるというが、日本では変死者数も90年代後半から急増していて、年間14〜15万人で推移しているからだ。WHOは、変死者のおよそ半数が自殺と述べており、日本以外の国では変死者の半数を自殺者統計に加えている組が多いという。仮にこの数字を日本が計上すれば、自殺率世界一のリトアニアを軽く抜き去ってしまう。
■出口がない?
ここでは詳しくは語らないが、各種の意識調査でも、若年層は日本で生きることの息苦しさ、展望のなさに日々苛まされ、中高齢層の不安感は年々強まり、高齢層の犯罪も増えている。日本の場合は、経済状況と自殺者に強い相関が見られるが、OECD加盟の他国には日本ほど強い相関は見られないという。 GDPでは世界最高水準にありながら、そのピークの時期にあっても満足感は薄く、経済が疲弊すると途端に自殺者が増える。確かに今の日本は巨大な不幸増幅装置というありがたくない命名を頂戴して当然という気がしてくる。こんな中で、勝間氏のように経済的な成功を目指しても、幸福や満足を得るのは難しそうだ。そもそも、経済的な成功/願望達成はますます難しくなる情勢にある。その気配を察してか、最近の若年男女は、強い上昇志向を持つタイプが激減していると言われている。それどころか、しがみつかない生き方ならぬ、目標を持つことをあきらめた人達が急増しているようだ。ところが、それで生きやすくなるわけではなく、たいていの若者は、同調圧力の極端に強い社会で、目立ったり、無視されたりすることのないよう、空気の支配に怯えながら暮らしている。香山氏の言うような生き方が出来ている人も数少ないようだ。いずれにしても、どこにも出口がないように見える。
■出口はある
加賀氏はこの袋小路から抜け出る手がかりとして、ナチスドイツの支配下で、ユダヤ人としてアウシュビッツ等の収容所に入れられ、その体験を綴った『夜と霧』*3等の著作で高名なヴィクトール・フランクル氏に言及している。フランクル氏によれば、我々は人生の意味を問題にするとき、自己の方から、自己を中心にして、『われわれは人生から何を期待できるか』という観点から問う。自己の利益、という視点から世界を見る見方である。しかし、これでは強制収容所におけるような絶望的な状況では耐えることはできない。そこではもはや何ものも世界から期待できない。そういう視点を捨てることが出来なかった人は実際に次々に倒れていったという。
だから、この人生観は『人生は何をわれわれから期待しているか』という観点に変更される必要がある、というのである。苦しみにも意味がある。この苦しみを通して人生は自分に何を期待しているのだろうと発想を転換することができれば、外的条件によって揺るがない支えを自己の内部に持つことができる。そして、極限状態でも自分ができること、例えば、どんなに小さなことでもよいから、人の役に立つことを見つけて実行する。苦しみに毅然として耐えてみせる。『今、ここ』でどうあることを、人生はわれわれに期待しているか。最後の息を引き取る瞬間まで失われることはない人生の意味。最後の瞬間まで自分にしかできない何か(それを人と比較することはまったく意味がない)が待っている可能性がある。
フランクル氏の著作『それでも人生にイエスと言う』*4にこの事例の一つが出ており、理解の助けになる。
以前、無期懲役の判決を受けたひとりの黒人が、囚人島に移送されました。その黒人が乗っていた船は「リヴァイアサン」といいましたが、その船が沖に出たとき、火事が発生しました。その非常時に、黒人は、手錠を解かれ、救助作業に加わりました。彼は、十人もの人の命を救いました。その働きに免じて、彼はのちに恩赦に浴することになったのです。(中略)もしだれかがまだ乗船前に、つまりマルセイユ港の埠頭で、この黒人に、お前がこれからも生きる意味がまだなにかあるのか、とたずねたらどうだったでしょうか。黒人は首を横に振らざるを得なかったでしょう。(中略)どのような重大な時間が、唯一の行動をするどのような一回きりの機会が、まだ自分を待ち受けているか、だれにもわからないのです。 同掲書P28〜29
■神話の解体から
日本は、加賀氏の指摘する通り、小子高齢化対策、教育、医療、堅固やセーフティネットづくりにかけるべきお金を削ってGDPアップに集中してきた。その結果、セーフティネットを失った社会は、他国であればさほどのことではない状況でさえ、日本人を自殺にまで追い込む。そういう不幸増幅装置はなんとしても解体する必要がある。だが、その装置を作ってしまったのは、生きる意味のすべてを『経済的な向上』という幻想にへばりつけ、その向上の可能性がなくなると人生の意味も失われる、というような単純かつ荒涼とした『神話』を社会全体で受け入れた自分たち自身であることをよく考えてみる必要があると思う。先んじて神話を解体しなければ、何も始まらない。今、『人生はそれをわれわれに期待している』のではないだろうか。
*1:
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*2:
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*3:
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*4:
- 作者: V.E.フランクル,山田邦男,松田美佳
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2010-01-12 龍馬と器量/再発見が望まれる日本の文化遺産

■『龍馬伝』を観て
NHKの大河ドラマ『龍馬伝』は昨日(1/10)第2回目が放映された。まだ始まったばかりだが(まだ期待の欲目はあるとは言え)評価は上々のようだ。(ソフトバンクの孫正義氏も、自身のtwitterで、4回も泣いてしまったとつぶやいている。)放映前から大変話題になった『福山龍馬』には、どうしても賛否両論あるようだが、今のところは好演と言っていいのではないか。実際に残っている坂本龍馬の写真を見ると、如何にも無骨な感じで、福山雅治のスマートなイメージとはずいぶん違う印象だが、案外龍馬の持つ並外れた柔軟さとシャッレっ気を上手く引出して見せてくれるかもしれない。鬱屈した時代に最も求められる明治維新の時代劇、そして、そこに登場する魅力的な人物達の中でもとりわけファンも多くアイドル的存在の龍馬だが、骨太な男子がすっかり影を潜めて『草食系男子』が蔓延る今の日本だから、『優男』、福山にこそ龍馬を演じさせてみたいと感じる人が多いのかもしれない。人物のイメージという意味では、福山が長身であるせいか、偉丈夫/豪傑のイメージの強い、姉の乙女さんが小柄に見えるのはご愛嬌か。
今、時代は急激な構造変革期を迎えており、しかも客観的に見て良くなる要素がほとんどないのに、悪くなる要素はいくらでも数え上げることができる。誰もが自分の将来のロールモデルを持つ事が非常に難しくなっている。そういう時には特に、同じく変革期に颯爽と生きた龍馬のような人物は確かに眩しい魅力に溢れて見える。
■危機感に乏しい?
もっとも、今の日本には、意外なほど社会に危機意識が感じられない。危機感はあるのかもしれないが、少なくとも、それに備えた行動が伴っているとはどうしても思えない。どうしてだろうか。おそらく、おおよそ、次のような理由からではないか。
・構造転換ではなく景気循環の底と考えている(そのうちよくなると甘く考えている。)
・親の世代の経済力にまだ頼ることができる(取り敢えず生活に困らない。)
・生活のコストが非常に下がった
・考える力と気力がなくなってしまっている
■『大きな物語』の再始動?
将来の見通しに絶対はなく、例えば、環境関連技術等によって、これから大成功する企業や個人が出現することも考えられないわけではない。だが、人口動態等の見通しのはっきりした予測から見えて来る近未来は、所得の上下二極化がさらに進むであろうこと、簡単に内需拡大は実現しそうもないこと、少子高齢化の影響は確実に現れて来るであろうこと等、少なくとも当面は非常に厳しい状況を想定しておく必要がありそうだ。そうなると、この2010年代には、今までぎりぎり痛みを感じないで済んでいた階層も、痛みが襲う可能性が非常に高い。大きな物語が終わって、それでも自分の周囲の小さな物語で小満足していた安穏な生活が立ち行かなくなるかもしれない。するとどういうことになるか。否が応でも『大きな物語』が再び始まらざるを得なくなるのではないか。表面的には危機感の余り見られない人達が、明治維新の時代劇を好み龍馬のような人物の出現を求めているとすると、『奇妙な平穏』の背後に痛みを伴う『大変革期』が迫っていることを、潜在的には感じている人が多いということではないだろうか。
■明治維新期と現代の違い
明治維新前後のことを調べていると、何時も不思議に思うのは、危機が迫ったあの時にどうしてあれだけ数多くの有能な人物が出現して活躍したのかということだ。戦国時代が終わって、江戸時代のような平和な時代が250年も続いたら、普通ならどんな軍隊でも弱体化してしまうだろうし危機に対応できるリーダーも枯渇してしまうのが普通だろう。現に、日本は戦後60年経っただけだが、もはやどんな危機が来てもあのころのような軍隊を編成することも優秀なリーダーが出現することも期待薄だ。そのために巨額の予算を割いて自衛隊や日米安保を維持して来たというのだろうか。幸い、本格的な軍事的危機が訪れる可能性はまだ低そうだが、大半の日本人は、本当の危機の時には命をかけて家族や仲間を守る、というような決意や心構えは持っていないと言わざるをえない。
■いなくなった『器量人』
福田和也氏が『人間の器量』*1という本で取り上げて論じているように、明治維新のころに数多く現れたタイプの人物が昨今すっかり枯渇してしまったことは皆認めるところだろう。明治期まで遡らずとも、昭和の半ばくらいまでは例を上げることができた、いわゆる『器量人』というのが、今や本当に少なくなってしまった。どこを探しても、龍馬に比することのできる人物を見つけるのは本当に難しいはずだ。
福田氏が一番の理由として上げているのが、そのような『器量』を大きくするための明確な意識を持って人を育ててこなかったことだ。
勉強のできる人、健康な人、平和を愛する人は育ててきたけれども、人格を陶冶するとか、心魂を鍛えるといった事をまったく埒の外に置いてきた。その、戦後教育の結果が、このざまです。政界、官界、財界、どこを見回しても人物というほどの代物はいないではないですか。言論界も同じようなものです。わが国から、人材というほどの存在が、きれいさっぱり払拭してしまったわけです。 同掲書 P34
■日本の文化遺産?
私達が子供のころは、まだ、『人格の陶冶』とか『心魂を鍛える』というようなことを大人たちが口にしていた。『訓練』は今でも通じる言葉だが、『陶冶』『心魂』となると、そのニュアンスを理解できる人は本当に少なくなったように思う。単に努力すればそれに等しい結果を得る、というようなデジタルな意味ではなく、どのような仕事や芸事でもある心構えを持って一心不乱に研鑽につとめていると、ある時点で突然新境地が開けたり、次元が変わるというような含蓄があり、機械とは違う人間の潜在能力の遠大な可能性に対する憧憬と確信が背後にあった。言葉はその観念を生んだ民族の思想の産物である。もしかすると、その『思想』こそが一度ならずも世界に奇跡を演じて見せてきた日本の貴重な文化遺産だったのかもしれない。今、残念なことに失われつつあるのだが。
いくら金があったって、人がいなければどうしようもないからです。バブル期以来、どれだけのお金を日本人が無駄に使ってきたか。みんな人を得なかったからではありませんか。人材は、何よりも大事なものです。お金がなくたって、国は、企業は立ちゆくけれど、人がいなければ、どうしようもありません。 同掲書 P34
多くの日本人が今だに龍馬に憧れるのであれば、日本人の潜在意識から、「器量」の重要性を知る心が完全に失われたわけではないと思いたい。不幸なことに、こういう日本的な人格形成のありかたは、戦後の教育の中では、組織に従順に仕えさせるために、自我を殺して滅私奉公に励む労働者を育成するというような矮小化をまぬがれなかった。だが、本来それは企業や組織を超越したものだ。個人が徹底して自分に向き合うことでしか達成できない境地である。誰もが企業組織に頼ることなく、個人として力をつけて生きて行く事を余儀なくされるこれからの時代こそ、再発見が望まれる概念だと信じる。
*1:
- 作者: 福田和也
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2009/11
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2010-01-08 権威と常識のバイアスから自由でないと生残れない

■イデオロギーは事実を覆い隠す
竹内薫氏の著書「99.9%は仮説」*1には、人々の『常識』という『思い込み』を覆す事例が沢山出て来て面白い。中でもガリレオ・ガリレイが24人の大学教授を集めて自作の望遠鏡を披露したときの話は私には特別興味深かった。その望遠鏡で地上を見た教授たちは、遠くの景色が大変近くに見えることに驚きガリレオを賞賛するが、同じ望遠鏡を天体に向けると、口々に「こんなのはでたらめだ!」とガリレオを非難したという。大学教授の中に、当代きっての天文学者ケプラーの弟子ホーキーもいて、「望遠鏡は下界においては見事にはたらくが天上にあっては我々をあざむく。」と語ったという。当時は、天上の世界は神が支配する完全な世界であるというのが常識であり、実際に自分の目で月のクレーターや太陽の黒点を見ても、そんな不完全なものの存在は信じる事ができなかったというわけだ。時代を支配するイデオロギーや思想は事実さえ覆い隠すという事例である。
■競争力を左右する要因
これは、科学より神学が支配していた迷妄の時代の産物だという声も聞こえて来そうだ。だが、本当にそうだろうか。現代の我々の周囲にも、少し注意深く見渡してみただけで、いくらでも同様の事例を見つけることができる。明白で客観的な事実を相手にするはずの科学でさえこうなのだから、事実認定自体に幾つかの選択肢がある社会科学の取り扱う分野など、先入観や思い込みから離れて冷静に事実だけを見極めることは本来非常に難しい。だが、学問の分野に限らず、ビジネスでも、特に現代のように旧来の常識が次々と崩壊して、誰もが方向喪失感に悩む時代には、古い常識や先入観に捕われずに物事の本質を把握できる洞察力は、従来以上に競争力を左右する決定的な要因になりつつあるように私には思える。
■佐々木俊尚氏のtwitterでの発言
一昨日、ジャーナリストの佐々木俊尚氏のtwitterのタイムラインを拝見していたら、非常に印象に残る発言に出くわした。
iPhoneのマガストアで雑誌を購入して読んで気づいたこと。紙で読んだ時には「まあこんなものかな」と思っていたのが、iPhone上でブログなどのテキストコンテンツと並列に見せられると、実はとてもつまらないものが多いという衝撃的事実に気づいた。
だから雑誌をオンライン化すると、フラット化の引力で言論の劣化が逆に目立ってしまい、衰退をさらに加速させちゃうかもしれない。
■マガストア
マガストアとは、電通とデジタルコンテンツ配信会社であるヤッパが提携して、昨年8月に開始した開始した雑誌の有料販売サービスで、1月7日現在、既存の雑誌(AERA、ダイヤモンド等)25誌をiPhone初めいくつかの携帯電話から購入することができる。今後、50誌以上に拡大し、携帯電話だけではなく、パソコンやゲーム端末への展開も計画されているという。昨今非常な勢いで雑誌の休刊が相次いでおり、苦境に喘ぐ雑誌各社の電子配信市場参入の成否は、関係者だけでなく比較的広い層から動向が注目されている。
私自身、昨秋からiPhoneを通じて何冊か実際に購入して読んでみた。比較的読みやすいインターフェースであり、その点ではそこそこ合格点をつけれると感じた。アマゾンのKindleに続き、アップルのタブレットPC発売の噂など、インフラの点では追い風が吹いているとも言える。(逆に乗り遅れたら大変というあせりもあるだろう。)
■王様は裸?
だが、いざiPhone上のコンテンツの一つとして、他のブログやtwitterやtumblr等がフラットで並ぶところで読み比べると、本当につまらないものも多いことを感じざるを得ない。自分自身、内心そう感じていたところなので、佐々木氏の発言を見て「やっぱり!」と思った。「王様は裸ではないか?」と思いながら口にできなかったところに、いきなり佐々木氏が「王様は裸だ!」と叫ぶのを聞いた思いだった。
その発言には何人かの反応があり、twitter上で質疑が続き、それを追いかけて行くと、現在の出版社や新聞社等の既存メディアの問題点に対する佐々木氏の非常に率直な見解を知る事ができて大変面白い。興味がある人は、是非読んでみるといい。
■優秀なメディアが何故?
繰り返し提起される問題だが、優秀で専門性の高い人材が集まり、しかも高額の取材費と時間をかけて一次情報にアクセスする、既存大メディアの記事が、どうしてこんなことになるのか。切り口がステレオタイプで紋切り型だったり、もうすっかり廃れてしまったはずの平板な戦後民主主義的な浅薄な思想が見え見えだったり、妙に予定調和的であったり、私のような素人でさえ辟易してしまう記事が実に多い。もちろん、非常に優れた記事も多い事は確かだが、こんなものなのだろうか。
さらに言えば、マガストアに限らず、既存メディア、それも権威あるメディアの記事ほど、猛烈な勢いで変化を続ける市場や社会の実態にキャッチアップできていないのではないかと感じてしまう事が多い。おそらくメディアに限らず、どの業界でも大企業、中でも歴史が長くて伝統ある企業の社員に、多かれ少なかれ共通する傾向なのではないか。これは私の個人的な見解だが、個々人が仮に自分自身の体感として何らかの変化や違和感を感じても、既存の通説へのとらわれ、既存秩序への配慮、エスタブリッシュサークルから排除されることへの恐れ等、多重のしがらみから、記事にバイアスがかかってしまうのではないか。それが習い性になった結果、無意識に先入観やイデオロギーの壁ができてしまって、事実を事実として素直に受取ることさえできなくなっているように思えてならない。まさにガリレオに望遠鏡で天体を見せられた大学教授と同じ事が起こっているのではないか。
■『権威』のバイアス
島田裕巳氏と小幡績の対談をまとめた『下り坂社会を生きる』*2という本に、同様の主旨の見解があり、これも大変興味深い。
昔、大前研一が珍しくいいことを言うなと思ったんですけど、「いい経済記事を読みたければ、日経を読むな」と言うんですね。つまり、日経には権威が確立しているから、自分の理解できないものは受けつけないし、正当派のことしか書けない。権威を傷つけてはいけないから、思い切れないんですね。 同掲書 P155
テレビ東京の話で言うと、夜の『ワールドビジネスサテライト』は、経済界の人がみんな見ている。だから経済評論家、エコノミストをゲストに呼ぶけど、エスタブリッシュメント、つまり権威が確立した偉い人が中心だから、あまり外れたことは言えない。一番のエース級がそろっているんだけど、固定席で、同じ人がずっとやってるから新しい知恵が入らないし、思い切れない、開き直れない。だから、同じような番組のはずである朝5時45分からやっている”モーサテ” 『ニュースモーニングサテライト』の方が断然面白いです。 同掲書 P156
■構造を理解すべき
インターネット内での出来事は、反権威、反常識で溢れかえっており、だから新しいもの、新しい考え方等が日々生成されているとも言える。今はインターネット内に限らず、現実社会でも従来の権威と常識が容赦なくひっくり返されてしまう時代だ。ガリレオ・ガリレイのような事実の前には権威と先入観をものともしない変人の意見こそ貴重だったりする。この構造をちゃんと理解しておかないと、来るべき2010年代に生残れないことになりかねない。各自、肝に銘じておくべきだろう。
*1:
99・9%は仮説 思いこみで判断しないための考え方 (光文社新書)
- 作者: 竹内薫
- 出版社/メーカー: 光文社
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*2:
- 作者: 島田裕巳,小幡績
- 出版社/メーカー: 宝島社
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クリントン大西
権威のバイアス、ありますね。
紙面に載ると、条件反射的に「権威がある」とか「皆から一定の評価を受けた」
みたいなバリアが知らずかかってしまうようです。
もっとも、それは世代的なものでもあり、我々より下の人々にとっては
あまり関係のないものなのかも知れませんが。
ta26
コメントありがとうございます。風観羽のta26/SeaSkyWindです。
ご指摘の通り、少なくとも当面は、『権威』の問題は世代間のコンフリクトとして
現れてくると思います。これから、あらゆるところで『権威』の崩壊が起きてくるでしょう。ただ、崩壊したからといって新しいものが築かれることが保証されて
いるわけではなく、そういう意味では過去から引き継がれて来た良質な知恵は、
何とか若い世代に伝えていきたいものだと思います。
murakyut
古い常識や先入観に捕われずに物事の本質を把握できる洞察力は、従来以上に競争力を左右する決定的な要因になりつつある・・・・おっしゃる通りだと思います。意外と今の若い人は我々世代が権威だと思うことを権威だと思っていません。むしろ、我々はそれじゃ具体的に何をしたら良いか・・・。これを考えるためにブログを書いたりしていますがなかなか解は見つかりません(笑)。若い世代に伝えて行くこと・・・悩ましいところです。
ta26
murakyutさん いつもコメントありがとうございます。風観羽の(ta26改め)SeaSkyWindです。
若い世代を見ていて感じるのは、空気の支配がとても強くなっていることです。それは、権威とはまた違った強い拘束力を持って、各自の意見をねじ曲げているように思われます。我々が何ができるのか、という問いは、おっしゃる通り本当に悩ましいですね。私もmurakyutさんとたぶん同じ悩みを抱えているように思います。










今朝、田中真知さんのブログにコメントを書いていたら、私より早くコメントを書いている人がいる!と思い、一日でですがいろいろな記事を読ませていただきました。
内田樹先生や宮台さんなど私の好きな学者さんの名前が出てきてうれしくなりました。
また、ヤンキーとオタク論は非常に興味深く拝読しました。
「ごくせん」「ルーキーズ」その他の大ヒットで、すっかりヤンキー復権の感アリですね。
花火や夏祭りに燃える(これもオタクの「萌える」と対置か?)ヤンキーなど、彼らの行動パターンを思い出しておもしろかったです。
こちらの新着記事、福山龍馬は私も1回目を見て、新しい感じがしました。
現代のニッポン人の龍馬観は、イコール司馬遼太郎龍馬といってもいいくらいだと思うので、新しいイメージ作りに一役買ってくれるかな。(もっとも福山も司馬龍馬を読んでいそう)
ともあれ、貴ブログは今年最初の大型ヒットです。
これからも期待していますので、バシバシよろしくお願いします。
風観羽のSeaSkyWindです。コメントありがとうございました!
ヤンキーとオタクのところを注目いただいたのは、私もうれしいです。
実はヤンキーこそ地域コミュニティーを復権させ、日本を活気づけてくれる
可能性を持っているのではないかと、密かに期待していたりします。
三谷さんのブログも少し拝見しましたが、面白いですね!
私の先入観もあるかもしれませんが、田中真知氏が書く内容と(旅行記も含め)
どこか共通するところがあるように感じました。しかも、ユーモアのセンスも
何となく似たトーンやテンポがありますよね。
今週末、少し時間を取ってじっくり読ませていただきたいと思います。
今後とも宜しくお願い致します。