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2016-06-20 これからの市場で勝つためのフォーミュラとは このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント


 アベノミクスの評価


参院選を目前に控え、アベノミクスの成果についての議論が騒がしくなってきた。有効求人倍率の向上を成果が上がった印として強調する自民党に対して、格差の拡大等をあげて失敗との評価を下す野党の舌戦が始まっている。


私自身は今ひとつこの議論に参加する気になれずにいる。というのも、日本経済の浮沈を真剣に考えるための最重要点についての議論があまり行われていないように思えてならないからだ。少なくともここまでの結果で見れば、既得権益者を温存し、成長戦略を実現するための企業の構造改革は一向に進まなかったと言わざるをえない。市場の構造が急速に変わりつつある現実がありながら、それに合わせて企業も個人もマインドを変えるべき時に、もっとも変化する必要がある企業やその従業員がぬるま湯に浸ることになり、結果的に足腰を決定的に弱くしてしまったように見えてしまう。



 蹴散らされた日本企業


アベノミクスが始まってから今日まで、私はIT/電気市場が比較的見えやすい位置にいて、ここで起きていることを間近で見ることができた。そして、そこから見えた(日本企業にとって)恐るべき出来事については、これまでも何度も書いてきた。かつてこの市場でトップレベルの競争力を誇った企業(ソニーシャープ、パナソニック等)が、旧来の市場のルールを自分たちのいいように書き換えてしまった米国ITジャイアントであるグーグルアップルアマゾン等のいわゆる『プラットフォーマー』に蹴散らされ、すっかり主導権を失ってしまった。


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 市場の新しいルール


この新しい市場のルールは、今ではIT/電気市場にはほぼ完全に浸透し、定着した。そしてその余勢を駆って、IT/電気市場の枠を超えて、あらゆる市場に波及し、旧来のルールを書き換えようとしている。市場全体をプラットフォーマーが支配し、旧来の製造メーカーは、部品提供者(シャープルネサス等)、受託生産者EMS:フォックスコン等)、韓国中国等の(低コストの)製品メーカー(サムソン、シャオミ、ハイアール、DJI等)に分断され、一方、この新しいルールを理解し独自のポジションを市場に確保することに成功したカテゴリー・プラットフォーマー(ニコニコ動画LINEクックパッド等)と、プラットフォーマーが提供するモジュールや仕組み(AWS等のクラウドサーバー、Squqre等の決済の仕組み等)を最大限に活用して異業種に参入し、短期間に巨大に膨れ上がり、旧来の企業を破壊して市場から追い出してしまうデジタル・ディスラプター(創造的破壊者、UberAirbnb等)が跋扈するようになった。この新しいルールが支配する市場では、旧来の日本企業の身の置き所がどんどん狭まっている。


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アベノミクスであれ、何であれ、この新しい現実に対処できるように、日本企業や日本企業の従業員のマインドを変革することができるかどうかが最大の問題だ。それができれば(少なくともその方向に向かっていれば)生き残れる可能性があり、できなければ、一時的に何らかの経済指標がどうなろうと結局日本企業の生きていく場はなくなってしまう。そのような観点で経過を見守っていたが、どう見ても私が期待する方向に向かったとは思えない。多くはぬるま湯に浸ってその場でうずくまってしまうか、少し元気があってもむしろ過去の栄光にすがって、夢よもう一度とばかりに反対方向に向かってしまったようにさえ見える。


しかも、今もって、新しい市場のルールを意識してその方向に舵を切るような振る舞いはほとんど見えてこない。ここでは、すべてがデジタル化し、ネットワークで繋がっており(コネクティッド化)、ソフトウエアアルゴリズム)が支配し、それを前提に、外部経済界や外部経済利用を促進するツール(SNSクラウドファンディング等)、プラットフォーマー等が提供するモジュールや仕組み(AWS等のクラウドサーバー、Squqre等の決済の仕組み等)、新しいデジタル化技術(AR/VR、3Dプリンター等)などの要素を使いこなし、それぞれの最適ミックスによるイノベーションを実現し、そこから出てくるあらゆる情報をクラウドに蓄積して人工知能の学習を促進して、その成果をさらに自らのビジネスの改善や改革につなげていく、そのような市場の特性を十分に理解た上で自らのポジショニングを明確にし、活動の隅々にまで浸透させることができる企業でなければ、生き残ることはできない。旧来の日本企業の閉じたシステム(終身雇用制度、系列だけに閉じた取引き等)への執着は、障害になることはあっても、有利に働く可能性は低い。組織改革や経営者/従業員のマインドチェンジは必須だ。ぬるま湯に浸っている時間などないはずなのだ


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 マーケティングの重要性


さらに言えば、技術だけの問題ではない。初期段階では、新技術の有効利用が差別化の大きな要素となるが、遠からず市場での過当競争を抜け出るためには、体系的な深い理解に基づいたマーケティングが経営レベルまで浸透していることが必須の勝利条件となってくるはずだ。自分が他業種にいた経験があるから余計にそう思うのかもしれないが、IT/電気市場では、全盛期の日本企業であれ、経営レベルまでマーケティングが浸透している会社は少ないと言わざるをえない。


もちろん、個々には、TVコマーシャルや、販促や宣伝手法など、素晴らしくクオリティーが高いものも多く、それゆえに誤解もまねきやすいのだが、なまじ製品の品質であったり、新しい機能であったり、そのような訴求で十分に世界で通用してしまったこともあるのだろう、経営レベルまでマーケティング思考が浸透していなくても、技術、製造や品質管理等の出身の経営者が経営を仕切っていればそれで十分だったと思われる。日本では、コカコーラP&G花王等、高い技術力もあるとはいえ、技術力だけでは勝ちきれないことを初めから理解している会社の中にこそ、マーケティング巧者が多く、そのような会社と比較すると明らかに劣って見える。


その結果、技術、品質、人材等、社内に多くの優れた要素を持ちながら、自ら新しいルールをつくることはできず、新しいルールに最適化をはかることもできずに、流されるがままになっている会社が本当に多い。『良い製品を安くつくれれば復活できると今でも信じている』というような発言が経営者から堂々と出てくる。自分自身も何度か経験したことだが、このような会社の経営者等と話しをしていると、マーケティングという用語の意味が正しく理解されていないと感じることがあまりに多い


マーケティングの重要性を知りたければ、現USJ(ユニバーサル・スタジオ・ジャパン)のCMO(チーフ・マーケティング・オフィサー)である、森岡毅氏の著作(『USJを劇的に変えたたった一つの考え方ー成功を引き寄せるマーケティング入門』*1等)を紐解いてみるといい。P&Gで優れたマーケティングを習得した森岡氏のUSJでの奮闘ぶり(ほとんど経営危機寸前だったUSJを短期間に過去最高の売り上げと収益を達成できる会社に蘇生させた)を知れば、USJというハイテク技術が重要な成功要因となっている会社であれ、いかにマーケティングが浸透することが重要なことなのかがよく理解できると思う。


困ったことに、マーケティングについても、そもそもその起源が米国にあることからも、米国企業にその巧者が多く、経営者にもそのエッセンスを理解している人が多い。よく言われるように、米国ではエンジニアとして優秀な人がまたマーケッティングのエッセンスを理解していて、起業し、経営者になる例が多い。多くの日本企業が、今再び、市場におけるマーケティングの重要性を思い知ることになると思うが、このままでは気がついた時には、後の祭りになってしまいかねない。



 勝つためのフォーミュラ


賢明な企業人であれば、アベノミクスの成否がどうであれ、自分以外の他者に頼っている場合ではないはずだ。何度も私が過去の記事で述べてきた通り、IT/電気市場で起きてきたことは、今後あらゆる市場で起きてくる。自分たちのことは自分たちで決めてやっていくしかない。


これからの市場での成功のフォーミュラは、上記で述べたことを総括すると次のようになる。


「デジタル市場の『飛躍の法則』を十全に活用する」

          ✖

「熟達した『マーケティング』でビジネス化する」


だが、これでは勝てる企業は米国企業ばかり、ということになりかねない。日本ならでは、という要素をどう見つけることができるかがもう一つの鍵になる。これも何度も書いてきたことだが、日本的な可愛らしさ、ユーモア、おかしさをうまく訴求することでビジネスを爆発的に拡大してきたLINE(のスタンプ)やニコニコ動画等に例を見るような競争優位を築くことができる要素を可能な限り引き出してくることが、あらためて、非常に重要になるはずだ。だが、どうすればそれができるのか。


やや古い概念になるが、米国の経営学者B.シュミットが1999年に提唱した『経験経済』の概念ツールを使うことは一つのヒントになりそうだ。これは後年、『ユーザーエクルペリエンス:UX』として、もう少し洗練された概念として語られることになっていくが、私見を言えば、逆にその分、当初の概念に含まれていた貴重なエキスの部分がやや溢れてしまった印象がある。


B.シュミットは、『経験経済』を次の5つの側面に分けて説明している。

SENSE(感覚的経験価値)

FEEL(情緒的経験価値)

THINK(創造的・認知的経験価値)

ACT(肉体的経験価値とライフスタイル全般)

RELATE(関係的経験価値)

ここから想起される価値を日本の伝統的文化、現代の日本人の意識、日本人の持つコンテキスト等をタテ糸にして、今一度、深堀してみることが必要なように私には思える。


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したがって、私が推奨するフォーミュラは下記のようなものになる。


「日本特有の『経験価値』を徹底的に引き出す」

          ✖

「デジタル市場の『飛躍の法則』を十全に活用する」

          ✖

「熟達した『マーケティング』でビジネス化する」



 組織より個人


日本の若手でも、グーグル楽天等で執行役員を務めた尾原 和啓氏、筑波大学助教で、メディアアーティストの落合陽一氏など、この市場の現実を理解して活動している人が出てきているのは頼もしい限りだが、本番はこれからだ。新しい市場の法則さえ理解すればできることはまだ沢山ある。


参議院選挙の後、アベノミクスが継続されるのか、葬られるのか私の予想できるところではないが、いずれにしても、ここまで述べてきたような概念を分析ツールとして、よく自分の参加する市場を見直してみることをお勧めしておきたい。そして、併せて、組織がどうあれ、個人としては遅れをとらないよう、準備しておくことを重ねてお勧めしておく。

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2016-06-06 シンクロすべき技術の進化と社会の進化 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント




フェーズは変わってきている?


昨今、人工知能等のハイテク技術に関わる議論は実に賑やかで、相変わらずメディアには多数の記事が飛び交っている。ところが、一方で妙に心騒がない自分がいる。情報は従来以上に大量に押し寄せてくるが、目新しい視点や本質的な指摘等で驚きを与えてくれる内容は少なくなって来た印象がある。もちろん、中には、限界領域を少しでも押し広げ、議論の行き詰まりを突破すべく真摯な取り組みも行われていることは確かだ。だが、全体としてはどうしてもある種の倦怠を感じてしまう。自分ばかりがそう感じているのかと思いきや、同意してくれる友人知人が思った以上に多い。やはりフェーズは変わって来ているのではないか。


考えてみれば、新技術が登場した場合には、それによって生じる過度の興奮や誇張で当初は大きく賑わうが、次の段階ではその過度の興奮は非現実的な期待や予想を生み、成功事例が追いつかず、技術はその過度な期待に応えられずに急速に関心が失われる、というサイクルがあることを指摘した、ガートナー社のハイプ・サイクルについては、私自身何度か取り上げ的来たことでもある。

ハイプ・サイクル - Wikipedia


もっとも、だからといって技術進化のスピードが落ちているわけではない。むしろ進化のペースは上がっている。この半年くらいに限定しても、人工知能囲碁の世界チャンピオンを撃破するような驚くべき進化に目を見張ったばかりだったりする。社会の過度な期待に応えられないどころか、時が進むごとに、技術が開く可能性に社会が圧倒されて目が眩んでいるというほうが実態に近い。


ただ、この技術進化の影響が超弩級であることが浸透するにつれ、予想通りというべきかもしれないが、社会や人間の側からの反発、懐疑、違和感が意識的にも無意識的にも胎動し始めている。ハイプ・サイクルで停滞が起きるのとは違った意味で、様々な壁や天井の存在を意識せざるをえなくなってきているように思える。


技術進化の影響の大きさを無視して、未来社会を構想することはできないと確信すればこそ、今後は単なるお祭り騒ぎのような楽観的な高揚感を煽るだけではすまなくなることを確認することは、私にはとても大事なことに思える。今は、いたずらに新奇な情報にばかり振り回されず、本質的な問題を整理し直して備えるべき時と言えるのではないか。



 拭えない違和感


その点で言えば、以前からずっと気になっていたのが、シンギュラリティの概念を最初に提示した、発明家でフューチャリストのレイ・カーツワイルや彼の信奉者のあまりに楽観的であっけらかんとした姿勢だ。彼らは、テクノロジーの恩恵(人間の労働は不要になり、病気は克服され、寿命は驚異的なほど延長される等)は無条件に良いものという揺るぎない(有無を言わさぬ)信念に貫かれている。そして、確かにその点について言えば、彼らの夢想する未来像は、一見非の打ち所がないように見える。だが、本当にそうだろうか。


人間にとって、物理的に長く生きることだけが本当に幸福なのだろうか。長く生きることだけが本当に充実した人生だろうか。短くても燃焼し、充実した人生もあるはずではないか。自分の生を犠牲にしてでも誰かを生かすことのほうを選択する人は厳然と存在する。そんな決意は時に生を眩いばかりに輝かす。本来、生と死は分かつことができない表裏一体の存在のはずなのに、死を遠ざけ、生ばかりが無為に延長されてしまって、本当の生の意味はわかるのだろうか。生きる意味もわからないのに、時間だけ長い生を人は本当に望んでいるのだろうか。


試しに、周囲の人に、特にある程度の歳を重ねた人に率直に聞いてみるといい。長く生きることではなく、良く生きることが大事だと、諭してくれるのではないか。少なくとも、レイ・カーツワイルの想定する未来を生きたいと本気で賛成してくれる人が意外なほど少ないことに驚いてしまうはずだ。この『ギャップ』を単なる妄想や妄念と退けてしまってよいのだろうか。



『ギャップ』を知ることが大事


昨今、『インターネットの夢の挫折』という話題をよく目にするようになった。インターネットの可能性はもちろん非常に大きなものがあったし、今後とも大きいことは間違いないが、インターネット導入当初に夢見られていた理想的な未来、すなわち、人々の相互理解が深まり、新しいアイデアと知恵が生まれて世の中がよくなる、というような未来は、その通りに実現しているとは言い難い。インターネット導入当初は、そこに参加している人が、インターネットの善を信じ、誹謗中傷は厳に慎み、同質な意見を持つ人たちばかりだったから、インターネットの未来は非常に輝かしく見えた。しかしながら、現在のように誰もがインターネットに参加するようになると、参加者は玉石混交で、むしろ数は石のほうが圧倒的に多い。残念なことにそれが社会の実態であれば、初期の頃の参加者の理想通りに展開しないのは当然とも言える。


そのごとく、人工知能等の技術についても、近未来の社会を想定して何らかの準備を始めようと思うのであれば、この『ギャップ』について、真摯に分析して、正体を知った上で、必要な対策を考えるなり、意識改革や教育を進めるなり、もっと本質的な問題にアプローチして解決していく必要がある。ビジネスの展開を考えるにあたっても、実現性の高い未来予測をしたければ、楽観論者の言うことばかり聞いているわけにもいくまい。



 社会も進化する必要がある


では、この『ギャップ』の正体は何だろう。非常に雑駁に言えば、まずは『社会』ということになろう。(若干意味を広めに、習俗、習慣、思想等を含む)あまり単純化して述べると、想定外の反論を受けてしまいかねないが、レイ・カーツワイルは技術決定論(=技術が社会を変える)の立場を代表しているいえるだろう。だが、技術決定論に対しては、その対極にあるともいえる社会決定論(= 技術を決定するのは社会である )の支持者からの手厳しい反論がある。彼らは技術進化では社会は変わらないと強く主張する。ただ、技術決定論も、社会決定論もその両極は少々妥当性に欠けると私は思う。その中間というか、折衷案が現実的とも言え、今後はその最も妥当な折衷案の相貌を明確にしていく(し続けていく)必要に迫られていくことになると考える。


今後、過去に例のないほど技術の影響が大きくなることは決定的といっていいが、社会はそれを後押しすることもあれば、邪魔をすることもある。妥協点を見つけて相補的な発展を遂げることもあれば、社会自体が衰退し、場合によっては滅びてしまうことだってある。逆に言えば、相補的な、あるいは弁証法的な発展を遂げる社会は生き残り、進化するが、それができなければ、他の社会や国家に対して相対的に地位が低下していくと考えられる。グローバル化した世界では、その動向に背を向けて、他の世界と切り離されてガラパゴス状態になれば、経済的には大幅な規模縮小を余儀なくされ、困窮してしまうだろう。だから、生き残りたいのであれば、技術進化に併せて社会もまた進化する必要がある。



近未来の問題はビジネスチャンスの扉


前回のブログエントリーでも述べた通り、近未来は、程度やスピードの違いはあれ、どの社会/国でも『テクノロジー過剰』を前提とせざるを得ない。そして、これまた非常に雑駁だが、そうなった場合に否応なしに起きてくるであろう日本社会での問題点を下記の通り思いつつままに列記してみた。

プラットフォーム化が全領域におよぶ近未来とその問題点について - 風観羽 情報空間を羽のように舞い本質を観る


民主主義的正当性の喪失

・一部企業の支配の行き過ぎ

政府介入/管理のしにくさ

・国家が超巨大な権力を持つ恐れ

・社会システムの急激すぎる変質

・商慣行/暗黙知等の一掃

・企業内コミュニティの破壊

・交換の多義性の衰退(贈与等)

・技術決定論の暴走と反撃



問題への対処の仕方には、法学者のローレンス・レッシグが述べたように、少なくとも4つの視点(法、アーキテクチャー、社会規範、市場 )があるわけだが、できる限り4つのバランスを取ることが求められる。それが、社会が技術進化の真の果実の恩恵にあずかり、かつ持続可能性を高めていくための鍵となる。非常に難易度が高いパズルだが、そのパズルがうまく解けるかどうかが、その社会の未来を決めることになる。しかも、4つの視点といったが、これにさらに『時間』の概念を持ち込む必要がある。短時間の間に目の眩むようなスピードで進化する技術を前提とするのであれば、時間による変化を先取りし、かつ、自ら変化を厭わず、恒常的に進化し続ける必要がある。


ちなみに、市場という点で言えば、これはビジネスチャンスを見つけるための切り口とも言える。『高齢化が進むだろうから介護ロボットを市場投入する』、という類の策はもちろんわかりやすい戦略ではあるが、不可避の過当競争が待っているだろうし、先行しても、競争の軸が見えやすいから技術が優れた巨大企業にあっという間に追いつかれ、取り込まれてしまうだろう。だが、テクノロジー過剰社会で、社会や人間の側が感じる不安、不満、違和感等が生じるなら、これこそ市場ニーズというべきで、ここのところにうまくサービスや製品を投入することでその解消を図ることができるなら、それは成功に続く道に繋がっているといえる。


そこでは、社会や文化、そこで暮らす人間を知ることが重要な成功要因になるだろうから、技術や資本で勝る海外のグローバル企業でも容易には追いついてこれないビジネスを構築できる可能性も広がる。ローカルな日本企業にも、いや、日本企業にこそチャンスがあるということだ。しかも、社会や人間の側が感じる不安、不満、違和感等は日本に限らないだろうから、日本市場だけでは市場規模が小さすぎてビジネスにならないような場合でも、世界中の小さなニーズを集めてそれなりに規模にするようなこともインターネットが普及した現代のような時代には可能だったりする。無論、そのために余計な規制は撤廃して市場の自由度を上げておく備えは不可欠だ。



『人間』とは何か


また、『ギャップ』についてさらに言えば、『人工知能が人間を超える』という言説が巷間で話題になればなるほど、『人間』とは何かという問いがむしろ深まってきて、『人間』の再発見ともいうべき事象が起きてきている。しかも、人工知能等の技術の最前線にいる研究者にこそ、人間に対する考察を深め、独自の哲学を有している人がいるように見える。


この点について、興味深い視点を提供してくれているのが、作家の海猫沢めろん氏の最新の著作、『明日、機械がヒトになる』*1だ。現在進化しているテクノロジー(人工知能ロボット3DプリンタBMI(ブレイン・マシン・インターフェース)、SR(Substitutional Reality)等)は、人間や知性の意味を変えてしまいかねない可能性を秘めており、『人間と機械がどう違うのか?』『この世界では、人間(生物)が機械化し、機械が人間(生物)化しているのではないか?』との疑問を感じた海猫沢氏が最新の科学の現場で専門家に取材して、その成果をまとめた本だ。


私は、海猫沢氏の意図した通りにこの本を読めたとは思えないが、少なくとも私自身の同種の思考をおおいに活性化してくれたことは確かだ。例えば、SRだが、これは代替現実の略で、この技術の実験は実に興味深い。被験者にパノラマビデオカメラ付きのHMD(ヘッドマウンド・ディスプレイ)をかぶせ、被験者とコミュニケーションしながら、こっそりとカメラに過去の映像や、つくられた映像を混ぜ合わせると、被験者にはそれがいま目の前で起きている現実なのか、つくられた虚構の映像なのかわからなくなるという。


本書でも語られているが、このような体験を何度か(あるいは一度?)すると、そもそも自分が普段生活して見ているものも、事実なのか虚構なのかわからなくなってくるという。これは結構本質的な問題で、現実世界の中で事実と思っていたが、単に夢を見ていた、あるいは、映像を見せられているだけではないか、という哲学的な問いにあらためてリアリティを感じてしまうということだろう。荘子の『胡蝶の夢』(夢の中で胡蝶(蝶のこと)としてひらひらと飛んでいた所、目が覚めたが、はたして自分は蝶になった夢をみていたのか、それとも今の自分は蝶が見ている夢なのか、という説話)のような説話を思い出してしまう。



『私』とはただの妄想?


このようなSFのような話でなくても、そもそも人間は自分の見たものを存在すると信じ、自分の眼前に展開する世界の存在を信じているが、実際には、様々な偏見や思い込み、勘違い、妄想等により、事実を歪めて見ているに過ぎないのであり、そうして『見られたもの』は決して、そのもの自体ではなく、そのように『見られたもの』で構成された世界は、ほとんどがイリュージョンと言っても過言ではない。これはまさに仏教思想そのものともいえる。そんなイリュージョンの中に身を置き、その世界から照射された自己像を『自分』と信じているというのも、考えてみればいいかげんな話だ。そんな『私』とは一体何だろう。本当の『私』というものがあってもなくても、少なくとも今認識している『私』のほとんどは妄想の産物というべきだろう。(妄念を払い、正しく見ることができれば悟れるという仏教思想が正しいかどうかは、ここではこれ以上語らない)。


近代西洋思想の核とも言える、デカルトの『我思うゆえに我あり』という命題には、私は昔から違和感を感じてきた。思う我自体が妄想や幻想ではないか、という思いがこの命題を知るずっと以前から自分の心の奥の方に鎮座していたからだ。驚いたことに、本書でも出てくる、人間そっくりなアンドロイド製作でも有名な、ロボット工学者の石黒浩氏は、『心』や『私』なんてない、と断言する。人の心というのは、互いに心があると信じているから、存在できる概念だという(石黒氏も仏教関係者から講演を依頼されたりするという)。


このように少し考えてみるだけで、『人工知能が人間を超える』という時の『人間』は何なのか、それほど簡単な問題ではないことがわかる。人間との共生といっても、人間と機械との境界はそれほどはっきりと引かれているわけではない。しかも今後はどんどん曖昧になっていくと考えられる。



 近未来を健全な場所にするために


私自身、これからは『技術ドリブン』の世界になると以前申し上げたことがあるが、単純な『技術決定論』を述べたつもりは毛頭なく、いやおうなく技術が人間社会に挑戦状を叩きつけ続けるようになる、というのが含意だが、近未来を人間が生きるのに健全な場所にするためには、文化・思想・社会科学の側、すなわち、文科系に分類される学問の側の活躍が望まれるところだ。そんなものは皆人工知能がやってくれる、というのは少々結論を急ぎすぎているように思える。少なくとも当面はやることはいくらでもあることを忘れないで欲しい。

2016-05-29 プラットフォーム化が全領域におよぶ近未来とその問題点について このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント



 ブロックチェーン


先日(5月18日)、国際大学GLOCOM主催で、ブロックチェーンについてのイベントがあったので、日中の忙しい時期ではあったが出席してお話しを聞いてきた。

GLOCOMブロックチェーン経済研究ラボ 第3回セミナー「通貨としてのビットコインを考える」【公開コロキウム】 | 国際大学グローバル・コミュニケーション・センター


このイベントの内容については、後日、資料がアップされるとのお話しもあったため、詳細はそちらでご確認いただきたい。3人のお話しのほとんどは技術的な成り立ちや、技術的な発展可能性、あるいは現状の問題点等、技術に関わる内容だったこともあり、エンジニアではない私には、自分が理解するのにもかなりの困難が伴ったし、まして人に説明することはとても出来そうにない。


ただ、そんな私であってもどうしてもこのイベントに出席したかった理由は、ブロックチェーンの可能性やポテンシャルがとんでもなく大きいことを感じずにはいられないからだ。ビットコインに注目して自分で調べた際に、中核技術であるこのブロックチェーンのことを知って以来、できる限り自分でも情報を集めてみたし、近未来のビジネスシーンを想定する上で、ブロックチェーンがどのような役割を果たすのか、繰り返し思索もしてみた。そうして多少なりとも理解が進めば進むほど、単に役割を果たすという以上に、近未来全体を変革し、その根幹の意味さえ変えてしまいかねない存在であることがわかってくる。


実際、昨今ではメディアでも、インターネットに次ぐ革命的なテクノロジーとして取り上げられるようになった。著名なベンチャー・キャピタリストである、マーク・アンドリーセンは次のように述べている。

『1975年のパーソナル・コンピューター、1993年のインターネット、そして2014年のビットコイン

ビットコインの中核技術であるブロックチェーンは、『中央権力が不在でも、信憑性、信頼性のあるネットワーックを構築することができ、すべての仲介役を省くことができ、国家の力でも止めることができない』という驚くべき特性を持ち、あらゆる主体のネットワーク化を可能にすることができるというから、応用範囲は金融に限らず、巨大なポテンシャルを秘めた、まさに革命的なテクノロジーといえる。だから、ここではビットコインではなくブロックチェーンと言い換えるべきところだろう。


ただ、いかにポテンッシャルが大きくとも、現段階では、まだそのほんの一端が垣間見えたに過ぎない。それでも、私がこの技術にこだわってしまうのは、私に見えてきた近未来のビジネスシーンのイメージを、さらに大きく進化させるレバレッジ(梃子)の役割を果たすように思えてならないからだ。今回のエントリーでは、その私のイメージについて語り、さらに、多少先走り過ぎかもしれないが、その時点で起きてくるであろう問題を予想してみようと思う。



 デジタル化による競争条件の激変


デジタル化(デジタルデータ化)の進展は、特にインターネットの本格普及後、ビジネスシーンのあらゆる局面を変えずにはおかず、今この瞬間も、その影響は急速に全産業に及びつつある。そもそも、アナログデータがデジタルデータに置き換えられるということは、ムーアの法則に代表される次元の違うスピードが支配する世界に参入することを意味するわけだが、同時に、今日では『ネットワーク化』および『ソフトウエア化』の全面化が必然の環境に置かれることでもある。さらには、下記で述べるような要素の恩恵を受ける(利用することができる)資格を得ることになる。だが、それは恩恵ではあるが、デジタル化が成熟すればするほどむしろ競争条件となり、それらの恩恵をいかに生かすことができるか、一つの要素だけではなく、いかに複数の要素を組み合わせ、いわゆる組み合わせのイノベーションを創造できるかが勝敗を分ける要因となり、そこでも新たな勝者と敗者を生み出す。そして、そこでの勝利者は、タクシー配車ビジネスでブレークしたUber(ウーバー)にその典型例を見るように、まさに『破壊的』で、短期間に巨大な規模に膨れ上がることも珍しくない。


ビッグデータ利用

  → 人工知能によるデータマイニング


・外部経済利用

  → SNS

  → オープンソース

  → クラウドファンディング


モジュール利用

  → クラウドサーバーAWS等)

  → 決済(PayPal、Square等)

  → 動画(YouTube等)

  → 無料電話(LINESkype等)


・新たなデジタル技術利用

  → 3Dプリンター

  → AR/VR



 先行事例としてのIT・電気市場


この影響が一早く及んだ、IT電気市場では、Google、Amazon等が、デバイススマホ)』+『コンテンツ(ビッグデータ)を置くクラウド』+『ビッグデータ分析アルゴリズム』+『決済ストア/仕組』+『ソーシャル(SNS)』等のレイヤーを同時に持ち、その複合価値によって、市場全体を『メガ・プラットフォーマー』として支配するに至る。そこでは『ネットワーク化』および『ソフトウエア化』が徹底し、ソニーシャープのようなスタンドアロンの(ネットワークに繋がらない)完成品提供者は如何に製品の品質が高くとも、主役としての役割を果たすことはできず、ほどなく退場を迫られ、良くても部品の提供者の地位を余儀なくされる。一方で、プラットフォームに最適のモジュールが多数提供され、上記のような『デジタルデータ化の恩恵』を最大限に生かしたプレーヤー(Uber、宿泊施設・民宿を貸し出す人向けのウェブサービスであるAirbnb(エア・ビー・アンド・ビー)等)は、爆発的にビジネスを拡大し、『メガ・プラットフォーマー』の支配する市場内で、個別の領域におけるプラットフォーマー、いわば『カテゴリー・プラットフォーマー』として市場で独自の地位を築くことになる。


プラットフォーマーは多層のレイヤーを束ねてできているが、その出口であるインターフェースを象徴する製品はスマートフォンスマホ)であり、表面的には、スマホが様々な既存の製品やサービスを飲み込み、駆逐してきたように見える(フィーチャーフォン、固定電話、電卓、携帯音楽プレーヤー、ゲーム専用機、カーナビゲーション、新聞、雑誌、テレビ等)。 当初は、単なるモバイル携帯電話だったのが、いつの間にか、その背後をプラットフォーマーとして、Googleアップルのような米国IT巨大企業が支配するようになる。これを携帯電話(→スマホ)の進化の足跡と今後という観点でまとめなおすと、スタンドアローンの製品→ ネット接続 → プラットフォーム化(支配)→ あらゆる物との接続/市場の生態系化→ 超巨大な情報の流通/還流と蓄積 → 人工知能による情報の分析とフィードバック → 新たなサービス提供/進化の促進と、さらなる次元上昇を遂げつつあることがわかる。かつては日本企業の独壇場だった、スタンドアローンの製品だけが支配した市場はもはや跡形もない。



 ビジネスの全領域に及ぶ『スマホ・ビジネスモデル』


だが、これはIT電気市場にとどまらないことは、もう誰の目にも明らかだろう。ここで起きた、いわば『スマホ・ビジネスモデル』とでもいうモデルは、今、自動車に波及しようとしている(いわゆる自動車のスマホ化)わけだが、今後、モバイル → 自動車 → 住宅 → 人/生体情報(生理的な情報、遺伝子情報、感情、思考) → 都市と連続的に拡張していくことにはほとんど疑う余地がない。並行して、この背後では、生産設備 → 工場全体 → 部品提供者全体というように、同様の再編成が進行することになる。


あらゆる市場/業界にプラットフォーム化が浸透すれば、次に当然考えられるのは、それぞれのプラットフォームを束ねる『統一フォーマット化/プラットフォーム化』だ。そして全体としての効率化や複合的な付加価値の創造が起きてくる。もちろんこれは人間には(情報が膨大すぎて)手にあまるから、この膨大な情報相互の関係分析からの新たな価値の発見、新たなサービスの創造は主として人工知能が受け持つことになるだろう。


そして、ここまでのプラットフォーム化の流れに乗りにくく、取り残された領域も、今後、ブロックチェーンによって、次々に(そして徹底的に)プラットフォーム化が進むことになる。

(金融サービス(決済、送金、会計、税務、融資等)、物流、ITインフラクラウド、電力、不動産(都市、建物、公共施設等)、医療、教育等)



 問題点と分析ツール


ブロックチェーンによって、全領域の統一プラットフォーム化は完結へと向かうことになる。すでに、インターネットの普及の過程で、同様の未来予想図が語られて来たわけだが、ブロックチェーンがいわゆる『ラスト・1マイル』を繋ぐことになる。そのような文脈で見ると、ブロックチェーンの真のインパクト/脅威の意味がわかってくるはずだ。しかも、日本企業がメガ・プラットフォーマーとなる可能性はかなり低い。主役は米国IT企業になるだろう。また、ここまで徹底したプラットフォーム化が進展すると、国家単位の規制も及びにくくなる可能性が高い(あるいは逆にプラットフォーマーを国家が支配できれば超巨大な権力を持つことになる)。このような環境で、日本企業はどう生きて行くのか。一介のビジネスマンの立場ではどう備えればいいのか。行政の役割は何か。それを考えるにあたって、どうやって問題点を浮かび上がらせればいいのか。


その問いにうまく答えることは極めて難しいが、一つの試案として、すっかり定番となった、法学者のローレンス・レッシグの有名な『社会における4つの規制力』の概念を借りてみることにする。その上で思いつく問題をいくつか列記してみようと思う。


レッシグによれば、社会において人のふるまいに影響を及ぼすものには、1. 法(Law)、2. 社会規範(Norms)、3. 市場(Market)、4. アーキテクチャー(Architecture)という4種類の規制力があるとする。そしてサイバー空間においては、とくに4番目の『アーキテクチャー』が重要な規制手段だとする。レッシグの理論は広く受け入れられ、2000年以降、インターネットの進化もあって問題がどんどん身近になり、実態と乖離した法律の問題、大きすぎる規制力としてのアーキテクチャーの問題等、議論は花盛りとなった。


インターネットに次ぐ、革命的なテクノロジーであるブロックチェーンが出現して、ビジネスシーンの全域がデジタル化し、プラットフォーム化/新たな生態系化することが確実と考えられる今後の社会にどのような問題が起きてくるか、逆にその問題にどのような手段を持って対処するのが良いのか。今後は、ネットとリアルが益々統合して一体化すると考えられるから、レッシグの議論をベースに、あらためて今後の問題を考えて見ることは、最も適当な出発点といっていいのではないか。


下記に、4規制力の典型事例を二つまとめてみた(NHKのフリーライダー視聴規制、公共空間における携帯電話利用事)。いずれも、4つの規制力がバランスしている状態が、社会が健全であることをご理解いただけると思う。4つのうち、どれに偏っても、社会のバランスは崩れ、なんらかの問題が起きるとされる。


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 アーキテクチャー過剰時代のメリットと問題点


だが、ここまでご説明してきたとおり、社会は遠からず(すぐに)次の図のように、慢性的な『アーキテクチャ』過剰時代を迎えることになる。レッシグの古典的著作『Code』でこの4つの規制力の概念が開示されて以降、『アーキテクチャ』過剰社会の問題点もすでに様々に語られてきた。この議論の成果も借りながら考えてみた。


その前に断っておくが、プラットフォーム化が全面化した社会には、様々なメリットがあるし、そうであればこそ、急速に浸透するとの予測にも蓋然性があるとも言える。ざっと次のようなメリットが思いつく。


<メリット>

経済性向上

・効率性向上

・国際性向上

・悪しき政府規制/業界慣行等の回避

・透明性向上

・市場原則の徹底

・新たなビジネスチャンスの拡大

 (シェアビジネス等)


製品やサービスを提供されるユーザーの立場から言えば、安価で機能が圧倒的に良くなることは歓迎だ。しかも、競争環境としては透明で市場原則が徹底されると考えられるし、国境を越えた取引はずっと簡便になるから、新規参入はしやすくなる。意欲ある起業家/ビジネスマンにとっては歓迎すべき環境と言えるだろう。実際、現在の新興国だけではなく、世界中から意欲ある参加者が殺到して、活気づくことになるだろう。だからこそ、この方向は今後、水が高い所から低い所に流れるように、進展していく可能性が高い。


だが、一方で、問題点も数多く予想される。長期的には時間が解決する問題もあるにせよ、少なくとも当面は、日本社会は大変混乱した状況となり、対処を誤るとせっかくのメリットが享受できないばかりか、長期的にも正常進化とは程遠い方向に向かってしまうことも考えられる


<問題点>


民主主義的正当性の喪失

 → アーキテクチャーの社会に及ぼす影響は多くの場合民主主義的な

   正当性の裏付けを欠く。


・一部企業の支配の行き過ぎ

 → すでに起き始めている問題だが、さらに加速する。


政府介入/管理のしにくさ

 → ビットコインの例に見られる通り、国家の支配がどんどん

   及ばなくなっていく


・国家が超巨大な権力を持つ恐れ

 → 仮に国家がプラットフォーマーを支配出来れば、制限のない

   権力を振るう懸念もある。


・社会システムの急激すぎる変質

 → 変化はやむを得ないとしても、そのスピードが速すぎて、

   社会の側が受け入れ不能になる恐れがある。


・商慣行/暗黙知等の一掃

 → 特に日本の場合は(もちろん日本に限らないが)これが肌感覚として

   受け入れがたいように思える。


・企業内コミュニティの破壊

 → すでにかなり壊れているとはいえ、業界によっては、

   まだ濃厚に温存されている。

   さらなる破壊に社会は耐えられるだろうか。


・交換の多義性の衰退(贈与等)

 → 簡単に語ることは難しいが、市場が機械的な意味で

   完全にシステマティックに整備されればされるほど、

   今後浮き彫りになってくるのではないか。


・技術決定論の暴走と反撃

 → シンギュラリティの議論等を見ていると、すでに、

   技術決定論が暴走気味と言わざるをえないが、

   社会の側の強い反発も予想しておく必要がある。


多数のIT巨大企業の御本尊がある米国で、負組とされるプアー・ホワイトの怨念や感情が非合理の塊のようなトランプを米国大統領の地位に押し上げようとしている例に見るまでもなく、合理性が過度に社会をろう断するとその反発も非常に大きくなることは忘れるべきではない。


立場が違えば、問題点の見え方も、対処の仕方も当然異なってくるだろうし、メリットも問題点も、もっとたくさんあるとおっしゃる方もいらっしゃるだろう。今回はこれ以上書く余力が残っていないため、ここまでとするが、今回のまとめを出発点として、各々の問題点をもう少し分析して、どのように対処するのが良いか、どうすべきなのか、まとめていこうと思う。ただ、いずれにしても、どの立場にいようと、皆の予想よりずっと早くこの状況が起きてくることは覚悟しておいたほうがいい。そして、少しでも早く、準備を始めておくことをおすすめしたい。

2016-05-15 ソーシャルメディアの闇が世界を滅ぼす? このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント



 蔓延する不寛容と過剰反応


ジャーナリスト神保哲生氏と社会学者の宮台真司氏による有料放送、『ビデオニュース・ドットコム』の4月30日に配信された番組は『誰が何に対してそんなに怒っているのだろう』*1というタイトルで、昭和大学医学部教授で精神科医岩波明氏をゲストに迎えて、今の日本社会に蔓延する不寛容について様々な観点から議論が行われて大変面白かった。



番組で例として取り上げられていたのは、年初から大騒ぎになった、ベッキーの不倫に対する集中豪雨的に浴びせかけられた過剰とも思える批判(活動中止にまで追い込まれてしまった)、最近の熊本地震と関連した、女優の井上晴美ブログや、タレントの紗栄子が義援金を送ったことの報告に対するバッシング、元モーニング娘。矢口真里の不倫騒動をネタにしたテレビCM内容に対して視聴者が不快感を示す声があがって放送中止になったことなど、ある程度ニュースを継続的にウオッチしている人なら誰でも知っているであろう件ばかりではある。


多少はバッシングを受けるのもやむをえないと思える案件も少なくないとはいえ、やはり過剰気味であることは確かだ。しかも、井上晴美や紗栄子に対するバッシングなど、昨今、理解に苦しむ、あるいは違和感を感じてしまう案件もすごく多い。だが、類似の事例はまだいくらでもある。あり過ぎるくらいだ。事例という点では、この番組でも紹介していた本、心理学博士の榎本博明氏の『「過剰反応」社会の悪夢  』*2が参考になる。ここに出てくる案件も、違和感を感じる事例のオンパレードだ。


例えば、本書の冒頭に出てくる事例だが、皆さんはどう感じるだろうか。

・ジャポニカ学習帳の象徴として30年以上の続いた表紙の昆虫写真に対して

 『気持ち悪い』というクレームが来て廃止に追い込まれた

・東京ガスの家族の温もりを伝えるテレビCMに、

 『就活がうまくいかないのに傷ついた』というクレームが殺到して

 CMが中止に追い込まれた

・全国各地で子供の声がうるさいといった保育園へのクレームが

 相次いでいて園児が外に出て遊ぶことを制限している保育園がある

高校野球で、野球部の裏方で頑張る女子マネージャーに

 批判が集中した

こうして並べてみると、今の日本はただならぬ状態にあるのではないかと思えてくる。


日本って、こんなに生きづらい国だっただろうか。私が知っていた日本の良さはすでに霧散してしまったのだろうか。確かに昔から、時に相互に監視しあう息苦しさが充満して窮屈なのが日本社会ではあるが、それでも、ガスが抜ける穴もいっぱいあいていたし、『村のルール』から極端に逸脱しなければ、比較的寛容で、少々いい加減なところがあるのが日本の良さでもあったはずだ。一体何が起きているのだろう。だが、よく考えてみると、自分の身の回りにもすでに同種の事例を沢山見つけていたことを今更ながらに思い出した。



 法律分野にも蔓延する過剰反応


例えば、私は仕事がら法律問題について関心を持たざるをえない立場にあるのだが、この領域も最近では『過剰反応』の事例に事欠かない場所になってしまっている。例えば、『個人情報保護法』はその成立当初から、過剰反応が相次ぎ、今では学校や職場での緊急連絡先一覧はつくれなくなってしまったし、病院で名前を呼んだりするとそれだけで激しく糾弾されたり、馬鹿馬鹿しいとしか言いようがないような事例がたくさん報告されてきた。法律に名を借りた問題なのに、もはや法律で規制されている範囲など誰も気にしていていないようにさえ見える。この点だけでも、日本社会をものすごく閉塞させてしまったと私はずっと思っていたのだった。法律に詳しい人ほど、その過剰な解釈や反応には愚かしさを感じて辟易していると思うのだが、そんなことを口にしようものなら、それこそ強いバッシングを受けてしまう。法律家はもはや法律を理解しているだけではつとまらず、日本人の集団心理を理解しないことには有益なアドバイスなどできない様相になっている。



 荒れるコメントで溢れるブログ


また、こうして書いている私のブログだが、ブログにいただくコメント(twitter経由のものも含む)、特にBlogos経由のコメントは時に大変辛辣だ。たいしたことを書いているわけでもないので、批判をいただくことはやむないと、もともと諦めてはいるが、内容とはまったく関係がなかったり、関係があっても趣旨を取り違えているとしか考えられなかったりという例があまりに多い。しかも、言い方が驚くほど上から目線で、乱暴なコメントがすごく多い。コメントにはいちいち反応して、読んでいただいた方とのコミュニケーションをはかっていきたいと以前は考えていたものだが、何か反応すると、ここぞとばかりに、さらに方向が滅茶苦茶になってしまうことが相次ぎ(先輩ブロガーからアドバイスいただいたこともあり)最近は何を書かれても、あえて反応しないようにしている(せざるをえない)。このブログの荒れるコメントについては、ブロガー仲間には同じ思いをしている人が驚くほど多い。皆、悩みながら書き続けているのだ。

いつの間にか、今の日本では、日常生活のあらゆる場面で過剰反応が猛威を振るっていて、企業も個人もそれぞれの立場で苦慮している。実際、市場からの撤退を余儀なくされる企業が出たり、炎上や過剰な批判を嫌気して、人が意見を表明しなくなったりしてしまうようなことはそれこそ日常茶飯事になっている。このような事態を放っておくと、遠からず社会が荒廃して立ち直れなくなってしまいかねない



 過剰なサービスが原因?


日本の過剰なサービスが原因の一つという見方もある。日本のサービスは、全般に、そのクオリティの高さを世界に誇れるものだ。特に昨今、中国からの観光客が大量に日本を訪れるようになり、日本の様々なサービスに触れるようになると、それを絶賛するコメントを多数目にするようになり、日本のホスピタリティーの優越性を再認識している日本人も少なくない。ところが、サービス提供者の徹底した腰の低さをいいことに、過大なサービス/行き過ぎたおもてなしを要求して、受け入れられないと、ネットで過激な誹謗中傷を発信して、サービス提供者を撤退に追い込むようなケースがすごく増えているようなのだ。


一昔前の日本人の(サービスを受ける側の)『客』は、過剰なサービスに対して、過剰なくらいの慎み深さで反応し、サービス提供者の揚げ足取りをするようなことはあまりなかった。その双方の腰の低さは、日本社会のモラルの高さ、居心地の良さ、社会の安定感を醸成していたはずだ。ところが、サービス提供者と客の相互補完で成立していたはずの関係も、客の側が一方的に図に乗って放漫になれば、成り立たなくなってしまう。お客様は神様とばかりにおだてられ続けたため、いつの間にか過剰な権利意識を持つようになったのが原因ではないかというわけだ。確かにそういう側面もあるだろう。だが、それだけで全てを説明するのは少々無理があるように思える。



 第一原因はインターネット(ソーシャルメディア)?


それ以外にも、経済低迷による余裕のなさ、訴訟社会の米国を真似た『法化社会化』の進展などいくつも原因の候補はありそうだ。ただ、突き詰めると、どれも原因なのか結果なのか、曖昧になってくる。第一原因は何なのか。挙がった候補について仔細に検討してみると、どうやらインターネット(中でもソーシャルメディア)の負の側面の悪影響が一番大きな原因の一つといえそうに思えてきた。この点、最近出版された、慶応大学の田中辰雄准教授と国際大学GLOCOMの山口真一助教の共著『ネット炎上の研究』*3がその辺りの事情に切り込んで分析していて大変参考になる。本書のタイトルは『ネット炎上の研究』だが、本書は狭義の『ネット炎上』以上のことを語っているように読めた。


本書の最も重要な指摘は、現代では、非常に少数の情報発信者の力が不釣り合いに大きく、しかもその力を押さえこめる方法がないこと、そして、その影響力はネットの中で閉じずに、リアル社会にまで非常に深刻な影響を与えている、ということだろう。炎上やバッシングがタレント生命を断ち、CMを中止に追い込み、店を閉店に追い込み、多様でバランスのとれた発信者の発信をやめさせ、偏った過激な意見ばかりが横行する。


本書によれば、ネットの炎上の参加者は、わずかネット利用者の0.5%なのだという。それなのに、その影響力は大きすぎてしかも止めることができない。



炎上で問題にすべきなのは、現状のSNSでは、誰もが最強の情報発信力を持っていることである。すなわち、誰もが相手に強制的に直接対話を強いることができ、それを止めさせる方法がない。ブログにコメントを書き込めば、ブログ主とそのブログを見ている人は全員そのコメントを見ることになる。そして、コメント者はいつまでもこれを続けることができ、止めさせる方法がない。アクセス禁止にしても他のIDを取り直せるし、炎上時にはあとからあとから新手の人が現れる。有無を言わさず相手に直接対話を強いて、その直接対話をいつまでも続けることができること、これはネット上では当たり前のように思えるが、一般的な情報発信のあり方としてはきわめて異例である。一個人の情報発信力が不釣り合いに大きいからである。

『ネット炎上の研究』より


インターネットには固有で本質的な弱点が潜在していて、利用者が増えるに従って今その弱点が露呈してきている、という本書の指摘は正鵠を得ているように私には思える。すなわち、そもそも学術ネットワークとしてスタートした当初のインターネットは、参加者もいわば騎士道精神あふれる騎士ばかりで、最強の発信力を濫用したり、暴虐に手を染めるようなこともなかったのが、今ではインターネット社会インフラとなり、牧歌的風景は去り、少数だが、特異な人もいる世界全体への適用に堪えなかったというわけだ。そして、いつどこで撃たれるかわからない殺伐とした荒野が広がったのだという。


だからといってインターネット利用を禁止してしまえばよいかと言えば、それは違う。この点、本書の指摘には全面的に賛同する。


インターネット全体の情報発信の仕組み自体は変えられないし、変えるべきでもない。一個人がマスメディアの力に頼らずに世界に情報発信できることはインターネットの最大の利点である。これは人類史上初の快挙であり、社会が情報社会に進もうとするなら守るべき必須条件であって、これを1ミリたりとも侵すべきではないだろう。

『ネット炎上の研究』より



 炎上対策案


それを前提として、本書では炎上の規制対応案として、次の5つをあげている。

(1) 名誉毀損罪の非親告罪化

(2) 制限的本人確認制度の導入

(3) 誹謗中傷(炎上)に関するインターネットリタラシー教育の充実

(4) 捜査機関における炎上への理解向上

(5) 炎上対処方法の周知

これに加えて、現状では『普通の人』が参加しにくい討議の場としてのSNSにつき、受信と発信が分離された『サロン型SNSの構想を提案している。


だが、このうち、(1) はやがて法による表現の弾圧や別件逮捕の材料に使われるような負の影響が大きいと考えられること、(2) は違憲憲法違反)の可能性に加え、そもそも効果が薄い(先んじて導入した韓国では効果がないとの判断でこの策を廃棄してしまった)ため、(3)(4)(5) に積極的に取り込むべき、とする。だが、(3)(4)(5) はいずれも直接的な対策ではなく、間接的な対応策であり、即効性は期待できない。現段階では即効性のある対策が見つかっていないということになる。



 日本だけの問題ではない


ちなみに、インターネットの負の側面がの影響が上記のような問題を引き起こしているのなら、これは日本だけではなく、全世界的な問題ということにはならないのか。だが、これまで米国インターネットは実名制中心で、日本と違って、活発に有益な議論が行われていて、日本で起きているような問題はあまり起きていないと少なくとも私はそう思っていた。インターネットの政治利用についても、オバマ大統領選挙戦インターネットが使われて華々しい成果を上げたとされる米国のことを眩しく感じていた。


ところが、どうも米国でも日本と同じようなことが起きていることを思わせる報告もある。米国在住の渡辺由佳里さんの『やじうま観戦記!』*4によれば、米国大統領選における指名候補争いにおいて、ソーシャルメディアの負の部分を武器として最もよく理解し、巧みに使いこなしているのが、共和党のトランプと民主党サンダースというのだ。そして、それぞれの支持者のいがみ合いが、ネットを離れ、さまざまなリアルにまで飛び火しているという。3月11日に行われたトランプのラリーでは、会場でトランプ支持者とサンダース支持者が衝突し、警官が出動して怪我人や逮捕者が出るほどの騒ぎになった。しかもこの騒ぎはさらにエスカレートして、カリフォルニアでは暴動に発展した。


また、民主党ヒラリーを指示を明らかにした上院議員スピーチに対して、サンダース支持者の若者が『whore(売女)』とか『bitch(メス犬)』といった汚い言葉でヤジやブーイングを飛ばしてスピーチを妨害し、たしなめられると、『憲法修正第一条で保証された表現の自由を知らないのか? 僕には発言の自由がある!』と怒鳴り返す、という一幕があったというが、何やら、日本のヘイトスピーチを思わせるものがないだろうか。


いわゆる炎上事件も起きているようだ。トランプは対立候補に、#LyingTed、#LittleMarco、#LowEnergyといったハッシュタグをつけてツイッターで馬鹿にする。すると、何千、何万ものトランプのフォロワーがよってたかってその候補を嘲笑う。また、サンダースに批判的なコラムを書いたノーベル経済学賞者であるポール・クルーグマンツイッターには『クルーグマンは安楽な民主党のエスタブリッシュメントの味方』、『ヒラリーから閣僚の地位を約束されたんだろ?』、『アカウントを閉じろ』といったリプライが押し寄せ、フェイスブックは『ちびの情けない男』、『知性のかけらもない』といったコメントで埋まって、現在は閉じているという。こうしてみると日米にさほどの違いはないように思えてくる。


ソーシャルメディアを大統領選でスマートで、クレバーに使って話題になったのは、民主党の現オバマ大統領だが、これがソーシャルメディアの光の部分を象徴していたとすれば、今回の大統領選は、ソーシャルメディアの闇の部分を使いこなすトランプとサンダースが大健闘しているというのも、時代の変移を象徴している出来事とも言えそうだ。



インターネット普及途上における文明病


米国での現象は、私自身がまだ咀嚼も分析もできていないので、今回はこれ以上語らないでおくが、やはり日本固有の問題というより、インターネット普及途上における文明病とでもいうべき現象が起きているという視点が必要なように思える。しかも、まだ、効果的な対処法が見つかっていない。時代が大きく変わろうとしている時には避けられない、いわば産みの苦しみなのか、対処に手をこまねいている間に、次々に連鎖的に問題が飛び火して手がつけれなくなってしまうのか、いずれにしても時代は岐路にあることは間違いなさそうだ。

2016-04-28 『慰霊』がわかると日本の真の問題が見えてくる このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント


 ゲンロン2


思想家の東浩紀氏の主催する、ゲンロンカフェから、著書『ゲンロン2 慰霊の空間』*1が送られてきてから、大分時間が経過してしまったが、少しだが、感じたことを書いておこうと思う。東氏の時代認識のアンテナには、いつも本当に驚かされる。いつもその場で理解できるとは限らないが、それでも後ではっとさせられたことは一度や二度ではない。少なくとも、自分の内にある概念装置を見直す縁として、非常に有益であることを何度も感じてきた。だから、『ゲンロン』のような著書はできるだけ早く入手して、とりあえず一通りさっと読んでおくのを、ここ数年の習慣にしてきた。


ただし、さっと読んだくらいで書評を書けるかというと、そうはいかない。内容が濃すぎて、とてもではないけれども、記事全てをその対象に収めることは難しい。結局のところ、自分が最も印象に残った部分につき、勝手に感じたままを書くくらいのことしかできないことをあらかじめお断りしておかざるをえない。(いつも言い訳しているような気もするが・・)



 メインテーマは『慰霊』


『ゲンロン2』のメインテーマはについては、すでに、東氏が事前のメルマガで述べていた通り『慰霊』だ。特集記事のタイトルは『慰霊の空間』とある。


フランス現代思想を語り、オタクの分析で一世を風靡した思想家としてしか、東氏を知らない面々は当惑を超えて唖然としてしまうかもしれない。(そして、それは、若者の性を語り、ブルセラ社会学者とまで言われた宮台真司氏が気がつくと、天皇を語るようになっていることと似て見えるかもしれない。)


だが、近年東氏の活動をずっとフォローしてきた私は、この帰結にはさほど違和感を感じない。特に、東氏が、2011年の福島第一原発の事故の後、『福島第一原発観光地化計画』という日本史上比類のない計画をぶち上げ、多くの賛同者を得てその斬新さと思想性を絶賛されながらも、肝心な地元や地元の利害を代表する言論人等から手ひどい反発をくらい、この国、そして日本人の伝統的な習俗や思想の特殊性の壁の存在に気づき、そのことでかえって日本および日本人に対する思索を深めてきた東氏であれば、『慰霊』というテーマにたどり着いたことは自然な成り行きにさえ思える。しかも、単にたどり着いただけではなく、日本で長く蓄積されてきた民俗学や宗教学等の知恵を掘り起こし、新しい命を吹き込んでいる。


実現されれば歴史に残るであろう、この非常に画期的な計画(観光地化計画)が実現することを私も内心楽しみにしていたが、どうやらこの国では実現が困難であることがわかってきた。資金や採算性等の問題以前に、拒否感、反感等のマイナス感情を引き起こして、反対者に囲まれて身動きが取れなくなってしまっているようだ。だが、この困難さが真に解明できる緒をつかむことができるなら、それは目に見えるモニュメントではないかもしれないが、それに劣らないくらいの金字塔と讃えられる実績となるに違いない。これは、『観光地化計画』に対する批判に正面から対峙して、小競り合いに巻き込まれるよりよほど健全な方向に思える。


『観光地化計画』をめぐる日本独特の難しさというと、利権や既得権益とそれに結びついた地元の構造の問題がすぐに思い浮かぶところだが、地元の選挙等の正当な手続きを経ている限り、非難の矛先を向けたところで不毛な結果となるだけだ。地元にとっては何よりまず早期の復興と今後どう暮らしていくかが最重要課題で、かつ最優先と言われてしまえば、今の日本では誰も反対はできない。そしてその空気はよそ者を阻む高い壁になってしまう。



 慰霊に対する日本人の心性


だから、これは、単なる利権というような表層の原因以上に、もう一段深い日本人の心の深層に潜む性向にその真の理由を探る必要がありそうだ。東氏はまず民俗学者柳田國男の言説を参照して、日本人は、そもそも死者の名を忘れる文化のなかに生きていると述べる。昔の日本人の先祖に対する考え方は、子や財産の有無に基づいた差別待遇はせずに、人は亡くなってからある年限を過ぎると、それから後はご先祖様、またはみたま様という一つの尊い霊体に、融け込んでしまうものとしていたようだ、という。だから、仏式葬儀の戒名のような『祖先の個性』ともいうべきものを、いつまでも持続して行くような近年の習俗は、『祖霊の融合単一化という思想とは、両立し難いもの』と柳田は『先祖の話』*2で記しているという。


この話は、宗教学者の中沢新一氏へのインタビュー記事、『種の慰霊と森の論理』にも出てくるが、中沢氏は、これが日本人の心の深層にあるとすれば、ヨーロッパで見られるような記号である記念碑を建ててコミュニティの記憶にとどめるようなことでは、日本人の無意識を満足させ納得させることはできないと語る。これは、まさに日本人が福島第一原発の事故跡に、『観光地化計画』のようなモニュメントを受け入れない深層心理についての説明になっている。この点につき、東氏は、中沢氏に、『たとえば福島の原発事故跡地などは、とくになにも保存せず記念碑なども建てず、ただなんとなく森にしていくことこそが日本人の気質に合っているし、またこの国の記憶のしかたなのだという気持ちになってきます』と問い、中沢氏は『森に戻すのがいちばんいいやり方です。』と述べ、『殺風景な場所を100年かけて見事な森にしてしまうようなほうが、資本主義的な時間から解放された、庶民のためのサンクチュアリ(聖域)になるのであり、そういうサンクチュアリを増やすほうが、追悼施設や慰霊碑を建設するより、はるかに列島文化本来の慰霊に近い』と述べる。


この『祖霊の融合単一化』というのは、私は知らなかったのだが、そうだとすると、以前からの疑問の一つが解消するように思える。韓国の先祖供養は、最近でも3代くらい、以前は7代とも10代とも言われるほど遡って、しかも具体的な個人名をあげて、年4回も行われるという。それに比べ、日本人は祖父母より遡ると、ほとんど先祖の名前を知らないのが普通だから、韓国人の先祖供養のほうが厚く、日本人は不信心だという説明をどこかで聞いたことがある。多少の違和感がありながらも納得してしまっていたが、どうやら、日本では『祖霊の融合単一化』の結果、個別の名前を覚える機会が少なく、だからといって先祖崇拝の気持ちが必ずしも劣っているとは限らないというのが真相のようだ。


また靖国をめぐる韓国中国との避難の応酬についても、その理由の一端はここにありそうだ。すなわち、靖国の祭祀は日本古来の死生観や習俗から切り離されていることを、韓国人や中国人もさることながら、日本人でさえ理解し、意識している人は少ないと思われる。日本人の側も自らの自画像をもう少し明確にしておかないと不毛な論争から抜け出るができなくなってしまう。


東氏はこのように述べている。

ぼくたちは、死者から名を奪い、死の固有性を忘れ、匿名の集合霊に変えることでのみフルい立ち未来に向かうことができるという、じつに厄介な伝統を抱えている。だとすれば、その伝統のさきに何があるのか。靖国批判を超えた慰霊の哲学は、そこから始まるのではないかと感じている。



 死も慰霊も遠ざけてきた日本人


東氏はまた、次のようなことを述べている。本来日本は自然災害が非常に多く、自然災害による死者も古来非常に多かったし、加えて、相次ぐ戦乱による死者も非常に多かった。だから日本人は日常的に死/死者に囲まれ、自らの生も常に死と隣り合わせだった。相応に慰霊の機会も多かったと考えられる。


ところが、第二次大戦後の数十年は非常に平和で、災害も局地的にはあったとはいえ、過去と比較すると少なかった。日本の歴史の中では、例外的に幸福な一時期だった。その結果、日本人は死を生から遠ざけ、慰霊もその本義を忘れ、全てを生の側からしか見ることができなくなり、その結果、生は本来の艶やかさを失い、国内の問題も、海外との関係もうまく処理することができなくなってしまっている。


昨今の先進国では、たいていどこでも、死を忌避し、隠し、目を背ける傾向があるが、日本の場合もその例に漏れるどころか、先頭を走っているといっても過言ではない。だが、日本人の場合、表層意識のすぐ下の層に、どの国にも劣らない霊的感性のようなものが潜伏していて、ふとした機会にそれが流出してくる。ただし、感情が揺さぶられるだけで言語化されないままに放置されるから、問題解決も有効活用もできないでいる。



 日本を徹底的に解明することが大事


今回扱われている、日本人古来の死生観に限らず、その他の思想、一般の習俗を含め、日本人自身が言語化し、自覚することにより得るものは皆が考えているよりずっと多いのではないか。私は予々そう考えてきたから、今回のような企画には、心踊る思いがする。東氏のような日本を代表する知性がこの問題に取り組むことの成果は計り知れないものがあり、今後の展開が本当に楽しみだ。


ただ、この手の議論を始めると、日本特殊論の方向に話が向かいがちで、それを嫌悪する人からの批判にさらされて往生することがある。だが、日本特殊論を受け入れるにせよ、反対するにせよ、一度は徹底的に解明する努力なくしては、日本人が未来に生を繋ぐことが困難になるばかりであることには、早く気づくべきだと私は思う。