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2016-05-29 プラットフォーム化が全領域におよぶ近未来とその問題点について このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント



 ブロックチェーン


先日(5月18日)、国際大学GLOCOM主催で、ブロックチェーンについてのイベントがあったので、日中の忙しい時期ではあったが出席してお話しを聞いてきた。

GLOCOMブロックチェーン経済研究ラボ 第3回セミナー「通貨としてのビットコインを考える」【公開コロキウム】 | 国際大学グローバル・コミュニケーション・センター


このイベントの内容については、後日、資料がアップされるとのお話しもあったため、詳細はそちらでご確認いただきたい。3人のお話しのほとんどは技術的な成り立ちや、技術的な発展可能性、あるいは現状の問題点等、技術に関わる内容だったこともあり、エンジニアではない私には、自分が理解するのにもかなりの困難が伴ったし、まして人に説明することはとても出来そうにない。


ただ、そんな私であってもどうしてもこのイベントに出席したかった理由は、ブロックチェーンの可能性やポテンシャルがとんでもなく大きいことを感じずにはいられないからだ。ビットコインに注目して自分で調べた際に、中核技術であるこのブロックチェーンのことを知って以来、できる限り自分でも情報を集めてみたし、近未来のビジネスシーンを想定する上で、ブロックチェーンがどのような役割を果たすのか、繰り返し思索もしてみた。そうして多少なりとも理解が進めば進むほど、単に役割を果たすという以上に、近未来全体を変革し、その根幹の意味さえ変えてしまいかねない存在であることがわかってくる。


実際、昨今ではメディアでも、インターネットに次ぐ革命的なテクノロジーとして取り上げられるようになった。著名なベンチャー・キャピタリストである、マーク・アンドリーセンは次のように述べている。

『1975年のパーソナル・コンピューター、1993年のインターネット、そして2014年のビットコイン

ビットコインの中核技術であるブロックチェーンは、『中央権力が不在でも、信憑性、信頼性のあるネットワーックを構築することができ、すべての仲介役を省くことができ、国家の力でも止めることができない』という驚くべき特性を持ち、あらゆる主体のネットワーク化を可能にすることができるというから、応用範囲は金融に限らず、巨大なポテンシャルを秘めた、まさに革命的なテクノロジーといえる。だから、ここではビットコインではなくブロックチェーンと言い換えるべきところだろう。


ただ、いかにポテンッシャルが大きくとも、現段階では、まだそのほんの一端が垣間見えたに過ぎない。それでも、私がこの技術にこだわってしまうのは、私に見えてきた近未来のビジネスシーンのイメージを、さらに大きく進化させるレバレッジ(梃子)の役割を果たすように思えてならないからだ。今回のエントリーでは、その私のイメージについて語り、さらに、多少先走り過ぎかもしれないが、その時点で起きてくるであろう問題を予想してみようと思う。



 デジタル化による競争条件の激変


デジタル化(デジタルデータ化)の進展は、特にインターネットの本格普及後、ビジネスシーンのあらゆる局面を変えずにはおかず、今この瞬間も、その影響は急速に全産業に及びつつある。そもそも、アナログデータがデジタルデータに置き換えられるということは、ムーアの法則に代表される次元の違うスピードが支配する世界に参入することを意味するわけだが、同時に、今日では『ネットワーク化』および『ソフトウエア化』の全面化が必然の環境に置かれることでもある。さらには、下記で述べるような要素の恩恵を受ける(利用することができる)資格を得ることになる。だが、それは恩恵ではあるが、デジタル化が成熟すればするほどむしろ競争条件となり、それらの恩恵をいかに生かすことができるか、一つの要素だけではなく、いかに複数の要素を組み合わせ、いわゆる組み合わせのイノベーションを創造できるかが勝敗を分ける要因となり、そこでも新たな勝者と敗者を生み出す。そして、そこでの勝利者は、タクシー配車ビジネスでブレークしたUber(ウーバー)にその典型例を見るように、まさに『破壊的』で、短期間に巨大な規模に膨れ上がることも珍しくない。


ビッグデータ利用

  → 人工知能によるデータマイニング


・外部経済利用

  → SNS

  → オープンソース

  → クラウドファンディング


モジュール利用

  → クラウドサーバーAWS等)

  → 決済(PayPal、Square等)

  → 動画(YouTube等)

  → 無料電話(LINESkype等)


・新たなデジタル技術利用

  → 3Dプリンター

  → AR/VR



 先行事例としてのIT・電気市場


この影響が一早く及んだ、IT電気市場では、Google、Amazon等が、デバイススマホ)』+『コンテンツ(ビッグデータ)を置くクラウド』+『ビッグデータ分析アルゴリズム』+『決済ストア/仕組』+『ソーシャル(SNS)』等のレイヤーを同時に持ち、その複合価値によって、市場全体を『メガ・プラットフォーマー』として支配するに至る。そこでは『ネットワーク化』および『ソフトウエア化』が徹底し、ソニーシャープのようなスタンドアロンの(ネットワークに繋がらない)完成品提供者は如何に製品の品質が高くとも、主役としての役割を果たすことはできず、ほどなく退場を迫られ、良くても部品の提供者の地位を余儀なくされる。一方で、プラットフォームに最適のモジュールが多数提供され、上記のような『デジタルデータ化の恩恵』を最大限に生かしたプレーヤー(Uber、宿泊施設・民宿を貸し出す人向けのウェブサービスであるAirbnb(エア・ビー・アンド・ビー)等)は、爆発的にビジネスを拡大し、『メガ・プラットフォーマー』の支配する市場内で、個別の領域におけるプラットフォーマー、いわば『カテゴリー・プラットフォーマー』として市場で独自の地位を築くことになる。


プラットフォーマーは多層のレイヤーを束ねてできているが、その出口であるインターフェースを象徴する製品はスマートフォンスマホ)であり、表面的には、スマホが様々な既存の製品やサービスを飲み込み、駆逐してきたように見える(フィーチャーフォン、固定電話、電卓、携帯音楽プレーヤー、ゲーム専用機、カーナビゲーション、新聞、雑誌、テレビ等)。 当初は、単なるモバイル携帯電話だったのが、いつの間にか、その背後をプラットフォーマーとして、Googleアップルのような米国IT巨大企業が支配するようになる。これを携帯電話(→スマホ)の進化の足跡と今後という観点でまとめなおすと、スタンドアローンの製品→ ネット接続 → プラットフォーム化(支配)→ あらゆる物との接続/市場の生態系化→ 超巨大な情報の流通/還流と蓄積 → 人工知能による情報の分析とフィードバック → 新たなサービス提供/進化の促進と、さらなる次元上昇を遂げつつあることがわかる。かつては日本企業の独壇場だった、スタンドアローンの製品だけが支配した市場はもはや跡形もない。



 ビジネスの全領域に及ぶ『スマホ・ビジネスモデル』


だが、これはIT電気市場にとどまらないことは、もう誰の目にも明らかだろう。ここで起きた、いわば『スマホ・ビジネスモデル』とでもいうモデルは、今、自動車に波及しようとしている(いわゆる自動車のスマホ化)わけだが、今後、モバイル → 自動車 → 住宅 → 人/生体情報(生理的な情報、遺伝子情報、感情、思考) → 都市と連続的に拡張していくことにはほとんど疑う余地がない。並行して、この背後では、生産設備 → 工場全体 → 部品提供者全体というように、同様の再編成が進行することになる。


あらゆる市場/業界にプラットフォーム化が浸透すれば、次に当然考えられるのは、それぞれのプラットフォームを束ねる『統一フォーマット化/プラットフォーム化』だ。そして全体としての効率化や複合的な付加価値の創造が起きてくる。もちろんこれは人間には(情報が膨大すぎて)手にあまるから、この膨大な情報相互の関係分析からの新たな価値の発見、新たなサービスの創造は主として人工知能が受け持つことになるだろう。


そして、ここまでのプラットフォーム化の流れに乗りにくく、取り残された領域も、今後、ブロックチェーンによって、次々に(そして徹底的に)プラットフォーム化が進むことになる。

(金融サービス(決済、送金、会計、税務、融資等)、物流、ITインフラクラウド、電力、不動産(都市、建物、公共施設等)、医療、教育等)



 問題点と分析ツール


ブロックチェーンによって、全領域の統一プラットフォーム化は完結へと向かうことになる。すでに、インターネットの普及の過程で、同様の未来予想図が語られて来たわけだが、ブロックチェーンがいわゆる『ラスト・1マイル』を繋ぐことになる。そのような文脈で見ると、ブロックチェーンの真のインパクト/脅威の意味がわかってくるはずだ。しかも、日本企業がメガ・プラットフォーマーとなる可能性はかなり低い。主役は米国IT企業になるだろう。また、ここまで徹底したプラットフォーム化が進展すると、国家単位の規制も及びにくくなる可能性が高い(あるいは逆にプラットフォーマーを国家が支配できれば超巨大な権力を持つことになる)。このような環境で、日本企業はどう生きて行くのか。一介のビジネスマンの立場ではどう備えればいいのか。行政の役割は何か。それを考えるにあたって、どうやって問題点を浮かび上がらせればいいのか。


その問いにうまく答えることは極めて難しいが、一つの試案として、すっかり定番となった、法学者のローレンス・レッシグの有名な『社会における4つの規制力』の概念を借りてみることにする。その上で思いつく問題をいくつか列記してみようと思う。


レッシグによれば、社会において人のふるまいに影響を及ぼすものには、1. 法(Law)、2. 社会規範(Norms)、3. 市場(Market)、4. アーキテクチャー(Architecture)という4種類の規制力があるとする。そしてサイバー空間においては、とくに4番目の『アーキテクチャー』が重要な規制手段だとする。レッシグの理論は広く受け入れられ、2000年以降、インターネットの進化もあって問題がどんどん身近になり、実態と乖離した法律の問題、大きすぎる規制力としてのアーキテクチャーの問題等、議論は花盛りとなった。


インターネットに次ぐ、革命的なテクノロジーであるブロックチェーンが出現して、ビジネスシーンの全域がデジタル化し、プラットフォーム化/新たな生態系化することが確実と考えられる今後の社会にどのような問題が起きてくるか、逆にその問題にどのような手段を持って対処するのが良いのか。今後は、ネットとリアルが益々統合して一体化すると考えられるから、レッシグの議論をベースに、あらためて今後の問題を考えて見ることは、最も適当な出発点といっていいのではないか。


下記に、4規制力の典型事例を二つまとめてみた(NHKのフリーライダー視聴規制、公共空間における携帯電話利用事)。いずれも、4つの規制力がバランスしている状態が、社会が健全であることをご理解いただけると思う。4つのうち、どれに偏っても、社会のバランスは崩れ、なんらかの問題が起きるとされる。


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 アーキテクチャー過剰時代のメリットと問題点


だが、ここまでご説明してきたとおり、社会は遠からず(すぐに)次の図のように、慢性的な『アーキテクチャ』過剰時代を迎えることになる。レッシグの古典的著作『Code』でこの4つの規制力の概念が開示されて以降、『アーキテクチャ』過剰社会の問題点もすでに様々に語られてきた。この議論の成果も借りながら考えてみた。


その前に断っておくが、プラットフォーム化が全面化した社会には、様々なメリットがあるし、そうであればこそ、急速に浸透するとの予測にも蓋然性があるとも言える。ざっと次のようなメリットが思いつく。


<メリット>

経済性向上

・効率性向上

・国際性向上

・悪しき政府規制/業界慣行等の回避

・透明性向上

・市場原則の徹底

・新たなビジネスチャンスの拡大

 (シェアビジネス等)


製品やサービスを提供されるユーザーの立場から言えば、安価で機能が圧倒的に良くなることは歓迎だ。しかも、競争環境としては透明で市場原則が徹底されると考えられるし、国境を越えた取引はずっと簡便になるから、新規参入はしやすくなる。意欲ある起業家/ビジネスマンにとっては歓迎すべき環境と言えるだろう。実際、現在の新興国だけではなく、世界中から意欲ある参加者が殺到して、活気づくことになるだろう。だからこそ、この方向は今後、水が高い所から低い所に流れるように、進展していく可能性が高い。


だが、一方で、問題点も数多く予想される。長期的には時間が解決する問題もあるにせよ、少なくとも当面は、日本社会は大変混乱した状況となり、対処を誤るとせっかくのメリットが享受できないばかりか、長期的にも正常進化とは程遠い方向に向かってしまうことも考えられる


<問題点>


民主主義的正当性の喪失

 → アーキテクチャーの社会に及ぼす影響は多くの場合民主主義的な

   正当性の裏付けを欠く。


・一部企業の支配の行き過ぎ

 → すでに起き始めている問題だが、さらに加速する。


政府介入/管理のしにくさ

 → ビットコインの例に見られる通り、国家の支配がどんどん

   及ばなくなっていく


・国家が超巨大な権力を持つ恐れ

 → 仮に国家がプラットフォーマーを支配出来れば、制限のない

   権力を振るう懸念もある。


・社会システムの急激すぎる変質

 → 変化はやむを得ないとしても、そのスピードが速すぎて、

   社会の側が受け入れ不能になる恐れがある。


・商慣行/暗黙知等の一掃

 → 特に日本の場合は(もちろん日本に限らないが)これが肌感覚として

   受け入れがたいように思える。


・企業内コミュニティの破壊

 → すでにかなり壊れているとはいえ、業界によっては、

   まだ濃厚に温存されている。

   さらなる破壊に社会は耐えられるだろうか。


・交換の多義性の衰退(贈与等)

 → 簡単に語ることは難しいが、市場が機械的な意味で

   完全にシステマティックに整備されればされるほど、

   今後浮き彫りになってくるのではないか。


・技術決定論の暴走と反撃

 → シンギュラリティの議論等を見ていると、すでに、

   技術決定論が暴走気味と言わざるをえないが、

   社会の側の強い反発も予想しておく必要がある。


多数のIT巨大企業の御本尊がある米国で、負組とされるプアー・ホワイトの怨念や感情が非合理の塊のようなトランプを米国大統領の地位に押し上げようとしている例に見るまでもなく、合理性が過度に社会をろう断するとその反発も非常に大きくなることは忘れるべきではない。


立場が違えば、問題点の見え方も、対処の仕方も当然異なってくるだろうし、メリットも問題点も、もっとたくさんあるとおっしゃる方もいらっしゃるだろう。今回はこれ以上書く余力が残っていないため、ここまでとするが、今回のまとめを出発点として、各々の問題点をもう少し分析して、どのように対処するのが良いか、どうすべきなのか、まとめていこうと思う。ただ、いずれにしても、どの立場にいようと、皆の予想よりずっと早くこの状況が起きてくることは覚悟しておいたほうがいい。そして、少しでも早く、準備を始めておくことをおすすめしたい。

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2016-05-15 ソーシャルメディアの闇が世界を滅ぼす? このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント



 蔓延する不寛容と過剰反応


ジャーナリスト神保哲生氏と社会学者の宮台真司氏による有料放送、『ビデオニュース・ドットコム』の4月30日に配信された番組は『誰が何に対してそんなに怒っているのだろう』*1というタイトルで、昭和大学医学部教授で精神科医岩波明氏をゲストに迎えて、今の日本社会に蔓延する不寛容について様々な観点から議論が行われて大変面白かった。



番組で例として取り上げられていたのは、年初から大騒ぎになった、ベッキーの不倫に対する集中豪雨的に浴びせかけられた過剰とも思える批判(活動中止にまで追い込まれてしまった)、最近の熊本地震と関連した、女優の井上晴美ブログや、タレントの紗栄子が義援金を送ったことの報告に対するバッシング、元モーニング娘。矢口真里の不倫騒動をネタにしたテレビCM内容に対して視聴者が不快感を示す声があがって放送中止になったことなど、ある程度ニュースを継続的にウオッチしている人なら誰でも知っているであろう件ばかりではある。


多少はバッシングを受けるのもやむをえないと思える案件も少なくないとはいえ、やはり過剰気味であることは確かだ。しかも、井上晴美や紗栄子に対するバッシングなど、昨今、理解に苦しむ、あるいは違和感を感じてしまう案件もすごく多い。だが、類似の事例はまだいくらでもある。あり過ぎるくらいだ。事例という点では、この番組でも紹介していた本、心理学博士の榎本博明氏の『「過剰反応」社会の悪夢  』*2が参考になる。ここに出てくる案件も、違和感を感じる事例のオンパレードだ。


例えば、本書の冒頭に出てくる事例だが、皆さんはどう感じるだろうか。

・ジャポニカ学習帳の象徴として30年以上の続いた表紙の昆虫写真に対して

 『気持ち悪い』というクレームが来て廃止に追い込まれた

・東京ガスの家族の温もりを伝えるテレビCMに、

 『就活がうまくいかないのに傷ついた』というクレームが殺到して

 CMが中止に追い込まれた

・全国各地で子供の声がうるさいといった保育園へのクレームが

 相次いでいて園児が外に出て遊ぶことを制限している保育園がある

高校野球で、野球部の裏方で頑張る女子マネージャーに

 批判が集中した

こうして並べてみると、今の日本はただならぬ状態にあるのではないかと思えてくる。


日本って、こんなに生きづらい国だっただろうか。私が知っていた日本の良さはすでに霧散してしまったのだろうか。確かに昔から、時に相互に監視しあう息苦しさが充満して窮屈なのが日本社会ではあるが、それでも、ガスが抜ける穴もいっぱいあいていたし、『村のルール』から極端に逸脱しなければ、比較的寛容で、少々いい加減なところがあるのが日本の良さでもあったはずだ。一体何が起きているのだろう。だが、よく考えてみると、自分の身の回りにもすでに同種の事例を沢山見つけていたことを今更ながらに思い出した。



 法律分野にも蔓延する過剰反応


例えば、私は仕事がら法律問題について関心を持たざるをえない立場にあるのだが、この領域も最近では『過剰反応』の事例に事欠かない場所になってしまっている。例えば、『個人情報保護法』はその成立当初から、過剰反応が相次ぎ、今では学校や職場での緊急連絡先一覧はつくれなくなってしまったし、病院で名前を呼んだりするとそれだけで激しく糾弾されたり、馬鹿馬鹿しいとしか言いようがないような事例がたくさん報告されてきた。法律に名を借りた問題なのに、もはや法律で規制されている範囲など誰も気にしていていないようにさえ見える。この点だけでも、日本社会をものすごく閉塞させてしまったと私はずっと思っていたのだった。法律に詳しい人ほど、その過剰な解釈や反応には愚かしさを感じて辟易していると思うのだが、そんなことを口にしようものなら、それこそ強いバッシングを受けてしまう。法律家はもはや法律を理解しているだけではつとまらず、日本人の集団心理を理解しないことには有益なアドバイスなどできない様相になっている。



 荒れるコメントで溢れるブログ


また、こうして書いている私のブログだが、ブログにいただくコメント(twitter経由のものも含む)、特にBlogos経由のコメントは時に大変辛辣だ。たいしたことを書いているわけでもないので、批判をいただくことはやむないと、もともと諦めてはいるが、内容とはまったく関係がなかったり、関係があっても趣旨を取り違えているとしか考えられなかったりという例があまりに多い。しかも、言い方が驚くほど上から目線で、乱暴なコメントがすごく多い。コメントにはいちいち反応して、読んでいただいた方とのコミュニケーションをはかっていきたいと以前は考えていたものだが、何か反応すると、ここぞとばかりに、さらに方向が滅茶苦茶になってしまうことが相次ぎ(先輩ブロガーからアドバイスいただいたこともあり)最近は何を書かれても、あえて反応しないようにしている(せざるをえない)。このブログの荒れるコメントについては、ブロガー仲間には同じ思いをしている人が驚くほど多い。皆、悩みながら書き続けているのだ。

いつの間にか、今の日本では、日常生活のあらゆる場面で過剰反応が猛威を振るっていて、企業も個人もそれぞれの立場で苦慮している。実際、市場からの撤退を余儀なくされる企業が出たり、炎上や過剰な批判を嫌気して、人が意見を表明しなくなったりしてしまうようなことはそれこそ日常茶飯事になっている。このような事態を放っておくと、遠からず社会が荒廃して立ち直れなくなってしまいかねない



 過剰なサービスが原因?


日本の過剰なサービスが原因の一つという見方もある。日本のサービスは、全般に、そのクオリティの高さを世界に誇れるものだ。特に昨今、中国からの観光客が大量に日本を訪れるようになり、日本の様々なサービスに触れるようになると、それを絶賛するコメントを多数目にするようになり、日本のホスピタリティーの優越性を再認識している日本人も少なくない。ところが、サービス提供者の徹底した腰の低さをいいことに、過大なサービス/行き過ぎたおもてなしを要求して、受け入れられないと、ネットで過激な誹謗中傷を発信して、サービス提供者を撤退に追い込むようなケースがすごく増えているようなのだ。


一昔前の日本人の(サービスを受ける側の)『客』は、過剰なサービスに対して、過剰なくらいの慎み深さで反応し、サービス提供者の揚げ足取りをするようなことはあまりなかった。その双方の腰の低さは、日本社会のモラルの高さ、居心地の良さ、社会の安定感を醸成していたはずだ。ところが、サービス提供者と客の相互補完で成立していたはずの関係も、客の側が一方的に図に乗って放漫になれば、成り立たなくなってしまう。お客様は神様とばかりにおだてられ続けたため、いつの間にか過剰な権利意識を持つようになったのが原因ではないかというわけだ。確かにそういう側面もあるだろう。だが、それだけで全てを説明するのは少々無理があるように思える。



 第一原因はインターネット(ソーシャルメディア)?


それ以外にも、経済低迷による余裕のなさ、訴訟社会の米国を真似た『法化社会化』の進展などいくつも原因の候補はありそうだ。ただ、突き詰めると、どれも原因なのか結果なのか、曖昧になってくる。第一原因は何なのか。挙がった候補について仔細に検討してみると、どうやらインターネット(中でもソーシャルメディア)の負の側面の悪影響が一番大きな原因の一つといえそうに思えてきた。この点、最近出版された、慶応大学の田中辰雄准教授と国際大学GLOCOMの山口真一助教の共著『ネット炎上の研究』*3がその辺りの事情に切り込んで分析していて大変参考になる。本書のタイトルは『ネット炎上の研究』だが、本書は狭義の『ネット炎上』以上のことを語っているように読めた。


本書の最も重要な指摘は、現代では、非常に少数の情報発信者の力が不釣り合いに大きく、しかもその力を押さえこめる方法がないこと、そして、その影響力はネットの中で閉じずに、リアル社会にまで非常に深刻な影響を与えている、ということだろう。炎上やバッシングがタレント生命を断ち、CMを中止に追い込み、店を閉店に追い込み、多様でバランスのとれた発信者の発信をやめさせ、偏った過激な意見ばかりが横行する。


本書によれば、ネットの炎上の参加者は、わずかネット利用者の0.5%なのだという。それなのに、その影響力は大きすぎてしかも止めることができない。



炎上で問題にすべきなのは、現状のSNSでは、誰もが最強の情報発信力を持っていることである。すなわち、誰もが相手に強制的に直接対話を強いることができ、それを止めさせる方法がない。ブログにコメントを書き込めば、ブログ主とそのブログを見ている人は全員そのコメントを見ることになる。そして、コメント者はいつまでもこれを続けることができ、止めさせる方法がない。アクセス禁止にしても他のIDを取り直せるし、炎上時にはあとからあとから新手の人が現れる。有無を言わさず相手に直接対話を強いて、その直接対話をいつまでも続けることができること、これはネット上では当たり前のように思えるが、一般的な情報発信のあり方としてはきわめて異例である。一個人の情報発信力が不釣り合いに大きいからである。

『ネット炎上の研究』より


インターネットには固有で本質的な弱点が潜在していて、利用者が増えるに従って今その弱点が露呈してきている、という本書の指摘は正鵠を得ているように私には思える。すなわち、そもそも学術ネットワークとしてスタートした当初のインターネットは、参加者もいわば騎士道精神あふれる騎士ばかりで、最強の発信力を濫用したり、暴虐に手を染めるようなこともなかったのが、今ではインターネット社会インフラとなり、牧歌的風景は去り、少数だが、特異な人もいる世界全体への適用に堪えなかったというわけだ。そして、いつどこで撃たれるかわからない殺伐とした荒野が広がったのだという。


だからといってインターネット利用を禁止してしまえばよいかと言えば、それは違う。この点、本書の指摘には全面的に賛同する。


インターネット全体の情報発信の仕組み自体は変えられないし、変えるべきでもない。一個人がマスメディアの力に頼らずに世界に情報発信できることはインターネットの最大の利点である。これは人類史上初の快挙であり、社会が情報社会に進もうとするなら守るべき必須条件であって、これを1ミリたりとも侵すべきではないだろう。

『ネット炎上の研究』より



 炎上対策案


それを前提として、本書では炎上の規制対応案として、次の5つをあげている。

(1) 名誉毀損罪の非親告罪化

(2) 制限的本人確認制度の導入

(3) 誹謗中傷(炎上)に関するインターネットリタラシー教育の充実

(4) 捜査機関における炎上への理解向上

(5) 炎上対処方法の周知

これに加えて、現状では『普通の人』が参加しにくい討議の場としてのSNSにつき、受信と発信が分離された『サロン型SNSの構想を提案している。


だが、このうち、(1) はやがて法による表現の弾圧や別件逮捕の材料に使われるような負の影響が大きいと考えられること、(2) は違憲憲法違反)の可能性に加え、そもそも効果が薄い(先んじて導入した韓国では効果がないとの判断でこの策を廃棄してしまった)ため、(3)(4)(5) に積極的に取り込むべき、とする。だが、(3)(4)(5) はいずれも直接的な対策ではなく、間接的な対応策であり、即効性は期待できない。現段階では即効性のある対策が見つかっていないということになる。



 日本だけの問題ではない


ちなみに、インターネットの負の側面がの影響が上記のような問題を引き起こしているのなら、これは日本だけではなく、全世界的な問題ということにはならないのか。だが、これまで米国インターネットは実名制中心で、日本と違って、活発に有益な議論が行われていて、日本で起きているような問題はあまり起きていないと少なくとも私はそう思っていた。インターネットの政治利用についても、オバマ大統領選挙戦インターネットが使われて華々しい成果を上げたとされる米国のことを眩しく感じていた。


ところが、どうも米国でも日本と同じようなことが起きていることを思わせる報告もある。米国在住の渡辺由佳里さんの『やじうま観戦記!』*4によれば、米国大統領選における指名候補争いにおいて、ソーシャルメディアの負の部分を武器として最もよく理解し、巧みに使いこなしているのが、共和党のトランプと民主党サンダースというのだ。そして、それぞれの支持者のいがみ合いが、ネットを離れ、さまざまなリアルにまで飛び火しているという。3月11日に行われたトランプのラリーでは、会場でトランプ支持者とサンダース支持者が衝突し、警官が出動して怪我人や逮捕者が出るほどの騒ぎになった。しかもこの騒ぎはさらにエスカレートして、カリフォルニアでは暴動に発展した。


また、民主党ヒラリーを指示を明らかにした上院議員スピーチに対して、サンダース支持者の若者が『whore(売女)』とか『bitch(メス犬)』といった汚い言葉でヤジやブーイングを飛ばしてスピーチを妨害し、たしなめられると、『憲法修正第一条で保証された表現の自由を知らないのか? 僕には発言の自由がある!』と怒鳴り返す、という一幕があったというが、何やら、日本のヘイトスピーチを思わせるものがないだろうか。


いわゆる炎上事件も起きているようだ。トランプは対立候補に、#LyingTed、#LittleMarco、#LowEnergyといったハッシュタグをつけてツイッターで馬鹿にする。すると、何千、何万ものトランプのフォロワーがよってたかってその候補を嘲笑う。また、サンダースに批判的なコラムを書いたノーベル経済学賞者であるポール・クルーグマンツイッターには『クルーグマンは安楽な民主党のエスタブリッシュメントの味方』、『ヒラリーから閣僚の地位を約束されたんだろ?』、『アカウントを閉じろ』といったリプライが押し寄せ、フェイスブックは『ちびの情けない男』、『知性のかけらもない』といったコメントで埋まって、現在は閉じているという。こうしてみると日米にさほどの違いはないように思えてくる。


ソーシャルメディアを大統領選でスマートで、クレバーに使って話題になったのは、民主党の現オバマ大統領だが、これがソーシャルメディアの光の部分を象徴していたとすれば、今回の大統領選は、ソーシャルメディアの闇の部分を使いこなすトランプとサンダースが大健闘しているというのも、時代の変移を象徴している出来事とも言えそうだ。



インターネット普及途上における文明病


米国での現象は、私自身がまだ咀嚼も分析もできていないので、今回はこれ以上語らないでおくが、やはり日本固有の問題というより、インターネット普及途上における文明病とでもいうべき現象が起きているという視点が必要なように思える。しかも、まだ、効果的な対処法が見つかっていない。時代が大きく変わろうとしている時には避けられない、いわば産みの苦しみなのか、対処に手をこまねいている間に、次々に連鎖的に問題が飛び火して手がつけれなくなってしまうのか、いずれにしても時代は岐路にあることは間違いなさそうだ。

2016-04-28 『慰霊』がわかると日本の真の問題が見えてくる このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント


 ゲンロン2


思想家の東浩紀氏の主催する、ゲンロンカフェから、著書『ゲンロン2 慰霊の空間』*1が送られてきてから、大分時間が経過してしまったが、少しだが、感じたことを書いておこうと思う。東氏の時代認識のアンテナには、いつも本当に驚かされる。いつもその場で理解できるとは限らないが、それでも後ではっとさせられたことは一度や二度ではない。少なくとも、自分の内にある概念装置を見直す縁として、非常に有益であることを何度も感じてきた。だから、『ゲンロン』のような著書はできるだけ早く入手して、とりあえず一通りさっと読んでおくのを、ここ数年の習慣にしてきた。


ただし、さっと読んだくらいで書評を書けるかというと、そうはいかない。内容が濃すぎて、とてもではないけれども、記事全てをその対象に収めることは難しい。結局のところ、自分が最も印象に残った部分につき、勝手に感じたままを書くくらいのことしかできないことをあらかじめお断りしておかざるをえない。(いつも言い訳しているような気もするが・・)



 メインテーマは『慰霊』


ゲンロン2』のメインテーマはについては、すでに、東氏が事前のメルマガで述べていた通り『慰霊』だ。特集記事のタイトルは『慰霊の空間』とある。


フランス現代思想を語り、オタクの分析で一世を風靡した思想家としてしか、東氏を知らない面々は当惑を超えて唖然としてしまうかもしれない。(そして、それは、若者の性を語り、ブルセラ社会学者とまで言われた宮台真司氏が気がつくと、天皇を語るようになっていることと似て見えるかもしれない。)


だが、近年東氏の活動をずっとフォローしてきた私は、この帰結にはさほど違和感を感じない。特に、東氏が、2011年の福島第一原発の事故の後、『福島第一原発観光地化計画』という日本史上比類のない計画をぶち上げ、多くの賛同者を得てその斬新さと思想性を絶賛されながらも、肝心な地元や地元の利害を代表する言論人等から手ひどい反発をくらい、この国、そして日本人の伝統的な習俗や思想の特殊性の壁の存在に気づき、そのことでかえって日本および日本人に対する思索を深めてきた東氏であれば、『慰霊』というテーマにたどり着いたことは自然な成り行きにさえ思える。しかも、単にたどり着いただけではなく、日本で長く蓄積されてきた民俗学や宗教学等の知恵を掘り起こし、新しい命を吹き込んでいる。


実現されれば歴史に残るであろう、この非常に画期的な計画(観光地化計画)が実現することを私も内心楽しみにしていたが、どうやらこの国では実現が困難であることがわかってきた。資金や採算性等の問題以前に、拒否感、反感等のマイナス感情を引き起こして、反対者に囲まれて身動きが取れなくなってしまっているようだ。だが、この困難さが真に解明できる緒をつかむことができるなら、それは目に見えるモニュメントではないかもしれないが、それに劣らないくらいの金字塔と讃えられる実績となるに違いない。これは、『観光地化計画』に対する批判に正面から対峙して、小競り合いに巻き込まれるよりよほど健全な方向に思える。


『観光地化計画』をめぐる日本独特の難しさというと、利権や既得権益とそれに結びついた地元の構造の問題がすぐに思い浮かぶところだが、地元の選挙等の正当な手続きを経ている限り、非難の矛先を向けたところで不毛な結果となるだけだ。地元にとっては何よりまず早期の復興と今後どう暮らしていくかが最重要課題で、かつ最優先と言われてしまえば、今の日本では誰も反対はできない。そしてその空気はよそ者を阻む高い壁になってしまう。



 慰霊に対する日本人の心性


だから、これは、単なる利権というような表層の原因以上に、もう一段深い日本人の心の深層に潜む性向にその真の理由を探る必要がありそうだ。東氏はまず民俗学者柳田國男の言説を参照して、日本人は、そもそも死者の名を忘れる文化のなかに生きていると述べる。昔の日本人の先祖に対する考え方は、子や財産の有無に基づいた差別待遇はせずに、人は亡くなってからある年限を過ぎると、それから後はご先祖様、またはみたま様という一つの尊い霊体に、融け込んでしまうものとしていたようだ、という。だから、仏式葬儀の戒名のような『祖先の個性』ともいうべきものを、いつまでも持続して行くような近年の習俗は、『祖霊の融合単一化という思想とは、両立し難いもの』と柳田は『先祖の話』*2で記しているという。


この話は、宗教学者の中沢新一氏へのインタビュー記事、『種の慰霊と森の論理』にも出てくるが、中沢氏は、これが日本人の心の深層にあるとすれば、ヨーロッパで見られるような記号である記念碑を建ててコミュニティの記憶にとどめるようなことでは、日本人の無意識を満足させ納得させることはできないと語る。これは、まさに日本人が福島第一原発の事故跡に、『観光地化計画』のようなモニュメントを受け入れない深層心理についての説明になっている。この点につき、東氏は、中沢氏に、『たとえば福島の原発事故跡地などは、とくになにも保存せず記念碑なども建てず、ただなんとなく森にしていくことこそが日本人の気質に合っているし、またこの国の記憶のしかたなのだという気持ちになってきます』と問い、中沢氏は『森に戻すのがいちばんいいやり方です。』と述べ、『殺風景な場所を100年かけて見事な森にしてしまうようなほうが、資本主義的な時間から解放された、庶民のためのサンクチュアリ(聖域)になるのであり、そういうサンクチュアリを増やすほうが、追悼施設や慰霊碑を建設するより、はるかに列島文化本来の慰霊に近い』と述べる。


この『祖霊の融合単一化』というのは、私は知らなかったのだが、そうだとすると、以前からの疑問の一つが解消するように思える。韓国の先祖供養は、最近でも3代くらい、以前は7代とも10代とも言われるほど遡って、しかも具体的な個人名をあげて、年4回も行われるという。それに比べ、日本人は祖父母より遡ると、ほとんど先祖の名前を知らないのが普通だから、韓国人の先祖供養のほうが厚く、日本人は不信心だという説明をどこかで聞いたことがある。多少の違和感がありながらも納得してしまっていたが、どうやら、日本では『祖霊の融合単一化』の結果、個別の名前を覚える機会が少なく、だからといって先祖崇拝の気持ちが必ずしも劣っているとは限らないというのが真相のようだ。


また靖国をめぐる韓国中国との避難の応酬についても、その理由の一端はここにありそうだ。すなわち、靖国の祭祀は日本古来の死生観や習俗から切り離されていることを、韓国人や中国人もさることながら、日本人でさえ理解し、意識している人は少ないと思われる。日本人の側も自らの自画像をもう少し明確にしておかないと不毛な論争から抜け出るができなくなってしまう。


東氏はこのように述べている。

ぼくたちは、死者から名を奪い、死の固有性を忘れ、匿名の集合霊に変えることでのみフルい立ち未来に向かうことができるという、じつに厄介な伝統を抱えている。だとすれば、その伝統のさきに何があるのか。靖国批判を超えた慰霊の哲学は、そこから始まるのではないかと感じている。



 死も慰霊も遠ざけてきた日本人


東氏はまた、次のようなことを述べている。本来日本は自然災害が非常に多く、自然災害による死者も古来非常に多かったし、加えて、相次ぐ戦乱による死者も非常に多かった。だから日本人は日常的に死/死者に囲まれ、自らの生も常に死と隣り合わせだった。相応に慰霊の機会も多かったと考えられる。


ところが、第二次大戦後の数十年は非常に平和で、災害も局地的にはあったとはいえ、過去と比較すると少なかった。日本の歴史の中では、例外的に幸福な一時期だった。その結果、日本人は死を生から遠ざけ、慰霊もその本義を忘れ、全てを生の側からしか見ることができなくなり、その結果、生は本来の艶やかさを失い、国内の問題も、海外との関係もうまく処理することができなくなってしまっている。


昨今の先進国では、たいていどこでも、死を忌避し、隠し、目を背ける傾向があるが、日本の場合もその例に漏れるどころか、先頭を走っているといっても過言ではない。だが、日本人の場合、表層意識のすぐ下の層に、どの国にも劣らない霊的感性のようなものが潜伏していて、ふとした機会にそれが流出してくる。ただし、感情が揺さぶられるだけで言語化されないままに放置されるから、問題解決も有効活用もできないでいる。



 日本を徹底的に解明することが大事


今回扱われている、日本人古来の死生観に限らず、その他の思想、一般の習俗を含め、日本人自身が言語化し、自覚することにより得るものは皆が考えているよりずっと多いのではないか。私は予々そう考えてきたから、今回のような企画には、心踊る思いがする。東氏のような日本を代表する知性がこの問題に取り組むことの成果は計り知れないものがあり、今後の展開が本当に楽しみだ。


ただ、この手の議論を始めると、日本特殊論の方向に話が向かいがちで、それを嫌悪する人からの批判にさらされて往生することがある。だが、日本特殊論を受け入れるにせよ、反対するにせよ、一度は徹底的に解明する努力なくしては、日本人が未来に生を繋ぐことが困難になるばかりであることには、早く気づくべきだと私は思う。

2016-04-17 今日本のリーダーに相応しい人物像とは このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント



最高のリーダーとは


しばらく、いわゆるビジネス書をあまり読まなくなっている自分に気づき、最近のもので評判がいい本を見繕って読んでみようと思い立った。その中でタイトルもキャッチーで、しかも、このところ少々気になっていた、リーダシップ論に関わる内容ということで、実業家・経済評論家キャスター等の華麗なキャリアを持つ、シンクタンクソフィアバンク代表である藤沢久美氏の『最高のリーダーは何もしない』*1を読んでみることにした。



人格神としてのリーダー


このタイトルを見て、まず思い浮かんだのは、『部下を信頼して100%任せて、場合によっては部下が具体的に何をやっているのかさえ知らず、それなのに、結果には全面的に責任を持つ』というタイプのリーダーだ。規模が小さなベンチャー企業では、とても務まるタイプではないが、大企業で組織がしっかりしており、ほおっておいても部下が仕事をしてくれるような環境では、意外によく見かけるタイプだったりする。このタイプの良質な人は、仕事の内容はよくわからないが、人間的に部下に慕われ(あるいは尊敬され)肝は据わっていて泰然としている。


代表格としては、名将として名高い、旧日本帝国軍の東郷平八郎元帥、大山巌元帥等がいる。いずれも日露戦争当時の海軍陸軍を率いて大勝した将軍(リーダー)だ。特に、東郷平八郎元帥はこのタイプの典型例と言え、司馬遼太郎の小説(坂の上の雲)等で高名になった、有能な参謀である秋山真之に作戦のすべてを任せてほとんど口を挟まず、それでいて日本海海戦が始まると、砲撃飛び交う甲板に仁王立ちして微動だにしなかったという逸話が残っている。


このタイプは、東洋的な悟りの境地に至った人格神というイメージで(日本以外ではまったく理解不能だろうが)、どこか日本人の郷愁を誘うタイプではある。しかしながら、その下では、無責任で横暴な(旧帝国陸軍参謀の辻政信のような)サブリーダーの跋扈を許し、失敗してしまうケースも少なくない。しかも日本にはこのエピゴーネンが結構いて、ただの無能を覆い隠す隠れ蓑になってしまっている例をよく見かける。今日のように、時代のパラダイムが大きく変化しようとしている中では、余程運よく優れた部下に恵まれないことには、成功はおぼつかないように思える。



魅力的なビジョンを作るリーダー


だが、藤沢氏の言う、『昨今成功しているリーダー』は、このタイプではないようだ。『何もしない』のではなく、『魅力的なビジョンを作って浸透させる』ことは大いにやるが、具体的な仕事は部下に任せ、表面的には『何もしていないようみ見える』ということのようだ。しかも、ここで言う成功しているリーダーは、仕事の細部は部下に任せると言っても、自分自身、現場に出たり、現場の部下の言に常に耳を傾けて、現状の把握/理解に努め、ビジョンがただの妄想にならないよう努力は惜しまない。本書で取り上げている実例を読んでみると、中には、現場の非常に細かいことにも口を出し、自分で動く、マイクロマネジメントを良しとするタイプも含まれているように見えるが、それでも、『魅力的なビジョンを作って浸透させる』能力があれば、有能なリーダーの範疇として認めているという印象だ。


このように若干、本のタイトルと事例に齟齬があるように見えてしまうところがあるのは、おそらく、藤沢氏の信念としてのありうべきリーダーのモデルが先にあってその実例を探し出しているのではなく、『100人を超える最近の経営者のインタビューを行ってその感想に基づいてまとめた』と本人が述べているとおり、実例の中から今日成功できるリーダーに必要な特質について、共通点を見つける作業がまだ途上にあるからだろう。確定したリーダーのイメージに必ずしも到達していないにせよ、現場の実態が生き生きと伝わってくるところが、この本の良さであるように私には思えた。だから、結論部分にはそれほどの目新しさは感じないものの、私にとっては収穫のある一冊となった。



現場のスピードを上げるビジョン


市場はIT技術等の導入もあり、競争がますます激化していて、どの業界でもカテゴリーを超えて他業種からいきなり見知らぬ競合が現れ、従来にはなかったビジネスモデルで市場を席巻してしまうようなことも珍しくなくなった。ユーザーの価値観もライフスタイルも激変し、しかも流動化しているから、旧来の経営者の常識は通用しないどころか、むしろ足枷になってしまうこともある。こんな中では、いかにに優れた個人であっても、ビジネスのすべてを詳細に理解して、自分自身が動いてすべて決めていくというスタイルには限界がある。一旦はうまくいったように見えても、どこかで破綻してしまうことは目に見えている。実際に、この『何でも自分で』というタイプのリーダーが破綻していく事例はこの10年くらいの間に幾度となく目にしてきた。だから、具体的な仕事はできるだけ、ユーザーの近くにいる現場の担当の裁量でスピーディに進めることができるのが理想だと私も思う。だが、リーダー不在だったり、いてもビジョンも経営理念も示されなければ(何をやるのがよいか、何をやってはいけないかがはっきりしないと)、現場はどう判断すればよいかわからないから、逆にスピードが落ちたり、とんでもない判断をしたりする。だから、そこはリーダーがしっかりとビジョンを作って浸透させることが必要になる、というわけだ。このビジョンを踏襲している限り、できるだけ現場に任せる経営スタイルは、スターバックスコーヒーやディズニー等の経営を実例としてすでに何度も語られて来ている。そういう意味ではそれ自体はさほど目新しいとは言えない。



自社利益より社会貢献


では、その『魅力的なビジョン』をどうつくるのか。どうやればつくれるのか。ビジョンがただの理想論、抽象論、あるいは独りよがりになってしまっては、現場はついてこない。だから、優れたリーダーは現場の細部に至るまで理解することで、地に根ざしたビジョンをつくり、環境変化と共に、機敏に修正していく。


ただ、今の若年層は、個別企業の収益の最大化、あるいは個人への収益の還元の最大化、さらには、よりダイナミックな仕事ができて面白いから、というような一昔前なら、皆もが飛びつきそうなインセンティブでは動かなくなって来ている。逆に、自分のやることが社会的に意義があって、そういう意味で仕事にもやりがいがあると確信できれば、少々報酬が安く、労働条件がきつくても、懸命に頑張るようなタイプが増えている。(しかもより優秀な若手ほどそういう傾向があったりする。)社会の中に意義を見出すストーリーや哲学が必要になってきている。どうやら、自分の仕事の現場を詳細に知り尽くすことだけでは足りなくなって来ているように見える。



自社の狭い市場だけ見ていても・・


しかも、競争に勝ち抜くという点に絞ってみても、現場のマイクロマネジメントだけでは、如何ともしがたい状況が起きつつある。市場において今一番恐ろしいのは、先にも述べた通り、思っても見なかった企業が思っても見なかった手法で参入して、市場を席巻してしまうことだろう。過去、何度も語ってきたが、アップルGoogleスマホで市場を席巻した結果、以前は日本有数のビジョナリーのはずだった企業(ソニーシャープ等)がまったく霞んでしまったことがこの典型事例だが、これが今他業種でも続々と起きようとしている。IT/家電業界(スマホ)→自動車業界(自動運転車)→ 金融業界(フィンテック)とここまでははすでに見えかかって来ているが、これから同様の津波があらゆる業界を飲み込んでいく可能性が高い。視点を出来るだけ高く持って、市場全体に目を配っているのでなければ、どんな業界であれ将来に渡って有効なビジョンをつくることなど望めない。


さらに言えば、小さな企業の単位であれば、ビジョンを企業内だけで共有して社員を動かしていくことも可能だろうが、今後のビジネスは、どのビジネスであれ、相互に関係するより広いネットワーク、いわゆるエコシステム全体を意識せざるをえなくなる。とすると、自社だけではなく、自社のビジョンに他社であったり官公庁であったり、新しいユーザーであったり、様々な他者を巻き込んでその気にさせるような、レベルの高いビジョンが求められるようになる。



浸透させる実行力も不可欠


加えて、ビジョンをつくるだけではなく、それを起点にして、協力者を実際に巻き込み、動かしていく能力が不可欠になる。皆が魅力を感じる優れたビジョンをつくることは成功のための必要条件であっても、十分条件とは必ずしも言えない。場合によっては、もっとベタな利害得失の構造も理解した上で、関係者が喜んで協力するような場を作ることも必要になるだろう。ビジョンに共感させることはもちろん、利害得失にも納得してもらい、さらには参加者のプライドを満たしてあげることができる、そんなリーダーシップが必要になっていくと考えられる。そのように考えてくると、今回藤沢氏が事例としてあげた『優れたリーダー』の能力も必ずしも十分とは言えず、今後は振るいにかけられて、少なからず脱落していくのではないかとも思えてくる。



史上に類なき優れたリーダー:田中角栄


しかし、そんなスーパーマンがどこにいるのか。それどころか、史上、それほどすごいリーダーが日本の歴史に現れたことがあるのか。そのような問いを立ててみると、昭和の時代を知っている者であれば、おそらく誰でも一人思い出す名があるはずだ。元自民党総裁にして、ロッキード事件の刑事被告、裁判中も闇将軍として采配をふるい続けた異形の天才政治家、田中角栄だ。毀誉褒貶相半ばするこの人は、これまで必ずしも正当に評価されてこなかったきらいがあるが、業績の方に焦点を当ててみれば、日本の政治史に燦然と輝く外交的業績(日米繊維交渉、日中国交回復等)、彼の構想していた将来の日本のありうべき姿(ビジョン)の驚くべき先見性、そして、それを実現する実行力(30件を超える議員立法を通し、官僚を感服させて自主的に協力者させ、真の政治主導を実現)など、余人を持って代えがたい圧倒的な力量の人であることがわかる。しかも、小学校卒でしかない学歴なのに、東大や京大等の高学歴のエスタブリッシュメントがタッグを組む政官界に割って入る胆力と実力、敵でさえその人間的な魅力に感服してしまう包容力など、あらためてこうしてみると、日本の歴史を総ざらいしても、これに比肩するリーダーを見つけることは難しい。


草履取りから天下人にまで登りつめた豊臣秀吉の若い頃の人間的な魅力は、田中が今太閤と呼ばれて、豊臣秀吉の再来と讃えられたように、その点では近いものがあるが、秀吉は田中のような優れたビジョンを持っていたわけではなかった。ビジョンという点では、秀吉のボスだった織田信長のビジョンは郡を抜いていた。信長であれば田中と並べても遜色はない(先見性という意味では田中をも上回ると言うべきかもしれない)。明治政府を主導したトップリーダー、大久保利通の政治的な剛腕も比肩しうるが、人間的な魅力で人を動かす包容力は田中には及ばない。その点ではもう一人の明治の元勲、西郷隆盛のほうが近そうにも思えるが、西郷に日本の将来のビジョンをつくることはできなかった。



ロッキード裁判の愚かしさ


田中角栄の挫折の直接の原因となったロッキード裁判は、冷静に見返してみても、何らかの陰謀(米国?)が背後にあったとしかか考えられない不自然なものだった。当時から盛んに言われていたことだが、田中に賄賂を渡したというロッキード社のコーチャン副社長の証言が、司法取引をして刑事免責を受けた上での証言で、かつ、その証言に対して反対尋問を許さなかったというのは、どう考えても裁判の体をなしていない。陰謀がなかったのであれば、日本の裁判史に残る最大級の汚点ということになろう。しかしながら、今よりはるかに司法の無謬性の神話が生きていた時代の話だから、刑事訴追を受けた瞬間から、田中を犯罪人と国民の側も決めてかかってしまっており、この裁判の愚かしさを冷静に判断をできる空気ではなく、うやむやになってしまった。


今日本に必要なのは田中角栄


また、裁判以上に、田中の評判を地に落としてしまった、金権政治だが、こちらの方も、当時から評論家の小室直樹が弁明していたように、田中が渡した金は、何らかの便宜をはかってもらうための買収ではなく、軍団をつくるための武器として使われていて、小学校卒の田中が東大や京大の高学歴者が牛耳る政官界において、仲間やサポーターをつくって対抗するためのやむない手段の一つであり、しかもそれは国民のためになる政治的な成果にしっかりと結びついていた。


今日の世論・空気を勘案すれば、このようなことを書いただけで、炎上ものであることはわかってはいるが、かつては昭和の日本を破滅に追いやった軍事官僚から、民主党政権に至るまで、清貧ばかりが売りの政治家が成果を生むどころか、レイムダックになってしまい、しかも国民を奈落に引きづり込んだような事例は史上に数多い。この辺りの機微がピンとこないのは、日本がまだ政治的に成熟していない証と語った小室直樹の言説は、当時より現代のほうが、よりずっしりと日本人にのしかかっているように私には思える。だから、今のような世界的な混乱期に日本のリーダーとして、誰を望むのかと問われれば、私なら迷わず田中角栄と答える。


しかも、どうやらその思いは一人私だけのものではないようだ。田中角栄金権政治批判の急先鋒だった政敵の石原慎太郎が、田中角栄を新著で『天才』*2と讃え、しかも著書の売り上げも好調だという。また、文藝春秋の2016年5月号の特集記事のタイトルなどそのものずばりだ。『日本には田中角栄が必要だ』とある。*3


田中を葬った日本人の分析こそ必要


だが、今太閤と持ち上げた田中を、ロッキード裁判以降は犯罪人とこぞって糾弾した日本人は、今はますます狭量になって、少しでもおかしな振る舞いがあれば誰でも吊るし上げて快哉を上げるようになってしまったように見える。例えば、不倫をしたら政治家を辞めないといけないとすると、堂々と愛人との間に何人も子供をもうけた田中など一体どうなるのだろうか(もちろん不倫が良いと言いたいのでは決してない)。


経営者としてのリーダー論を語った藤沢氏の本からはずいぶん脱線してしまったが、経営者でも政治家でも、田中角栄研究は、日本のリーダー論を語る上での最重要課題の一つのように思える(藤沢氏の著作にも、解説はないが、田中角栄の名前が出てくる)。その課題の中には、田中角栄を断罪してしまった(そして今出てきても断罪してしまいそうな)日本人の分析も忘れるわけにはいかない。優れたリーダーを潰してしまうような国に未来はないからだ。私も今年の取り組み課題の一つとして、また改めて本件を取り上げてみたいと思う。

*1

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天才

天才

*3

文藝春秋 2016年 05 月号 [雑誌]

文藝春秋 2016年 05 月号 [雑誌]

2016-04-06 人工知能のビジネス利用はどのように進むのか このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント



 用語は浸透したが・・


この2〜3年、私のブログでも何度か人工知能に関わる話題について取り上げてきたわけだが、その度に世間での関心度がまさに幾何級数的に増大してきていることをひしひしと感じてきた。だが、Google傘下のDeepMind社の人工知能プログラムAlphaGo囲碁の現世界チャンピオンのLee Sedolに4勝1敗で勝利して以降、ステージが一段上がった印象がある。どうやら、予想を上回る猛烈なスピードで人工知能が進化していることの象徴として、一般人にももちろんだが、日本の人工知能の関係者にも冷水を浴びせるような効果があったようだ。この意味と意義を正確に理解しているかどうかは別として、昨今では、人工知能は少し目端が利くビジネスマンなら知らぬもののない用語の一つになってきた言って良さそうだ。


とはいえ、まだほとんどのビジネスの現場では言うほど活用されているわけではなく、一部先進企業を除けば、仮に導入されているとしても、まだ始まったばかりで、大半のビジネスマンはあまりピンと来ていないのが実情ではないだろうか。これから人工知能は実際のビジネスの現場にはどんな形で浸透し、進化していくのだろうか。そして、仕事の進め方やビジネスモデルはどうなっていくのだろうか。



 『個』から『全体/相互の関係性』へのシフト


少なくとも、人工知能は、もうSFでも人目をひく客引きアイテムでもない。ビジネスの競争を左右する現実のツールになろうとしていて、かつてインターネットがそうであったように(というよりそれ以上にずっと)使いこなせる企業/人が圧倒的な競争力を獲得する一方で、使いこなせない企業/人をあっという間に置き去りにしてしまう恐れがある。そんな近未来が今まさに到来しようとしている。従って、この人工知能(およびその周辺技術)の進化から目を離すことなく、自分の関わるビジネスをこのツールを使ってどう変革できるのか、他人に荒らされてしまう前に自分から変化を先導していくべく、覚悟を決める必要がある。


自分の関わるビジネスと言ったが、インターネット導入後、どのビジネス領域においても、参入障壁のハードルは極端に低くなった。今ではどの市場でもそれぞれの領域を囲む壁を破壊してまわる、いわゆる『カテゴリー・キラー』が跋扈している。市場の片隅で起きた小さな成功モデルがあっというまに様々なビジネスの領域をまたがって応用/適用される。もちろん国境も関係ない。そういう意味で、どのビジネスに従事するのであれ、今までよりずっと広範囲に市場全体を見渡しておく必要がある。しかも、昨今それぞれの企業の前後工程(製造業であれば、部品購入、から製品販売まで)から、関係する参加者(部品供給者、販売会社、決済代行業者、ユーザー等)に至るまで緊密に繋がるようになり、しかもその全体像/全体の関係(エコシステム)が可視化されるようになり、その全体の関係の最適化を差配できる企業がそこに参加する企業を支配し、そこからあがる利益の大半を召し上げるようになった(いわゆるプラットフォーマー)。このビジネスにおける勝利条件の焦点を『個』から『全体/相互の関係性』にシフトするのに寄与した力学にさらに大きな力を与え、促進するものこそ、人工知能(およびその周辺技術)ということになる。



 人工知能が進化しやすい分野/しにくい分野


前にも何度か指摘してきたことだが、人工知能(およびその周辺技術)の浸透は、自動運転車やペッパーくんのようなロボットや、あるいは先端医療のような人目についたり、人の生死に関わったりする分野より、地味で目立たないが実効性の高い分野のほうが、浸透も進化も早いし、今後はその差はもっと大きくなるだろう。というのも、直接一般消費者と関わりを持つ分野は、どうしても潜在/顕在を問わず、忌避感、拒否感、あるいは倫理意識、宗教観等の壁にぶつかり、進歩が止まったりスピードが鈍りがちだ。中には理由を列挙できないが『なんとなく違和感がある』という感じの反対理由も少なくないが、こんな理屈を超えた拒否感等の感情を覆すのは容易なことではない。法律も未整備で整備のためのコンセンサスも容易には収束しないことも予想される。


史上、新しい技術が出現して浸透する過程では、いつでもそうだが、社会の仕組みの急激な変容を迫る技術については、社会の側からの反発も強い。とりわけ、今日(そして今後)の技術進化は企業コミュニティのような社会の中間集団も猛烈なスピードで解体してしまいかねない。かつて自動車工場に産業用ロボットが導入された時のような、ほんの一部の工程に置かれて、人間の労働者に『聖子ちゃん』だの『百恵ちゃん』だの身に似つかわしくない名前をつけてもらったような牧歌的な時代とはわけが違う。


もちろん、自動運転車は事故を減らし、先端医療は患者の命を救い、ロボットは人手不足が深刻になる日本の救世主となることは確実だ。だが、身体を持つ人間は、理屈で理解できたとしても、身体のリズムを超えてあまりのスピードで変化するものを、急には受け入れることができない。少なくとも受容に時間がかかる。ところが、そのような一般消費者と直接関わらず、関係者の間で理想的なWin-Winの関係を構築できるビジネス分野は沢山ある。そういう分野では、これから猛烈な進化が期待できる。



 Win-Winの関係を構築している分野


例えばその最たる例が農業分野だ(以下、『世界トップ企業のAI戦略』*1を参照しつつ実例を紹介する)。例えば農薬ビジネスのトッププレーヤーである、Monsanto社は1970年に強力な除草剤の『ラウンドアップ』の販売を開始したが、2000年には特許が切れてしまうことと、使い方を誤ると作物にダメージを与えてしまうという欠点があった。そこで、一連の買収等を通じて遺伝子組換えの『優良種子』を手に入れ、自社の除草剤ラウンドアップ』を使用しても枯れない遺伝子組換え種子ラウンドアップレディ』を開発し、除草剤種子のセット販売を開始した。加えて、IT技術を駆使した精密農業へ舵を切り、農場の土壌の質に合わせ、どこにどの種子を植えれば最も収量が上がるかを人工知能が学習し、GPSで農場の位置情報を参照しながら、1平方メートル単位で最適な深さ・間隔で種をまくことのできるトラクター用機材を提供しているという。


また、The Climate Corporation社は、常時更新される農場の土壌・環境情報に、気象予測情報と農家の経験値である過去の収穫量データを加え、人工知能機械学習)を使って、作物ごとの収穫予測または収穫被害発生確率推定をし、農家ごとにカスタマイズした農業保険を提供しているという。


2015年末にThe Dow Chemical社との対等合併を発表したばかりの、Dupon社の農業・食品関連部門でも、エキスパートシステムと呼ばれる人工知能技術が使われていて、『どの農地にどの種類の種をまくのが最適か』『気象予測から肥料をいつまくのが最適か』『この農地の収穫量はどれくらいか』などの質問を投げかけると、クラウドに乗じ蓄積しているビッグデータの解析結果と専門家の判断データベースとを組み合わせる等、活用している。


農業分野にこれだけIT技術や人工知能を活用する余地があったことをあらためて教えられた気がする。この中で遺伝子組換え技術等については賛否両論あり、世間の反発を招く可能性もなしとはしないが、大方は、気象、害虫、病気等で壊滅的な被害を被る恐れと隣り合わせの農業従事者にとってみれば、精密な情報分析により多方面に渡るリスクを最小限にするためのシステマティックなサポートは極めてありがたいはずだ。企業と農業従事者の間に強いWin-Winの関係が築かれていると言える(もっともどこかの企業が強くなり過ぎて、独占利得を得るようになればまた話は違ってくるが)。


製造業についても、工程に人工知能制御のロボットを導入して生産の効率化をはかるような使い方も、急速に広がっていくことは疑いないが、それでも(昨今では以前ほど問題にならないかもしれないが)労働争議等のネタになる可能性はないとは言えない。その方向とは別に、今、製造業人工知能の技術を糧に、新たなビジネスチャンスを求めて業容をシフトしようとしている例が出てきている。製品を提供するだけではなく、提供した自社製品から得られるビッグデータ人工知能で解析して、ユーザーに使い方やメインテナンス情報を提供する方向を促進することに舵を切った米国GE社の例は著名な一例だ。GE社はボーイング社等の航空機メーカーにジェットエンジンを納入しているが、ジェットエンジンだけではなく、その他の機器にも多数のセンサーを取り付け、『稼働状況』『温度』『燃料消費賞』等のビッグデータを常時蓄積していて、それを人工知能を使って解析して、最適なフライトプランやメインテナンスプランをサービスとして提供していることは広く知られている。


これらの事例は、ユーザーや労働者にあらぬ不安を与えたり(一部の労働者には不安を与えるかもしれないが)、利害相反を招いたりすることなく、それぞれのビジネスの広い意味でのエコシステム全体を見渡して(あるいは自らエコシステムを作り上げ)、その最適化をはかることで、顧客との間にWin-Winの関係を構築し、人工知能の能力が上がることを提供者(企業)も被提供者(顧客)も双方が共に望むことになる。ここには人類を滅ぼす人工知能も、人間を裏切るロボットもいない。事故で人を殺す自動運転車もいない。ということは、どんどん拡大し、進化し、ビジネスモデルとして洗練されていくことを意味している。


しかも、よく考えてみれば、これは農業や製造業の一領域だけの特殊事例ではなく、あらゆるビジネスへの展開が可能なポテンシャルがあることはすぐにわかる。どんな製品でもどんなサービスでもその前後工程を加えたエコシステムまで視野を広げることで、全体の関係を俯瞰し(あるいは新たに構築し)、個々の製品やサービス、業務だけを個別に考えるのではなく、システム全体の効率性や高付加価値性を上げていくようなビジネスを組み立てる。もちろん出来上がった後も、改善を重ねていく。そこには大量の情報が流通し、蓄積し、そしてその情報を人工知能を活用して、有用な『意味』を見出してさらなる付加価値としていく。



 ビッグデータ人工知能の最強タッグ


エコシステム全体を見る視野については、インターネット導入後、特にその活用の巧な企業が勝ち組になることが喧伝されてきが、そのモデルをもっと拡張するツールとして、IoTモノのインターネット)がその真価を発揮する環境が整いつつある。エコシステムが膨大になればなるほど、人工知能による優劣が決定的になると考えられる。次世代のビジネスシーンは、この構造を理解し、最適化をはかり、できればその場を支配することが望ましい。困ったことに、一時代前の製造業マインドが抜けない人の中には、いまだにスタンドアロンの製品自体の品質が良くなれば勝てると信じきっている人が少なくないのだが、ここまで述べてきたように、製品の品質が良くなることは市場で勝つための必要条件であっても十分条件ではない。そもそもその品質の良さも、システムの中でしっかりとユーザーと繋がった上で実現される『良さ』でなければ、資源の無駄遣いになってしまうだろう。


一般消費者との接点を持つ製品やサービスに関しても、もちろん劇的な進化が期待されているわけだが、いずれにしても、第一段階では、この『ビッグデータ人工知能の最強タッグ』についてあらためて十分に情報を収集して、自分自身でその意味を熟考してみることを強くおすすめする。

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世界トップ企業のAI戦略

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