映像の世紀 第1集20世紀の幕開け

 天皇皇后両陛下の戦没者慰霊の映像を見て、急に歴史映像が見たくなった。カラーで見る昭和を当初視聴する予定であったが、どうにも見つからない。DVDラックの近くに映像の世紀が目に入った。映像の世紀は12集ある。カラーで見る昭和は前後編の2部。前者は12時間かかり、後者は2時間である。だが、ここでは気にせず久しぶりに映像の世紀を一挙視聴することにする。映像の世紀の素晴らしさなどは、纏めて全編視聴後に記載する。昔簡単な内容を記載したことがあったが、手抜き過ぎる。
 第1集。20世紀の幕開け。実に現代から100年前の映像である。映画自体はルミエール兄弟によって1839年に発明されている。それ故動く映像が残っている。歴史はそれ以前の社会では文字や静止画で残されてきた。だが、この世紀から本格的に動く映像。すなわち動画による記録が始まる。
 英国万国博覧会から始まる本編。この当時の映像を見ると服装の差異が極めて強調して見える。特に女性のドレス姿などは現代において、特定のイベントが起こることが無い限り自然の環境で見ることは稀である。女性の服装の変化などは、見所にひとつであると言える。この姿を見るだけで100年どころか200年前の映像ではと思えてくる。また、ヴィクトリア女王の生前の姿や女王の葬儀に参列する孫のドイツ皇帝ヴィルヘルム2世や同じく孫であるジョージ2世など、戦争と平和の著者トルストイロマノフ王朝の姿などを見れ、改めての視聴であるが衝撃は薄れていない。前後するがニコライ2世の娘、ラスプーチンらしき人物の映像も見れる。
 第1集前半で興味深かったのは、前記の内容であるが、植民地の様子を写した映像も中々のものであった。血の木曜日を写した映像も黒く不気味な感じをさらに強調した。20世紀が始まってまもなく死去したビックマザー。ビクトリア女王。女王の葬式を見て、夏目漱石が聞く。20世紀は不吉に始まった。
 
 後半は、イギリスやロシアと言ったヨーロッパからアメリカへと移る。アメリカの内容である。アメリカの国力の象徴、トニーランドの紹介や喜劇王チャップリンの回想が続く。耳に残るのが、イタリア移民の言葉。アメリカには、黄金で道が舗装されている。しかし、実際に着てみて気付く。黄金で舗装などされていない。まして、通常の舗装すらされていない。そして、道を舗装するのは移民の仕事であると。対し、フォードの成功や大衆文化の紹介、S.ルーズベルトモンロー主義(アメリカの外交姿勢、欧州と大陸の不干渉)の演説は今の力ずく、世界の帝国として覇するアメリカの基礎を作りあえげたものであると感じ取れる。そのときから、アメリカは世界の警察を目指していた。

 そして、最後は第一次世界大戦。勃発の原因となったサラエボでのオーストリア皇太子暗殺事件。皇太子が暗殺される前の映像や生前の映像が紹介される。映像から分析する皇太子暗殺事件ヴィルヘルム2世の出兵へ向けての肉声。戦争の始まる出第1集は終わる。
20世紀と言う戦争の世紀の幕開けであった。

映像の世紀 第2集大量殺戮の完成

 20世紀の戦争と言えば、第一次世界大戦第二次世界大戦がその規模から20世紀の代名詞的戦争と言える。第2集は第一次世界大戦に焦点を置いた内容である。第一次大戦は、その全容が記録された戦争である。ドイツの徴兵では、ヒトラーの姿が。イギリスの徴兵では、徴兵制度がないイギリスで募集が行われ、軽い気分で友達で構成された友達部隊や職場仲間で構成された部隊が生まれた。ドイツ兵士もイギリス兵氏もそして、多くの第一次大戦の参加者はこう思っていた、クリスマスまでには帰れる。(開戦はサラエボ事件6月28日)
 だが、第一大戦は新兵器の登場など様々な要因が重なり、泥沼化する。当時の戦法はナポレオン戦法。大砲での砲撃の後、騎兵や歩兵が突撃する。それにより一挙決戦し、終結するものである。だが、この戦法は機関銃の登場で大きく変わった。一個機関銃は1個中隊の戦力になった。新しい戦法に登場により、布でできた兜は鉄のヘルメットに変わった。
 ドイツとロシアが対峙した東部戦線。ドイツとイギリス、フランスが対峙した西部戦線。どちらでも膠着状態となっていた。各国は植民地から兵士を呼び戦力増強を図る。その数は300万を超えた。第一次大戦は総力戦である。フランスではタクシーの車両。イギリスは2階立てバスを動員した。砲弾生産も追いつかず、女性の参加が始まった。戦後の女性進出のきっかけとなった。また、空爆も行われた。灯火管制も行われ、疎開が始まる。
 そして、戦場で機関銃に対抗すべく新しい戦法が生まれる。塹壕戦である。塹壕は持久戦で使われる。第一次インドシナ戦争時ヴォーグエンサップ将軍もこの作戦でフランス軍を撃退した。塹壕は敵の裏を書くために伸びていった。塹壕は北海まで延びた。塹壕は衛生環境が悪く、足に病を患う人が出た。また、精神的な病も発生した。記録は、戦争の悲惨さを残す物となっていった。戦場カメラマンは砲弾で死に、兵士が死ぬ瞬間を写した映像や死体を運ぶ映像が撮影された。

 大戦の主戦場であるヨーロッパ以外でも出来事が起こっていた。パレスチナでのアラビアのロレンス。インド独立指導者ガンディーなどの動きが紹介される。さらに、死の商人といわれたアメリカ。欧州の衰退に反しアメリカは国力を増大していく。このとき日本は大正。大正天皇即位式大礼の儀。ドイツへの宣戦を布告した日本の動きが映される。日本はアメリカと同じく戦争で特需を得る。紡績の輸出は4倍に羽があり、造船も繁盛し、成金が生まれた。

 膠着した戦線では、更なる新兵器の投入が行われようとしていた。毒ガスである。各国は秘密裏に研究を行っており、その試験映像が残る。それに対抗するガスマスクの開発風景などは面白い。カモフラージュなどの迷彩の発明、フランスが発明した一人用突撃兵器は笑える。戦争とは、そういう行為を見るとばかげたものであると見れる。これは、ヤンウェンリーの台詞である。イギリスは戦車を開発。塹壕戦の流れを変える兵器であった。機関銃の攻撃から防御でき、塹壕をするりと乗り越え、兵士を踏み潰す鉄の塊。これを見て、各国は戦車の開発を急務とする。色々と戦車が紹介される。アメリカのフォードの戦車が技術を生かした内容で素晴らしい。ベンツやロールスロイスも開発を行った。さらに、飛行機も登場。目視による爆撃、改良された爆撃機と進化していく。さらに対空武装が装備され、ドックファイトも始まる。カールグスタフ級の列車砲の動きが見れるのも最近のミサイル戦争と異なる。
 野戦病院の映像やドイツ兵の回想は中々グロテスクで見る人は注意したほうがよい。足に腕を入れて治療したり、死体が腐ってく描写。さらに戦争で精神を病みシェルショック。ここら辺は、少々刺激が強い。

 海戦へ流れが変わる。Uボートの登場である。海戦で敗北したドイツは巻き返しとして潜水艦を投入。無差別攻撃を開始した。だが、これがドイツの敗北の流れを作る。アメリカの船を撃沈し、参戦する要因を作ってしまう。潜水艦は絶大な威力を発揮し、ドイツでは敵国の補給船を破壊、イギリスは海上封鎖でドイツへの補給を絶った。これにより、飢えが深刻な問題となっていった。

 ロシアは工業生産が弱く、食料の配給に不満が強かった。ついに爆発し2月革命が発生する。王朝は抑圧として市民を攻撃。市民は反抗。こうしてロマノフ王朝は崩れた。さらに10月革命によってロシアの戦線離脱した。10月革命でレーニンが生まれた。レーニンは世界初の社会主義国家を建国。それに反して世界各国は出兵。日本は有名なシベリア出兵を行った。
 その後、ついにアメリカが参戦。戦争資金を貸したイギリスやフランスが倒れると返済が行われない。それを危惧してである。選抜徴兵で10万から一気に400万に兵力を増強し、黒人部隊の編成、戦費調達のための国債キャンペーンなどが行われた。そしてこの時に初めてアメリカは国外での大規模派兵を行った。アメリカの参戦は戦争を決定的なものとした。アメリカは豊富な国力を元に無線機や塹壕掘削機械などを投入。ドイツ軍は決定的な打撃を受けた。ドイツでは、それを元に革命が起こり、ヴィルヘルム2世は退位する。紹介されたヒトラーの回顧「我が闘争」は中々面白い。近いうちに読書したくなった。
 こうして、ドイツ敗北で第一世界大戦は終結する。人類が経験した始めての総力戦。死者は500万人を超えた。オートリアハンガリー帝国は滅び、ロマノフ王朝も崩壊した。世界システムは大きく変革した。

映像の世紀 第10集民族の悲劇果てしなく

 冷戦を終え、民族主義が拡大。国家の主導権、宗教などを対立の争点として、民族は対立した。第10集は難民など民族の悲劇を描く。
 映像に難民が始めて登場するのは第一次大戦末期。オスマントルコ帝国からの難民であった。このときロシアでは共産党政権が生まれ、革命後も内戦が続いていた。その混乱はロシア難民を生み出した。特にロシア難民は残酷でこのときに発生した記録的寒波に襲われ900万人が餓死し、市場では塩漬けされた人肉が販売された。ドイツではヒトラーが独裁体制を確立。ユダヤ人難民の発生至る。ユダヤ人は第二次世界大戦時にもっとも凄惨な迫害を受けた民族であった。ユダヤ人は自分たちの国家を保有していなかった。ヒトラーユダヤ人の財産を没収させる法律を施行し、財産は没収された。またロシアはスターリンの指導の下に入った。スターリンに歯向かうものは強制収容所に送られた。
 ユダヤ人は約束の地パレスチナに移住する。また、同じく国を持たない民族アラブ民族が移民。その結果現代に続く中東の争いに至る。双方はイギリスと言う大国に制御されていた。しかしユダヤ民族の移民が急速に拡大。アラブ民族は危機感を覚え、争いが発生する。イギリスの鎮圧も効果が薄くなっていった。
 また、ユーゴスラビアでもセルビア人とクロアチア人の対立があった。双方は異なった民族であった。1930年代、反セルビア派の軍事政権が誕生。クロアチアは独立。セルビアは直ちに反発。クロアチアはドイツと軍事同盟を締結。後ろ盾を強くした。クロアチアセルビア人の虐殺を開始した。ドイツをモデルとして、強制収容所を設置。セルビア人は銃殺で処刑されていった。
 
 第二次世界大戦終結。分裂していたユーゴスラビアは指導者チトーの下再統一。クロアチア人は弾圧された。大戦終結によって多くの体制が変化し、新しい秩序が生まれた。それにより、多くの難民が生まれた。パレスチナではユダヤ人移民が急増していた。イギリスは一ヶ月の入植を1000人に制限。だが、入植を求める人数は10万人に達していた。アラブ人は武力で排除を宣言。だが、ユダヤ人の列は絶えなかった。難民船は拿捕され、難民は元の場所に戻された。ユダヤ難民はヨーロッパに安住の地を見つけることができなかった。だが再びヨーロッパへ戻された。ユダヤ人はそれに反発し、イギリス軍のパレスチナ司令部を爆破。イギリスはついにパレスチナを放棄。国連に問題の解決を委ねた。国連パレスチナ分割案を可決。ユダヤ人のイスラエルの建国を承認。国境線が作られた。だが、反発は続く。第一次中東戦争が勃発。敗北したアラブ人は追放され、難民となった。そして、その問題は現代まで続く。
 1953年、スターリンの死亡によって反ソ連の運動が各地で勃発。ハンガリーで動乱が起こった。だが、ソ連軍の本格的軍事圧力で失敗した。ベルリンではベルリンの壁が作られた。
 
 1960年代、ベトナム戦争が激化、泥沼化した。隣国カンボジアは中立を宣言していたが、ベトナムを支援していると攻撃を受け、親米政権が樹立される。その反対活動派にポルポトが居た。そしてアメリカの支援を受けた政府軍とポルポト派の衝突が発生。内戦の突入した。首都クノンペンは革命派によって解放。アメリカ軍は撤退をする。実権はポルポトに移る。同時期ベトナムでは北ベトナム軍が南下。南ベトナムの人々は虐殺の噂を恐れ、難民化。多くのベトナム人がばらばらになった。
 カンボジアではポルポトが人民を田畑に移動さえ、国土の復興の労働に当てていた。都市は無人になっていた。子供たちは親から引き離され思想教育が行われた。ベトナムはこの惨状を見て、追放を宣言。侵攻する。そのとき、ポルポトに叛く人々が粛清された事実が判明する。内戦により、カンボジア人はタイ国境へ移動する難民に変わった。
 1989年、冷戦が終結ベルリンの壁が崩壊。ドイツが統一された。共産主義圏は民主化された。そして、その頂点であったソ連すら崩壊した。ソ連崩壊により各地で内戦が勃発。ユーゴスラビアでは、セルビア人とクロアチア人の衝突が再開した。

 難民の世紀20世紀。現在地球にあふれる難民は3000万人を数える。

映像の世紀 第3集それはマンハッタンから始まった

 大衆社会のルーツを追う第3集。アメリカ中心の内容である。始まりは第一次世界大戦終結によって帰還する兵士たちの凱旋パレード。まるでお祭りである。黒人部隊も帰還しジャズを演奏して有名と成った部隊なども迎え入れられた。しかし、根本的な偏見は解決していなかった。黒人はハーレムに住んだ。ハーレムは黒人が集まる街であった。ジャズ音楽はコットンクラブというクラブから広がっていった。マンハッタンでは、摩天楼が構築されていった。資本主義精神の形だという批判を受けたこの街は、20世紀社会を象徴する高層ビルのよって、狭い土地を有効利用する都市形態であった。
 欧州では戦後処理が始まろうとしていた。ベルサイユ会議の開催である。アメリカ大統領ウィソンの国際連盟の設置は議会承認がえられず、アメリカは参加せず結成された。アメリカは外交より経済発展をこの当時優先した。ドイツではハイパーインフレが発生。一兆マルクという単位が生まれた。後の昭和天皇もこの時期欧米を訪問し、日本の国力を世界に示した。
 アメリカでは古いモラルからの開放。ジャズの流行があった。これはラジオ放送が生まれたことが大きな要因のひとつである。ラジオは大衆文化を広めた。ジャズなどのモダンな流行を受け入れない世代は、今の時代と同じように、若い世代を批判しているのは面白い。大衆ヒーローはこの時代に生まれる。ベイブルースなどのスポーツ選手は大衆を沸かした。この時代、特に女性の開放がめまぐるしい。短いスカートの発生である。一方移民の人々は安い賃金で地下鉄工事など劣悪な環境で労働をしていた。このような労働力が影でアメリカの反映を支えていたのは事実である。

 大衆化は、様々な快楽をもたらしたが、不安定な事態ももたらした。暴動が発生し、労働者の過激な運動が行われた。さらに共産主義の強烈な弾圧が始まった。共産主義者ソ連に追放された。KKKが生まれた。KKKの服装は異様で不気味であるが、個人的には気にって居る。KDDIの某CMに似ている。できれば入手したいが、この手の衣装はそう簡単に手に入るものではない。大衆による大衆の他の存在に対する排他主義が絶大を極めていた。移民であるから、無政府主義者であるという不当逮捕によって死刑が行われた出来事から、世界はアメリカに対して大きな批判が当てる。
 禁酒法1920年に施行されたアメリカの法律である。酒と言う存在が社会を腐敗させている。思考を混乱させる存在であるという主張からである。しかし、この法律はざる法律であった。ほとんどが即日釈放された。さらにほとんど規制は行われなかった。密造も盛んになった。密造酒は危険なものが多く、死者が出た。もぐり酒場や密造は犯罪組織への資金提供の元になり、殺人などの犯罪が増加。都市の暗部を生み出した。

 1923年日本は関東大震災に襲われる。そのときの映像も残っていた。朝鮮人が暴動を起こすと言うデマのもと、多数の朝鮮人が殺害された。ロシアでは24年にレーニンが死去。スターリンが台頭する。ドイツではヒトラーが支持を拡大。イタリアではムッソリーニの独裁体制が生まれたいった。
 1920年代後半、大衆はラジオ、新聞などを通して多くの情報を入手できる時代となっていた。大衆は株式に興味を持っていった。大衆は周囲の好景気と豊かさから株の下落に不安を持つ人は居なかった。だが、実態がない信用による貸し借りで、バブルが形成されていった。通信販売や電化製品が生まれ、女性の自由度が向上していった。都市部では豊かな状態であったが、農村は悲惨な状態であった。戦争による増産で土地は荒れ、農民が土地を捨て、都市に移動した。
 ぼんやりとした不安、昭和。上海は列強の疎開地となっていた。上海での騒乱を元に列強は介入を進めた。帝都東京では昭和天皇の即位が行われる。モダンなアメリカ式の髪型がはやり、地下鉄も生まれた。満州では、すでに23万人の日本人が移住しており、関東軍が治安を維持していた。資源が豊富な満州を生命線とする国家政策が進められていた。芥川龍之介の姿も紹介される。生き生きと父親をしている龍之介が入るが、ぼんやりとした不安と言う言葉を残し、36歳で自殺した。
 1929年10月24日木曜日。アメリカが破綻した。世界恐慌の発生によって1920年代の終わりは最悪の終わりを見せる。世界は恐慌から抜けるべくファシズムへ主義を移行さえていった。そうして、再び戦争が起こる。

映像の世紀 第4集ヒトラーの野望

 世界恐慌によって、大衆は強い統制を求めた。そしてナチスファシストが台頭することになった。第4集はヒトラーに焦点を当てる。1930年代アメリカ退役軍人が恩給の先払いを求めてワシントンに集まる。その数は2万に至り軍隊を投入して制圧を図る。その指揮は陸軍参謀総長マッカーサーが行った。回想では、退役軍人は共産主義者であり、革命の危険があったとしている。ソ連では経済発展を続けた。社会主義共産主義体制では資本主義のもたらす不況は制度上発生しないのである。このときソ連は栄華を極めた。この反映の姿を見て、多くの人は社会主義に理想を求めた。だが、社会主義は経済体制として有り得ない存在である。
 ドイツは、世界各国の中でも特に強烈に大恐慌の影響を受けた。その経験がヒトラーの台頭を許した。大衆の沈んだ心をつかんだのが、ナチス国家社会主義労働者党である。ドイツの大衆はこのヒトラーに運命を委ねたのである。ヒトラーは幼少期は建築家や美術家を志した。だが第一次世界大戦の敗北でドイツ国家の再興のため政治家を志した。まずミュンヘンで暴力での転覆を目指したが失敗。獄中で我が闘争を生み、合法的な政権獲得を目指した。右手を上げる敬礼方法、ユダヤ人排斥に証であるカギ十字、かつてない政治宣伝、ラジオなどの駆使により、ヒトラーは人身を掴んだ。大衆は情熱のこめられたヒトラーの演説に心の救いを求め、新しいドイツに希望を持った。ヒトラーの演説を聞いて感心する。うまいものである。民衆が同じ意見を持つところや怒りの部分では、自分も民衆と同じようにに怒りを表明する。
 日本は、満州国の制圧を進める。リットン調査団の日本の自作自演報告に不満を表明し、国際連盟を日本は脱退する。これにより日本はより国際的な孤立を深める。日本は満州のよって世界恐慌を乗り切ろうとした。アメリカでは、F.ルーズベルトが就任。ニューディール政策によって恐慌から脱しょうと試みた。公共事業による失業者の救済である。しかし、効果は上がらずストライキが多発する。労働者は鎮圧された。新聞はストライキではなく、共産主義による暴動であると報道した。そんな中、アメリカにもドイツ系移民によってナチスの集会が開かれる。イタリアでは、ムッソリーニのよるファシスト体制が完成しつつあった。イギリスでもファシスト連盟が生まれる。フランスも続いてファシスト勢力は台頭。各国は警戒感を募らす。
 
 ドイツではヒトラーが事業を進めていった。公共事業によってアウトバーンが作られた。第一次世界大戦の従軍カメラマンはヒトラーに使える宣伝撮影者に。国民車フォルクスワーゲンの製造それらはドイツ国民を喜ばせ、失業者は急速に減少。ヒトラーに奇跡と呼ばれた。これらの成功により、ヒトラーは首相から総統に就任。他の政党を解体した。そして、この時期からユダヤ人弾圧が始まる。強制収容所が生まれた。また、ドイツは本も燃やした。これらユダヤ人排斥主義による民族虐殺や書籍の焼却は容認できない内容である。また、過度な民族意識ナショナリズムの高揚は排斥は偏見をもたらす。この点も容認できない。ヒトラーの強力な指導体制は良いが、その政策は間違ったものが存在する。その結果優秀な人材は国外に流出した。
 1930年代、ツェッペリン号の爆発、流線型高速鉄道、テレビ中継されたオリンピック、ベルリンオリンピック。そして盧溝橋事件から日中戦争に移る。南京を攻略。南京大虐殺の証拠映像などが映る。ある程度の日本軍の虐殺はあったかもしれないが、中国が主張するような人数の虐殺は有り得ないだろう。この映像は中々強力なので注意が必要である。
 ヒトラーはドイツ民族の生存権の確保のため軍備拡張を行う。徴兵制度を復活させ、急速な拡大を行った。そして、まずラインラントに進駐する。ラインラントはヴェルサイユ条約で非武装地帯と決定されており、それを破ったのである。フランスは内政に問題があり、対応ができなかった。スペインの内乱にヒトラーは兵器実験として参戦。そのときの都市ゲルニカ空爆の風景から有名なピカソの作品が生まれた。ドイツは国際的孤立を深めぬように、日独伊三国防共協定を締結。その後、内部工作を済ませたオーストリアを制圧。続いて、チェコの併合を行うべくプロパガンダ映像を放映した。チェコに対し強硬な演説を受け、チェコは軍を動員、安全保障条約を結ぶフランス、イギリスも動員を行った。人々には第一次大戦の記憶が蘇った。

 平和を維持する手段は一つであった。国際会議の開催である。ミュンヘン会議が開催され、世界各国の首相が集まった。そして、その行方を世界が見守った。会議は、チェコの領土犠牲をによって平和維持が行われた。ドイツの軍事力のよる脅しでイギリスなどに譲歩を導きだしたのである。味を占めたヒトラーチェコの全領土を制圧する。そして、ポーランド侵攻を宣言する。これがヒトラーの終焉をもたらした。ポーランド侵攻の制裁としてイギリスは宣戦を布告。平和への努力は泡と消えた。フランスも直ちに出兵。こうして第二次世界大戦が勃発する。ヒトラーが政権を保持して6年後の出来事であった。

映像の世紀 第5集世界は地獄を見た

 一番気に入っている集である。この集ほかの集は見なくてもは幾度となく見てきた。一番完成度が高いと感じている。第5集は今世紀最大の悲劇、第二次世界大戦を描く。
 ドイツ軍はポーランドへ進撃、電撃作戦が行われた。騎兵部隊であったポーランドは一週間で撃滅された。首都ワルシャワも無差別攻撃を受け壊滅。武器を持たない市民が標的とされた。ロンドンでは、毒ガスが散布されるというデマが流れ、市民を恐怖に陥れた。市民が市民生活をガスマスクをして行う風景は、回顧されるように異様な風景である。オランダは空挺部隊による強襲により5日で降伏。続いてベルギーへ空襲を行った。フランスは、マジノ要塞でドイツ軍撃滅を図ることにした。難攻不落と呼ばれたマジノ要塞であったが、盲点を突いた奇襲攻撃を受け、無力化される。フランス軍は壊滅する。そして、10日後ドーバー海峡に至る。一ヶ月あまりの戦闘を経て、フランスは降伏。ヒトラーはパリ入場を果たした。
 ナチス支配下となった国ではユダヤ人の迫害がドイツ国内と同じく行われつつあった。ゲットーに収容されたユダヤ人の姿などは凄惨を極める。食料の配給も必要な量を割る量で、毎日100名の餓死者が出た。そして、強制収容所へ移動されていった。

 1940年、ドイツと欧州で戦争を継続できたのはイギリスのみであった。ビックベンの地下にチャーチル率いる戦時内閣が徹底交戦と唱えた。8月は空襲が始まる。市民は地下鉄駅に逃げた。構内も凄惨と言える状態であった。もはや人でない扱いである。ヒトラーは空襲によって戦意喪失を目指した。だが、市民は粘り強く抵抗した。イギリスはそれに耐え、防空体制を確立した。新兵器レーダーの登場である。これにより、ドイツ空軍は的確に迎撃され、ドイツ空軍は空爆を続行できないほどの被害を受けた。こうして戦線は膠着した。
 この事態を打破すべく、ソ連侵攻を行った。ソ連侵攻を甘く見ていた。だが、ソ連は臨界点を待っていた。ドイツ軍が首都もモスクアに達したとき起こった。寒波が襲来した。それによりドイツ軍は主導権を失った。それを見て一気に反撃。ドイツ軍はナポレオンと同じ末路を見る。ドイツ軍は初めて敗北した。

 ドイツ軍が敗北した時期、日本は真珠湾に奇襲攻撃を仕掛け、戦艦などに壊滅的な被害を与える。反戦の世論は一気に反転。直ちに参戦すべきという世論に変わる。アメリカ在住の日本人は収容所に移され、住居の自由を剥奪された。ただし、虐殺などは起こっていない。11万人が収容された。日本は奇襲攻撃後、列強各国が保有する植民地を占領。マニラでは7万人が捕虜となった。このとき、バターン死の行進が行われた。このとき大東亜共栄圏の建設のため日本語教育が行われたのだが、中々うまい。日系人であると思われる。しかし、ここまで日本国旗に敬意を払う状態は素晴らしい。現代の日本国旗や君が代への嫌悪はここら辺から来ているのだろう。東南アジアの占領を進めつつ、日本はさらに中国への無差別攻撃を開始した。
 1942年、ついにユダヤ人虐殺が始まる。ユダヤ人は動物の如く扱われ、狩の獲物と化した。そして、それを示すようにユダヤ人の収容所への移動は家畜用の貨車で運ばれた。そして行き着く先、強制収容所では家畜以下の扱いを受け、惨殺された。あらかじめ掘った溝に入れて、殺して埋める。作業的な殺害方法である。

 冬をあけ、ドイツ軍はソ連に再度攻勢を掛ける。共産主義の絶滅を図るべく、家は燃やされて、ソ連の人々も虐殺された。そして、スターリングラードに至る。ヒトラースターリンの名前がついたこの都市の攻略を命題とした。ここでは、第二次大戦最大の市街戦が行われた。回想で街の原型ととどめず、瓦礫の山に化したと伝える。ソ連では虐殺に対して怒りを燃やす義勇兵が生まれ、徹底抗戦が始まる。義勇兵パルチザンと呼ばれ、テロやゲリラ作戦を駆使して、ドイツを追っていく。さらに冬が再び到来し、補給の尽きたドイツ軍は降伏する。ドイツ軍最大の敗北となった。ここでも多くの捕虜が発生した。10万人のうち帰国したのは6千人であった。これも捕虜虐殺といえるが、戦勝国となった場合は、そういう主張を除くことができるのであろう。
 一方日本はミッドウェー海戦で海軍兵力を喪失、ガダルカナル島で陸軍敗北と転機に至っていた。日本は敗北を隠し、学徒動員を行った。サイパン島では追い詰められた日本人が身投げを行った。
 
 1943年、アメリカが第二次世界大戦欧州戦線に参加。まずイタリアを降伏させた。イタリアはその後ドイツに戦線を布告する。イタリアと言うのは調子がいい国に見えるが、政府が変わればこうなる。
 そして、欧州でも戦線の流れを変える作戦が敢行された。ノルマンディー上陸作戦である。いわゆる史上最大の作戦である。ドイツ軍はノルマンディーを軽視していた。さらに圧倒的な物量でドイツの敗北は決定的となった。ドイツはV1ミサイルやV2ミサイルで都市集中攻撃を実施。ロンドンは再び空襲に恐れた。これに反抗して、連合軍も無差別爆撃を敢行。ドイツ軍が投下した爆弾の量を遥かに上回る爆薬をドイツに投下した。ハンブルク焼夷弾で燃え、一夜で5万人が死亡した。連合軍がパリに近づくとパリ市民が蜂起。ドイツの4年間の支配は終えた。市民はドイツ兵士に対して怒りの虐待を加えた。また、ドイツ兵と交際があった女性も私的制裁を受け、髪を切られた。

 パリ解放2ヵ月後、日本は神風特攻隊が組織され、自殺による攻撃が行われるようになった。アメリカ軍の圧倒的な対空砲火などでほとんど効果が上がらなかった。その中の回想。特攻隊は一機械である…というものは、泣ける回想である。命を張って日本国を防御していただいた苦労を感じると、思いに耐えない。先人が守った日本を守る義務が現代に世代にはある。
 ソ連は、ベルリンに突入。市街戦と成った。この突入がドイツを分割統治させる原因となった。ソ連はベルリンを制圧。ヒトラーは自殺。こうして恐怖の体制は終焉した。
 日本は、サイパンから飛び立ったB-29の爆撃を受ける時期となった。帝都東京は燃え、沖縄では地上戦が行われた。

 欧州戦線では、虐殺の実態が判明しだす。飢え死、焼死体、ガス様々な方法で殺された遺体が見つかる。ここでの回顧。ここでこんなことが起こったのなら…の回顧は実に考え深い。収容所の遺体を埋葬する作業など、現実に見ると当に地獄であっただろう。
 続いて、日本も地獄を見ることになった。原子爆弾投下である。一瞬で広島、長崎の2都市は地獄と化した。人類は人類を絶滅さえることが可能な兵器を保有することになった。
 第二次大戦の被害は6500万人。そのうち市民は4000万といわれている。

 まさに、これは地獄を見たと言える。

映像の世紀 第11集JAPAN

 ルミエール兄弟の映画発明から2年後、日本は映像に登場する。極東の小国だと思われていた日本は、世界に人々に衝撃を与える。映像の世紀最終回。第11集は明治から昭和にかけての日本を伝える。
 日本はヨーロッパから船で一ヶ月あまりで到着した。1890年代、新宿ではガス灯が作られ、人力車が走った。200年の鎖国を経て急速な西洋化を見せる日本に外国人は驚いた。それは奇跡と言われた。欧米では日本の関心が増加、日本を題材とした作品が増えた。特に日露戦争の勃発とともに、それは増加していった。外国人は日本人の吸収力に歓声をあげた。日露戦争の勝利は、欧米に衝撃を与えた。イギリスに留学してたネルーは、アジア人が大国を破ったことに感動していた。ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は不安を覚えた。アジアのリーダーとして日本が位置することに、統一した勢力となることを恐れた。そして、日本は欧米と肩を並べる列強と成った。日露戦争の勝利によって、韓国の保護国化が行われた。朝鮮総督府伊藤博文ハルビン駅で暗殺される。伊藤の国葬の後、日本は韓国を併合する。そして、第二次世界大戦終結まで支配を続ける。
 日露戦争7年後、大正に時代は移る。国際連盟常任理事国となり、日本の大国化は続いた。ロシアではロシア革命が発生。シベリア派兵を行った。だが、大量の兵力の投入は国際非難を呼んだ。また、関東大震災が発生。東京横浜の大分が廃墟と貸した。戒厳令が発令され、カメラマンは隠し撮りで東京の様子を世界に伝えた。アメリカでは日本人移民が行われた。だが、移民排斥運動が発生。安い賃金で働かれ、国内の労働力が奪われたことに反発したのである。そして、移民は禁止されていった。

 昭和。昭和天皇の即位はラジオで世界に伝えられた。音の記録できるフイルムが誕生、何気ない風俗も記録されていった。国外大連では、日本は積極的投資を行い、大都市を建築した。国運をかけた満州国を樹立した。さらに満州事変を発生させ、中国東北部を制圧した。中国は国際連盟に提訴、リットン調査団が派遣された。3ヶ月にわたる調査の元、日本に主張に反する結果が提示された。日本は満州国を建国、国際連盟を脱退した。そして日中戦争が勃発していった。アメリカでは、日本を批判するプロパガンダが大量に作成され、反日色を強めていった。ついに、日本とアメリカは戦闘に突入する。日中戦争の膠着を打破すべく南下政策にアメリカが猛烈に反発し、経済制裁を発したからである。アメリカ日系人は、隔離された。
 第二次世界大戦の序盤、日本はアメリカの初動体制の遅れを狙って勝利を続ける。日本は圧倒物量の中敗北を続ける。ポツダム宣言を受諾し、日本は無条件降伏を行う。厚木飛行場にマッカーサーが到着。7年の統治が始まった。9月2日戦艦ミズーリ上で降服文章に署名した。そこには92年前ペリーが来日時に掲げた星条旗があった。昭和天皇人間宣言を行い、日本各地を周った。1946年、極東国際軍事裁判が開催。2年後、7人に死刑の判決が下りた。
 その後、朝鮮戦争が発生。警察予備隊が設置。日本をアジアでの資本主義の中心として象徴づけたかったのである。吉田茂は資本主義国との講和を実施。全面講和論と衝突した。ソ連など3カ国以外と講和を締結。さらに、日米安保条約を締結した。日本国内では血のメーデーが発生。革新派と政府の対立は幾度となく続いた。テレビ放送が始まり、日本の姿は世界に伝えられる時代が戻った。
 激動の昭和。日本は新しい時代に向かっていた。

映像の世紀 第6集独立の旗の下に

 第二次世界大戦における日本の敗北は、アジア地域に力のバランスを崩した。列強の圧力は空白になり、植民地となっていたアジア各地の独立を促した。第6集独立は旗の下に。
 インドではインド門と言う門が大英帝国国王を迎えるべく建造された。ジョージ2世はインドの皇帝が自身であることを示すために、インドへ向かう。インド民族は広大なイギリスの力に圧倒された。その後、アフリカの植民地へジョージ2世は向かう。その土地には、ガンジーが居た。ガンジーは列車で受けた人種差別を元に、独立運動へと向かう。ベトナムはフランスの植民地であった。フランス人はベトナム人を道具のように扱い、ベトナム人はフランス人を恐れていた。朝鮮は日本の植民地であった。1910年には韓国を併合した。1914年、第一次世界大戦が勃発する。そこへは戦力を補うためにアジアに人々が運ばれた。
 1920年代中国は列強により割譲されていた。特に上海は中国であって中国でないといわれていた。中国は特に外国の支配が絡み、中国国民は低い地位に置かれていた。そうした中、孫文が現れる。三民主義(民族・民権・民生)の主張を行った。孫文は、ロシアのコミンフォルム共産党情報局)から知識を取り入れた学校を作る。その中には、若き蒋介石周恩来ホーチミンというメンバーが居た。革命軍の不在が革命の不成功や革命の未発生の原因であると、孫文は立ち上がる。孫文の言葉は、のちに蒋介石が逃げた台湾の国歌となった。この学校の卒業生は国民軍の幹部となっていった。
 
 1915年、インドにガンジーが帰国する。ガンジーの活動はすでにインドで知れ渡っており、多くに民主が集まった。ガンジーは非暴力を説いた。民衆はそれに従った。暴力を振るう悪しき欧州の方法をインドが取り入れるべきではないと言う考えからであった。インドは、2つの大きな宗教があった。ヒンドゥー教イスラム教である。その対立をガンジーはインドに住みひとなら宗教は関係ないという立場で回避した。インド国旗はガンジーが作った。上からヒンドゥー教を示す色。イスラム教を示す色。そして、その他少数宗教を示す色。中心に紡績でインドへの反抗を示した紡績機を置いた。その後も精力的に活動し、塩の道活動など反イギリス運動を広めた。その結果、本国政府は折れ、活動の停止と引き換えに交渉の席を作ることになった。そして、ガンジーは交渉をすべく、イギリスに向かう。
 一方中国では、孫文が死去した。志半ばでの退場であった。孫文は、死の直前まで有力者の会議、国民大会議の開催に努力していた。死後、共産党ストライキを指導。それは、外国人排斥へと進歩していった。国民党を告いだ蒋介石は、共産党の影響力に脅威を覚え、検挙を行う。孫文が束ねた組織は、共産党と国民党の2つへ分裂してしまった。
 ロンドンに到着したガンジーは、チャップリンなど多くに人から歓迎を受ける。だが、イギリス政府からは厄介者扱いであった。インド少数民族87名を会議に呼び寄せていた。ガンジーと87名という対立になった。ガンジーはまったくの無力であった。そして、ガンジーは帰国後逮捕される。そして、一時表舞台から消える。

 1930年代日本。満州国皇帝溥儀が帝都を訪問する。日本はこのときアジア地域の植民地化を進めていた。満州は日本と変わらぬ風景を持つようになった。南満州鉄道は、拡張を続け、領土が拡大していった。その拡大には、労働者としての中国人や朝鮮人が居た。
 中国共産党は、山岳部に拠点を設置。毛沢東共産党の指導者となった。共産党員は自給自足の生活をし、機会を待った。そのですでに、毛沢東は独自の革命論を保有していた。事変が発生し、毛沢東蒋介石と協力する。国共合作である。毛沢東は日本は軍事力を保有するが、持久戦になると勝機があると考えていた。そうして、日本がアメリカとの戦争で疲弊する中、共産党の地盤を固めた。
 1941年、ホーチミンは海外での潜伏を追え、祖国に帰国する。太平洋戦争期、ホーチミンは逃亡を続け機会を伺い、若い世代に知識を伝承した。そうして、ベトナムの独立組織は結成されつつあった。
 1945年、日本敗北。第二次世界大戦終結する。終戦後、アジア地域には列強各国が戻る。インドではガンジーに代わりネルーが指導を行っていた。だが、ネルーヒンドゥー教信者。それにイスラム教信者が対立した。中国では毛沢東蒋介石が対立。第二次大戦後も戦火が続いた。ベトナムでは、ホーチミンの独立宣言と戻ってきたフランスとの対立が始まる。
 
 ホーチミンのフランス政府との独立交渉は決裂していた。そして、帰国後全面戦争インドシナ戦争が始まる。フランスは物量でべトミンを襲った。ベトナムの拠点はづぎつぎと制圧されていった。ベトナムの兵士はこのときあまりに無知すぎた。ホーチミンはゲリラ戦を発動。徹底抗戦を進めた。
 インドでも暴動が発生。イギリス軍は鎮圧を行うが、その数に手に負えない状態となっていた。そして、ついにインドからの撤退を行う。そうして、インドの植民地支配は終焉を見せた。そして、ヒンドゥー教イスラム教の調和のためにガンジーが再び脚光を受ける。そして、双方の指導者と面会していった。だが、分裂は収まらなかった。イスラム教徒は分離しパキスタンを建国。イスラム教徒が居なくなったインドではネルーが長となり、インド独立が行われた。ガンジーの目指したひとつのインドは実現できなかった。ガンジーはそれを悔やみ、旅をしながら説得を試みた。ガンジーは暗殺される。ヒンドゥー教徒によってイスラム教の肩を持つ存在として、恨みを買っていたのである。インドの分離と独立は多くの難民を生んだ。その数は1200万人に達し、史上最大の難民と呼ばれた。
 1949年、中国では共産党が勝利し、国民党軍は敗走し、台湾へ逃亡した。アメリカの援助が打ち切られたのが大きな要因であった。中国は共産党の元一党独裁体制に置かれた。
 
 ベトナムの戦いは、8年のときがたっていた。ディエン・ビエン・フー要塞で勝負が行われた。ベトナムは中国から支援を受け、フランスはアメリカから支援を受けた。ホーチミンの声もと、開戦する。要塞はベトナム軍の山頂からの砲撃を受け、防戦になっていた。フランス兵士はその恐怖を回想する。ディエン・ビエン・フーは56日間の死闘の結果陥落させた。正面の戦いを挑んで初めて勝利した事例であった。フランスを排除したホーチミンであったが、アメリカの介入を受ける事態となった。共産主義にに対する脅威からである。

 冷戦時代に世界は突入し、独立国はAA会議を開催する。ネルーはその最終日に演説を行う。アジアの民は、自らにふさわしい輝かしい未来を自ら切り開いていかなければ成らないのです。大国の圧力を拒否したAA会議。だが、アジアは大国の介入を受け続け、戦争は続いた。ベトナムではアメリカとの戦争が始まり、インドとパキスタンも戦争を開始していった。

映像の世紀 第7集勝者の世界分割

 ヤルタ会談。アメリカ、イギリス、ソ連の指導者が終結した。彼らは第二次世界大戦後の世界構想の駆け引きを行っていた。この結果、多く民族は引き裂かれる結果となった。戦後の世界を決めたヤルタ会談。ヤルタを通して、戦後の世界、冷戦を見つめる。

 第二次大戦中、アメリカは同盟国ソ連に多くに兵器や資金を提供し、ドイツの敗北は決定的となっていた。同盟軍は戦後処理の内容、最終作戦の調整の為各国首脳が集まる。ルーズベルトは、病に犯されていた。死を前にして、アメリカ中心の体制を構築使用と考えていた。チャーチルは、ドイツ敗北後はソ連が脅威と考え始めた。スターリンは、共産圏の拡大を目指していた。それぞれの思惑がヤルタでぶつかる。
 ドイツ問題。敗北が確実なドイツの処理問題である。スターリンは、ドイツを解体し、賠償としてドイツ財産の8割の接収を求めた。チャーチルは、ベルサイユの反省から反対する。だが、ドイツが再び反抗することは、各国の共通の脅威であった。そこで、ドイツは4カ国での分割統治が決定した。
 ポーランド問題。最大の焦点であった。会議日程の大半はこの問題に使われた。スターリンは、ソ連の防衛のため、通路となるポーランドの支配を求めた。チャーチルは、ポーランドを民主主義国家として復興したいと考えた。共産圏の拡大を危惧したのである。ポーランドは、領土を多く右、ドイツよりに移動されられて解決する。だが、チャーチルは、ポーランド共産党政権に対して、亡命政権の参加を求めた。この問題は、双方譲らず、自由選挙の開催という手段で、一応の解決を見た。だが、ポーランド問題は今後も話題に上がった。
 バルカン半島問題。バルカン半島は、ソ連が解放を行った。その結果、バルカン半島ソ連の影響が強く発生しだしていた。イギリスも、バルカン半島に対して、影響力を求めていた。それらの地域の影響力をイギリスとソ連は割り当てた。
 極東密約。ルーズベルトは、チャーチルを除いて、スターリンを別室に呼ぶ。アメリカの損害は上昇しており、日ソ不可侵条約を破って、対日参戦を求めた。スターリンは、千島列島割譲や満州鉄道の利権を認めることでそれを承諾した。このとき、台湾問題もあがった。日本領であった台湾の中国への返還、朝鮮半島の独立を確認し、米ソの分割統治も決められた。これらの重大な決定を行い、ヤルタ会談は終えた。

 ポーランド全土はソ連が制圧。共産化を進めた。そして、亡命政権の構成メンバーをスターリンは逮捕してしまう。チャーチルルーズベルトは、危惧したが余力がなく、解決できなかった。病を患っていたルーズベルトは死去。ソ連穏健派であったアメリカの指導者は倒れ、アメリカはソ連に対して強硬な、そして対立する存在となってゆく。アメリカの次の指導者は副大統領トルーマントルーマンは、大統領になって初めてヤルタ会談での重大な内容とソ連ポーランド取り決め違反に気付く。トルーマンソ連外相との会談で、これを強く指摘。これ以来確執が拡大していった。 
 7月、ポツダム会談が開催。その途中に原爆実験成功の報告を受けたトルーマンは、ソ連なしでの日本降伏の計画を考える。トルーマンは、スターリンの自己主義を完全に見抜き、敵対する存在になった。日本原爆投下とともに、ソ連が参戦。日本軍兵はシベリアに拉致され、強制労働を強いられた。日本は千島列島や満州を失い、中国残留孤児を産んだ。日本無条件降伏後、ソ連は、北海道の分割統治を提案。トルーマンはそれを拒否。北方領土を除く日本は、アメリカによる支配は行われた。朝鮮半島は、日本と異なり、北をソ連。南がアメリカが北緯38度線を境界として分断された。
 
 終戦後、アメリカでは若者文化が開花しだし、反映を続けた。対し欧州は、凄惨であった。ドイツは難民が発生。130万人は命を落とす。ポーランドでは、ソ連の軍事圧力の下共産主義が台頭する。産業は国有化された。東ヨーロッパはソ連の支配が広がっていった。そして、その姿を見たチャーチル鉄のカーテン演説を行い、ソ連を非難する。スターリン共産党機関紙に反論を記載した。4ヵ月後、原爆実験が行われた。日本の戦艦はその実験の使われた。ソ連に対する軍事的優位をアピールする実験であった。
 ドイツは、東と西に分割された。東西は対抗意識を燃やした。アメリカの圧倒的な背景を基にした通貨改革では、西側通貨の交換レートが上昇した。これに対する対抗策として、ソ連はベルリンの西側地区への隔離を強行。電力供給、電車、交通が遮断された。チャーチルは断固たる対抗策を提案。物資空輸を敢行した。一日250機の輸送機が着陸し、8000トンの物資が運ばれた。ソ連は強大なアメリカの輸送力に敗北、封鎖を解除する。だが、東西分裂は決定的なものであった。東西で別々の国家が生まれた。国境には監視が置かた。
 
 ソ連が原爆の開発に成功により、優位は崩れた。中華人民共和国の建国により、中国はソ連と同盟を結んだ。共産主義の脅威がアメリカ各地で宣伝された。1960年、朝鮮戦争が勃発。北朝鮮軍はソウルを電撃的に制圧する。アメリカは直ちに反抗を宣言。軍を動員した。5年間の平和は終焉を迎えた。9月に入り、国連軍は朝鮮半島に上陸。さらに中国が共産陣営の支援を表明。停戦にいたる3年間で150万人が死亡した。
 ヤルタ会談の生み出した体制は、冷戦を生み、現代に残るひずみを生んだ。

映像の世紀 第8集恐怖の中の平和

 東西冷戦により、米ソは核実験を繰り返す。アメリカが核実験に成功した6年後、ソ連核兵器の開発に成功。冷戦は、核戦争の危険をはらんだ物となった。両国は、相手の核兵器を上回ることで、軍事的優位を確保しようとした。第8集は冷戦の核競争を描く。
 豊かなアメリカ社会。その中で市民が警戒したことは共産主義の動向であった。中国がすでに共産革命を追え、朝鮮戦争が継続していた。第二次世界大戦の最高司令長官アイゼン・ハワーは共産主義への徹底抗戦を呼びかけ、圧倒的人気を得た。当選後ハワーは、核兵器共産主義への対抗策と位置づけ、核実験を続けた。開発された水爆は、広島の数百倍の威力を誇り、実験現場であった島は成層圏まで吹き飛ばされた。こうして、ソ連を再び追い返した。ソ連では、スターリンが西側に対抗すべく、重工業や軍備拡大を行った。
 ソ連の核開発は、現在のカザフスタン共和国で秘密研究都市が構築され、行われた。アメリカに遅れて9ヶ月。水爆を開発する。それを前にしてスターリンが死去する。側近フルシチョフは回想する。彼の死は恐ろしいことで、この後さらに恐ろしい出来事が備えているのではないか。スターリンの死後、ソ連はアメリカとの関係改善を目指す。
 東西対立の最前線、ベルリン。東ドイツ領内に位置し、西側と東側の支配するベルリンは、対立の前線となった。東側陣営の領内にある西ベルリンを西側は重視。多額の資本を投入した。その魅力に東側ベルリンの住民は移動を開始する。東ベルリン市民は不満と募らせ、暴動を起こす。ソ連国旗が引き釣りおろされ、熱気は頂点に達した。秘密警察はそれを粛清。さらに軍を投入し制圧を始めた。戒厳令を発布し、力による抑圧を加えた。
 アジアおける対立は、朝鮮半島である。民族分断悲劇を生んだ。実質アメリカ軍である国連軍とソ連中国軍の戦闘である。停戦が実現する3年後まで熾烈な戦闘が続いた。

 東西の緊張が緩和した1955年、東西首脳会談が開催させる。アイゼンハワーとフルシチョフの対談が始まる。アイゼンハワーソ連の恐れ、フルシチョフもアメリカを恐れていた。アメリカは、ソ連が次々と核実験を成功させることに脅威を覚えていた。ソ連は2Mトンの威力を誇る核兵器を開発。もはや戦争は不可能になったとフルシチョフは語り、核抑止力の時代を迎える。アメリカは核戦争を想定した実験を繰り返した。兵士に核爆発を体験させた。兵士は、自分の指が透ける様子を見たと言う。
 そして東西の核実験は、第五福竜丸事件を起こす。第五福竜丸は世界に被爆の恐ろしさを伝えた。核実験が環境を大きく破壊することにようやく気付きだしたのである。フルシチョフは、核兵器の実験を見て、スターリンの支配を批判する。それにより、ソ連支配下社会主義国家は反旗を掲げた。ハンガリーでは暴動が発生。翌日粛清が行われたが、ハンガリー軍の協力もあり、一時反乱が成功すると見られた。しかし、本隊の突入により3000人が死亡。20万人が亡命した。

 1950年代後半、米ソは新たなる対立の幕開けを迎える。宇宙競争である。ソ連が打ち上げ成功したスプートニクからそれは始まった。それは世界を驚かせた。そして、ソ連核戦略優位を世界に見せ付けた。さらに、ライカ犬を打ち上げた。有人宇宙飛行の可能性を示唆したものであった。スプートニクから遅れて2ヶ月。アメリカの発射は失敗。爆発する。この出来事は、ソ連の優位を完全なものとした。ソ連の秘密工場ではICBMの開発が行われていた。これにより、本土から直接敵国を核攻撃できることになった。スプートニクの成功はICBMの成功を意味していた。アメリカは戦略ミサイル軍を新設。ICBMの配備を進めた。スプートニク成功の年は、ソ連の革命成功40年の年であった。式典には毛沢東ホーチミンなどの指導者も参加していた。翌年フルシチョフは依存の第一書記の役職と首相の役職を兼職し、ソ連最高の権力を保有した。
 権力を掌握したフルシチョフ社会主義国家の問題を解決すべく活動を開始した。まずはベルリンであった。フルシチョフは西ベルリンの解放と連合軍撤退を求めた。アメリカは断固として反対した。反対に要求を撤回したフルシチョフであったが、その後も圧力を加えていった。アメリカ市民はソ連の脅威に恐れ、国防費の更なる増額を求めた。だが、ハワーは増額を拒否していた。その理由はU-2偵察飛行機からの情報であった。それにより、アメリカはICBMの配備が進んでいないことを察知していた。ソ連の脅威は市民が生み出した幻想であった。だが、U-2は、ソ連軍に撃墜された。生存していたパイロットを公開裁判にかけ、スパイ行為非難した。当初否定していたアメリカもパイロットの証言を受け、反論。一時解けていた氷は再び固まった。

 1960年、大統領選挙。J.F.ケネディが大統領となった。フルシチョフはこの時期、国連本部を訪問。キューバ革命を成功させたカストロ議長と出会う。キューバ社会主義化はアメリカに追って大きな脅威となっていった。そして、ソ連は有人宇宙飛行を達成させる。ソ連にとって、又とない宣伝の機会となった。これらの成功を盾にケネディに挑んだ。ケネディは様々な問題を抱えながら、ウィーン会議に参加。ケネディに西ベルリンの占領軍撤退を求めた。だが、到底容認できるものでなく、拒否する。フルシチョフは最後の手段。ベルリンの壁の構築を始めた。西側諸国は戦争の勃発を恐れ、強硬な手段を行使できず、黙認した。壁は人々を離れ離れにした。家族をはじめ多くのつながりがばらばらになった。壁を舞台とした悲劇は壁の崩壊するまでの28年間続いた。
 1962年、アメリカ軍はキューバで建設中のミサイル基地を発見した。キューバ危機の発生である。ミサイルによりアメリカとキューバとの力の均衡を図ったのである。ケネディは海上を封鎖。米軍やキューバは動員体制発布され戦争の準備が行われた。世界は核戦争勃発の危機に直面した。アメリカはソ連と戦争を望まず、ソ連もアメリカと戦争を望んでいなかった。戦争の開始は核戦争のそれと同義であった。フルシチョフとの交渉により、キューバ危機は回避される。米ソの緊張は緩和されていった。だが、ケネディは暗殺され、フルシチョフは失脚する。

 アメリカはベトナム戦争へ介入。米ソは再び核開発競争を再開する。世界で行われた核実験は、1500回を数えた。

映像の世紀 第9集ベトナムの衝撃

 アメリカはベトナム戦争に介入した。それは、アメリカに大きな歪を与えた。経済は圧迫し、主義や価値観の論争が国内で行われた。そして、アメリカはベトナムで敗北をする。

 ケネディが大統領に就任した1960年代はアメリカの最盛期であった。ケネディは理想を掲げた。だが、多くも問題を待ち受けていた。その中の一部はすでに紹介された。それ以外のもの。ベトナムである。ホーチミン率いる南ベトナム解放機構は、ベトナムの解放を行うべく戦闘を開始。その中、米軍の近代兵器に大きな打撃を与える。サイゴンでは暴動が発生。僧侶の弾圧が行われた。この中で僧侶が焼身自殺する映像は強力である。ベトナム編はあとひとつ強力な映像があるので、所見の人は注意が必要である。サイゴンではクーデタが発生。アメリカは弱体な旧政権を見切り、クーデタ政権を後押しした。そうして、2年でベトナムから手を引く予定であった。
 国内では、黒人差別問題が激化した。黒人と白人の差別へ抗議の流れが広がっていった。ガンジーの非暴力主義を学んだキング牧師がその指揮を執った。黒人たちもそれを守り、非暴力で抗議を行った。デモ禁止令が発布され、デモ参加者は逮捕されていった。白人は犬を嗾けたり、放水で反撃した。世界が注目する事態に中で、ケネディ公民権法の立法を宣言。黒人たちの運動も頂点に至った。だがケネディは暗殺されてしまう。
 
 ケネディの後は、副大統領ジョンソンが受け継いだ。公民権法はジョンソン政権の下で成立する。貧困撲滅を目指したジョンソンであったが、ベトナムに翻弄されてゆく。公海上で攻撃を受けたという誤報の元、アメリカ軍はベトナムに報復を行う。そして、連邦議会の監査の失敗、トンキン湾決議を大統領に行う。サイゴンでは、アメリカ領事館が爆破された。さらに、米軍基地も攻撃を受ける。こうして、アメリカは揺さぶりを受けた。反撃として、北爆。北ベトナムの重要施設の爆撃を敢行。3月にはダナンから部隊が上陸を始める。ベトナム戦争はアメリカの戦闘と化した。
 一方国内では、公民権法の成立を経ても黒人の差別が続いていた。指導者マルコムXは、政府を痛烈に批判。黒人の怒りを代弁した。キング牧師もシカゴに移住し、大都市での黒人問題の解決を目指した。だが、投石などにあい、内部から非暴力の無力に反する勢力が発生してきた。さらには、力には力と。自衛組織も結成された。
 黒人の活動に続き、白人の中にも社会を批判するグループが生まれだした。若者は社会への疑問を疑い、活動を開始する。

 ベトナム戦争は混迷を深めた。圧倒的物量を誇る米軍であったが、粘り強いゲリラ戦法でアメリカは苦戦を経験する。サーチアンドデストロイ。見つけては殺すという出あたり次第な戦法が運用された。ドコからともなく攻撃を受け、わなを受けて、米兵は負傷してゆく。ベトコンが強大な敵に対抗する策は、ゲリラ以外になかった。ゲリラは住民と一体化し、住民が敵なのか、敵が住民なのか米軍は混乱した。
 ベトナム戦争はテレビで放送された戦争である。それも、旧来の映像より早く、その日や翌日にベトナムで起こった戦闘を放映できた。そしてそれは、反戦運動と繋がった。国内では学生が徴兵を拒否、戦争に意義を問う事態が発生した。各地で反戦運動が発生する。ベトナム戦闘とともに国内国外でひずみは最大のものとなっていた。次に当選したニクソン大統領は、軍の撤退の時期を考えた。ニクソン大統領は段階的に兵を撤兵させて言った。
 
 だが、戦争は続いた。ニクソンウォーターゲートで辞任。南ベトナムベトナムの勝利で終わる。アメリカの威信をかけた戦争は完全な失敗であった。

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