GS・たのしい知識 vol.1 特集・反ユートピア

【書誌データ】
発行日:1984年6月10日刊行
編集人:浅田彰伊藤俊治四方田犬彦
発行所:冬樹社

【目次】
◆GS狂言回廊
佐藤良明 英語基本動詞研究宣言
草野進 プロ野球は外見が実力につながる表層的な見世物である
松浦理英子 優しい去勢のために1 去勢への旅立ち、新たなるタイム・トリップ
渡部直巳 『プレジデント』あるいは勝者の愚鈍なる陽根
高橋源一郎 レイモンド・カーヴァーをアーヴィング・ハウがほめていた
如月小春 男装のメッセージ
糸圭(すが)秀実 「青春」歌謡とタリランおじさん
ロジャー・パルヴァース(岸川典生訳) わたしのソウルをイカセたいんでしょう
岩井克人 ホンモノのおカネの作り方
三浦雅士 ボルヘス小島信夫 
◆特集 反ユートピア
浅田彰伊藤俊治四方田犬彦 オーウェル・スウィフト・フーリエ 反ユートピア論の系譜
浅田彰市田良彦 『愛の新世界』への旅
シャルル・フーリエ浅田彰市田良彦訳) 抄訳の試み テクスト『愛の新世界』を横断する
ロジャー・L・エマーソン(岡崎一訳) ユートピア
伊藤俊治構成 ユートピア・イメージをめぐる12のブリ・コラージュ
四方田犬彦 ガリヴァーの誤謬 スウィフト『ガリヴァー旅行記・第四篇』を読む
ピエール・クロソウスキ(西成彦訳) ガリヴァー最後の御奉仕 G・ドゥルーズのための狂言
ロバート・C・エリオット(岡崎一訳) ユートピアへの恐怖
鈴木晶 『われら』を十倍楽しく読む方法 ザミャーチン・神話・エントロピー
関和朗+菊地誠+赤坂善顕 ピラネージそして/あるいは不在のグラフィック
伊藤俊治 さかしまのヌーディズム 裸体とユートピア幻想
松山巌 『ナチ・ドイツ 清潔な帝国』を読む
三宅晶子 ユートピアから反ユートピアへ ドイツ『第三帝国』前史
イヴァンカ・ストイアリヴァ(笠羽映子訳) エルンスト・プロッホによる音楽 ユートピアと現代の西洋音楽
梅本洋一 空間・速度・光 フリッツ・ラングについて
細川周平 ゴール!ディノ・ゾフに 旋回するボールのユートピア
旦敬介 黄金(ユートピア)幻想の超克あるいはローペ・デ・アギーレの立腹
武邑光裕 未完の霊人 出口王仁三郎 言語パフォーマンスと『霊界物語
中上健次 異界にて
マージョリー・H・ニコルソン(高山宏訳)宇宙旅行 厭離穢土の観念史
高山宏 ユートピアのことば、ことばのユートピア ユートピアとしての十七世紀<普遍学>

◆その他
山口昌男 [痴の最前線1]
ジャック・デリダ(千葉文夫訳) ロラン・バルトの複数の死(者)
松浦寿輝 不眠をめぐる断章 あるいは否定について

◆表紙・目次デザイン 戸田ツトム
◆本文レイアウト 戸田ツトム+GS編集部

【考察】
・1984年6月10日刊行というタイミングからして、「反ユートピア」という特集が、ジョージ・オーウェルの『一九八四年』(早川文庫)のブームに呼応したものであることは疑い得ない。事実、浅田彰伊藤俊治四方田犬彦による対談「オーウェル・スウィフト・フーリエ」では、1984年現在の『一九八四年』のブームは、史上二番目のものであるという話題を四方田がするところから始まっている。一回目のブームは、鉄のカーテンが出来て、東西の冷戦が激化した頃だという。
・『GS・たのしい知識 vol.1 特集・反ユートピア』の基本路線は、「古い管理社会のイメージを前提とした上で、それに対するイエスかノーかというニ項対立の図式におさめてしまう」(浅田彰 27ページ)という『一九八四年』の読み方を批判し、オーウェルのスウィフト論「象を撃つ」、スウィフトの『ガリバー旅行記』(岩波文庫)を媒介に、「究極といった観念、理想や真理といった観念そのものを危機に陥れる書物」として「一つの文学の喜劇的伝統のなかでとらえてみる観点」(四方田犬彦 27ページ)を提示しようとするものである。
オーウェルの『一九八四年』は、ハックスリの『すばらしい新世界』(講談社文庫)、ザミャーチンの『われら』(岩波文庫)などの反ユートピア文学の系譜のなかに組み込まれて、再考察されている。また、浅田彰は、アンソニー・バージェスの『一九八五年』(サンリオ文庫)にも注目している。
・『GS・たのしい知識』には、各号基本コンセプトというものがあって、そのコンセプトに合致した論考を掲載する特徴があった。例えば、ほぼ同時期に『エピステーメー』第II期(朝日出版社)の刊行がなされていたが、『GS・たのしい知識』の方が、各号のコンセプトが明快に打ち出されていると思う。
シャルル・フーリエと、フーリエの現代版であるピエール・クロソウスキーの紹介が成されていることにも注目されたい。
浅田彰は、当時ペヨトル工房から『IQ84』を刊行している。これはドクトル梅津バンド(後にDUBと改称)のカセットと浅田によるブックレットから成り立っていた。ここに反ユートピアの主題が、コンパクトにまとめられている。(小冊子だけに、いつも以上に濃縮が効いている印象がある。)
そこで浅田はオーウェルの管理社会像は、「目に見える父権的な中心がすべてを集中的に掌握していて」、その権力の中心から発せられる「以外の情報はすべて遮断されている」というものであるが、今日の状況は「分散的・母性的な包摂」が特徴になっており、「可視的な中心をもたない分散的なメディアが全体として母性的なフィールドとなって人々を包み込む」タイプになっており、情報がむしろ「氾濫」することで、資本主義の一定の縛りが効くようになっているとし(この種の批判は「エレクトロニック・マザー・シンドローム」批判として『逃走論』「スキゾ・カルチャーの到来」で触れられている)、オーウェルタイプの管理社会像を「時代遅れ」とする。一方、アンソニー・バージェスの『一九八五年』は、オーウェルの『一九八四年』は「一九四八年」の現実そのものを写しており、それは悲惨だが、「原爆投下や強制収容所の現実を見た後」では、それさえも「ブラック・ユーモア状況」に見えるといっており、こちらの方を評価する。(引用箇所は、8〜9頁)
ちなみにアンソニー・バージェスの『一九八五年』は、前半小説で、後半がインタビュー形式の評論になっている。
このブックレットには、クロソウスキーフーリエのことも出てくるが、これは第2号の特集に絡むので、別の機会に触れることにする。
この号には、浅田彰中沢新一の師匠格にあたる文化人類学山口昌男のよる漫画が載っている。山口は、アフリカなどのフィールド・ワークの際のコミュニケーション・ツールとして漫画を使用していたという。

GS・たのしい知識 vol.2 特集 POLYSEXUAL〜複数の性

【書誌データ】
発行日:1984年11月15日
編集人:浅田彰+伊藤俊治+四方田犬彦
発行所:冬樹社

【目次】
狂言回廊
草野進 管理野球とは、火事場泥棒の倫理である
ねじめ正一 五福星はわんこそば大全
豊崎光一 正統と異端あるいはラグビーとフランス
如月小春 髪型勝手論
ロジャー・パルバース浜口稔訳) 現実なんてうすっぺらな紙切れみたいなもんだ
高橋源一郎 変な外国雑誌が送られてきた日
細川周平 フィレンツェ・サッカー
関曠野 現前の神話と西欧の暴力
野々村文宏 私たちは新人類じゃない
坂本龍一 音楽図鑑スクラッチノート
糸井重里 無断上演を許可する。処女漫才台本「ぼくはガンなのだ」
中森明夫 あまりにも『おそ松くん』な現在思想(ニューアカデミズム)
田口賢司 田中康夫のもんだい あるいは元気な20代
佐藤良明 英語基本動詞研究 連載2 I”HAVE”の巻
◆特集 POLYSEXUAL 複数の性

アメリカン・ポリセクシャル
武邑光裕 性の身体測量 Sex,Esoterics,Anthropometries
伊藤俊治 セツクスシアターのフリークス FROM POLYSEXUAL TO ASEXUAL
生井英考 エメラルド・シティ あるいは彼らの魔窟(ハンディトリウム)だったところ
シルヴェール・ロトリンガー(旦敬介訳) defunkt sex 故人となり、機能を停止し、泥くささを脱したセックス

大場正明構成 FUTURE SEX
伴田良輔構成 すぐ役立つ独身者マニュアル
フェリックス・ガタリ(岩野卓司訳) <女性=生成変化(になること)>
フェリックス・ガタリ(上谷俊則訳) 欲望の解放 ジョージ・スタンボリアンによるインタビュー

[思考のコラージュ]クロソウスキー断層を測量する
ジル・ドゥルーズ(浅田彰+市田良彦訳) クロソウスキーあるいは身体−言語
ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ(浅田彰+市田良彦訳) トランスセクシュアリテ 『アンチ・エディプス』からの三つの断片
ジャン=フランソワ・リオタール(浅田彰+市田良彦訳) 『エコノミー・リビディナル』からの二章

花村誠一 シュレーバー論の系譜
ジャン・ボードリヤール(上田知則+加川順治訳) オージーノアト、キミ、ナニシテル?
Ch・ビュシ=グリュックスマン(立川健ニ訳) ウィーンにおける他者性の形(フィギュール) 女性性とユダヤ

浅田彰伊藤俊治植島啓司四方田犬彦 バルチュスに始まる
松浦寿輝 バルチュスの衣裳
千葉文夫 バルチュス あたかも絵のなかに入ってゆくかのように

夏石番矢 性的犠論
石井辰彦 弟の墓[I]
え:B・シュルツ、ぶん:にしきさひこ マゾヒズム・革命・馬
西成彦 苦痛論 快感原則とは何か
ロラン・バルト西野嘉章訳) フォン・グローデン男爵
ロラン・バルト西野嘉章訳) ベルナール・フォーコン
フィリップ・ソレルス(千葉文夫訳) サドという文字(レットル)
四方田犬彦 ブニュエルと神学
兼子正勝 皮膚の言葉 バタイユからバルトへ
梅本洋一 ある劇作家の誕生 衣裳交換とサーシャ・ギトリ
西野嘉章 愛(エロス)と場(トポス) 接吻のイコノロジー
宇野邦一 「ヘリオガバルス」論
ミッシェル・フーコー(浜名恵美訳) 両性具有者エルキュリーヌ・バルバンの手記に寄せて
ウジェニー・ルモワーヌ・リュシオーニ(西澤一光+加川順治訳) 服装倒錯から性転換症へ
渡部直己 A感覚とE感覚 『少年愛の美学』の余白に
出川逸平 機巧(からくり)の性 鶴屋南北桜姫東文章』を繞って
藤井貞和 『源氏物語』の性、タブー
松浦理英子 性と生の彼方 両性具有とプラトニック・ラブ
金塚貞文 オナニーという迷路(ラビリンス)
荒俣宏 植物の閨房哲学 進化論とのかかわりに向けて
宮西計三作画 うつくしきかしら
ダニエル・シャルル(笠羽映子訳) 声の官能(エロティック)論 あるいはひとつの音楽とみなされたエロティスムについて
浅田彰構成 性を横断する声
ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ(浅田彰+水嶋一憲訳) 生成する音楽 『ミル・プラトー』からの二つの断片
ドミニク・フェルナンデス(浅田彰+水嶋一憲訳) 料理万歳! 『チューダーの薔薇』La rose des Tudors (Julliard,1976) 第一章
ドミニク・フェルナンデス(三輪秀彦訳) 『ポルポリーノ』からの断片

◆表紙・目次デザイン・本文レイアウト 戸田ツトム
◆表紙写真 宮内勝
【考察】
この本の基本コンセプトは、フェリックス・ガタリ編集の雑誌『ルシェルシュ』十二号からの影響を得ているのではないか、と愚考する。『ルシェルシュ』十二号は、日本では市田良彦編訳・フェリックス・ガタリ協力『三0億の倒錯者』(インパクト出版会刊行・イザラ書房発行)で刊行されている。
浅田彰は『構造と力』で、文化記号論批判の一環で、ジョルジュ・バタイユの『呪われた部分』(二見書房)を取り上げた。
そこでは、バタイユは構造とその外部の弁証法の側に立つ人ということになるが、「クラインの壷」と化した現代資本主義社会からすると、バタイユ的侵犯の持つシステムに対する質的差異は、直ちに貨幣の量的差異に変換され、エクスプロイット(開発=利用=搾取)され、なしくずしになる、とされた。
バタイユを批判して、クロソウスキーを評価するのかという点については、第一号の考察で使用したブックレット『IQ84』(ペヨトル工房)でも触れられている。(20〜26頁を参照のこと)
そこでは、バタイユの先駆としてマルキ・ド・サドが、クロソウスキーの先駆としてシャルル・フーリエがいたとされ、前者は正常/異常、光/闇といった二元論がしっかりできていて、正常な社会に対抗する為の特権的な秘密結社を措定するタイプとする。
これに対し、フーリエの『愛の新世界』のヴィジョンの根本には、シミュラークル交換があって、どんどん差異化と新しい組み合わせを加速して、多種多様な倒錯を生み出せそうとしているとする。
プレ・モダンな専制的な権力の中心がしっかりある社会では、バタイユ的叛逆でも効果があるかも知れないが、構造を解体すること自体を構造化した資本主義という怪物的システムに対しては、多種多様性を認め、これを推し進める『愛の新世界』のフーリエ、および『生きた貨幣』(青土社)のクロソウスキーの方が有効であると、浅田は考える。資本主義は、ドゥルーズ=ガタリの理論では、脱コード化が進んでいるとはいえ、公理系に支配されている。公理系とは、利益追求の方向にしか進めないという生成を一定方向にする縛りのこである。この縛りを開くために、浅田はクロソウスキーを導入しようとするのである。
というわけで、本号の特集におけるマイノリティー擁護の姿勢も、そういった思想的背景を押さえて置けば、了解できるであろう。

GS・たのしい知識 vol.3 特集 千のアジア

【書誌データ】
発行日:1985年10月15日
編集人:浅田彰伊藤俊治四方田犬彦
発行所:冬樹社

【目次】
狂言回廊
豊崎光一 スタイルの闘い(そのニ)
松浦理英子 優しい去勢のために3 肛門、此岸のユートピア
島田雅彦 アルカゴーリク(アル中)について
橋爪大三郎 ゲームと社会
宮内順子 北京服飾事情
石井康史 オン・ザ・ボーダー 禁酒法とメキシカン・ラス・ヴェガス
法貴和子 床下のフランク・チキンズ
佐藤良明 英語基本動詞研究 連載三 ”KNOW”の巻
◆特集 千のアジア
松枝到 外のアジアへ、複数のアジアへ
柄谷行人浅田彰 <オリエンタリズム>をめぐって
エドワード・サイード オリエンタリズム 序説
丹生谷貴志 Trans Europe-Asie Ex-press 歴史の<外部>
笠井潔 <オリエンタリズム>とライダー・ハガード
ドナルド・F・ラック キャセイ ヨーロッパの鏡、解釈の織布
高山宏 <アジア>のフェイクロア
山口幸夫 上海 ふたつの通りから
エレーヌ・ラロッシュ(鈴木圭介訳) なぜ<マカオ或いは差異に賭ける>なのか?
イェルジー・ヴォイトヴィッチ(鈴木圭介訳) 我々の町の過去と現在の記憶
村松伸 天安門ゴジラが出没する日
島尾伸三+潮田喜久子 虵圖筯註朱子治家格言
郭中端(編訳) 上海之騙術世界
玖保キリコ ゲイ・シンガポールGAY SINGAPORE シンガポール絵日記
エリック・アリエーズ+ミシェル・フェエール(浅田彰+市田良彦訳) Eric Allies+Michel Feher,La ville sophistiquee ソフィスティケーテッド・シティ
朝吹亮二 詩的東洋 I.Y.への手紙
松浦寿夫 東紅
藤井省三 魯迅における「白心(イノセンス)」の思想 エーデンの童話と蕗谷虹児の抒情画
西澤治彦 飲茶の話
杉山太郎 中国映画『舞台姉妹』のシネマツルギー
国吉和子 功夫(カンフー)映画 「見せる武術」の装置
市田良彦 毛沢東戦争論
生井英考 ジャングル・クルーズにうってつけの日 Vietnam War Monograph
荒俣宏 環太平洋ユートピア構想ノート あるいは大東亜共栄圏の不可能性
伊藤俊治 南島論1 バリBALI 神々と遊ぶ 神々と死ぬ TRAVELLING INTO THE LIFE,IN THE NATURE
菅洋志 バリ
小沢秋広 アルトー・バリ島演劇・メキシコ アジアを通って
岩瀬彰 「洗練(ハルース)」の変容
浅田彰四方田犬彦 ナム・ジュン・パイクへの質問
金両基四方田犬彦 ハングルの世界
上垣外憲一 ハングル論
李康列(青木謙介訳) マダン劇小考 仮面劇の現代的伝承のために
催仁浩(青木謙介訳) 訪日エッセイ
関川夏央 ソウルの練習問題
四方田犬彦 タルチェムからマダン劇へ

◆表紙・目次デザイン・本文レイアウト 戸田ツトム
◆表4写真撮影 宮内勝
【考察】
「千のアジア」という言葉は、ドゥルーズ=ガタリの『千の高原(ミル・プラトー)』や坂本龍一の『千のナイフ』を連想させるが、さしあたり、基本コンセプトは、四方田犬彦の序文(これは目次に書かれていない。P16〜17)を見れば、理解できる。
そこには「アジアは一である、と岡倉天心は宣言した。」とあり、「いま、われわれはあえて天心に逆って、宣言する。アジアなるものはどこにもない。いや、それは千の身体に砕け散って、ここ・かしこに実在している」と書かれている。
要するに、「外のアジアへ、複数のアジアへ」(松枝到)がテーマということである。
このようなテーマが浮上したのは、エドワード・サイードの『オリエンタリズム』(平凡社ライブラリ)の存在があったからであろう。
柄谷行人浅田彰の対談「<オリエンタリズム>をめぐって」 では、日本の<オリエンタリズム>を鋭く批判している。ポイントとなるのは、次のような箇所である。
「浅田 朝鮮となると、日本古代史は朝鮮古代史の貧弱な一章に過ぎないというくらいで、影響されているというより包含されているわけでしょう」(29頁)
この箇所は、たしか吉本隆明の反発を買った箇所であると記憶する。
「浅田 まぁ、天皇については、スケープゴート理論なんかを使って、天皇は共同体の中から排除されて析出した外部であるとか、そういう上方の外部として下方の外部である被差別民と通底しているとかいうわけだけど、事実性としていえば、天皇は端的に外から来たわけでしょう。そこには、端的に外であるようなものを、内なる外部として究極的に内部化する、そういうメカニズムが働いているんじゃないか。つまるところ、それは<交通>の遮断によるものですけど。」(29頁)
ここで批判されている理論は、山口昌男網野善彦のそれである。浅田が依拠しているのは、文明の交通史観(マルクスエンゲルスの『ドイツ・イデオロギー』から柄谷行人が、交通という概念を引っ張り出し、生産性の意味合いを除去し『マルクスその可能性の中心』に使用したという経緯がある)であり、共同体と共同体の交通によって、文明が栄えたとする考え方である。
ところで、この対談で、柄谷は「このごろアジアを云々するときに「ウラ日本史観」をとる人が多いでしょう。(笑)」といっており、浅田が「ああ、弥生的なものに対する縄文的なものとか、常民的なものに対する山人的なものとか。で、そういうものがアジア全域と隠れた結びつきをもっているんだとか。」といっている。
柄谷は、この「ウラ日本史観」を「あれは面白いけど、結局はSF」とし、「結局また別のオリエンタリズム」になってしまう可能性があると批判している。
ところで、「ウラ日本史観」を唱えていた人物というと、コムレ・サーガ連作(『ヴァンパイヤー戦争』『巨人伝説』など)を書いていた笠井潔が思い浮かぶ。笠井のコムレ・サーガには、縄文民族解放闘争というコンセプトが埋め込まれ、山人=縄文人の側から、弥生人天皇制)を覆すというねらいがあった。その批判されている当人の論考も、この号に掲載されているのだが……。