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   文学フリマで買った同人本の感想書いてます。第8回, 第9回第18回第19回第20回第21回

2009-04-30

ゲームの動画を見ながらマップをつくってる

 Pacreater(パクリエイタ)という造語は声に出して読みたくなる。なお、パクる、の語源は、packする、であるという説があったはず。カクソデに逮捕されることをpackされると呼んでいたのだな。


 最近買った雑誌。

群像 2009年 05月号 [雑誌]

群像 2009年 05月号 [雑誌]

 「群像」はいつもそうだが売れ行きがよくて、多くの本屋にはもう置いてなかった。巨大書店で定価で購入。「ロンバルディア遠景」の評判がよいので、じっくり読んでいる。


 最近借りた本。

収容所文学論

収容所文学論

 友人から紹介された本。久々に批評を読む。

2009-04-24

思うこと書き留めたい事。

 『戦争論理学 あの原爆投下を考える62問』について以前のエントリで触れたが(ご親切にどうぞ - kugyoを埋葬する)、これに出てくる三浦俊彦の議論に、ちょっとした違和感を覚えはじめた。

 いま、手元に現物がないのであした確認しようと思うが、三浦の議論のなかに、

「質的な価値判断は意味情報によってのみなされるべきで、それが意味情報の装飾のされかたによって異なってはならない。たとえば空襲での死者の写真を見る前から、空襲による死者の死がどんなものであったかというのはわかっているはずであるから、空襲が善であるか悪であるかという判断は、写真を見る前後で変わらないはずである。たしかに、悪であるという確信を深めるなどといった、量的な価値判断は変化するかもしれないが、質的な価値判断までも変化するようでは、そのひとは意味情報から適切に推論することができない、あまり論理的でない主体だったのだ」

というのがあったはず。


 だが、もし価値判断に量的とか質的とかいう区別をちゃんとできるとして、質的な価値判断というのは、量的な価値判断に即付(supervene)するのではないか。

 ある行いが善だとか悪だとか言うのは、何かほかの行いと比較してのものであるというのは、わりと受け入れられている話だと思うが、この広く受け入れられている前提が述べているのは、まさに上記のようなsupervenienceであるように思う。

 そして、量的な価値判断が変わったことによって、質的な価値判断が変わりうる、ということを認めてしまうと、「空襲の死者の写真で量的な価値判断は変わってもよい」ということも認めないほうがよいことになりはすまいか。

 それはそれでいいのだが。あと、絶対善とか絶対悪とかいうものを認めれば、上記の即付性前提が崩れるので、それもそれでいいし、さらには、三浦の議論を、「質的な価値判断が変わるほどの、量的な価値判断の大幅な変更は、ダメよ」と読み替えれば、特に問題はない。

 うーん。

2009-04-22

太ももだけがどんどん太くなってくる。どういうことなの……。

 今日はフレグランスキャンドルを買った。火をつけるとなんとなく香りが立ち込めることになっている。

 さくら、桃、柚子とあるうちの1種類を買った。どういう香りにどういう効能があるかわからないが、私は心に関する物理主義者なので、心的状態を変える手立てとして、食事とか鉄分とかが大きな効力を持っていると考えているから、香りのこともとにかく信じてみよう。


 最近、むかし買った『10.1/2章で書かれた世界の歴史』を読み終わった。そんなに「知的な小説」という感じはしないな。期待しすぎたか。うーん。

 つまり、テクスト論者にとっては、いくつもの種類のテクスト群が1つの本に収まっているという状況は、あまり特別なものとは思えないんだな。批評だの歴史書だのをまとめて「1つのテクスト」として自分で引用の織物を作ってしまえばいいのだから。そして、とすれば、問題の小説にはその織物の巧さをこそ求めるのがよいと思うのだけど、それにはこの小説は成功してないと思う。単に同じような言葉(キクイムシとか)がどの章にも出てくる、というだけでは……。

 もっと知的に! だから現代の小説のほうが好きなんだよ、私は。

ドナルドのことが大好きだもんでドラゴンをドナゴンと誤記してしまった

 最近買った本。

無関係な死・時の崖 (新潮文庫)

無関係な死・時の崖 (新潮文庫)


 新しく知り合った友人がこのなかのある短編を好きだと言っていたので、読むことにした。


 ここのところミステリーが読みたい気分。この本を買いに本屋に行ったら、歌野晶午の初期の長編が新装版で文庫になっていて、懐かしい気持ちになる。私が以前これを読んだときは中学生ぐらいで、とにかくわけもわからず濫読していたから、いま読み直したら筋を覚えていなくておもしろいだろう。こういう老人の話を書いたのは……星新一だったか。

 そのほか、以前注目していた作家の三津田信三の長編を一気読みしたい気持ちも強い。よーし。

2009-04-10

ご親切にどうぞ

 こないだ『戦争論理学 あの原爆投下を考える62問』への合評会を覗いてきたんだけど(あわただしい入退室で参加者の皆様をわずらわせていないとよいのですが)、あの本では、じゅうぶん合理的でないひとびとを非道徳的な結論に導いてしまいやすいような、そんな合理的な議論を公表することは道徳的か? ということが論じられていてすてきだった。

 これについては、『多宇宙と輪廻転生―人間原理のパラドクス』でも触れられていたように、「こんな書籍を読んでる人間はソフィスティケートされてる確率が高いからおk」と応じる道がありうると思う。ちょっと敷衍すれば、書籍として言説を世に出すことの利点は、それを読む体験がファインチューニングされることであり、届くべきひとのところにしか届かないことだろうと思う。もちろん、比較的、であって、もっと絞る手段はある、学会とか。

 選民しそう? いやあ、その選別が道徳的にどうであるかは、選別の基準いかんによって変わりうるんじゃないかな。


 とはいえ、わかりづらい皮肉とかジョークとか回文とかをブログに書きたくなることはあるんでね、つまり、親切に説明してあげるという親切をなしてあげたくもないほどイヤなやつとかに対してはにゃ。でも、まあウェブなんでうっかりしたところへうっかり郵便が届いてしまう不安は現実になりやすいからさ、そういうときは、先達に学べばいいと思うんですよね。

 つまり、マックス先生やワイマン先生にご登場いただいてですね、

 これは、マックスにしては、いつものかれらしくもない鋭い議論である。


論理的観点から―論理と哲学をめぐる九章 (双書プロブレーマタ), p.16.

とやるわけだな。


 でもそんなふうにして虚構キャラクタをいびって道徳的に問題はないのだろうか? 私の考えでは、虚構キャラクタをいびることこそ推奨されるべきだ。

 以前のエントリー群(虚構キャラクタに対する罪 - kugyoを埋葬する)で私は、我々は虚構キャラクタに対し形而上的な罪を負っていると議論したけれども、もしそうだとしても、やはり虚構キャラクタをいびることは推奨されてよい。

 前回の議論の結論を手短にまとめるとこうだ。我々は虚構キャラクタに対し時空的な関係を持てないがゆえに、虚構キャラクタに対してはヤスパースのいう形而上的な罪を負うことしかできえない。そして形而上的な罪を負ったと自覚したとき、我々はひるがえって現実をながめ、「虚構世界のことはどうすることもできないが、現実世界を変えることはできる」という形で、現実世界について深く考え、能動的に行動するようになる。

 こういうわけだから、創作者として虚構キャラクタをいびることは、つまりいびられた虚構キャラクタを描き出すことは、現実世界について深く考え、道徳的に善い行動をとる源泉になるはずだ。別にとっぴなことを言っているわけではない。たとえば『シンドラーのリスト』でも『はだしのゲン』でもいいが、それらフィクションは、現実世界の戦争犯罪について深く考えるきっかけを広く提供しなかっただろうか?

 なお、上記の議論が間違っていたとしたら、つまり、虚構キャラクタに対して形而上的な罪をも負うことはないとしたら、そのときには、もうばんばん虚構キャラクタをいびってストレスを解消することが許されるであろう。ただ、もしも、上記の議論が間違いで、虚構キャラクタに対して法的な責任を負わなくてはならないということになれば、我々はマックス先生(の代弁者)に訴えられるかもしれないが……。

うっかり八兵衛はわしが育てた

 うっかりで思い出したが、以前、うっかり八兵衛の一族を100種類ぐらい考えてコピペにしたことがある。2005年の10月のことだった(記録してある)。

 ときどき検索してみると、今でもコピペブログなどにまれに登場しているようだ。これ、そうだな、パーティーゲームにするといいんじゃないか。

2009-04-08

現実世界から物理的に到達可能なあらゆる世界でいちばんお姫様

 今月は「新潮」も「群像」も買いたい。はやく福永信の作品を論じた文章が出ないかと思っていたが、「新潮」でやっと古谷利裕が書いてくれた。古谷利裕は青木淳悟の作品を論じてもいたね。


 最近借りた本のリスト。

名指しと必然性―様相の形而上学と心身問題

名指しと必然性―様相の形而上学と心身問題

On the Plurality of Worlds

On the Plurality of Worlds

  • Munitz, Milton Karl. 1973. Logic and Ontology.(New York : New York University Press)

最近入手した論文のリスト。

  • Adams, R. "Theories of Actuality," Nous 8(1974): 211-31.
  • Bricker, P. "Isolation and Unification," Philosophical Studies 84(1996): 225-38.
  • Bricker, P., "McGinn on Non-Existent Objects and Reducing Modality," Philosophical Studies 118(2004): 439-51.
  • Bricker, P., "Absolute Actuality and the Plurality of Worlds," in Philosophical Perspectives 2006, Metaphysics (Oxford; Blackwell).
  • Chisholm, R., "Identity Through Possible Worlds: Some Questions," Nous 1(1967): 1-8.
  • Kripke, S., "Semantical Considerations on Modal logic", Acta philosophical fennica 16(1963): 83-93.
  • Langton, R., and Lewis, D., "Defining 'Intrinsic'," Philosophy and Phenomenological Research 58(1998): 333-45.
  • Lewis, D., "Counterpart Theory and Quantified Modal Logic," Journal of Philosophy 65(1968): 113-26.
  • Lewis, D., "Truthmaking and Difference-Making," Nous 35(2001): 602-15.
  • Priest, G., "What is So Bad About Contradicitons?," Journal of Philosophy 95(1998): 410-26.
  • Stalnaker, R., "Possible Worlds," Nous 10(1976): 65-75.
  • Stalnaker, R., "Impossibilities," Philosophical Topics 24(1996): 193-204.

 今回のリストに載せたのはすべて、

  • Bricker, Phillip. (2008). "Concrete Possible Worlds," in Sider, T, ed., Contemporary Debates in Metaphysics(Oxford: Blackwell).

の参考文献リストに載ってるものです。